人魂もどきを追って、俺、キャロル、ミサスは地下を歩いていた。
実に気まずい。人魂もどきは喋ってくれないし、キャロルはミサスと仲良くする気は毛頭ないらしく、それをかばった俺とも何かを話す気分にはなれないらしい。ミサスも警戒しているのか、そういう性分なのか一言も口を聞かない。非常に気まずい無音空間だった。
仕方がない。俺が責任を取って、少しでもこの状況を緩和するよう、話しかけるか。
「なぁ、ミサス」聞きたいこともあったし、手始めにミサスに声をかけた。今までが静か過ぎたせいか、自分の声がやけに大きく聞こえて、驚く。
「さっきも聞いたけど、どうして昨日の夜、俺を見つけたのに無視したんだ?」キャロルが鋭く反応した。
「あの時、グレイに告げ口していれば仕事の半分は終わったんだろうし、金ももらえたのに。何で黙っていたんだ?」「休憩時間だったから」
素っ気ない返事が一言返ってきた。敵と仲良くする気はないのか、それともやっぱり喋らない性なのか。
「それはつまり」しばらく黙ってから、キャロルが困惑したように口を挟んだ。ちなみに俺はさっぱり訳が分からなくて考え中だ。
「今は休憩時間で、自分の仕事ではないから、間抜けなアキトを見つけても無視を決め込んだってこと?」「そうだ」
俺は脱力した。そんな理由でかよ。
「あたし、あんたの雇い主にだけはなりたくない」俺も全くの同感だった。しかし成り行きとはいえ、キャロルも話に加わったのにいい気になって俺は続ける。
「所でキャロル、怪我はないか?」「あたしは平気、特に目立ったものはない」
「ミサスは?」
言ってから気がついた。一目瞭然で平気ではないよな。
「自分で何とかできる」「何でミサスは傭兵やっているんだ? 魔法使いだったら傭兵でなくても生きていけるんだろう? ちょうど、日本の大卒みたいに」
これは無視された。「(アキト)」とキャロルが小声で俺をこずく。何だろう、言っちゃいけないことでも言ったか?よく分からないまま俺は話題を帰る事にした。
「キャロル、グレイはさっき、一体何をしたんだろう?」「土の精霊石を炸裂させたのでしょう」
「精霊石を投げるとああなるのか?」
「さぁ。物にもよるんじゃない? あれは大地の精霊石だから、投げたら地面が揺れたとか、危うく陥没しかけたとか。でもミサスは雇い主に信用されていないわね。無理もないけど」
キャロル…… 本当にミサスを敵視しているな。無理もないけど。
話しながら幾重にも伸びた道を炎に導かれて俺たちは歩いた。もし炎が間違っていたら一生かかっても出られそうにないほど複雑怪奇なところだったが、きちんと案内してくれたらしい。炎ではない明るさが見えてきた。
「やった、出口だ」俺はほっとした。やっぱり洞窟の中にいるよりは地上の方がいい。少なくとも安心できる。地上だと迷子になる心配も、頭上が崩れ落ちる心配もないもんな。
「よし。ミサス、そこから動くな」キャロルが突然、1歩下がった所にいるミサスに命じた。「キャロル?」
「あたしらから先に出る。アキト、あたしはアキトみたいに頭が柔らなくないのよ。それほどミサスを信用していないの」
それほどどころか全く信用していないじゃないか。でも意外にもミサスはそれに従った。
「行こう」キャロルは俺の肩を押して、太陽の下へ出ようとする。
「!」キャロルが俺と反対方向を向きかけて、崩れ落ちる。その瞬間、はっきり鈍い音を聞いた俺はキャロルを支え、もう片方の手でスタッフを強く握った。左側にいる男が再び棍棒を振りかざそうとする。その両腕を、俺は右腕のみで突いた。いやな感触と共に男は棍棒を落としかける。
「何だっ?」俺はキャロルをかかえて周りへ怒鳴った。目の前が暗くなり、絶望的な気分になる。俺は武装した男たちに囲まれていた。奥から俺より年上の、身なりのいい男が出てくる。
「とうとう捕まえた。精霊石を返してもらおうか」きっとこいつがグレイなのだろう。俺はどういっていいのか分からなかった。やったのは俺じゃなくてキャロルだけど、盗んでだまして逃げたのは事実だしな。
とりあえず、誠意を持って話してみる。
「ごめん、でもこれは返せない。盗んだ事は悪いと思うし、返せる物なら返したいけど、これはただの宝石じゃなくて、薬になるものなんだ。これが絶対に必要な人たちを待たせているから、返せない」そこまで話して、俺はふと思い出した。
「ちぇ。あの精霊みたいなものは結局伝えなかったのかよ」「聞いたよ」
「へっ?」
俺はグレイを正面から見た。
「しかし、それがどうしたんだ? 今それはフロイタの物だ。ならばフロイタの住民が好きにしていいはずだ」「でも、あんたはこれを他の奴にやっちゃうつもりだろう」
「当然だろ。そんな石、あったところで街に何かの利益をもたらす事もない。だったら媚を売るために使っても悪くはない」
「そんな事よりも、もっとましな使い方があるんだ!」
「そんな事は、私の知った事ではない」グレイは冷たく言い切った。「他の奴らがどれだけ犠牲になろうと、私には関係ない」
相手が馬上で遠くでなかったら俺は殴りかかっていたかもしれない。イーザーの熱しやすい性格がうつったか? 俺はこの男を説得する事は不可能だと思った。良心や心のあり方が違いすぎてどうしようもない。
説得できないのだったら、不本意だけど暴力的手段で切り抜けるしかない。
俺はさっと作戦を練った。今7、8人に囲まれている。武装は粗末な物ばかりだけど、俺だって立派に弱いしキャロルをかかえている。またグレイが変なものを使ってくるのは困る。まっとうにはとても戦えない。だとしたら前に行くと見せかけて洞窟に逃げ込むのはどうだろうか。上手くいけば逃げ切れる。上手くいかなくても1人2人ぐらいしか向かい合わなくてすむ。そうすればキャロルもゆっくり起こせるし、またいい案が思いつくだろう。
俺は決心をして、半回転して走り出した。
「う゛」思った以上にキャロルは重かった。行けるか?「ミサスッ!」
グレイの声が飛んだ。まずい、ミサスの事を忘れていた。
影が切り取られたかのように動き、ミサス特有の小さいがはっきり聞こえるあの声で何か呟いた。
そして俺の意識は闇に落ちた。まるで槍で切り離されたようにあっけなく、何が起きたかも分からないままぷつりと俺は沈んだ。
何かの夢を見ていた気がする。夢が全てそうであるように、目を覚めるとすばやく遠ざかってしまってどのようなものだか思い出せないが、確かに普通ではないものを見ていた気がする。
朦朧と深い海から浮上するように覚醒しながら、俺はふと身体が動かせない事に気がついた。どうしたのだろう、金縛りか?
思い目を開けた。ここはどうやら天幕の中らしい。荷物が乱雑に放置されていて汚い。人声はないことから俺以外にはいないらしい。唯一動く頭で身体を見てみた。何だ、動かないのも当然だ。縄で縛られているのだから。なるほど、捕まっているのか。
笑い事じゃない。慌てて俺は起きようとしてすっころび、隣に転がっていた何かに体重を押し付けた。
「キャロルっ?」隣にはキャロルが同じように縛られて転がっていた。まだ目が覚めていない。
とりあえず悔やむより先にキャロルを起こしてこれからどう脱走するか話し合わないといけない。
「おい、キャロル」小声で呼びかけてみる。返事はない。
「おいって」手は動かないから足でキャロルを突っついた。反応はない。
ふと不安になった。
「おい、どうした?」返事はない。
「答えろ!」俺は全身で体当たりをした。不安と焦りで冷たい汗が背中を流れる。
「大丈夫だろ。キャロル、何か言ってくれよ」声は震えていた。
俺は自分で思っている以上に身体が頑丈なのか、なんだかんだあってもけろりと生きているけど。でも、まさか。
「……ん」返事が、あった。少しして、ゆっくり灰色の瞳が開く。俺は安堵のあまり、力尽きたように倒れた。
「よかった。キャロル、大丈夫か? どこか痛まないか?」「ちっ、捕まったか」
元気そうだ。心配して損した。顔をしかめて周囲を見渡す。そのしぐさにはどこにも寝ぼけた所はない。
「さて、とりあえずここから出るか」「おい、どうやってだよ」
それが出来れば苦労はしない。当たり前のように武器は取り上げられていてどこにあるか分からないし、キャロルの生来の鋭い足爪は憎い事に麻布で靴下のように覆われている。引っかいて綱を切ることはできなさそうだ。しかしキャロルは自信満々だった。
「足の爪で、袋を切るのか?」「それはきっと無理」
「ねずみに化けて逃げるとか」
「出来ない。姿を変える時、服とか身の回りのものとかは変身した後にもついてくるの。半獣の姿の時に拘束されていたら、獣の姿になっても拘束されていて動けない」
「何でだ?」
「さぁ。あたしは知らない」
「あ、分かった。漫画みたいに手首の関節外して逃れるとか」
「やってもいいけど、難しいし痛いしであまりやりたくないわね。他の手段を取るわよ」
「他の手段?」
キャロルは後ろに回された両手をもそもそ動かすと、どこからかシャーペンより細いナイフが魔法のように出現していた。
「どこから出したんだ!?」「しぃ、声が大きい。密偵や盗賊はつかまったときのために身体のあちこちに武器や道具を隠しておくのが常識、基本よ」
盗賊でも密偵でもない俺にそんな常識が通じるか。指先だけで器用にキャロルは手首の縄を切り始めた。縄の大きさに比べて明らかにナイフは小さすぎてじれったいほどの時間がかかった。
「キャロル、ナイフの刃が欠けないか?」「欠けてほしくなかったら黙っていて」
俺は黙った。やっと手首の戒めをキャロルは解くと、次に自分の足に移った。麻袋は手でほどいて、きつすぎてうっすら血がにじんていた足の縄を切りほどく。これは手首ほど時間はかからなかった。
「次、俺を頼む」「え、アキトは自力で縄抜けするんでしょ? 邪魔しちゃ悪いわよ」
「俺に出来る訳ないだろぅ」
「うん、そう思う」
本気でほっとかれるのではと俺は心配したが、杞憂だった。無理に固定されていたせいで血の気が通わなくなりしびれている手足を俺がもみほぐしている間に、キャロルは天幕内を見回ってきた。
「キャロル、これからどうする?」「武器と荷物を取り戻して、取られた精霊石を取り戻して集落へ行かないとね」
言うのは一息ですむが、実行するのははなはだ困難そうだった。
「どれくらい気を失っていたのかは知らないけど、今は…… ちょっとその辺を見てくるから、じっとしていてね」「いいけど、どっから出るんだ?」
正々堂々天幕正面からとか。そう思っているとキャロルは天幕の分厚い布を切り裂いて、簡単に出入り口を作り、夕暮れらしい外へ這い出た。そうか、ここは建物じゃなかったっけ。
キャロルが戻ってきたのはずいぶん遅かった。俺は待ちくたびれてその辺をうろうろ動物園の熊のように歩いていると、キャロルが音を立てずに戻ってきた。
「キャロル、お帰り。どうだった?」「はい」
キャロルは両手に抱えていた何かを俺に渡した。俺のスタッフと荷物、キャロルの剣だった。
「すごい、よく見つけたな」「こんなの、何て事ないわよ」
俺はそこで、キャロルが青ざめているのに気がついた。暗くてよく分からないが唇が震えて、まるで大きな賭けをした後の様に緊張をしている。
「どうしたんだ? 見つかりかけたか?」「そんなへま、あたしがするものか。それよりも、精霊石だけど」
強引に話を戻された。何があったんだろう?
「今はたぶんグレイの使っている天幕にあるだろう。さすがにあれを盗み取るのは無理だと思う。ここを抜け出して強奪しよう」「今からっ?」
「しぃ、声が大きい」
俺は慌てて口を閉じた。それにしても。強引で大雑把過ぎないだろうか。盗みが荒っぽくないとは言わないが、強盗に昇格というのはどうかと俺でも思う。
「無茶じゃないか?」「でも、だったらいつがいいの? あたしたちには時間がないんでしょう」
そうだった。どれくらい気絶していたのかは知らないが、これ以上時間を無駄には出来ない。
「でも、もっといい考えがないのか?」「大丈夫、任せてよ」
任せてという割には珍しくキャロルは不安そうだった。しかしそれを信頼する事にして実行に移す。俺はキャロルが作った出入り口から出る。どうか誰にも見つかりませんように……
「所で、ミサスはどこにいるんだ? あいつと戦って勝つ自信がないぞ」「アキトは誰と戦ったって同じじゃないか」
ぐっ。
「帰ったみたいだよ」「何だそれ、どういう事だ?」
「盗み聞きしただけだから何ともいえないけど、奴の仕事はあたしたちを捕らえる事だけだからね。とっとと金だけもらって行っちゃったみたい」
「他の奴らはまだ残っているんだろ?
何でミサスだけ」
「雇い主だって、いつまでも不気味な傭兵魔道士を手元に置きたくないんでしょう。黒翼族なんて、見るからに不吉だし」
「だからって、追い出すみたいにしなくてもいいのにな」
「ついさっきまで敷地内にいたよ。会いたいのなら、追ってみたら?」
「冗談じゃない」それとこれとは別だった。
外は日が沈みかけていた。赤茶けた大地に真紅が投げかけられていて、夕日がこんなに鮮やかだと俺は知って驚いた。こんなに素晴らしい夕暮れなのに、今から強盗をしに行くなんて、優雅とは果てしなく遠い。しょうがないとはいえ、言い訳のしようがない犯罪者のようだ。
「(アキト、足音が大きい)」「(これ以上小さくは無理だ)」
どうしてキャロルは足に大きな爪が生えているのに足音がしないのだろう? 昨日と同じように、俺はこそこそ人目を避けて歩いた。違いがあるとすれば時間帯が時間帯なので人が多い事、そして一緒にキャロルがいるので見つかりにくい道へ俺を案内してくれると言う事だった。
「(あれ)」キャロルは立ち止まり、親指で先を指差した。ひときわ大きな天幕があった。見張りらしい男が2人つき、側面に馬がつないでいる。今頃になって動悸が激しくなってくる。
「(本当に行くのか?)」「(当然)」
そう言われたのなら仕方がない。キャロルは冷静に石を3つ拾い上げた。
2つ、目では捉えきれないほどの速さで見張りの男たちののど元へ命中する。声も上げずにへたり込む男たちを無視して、キャロルと俺は天幕へ押し入った。
「何だ!」有無を言わせず3つ目の石が中にいたグレイに命中する。今度はのど元ではなく目と目の間だった。手元が狂ったのか、それとも初めから狙ったのか。絶対に初めからだな。弱々しい悲鳴を上げるグレイをキャロルは足蹴にして、すぐそばの凝った細工造りの机の上に置かれていた木の箱を持ち上げて、のぞく。その中にあったのか、キャロルは巨大な精霊石を箱からつまみ出して、足元に転がっていた絹の袋も持ち上げて「出るよっ」小声で俺に指示した。
時間にして数秒もたっていないだろう。まだ立ち直っていない見張りの男たちを踏んづけんばかりに天幕を飛び出して、同行している俺も驚くほどの素早さでキャロルは側面につないである馬の綱をほどいて乗った。
「待て、誰かっ」俺が乗ろうとおたおたしている間に、見張りの男たちは声を上げた。騒ぎをようやく聞きつけた男が1人、俺たちへ向かってくる。
「げ」キャロルは俺が完全に乗っていないのに、馬に手綱で走るように命じて自分は飛び降りた。男はとっさにその前に立ちふさがって止めようとするも、暴走した馬に引かれかけて腰を抜かしたように座り込む。
「走るよ、アキト」なおも来る人の気配に俺たちは馬を諦めて徒歩で駐屯地を駆け抜けた。
空は鮮血のように真っ赤だった。吸う空気は冷たくのどに突き刺さる。俺自身も混乱しながら、それでもキャロルに問う。
「どう、する気だ? あいつらすぐに追ってくるぞ。隠れなくていいのか?」「平気! あたしに任せて」
キャロルも息を切らせながら、それでも言い切った。俺はキャロルの手の中にある紅の石を見た。夕日を浴びてそれはますます色鮮やかに輝いている気がする。
「その、袋は何だ?」「各種精霊石。これとは比べ物にならないけど、それでも一財産分はあるよ」
「それは泥棒じゃないか?」
「何を今更」
それを言われたらお終いだが、何でこんな時に無駄な盗みをするんだろう?
と、そんな事はすぐに気にならなくなった。後ろから音が聞こえて、俺の心臓は痙攣を起こしたように高鳴った。キャロルに警告しようと前を向き、とうにキャロルが立ち止まっている事を知る。何で、と声をかけかけて、俺はさらにキャロルの視線を追う。
暗くなりつつある岩山に、黒い翼が強風にあおられはためいた。
俺たちの目前に、ミサスが崖に寄りかかって立っていた。
「ミサス! まだいたのか」言ったのは俺ではなく、追っ手の誰かだった。ミサスは動かない。左足は本人いわく「何とか」したのだろうか、引きずってもいない。俺は絶望と疲労でへたり込みそうになった。
「そいつらを捕らえろ。いや、もう殺せ。報酬はさっきの2倍は出す」この声はグレイだろう。ミサスは1歩、前に出た。俺はもう疲れすぎていてスタッフを構える気力もない。
キャロルが無造作に絹の袋を放り投げた。ミサスの目前に落ち、色とりどりの精霊石がぶちまかれる。
「約束の物だ。文句はないでしょう?」ミサスは小さくうなずいて、そのまま進んだ。俺たちの方へ。そして俺たちを通り越して、グレイの方へ。
「ミサス、何をやっているんだ?」「悪いね、グレイ」
キャロルはおかしくてたまらないように唇の端を吊り上げた。
「あなたが放り出したミサスを、あたしが拾って契約しちゃった」意味が分かるのに、少しの時間が必要だった。俺にも向こうにも。
「ミサス…… 私たちを裏切るのか?」「為政者とある者が、何言ってんの」
いつの間にかへたり込んでいた俺を起こしながらキャロルが代わりに答える。ミサスは無言だった。
「傭兵なんて、そんなものでしょう。敵も味方もないの。金と力がある方につくのよ。使い捨ての存在を、多少なりとも信じていた訳?」キャロルは嘲笑した。「愚かな」
「貴様ぁ!」グレイの後ろの1人が、馬上から武器を振りかざして襲いかかってきた。それを気に、呪縛が解けたかのように一斉に襲いかかってくる。
「!」ミサスが大きく下がって一声叫んだ。何もない空中から黒い炎が発生し、男たちに向かって膨張、巨大化し、炸裂する。悲鳴が幾重にも起こり、先頭をきっていた者たちが倒れる。彼らを踏んで、なおも数人が来る。
俺はやっと理解出来た。キャロルの不審な行動、必要のない盗み、不自然に緊張していた事。そしてそれらが成功した事。何かが焼けるひどい臭いと共にそれらが全て分かった途端、なぜか吐き気が止まらなくなって口元を押さえてうずくまった。キャロルが俺の首根っこを押さえる。
ミサスは身動きしなかった。槍を軽く持ち、黒い翼と口を動かし、自然には存在し得ない黒い刃を幾重にも作り出す。現実のどんな刃物よりも鋭いそれに撫でられて、人はあっけないほど倒れていく。赤い大地に血が降る。
「相手は1人だ、かかれ!」総大将がそう激励しても、男たちは目に見えて怖気づいた。そうしてグレイがミサスから目を離した瞬間、ミサスは前方に飛んだ。目で追いきれるかきれないかの瞬発力で前に走り、グレイの目前まで行く。そして何か呟くと、来たのと同じくらいあっけなく後ろへ下がった。
重たい音がして何かが落ちた。俺はそれがなんだか分かっていたが、受け止めたくなかった。グレイの右腕だった。
グレイは甲高い悲鳴を上げて落馬しかけた。周囲のもの数人が抑えて落ち着かせようとする。キャロルが叫んだ。
「あんたたちの大切な大将を連れて、とっとと行ってしまえ!」それが合図だった。小さい子どもが叱咤されて逃げるようにフロイタの連中は振りかえりもせずに逃げ出した。グレイは俺たちを、特にミサスを憎々しげに血の気のない顔でにらみ、周囲の取り巻きに引きずられるようにして逃げた。
どれだけ俺は座り込んでいたのか分からない。きっとそれほど長い時間ではないだろう。太陽はすでに沈みかけて夕日色より群青色が空に広がっていた。スタッフはいつの間にか地面に転がっていて、キャロルがそれを俺に持たせてくれた。
「ミサス、崖を崩して」キャロルは命じた。ミサスは何の疑問も挟まずにさっきの戦いとは違う、ずいぶん長い言葉を唱えた。黒いかまいたちのような刃が数十、数百出現し崖へ飛ぶ。地響きと共に赤い崖はあっけなく崩壊し、さっきまで歩いていたフロイタへの道を閉じた。ついでに土と土煙によって惨劇の後も綺麗に片付き、そのせいか俺の具合も少しはよくなった。こんな事を喜ぶなんて人間として間違っていると思うが、本当にそう思うのだからしょうがない。
キャロルは道だったものが完全にふさがっている事を確認して、黒翼族のミサスを見る。
「失せろ。報酬はその精霊石だ。それを持ってどこなりとも行け」ミサスは感情のこもらない目で精霊石の入った袋を拾い上げ、俺たちに背を向ける。
駄目だ。まだ、行っては困る。吐きそうだし気分は最悪に近いが、どうしてもまだ行ってもらっては困る。
「あの、ミサス」何を言えばよかったのか俺には分からかった。それでもミサスは止まった。振りかえってはくれない。「何、アキト」とキャロルがさりげなく俺を支えてくれる。俺はさりげなくキャロルと手を重ねて、炎の精霊石を取った。精霊席は夜が近づきつつある今でもほのかな明かりを発している。
「行く前に、もう1つお願いがあるんだ」キャロルの眉がひそめられた。また何か変な事を思いついたのだろうと思っているのだろう。その通りだよ。
「俺たちは、これからこの先の集落へ炎の精霊石を届けないといけないんだけど、それをお願いできないか?」「ば…… 馬鹿!」
案の定、キャロルに怒鳴られた。支えていた手も放されたので後ろにつんのめりそうになる。それでも俺は精霊石を手放さなかった。
「阿呆か、アキト! 何でわざわざ盗人に金を与えるような事をするの!」「俺たちが行くより向こうの方が明らかに早いだろう。俺たちはくたくたでぼろぼろだ。向こうの方がまだ元気だよ」
後ろを向いていたミサスが振り返った。
「冗談じゃない、そのまま逃げるに決まっているでしょう! アキト、返してっ」「っ、駄目だ」
もみ合いになったらキャロルには勝てない。俺はそう判断し、早々に勝負を投げた。キャロルがつかみかかるより先に俺は炎の精霊石をミサスへ投げた。目標とは見当違いの方向へ飛んだ石は、それでもミサスがつかんだ。
キャロルが絶望的にうめいた。
「ここからさらに山を登って、1日ぐらいかな、それぐらい歩いた所にある。小さな集落でね、道は険しいけど間違えないと思う」「説明する必要はない」
ミサスは1歩下がって、言葉を発した。
多分、魔法を引き出す言葉なのだろう。でも雰囲気はさっきの火を出したりかまいたちを出現させたものとは全く違った。静かに、まるで歌のように厳かに美しく響く。
夜の風が吹いた。キャロルはとっさに俺をかばうように後ろから押し倒す。その必要はなかった。風はミサスを包み、背中の黒い翼が広がり、羽ばたく。それは予想よりはるかに力強く風を起こし、ミサスを空中へ引き上げた。
―独自の魔法を使う代わりに、空を飛ぶ力を失っている。
そう言ったのはキャロルだったか。しかしミサスは翼で空を飛ぶ。さらに数回の羽ばたきで高く浮き上がると、風に乗るかのようにミサスは空を駆けて、山の頂目指して小さくなり、見る見るうちに夜闇に融けていった。
「……何て事、してくれたのさ、アキト」
キャロルは俺から起き上がった。
「キャロル」「何て馬鹿な事を。錯乱でもしたの?」
ひどい事をいいつつ、俺に手を貸して起き上がるのを手伝ってくれた。
「何で、大事な精霊石を、よりによってミサスなんかに渡したの?」まだ言ってる。俺は答えた。
「理由は言った通りだよ。向こうの方が早い」「だからって渡すなんて、正気とは思えないわね」
「おい」さすがに俺でもかちんと来た。
「どうしてそこまで言うんだよ。洞窟で話した時、信用できると思ったぞ。変な奴だけど、嘘はつかなかったし命令されるまで俺たちを攻撃しなかった」
「そんな理由?」
「そうだよ。大体キャロルがそこまで言うほど悪人だとは思えないぞ。敵対してたけど極悪人じゃないよ。なんだかキャロルはミサスに敵意を抱いているけどさ」
「ああ、嫌いだね。大っ嫌いよ」
キャロルは言い捨てた。
「アキト、前々から言っているけど、あの男は傭兵だよ。金のために戦いに加わり人を殺す、どこかで人生を踏み外したならず者だ。そんな畜生を、どうして信用出来る?」「今俺たちの味方をしてくれた」
「あたしが報酬を用意したからだ。金のためなら今までの味方も平気で裏切れる、報酬が明らかに盗品でも気にしない、傭兵ってのはそんな奴だ。そしてアキト、あんたはそんな奴に大金になるものを平然と渡したのよ。分かってる!?」
「でも!」
俺はかっと頭に血が昇って怒鳴り返した。
「それでも信用できると思う!」「どこが! おめでたいわね、どこがそう思うの!」
静かになった。俺たちは互いににらみ合い、だんだん気まずくなる。先に俺が目をそらし、それ以上キャロルを見たくはないので空を見上げた。キャロルがそっぽを向く。
もう日は沈んでいた。冷たい風がふいて体温を奪う。キャロルは立ち上がった。
「ここでじっとしても始まらない。行こう」それについては同意見だった。俺も起き上がり、2人で集落へ歩き始めた。
俺とキャロルは一言も交わさずに進んだ。もくもくと山道を歩き、少し寝た後は残り少ない食料と水を食べて、また歩く。足は痛み、棒のように感覚がなくなりつつある。スニーカーは赤茶色になり、どこかに穴が開いたのか風が侵入し足が冷えた。会話がないせいか、道は永遠に続くのではないかと思うほど果てしなく遠い。きつかった。
道中、俺はずっとキャロルの言った事について考えていた。冷静になって考えてみると、キャロルの言った事の方が正しい気がしてくる。キャロルの方がずっと世間に慣れているのだし、この世界の住民だ。俺よりもここの事情に詳しいだろう。だとすると俺は最後の最後で自ら精霊石を放り出してしまった事になる。俺は首を振ってその考えを捨てようと努力した。キャロルを見ると、険しい表情で前を向いている。
疲れていたが、その日は俺たちは一睡もせずに歩き続けた。疲れのあまり意識が何回も遠のいたが、精霊石の事を思い返して何とか意識をしっかり持とうとした。1回どうしても上手くいかず、崖から転げ落ちそうになってキャロルに助けられた。俺たちはだんだん対立しているからではなく疲れているから無言になり、それでも進み続けた。
そして、とうとう集落に着いた。
前に来た時と同じく、こじんまりとして山にへばりついているような所だ。遠目で見る限り、前と全く変わりはない。キャロルが疲れたように俺を見て、また歩き始めた。
俺は気づかなかったが、向こうでは俺たちの姿を確認したらしい。少しして転がるように2人の男が走ってきた。
「2人とも、無事でしたかっ」彼らは開口一番こういった。俺たちはそんなにひどく見えるのだろうか。
「待っていましたよ! ずいぶん遅かったですけど、」「精霊、石は?」
キャロルの2日ぶりに聞く声はしわがれていて、岩を含んでいるようだった。俺は無言で男たちの返事を待った。もしも。
そんな俺には気づかず、男はあっけらかんと答えた。
「先に来ていますよ? お仲間と一緒に」キャロルが振り子のように揺れて、倒れかけた。俺は支えようとしたが、先に集落の男が行った。
「来ている? 本当に?」「はい」
何を言っているんだといわんばかりの返事に、俺も危うく転びそうになった。とっさにスタッフで支える。喜びがゆっくりこみ上げてきた。
「とにかく、こちらへ来てください」1人はキャロルを抱えて、もう1人は俺に肩を貸してくれて集落へ案内する。情けなくも俺はその好意に甘えた。もう思考能力がほとんどなくなっている。
「イーザーはどうなったか知っているか?」それでもこれだけは聞いておきたかった。
「無事ですよ」最も嬉しい返事が返ってきた。これ以上何かを話す気力はなくなり、黙って連れて行かれる。
「お連れの比翼族の方が来た時、本当に驚きました」比翼族じゃなくて黒翼族、と訂正する気にはなれなかった。とにかく疲れていた。
「その人は後から来る、としか言わなかったのでずいぶん心配しました。無事で何よりです」「いつ来たんだ?」
「昨日の夜です」
歩くよりずっと速い。今となっては頼んで正解だった。
「後で、礼を言わないとな…… ミサスはどこにいるんだ?」「休んでいるようです。寝ていますよ」
「寝ている?」
俺は空を見上げた。昼間とはいかない、そろそろ夕方になろうとしている時間帯だ。
「寝るには早すぎないか?」「昨日来てからこんこんと寝続けていますが」
何だそれは。とはいえ、寝ている奴に礼は言えない。後で訪れようと決心した。
俺は案内された部屋で夢も見ずにぐっすり寝た。といきたかったのだが、そうはならなかった。
奇妙な夢を見た。まず、これは夢とはっきり分かっていた。それでも十分珍しい。夢の中で俺は険しい山を登っていた。またか、と思ったが、今まで見た山よりもここははるかに険しく、木1本、草1本も生えていない鉄色の岩山だった。先がまるで見えない深い霧に覆われている。
どこからか声が聞こえる。キャロルの怒鳴り声、巨大な翼の羽ばたき、俺の知らない人の叫び。全てが霧の中に消えていった。心身ともにくたくたで疲れ果てているのに五感ははっきり研ぎ澄まされている。
霧の中から浮き出るように、灰色の箱が見えた。
「神殿だ」誰かが囁く。あれが? どちらかといったら一昔の鉄筋コンクリートの建築物に見える。俺は顔を上げてよく見ようとした。箱も山も幻のように消えていき、俺は闇の中に取り残された。
空の青が眩しい昼ごろ、俺はカーリキリトで目覚めた。変な夢を見たので余計に疲れた気がして俺はしばらく寝床から出たくなかった。
とりあえず、ここは俺の家ではなく、好意から借りた部屋なので2度寝は止めて起きる。枕元に着替えがあるのを見つけた。カーリキリトの服だが、これはありがたい。俺の服は汗と泥まみれで自分でももう着たくはないほど汚れていた。早速着替えてみる。贅沢にも革がふんだんに使われており、着るとごわごわした。肌触りは悪いし寒いが、それでも清潔だ。少しは気分がましになったので俺は部屋を出た。
「おはよう」すぐにキャロルと会った。
「体調はどう?」「俺は大丈夫だ。それよりキャロルは?」
倒れるほどにキャロルは無理をしていた。そのときは俺も朦朧としていたけど、今から思うと真っ先にいたわらないといけないのはキャロルのはずだ。倒れるなんて相当疲れていたんだろう。
「あたしなら平気。ぴんぴんしているよ」あんまり俺は信じなかった。キャロルの事だ、過労死寸前でも同じような事を言うだろう。
「イーザーは?」「寝ていたよ。あたしが様子を見てきた。体温も平常どおり。苦労して盗んできたかいがあったあった」
しれっとキャロルは言って、それから声をひそめた。
「でも、あまりはしゃがない方がいいよ。間に合わなくて凍え死んだ者もいるのだから」「あ……」
俺の上昇した気分は一気に霧散した。
「だからって、落ち込む必要はないわよ」ふさいだ俺の背中を叩いて、キャロルは明るくなった。
「あたしたちは最善を尽くした、そうでしょう? 急流を下ってフロイタへ行き、炎の精霊石を盗み出し、追手を避けて集落へ届けた。我らながら、よくやったと思うわよ。これ以上アキトが気にする必要はないわ」「まぁな」
そこで俺は聞くべき事があった事を思い出した。
「そういえば、ミサスは?」「寝ている」
「またか? 昨日もそうだったぞ。よく目がとろけないな」
「名乗りすらしなかったんだって。何考えているんだか」
感情を見せずにキャロルは肩をすくめた。俺にもよく分からない。
「でも、助かったんだし、いいじゃないか」「アキトって生きるの楽そうだよね」
「どういう意味だよ」
「別に。ね、アキト、お腹空いている?」
言われて俺は腹がよじれるほど空腹だった事に気がついた。
「空いてる」「なら朝食、この時間だと昼食か。食事にしない?」
もちろん俺は反対しなかった。
それから俺は、1日と半分を病人介護と荒れた集落の復興についやした。俺としてはまだ寝ていたかったのだが、怠けると身体能力が下がるとキャロルがせかしたので働かざるをえなかった。
集落からは病気は急速に消えていった。俺は少し治療の様子を見たが、精霊石を振りかざすだけで身体に熱が戻り治癒するのだから広がりようがなかった。文句なしの結果になりそうなのだが、俺には気にかかる事が2つあった。
1つは精霊石だ。病気を全て治したら、その後で石をどうしよう? 取ってきたものだからフロイタに返すべきだろうが、そもそも行く道をミサスが壊しちゃったので帰れない。それにフロイタに行ったら俺たちはきっと生きては帰れない。しかし集落においても防犯上どうかと思うし。
もう1つはミサスだった。俺は時々、土神殿の一角にある、小さいがらくた置き場をのぞきこんだ。窓に近い所でがらくたに寄りかかってミサスが寝ている。あまりにも静かなのでひょっとして死んでいるのではと思うほどだった。俺たちが集落に着いてから3日は経過したが、いまだにミサスは寝続けていた。目撃情報によると時々は起きているらしいが、なんだか眠り病にでもかかったのかと心配してしまう。
「これじゃ礼も言えないじゃないか」「言ったって気にもかけないわよ、どうせ」
後ろでキャロルが意地悪く続けた。
「キャロル、何でミサスはああも寝続けているんだ?」「さぁ。強いて言うなら体力回復かな。黒翼族は一般的に体力が劣る。あたしたちよりは楽しただろうけど、それでも疲れたからかしら」
「でも、もう3日だぜ」
「分からないわよ。そのうち起きるでしょ」
キャロルは切り捨てた。冷たい奴。
「もし起きなかったらどうする?」「ここに置いていく」
「キャロル、思いやりって知ってるか?」
「単語ぐらいは。大丈夫よ、アキト。あたしたちが心配するに及ばない、1人で何とかするでしょ」
キャロルの言う事はもっともだったが、それでも俺は気にかかった。
夕方、俺はキャロルを探して土神殿をうろついていた。
「ううむ」そろそろ精霊石の事や、今後の俺たちについて話し合っておきたかったのだが。いざ話そうと思った時、キャロルは与えられた部屋にいなかった。こんな事なら昼間一言言っておけばよかった。人気のない所まで来て俺は足を止めた。もう部屋に戻ってキャロルの帰りを待とうかな。いくら小さいとはいえ神殿だし、病院もかねている。ふらふらするのはよくない。
そうしようと俺は引き返した。
「なぜ?」静かな神殿にキャロルの声が聞こえた。危うく飛び上がるほど俺は驚き、そういえばこの奥はミサスが寝ているがらくた部屋だったと思いつく。俺はそっと奥へ行ってみてのぞきこんだ。キャロルが奥で適当ながらくたに座り込み、ミサスは昼と全く変わらない体勢で目を閉じていた。
この部屋に小人か透明人間がいない限り、キャロルはミサスに話しかけている事になる。何でだ? お世辞にもキャロルはミサスを好いてはいない。毛嫌いしている。それなのに話しかける理由が俺にはさっぱり分からなかった。
「なぜ、あたしたちを助けた?」独り言のように静かにキャロルは問いかける。ミサスは身じろぎ1つしない。
「あたしはアキトとは違う。楽天的には考えない。アキトは単純に助かったからいいやと考えているけれども、あたしは違う」キャロルは目をしっかり開け、ミサスを見た。
「なぜ、あたしたちを助けた? あのまま石を持って逃げれば大もうけだ。1年、もっと遊んで暮らせる。なのにあんたはそうせず、集落へ来た。親切心なんて言ってもあたしは信じないからね。あんたは傭兵だ。金のために戦に出て人を殺す職種、常に疎まれ嫌われるものだ。そんなあんたたちに親切心なんてある訳がない」そこまでで、キャロルは口調を和らげた。
「あんたが理解できない。あんたの行動は傭兵らしくない。あんたの行動には理由がない。あたしには分からない」「遠い」
キャロルは身を乗り出した。俺も同じだ。小さいが聞き取りやすい声ではっきりミサスが言う。
「遠い風がふいている……」ミサスは目を開け、起き上がった。その動きは機敏で、今まで寝こけていたとは思えない。いや、多分寝ていなかったのだろう。少なくともキャロルが話していた時には。
「ただの気まぐれだ」簡素に答えて、そのまま出口へ、つまり俺のいる方へ来た。凍りついた俺を無視して部屋を出る。
「気まぐれ? 膨大な富と引き換えに? それだけで?」その背にキャロルが不審を投げかける。表情も翼も動かさず、ミサスは俺の視界から去った。
キャロルが驚いた風もなく、俺の方へ寄る。
「アキト。あたし、あいつが何を考えているのかさっぱり分からない」「俺もだ」
その日のうちに、ミサスは集落から姿を消していた。
「あたしはクレイタに行こうと思う」
深夜と呼んでもいい時間、キャロルは俺に与えられた部屋で言った。
「そこに炎の精霊石を火神殿辺りに預ける。これで厄介な石は終わり」「イーザーはどうする?」
「そりゃもちろん、イーザーが完全回復してからだけど」
「フロイタはどうする?」
クレイタに行くというのはいい案だけど、秘宝を盗まれたフロイタの怒りはどんなものだろう。特にあのグレイは相当怒っているだろうな。俺はそう考えた。
「無視する」「はっ?」
「だから、放っておくの」
俺は本気とは思えなかった。
「そんな事して、どうなると思っているんだ。永遠の逃亡生活は俺は嫌だぞ」「あたしだってごめんこうむるわよ。でも、フロイタはなんだかんだ言って田舎都市だ。クレイタやその他フォローに逃げたあたしら平凡な旅人を見つけ出せると思う?
相当困難よ。石はもうクレイタにあるのだし、あたしたちは何の特徴もない人間と地下道の一族なのだから」
「う〜ん」
「第一、 素直に返しても許されると思う?」
「いや、思わない」
「だからといって処罰されるのはごめんだし、なら放っておくしかないじゃない」
「そうか」
「何ならイーザーに頼んで友人の殿下から手を回してもらうとか」
「なんだか俺たち悪人みたいだな」
「あたしはそう思われても気にしないよ。じゃ、イーザーに言ってくる」
「こんな時間に?」真夜中だぞ。しかも日本とは違って夜は暗く、怖い時間帯だ。人を訪ねるべきではない。
それもそうか。確かに真昼間に盗みがどうのという話は出来ないな。
「じゃ、行くからね」キャロルは部屋から出た。俺はその後姿を見送り、寝転がる。
「やれやれ、だ」暗い天井を見ていると、入り口付近に人の気配を感じて俺は起き上がった。
「何だ、キャロル。忘れ物か?」のんびり言ってから俺はやっと気がついた。その人物はちらちら燐光をまとい、赤がかった金髪を暖色の光の中に浮かび上がらせている。キャロルではない。キャロルの髪は灰色だし、燐光をまとうなんてそんな器用な事は出来ないはずだ。
「お前はっ」俺は見覚えがあった。女性はふんわり笑って(夜分、失礼します)と常識的な挨拶をする。
「炎の精霊石の精!」(精霊石の創作者のかけらにして保護者です。あなたの認識はそれほど間違ってはいませんが)
女性は困ったように笑う。あ、そうなの?
「一体何の用だ? 何でここに来たんだ?」(病は消えたので、お別れを言いに来ました)
俺はそこでやっと、女性が炎の精霊石を両手に大切そうに持っている事に気がついた。
「お別れって」(私の創造物のために多くのものが傷付きました。不必要な争いがおき、医師は本来与えられた働きとは別の役割を負いました)
女性は石を胸に抱き、悲しげにささやいた。
(だから、精霊石はスフィアの山に隠れます。人のそばにいられないのは残念ですが、いつか病が再び現れた時、また石は人々の所へ行きます)俺は何も言えなかった。確かにクレイタに行ってもごたごたが石のせいで起きるかもしれないが、でも。
俺の気持ちを察したのか、女性は柔らかく笑った。
(ありがとう、アキト。……宿命の者)「えっ?」
俺は間抜けみたいに聞き返した。今の最後、何て言った?
(宿命の者。あなたの手助けが出来た事を光栄に思います。あなたの旅に幸運を)女性は消えそうになった。燐光が薄れ、闇に融ける。
「おい、何を言っているんだ!?」問いかけは届かなかった。光は消えそこはもとのままの出入り口だった。呆然と俺はそれを見ていた。