三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

別れ

俺は油断していた。しぶしぶ認めよう。

でもまさか、小さな女の子につれさらわれるとは思わなかったぞ。しかも殴られて袋づめなんて直接的な方法で。

あのこうもりのような羽、エアームが竜帝国であること、一撃で俺を悶絶させる怪力を考えるに、女の子は竜に関する亜人だったのかもしれない。ここでは人間でないなんて驚くことではないから気にしていなかった。これからは気にしよう。

こんな、後で反省すればいいようなことを考えていたのはひとえに殴られた痛みで脈絡のある行動も思考もできなかったからだ。俺は袋の中弱々しく咳きこみ、目に涙を浮かべ腹を押さえてうめいていた。気絶だけはしなかったものの、意識が飛んだ方がはるかに楽だった。

袋づめにされた俺は引きずられてどこかに連れて行かれる。持ち上げて動かすのは大変なのかもしれないが、まるきりもの扱いだった。くぼみや岩にぶつかって痛いし引きずられるのは今まで体験したどの移動方法よりも不快だった。

腹を我慢しながら周りの様子をうかがう。さっきよりも明るくなり人の声も聞こえる。街道か街中なのだろうか。騒げばだれかが助けてくれないかな。想像してみる。女の子が引きずる大きな袋がうごめいて出してくれと叫んでいたら。俺なら気味悪くて遠巻きにするな。イーザーくらいのお人よしが近くにいないと無理だ。

自力でなんとかできないか。自分の持ち物を確認したがなにも持っていなかった。いつもつかんでいるスタッフはもちろんだし、小刀もちょっとした小銭さえもない。ちょっとイーザーを追っただけのつもりだったからなにも持たなかった。

ためしに袋をさわってみる。しっかり編みこまれているみたいで頑丈だった。ずっと地面を引きずり摩擦で熱くなっているのにすり切れる気配もない。ひょっとしたら魔法でもかかっているのかもしれない。

頭の上、結び目もさわってみた。こっちも引っぱってみても動かない。そもそも引きずられているのでうまく力が入らない。立ち止まってくれれば緩められるかも。

と、袋がとまった。願いが通じたのか?

「アキト」

袋越しに呼びかけられる。子どもらしく高い、どこか癖のある発言だった。

「おとなしくしないとまた叩くよ」

言っていることは物騒極まりない。一撃で行動不能になった俺はつい手をとめる。子どもに脅されてやめるなんて一見情けなく聞こえるが、次は内臓破裂かもしれないと思うとうかつに動けない。

「どこの手下だ。エアーム帝国のものなのか」

答えてくれればめっけもの、駄目元で聞いてみる。

「ついたら教える」

また引きずり歩こうとする。

「せめて持ち上げてくれ。運ばれる方としては痛いんだ」

またとまった。持ち上げるのかな?

「よう、クロ。皇子のお使いお疲れさま」
「マシロ!」

周りの空気が変わった。ざわめきが遠くなり不安と好奇心が混ざる。金属が触れ合う音も聞こえた。反射的に警戒する、剣と鎧で武装した人間が出す音だ。

「通して」
「そういう訳にもいかないんだ。俺んとこの皇子も例の探し物に熱心でな。頼む、黙って渡してくれないか」
「コーゼスさまにはよく謝っておいて。私だって渡せない」
「そう言わないでくれよ。竜同士で戦うのはごめんだろ? こんな多勢だったら敵わないだろ。そっちの皇子さまだって許してくれるさ。なっ?」

マシロと呼ばれた男は調子のいいことを言っているが、つまり子どもを大勢でとり囲んでいるのか? そしてコーゼスとかいう皇子の使いでもあるのか? 子どものクロはもう一人の皇子の手下? 竜同士ってどういうことだ?

「いやだ。アキトは私が見つけたの。マシロには渡さない」
「おいおい、意地張るのもいい加減にしないと、痛い思いをするぞ?」
「試してみる? マシロには負けない、黒竜は最強の竜なんだから」
「やるってのか。いいぜ、やってやろう」

なんだかすごく風向きが悪くなってきた。ある意味いい機会かもしれないが袋づめされて見えない動けない今の俺じゃあ生かせない。下手をしたら戦いに巻きこまれる。なんとか逃げられないが身もだえしてみたが全然駄目だった。

「ビルブルだ!」

緊張した空気を打ち破る悲鳴が聞こえた。

「ビルブルの群れだ! 逃げろ!」

はっきりとした声に生命の危機をにじませだれかが走る。少し遅れて悲鳴と足音が聞こえる。

「ビルブル?」
「な。おい、やめろおまえら」

俺の取り合いをしていた2人の声があせる。足音は迫り、だれかが麻袋を踏みつける。

「いでっ、なにするんだ!」

抗議もむなしくさらに踏まれて蹴り飛ばされる。聞こえる叫び声と多くの足音、外は恐慌状態みたいだ。俺だって生命の危機を感じている。なんとか立ち上がろうとするもすぐにだれかに押し倒され、転んだところを蹴り倒されてうずくまる。

「やめろ、中に俺がいるんだっ」

叫びは当然外に届かず、俺は頭を抱えてうずくまる。まずい、このままだと踏み殺される。そんなのはいやだ、でもどうすればいいんだ。

びっ。目の前に刃物が突き刺さった。そのまま下へと走り麻袋を切り裂く。

「出て!」

有無を言わせず腕が伸びて俺を引きずり出す。

「だれだ」
「いいから逃げるよ。これを」

布をかぶせられた。とっさに防災頭巾のように頭を覆う。藍色だった。

外は混乱していた。大荷物や商人が我先にと逃げ惑う。クロの姿は人に埋もれて見えない。「待てっ!」マシロの声も聞こえたが姿はなかった。

「逃げるよ」
「うん」

顔を上げる。頭の上でひとつに束ねられた髪はかぶせられた布と同じ色だった。

「フォールスト!?」
「ひとまず、どこへ」

旅の楽師フォールストには仲間がいた。俺の知った顔だった。

「えっ、イクオンジュルト?」
「よう」
「挨拶は後で、とにかく逃げますよ」

小柄な青年がうながす。

「帝都大学へ。そこでならかくまえる。しかし、なにがあったんだ?」
「分からない、とにかく行こう」

なんでここにいるのかさっぱり分からないが、とにかく人をかきわけ逃げた。


混乱は局地的だった。少し行けばすぐ人はまばらになり走ることができた。クロとマシロ、ならびにその一味はその場で踏ん張りとどまったのがかえってよくなかった。人並みに翻弄されてついてこれなかった。

イクオンジュルトに手を引かれ、半ば強制されて走って走って走った。目が回り視界がおぼろになってかすむ。さっきとは別の意味で命が危なくなった時ようやく手が離れる。

その場に倒れこむ、もう走れない。例えクロとマシロが追ってこようが一歩も動けない。冷たい石畳に頬を寄せてほてる顔をさます。

どこかの小さな路地裏らしい。周りには俺たちしかいない。その4人は寄りかかったりへたりこみながら汗をぬぐい息を整えている。

「イクオンジュルト、あれまずくないかな。会話を聞いたよね。噂の皇族を守護する竜みたいだ」

小柄な青年が寄りかかりながら口を開く。

「まずいさ。俺みたいな亜人じゃない。本物の竜だ。竜が人の姿をとっているだけで本当の姿は竜そのものだ。力も魔力も全種族で一番、しかも権力まである」
「あの、だったら」

俺は永遠に動けないかと思ったが回復は早かった。大の字に寝転んだままだったが話せる。

「助けてもらったお礼は後でします。今は俺なんて知らないふりするのはどうでしょう。あの滅茶苦茶な中ならだれが助けたなんて分からないだろうし、分かったとしてもそんな偉い人なんて知らなかったって言い張れば。……あのこうもり羽根の子、竜なんだ」
「なんで捕まっていた」

皮膚が鱗だから汗腺がないのだろうか。汗をかいている風でもなく唯一大して疲れているようでもなくイクオンジュルトが立ち上がる。

イクオンジュルトは以前クラシュムの遺跡で会った。エアーム帝都大学のもので調査をしているといったが、とても学生にも先生にも見えない身体の大きさとたくましさ、そして大雑把さを持っていた。小柄な青年にもおぼろげに見覚えがある。その時一緒にいた人なんだろう。

「ややこしい事情があるんです。俺たちはフォロー千年王国に頼まれて調べものをしていたのですけど、もういいから帰れと言われたんです。どうしてもそういう訳にいかなくて断ったら追われることになりました。エアーム帝国はフォロー千年王国と仲がいいから手配が行ったんだと思います」
「要領を得ないがすごいことになっているんだな。マドリームもその関係か?」
「アキトさん、それはすごくまずいですよ。帰る訳にはいかないんですか?」
「いかない」

断言できる。青年は困り果てたように汗をぬぐった。

「そういうイクオンジュルトとフォールストはどうしてここに。なんで助けたんだ? 3人は知りあいだったのか?」
「僕たちは赤の他人ですよ。僕とイクオンジュルトさんは帝都大学へ報告するためにものすごく急いで駆けつけたんです。途中竜便も使ったぐらいで」

俺たちも大変だったけどイクオンジュルトたちもさぞ怖かっただろう。俺たちとは違って全然情報が入らなかったんだし。

「私も逃げてここまできたの。今日お昼を食べた時、同席したイクオンジュルトと気が合って、帝都まで一緒に行くことになった。そうしたら道の真ん中で竜がにらみ合っているし、袋からアキトの声はするし、とっさに助けることにした」
「フォールストが嘘をついて人々を誘導して気をそらす、その隙に僕らが助けて逃げる。うまくいきましたね」

浮かれて手を叩く青年とは裏腹に、フォールストはどことなく憂鬱そうだった。バイザリムで別れた時と同じ、動きやすそうに服をまとめリュートをかついでいる。

「あのビルブルって叫んだのフォールストだったのか!」

聞き覚えは全然なかった。

「うん。どうしてもアキトを連れさる隙が欲しくて」
「ビルブルってなんだ?」
「あれ、知らないんですか? 凶悪な野生の豚です。すっごく凶暴ですよ。今年は餌が少ないのか特に大発生していて、みんな怖がっています」
「さて、これからどうするかだな」

イクオンジュルトが腕を組んだ。

「だから、俺のこと知らないってことにして」
「冗談じゃない、途中で投げ出すくらいならそもそも助けないぞ」
「あの竜たちは別に紋を掲げていた訳でもないです。知らなかった、誘拐された知人を助けただけと言い張れば問題なしですね」

平然と自分の国をだます相談をしている。俺は恐れ入って思わず起き上がった。ありがたいけど、本当は目頭が熱くなるくらいありがたいけど、でもなんて冒険家なんだ。はるか異国の遺跡を調べていたことといい、すごく行動派の学者なんだな。

「とにかくかくまうぞ。帝都大へ行く」
「大学の中はいつも混沌としていますし、知らない男の子がいたってだれも気がつきません。隠れる場所にも困りませんしね」

大学。あんなにザリが行きたがっていたところに逃げこむことになるなんて不思議な縁だ。

「待って、俺郊外に仲間を残している」
「あれ、そうなんですか? なら戻りますか」
「うっ、それはちょっと」

今ごろクロやマシロが地面をほじくりかえす勢いで俺を探しているのだろう。そのすぐ横を歩きたくない。

「帝都のどこかにキャロルとグラディアーナがいるはずだけど、それもどこにいるのか分からないし」
「どこにいるのか分からないんじゃしょうがないだろ。後回しだ。まずはお前が無事でいることだ。後で連絡すればいい」
「そうですよ、アキトさん」

断言されてそれもそうかという気がする。優先度としては俺の安全の方が大切だしな。

「じゃあ大学まで、よろしくお願いします」
「……私は、ここで失礼するね」

フォールストはゆっくり立ち上がってリュートをかついだ。

「私はアキトよりも目立つし、街道で叫んだのを見られている。離れた方がいい」
「そうか? あ、じゃあこれ」

頭にかぶっている薄布を返そうとした。「いい」静かに手を押さえられる。

「あげる」
「これ絹だろ。高そうだ。きれいだしもらうのはまずいよ」
「いい。それはもうアキトのものだ」

アキト。フォールストは俺を見つめた。墨色の瞳が憂いをおびてのぞきこむ。

「さよなら」
「ああ、さよなら」

頭を上げきびすを返し、フォールストは行った。頭の上でひとつにたばねた青の髪がゆれて消える。

俺はもう、フォールストに会うことは二度とないような気がした。これで最後で、もうどこへ行ってもどこへさまよっても、あの青の楽師と会うことはないだろう。

「アキトさん、こっちへ」

青年に手を引かれながら、俺はもう見えないはずの青をまだ目で追っていた。薄布がひるがえる風でふくれた。


天まで届きそうな塔は水晶でできているとしか思えなかった。陽の光を反射して輝いている。がんばって地上へと目を転じると、白漆喰の大きいが無骨な建物がいくつも立ち並んでいる。敷地は恐ろしいほど広く、日坂高校が軽く5つは入りそうだった。校庭と、本当は学校のものではない裏山を含めた日坂高校が、だ。

人通りも活発だった。十分な幅の道や広場に十代後半から三十代までの人が思い思いに歩いたり議論をしている。敷物を引いて食事をする人や、なぜか木に登って枝をじっくり眺めている獣人の人までいた。

帝都大の門前で、俺は穏やかなざわめきをじっと眺めていた。

「そう言われましても直々に命令が下っているのですよ。すぐに全員城まで連れて行くようにと」
「冗談じゃねぇぞ。マドリームから命がけで帰ったっていうのに罪人よろしく連行かよ!」
「マドリームから直々に帰ったからなんですよっ。将軍を含め全軍隊が話を聞きたがっているんです」

冷や汗を雨のように流し、今すぐ逃げ出したいのをじっと我慢しながら。門守とイクオンジュルトの話を横で聞きながら、することが他にないので帝都大を眺めていた。

大学の門はそこいらの小さな街以上に人が行き来していた。当然俺たちもなんの問題もなく通れると思った。

「あ、イクオンジュルト助手!」

しかし緑の鱗に金髪、他の人より頭ひとつ突き抜けている長身のイクオンジュルトを見て血相を変えた門守が走ってきた。

「無事だったのですね!? マドリームからよく帰ってきました!」
「大げさだな、そう簡単には死なねぇよ。他の連中ももうマドリームから出ている。とりあえず俺らだけで報告だ」

門守は幽霊を見たかのような驚きようだったが、落ち着いて考えれば大げさでもなんでもないことだった。滞在中の国がいきなり自国に侵略してきた上、すぐ隣の首都は炎上。帝都大助手の一行は一生忘れられない旅になっただろう。

「学内では拘束されたって噂でしたよ。一時は帝国軍出して取り返しに行くかとまで言われていたんです」
「行かなくてよかったな」
「おしゃべりしている場合ではない。すぐ城に行ってマドリームで起きたことを話してください。コーゼス皇太子もサーラ皇女もお待ちですよ!」

いくら国家命令とはいえ、到底受け入れられない話だった。俺はそのエアームの皇子さま皇女さまから逃げているんだ。どうしてうかうか城まで行かないといけない。

「今すぐ!? せめて部屋に荷物置いてからにしてくれ」

イクオンジュルトの顔がこわばる。ちらりと俺を見た。

「駄目です。見つけ次第連れて行けとのことです。全エアーム帝国軍が待っているのですよ。すぐ連絡しますから」
「報告ならもうした! 厚い手紙をよこしただろ」
「手紙があるならいいなんて言える訳ないでしょう」

そして始まった口論は今まで続き、終わる気配を見せない。守衛からすればどうしてそんなに嫌がるのか理解できないし、俺たちをしてもよだれをたらしている大きな口の中へ飛びこむ訳にはいかない。まずい状況だった。

「すみませんオオタニさん、こんなことになるなんて」

押し問答をしている2人をうかがいながらこっそり謝罪される。

「入ってしまえば後は心配ないはずだったのですが、こんなことならこっそり侵入すればよかった」
「いや。普通自分の本拠地へ帰るのに警戒する人はいないから。無理もない」

門の外をなにげなく見る。別に物音がした訳でも見たいものがあったのでもない。目の向けどころに困っただけだ。

遠くから兵士の一団が向かっていた。20人はいる集団はおそろいの白い綿の服で、白く染めた革鎧を身につけている。彼らを引き連れているのは黒服の青年だった。周りはどよめき、少なからぬ羨望の眼差しを送っている。

「黒竜のシッコク……!」

隣でうめき声がした。

「エアーム帝国皇位後継者、サーラ皇女に仕える竜」

十分な説明だった。そういえばさっきのクロと雰囲気が似ている。同族だからか?

なぜ彼がここにいるのか、俺目的か偶然かは分からない。でもクロやマシロのように、シッコクも俺の顔を知っているだろうし、対面したから確実に捕まえようとするだろう。俺は竜と20人の兵士相手に勝ち目があるなんてとても思えない。取るべき方法はひとつだけだった。

一歩二歩と門を正面に向いたまま後ずさり、背を向けて走り出した。

「あ、オオタニさん」
「! 待てっ」

制止の声に反応せず、人波に紛れ一番近い校舎へ入る。初めは好奇の目で観察されたが、少し行くともう周りになじみとけこんだ。だれも門の近くにいた俺を知らないし、自分たちの勉強や仕事に夢中で俺がいることさえ気づかない。

つい逃げたけどこれからどうしよう。駆け足から早足へと速度を落としながら行くあても土地勘もないのに気づく。頼りになる人も、一緒に困る人もいない。周りは敵ばかりで、これからどうすればいいのかさっぱり分からない。今更ながらに困り果てた。

くじけそうになるのを奮い立たせる。歩きながら考えた。

できればみんなと合流したい。特にキャロルとグラディアーナはエアーム帝都内のどこかにいるはずだ。会って色々相談したい。

でも初めてきた街、しかも巨大な都市でどうやって顔見知りと会えというんだ。待ち合わせもしていないしどう考えても会えそうにはない。

ひとりでなんとかするしかない。げんなりしながら周りを見る。隠れる分にはなんとかなりそうだ。俺のこと特に派手でもない顔が役に立つ。いかにもありきたりで普通の外見で、ここの学生か関係者のように堂々としていれば絶対にばれることはないだろう。

そ知らぬ顔で大学の敷地から出ることはできるか? 今すぐはともかく半日ぐらい経ってからどこか目立たないところから立ち去る。大丈夫のような気がした。さっきの守衛は俺には興味を示さなかった。手配書は回っていないのだろう。大学を出て帝都に潜むのはもっと簡単そうだった。小遣いだってあるし数日間はもつ。

それから街の外に出てイーザーたちと合流する。なんだ、簡単そうだ。落ちこんでいた気分が急上昇する。緊張していた気分がゆるみ、俺は気楽に歩いた。

くつろいでいたからだろうか、今まで見えていた先にある部屋のひとつを見て目を疑った。

部屋に荷物がおさまりきらずあふれ出ているような風情だった。本に巻物、看板に木の木彫り、乱雑に積み重ねられて崩れているごみだか資料だかのひとつに、日本でいう電光掲示板が、カーリキリトではけして存在しないはずの道具があった。ちゃんと電気が通っていて、一定の間隔で赤い光で英字を流していた。NO FUTHERと。

どういうことだ? なんでここに英語圏のものがあるんだ。ここにあるはずのものじゃないぞ。立ち止まり周りを見る。通りすがりのだれかを捕まえて聞き出そうかと思ったのだが、あいにく人気はなかった。いつの間にかかなり奥まできていたみたいだ。

聞き出せないのならと俺は半開きの扉をにらみつける。扉は普通の造りで、特に警告の言葉も立ち入り禁止の印もなかった。今は追われている身で余計なことをしている余裕はない。でもこれは見逃してはいけない。

室内は暗く、慣れるまでろくにものが見えなかった。おまけに乱立する棚という棚には物があふれ、ぶつかりでもしたら崩れたガラクタにつぶされそうだ。

「すみません、だれかいませんか」

慎重に呼びかける。

「表のもので聞きたいことがあります。だれか」
「……だれだね」

もっそりと奥で毛布が動いた。

間違えた。毛むくじゃらの獣人だった。ねずみ色の法衣を着て、いかにも億劫そうに立ち上がる。ひょっとしたら寝ていたのかもしれない。

グラディアーナと同じく獣人というより二足歩行をする動物だった。毛で覆われて目が見えず、長い兎のような耳が垂れ下がっている。

草原走りの一族だ。前キャロルから教わった。大きく垂れ下がった耳が特徴で、獣人の中でも数が多くどこにでもいる。ちなみに半身である動物はもうすでに滅んでいて、この人たちが変身することでしか見られないらしい。兎と耳の長い犬をあわせたような動物だそうだ。

「初めまして、俺は秋人といいます。聞きたいことがあってお邪魔しました」
「私はヴィー。異世界とその狭間についてここで教えている」
「異世界と、その狭間?」

一歩後じさった。

「それって召喚術じゃないか! ヴィー先生は召喚術士なのか!?」

かつてあれほど捜し求めた、もうとっくに忘れたはずだった一番初めの俺の目的、それが今年齢不詳の獣人として俺の前に立っていた。

その割にあまりぱっとしないな。こう、もっと派手で力強くて、いかにも自分は最新の魔法を研究しているという自信と自負、知性が感じられない。ぼんやりしているというか、抜けているというか、つかみどころがないというか。

「魔法は使えない。研究をしているだけだ」
「似たようなものだろう。あ、あの、俺実は」
「アキトは異界人なのだろう」

座りたまえ。ヴィー先生は本で埋まった机から椅子を取りだした。言われたままに腰かける。なんで分かったんだろう。俺はどこからどう見ても普通の人間なのに。やっぱり召喚士だからかな。

「そもそも異世界とはなにか?」

俺、ここの生徒でも学生でもないのだけど。聞かれたからには答えないと。

「ここではないところ。カーリキリトとは違う世界」

暗いのと毛むくじゃらなので表情は見えない。にもかかわらずヴィー先生が失望したのが分かった。

「え、えっと、こことは違って科学や機械の文化文明が栄えていたり、超能力が発展しているところもある! 行くのにはカーリキリトではすごく難しいけれども無理じゃない。世界によってはかなり気楽に移動できることもある。カーリキリトではメルストアの民が異世界の行き来をすごく攻撃的に見ているのですごく移動しにくいけど、それでも貿易や事故でくる人もいる」
「ぎりぎり合格」

ほっと安心する。安心してからなんでこんなところでまで試験を受けているのだろうと思う。

「召喚術はそれらの世界から生物あるいは無生物をカーリキリトに呼び出す術だと一般的に認識されている。それは召喚術の本質ではなく、そして最終的な目標でもない」
「違うのか? だったら召喚術とはなんなんだ?」

常識という名の踏み台を引っくり返されたような気がした。

「召喚術とはカーリキリト以外についての魔法だ。人々も文化も物理法則も異なる世界を知り適応し接触する魔法。召喚術の目的は数段階に分かれる。

まずはカーリキリトの外にも世界があることを知ること。最低条件といってもいい。たったこれだけのことさえ一般的には知られていない。

次に異界について学ぶこと。想像をはるかに超える魔法、技術、生き物、道具、生き方について学ぶこと。ここまでは知識だ。私はここにいる。

次、ようやく魔法だ。異界の道具はものごとのことわりが根本的に異なるカーリキリトでは動きにくい。正常に作用せずすぐ壊れる。そこで術士は魔法を使う。自分の手の上、わずかな空間を揺り動かしことわりを歪める。そして道具を安定して使用する。

これこそが魔法、言葉で因果律を動かす。言葉をもって力を作り、力をもって現実へ干渉する。異世界の物理法則をこの世界へ持ちこむ」

なんだか地味だ。ここまできてできることがなにかを使えるだけなんて。そんなこと俺にだってできるぞ。もう日本から持ってきたものはほとんどないけど。

「この手の中の空間を広げる、自分の周囲、自分から3歩以内、部屋の中のみへと。異世界の法則を持ちこむということは一時的にそこは異世界となる。カーリキリトの律は薄くなりかの地となる。一時的、限定的ではあるが異世界へと通じている。

その道を使ってかの地から呼び出す。例えばもの、人。一般的に召喚術と呼ばれているものだ」

「それだ! 俺もそれできたんだ!」

なんでそんな分かりきっていることを説明するためにこんなに長くかかるのだろう。ヴィー先生は手で俺を制した。

「だがそれは召喚術の終わりではない。他者の呼び出しは道半ばだ」
「でも、それでもすごいことだ。それ以上のことってなにがあるんだ」
「単純だ、広げることだ。一時的を永遠に、限定的を普遍に、より長時間より広範囲にカーリキリトとかの地を繋ぐ。それは門となり、お互いが自由に行き来できる」

だがそれもまだだ。ヴィー先生はかぶりを振った。

「まだ?」
「もっと、もっと広げる。究極の召喚術、異界についての最終的な段階。それがかの地、異界との融合。そこはカーリキリトであり、かの地である。2つの結びつきは離れがたく、同一のものとなる」

恐怖を感じた。この獣人が急に恐ろしく逃げ出したくなった。立ち上がる。なにかを引っかけたらしく左から硝子の置物が転がり砕け落ちる。

「ま、それは極論だがね」

肩をすかすようにあっさり翻した。あれ。

「この手の理論でいったら全ての剣士は人間を皆殺しにしないといけないしどの魔法使いも世界を崩壊させないといけない。真に受けない方がいい」
「真に受けないようにって、俺結構今怖かったぞ。脅かすな」
「君たち異界人は」

人の話を聞いていない。進められてしまった。

「私たちが努力と苦労を重ねようやくできることをある段階までなんの労力を使わずできるはずだ」

見透かされているようでぎょっとした。

「異界人の使う道具はなにもしなくても正常に働き壊れにくい。異世界人そのものが異界の空気、つまり法則を丸ごと持ちこみ周りを影響しているためだろうと考えている。無生物では持ちこめない法則を生物なら持ちこめると。

考えてみたら驚くことではない。法則を持ちこまないと道具が壊れやすいということは、生命の維持に必要な器官にも欠陥が出やすいということだ。生きるために持ちこみは必要だ。あるいは法則そのものが生物に付属しているのかもしれない」

「はぁ」

難しい話だ。でもなんとなく分かる気もする。カーリキリト人が日本にと考えてみよう。魔法がなくて獣人がいない日本だけど、前怪物が大暴れした時のように行ってすぐ倒れてしまうことはない。道具には悪影響が出るけど生き物には出ない。カーリキリトで生きている人たちの中には魔法や精霊術がないとそもそも生きていけそうにない人たちも多い。そういう人たちも日本で生きていけることを言っているのだろう。

「でも、それがどうしたんですか」
「私たちが魔法を使わないとできないことを異界人は自覚すらなく行ってしまう。それは精霊使いにも似ているな。生まれながらの3本目の手足と異なる知覚だ。君たち異界人は異能力者でもあるんだ」

さて。ヴィー先生が近寄ってくる。ウィロウとまではいかないがザリと同じくらい背が高く、寄られると警戒する。

「カーリキリト人にはどれだけほしがっても手が出せない能力をそなえた異界人に聞きたい。

今、なにが起こっているのだ?」

つまった。思いがけない問いに俺はどう答えればいいのか分からない。真意がつかめない、なにが狙いなんだ。

「ここ最近カーリキリトとカーリキリト以外の世界との繋がりがおかしい。それまで多少の変動はあったものの落ち着いていた。それが春から急に揺らめいた」

ちょうど俺がここにくるようになった時だ。

「観察しているうちに異界との繋がりが切断されてしまった。まるでカーリキリトという箱庭が突然壁で覆われてしまったかのようだった。今まで多少なりともできた異界への魔道が全く無力になった」
「それで?」

動揺を隠そうと、わざとぶっきらぼうに言う。

「それがなんなんだよ」
「異界人として、君の意見を聞かせてほしい」
「俺が知っている訳ないだろ!」

知らないはずがない。俺が原因なんだから。雷竜神クララレシュウムが俺に日本とカーリキリトを行き来させ、2つの異なる世界を近づけてしまった。そして日本をラスティアから守るため、世界ごと断ち切った。でもそんなこと初対面の人に言っていい訳がない。巻きこんでしまう。

「俺はここではない世界からきたけど、でもそんなこと知らない、なにを言っているのかまるで分からない」

逃げよう。とっさに決める。どうせ今日は逃げてばっかりなんだ、もう一回繰り返してもいいだろう。

乱暴に立ち駆け出そうとする俺を、ヴィー先生は追わなかった。本とガラクタで一杯の机に手を入れ俺の腕ほどもある綱を引く。ぎっしり埋まった本棚が衝撃で揺らぎ、天井から目に見えるほどの埃をこぼす。

綱は扉の真上まできていた。部屋ごと床が抜け落ちそうな轟音を立てて、ちょうど扉の手がかりに伸ばしかけた俺を弾き、巨大な石板が扉の前に立ちふさがる。衝撃で部屋のものというものが飛び上がって転がり棚が倒れる。とっさに振り返った俺の目に、罠の成功にも大して心を動かしているようには見えないヴィー先生がいた。

「なにをするんだ」
「表の荷は、わざと出している」

綱を無造作に投げ出す。人の話を聞かない先生だ。

「今までカーリキリトを訪れた異界人の故郷のものばかりだ。まずありえないが、万が一、一億分の一、異界人がここを通った時のために置いた。それらに反応し、不思議に思ってきてもらうために」
「わざとだったんだ」

部屋の前から罠は始まっていた。そして俺はまんまと引っかかったことになる。それは異界人だってばれるな。カーリキリト人にとってはただのごみなんだから。

「そう。そして私が訪れた異界人をむざむざ逃がすと思っているのか?」

どうしよう。俺は不思議と慌てなかった。どこか逃げられるところはないかと部屋を見回す。

埃で視界がぼやける中、一番に目についたのはヴィー先生の後ろ、ぼんやりした明かりを投げかける窓だった。木戸は半分開き直接外気が流れこむ。

あそこからなら逃げられるかもしれない。窓から逃げるにはまずヴィー先生をなんとかしないと。見上げるような長身に俺はひるむ。

でもひるもうと嫌だろうと、他に逃げる手段はなさそうだった。

やるしかない。歯をかみしめヴィー先生の顔をにらみつける。

「聞きたいことはそれだけではない」

追いつめた相手ににらまれ、素手でひとりきりだって言うのにヴィー先生もまるで動じていない。服の埃をはたいた。

「最近、ごくごく最近だ。また変動があった。完全に切りはなされ全世界からの孤児となったはずなのにまた揺らぎが起こりつつある」

一瞬戦意を忘れた。忘れてしまうほど意外なことを言われた。

「カーリキリトからの極めて強い力のようだ。壁にひびを入れ、外とのつながりを持とうと暴れている。魔法か精霊術か他の力かは区別できない。すさまじい力だ。魔道士に伝わりささやかれている、精霊使いたちはもっと敏感に感じ取っている」

とっさに思いついたのは、ラスティアの自信に溢れた表情でもなければクララレシュウムの俺を小馬鹿にした声でもなかった。何回も夢で見た走る靴音、疲れ果ててもう立っていられないほどくたくたで、それでも俺に向けられる強い怒り。

夢のあの人がなにかしたのだろうか。もう片がついたと思っていたことがら、日本や他の世界との関わりがまた起こるのだろうか。

だれが、なんのために、どうして。

「聞かせてもらおう、異界の子よ」

なにが進んでいるんだ、なぜそんなことが起こるんだ。

「これらはなにか、我々の頭上でなにが起きているのか」

悲鳴のような甲高い音と共に、窓の木戸がこっぱみじんに砕け木片が俺とヴィー先生へ降りそそぐ。なにがあったと身構える前に足元がはじけ身体が宙に浮いた。転んだところで首をつかまれる。

「先生、悪いけどこの人間は私のもの」

規格外のすさまじい力に俺は身体を起こせない。でもヴィー先生の顔色が変わったのは分かった。なにを言っても変化しなかった口調に、はっきりと驚愕と恐れの色が含まれた。

「黒竜! 皇家守護竜のクロ!」
「うん、そう。ヴィー講師」

クロは軽々と俺を持ち上げる。首が折れそうになりもがくも、自分で思った以上に動きは弱々しくてこうもりの翼を背負う女の子はちっとも気にしない。

「私の君が、ルーサー皇子がこの人と会いたがっているの。もらうね」

さしものヴィー先生も、皇家と黒竜に歯向かえる訳がなかった。