しばらくはだれも動けなかった。イーザーは剣を投げ出し手を肘について息をつき、俺は気が抜けてなにもできなかった。
ようやくキャロルがいつでも逃げ出せるへっぴり腰でグラディアーナへ寄り、足で突く。グラディアーナは目をさまさずうなり続けている。
「いつまでも狂暴である訳、ないわね」自分を奮い立たせるようにつぶやき、しゃがみこんで「起きなさい!」頬を往復でひっぱたいた。毛に吸収されて音はしなかったけど痛みはあったようで、跳ね起きるように目が見開かれる。ぼんやり周囲を一周してからあたたたたと額を押さえた。
「殴るなんてひどいじゃないですか。ああ、私の完璧な身体に傷がついた」「お前が襲うからだろう!」
反射的に切り返し、ようやく苦しい笑いを浮かべる。
「魔法をかけられたんですよ、しょうがないじゃないですか。解けたので安心してください。ミサスとも会えましたし、結果的にはよしですね」全く反省していない。悔い改めたらもう起こらないという問題じゃないけれども、もう少し自分を責めてはどうだろうか。
「ミサス、ザリはどこ?」「置いていった」
おい。
「えっとね、今ザリはどこにいる?」「グルドの農園」
「そこに潜んでいたのね。ミサス、案内して。細かい話は後で聞くわ」
キャロルは手を2回叩いた。
「はい、立って立って。黒海探して荷物まとめて、農園まで行くわよ」荷物をまとめるのに時間はかからなかった。逃げた黒海も自主的に戻ってきたのを見つけた。意外なほど手早く支度をして、明け方を待って出発した。寝ていないけどすっかり目が冴えて横になる気がしなかった。
ミサスは天幕市を逃げてからをさんざんせっついてようやく聞くことができた。市から離れたその農園に身を隠していたそうだ。手配書はまだ回っていなかったが用心をして、ザリは外見を変えミサスは夜鳴鳥になっていた。
「どうやって俺たちより先にきたんだ? てっきり後からくるかと思ったのに」2人がかりで黒海を引きずりながら、汗をふきつつイーザーは聞く。黒海に乗れたイーザーは調子よくまた乗ろうとしたが、すげなく振り落とされて恥をかいた。そううまくは行かないらしい。
「影を行った。ザリに聞け」どう考えても魔法使いではないザリがミサス以上に話してくれるはずはなかったが、それきり黙られてしまったので諦める。久しぶりだってのにちっとも変わらないな。
馬車のわだち残る道を行くとすぐ林から抜け、雪に埋もれた耕作地へ出た。畑に囲まれるようにしてはるか遠くに大きな家が見える。50人はゆったり住めそうな家はすぐ横にさらに大きい家畜小屋を持っていた。庭には観賞用の樹木は一本もなく、いかにも農作業に便利なように平たく整備されていた。
朝早すぎるせいか、それとも冬は面倒を見る作物もないからか。灰色の空は人ひとりいず、動いているのは俺たちだけだった。
「あそこか」「見て、人が出てきた」
目ざといキャロルが言う通り、庭に面した小さな扉から黒髪の男が飛び出してきた。なんだか慌てているようで、苔色の寝巻きのままだった。走り出そうとして周りを見、俺と目が合った。男は俺たちへ向かって走りよってきた。
「あ? なんだろう」思わず逃げようとする俺のすそをキャロルがつかむ。
「アキト、あれザリよ」「ええ?」
なにを言っているんだ。俺は男へ目を見張る。眼鏡はない。羽根つき帽子も赤い上着もない。髪は黒で短く刈っている。……それ以外、例えば顔の造りとか体格は紛れもなくザリ・クロロロッドだった。背が高くて男と間違えた。
「嘘だろ」「ミサス!」
雪で足を取られているにしては驚異的な速さでミサスにつかみかかろうとし、すげなく避けられて転ぶ。手をつき顔を上げて俺たちを見る。しばらく動かないと思ったら、急に目がうるんだ。
「アキト! よかった、無事だったのね」「ザリの方も、色々あったみたいだな」
感動の再会なのだけど、俺はあまりの変貌ぶりに驚きすぎてひたっている余裕がなかった。変わりにそ知らぬ顔のミサスへ向く。
「ミサス、またなにも言わずに出て行っただろう」寝巻きで飛び出すほどの慌てぶり、今の時間から考えてそうとしか思えない。ザリも目端をぬぐってうなずく。
「起きたら夜鳴鳥に変身したままのミサスがいなかったわ。置手紙ひとつなかったのよ」ミサスはそういう人だった。
「なにがあったのか、後でよく聞かせてもらうわよ。とりあえず中へ、外は寒いし怪我の手当てもしないと」視線はイーザーとグラディアーナを交互していた。派手な傷だもんな。
「あたしたちのこと、ここの人になんて説明する?」「わたしは旅の薬草研究者で、仲間とはぐれていることになっているわ。主のグルドさんは親切な方よ。まず挨拶をして、それからゆっくり話しましょう」
グルドさんは背が高くやせた男だった。確かに親切な人で、俺たちを疑いもせず歓迎し、山賊にやられたと嘘をついた傷を心配した。
彼の態度にはここでのザリの評価も一役買っているのだろ。会話の端々から察するにザリは医者まがいの働きをし、病気の馬への治療をしたり腰痛に効く薬草について教えたりしているようだった。おかげで正体不明の居候のくせにすっかり農園にとけこんでいた。
「それで、どこで怪我をしたの」傷の治療と内々の内緒話のため牛小屋を貸しきり、黒海を最後に扉を閉めてから問い直した。黒海の首をさすり「あまり世話をしてくれなかったのね」と恨みがましい。言い訳がましいけど見よう見まねだったのだから大目に見てくれないかな。
「昨日、天幕市のごろつきに襲われて」「イーザーの肩は刃物の傷ではないわよ」
一目で見破られた。
「ごろつきの延長戦で、大型肉食獣の爪にやられた」「相手が飼っていたの?」
「今から詳しく言う」
治療道具を取り出し、器具を用意している間にイーザーは地竜の谷に閉じこめられ、天幕市を通り過ぎて懸賞金狙いで戦いがあり、はずみでグラディアーナが変身して死ぬかと思ったことまで話した。ザリはうなずきながらイーザーを注意深く観察し、傷を洗って薬を塗り布を巻いた。「次」とグラディアーナの額を見る。
「跡が残らないようにしてくださいよ。あなたは眼鏡がなくても見えるのですか?」「見えにくいけど、眼鏡をかけていたら目立つものね」
「髪は」
「染粉で黒くしたの。天幕市で切られた分を整えたら短くなったけど、ちょうどよかったわ」
変身の理由をこともなく言い、ザリは小刀を取り出してグラディアーナの額の毛をつかみ刈ろうとした。
「うわっ!」グラディアーナが大げさにのけぞり逃げる。ザリは目を丸くした。
「わたし、肉も切った?」「切ってません、切ってませんがそう簡単に刈らないでくださいよ。額に毛のない猫がどんなに滑稽か想像してください」
猛烈な抗議に、ザリは外国語を聞いたような顔になった。
「切らないと、薬が塗れないわよ?」「切らないようにしてください」
「無理よ。体毛は治療の上では邪魔でしかないの。除去しないと。そこから新しい病気になっても知らないわよ」
「ザリは毛が生えていないから分からないのですよ。私は踊り手なんです、人形と踊り子は外見が命なのですよ」
「人間だって頭に裂傷をこしらえたら髪を剃るのよ。わがまま言わないの、治らないわよ」
「嫌です、絶対に嫌です」
いい年した大人がなにかみ合わない会話を繰り広げているのだろう。腕力ではザリのほうが上らしく、取り押さえて小刀を振りかざした。
「グラディアーナが人間に変身してから薬を塗ったらどうだ?」なにげない俺の一言に「あ」そろって声を上げる。
「その手がありましたか。そうしましょうそうしましょう」「人間の時に塗ったものは獣人に戻るとどうなるのかしら」
「そのままですよ、消えやしません。今変身しますから」
すかさず魔手から逃げるグラディアーナに、ザリは今ひとつ納得しないようだった。
「それで、ザリの方はなにがあったんだ。ミサスに聞いても答えてくれなかったんだけど」気を取り直して聞くイーザーに「ええ」ザリは落ち着いていた。
「少し長い話になるのだけど」ザリの体験したことは、とても少しなんて呼べないほどの濃さだった。
互いになにがあったか知った後、いい加減疲労困憊している俺たちは小屋の隅に毛布を敷き仮眠を取った。グルドに説明とお別れの挨拶をすると言ったザリを除いて、夢も見ないでぐっすり休んだ。
休んだといきたかったが、俺だけ眠れなかった。夢うつつにはなれるのだがその先がよくない。ぼんやりするといつの間にかだれかの気配を感じる。どうしても思い出せないだれかの足音、息づかい、そういったものをまるで目の前にいるように聞こえてきて、不安とあせりではね起きる。何回か同じことをした後、俺は観念して立ち上がった。気分を変えるためその辺を歩こう。他のみんなは泥のように寝こけていた。
「うぐっ」寝ぼけていたのか雑魚寝していたイーザーの太ももを踏んだ。まだ片足を夢に突っこんだ目で「なにするんだ」抗議する。
「あ、悪い。どうしても眠れないから、どこかに行こうと思って」今度は気をつけてつま先歩きをする。
「待てよ、俺も行く」「寝なくていいのか」
「今さめた」
不機嫌そうに髪をなでつけながらも起き上がる。踏んだ弱みで俺はそれ以上言うのを控えた。
外は静かだった。空はいつの間にかまたいつ雪が降ってもおかしくない曇天で、じっとしていられないほど寒い。昼なのに庭に出ている人間は俺たちだけだった。半分扉が開いた納屋にくわやすき、台車などの農耕道具が整理されて置かれているのが見える。
「あ」イーザーがひときわ大きな息を吐いた。息が白い。
「どうした」「あれ」
納屋の向こうだった。俺の位置からは見えなかったが反対側にも庭があって建物の細い隙間から向こうの様子が見える。若い女の人数人に向かってザリがなにか話している。と、物陰から子ども2人が飛び出しザリのスカートへしがみついた。驚いたザリは苦笑いをして、しゃがんで子どもへ目線を合わせて語りかける。「行こう」イーザーは俺の裾を引いた。
「あれ、お別れの挨拶かな」「そうだろ」
踏み固められた雪をのんびり歩きながら俺はぼんやりした。
「アキト、今なにを考えている?」「ああ、こういう道もあったんだなって」
ばしゃり。元は白かったスニーカーに泥が跳ねる。さんざん酷使してはき続けたスニーカーは今は黒くなり水がしみる。日本だったらとっくに捨てているスニーカーを俺はいまだにはいている。
「こういう、追われたり戦ったりとは無縁のところで、いい人たちに囲まれて生活する道もあるのに。ザリも、他のみんなもついてきてくれるんだな。そう考えるとなんだか申し訳なくて」「きたのはザリだぞ。初めから分かっていて、ザリはミサスについて行ったんだ」
「ここまで大げさな話になるとは思っていなかっただろうさ」
ふと思う、ここでこっそりザリだけ置いていったらどうだろうと。
即却下した。ザリのことだ、黒海にまたがりその日のうちに追いつかれる。その後どう怒られるかは怖くて想像ができなかった。
「アキトだってああなったのかもな」俺は意味が分からず、イーザーの顔を見返した。
「初めて会った時を覚えているか? 俺はアキトを連れ出して放浪に追いたてた」「ああ、もちろん覚えている」
あの時からイーザーはいい奴だった。俺には真似できない。
「あそこで俺は、アキトをフォロゼスにいるアットに預けて調べてもらうこともできたんだ。むしろそっちの方がよかったはずだ。アットの方が資料も人も金もある。俺が連れ歩くよりアットが調べた方が、アキトにとって好都合だった」「いや、アットでも無理だろう」
「それは結果論だよ。あの時俺はそのことを思いつかなかったんだ」
わずか一年もたっていないのに、大昔のことを話すようだった。
「えっと、イーザー。つまり、なにが言いたいんだ?」「つまり人間、大したことがないことでその後の生き方が大きく違ってしまうんだろうな。あの時の一言、何気ない行動、ささいなことでその人も周りも大きく変わってしまう。分かるか、よっく考えて苦渋の上にしたことじゃなく、ほんの小さなできごとで将来が決まってしまうんだ」
怖いよな。イーザーはつぶやき、空を見上げて自分の考えにこもってしまった。
言いたいことは分かったものの、イーザーの真意が分からず置いていかれた気分になった。
グルドの農場を出て、山と山との間を進んだ。天気は危うかったものの雪は降らず、東へ進むにつれて雪はとけていき俺たちの速度は増していった。
天幕市で手配されていたことに関して話し合ったが、結局なにもしなかった。グルドの農園にまで広がっていなかったことから、エアーム帝国全領土まで広がってはいないだろうと予想した。見えない敵におびえてずっと人化や変身しつづけるのもなんだし、街を避けるとまた別に不都合がある。
「人間に化けるのって大変なのか?」聞いてみると獣人2人は「いや大して」と答えた。
「必要ならば何日でも何年でも化けるけどさ、人間の姿だといざという時身体の切れが悪いのよ。半獣の姿より大きくて重いし五感だって鈍い」「例えるなら着物を着て出歩くようなものですよ」
なるほど、分かりやすい。
「グラディアーナは着物を着たことがあるのか。俺はないぞ」「狩衣を着ました」
「狩衣ってなんだ?」
「あなたは自国の伝統衣装を知らないのですか」
と言われても、それがどんな服なのか全く分からない。着物の一種か?
変装こそしないものの、より気をつけて歩みを進めた。朝と夕には偵察をして変わったことがないか確かめて、常に周りの動向に気を配った。
張りつめた空気の中、俺は不眠がちだった。夜熟睡できない、いつの間にか奇妙な胸騒ぎと既視感と共に夢を見ては起きる。そのせいで昼にうとうとするようになり、「ミサスがうつったのか?」聞かれてしまった。うつるか。
不安をはらみつつもなにごともなく、俺たちは学問通りへ着いた。
「人がいるわよ。煙が出ていた。学問通りは滅びたと聞いたけど、また新しく人が流れたようね」
昼ご飯を作っている間に偵察してきたキャロルは、それだけ言うと干し肉と根野菜のシチューに手を伸ばした。
「本当? 学問通りは灰竜に徹底的に破壊されたって聞いたわよ。今でも眷属が我が物顔で闊歩しているって」「していた。あちこち大こうもりがうろついて危なそうだったわ」
「盗賊とか、逃げてきたならず者が住み着いたんじゃないのか」
「かもね。避けていこうか? 学問通りは谷一杯に広がっているけど、入りたくないと思えばいくらでも避けられる」
俺はとっくに空になった碗を置き、温めたパンをちぎった。
「いや、どんな人がいるのか確かめたいから行こう。もしいるのがごろつきだったら天幕市の二の舞になる」「そうね」あっけなく賛成された。
歩いて2時間、学問通りは今煙を吐いている火山と白い湖に面している、大きくはない街だった。歴史ある白漆喰の家々は急斜面の屋根で、家の側面にも舗装された道路にも白いものが積もっていた。
「雪?」「いえ、灰よ。ほら、今も」
キャロルが空へ手を伸ばす。よくよく目をこらすと雪よりもはるかに軽く小さいものが音もなく降りてきた。
「灰?」「アム火山のせいよ。大掛かりな噴火こそしないものの火は消えず、いつでも灰を吹いては街へ降らすの。有名よ」
暗い表情のザリが、ふと顔を上げて鼻をひくつかせた。
「一緒に有害物質を含んだ空気も振っているわね」「有害!?」
「大丈夫、この臭いぐらいなら、健康な人なら数日間吸っても問題はないわ」
「俺たちはともかく」
思わず最も貧弱な人に目を向けると、ミサスは淡々と布を取り出して口周りを覆っていた。
だれもが沈んだように無口になっていた。党に人通りがたえ灰が厚く積もる道を、建物の端を隠れるように歩いた。街には生活臭は一切無く、散らばった露店の籠は灰に覆われてよく見ないと分からない。飲食店らしい建物は壁が半壊して骨が散らばっていた。時々巨大なこうもりが静寂を切り裂く鳴き声を上げ、我がもの顔で飛んでいく。まるで悲鳴のようで俺は当然感じるべき恐怖を忘れ、現実離れした街を踏みしめた。
うとうとと、俺は歩きながら半分眠った。本当は緊迫した状況なのに日頃の不眠と静かすぎるのが災いしていつの間にか夢うつつになった。
夢の中で俺はひとり、学問通りを歩いている。後からもうひとり走ってくるのが分かる。俺たちの速さは全然違うのに相手はなかなか追いつけず、悔しさともどかしさが伝わってくる。
だれだっけ?
知っている人なのに思い出せない。振り返ればいいのに全身がきしんだように重く、歩く以外のことはできない。
思い出せ、考えるんだ。俺の友だちか、それ以上に親しい人のはずだ。
こめかみが痛むほど目をつぶって考える。ぼやけた姿がゆっくり焦点を合わせて重なり合う。
君は、あなたは、お前は……
「ああ!」悲痛な叫びに夢は破れた。もう少しだったのにと悔しがる間もなく、崩れ落ちてすすり泣くザリに目を奪われる。黒海が心配そうにだいぶ染料が落ちた短髪へと鼻を寄せた。
「ザ、ザリ。どうした」うろたえる俺に、イーザーが黙って親指を向けた。
辺りは住宅地だったのだろう。無理に押しこめられたような小さい家々は大半が火事で焼け落ち、黒く無残な残骸を散らしていた。かろうじて積もる灰が生々しさを多少は隠している。
家と家との間で忘れられたような小さな空き地、奇跡のように火事から逃れたいきどまりには、土地とは対照的に壁一杯にけばけばしい落書きが残っていた。元々治安のいいところじゃなかったのだろう。乱暴で行き先のない文字たちは人がいなくなっても残っていた。
そのうちのひとつ、真中に書かれた一言。極端に歪化されて崩れてはいるが、簡単すぎて読み書きがいまいちうまくない俺でもなんとか読めた。
「助けてって、書いてあるな」壁に残された助けての文字。それは滅んで無人になった学問通りを象徴していた。
谷の中央兼街の中央通りには巨大な建物がそびえている。城のように高くて美しくはない。砦のように頑強で無骨でもない。面積と部屋数ばかり大きい建物をザリは水神殿と呼んだ。
「神殿?」「アム大学と呼ばれることが多いけどね。水竜神は学問の神だから、寺小屋から大学まで全ての教育施設は水神殿でもあるのよ」
キャロルが見た煙は大学の門前から出ていた。おそろいの法衣を着た人々が大きな天幕を立て盛大なたき火をこしらえている。薪以外のものも燃料にしているのか火は不自然な黄色だった。何台もある牛車にせっせと本や巻物を積んでいる。
「なにしているんだ?」「あの牛車の紋様、エアーム帝都大学のものですね」
「大学が白昼堂々火事場泥棒?」
「アキトはキャロルと長く付き合いすぎたようですね」
どういう意味だよ。
「わたしが見てくるわ」「俺も行く」
ザリについて行く。忙しそうに働く適当な人を捕まえて丁寧に質問した。
「こんにちは。旅の薬草師ですが、エアーム帝都大学がなにをしているのですか?」「あ、どうも。帝都大学総員で学問通りの大学に置き去りにされた本を回収しているんですよ。ほら、ここに置き去りにしてはいつまた竜がくるかも分かりませんし、不埒な人に盗まれる可能性もありますから」
「帝都大学が、ですか」
「アム大学からわずかに逃げて生きのびた人もいますが、到底人手が足りない。ここにしか置いていない書物もあります。放っておくにはもったいなさすぎる。職員と学生、教授にも参加してもらっています」
「危険ではないですか。いつ竜がくるかも分かりませんし、大こうもりが街をうろついています」
「さすがに学生だけだと危ないですが、護衛の傭兵を雇っています。それに竜は最初の襲撃以来一度も姿を見せていません。しばらく観察しましたが、時間もたちましたしもう大丈夫だと教授たちは判断しています。眷属である大こうもりぐらいでしたらなんとかなります。ほら、あの煙」
若い学生は身体に悪そうな煙を指した。
「竜殺しの香草をくべています。本物の竜までには効果は期待できませんが、眷族ぐらいならよく効きます」その後2、3の質問をしてから、お礼を言ってザリは離れた。
「本当に竜とは無関係の、ただの通りすがりみたいね」「だな」
戻ってイーザーたちに話す。キャロルは興味をなくしたかのようにうなずいた。
「キャロル、街を出るか? こうもりも出るし、火山の臭いが鼻をつく」「いや。そろそろ日暮れだ。適当な空き家で一泊しよう」
好ましい提案だった。大こうもりがうろつく街の近くで野宿よりはまだ屋根のある場所で寝たい。
水神殿からそれほど離れていない、3階建ての集合住宅を今夜の寝床と決める。
「神殿に近いから煙の効果もある、頑丈そうで目立つ傷もない。中もそれほど散らかっていない。いいわね」「散らかっていないって、これで?」
賛成しかねた。住宅内は屋根がないかのように灰が足首まで積もっている。壊れたベッドや木片が散らかり、白く塗られた漆喰の壁が崩れて黄色のたき火が屋内からでも見えた。
「半壊した街になにを期待しているのよ。かなりましな方よ、少なくとも外よりは」「せめてもっと灰がない家はないのか?」
「ない。仕方がないわよ、火山が近いのだもの」
「せめて掃除くらいはしましょうか。鼻がむずむずします」
日頃周囲の清潔さに関心が薄いグラディアーナが、どこからかほうきを見つけて俺に投げた。つかもうとして目標を誤り、額で受け取ってしりもちをつく。
「でっ」「どじね。寝ぼけているの?」
舞い上がる灰の中でキャロルは冷たかった。ふとまだ明るい、それでも噴火のせいで夕方のような空を見上げる。
「辛気臭い街。クレイタ思い出したわ」夜、なんとか片付けも一段落して、というか俺たちのほうが灰と共存するこつを身に付けて気にならなくなったころ。
埃っぽいベッドに自分の荷物を置いて俺は部屋を出ようとした。
「おいアキト、一緒にこないか。キャロル探して今後の道を話し合おう」地図片手のイーザーに引き止められる。
「悪い、任せた。ちょっとザリに相談したいことがあるんだ」「ザリ?」
「うん。今どこにいるか知っているか?」
「女部屋で書きものをしていた」
「ありがとう」
アキトもかよと不満そうなイーザーに礼を言って、2人分の寝台が用意された部屋に入る。アキトと顔を上げるザリの手元には、書き途中の手紙が広がっていた、日本ではちり紙にもならない低品質の紙に丁寧な文章が書きつらねられている。
「だれ宛の手紙だ? ザリの家?」「わたしに家族はいないわ。両親はとっくにないし、兄弟もいないしね」
軽はずみな発言を後悔した。ひとりしかいない部屋で明かりを節約しているのだろうか、角灯はかなり暗くて表情が分かりにくく、ちょっと不気味だった。
「ブロム先生に手紙を出そうと思ったの。学問通りのことを伝えたくて。わたしの近状も、話せるところまで伝えたい」「ブロム先生?」
「水神殿の巫女長で、わたしに薬草について教えた人。植生分布の調査を計画したのも先生よ」
「ザリの上司か」
「そんなところね。それで、なんの用?」
「いや、忙しいならいい」
「ちっとも忙しくはないわよ。時間があいたから書いていたのだし」
勧められるまま向かいの椅子に座る。
「最近よく眠れないんだ。変な夢ばっかりで熟睡できない。そのせいで昼間までぼんやりしてきた」今まで放っておいたものの、飛んでくるほうきまで受けとりそこねたので考えを変えた。ここまで不調だといざラスティアと対面したとき困る。絶好調でもどうにかなるか分からない敵なのに、ふらふらなまま太刀打ちなんてとてもとても。
「お医者さんでもあるザリだったら、夜ぐっすり眠れる薬を持っているんじゃないかと思ってさ」「もちろんあるわよ。軽い安眠のお茶から三日三晩昏睡させるものまで」
後のはいらない。それは薬じゃなくて毒だろう。
「でも、そうよね。色々あったもの、うなされるぐらいするわよね」「えっ? 俺、悪夢にうなされている訳じゃないぞ」
「え、そうなの?」
「うん、そう」
今まで起きたこと、特にマドリームでのことは今でも傷が残っている。夢の中で追体験して後悔と罪悪感に苦しんでもおかしくはない。おかしくはないけども今の悩みはそれとは別だ。
「ただの変な夢なんだよ。夢の中にいつも同じだれかが出てくる。俺はその人を知っているのだけど思い出せなくて、悩んでいるうちに目がさめるんだ」「変な夢ね」
ザリもきょとんとした。
「知っている人?」「うん、絶対に」
「知り合いで、夢の中に入る人の心当たりは? 昔の友だちとか」
「分からないな」
今まで知り合った人たちに、そんな器用なことができる人はいたか? 心当たりがない。
「グラディアーナがそうだけど。前から夢の中で語りかけてきたし。でもあの人はグラディアーナじゃない」向かい合った印象が違う。今俺が思い出そうとしている人はもっと真剣だ。
「そうね。それにグラディアーナなら直接会っているのだし、目の前で言えばいいことよね」ザリは手にした袋を卓へ置いた。
「これはわたしの専門ではないようね。魔法的、精霊的な影響ならわたしは大して力になれない。グラディアーナに相談しましょう」「ああ」
立ち上がろうとしたその時。
咆哮が学問通りをゆらした。
「!?」地震のように建物が震える。耳が引きちぎられるように痛い。椅子が倒れ天井から埃と灰が降ってくる。圧倒的な叫びだった。
「なに!?」それだけじゃない。俺は前かがみによろめく。
押しつぶされるような感覚。まるで戦うことも逃げることも、考えることさえできない巨大な力の塊に連れ出されて、ゆっくりつぶされていくよう。足が震え体温が下がる。今まで味わった恐怖を全て引き出され押しつけられるかのようだった。
「アキト!」死人のように崩れながらザリの叫びを遠くで聞く。
信じられないことに、俺には咆哮の心当たりがあった。
ずっと前、イーザーやウィロウと一緒に歩いていて会った。あの時はこんなにひどくはなかったし、驚きが先にきて恐怖は後回しだった。
今思い返せば、その恐れは今と同じだ。敵わない。前に立つことさえできない最強の生物への畏怖。
「逃げろ」絶対に聞こえないと分かっていながら、言わずにはいられない。
逃げろ、ザリ。今すぐに、できるだけ遠くへ。
竜だ。竜が帰ってきた。
かつて学問通りを滅ぼした、火山に住む灰竜が帰ってきた……!