三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

帝国の後継者

本来のそよ風を押しのけて空気が流れる。アルと俺の髪が舞い上がる。

発生源はアルだと直感した。アルは優れた風の精霊使いだし、不自然な風を作り出すなんてお手の物だろう。例えアルのことを知らなくても彼女を中心にした大気の流れで分かる。控えめに、申し訳ないかのように光る燐粉が風に混ざる。空気から浮き出るかのように小さいピクシーがアルの背中より出てきた。

「アルぅ」
「シェシェイ、手出し無用の約束だよ」

首の血管ぴったりについた小刀を動かさずに言う。目だけが動いてイーザーの後ろを確認した。

「キャロル。そこにいることは知っている。動かないで」

刃は鋭く、転がった角灯の明かりを静かに映す。

「キャロルの投石術については知っているよ。手を開いて降ろして。少しでも動いたら切り刻む。私は風使いだ、ミサスみたいに言葉はいらないんだよ。一瞬の思念で風はうごめく。私を傷つけたらかまいたちを起こしてみせる。できるよ、キャロル」
「……はっ」

軽蔑しきったようにキャロルはうなった。垂れ下がった手からさいころが落ちる。くせのある髪が風でゆれた。

「キャロル、どうしてここに」
「天幕出たらすぐ2人が行ったのを見たのよ。気になってつけたらこのざま。どういうこと、アル」
「聞いたよね、キャロル」

アルは朗らかだった。こんな時なのにいつも通り。俺は寒気を覚えた。

「フォロー千年王国ラディーン陛下はイーザーの旅に深い考えを持っている、少なくともこのまま勝手にさせておけないってね。連れ帰るよう言われた。なにがなんでも、多少暴力的でも」
「嘘だ」

イーザーの声はうらっつらを滑った。

「嘘じゃない。ラディーンはもうイーザーたちに任せる範囲を超えたと判断した。ここから先は国家の番だよ。戦争だ。イーザーはおとなしく帰って」
「冗談だろ!」
「冗談じゃない。私は第一の使い、風使いだから速く動けるし友だちだから油断するだろうって。だめだよイーザー、危機感が足りない。なんで信じたのさ。人がいいにもほどがある」

アルは冷静だった。すぐ上を飛んでいるシェシェイの方がまだ動揺しているくらいだ。

「だから言ったのに。あんなに言ったのに。

この先には危険がある、この旅路は苦しいってあんなにあんなに言ったのに。イーザーもアキトも聞かなかったね。私はあんなに警告したのに」

グラディアーナについて教わった時、イーザーの交霊をのぞきに行った時、いつもアルは別れる前に警告した。苦しみと悲しみの未来について伝えた。でも、まさか。

「なんでだ」

力なく頭を振る。イーザーはよろめき、今にも膝をつきそうだ。

「俺たち友だちだろ、昔は苦しい時でも死にそうな時でも一緒に乗り越えただろ。なんでだ」
「さすがの風使いさまも自国の王には逆らえないってことね」

キャロルは皮肉たっぷりにあざ笑う。馬鹿にしながらも隙を狙っていた。アルもまた魂胆は十分分かっているようで、ほんの一呼吸で俺を絶命させる刃をそらさない。

「友情と愛国心の狭間で辛いことね」
「愛国心? 友情?」

聞きなれない言葉を聞いたかのようにアルは鼻で笑った。シェシェイは困り果てたようになにもできない。

「違う。全然違う。なにも分かっていないよ。

なんで分からないの、どうして見えないの、この力、溢れる奔流。アキトを核として渦巻く、すさまじい精霊の力を!」

予想外のところから殴られたようにキャロルは目を開く。

「私にはもうひとつ仕事があった。手紙が正しいのか確かめること。イーザーは嘘をついていないか、ついていないとしたらイーザーの頭がどうかして、あることないこと書いたのではないかを確認すること。

一目で分かった。不器用イーザーは嘘をついていない。みんな本当だった。アキトを中心に力が渦を巻いているのが見える。隠されているとはいえ探すものが分かっているものなら分かる。精霊使いたちを押しつぶし、竜と世界をも揺り動かす膨大な流れを」

ふと弱々しく微笑んだ。風で小枝が転がり外衣が翻る。

「精霊使いには本能がある。普通の人には見えない力を操り自分のものにすることへの代償がある。本当なら触れない力を持つゆえの衝動。蛾が火に飛びこむのと同じようにあまりに強大な力に触れると関わらずにはいられなくなる。入って飛びこんで巻きこまれて押しつぶされる。でも押しつぶされてもいい、どんな形であれ行かずにいられない。友情とか愛国心とか、関わったら命に関わるという生存本能を押しのけて。

今ウィロウはいないでしょう、今同行している人たちに精霊使いはいないでしょう。なんでだと思う。偶然じゃないよ。アキトの旅に精霊使いは同行できないんだよ、力に引きずられて破滅するから! 狂ったような意思に逆らえず、自分から消滅してしまう!」

精霊使いは一緒に行けない。引きずられて破滅するから。

そうだよ、アキト。アルはうなずいた。

「危ないっていうのは私自身のことも言っていた。その時は気づかなかったけど、今なら分かる。近寄ったら引きずられる、関わったら滅ぼされる。分かっていたけど行かずにはいられなかった。イーザーとの友情やラディーンの命令を飛び越えて、たとえ敵対という方法でも手を出さずにはいられなかった」
「アル」
「シェシェイは黙っていて。だれにもどうにもできないことなんだから」

精霊使いの衝動。本能と同じくらい強い情熱。シェシェイの制止を振りきって、うなされたようにアルは叫ぶ。

「私についてきて! アキトはフォローに連れ帰る、王城にきてもらう。逆らったら遠慮はしない。交渉もしない。黙って従ってもらう!」
「だめだ、アル」

俺はアルの手をつかみ、わざと自分へと引いた。俺の首へじゃないぞ、地面へと向ける。柔らかそうな大地に少し刺さり、石に当たったのか跳ね返って転がる。俺は力をこめて跳ね起き、手首を地面へ押しつけたままアルの上へと体勢逆転させた。

「えっ?」

なにが起こったのか分からないようにアルは呆ける。風が警告通り刃と化すが、アル自身が動揺したせいか肌をかすめ薄く切るだけに終わった。

「だったらなおさら巻きこめない。ラディーンの元に帰れ。俺たちは帰らない、そう言ってくれ」
「アキト?」
「うっそぉ」

シェシェイが思わずつぶやく。

「あのアキトが、アルを押しのけちゃうなんて」

悪かったなシェシェイ。アル自身も俺に対しては油断していたし、それくらいはできるって。

「イーザーがさっき言っただろう。クララレシュウムは言っていた。大軍を率いて行くこともできるけどそれだと犠牲が多すぎるからやらないって。俺もだ」
「アキト、信じているの。信じるの? 精霊使いでもない異界人が、雷竜についてを信じるの?」
「半々だ。今でも完全に信じていない。本当のことなのかごまかしが混ざっているのか判断しきれない。夢みたいだと思っている。でも」

でも俺は頭をつかんで見せられた光景はまだ覚えている。黒く荒れた大地、たくさんの人の死。

実際に体験して見たものははっきり覚えている。今まで体験したこと、潜り抜けた危険。廃墟と化した街並み、脅威から必死に逃げた街道。荒れ狂う炎。

巻きこめない。巻きこみたくない。俺はウィロウを、響さんを繰り返したくない。

「アルが自分の意思に反して動かされているのだったらなおさらだ。アルは関わるな」
「アキト、意味が分かっているの? 今アキトがやっていることはフォロー王家に敵対するということだよ。国ごと敵に回すんだよ。今まで援助されて助けてもらっていたけど、次からは追われるんだよ。怖くないの?」
「怖いよ。すっごく怖い。今俺がどんなに恐れているか、アルにはきっと分からない」

もう敵はラスティアだけではない。フォロー王国が、下手をすればありとあらゆる国家が俺たちの前に立ちふさがる。俺たちを殺そうとまではしなくても捕まえて足止めになる。邪魔になる。その邪魔による遅刻がどう影響するのか想像することもできない。ラスティアが俺とグラディアーナを会わせないためだけにマドリーム王家を抱きかかえた。そのことを思い出すに、なにがなんでも俺たちは邪魔される訳にはいかない。

「怖いけど、言われるままになる訳にもいかないんだ。やらなくちゃいけないことがあるし、守らなくちゃいけないことがある」

俺は手を緩めて立ち上がる。すかさずキャロルが俺を守るように隣へと走る。アルは上半身を起こすも敵意は感じられない。シェシェイがアルの肩に座る。「アル、負けだよ。完敗だよ」そっとささやいた。

「さよならアル。俺たちは行く。家に帰ってなかったことにして暮らせ」
「アキト、本気なの!? フォロー王国とアットくんを敵に回してもいいの?」

うつむいて動けないイーザーの腕をつかむ。力づくで引っぱった。

「アットによろしく伝えてくれ。すまなかったって」
「アキト!」

俺は振り返らなかった。うつむいたまま「キャロル」呼び止める。

「すぐみんなを集めて出発しよう。大学の人たちには悪いけど黙って。ここにはいられない」
「そうね」

キャロルは力強くうなずいた。


夜だったのが幸いした。俺たちはだれにも気づかれることなく逃げ出すことができた。夜を徹して走り続け、曇り空が明るくなり昼になったところで力尽きたように一休みをした、

「せめて火をつけるわね。お茶を飲もう」
「で、細かいことを説明していただけますね。いきなり行くと言われましたが、なにがあったのですか」

グラディアーナが疲れたようにぼやく。黄色の毛むくじゃらな顔には疲労がたまっていた。

「簡単に説明したでしょう。フォロー王国の使者としてアル・グラッセがきたのよ。刺客として」
「それは聞きました。昔私と会ったことがある人間の子ですね」
「そっ。アティリス殿下とイーザーの友だち」

キャロルがその時蚊帳の外だった人々と話をしている間、俺はそっとイーザーへと向かった。

イーザーは黒雲を背負っていた。座りこんでうつむいている。顔は見えないけど曲がった背中からして明るい気分ではないだろう。

「イーザー」

イーザーとアルは冒険仲間だった。長い間一緒にいて、友人として悪友として、頼りになる仲間として信用し信頼しあっていた。それが今や敵となってる。しかも他ならぬアル自身の意思によって。さぞがっかりしているだろうしどれだけ落ちこんでいるのか見当もつかない。

「えっと」

なぐさめたいがなんて言えばいいのか分からない。声をかけたのはいいがこの先どうしよう。俺は困った。

「あのな」
「アキト、すまん」

両手で頭を抱え、うめくような声だった。なにを言いたいのか分からない。

「イーザー?」
「俺、ヒビキのことでずっとひどいことしていたな。ちょっと考えればどんな気分でいたのか想像できたのに全然やらなかった。すまない」

目には苦悩が色濃く、たった半日で5歳は年を取ったようだった。言われただけなのに殴られたような気がしてへたりこみそうになる。

「俺はなにも考えなかった。なんでああまで打ちひしがれるのか本当に分かっていなかった。俺は馬鹿だ」
「イーザー、思いこむなよ」

響さんとアルの状況は結構違うと思うぞ。まだかさぶたさえできていない傷にひるみつつも反論しようとする。

「アルはああいう奴だ」
「え?」
「日本のヒビキがどういう人物だったのかは知らないけど、アルは俺に刃を向けられる人物だ。変になった訳じゃない」
「どういうことだ?」

落ちこみすぎて錯乱したのかと思った。横に座る。落ちこみきった表情のままイーザーは話を続ける。

「アルは優秀な風の精霊使いだ。あの年でそうってことは優れた技術を持つという訳じゃない。本質的な能力を元々持っているということだ。つまりより人らしさから離れ精霊使いとしての性質を持つことになる。

精霊使いは俺みたいな普通の人が絶対に真似できないことをなんの努力をせずに行える。アルが風を操ったり、ギンコが炎を操ったりといったように。その半面、心の一部が変質している。力が強いほどその割合が強い。アルもきっとそうだ。アルは強力な宿命に引きずりこまれた。きっともう戻れないし、また俺たちの前に出てくる」

「イーザー」
「それ以前に元々アルは、そういうところがあるからな」

少し浮上した。怒ったように口をへん曲げる。

「精霊使いだから以前にそういう性格だ。アルには敵であることと友達であることは矛盾していないんだ。戦った敵でも親しみを持つしいいところがあればほめる。なぜか分からないけどその2つは成立しうるらしい。あいつ、きっと俺よりは苦しんでいないぞ」
「それは変わっているな」

どういう精神をしているのだろう。イーザーを見る限り嘘じゃないみたいだけど。

「考えていると、俺ひとりで悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた」

頭を振って立ち上がった。

「アルに遠慮するなよ、アキト。俺のことは気にするな。アルは風使いだ、甘く見ると負ける、どこからくるのか予想しにくい」
「それは知っている」

なにせ殺されかけた。逆転できたのはアルの注意がキャロルへと向いていたからだ。同じ手は使えないだろう。考えていたわずかな時間にイーザーは歩いていってしまった。

「あ。イーザー」

追いかけようとして踏みとどまる。なんだか俺との話を拒んでいるかのように見えた。

今の会話で少しは気が晴れたのであればいいけど。あまり期待はしなかった。


夢を見た。

その場所は霧が深かった。足の爪さえ見えないほど。俺は奇妙な焦りを抱えながら歩く。周りの風景はほぼ見えず、海の中を歩いている気がした。

霧と同じくらいぼんやりした意識の中で考える。ここはどこだ。イーザーたちはどこへ行ったんだ。俺はどこに行こうとしているのだろう。考えはまとまらず次々に細々とどこかへ消えてしまう。

すぐ後にだれかの息づかいを感じて止まる。振り返ってもなにも見えない。走っているらしい足音が聞こえた。

「危ない。こんなに霧が深いのに、転ぶぞ」

思わずつぶやいたが止まる気配はない。

おかしいな。俺はとまっていて相手は走っている。息が聞こえるほど近いはずなのに、どんなに待ってもその人はこない。追いつかれないはずはないのに。

「おおい」

気になって後へ一歩進む。踏みこんだ右足から霧が晴れ、砕けた岩地が広がる。荒涼としたその先に足場はなかった。

「えっ?」

落ちる! 手を振ってなんとか戻ろうとするも、傾いた重心は簡単には戻らない。

「……!」

だれかが叫ぶ、俺を呼んでいる。

「戻るべきではなかったのです」

覆い重なるようにささやかれた。俺のすぐ横、ほんの耳元で。

「振り返ってはいけなかったのですよ」
「なっ」

姿を見る前に俺は踏みはずし落下して、ようやく目がさめた。

「……あ」

見えるのは深緑の天幕、いい加減寒いので下にも上にも持っている限りの毛布と服をしいてしのいでいる。大して広くはない天幕でつめて寝ていたのだが、今は俺しかいなかった。みんな起きたみたいだ。

「夢」

分かっていてもなかなか起き上がれなかった。一晩中起きていたかのように頭が重い。

「ひどい夢だ」

立ち上がろうとするとよろめいた。まだ感覚が戻りきっていない。

外は雲ひとつないいい天気だった。風は冷たく気温は低い。天幕の近くに簡単なかまどが設置され、ザリが大鍋でおかゆを作っていた。機嫌がよさそうに干し肉を切り、おかゆに塩漬けの黒い果物を入れてかき混ぜる。少しでも十分な酸味と塩っ辛さを持つその果物は梅干とよく似ている。

「おはようアキト。ひどい顔よ、洗ってきなさい」
「グラディアーナは?」
「キャロルと一緒に偵察に行ったわ。もうすぐ朝ご飯ができるわよ」

残ったものたちでまず天幕をたたみ荷物をまとめる。それからご飯にありついた。

食事の当番は特に決まっていない。みんなそれなりにうまく料理をする。それでも一番おいしく手慣れているというのでザリが包丁を握ることが多い。逆に少ないのが俺。理由は分かりきっている。ここにくるまで野外の料理はもちろん、ろくに食事を作ったことがなければ外で生活したこともないからだ。もうとっくに慣れたと主張しているのにまだ疑われている。

「粥ですか」

グラディアーナが帰り、ずいぶん少なくなった大鍋を見てどことなく批判する。嫌いなのか?

「贅沢言わないの」
「ザリ。すぐに片付けて。野宿の痕跡を消して出発するわよ。まちぶせされているわ」

全員の顔が険しくなった。

「相手は?」
「ざっと20人くらい」
「帝国兵か?」
「そんな感はなかったわ。身なりはいいけれど武器もばらばらだったし、お抱えの私兵に見えた」
「俺たちが目的なのかな」
「分からないけど、分かってからじゃ遅いと思うわ」

正しかった。かまどを崩し火の上に土をかぶせる。

「あの天幕に掲げられていた紋様どこかで見た覚えがあります。なんでしたっけ」
「グラディアーナ、それより早く」
「街道を外れて行こう。見つかりたくない」
「見つかってもなんとか気づかれずに済ませたいわね」

重い天幕を馬の背に乗せてふとキャロルを向くと、なにか思わせぶりに見渡していた。

「グラディアーナ、頭数を減らした方がいいと思わない?」
「了解」
「なんだ、なにをする気だ」

不安になる。密偵のキャロルに嘘つきのグラディアーナが意気投合するなんて怖い。

「大したことじゃないわ。伊達に獣人ではないということよ」

言うが早いか2人は姿をぼやけさせた。何十にも揺れる輪郭は小さくなり、たちまち一匹のねずみと猫がいた。

「そっか」

イーザーが感心したようにキャロルを拾い荷物のてっぺんに乗せる。俺も茶色というより明るすぎて黄色に見える猫を担ぎ上げる。小さな呟きを聞いて振り返ると、さっきまでミサスがいたところにカラスよりも大きな鳥がそ知らぬ顔で立っていた。同じことをした。

なあ。猫グラディアーナが身をよじって腕から逃げた。そのまま行ってしまう。

「どこ行くんだ、グラディアーナ」

にゃああん。思わせぶりに鳴き、金の瞳で見るとそれっきり行ってしまった。

「猫になるとしゃべれないんだな」
「獣人は変身すると普通はそうだよ。なにか考えがあるのかもしれないけど、わざわざ元に戻って説明する気はないんだろ。行こう」

道ではない道を行く。荷物は多いし、だれにも分からないように進まないといけない。いつまばらな林の向こうに武装した兵士が現れるのかとびくびくしながらも足を動かした。

昼を過ぎてしばらくすると、グラディアーナが戻ってきた。半獣の姿に戻ってはいるが、歩くのに音は立てず足跡もほとんどない。

「通り過ぎましたよ、もう大声を出しても平気です」
「そう言われても出せるか。なにをしていたんだ?」
「もう一回部隊を見ていました。思い出しましたよ。かかげていた紋章はエアーム帝国のものです」

血の気が引いた。キャロルはきぃと小さく鳴く。異議を唱えたみたいだ。

「ええ、でも帝国軍ではありません。紋に細かい違いがありました。皇位継承者の紋です」
「皇帝そのものじゃなくてその下? 確か継承者は何人か孫がいたよな、そのうちのだれかか?」
「盗み聞きしてきましたよ。詳しくは夜落ち着いてから話します」

街道に戻って宿を取ることはしなかった。なるべく目立たないように天幕を張った。雪はないけど寒い。くぼみを作り小さな火を起こして夕食を煮炊きする。貧しいご飯の後グラディアーナは約束通り話し始めた。

「現在エアーム帝国で直系の孫は5人、いずれも皇帝の一人息子と妃の子です。長男ヒューゴ、次男コーゼス、長女サーラ、三男ルーサー、次女ミラー。もう息子も妃もいないので、彼らのだれかが皇帝になるでしょう」

金の瞳を細め、思い出すようにゆっくりしゃべる。炎が照らされ眼差しの奥に複雑な色がゆらめいた。

「女の子も皇帝になれるのか」
「なれます、ですが末っ子のミラーは少し年が離れていて、まだ7つくらいです。今のところ候補と考えられていません。長男のヒューゴも問題がありましてね、彼は精霊使いの才能があるのです。精霊使いの力はすばらしいですが、代わりに理性が曇る」

イーザーがうつむいた。「おっと」きざっぽくお詫びをする。

「失礼。そういう訳で昔から皇位を継ぐとは期待されていませんでした。本人も分かっているようで、早いうちにどこぞの神殿に入ってしまいましたよ。実質的な皇位後継者は3人」
「グラディアーナ、俺はだれがエアームの次期皇帝になろうがそんなのどうでもいいよ。なんでそこから話すんだ」

イーザーは苛立ちを隠そうともしなかった。

「黙って最後まで聞きなさい。残った3人の孫ですが、3人ともそれなりに優秀でだれが皇帝になってもおかしくない。そうなると必然的に競い合うのですよ」
「仲は悪いのか?」
「いえ、仲はとてもいいですよ。まだ一度も殺しあっていません」

グラディアーナがふざけているのかと思ったが、「信じられない、仲良しね」キャロルが感心したのを見て黙ることにした。王家や皇族の考えることは分からない。

「次男コーゼスは武勇に優れた戦士で実際に戦場に立ち戦うそうです。長女サーラは容姿端麗慈悲深い、国民の人気は絶大です。女の身でありながら竜と心を通じ共に戦う竜騎士であり、名誉将軍です。

三男ルーサーは戦歴も容貌もぱっとしませんが智謀に長けています。知恵だけで他の兄姉と競い合っているのですから大したものですね」

「それはいいから」
「待ち伏せていたのはコーゼスの手のものでしたよ」

イーザーをなだめるように本題に入った。

「さて、反目しあっている3者のうちひとつが部隊を展開しているということは、残る2者も同じようにするでしょうね。さらにその上正規の兵士も動く可能性があります」
「計4つから狙われるということね」

キャロルがうんざりしたように結論した。

「フォローが全国へ警告する気なら巡り巡ってあたしたちはそれぞれの国家から探される。さらにあたしたちの目的地はエアームというのは分かっているし、昔からフォローとエアームは友好関係がある。真っ先にエアーム帝国へ連絡が行くでしょうし、皇位を目指して手柄を欲しがっている孫たちがわれ先にあたしたちを捕らえようとするでしょう。

捕まる訳にも権力抗争に利用される訳にもいかない。そうよね」

キャロルは断言した。「やることは変わらないわ。アザーオロム山脈まで逃げ隠れしながら進むのよ」

「人間の追っ手がかかることはアルがきた時から分かっていた。他の手はない。そうだな」
「正解よ、アキト。ちっ、分かっていたとはいえ、あの時アルを無傷で帰さなければ時間稼ぎにはな」
「キャロル!」

慌てて止めた。怖いことを考えるな。

「せめて孫の3人だけはなんとかならないかしらね。皇位への競争を利用してお互い潰し合いをさせるとか」
「邪魔しあうほどの馬鹿とは思えないけどね。試す価値はあるかも知れないけど危険だわ。あたしは賛成しない」
「エアーム帝国の人たちはどうしようもないのかな」
「手数は多くないですね。ですが幸い私たちは少人数です。今日のように人外が化けてしまえばたった3人の旅人にすぎません。ラスティアはともかく人間の追っ手の目はごまかせますよ」

グラディアーナは楽天的だったが俺は重い気分になった。目の前にいるたった6人と1頭だけでラスティアと帝国にまで立ち向かわないといけない。

「アキト」

悪い方向へ想像の羽根を広げかけた俺は、どん底に近いイーザーの声に我に返った。

「すまん。俺のせいだ」
「イーザー」
「アットもアルも、フォロー王国もエアーム帝国も悪くない。俺がそうせざるをしないようにした」

幽鬼のように立ち、天幕へと行ってしまう。「イーザー」俺より早くザリが追った。

「責任感って奴ですか」

グラディアーナが変な人を見る目で見送った。

「別に悪い悪くないはどうでもいいのですけど」
「ある意味ではイーザーの素敵な旧友が起こしたことといえなくもないけど、ま、必然でもあったわよね。今までさんざん助けてもらったのだし、なにも思っていないのだけど。でも気にするわよね、イーザーなら」
「なにかなぐさめられないかな」

とてもじっとしていられなかった。でもどうすればいいのか分からない。

「放っておきましょう。気持ちの問題だもの。納得できるかできないかに口をはさめないわよ」

突き放したようなキャロルの言葉に、もちろん不安は消せなかった。


人目を避けてこそこそ進むのがすごく大変だったとは言わない。今まで異界に覆われた街や生命の気配がない極地だって歩いてきたんだ。それに比べたら大したことはない。

グラディアーナはエアーム帝国の地理について万事に通じてはいなかったものの、基本的なことは抑えていた。毎朝念をいった偵察と鍛えられた危険を感知する直感で俺たちは捕まることなく道中を過ごした。

楽だったとも、全く問題がなかったとも言わない。朝夕は寒いし天幕は雨風を防ぐが宿のように快適とまではいかなかった。日々神経をすり減らし緊張するのはいいことではない。

ザリは結局イーザーをなぐさめきれなかった。アルがきた日からイーザーが笑うのを見たことはないし、なるべくいつも通りに振舞おうとする態度が透けて見え、なんだか痛々しかった。いつの間にか俺はイーザーを避けていた。

「鬱陶しいからやめて欲しいわよ」

キャロルは容赦がなかった。「道が厳しくてもとりあえず行くぞ! というところが数少ないイーザーの長所なのに」

「キャロル、言い過ぎ」

少しはイーザーに優しくしてやれよ。

「なあなあ、ところで俺がへこんでいた時もああだった?」
「もっとひどかったわよ。活を入れようとしたイーザーをとめたのはあたしだから、覚えておいてね」

恩を着せられた。

よく見る夢について専門家のグラディアーナに尋ねたら「ただの夢ですよ。なにも意味はありません」取り合ってさえくれなかった。

「絶対ただの夢じゃないぞ。深い理由があるはずだ」
「みんなそう言うんですよ。でも夢は夢です。寝ている間に勝手に見る想像です。アキト、あなたは日本で生まれ育ったのにそんなこと信じているのですか」
「日本では妖怪変化でしかない月瞳の一族が言うか」

グラディアーナは冷たかった。しょうがなく諦める。運のいいことにその日以降夢を見ることはなかった。

いくつかの問題をはらみながらも旅は順調に進み、とうとうエアーム帝国の首都まできた。


荷物で一杯の牛車を何台も引いた商人が行く。勇ましく武装した戦士たちが胸を張って歩く。どこかで見たことがある気がする半魚人と人間2人の旅人が掛け合い漫才をしながら進む。おおよそ考えられる限りありとあらゆる旅するものたちがその都市へと向かい、そして去っていく。

街は切り立った山に段々と広がっていた。一番厳しくて高いところに半分自然と同化した、しかしどれだけ手間と時間がかかったか想像もつかない巨大で立派な彫刻が施された城が見える。そこから扇状に大小さまざまな家々が並ぶ。広さはフォロゼスの倍はあった。

「大きいな。これ本当にカーリキリトの街か。今までで一番大きいぞ」
「ここがエアーム帝都、世界に名だたる西の竜……」

さすがのキャロルも呆然とする。

「大げさに帝国と名乗ってはいないということか。どうする。エアーム竜帝国が俺たちを追っている以上、帝都に入るのは危ないんだろう。避けるか」
「いや」

キャロルは立ち直ったように首を振った。

「せっかくだ、あたしとグラディアーナで行って最新の情報を仕入れてくる。帝国の動向に3人の皇位後継者、アザーオロム山脈に変わったことがないかもね」
「わたしも行っていい?」

ザリはうっとりしていた。目がきらめき、まるで夢を見ている少女のような目だった。はて、俺は前にもこんな顔を見たことがある気がする。どこでだろう。

「ザリ、帝都大学には行かないわよ」

キャロルが先回りした。ザリはうっと詰まる。俺はようやく思い出した。ずっと前イーザーがコロシアムを見たいと言い出した顔だった。

「専門家がたくさんいるのよ。神学者も魔道士も、召喚術士さえいるのよ。話を聞けば助けになるわ」
「絶対にだめ。あたしたちが欲しいのは今なにが起きているのかの即物的な情報よ。半年前のできごとを正確に解析したものはいらない」
「でも」
「却下却下」

きっぱり断られ、しぶしぶザリは諦めた。まだ未練がましく帝都を見上げる。

「今日中には戻るから、それまで待機していて」
「私は帝国の動向でも見ますか。キャロルはアザーオロム山脈をお願いします」
「いいけど、その前に人化して。地下道の一族は珍しくないけど月瞳の一族は珍しいわ。ただでさえ目立つ風貌なのだし」

グラディアーナは肩をすくめ、黙って従った。ほどなく片耳の半獣と人間になっても目を引く踊り子の青年は互いに見知らぬもの同士のように振舞って行ってしまう。

「わたしたちは待ちましょうか。お昼ご飯でも作りましょう。なにが食べたい?」

街道から外れたしげみの奥で、比較的開けている場所を宿営地として選んだ。木々に縄を張り天幕を組み立て、くぼみを掘ってかまどを作る。

「水をくんでくる。鍋借りるぞ」
「お願い」

イーザーが10人分のシチューを作れそうな大鍋を担ぎ「ミサスも手伝ってくれ」誘う。ミサスは大した感慨もなくうなずきついて行く。珍しい風景だ。

「アキト、終わったら焚きつけを探してきて。さて、なにが作れるかしらね。干し飯も干し肉もあるけどそろそろ違うものを作りたいわ。でも冬に果物がなっている訳はないし。香草を探そうかしら」

ザリは目の前の献立を作るのに夢中だった。俺は天幕を固定するために小さな釘を地面に打ちこもうとする。日常の、平和そのものの風景に俺はふと引っかかりを覚える。

そうだ、おかしい。イーザーがミサスに声をかける訳がない。

別にイーザーがミサスを嫌いとか避けているのではない。それじゃイーザーがただのひどい人だ。

イーザーは水くみの手伝いを頼んだ。でもミサスは非力だ。人間の基準からしたら極端に体格が小さい上外見相当の腕力しかない。役に立たないとまではいかないが、普通なら俺に声をかける。

なんでミサスなんだろう。ひょっとして水くみは口実で他の用があったのかもしれない。

なにをしようというんだ。まさかけんかじゃないだろうな。イーザーは血の気が多いし、ミサスも進んで殴り合いには出向かないが、時には人をいら立たせたり不快にさせる。もし不幸なすれ違いが起きていたらどうしよう。想像してぞっとした。イーザーは我を忘れてつかみかかるだろうし、ミサスも黙って殴られない。

思い切ってイーザーの後を追いかけてみよう。けんかなら止めないと。

跡をつけるのは楽だった。2人ともこそこそしているわけじゃない。折れた小枝や踏み潰された枯れ草をなぞればいいだけだった。

地面がぬかるみせせらぎが聞こえてきた。つま先が冷えるのを我慢して突っこむと景色が割れた。河辺の岩に寄りかかっていたイーザーが跳ね上がるように立つ。ミサスもそばにいた。

「アキト、なんだ、どうした」
「おかしくて跡をつけたんだ。イーザー、なにを考えているのか知らないけどけんかはやめろ」
「けんか?」

外国語を聞いたかのように眉をひそめた。

「なに言っているんだ。殴り合いたくて呼び出したんじゃないぞ」
「じゃあなんで一緒に行ったんだ。俺たちにごまかして」
「それは」

ミサスは黙って俺の横をすり抜けた。帰ろうとする。

「ミサス、待て、いい。アキトにも聞いてもらう」

かすかに表情を変え足をとめる。イーザーはどことなく憂鬱そうにもたれかかった。

「ミサスに相談したいことがあったから呼び出したんだ。アキト、クラシュムの地下遺跡のことを覚えているか」
「忘れる訳ないだろ」

マドリームの兵から逃げグラディアーナと会った。それから声の本当の姿、雷竜神クララレシュウムにも。

「あの時俺は雷竜神と一対一で向かい合い話した。ラスティアの正体だとか旅の目的だとか。その中でこう言われた。お前だけがラスティアを殺せる、だが見返りに友も殺すことになる」

体温が下がった。喉元を氷の手でつかまれたような気がして一歩下がる。洞窟で見せたイーザーのよそよそしさがやっと分かった。

「なんだ、それ」
「分からないよ、さっぱり分からない。でも雷竜神は未来を予測するんだろう。予言じゃなくて予測。それに従って俺たちは行動してきた。だからきっとこれも正しいはずだ。

でも、なんでだ? どうしてラスティを殺すのと俺がだれかを殺すのが結びつくんだ? どうしてそうなるんだ?」

きっと今までさんざん悩み、まだ答えは出ていないのだろう。イーザーは顔を歪めた。

「そしてだれを殺すことになるんだ? アキトか、ザリか? キャロルかもしれない。キャロルは腕が立つしいつだって油断しないけど、純粋な戦いになったら俺のほうが上だ。ミサスかもしれない。そりゃミサスと正面から戦って勝つ気は到底しないだろうけど、体力だけで見ればミサスは一番か弱い。一太刀でどうにかなってしまう」

それとも、とつぶやく。ぞっとする響きを持っていた。

「アルかもしれない。すごくありそうだ。アルが諦めるはずはない。きっとまた俺の前に出てくる。アルを倒さないとラスティアの元へ行けないとなったら」
「イーザーはそんなことをしない」

思わず口をはさんだ。

「イーザーのことはよく知っている。お前はそんなことはしない。友だちを殺す訳がない、絶対に」
「過信しないほうがいいぜ。俺のけんかっ早さは知っているだろう。もののはずみがあるかもしれない」
「う」

その通りだった。片や剣を常に持つ剣士、片や風を自在に操る能力者。どちらもそんなに冷静ではないし、いざという時どう転ぶか分からない。

「いや待て穴があるぞ。だって俺がラスティアを倒すんだ。直接手を下さないイーザーが殺したらどうとかいう話は変だ」
「いやそれは」

イーザーはぎくりとした。

「俺が一番ラスティアへの恨みはあるし、クララレシュウムにとり憑かれているのは俺だ。俺は戦う意思がある。ラスティアを殺すのが俺なら問題ないだろ?」

なんて明確な理屈だろう。一部の隙もない。それなのに急にイーザーの目が泳いだ。どうした、挙動不審だぞ。

「心配はない」

ミサスが静かに告げた。まるで審判を下す裁判官のような慎重で落ち着いた口調だった。

「どうしてだ」
「理由は言わない。言えばよけいな先入観を与えて行動の邪魔になる。だが意味は分かった。イーザーにとって最悪のことにはならない」

言いたいことだけ言い理解しきれない俺たちを見捨てて宿営地へと歩いてしまった。手にはなにも持っていない。水くみはいいのか。

「ちょっと待て、全然分からないぞ。第一最悪にはならないって幅が広すぎる」

イーザーは真面目に大きな鍋を引きずりながら追いかける。俺は追わなかった。川面を眺めながら意味を考える。

意味は分かったってどういうことだろう。最悪にはならないと言われてもイーザーの言う通り幅が広すぎてちっとも安心できない。

言えばかえって邪魔になる。それはつまり、聞いたら予測した将来が変わる―きっと悪い方に―のだろう。でもこれ以上悪く? 今の時点でさえ縁起でもないのに。

だれが犠牲になるんだ。俺はひとりひとりの顔を浮かべる。キャロル? なんだかありえそうにないな。はしっこいキャロルはイーザーの手に負えないだろう。ミサスならどうだ。体力は皆無だけど、でもミサスはキャロル以上に隙がない。ザリ。ザリは戦うことはしない。しかし今まで数々の危険を、それこそ俺以上に単身で乗り越えてきたザリがそう簡単に殺されるだろうか。グラディアーナはキャロルと同じ理由でなし。

「やっぱり俺みたいな気がしてきた」

諦めのため息をついた。俺は強くない。灰竜と戦えるイーザーに勝てるとは思えない。隙だらけだし。イーザーに刺されて人生が終わるなんてぴんとこないが、案外人の最期なんてそんなものだろう。

「犠牲か」

ふとウィロウを思い出した。まさしくウィロウは俺たちのために進んで犠牲になった。自分から進んで、俺をかばって黒の道士を封じた。俺もウィロウのようになるのだろうか。優しいウィロウのようになれるのだろうか。

「無理だ」

死ぬのは怖いし苦しい。俺はここまできても、いやここまできた以上なおさら進んで死にたくはない。例えラスティアを殺すのに必要と分かっていてもだ。とっさに逃げるだろう。

「聞かなきゃよかった」

なんだかイーザーが怖くなった。イーザーがだれかを殺すのならば、そしてそのだれかが俺になりそうならそばにいたくない。イーザーが黙っているはずだ。聞けばみんな同じことを考えるぞ。

ミサスの相談したのは正しい判断だ。ミサスなら口の堅さは永久保障ものだし感情に流されてイーザーから離れたりもしないだろう。放っておけば必要なことも話さないのが欠点だが、それを踏まえてもイーザーの考えは正しい。

「いやでも、やっぱり俺がラスティアを倒せばいい話だ」

前提条件がおかしい。初めから俺ががんばればいい。俺にはラスティアへの恨みつらみは十分にあるし、ラスティアだってイーザーより俺を殺したがっている。イーザーだってそのことを知っているはずなのに、なんだか変な顔をされた。無理だと思われているのか? 気持ちは分からなくもないがちょっとひどいぞ。

しげみが揺れてだれかが出てきた。小さくて黒い。

「ミサス、どうした?」

気楽に顔を上げると、ミサスではない人物がいた。

きちんと確かめずに声をかけた俺が悪いのかもしれないが、その人はぱっと見るにミサスの特徴をかねそなえていた。小柄で髪も目も服さえも黒い。背中からは羽根が生えている。

ここまでは同じなのに明らかにミサスではなかった。まず女の子で、しかも子どもだった。ミサスは小さいがけして子どもではない。顔立ちといい体つきといい明らかに大人だ。まず間違えられることはない。こっちは明らかに子ども子どもした顔つきだった。羽根は鳥ではなくこうもりの羽で、巨大な麻袋を引きずっている。黒翼族の魔道士とは全くの別人だった。女の子は思わず見つめる俺を怖がるでもなく、特に感慨もなく近寄ってくる。

「近所の子か? こんなところでなにやっているんだ」

迷子かな。それにしては堂々としている。服から見るに地元の農民とも思えない。結構上等そうな服だし。

女の子は俺の前まできて、俺の腹を肘で打った。

「!」

ミサスより小さい子だったのに大男に体当たりされたかのようだった。声も出せず力が抜けて崩れる。胃液か血だか分からない熱いものが逆流し、吐いた。

女の子は俺の首根っこをつかみ、軽々と麻袋へと詰め口を結んだ。俺は痛みと苦しみでもだえるのが精一杯で抵抗はおろか声も出せない。

俺をものかなにかだとおもっているのか無造作に引きずって運ばれる。おぼろげな意識の中、やっと俺は誘拐されているのに気がついた。