三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

1. 皇位継承者と護衛の竜

捕まったことなら今まで何回もある。状況も待遇もその時々によってまちまちだったが、黒竜のクロが取った対応は今までで一番ひどいものだった。

俺が投げこまれた― 比喩じゃないぞ、本当に投げられて背中を打ったんだ― 牢屋は一畳にも足りないような狭さだった。明かりはなく手探りで室内を動くはめになった。壁は湿っていてコケが生えている。床は粘着性のある液体で濡れていてはじめは座りたくなかった。すぐ横をねずみが走り回る音が聞こえる、泣き声はねずみだけど足音からするに兎ぐらいの大きさはありそうだった。悪臭はすさまじく吐きそうになる。

他の人はいなかった。この部屋と鉄格子のすぐ外には、という意味で。時々聞こえる箍が外れたような笑い声で無人ではないのは分かっている。話はできそうにないな。

俺はほとほと陰鬱になり、不安と心配で泣きたくなった。くじけそうになる気分を無理に励まし、これからについて考える。

クロは皇子が会いたがっていると言っていたな。なんて呼んでいたっけ、確かルーサー皇子だ。

前グラディアーナが話してくれた。ルーサーは皇室の4番目の子どもで三男だったよな。知略に長け頭がいい人だそうだ。

頭がいい? 首をひねった。手下のクロは力任せの強引な方法をとってきたぞ。それで頭がいいのだろうか。でも他の兄姉が兵士を引き連れる中、クロはひとりで俺を捕らえたんだよな。思ったよりも馬鹿ではないのかもしれない。

会ってどうする気だろう。なにを話したいんだ。

対話が目的だったらずっと牢屋の中だったりもっとひどい目にはあわないだろう。でも内容が問題だ。俺は内緒にしなくてはいけないこと、黙っているべきことを山のように抱えている。それ以前に話しても信じられる話かどうか。「神さまに頼まれた」なんて正直に言ってみろ。よくて牢屋へ逆戻り、悪くてふざけるなと拷問だ。

話したいのではなく確保したい、捕まえておきたいだったらずっと牢屋の中だろうか。

こんなところに一日たりともいたくない。なんとか脱出できないものか。

錆だらけの鉄格子をつかんでみる。思ったよりも太く頑丈でゆすったぐらいでは微動だにしなかった。

鍵穴はどこだ。なにも見えない中手探りで探すもとびだしている鋭い切っ先で手を切っただけだった。

もたれかかって考える。よく考えたらここは人を捕まえておく専用の部屋だ。どこかの倉庫じゃないんだし、素人の俺がちょっとしたところで脱出できるとは考えにくい。

自力が駄目なら人に頼ろう。俺はしたたかなキャロルを思い返した。グラディアーナだって密偵の真似事もできそうだ。助けにきてくれるだろうか。

その場合、どうやって俺がここにいることを知るのだろう。俺はほとんどの人手を煩わせることなく、クロひとりの手によって牢にぶちこまれた。話がもれようもないな。いくら腕がいい密偵だって、知らないことを対応できるとは思えない。

やっぱり自分でなんとかするしかなさそうだ。でもどうやって。

例えば火事でも起こしたら。きっと大騒ぎになるし消火している間に逃げ出す隙ができる。いい考えだがすぐ欠点に気づいた。そもそも火を起こすものを持っていない。荷物は全部取り上げられたし、それ以前にライターもマッチも、原始的な火打石でさえ荷物として持ち歩いていない。

他の手を考えよう。仮病なんてどうだろう。人がきたらいかにもそれらしく腹を押さえて転げまわる。でもそれでだまされるのだろうか。だれでも思いつきそうだしすぐ見抜かれそうだ。

病気も駄目ならどうしようか。なにもいい手が思いつかない。俺は足音を聞いて顔を上げる。だれかくる?

通りすがりかそれとも。思わず固まる俺の前で足音は止まり鍵穴が鳴った。とっさに後じさり背中に壁をつけて凝視する。本来ならなんてことがないはずのたいまつの炎がやけにまぶしい。

遠慮なく大きな音を立てて、明かりを背に人が入ってきた。

「アキト・オオタニ」

見ようとしている俺へ、落ち着いた声が呼びかける。だんだん逆光が目に慣れるにつれ男の姿が分かってきた。

分かると改めて目を見張った。見覚えがあった。帝都大学門の前でちらりと見た。クロと同じ、皇族に仕える竜のひとり、黒竜のシッコク。

クロじゃないのか。なんでここにきた。確かシッコクはクロとは別の人に仕えているはずなのに。

「異界人のアキト・オオタニで間違いないか」
「そうだ」

混乱真っ盛りの中、覚悟を決めた。確認のようだがもうどんな言い開きをしても通じないだろう。だったら立ち向かうしかない。

「俺は秋人・大谷。日本の高校生だ。用はなんだ」
「……このようなところに押しこめ、申し訳ないことをした。出てくれ」

頭の中でどうなるか何通りも考えていたのに、全く予想もしなかった行動をされた。客人に対するようにうやうやしく言い、肩をそっとつかみ牢の外へ連れ出される。ただ出されただけではない。とまどう俺はシッコクとその部下と共に上の階へ連れて行かれて、高い天井の廊下を歩かされる。通りかかる人たち、使用人や兵士はみんなシッコクの一団を見ると尊敬の念をこめて脇へ道を譲る。俺は逃げるべきなのかさっぱり分からず、結果的に抵抗らしい抵抗さえせず廊下を歩いた。

俺が閉じこめられた牢屋は城の地下にあったみたいだ。エアーム帝国がそうであるように、広大で立派な皇城だった。やや黄土色をした壁は岩山そのものをくりぬいて造ったかのようだが、あちこちの天窓から光がたっぷり入りこむし高さも幅もとにかく大きいので少しも息苦しくない。壁も床も丁寧にやすりをかけたかのようになめらかな上、白と青、赤と金のタペストリとじゅうたんで覆われている。

シッコクに連れられて俺はいくつもの階段を登った。だんだん働く人の数が少なくなり服装が統一されていく。

どれくらい歩き上へと行ったのだろうか。不安になってきた。そういえばシッコクも部下も一言も話さない。だから不安になるんだな。よし、こっちから話してみよう。

「どこに行くんだ?」

先頭のシッコクはかすかに俺を見た。

「アキト殿にお会いしたがっている方がいらっしゃる」
「俺に? シッコクの上司か? ずいぶん上にいるんだな」

待てよ、シッコクの上司って皇族だよな。俺は今から皇帝かその孫に会うのだろうか。会ってどうするのだろう。

「どんな話だ?」
「直接聞いてくれ。私の口から先に話してよけいな先入観を抱くべきではない」
「でも、いつになったらその方へつくんだよ。このお城がどんなに広いからといってもこれじゃ上空へ出ちゃうぞ」

俺がもう数えるのも嫌になった、何百段目かを上りきった時口を閉じた。真白なタペストリが壁を隙間なく覆い、じゅうたんの先には開かれた門があって2体の竜像が狛犬のように俺を見つめている。規則正しく竜の仮面をつけた兵士が槍を手に直立不動で並ぶ。今までとは明らかに異なる場所だった。

「アキト殿」

シッコクは堂々と真中を進む。部下は動かない。俺は後ろと前を交互に見、思い切ってシッコクの背中を追う。竜像が守る門の向こうへと行った。

門の先は白かった。何重の薄い布がカーテンのようにはるか高い天井から垂れ下がり、まるで霧の中にいるような幻想を作り出している。部屋がどうなっているのか全景がよく分からず、シッコクの黒い背中しか見えない。

乱暴にかきわけ押し進むと、急に雲ひとつない空を見た。フォールストからもらった絹布のような空は澄み、屋上に出たのかと思った。

そんなに間違った認識じゃあなかった。ここは部屋で天井はあるものの壁の大半が切りとられ外へと続いている。バルコニーやベランダというにはあまりにも切り抜き部分が大きすぎる。その巨大な外へ、まだ2、3枚の薄布で姿をぼやけさせている人がいた。シッコクはその人物へうやうやしくひざまずく。冷たい風が布をゆらし、かの人をようやく俺に見せた。

俺が見とれたのは状況のせいだけではなかった。短い銀髪は日に当たってきらめき、青い瞳は慈愛に満ちて俺を見つめる。身体のあちこちに金銀の装飾品をつけてはいるものの、皇族にしては意外なほど地味なワンピースを着ていた。年のころは俺とグラディアーナの間くらいなのに奇妙なほどの落ち着きと威厳を持っている。シッコクが「サーラ殿下」呼びかけた。

「ありがとうシッコク。首尾は?」
「つつがなく、穏やかに進みました」
「そう」

いい返事のはずなのに、なぜだかサーラ皇女は憂いを含めてつぶやき返す。

サーラ皇女。グラディアーナが言っていたぞ、エアーム帝国後継者の3人目で長女、国民の人気は絶大のお姫さま。なるほど、人気も出るはずだ。俺を見る姿も報告を受ける姿も絵にしたくなるような「決まっている」人だった。

「アキト・オオタニ」

人物画は俺の名を呼び歩み寄ってきた。いけない、観察している場合じゃあなかった。俺もひざまずいた方がいいのか? でもやり方を知らないぞ。土下座とは違うものだし。困る俺を意に介さず、サーラ皇女はそっと俺の両頬へ手を触れる。ひえっ。

「弟が申し訳ないことをしてしまいましたわね。加減はいかがですか」
「弟って、クロの皇子」
「ええ。我が実弟ルーサー皇子。でもエアーム帝国にはあなたがたを傷つける意図はありません」

辛かったでしょう。深い同情と悲しみをこめてサーラ皇女は俺から手を離す。

「あなたがたのことは知っています。アキトのくぐり抜けた恐ろしい戦いと苦しい旅のことも。よくがんばりましたね。もう安心していいのですよ、これからはわたくしたちも戦います。どうか傷ついた身体と心を癒してください、異界の客人よ」

優しく穏やかそのものの提案に、しかし俺は切りつけられたような衝撃を受けた。なんで知っている、フォロー千年王国から聞いたのか? どこまで分かっているんだ。そもそもなにを言いたいんだ? ここまで大騒ぎして労いだけなんて、そんなはずはないだろう。

「あ、あのっ」

シッコクが顔を上げる。俺は今ここにキャロルがいないのを嘆いた。キャロルだったら礼儀に反せずに聞きたいことを質問できるのだろうな。でもここにいるのはまごつく俺ひとりだ。

「なんで俺のことを知っているのですか」
「フォロー千年王国ラディーン陛下から、なにもかも聞きました」

皇族に対してけしてほめられない礼儀の俺に、皇女はとがめもしなかった。無防備に背中を向けて空へ頭を上げる。

「ラスティア・ラガス。雷の神子にして魔道士。雷竜神を封じ世界を変革してしまおうとする恐ろしい男。かの者のためにフォローの地は傷みつけられマドリーム荒野国の王家は致命的な傷を負いました。そして魔の手はわたくしの愛するエアームまでも伸びようとしています」

改めて俺はなにもかも知られているのだなと感心すると共に心の中でイーザーを罵った。そこまでなにもかも報告することはないだろう。

「戦わないといけません。わたくしたちは全ての国々の力をもって忌まわしき悪党に鉄槌を下さなければ」
「どうやって」

口からこぼれた。シッコクが俺をにらみ、サーラ皇女は外国語を聞いたかのように改めて俺を見る。俺はひるみ後ろに下がった。すみませんなんでもないですと言いたいのを我慢する。

「ラスティアは簡単に鉄槌を下せる相手じゃないぞ。神出鬼没でどこにいるのか分からない上容赦しない。危ない相手だ。戦うってどうやって」
「アキトは優しいのね。わたくしたちを心配してくれるの」

サーラ皇女は俺を向いたまま一歩窓へ歩む。つま先が壁と空の間を踏む。

ざっ。その姿を無数の影がいくつも通り抜ける。天井から垂れ下がる布があっけなく吹き飛び部屋の見通しがよくなる、ついでに俺も風圧に負けて後へ転ぶ。

影の正体は竜だった。3メートルくらいの今まで見てきた竜の中では小柄の、それでも十分大きな竜だった。群れはみんな区別できないほどよく似ている竜たちで構成されていて、銀色に輝く鎧を着た兵士が乗っている。竜は馬みたいに鞍と轍をつけていた。

竜騎士。エアーム竜帝国が誇る最強の騎士団。風圧をあび短い髪もワンピースも激しく揺らしながら、少しも揺るがずサーラ皇女は立っている。

「エアーム帝国の竜騎士全団がわたくしたちについています。竜騎士だけではない、あらゆる戦士が、魔法使いや精霊使いがエアーム皇帝の命令の元動きます。エアーム帝国だけではないわ、フォロー千年王国も協力して戦います。アキトはそれでは不足だと思うの」

不足とは思わない。サーラ皇女の言っていることは世界中の国々が協力してラスティアと戦うと言ってくれている。そんな頼もしい、望ましいことはない。

普通なら、なにごともなければ、相手がただの悪人なら。

でも、俺は首を振った。

「駄目だ」

思い出す、覚えていたくないのに覚えていることを。

地下神殿で見せられた幻影。黒くただれた大地、異様に赤い空。アザーオロム山脈の東。滅んだ世界。

最古の魔法使いの一族、今はもう、だれひとりとして生き残っていないメルストアの民。

犠牲を少なくするため。クララレシュウムは言っていた。大軍を率いることや人や妖精や獣人に呼びかけることをせずに、あえて日本に住んでいる俺を呼んだ理由は傷を最小限にするためだった。巻きこまないですむ人々を巻きこまないために。

「駄目だ、戦っちゃいけない、クララレシュウムが言っていた、お前しかいないって、竜騎士や軍隊を連れていってもラスティアには無駄だ」
「アキト」
「また、傷つかなくてもいい人が傷ついてしまう。ウィロウに、響さんに、本当だったら死ななくていい人を殺してしまう」
「アキト」
「参戦しちゃ駄目だ! ラスティアには敵わない、俺がひとりで!」
「アキト」

そっと、まるで聖女のようにサーラ皇女は俺の頭を抱きしめた。俺は急に力が抜けて寄りかかる。

「かわいそうに、こんなに傷ついて。今までずっとひとりきりで逃げて、妄想にとりつかれて」

妄想。本当ではないこと、自分で勝手に膨らませた想像。

「アキト、よく考えて。わたくしにはエアームの勇敢なる騎士と各国のえりすぐりの騎士がついているのよ。わたくしの戦士はみな強く勇敢だわ。いくらラスティアが強いといってもいずれは敗北を味わうでしょう」

あなたはもう休んでもいい。限りなく優しくささやく。

「異界の、戦士でさえない客人がよくここまできましたね。もういいのです。これ以上傷つかなくても苦しまなくても、後はわたくしたちがやります。だからどうか傷を癒して」

サーラ皇女はこんな小汚い異界人への対応としては破格だった。それだというのに俺は不安になる。まるで力を抜いて細い腕に身体をゆだねたらそれきり戻れないような、もう弱々しくなにも自分ではできなくなってしまう駄目な俺になってしまいそうな。恐れる俺にサーラ皇女は花のように蜘蛛のように微笑む。

「わたくしたちが後のことは全てします。戦いも、苦しむのも、なにもかも。だからもういいのよ、もうこれ以上悲しみに埋もれないで」

願ったりかなったりの申し出に、俺はのがれられない罠にはまった気がした。


どうかゆっくり疲れを癒して、と言われた。

「アキトはわたくしたちの、大切な客人なのですから」

そう案内された部屋はマドリームと同じくらい立派な部屋だった。城の相当高いところにあるみたいで、窓から外を見るとエアーム帝都が一望できた。地上からはるかそびえていた帝都大学がまるでおもちゃのように小さい塔として見下せる。真下を見ると目が回りそうなほど地上は遠く、吹きつける風に前髪がゆれて、慌てて身を引いた。

広く清潔な部屋の中央には6人は一緒に食事ができそうな卓があり、寝台はおひさまの匂いがするシーツで覆われている。壁の棚には明るい花まで活けてあった。

部屋が広くて明るく、気配りがいきとどいているのに関して文句は一切ない。牢から出ただけでありがたいのにこの対応は一旅人への範囲をはるかに超えている。

それなのに素直に喜べない理由は。俺はさりげなく門へ目を向けた。サーラ皇女の髪と同じ、よく磨かれた銀色の槍を持つ兵士2人がなにも見ていないように控えている。出入り口はそこだけだった。

唯一の扉が開かれ使用人らしいおそろいの服を着た2人が、布や新しい服を手に入ってきた。

「皇女殿下より世話を任されました」
「まずはお召しかえを。ただいま湯を用意いたします」
「着替え?」

自分の格好を見て納得した。皇城はおろか普通の宿でも嫌がられそうな風貌だった。埃と泥、汗に汚水に血、長く荒れた旅路の上今日だけで普通なら一年かかってもあわないようなひどい目にあった。今俺が着ているから服に見えるものは、脱いだら雑巾にもならないな。

大柄な獣人が2人がかりで熱い湯の入ったたらいを持ちこみ、部屋の片隅薄布で区切られた浴室へとあける。入れ替わり立ち代り行っているのを俺は黙って見ていた。

「なにを考えている」

声をかけられ飛び上がって驚いた。いつの間にかシッコクが扉に手をかけ胡散臭そうに俺を見ている。けして小男ではないし印象が薄い人でもないのに気づかなかった。

「別に」
「逃げようと考えないことだ」

俺の愛想がいいとはいえない返事をさえぎるようにきっぱり言った。「ここは高いし常に人をつけている。出られるとは思わないことだな」

「そんなこと考えていない」

ばれていた。冷や汗をかきながら嘘をつく。

「なんでそんなことを心配するんだ。捕まえているつもりはないんだろう」
「この待遇には少なからず保護の意味もある」

皮肉はちっとも通じなかった。

「アキト殿をラスティアからではなく、クロやマシロからも守るためだ。そのことを忘れずに」

俺にとって不吉な名前を出された。そうだ、彼らもいたっけ。

「不自由なことがあったら部屋付きのものに伝えろ。大抵のことはする」
「シッコク、いいのかよ。クロの獲物を取り上げて、後で文句を言われるんじゃないか」

別に今後シッコクが夜道後ろから殴られるのを心配している訳ではなかった。単純に疑問に思っただけだ。

「文句ですむならいくらでも受ける。アキト殿こそ気をつけるべきだな。あれらはまだ幼く短慮だ。どう出るか警戒してもしたりない」

シッコクが出て行ってからやっとなにを言いたいのか分かった。そうか、俺も逆恨みの対象になるんだ。

「すごく嫌な話だ」

用意された風呂につかりながらひとりごちた。湯は熱くたっぷりある。欠点は俺が汚れすぎていてすぐに茶色になったことぐらいだ。こびりついた血が落ち、湯の上には垢下には泥、変な虫まで浮いてきた。そんなに俺汚かったっけ。

クロたちが押しかけて暴力振るおうとしたらどうしよう。俺よりずっと小さい女の子だけどあの怪力を向けられたら抵抗するどころじゃないよな。兵士たちがちゃんとしてくれることを祈るだけだ。

「これからどうしようか」

花の匂いがする石鹸をつかみながらこれからのことを考えた。

サーラ皇女は優しくしてくれたが、結局ここから出れないので捕まっていることになる。どうにかして逃げないと、ここから出て、みんなに伝えて、急いでラスティアとの対決を。

「どうやって」

その短い内容の難しさに愕然とする。日本のビルにも負けないこんな高い部屋で四六時中見張られている中どうやって出て行くんだ。さっきの地下牢よりはましだけど脱出不可能というのは同じだ。俺にはなんの手段も思いつかない。

全身をよくこすってから3回湯をかぶり、汚れをあらかた洗い流してから俺は出た。よく乾いた布と真新しい服が用意されている。ありがたく使わせてもらおう。

唯一の手段はシッコクかサーラ皇女を説得することぐらいだな。でもどう話を進めるか。シッコクは反抗的な俺にいい感情を抱いていないし、たとえいい感情を抱いていても自分の主人の意に反してまで助けてくれないだろう。となるとサーラ皇女だ。

サーラ皇女だって話をしてもらえそうにない。後は自分たちに任せろなんてきっぱりされた。

任せても、いいじゃないか。袖を通しながら急にその考えが浮かんだ。

サーラ皇女の方が力も金も、権力に自分の軍だってある。俺にはなにもない。だったらやる気のあるサーラ皇女に全部任せて俺は黙って見ていればいいじゃないか。なんで俺ひとりで苦労をしょいこまないといけない。

それは俺が「宿命の者」だからだ。雷竜神クララレシュウムが俺をそう呼び、ラスティアへの戦いへと断りなく駆り出した。それ以外の理由はない。俺はクララレシュウムに利用されているからここにいる。ひどく夢想的であいまいな理由だった。

かわいそうに。妄想に捕らわれて。サーラ皇女の心から気の毒そうな声がよみがえった。途端に足が震える。

あれは全部夢だったのだろうか。こうしてひとり、静かに部屋でじっとしていると不安になる。

絶対に本当だとなんていえない。改めて考えるととっぴすぎて相手にもしたくない。

あれは夢だったのだろうか。さっきまで着ていた服をつかみながら俺は虚空へと問いかける。俺はただ巻きこまれただけの気の毒な人で、行かなくちゃやらなくちゃとしているのはただのから回り、無駄なことなのか。俺は本当ならしなくてもいいことに首を突っこみ歩いてきたのか?

聞こうとしても横にはだれもいない。イーザーもキャロルもいない。証明できない。恐怖で立ちすくんだ。

もし、みんなサーラ皇女の言う通り妄想だったらどうしよう。力が抜け足元に血と泥まみれの服が落ちた。

「っ痛!」

指先が熱をおび思わず押さえる。人差し指を切った。ぼんやりしているうちにみるみる血が流れ落ち、新しい服にさっそく赤いしみを作る。結構深い。

俺は滴る血を見つめながら、血止めの前に服に手を突っこみ探した。心当たりがあった。

隠していたものではなかった。服に紛れこみ俺があったことを忘れていただけだった。つかんだ金属製の竜像はずっしり重く、頭だろうと考えていた箇所に血の跡がついていた。そっとなでてみる。別に鋭くはない。今まで切ったことなんてなかった。

今まで。つまりクラシュムの地下神殿でいつの間にかもらった時から。

夢想じゃない。金属のにぶい輝きと黒く変色しようとしている血を呆然と眺めた。

人へ説得するには足りない証拠だけど、これっぽっちで危険に飛びこむなんて馬鹿みたいだけど。でも竜像ははっきり伝えている。これは本当のことだ。今まで俺が体験したことはみんな現実にあったことで、俺はいくら否定されてもラスティアの敵だ。

「なんでだ」

その場に座りこんだ。まだたっぷり水分が残っている髪に指を突っこみかきむしる。

なんで俺が。どうして俺なんだ。他の人がやってもいいじゃないか。

サーラ皇女はあんなに関わりたがっている。俺よりも皇女のほうがずっと強くて頭もよさそうだ。大帝国の皇女さまとようやく一般常識が身についた俺とは比べられない。だったらあの人がやった方がいい。

いや、サーラ皇女とまでは言わなくても。なんで俺なんだ。俺は弱くて頼りなく、ひとりでなにをしていいのかまるで分からない。ただの高校生なんだ。

俺はイーザーのようにがむしゃらに、顔も見えない正義と怒りに任せて進むことなんてできない。響さんのように大切なだれかのために戦うこともできない。ラスティアのように理想と大儀を持って動くことさえできないんだ。なのに、どうして俺なんだ。他の人でもいいだろ!

白く清潔な部屋で、俺はひとり重圧につぶされた。


数日間が意味なく過ぎた。

シッコクの言う通り正当法では出ていけそうになかった。なにせ窓は落ちたら羽根がない限り即死の高さ、唯一の扉には兵士が交代で見張っている。あれ以来シッコクもサーラ皇女も姿も見せない。

「待遇はいいんだけどさ」

捕まって出られない。部屋の外に出なくても生きていける。食事も着替えも持ってきてもらえる特権階級なので与えられた部屋から出る理由が作れない。ぼんやり帝都の夜景を見ながらひとりごちる。外はいくら帝都といえど電気がないから夜は暗い。酒場らしい明かり、大通りに掲げてあるかがり火以外に見えるものはなく、窓の外は黒一色で塗りつぶされていた。

「みんな、どうしているんだろう」

もう何回何十回繰り返し考えたことを口に出す。俺のことを探しているのだろうか。手がかりがなくて困っているかもしれない。見捨てて先に行きはしないよな。まさか俺と同じように捕まっていないだろうな。

俺の期待を度外視しても、俺を探してくれているだろうとは思う。でもそれはどうなんだろうか。俺はそこまでしてもらえるほどのよいことができるだろうか。責任が重い。俺は無力だ。

「寝よ」

考えすぎると落ちこみのあまり立ち直れなくなりそうだ。どうしようもない。俺は太陽の匂いがする毛布にもぐりこみ角灯の明かりを消した。不安材料は山のように抱えているはずなのにすぐに眠気が押しよせる。

「…… ……ト」

夢うつつになったところで呼び声を聞いた。またあの夢だろうか。今度こそ正体を突き止めたい。

「アキト、起きてよ。でないと引っかくわよ」

とても聞きおぼえのある声に思わず跳ね起きた。眠気は晴れず頭の中は霧がかかっている。それでも目の前の人影は間違えようがない。暗くて全然見えないが、いつもの灰色の貫頭衣の代わりに白い作業服を着ているようだ。頭巾を深く被っているので表情は見えないけど、声から察するに物騒な円満の笑みを浮かべていると見た。

「キャロル?」
「いい暮らししているじゃない。こっちは大騒ぎだったのに」
「どうして、なんでここへ」

ぼんやりつぶやいた。ちっとも目はさめず口の中でもごもごする。夜風に乗ってどこからか甘ったるい匂いがした。

「馬鹿ね、決まっているでしょう。助けにきたのよ。今は下調べ。アキトが無傷でここにいるのを知りたかったのよ。用はそれだけなんだけど、あんまり幸せそうに寝ているからつい叩き起こしたの」

今すぐ逃げるならともかく、腹が立ったからといって起こさないでくれ。しかも敵地で。

「どうやってここにきた。見張りは、ねずみに変身したのか」
「いいえ。こういう大きな城や館は獣人がひっそり侵入できないように特力を使えなくなる呪いがかけられているの。簡単な術よ。ここでは変身できない。だから下使いに変装よ。もぐりこむのに手間取ったわ。見張りはちょっとぼんやりしてもらっている。ザリからいい薬草盗ってきたの」
「はあ」

この甘い匂いがそうなんだろうか。そういえばいつまでもぼんやりしているのはおかしい。

「いい、アキト。近々助けるからその時にはしっかり動いてね。今日はあたし帰るけど、近いうちにまたくるから」

キャロルは小刀を手の中で回し、頭巾に両手を入れた。少し力を入れて髪を一房きり、俺の手ににぎらせる。

「じゃあね。寝なさい」

気軽な挨拶のように言われ、俺はそのまま毛布に潜りなおした。

「助けに」

ぼんやりつぶやき、意味をかみ締める。

「きてくれたんだ」

つぶやきながら寝た。ザリの薬草のせいだろうか、眠りは浅く俺は脈絡のない夢にうなされた。夢の中で俺は地下洞窟をさまよい廃墟同然の街をふらつき無人の荒野を歩いた。ようやく目がさめた時外はまだ暗く、俺の額は汗でぬれていた。

「夢?」

どこまでが夢だ。とまどう。俺はまだしっかり握りしめている右手を見た。手の中にはキャロルの髪があった。灰色の、雨の日にはすさまじいくせっ毛となりキャロルを悩ませる髪が。

「キャロル」

思わずつぶやく。もちろん灰色の髪はなにも答えてくれないが、キャロルの訪問を示すなによりの証拠だった。

まだ重たい頭を振りベッドから抜け出ると窓辺へ寄って、外へと髪を放した。強風にあおられたちまち灰色のくせっ毛は霧散し、空一杯に広がる。

「助けにきてくれる」

その確信が俺を元気づけ、重圧と苦悩を忘れさせた。そうか。だったらもっとしっかりしないと。いざ行動の時ちゃんと動けるようにがんばろう。


俺が予想したよりはるかに早く、思いもよらない方向でそのいざという時はきた。

キャロルは具体的にどうするか教えてくれなかった。なら俺もいつでもどんな時でも動けるようにしておこう。そう考え外で着ていた服をまとめていた時だった。

「お待ちください。だれも通すなと命令されています!」
「だったら僕も同じ命を下せるはずだな。どけ」
「ルーサー殿下!」

なんだろう。外が騒がしい。紐で縛った服を小脇に抱えて起き上がると、ちょうど騒ぎの中心がきた。

俺と同じ年頃の男だった。小柄で鼻は曲がり、表情は皮肉っぽくうっすら冷笑を浮かべている。一見して人好きしないなと感じた。少なくとも万人に愛される人間ではない。立派な服を着て剣を腰から下げているがどうも不釣合いだった。

男の第一印象はどうでもいい、問題はその後ろにちょこまかついてきた人物だった。金髪の小男を追うのは間違いない、黒竜のクロだった。

「そう身構えなくてもいい」

思わず逃げ出そうとした俺を男は押しとどめる。同じ年なのにやけに偉そうだな。

「話がある。アキト、座れ」
「……ルーサー皇子?」

外したらすごく失礼だろう。それでも俺は言った。殿下と呼ばれてサーラ皇女より年下で、なによりクロを引き連れている。エアームの後継者のひとりで人気はないけど有力候補だったよな。

「いかにも」

尊大に笑い勝手に部屋のソファーに座った。よかった、正解だ。

似てない姉弟だった。サーラ皇女は清楚でしとやかでそれでいて頼もしい。いかにも将来の女帝になりそうな人だ。それに比べて弟は強くなさそうだしずるくてなにかたくらんでいそうだった。顔だけで信用できないと決めるのは軽率だけど、どう見ても善良な顔ではない。同じ親を持ってここまで違うのか。俺と姉さんなんて同じ顔だぞ。

「なんの用ですか」

用心深く俺も向かいへ腰かけた。いつでも走って逃げ出せるように浅くにしか座らない。

帯剣していることも気になるが、それより後で不本意そうにしているクロだ。紛らわしい半竜の姿にはもうだまされない。俺は2回も叩きのめされたんだ。といってもどうやって3回目を逃げよう。本気で俺を傷つけようと考えているのだったら、俺に抵抗の余地はない。

「姉上の手から逃がしてやろうか」

堂々と声もひそめず言われ、俺は叫びそうになった。なんだって?

「姉上のことだ。甘いことを言いつつもやっていることは容赦がない。きさまを捕らえ自分の手ごまにしているのだろう。出て行きたいと思わないか」

自分の姉について言っているのにひどいな。俺は警戒を深めた。

「なんで、そう言ってくれるのですか。ルーサー皇子だって俺を捕らえようとしたのに」
「こちらの事情がある。どうする。きさまに選択の余地はあるのか?」

ない。俺の方で出せる手はほとんどない。本当なら飛びつきたいくらいだ。

でも手に乗ってさらにまずいことになるかもしれないなら話は別だ。ルーサーの事情がなんなのか。絶対に俺がかわいそうだからとかの優しい理由ではない。自分が得をして他の兄姉が不利になるようなたくらみに決まっている。

「どうやって逃がすつもりですか」

慎重に話を進める。どういうつもりか聞き出さないと。

「部屋にはいつも見張りがいるし、唯一の自由な出口は絶壁に開いている窓だけです」
「それだけか? 見張りなど命じればいい。今僕がやったように。なにかを勘違いしていないか異界人。僕と姉上の立場は同じだ。姉上にできることは僕にもできる」
「できるのと、本当にやるのとは違う」

つい言ってしまった。クロが少し驚いたように羽根を広げる。俺は自分の軽い口を呪った。でも言い始めたものは仕方がない。着地しないと。

「ルーサー皇子も俺を捕らえたい人ですよね。それなのに逃がしてくれると言っている。一回捕まえた俺を逃がすんだ、サーラ皇女にもエアーム帝国にも大きな損のはずだ。それなのに提案するなんていくら俺でもおかしいと分かる。素直に乗れません。手の内を明かしてください」
「言える立場か?」

猫をなでようとしたら威嚇された。そんな目にあったかのような表情で背もたれに寄りかかる。後ろに控えていたクロが進みルーサー皇子の斜め前へと出る。とっさに俺はソファーの後ろへ逃げた。しまった、機嫌をそこねた。またしばかれてしまう。

自分から招いたとはいえ命の危機に陥った俺を助けたのは凛とした声だった。

「ルーサー、その辺にしておきなさい」

クロの動きをとめルーサー皇子の注意を全て持っていき、堂々とサーラ皇女が現れた。後ろにシッコクを従えていて、その威厳はすでに女帝のようだった。

「これは姉上」

たった今までサーラ皇女を裏切る計画をそそのかしていたのに、ルーサー皇子は平然とお辞儀をする。皮肉っぽい笑みが醜く口元へと浮かぶ。

「ひどいではないですか、アキトを横からかっさらうなんて。彼は私が城に連れてきたのですよ」
「ルーサー、あなたのたくらみは分かっています」

似ていない姉はルーサー皇子の恨み言を無視し断罪した。

「アキトを捕らえ意図的に非道な扱いをしましたね。わたくしがルーサーの命を撤回させて助けるために。彼をわたくしの保護下に置いた後逃げたように見せかける。そうすればあなたを無視してまで取ったわたくしの対応が間違いだったことになり失墜する。アキトをその後どうするつもりだったの? 二度と見つからないよう消してしまうつもりだったのかしら」

怒りを含んだ非難に、俺はぎょっとルーサー皇子を見る。そんな危ないことを考えていたのか。

「まさかそんなことを。口がすぎますよ姉上」
「言い訳は結構よ。今すぐ出て行きなさい。アキトはわたくしが守っています。かわいそうに、クロにそんな汚い仕事をさせないわ。もうすぐフォローからの使者がきます。その日までアキトには指一本触れさせないわ」
「そして名前を売るのですね。立派ですよ我が姉上。ですが行動は私と大差ないことを自覚してほしいですね」

姉弟げんかというにはあまりにもどろどろしていた。2人の対立を見ながら俺は青くなる。彼らにとっては日常的小競り合いなのかもしれないが、皇位の権力争いに巻きこまれていることを今更ながらに自覚した。どうするんだこれ。

「そこまでです。サーラ皇女ルーサー皇子」

救いの手は部屋の外から、どよめきと好奇の視線を引き連れて乗りこんできた。乗りこんだという表現で合っているはずだ。なにせ使用人の手を力任せに押しのけながら入ったのだから。とっさにシッコクがサーラ皇女を、クロがルーサー皇子を守ろうと立ちふさがる。

乱入した2人は俺の知っている人だった。これがキャロルだったりグラディアーナだったらここまで驚かない。ここにいるはずがない人だから驚いた。

「アット! それにシェシェイ」
「アッキト」

能天気なはずのピクシーは、アットの肩に座ったまま諦めたような笑顔で俺に手を振った。