三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

2. 雪原の戦い

「いいだろ、これ」

イーザーが嬉しそうに剣を見せびらかす。キャロルじゃないんだから差し出されてもよく見えない。

「胡散臭い露店にあったんだけどな、重さといい姿形といい一目で気に入ったんだよ。振ってみてますます欲しくなった。ほら、柄に文字が乗ってあるだろう。俺には読めないけどきっといわくのある言葉だ、ミサスに会ったら読んでもらうんだ」
「そうか」

俺には剣のことはさっぱり分からないし、自慢されてもぴんとこないものがあるが、うきうきしているのに水を差すこともないだろうと黙って聞いた。剣一本で悩みがちだったイーザーの気が晴れるなら安いものだ。

ふと俺のスタッフを手元に引き寄せる。思い返せば長く使っているな。木製の、かなり適当に買ったもののはずなのに、今では持っていないと手が寂しい。なんのいわくもない棒切れなのに、けなげな相棒だな。

「前の剣を捨てなきゃいけなかった時は悲しいし悔しかったけど、今となってはもう吹っ切れた。おかげでこれを手に入れたんだし」
「前の剣はどこで落としたんだ?」

バイザリム大火の時にイーザーは剣と盾をなくしたけど、その時の話をなにも聞いていない。それどころじゃなかったからな。

「ああ。カスタノと戦って抜けなくなったからおいてきた」
「カスタノって、クペルマームの親戚の? マドリーム軍人の?」

思わず声が大きくなる。聞いてないぞそんなこと。

「ああ、そういえばその辺りをなにも言ってなかったな。大したことじゃない」

剣を脇に置いて「最初から言うぞ」始めた。

「俺とブロッサムはあの後火神殿から逃げ出してな、でも2人して頭に血が上っていて、これからのことがまるで思いつかずにまごまごしていた」

いつものことだと思うぞ。2人とも頭に血が上りやすい。

「その時大通りが騒がしかったから行ってみたら、クペルマームが兵士の一団を連れてザリを囲んでいた」
「囲む?」
「ああ。二の腕に矢が刺さっていて、今にも黒海から引きずりおろされそうだった。見て俺もブロッサムもかっとして、思わず飛び出した」

友人が敵に囲まれていたらかっとするだろう。俺だってそうする。でもよくよく血の気が多いな。

「不意打ちだったけど向こうも大人数だったしカスタノは腕が立つし、もうだめかと思ったらキャロルが助太刀してくれてな。キャロルは夜でも目が聞くだろ。石投げもあって一気に形勢逆転した。カスタノがキャロルを殺そうとして、俺はカスタノへ突撃して刺した」

そこで戦いは終わった。威張るでもなくイーザーは言う。

「兵たちは逃げて、あ、クペルマームも逃げようとしたけどキャロルが捕まえた」
「クペルマームをどうした」
「キャロルは息の根を止めたがっていたし、俺もだまされてから殺してやりたかったけど。ザリに止められた。かつて友だちだった子を一時の激情で殺すのは絶対だめだって。

その時はなんてのん気なこと言ってるんだろうって腹立ったけど、今から思えばザリの言う通りだったな。あんなの友だちだなんて絶対に思いたくないが、でも殺してやるほど悪いこともされていない」

「逃がしたんだ」
「そこまで優しくないぞ。ふんじばってその辺に転がした。そのうち見つかって助けられるだろ」

そっちはそっちで波乱万丈だったらしい。殺してしまうよりはましとはいえ、かなりひどいことをするな。そりゃそれなりのことをされたんだし王子様なんだからいつか救助されるだろうけど。

「ブロッサムはどうしたんだ?」
「別れた。その後みんなで逃げる時、郊外のある屋敷でライラック姫が館から暴漢に引きずり出されるところを見かけてな。急いでバイザリムから逃げてきたみたいでろくな警護もなく、なすがままにされていた」
「なんだって」
「もちろん黙って見ている俺じゃないぜ。あっさり蹴散らしたさ。で、その後だ。ライラック姫を安全なところまで送らないといけない。大貴族の娘なんだ、狙われる心当たりがありすぎて、ひとりでなんて行かせられない。でも俺たちだって急いでいた。アキトがなにか考えていそうだからすぐ行かなくちゃってザリが言い張って」
「そうか」

ザリにはうっすら見抜かれていたのか。

「だからブロッサムが残った。残ってライラック姫を安全なところまで連れて行って、治安が多少ましになるまで守ることになった。ブロッサムの実力は確かだ、任せられる。ちょっと怒りっぽいけどな」

ちょっと?

でも、ブロッサムにはとんだとばっちりだ。仕事がなくなり、尊敬していた人が目の前で燃えて、初対面も同然の姫君の警護役になって燃え盛る街を渡らないといけないなんて。また会ったらよく謝ろう。会えればの話だけど。

「イーザーもキャロルも無傷だったんだな」
「おう。ちょっとしたすり傷ぐらいだ。ザリは矢を自分でえぐりだして手当てした」
「へえ」

気のない反応に、なぜかイーザーはむきになった。

「お前、どれだけすごいことか分かってないだろ。自分の矢傷を自分で手当てしたんだぞ」
「俺、イーザーの言うことを疑ってないぞ」
「そうじゃない。あのなアキト、ザリは小刀で二の腕をえぐって矢じりを取ったんだ。腕が血で赤く染まって、脂汗が額びっしりで、なのに冷静に自分の腕を裂いたんだぞ。その後だってな、火であぶった小刀を押しつけて、持っていた消毒用の強い酒を振りかけて、包帯まで右手と口で結ぼうとしたんだ」

熱く語りながらも思い出したのか、気分が悪そうに口を押さえた。

「イーザー、お前人を叩き切れるくせになんで青くなるんだよ」
「それとこれとは別なんだよ。どうしてアキトにはこの気持ち悪さが分からないんだ。びっくりしすぎて俺ちっとも動けなかったぞ、途中でキャロルが止めて手伝った。当然だろ」

イーザーはぼやいた。

「俺、ザリが時々信じられなくなる。ちっとも強くないのに変なところで勇ましすぎるよ」
「そうだよな。俺だってミサス助けに舞い戻るなんて思わなかった」

しみじみ共感した。きっと今ごろザリはくしゃみをしているだろう。

「あ」
「どうした」
「俺すっかり忘れていたけど、イーザー魔法使いでもあったよな」
「忘れるなよ」

不快そうだった。

「それがなんだ。ちゃんと魔法は使ってザリの腕はある程度軽減したぞ」
「いや、そうじゃなくて」

興奮して舌がどもる。落ち着こうと深く息を吸った。

「もうひとつの方。治療の反対の、霊媒! 前にもしたことあるだろう、それでミサスたちのいる場所を探せないか」

すっかり忘れていたけど、イーザーはただの剣士じゃない。死者と命を操る錠門魔道士でもあった。あくまでも本人が剣士希望だから使う機会も少ないけど、それでさまよう霊とお話すればいくつかの困りごとが一気に解決する。

「あ、ああ」

イーザーは浮かない表情になった。

「できないのか?」
「いや、やってみないと分からないけど」
「なんで嫌がるんだ?」
「ちょっと、ほらな。俺だって自分のことだから魔道について忘れたことはなかったし、できるかどうかも考えてみたけど」
「なにが問題なんだ」
「怖いんだ」

イーザーがあまりにも真剣なので、俺は笑わなかった。

「お前とアルがのぞき見をしていたとき、死者を呼び出した。呼び出した霊は俺の言うことをちっとも聞かずに襲いかかった」

そういえばそれからずっと、イーザーは幽霊を呼んでいない。

「なんで霊たちが言うことを聞かなかったのか、今では見当がつく。旅の裏には雷竜とラスティア、2つの巨大な力があったからだ。霊は精霊使いと同じように大きな力に影響される。二者のせめぎあいに耐えられず、呼び出されるなり狂ってしまったんだ」

イーザーが未熟だった訳ではない。背後にいるものが強すぎてとても手に負えないんだ。

「だから、また同じことが起きるかと思うと、俺はとても手を出す気になれん。笑え」
「いや、そんな」

イーザーの不安はもっともすぎて、とても頼めることではなかった。せっかくいい考えだと思ったのに。

「霊媒がだめなら夢はどうかな」

またひとつひらめいた。今日の俺は冴えている。いや、今までが鈍すぎただけか?

「夢?」
「グラディアーナ。夢の中を自由に歩いて色々なところに行ける。ミサスの影歩きほど強くないみたいだけど、すごく便利だぞ」
「そっか。月瞳の一族は月と夢、心を操る特力の使い手だっけ」

俺の知らない理由で納得した。

「でもアキト、獣人の特力も精霊術の力に近いものだって聞くぞ。俺みたいに影響されないか?」

考えこむ。

「いや、行ける。グラディアーナは特力に関しては自称達人まで後一歩なんだし、俺が魔荒野で迷子になっていたとき幻の姿で俺たちを導いた」
「見込みあるな」

イーザーは横たわっている毛玉をいかめしく見た。

「もうすぐ見張り交代だ。起こしたら聞いてみよう」

それから2時間ぐらい言っても言わなくてもどうでもいいようなことをじっくり語り合ってから、仮説を立証すべくグラディアーナを揺すって起こした。

「ああ」

大して寝ていないはずなのに寝ぼけたそぶりも見せず、グラディアーナはうなずいた。

「夢歩きですね」
「うん。どうだろう」
「さて」

のん気に構えるグラディアーナに思わず早とちりする。

「だめか」
「いや、そんなことはありませんよ。2人ともそれほどよく知っている訳ではありませんけれども、アキトだって見つけてこれたぐらいですからね。できるでしょう。少し時間がかかりますよ」
「どれくらい」
「運がよければ数時間、悪いと数日。彼らが夢の視点からも隠れているようならもっと」

問題がもうひとつありまして。グラディアーナは肩を伸ばした。

「夢歩きをしている時、ここにいる私も寝ぼけているような状態になるのです。とっても無防備に。すぐ横を山刀持った小鬼が歩いてもまるで気づかないのですよ。そこで刺されたら当然死ねるのでして」
「分かったよ、その間守れってことだろ」
「ええ。よろしく」

任せるやいなやグラディアーナは小声で歌いながら荷物から鈴を取りだした。手首足首頭が乗っている首へとつける。すぐ向こうに木の幹がある天幕へ寄りかかり薄布をかけると目を閉じた。どう見ても居眠りしている姿だが、歌はとぎれず低く不明瞭になる。

「これでいいのか」

イーザーが拍子抜けしたようにつぶやいた。

「なんだかすごく簡単だな」
「イーザーもそう思うか」
「ああ。獣人の特力には詳しくないからなんともいえないけど。キャロルは獣変身しかしないし」
「なんでキャロルはもっと特力を覚えないんだろうな。グラディアーナみたいにすごく便利なのに」
「だれにだって苦手なものくらいあるだろ」

見守っているうちに歌はばらばらになり、いつしか支離滅茶苦茶な寝言となった。「血の色をした金貨が岩に埋まっている」だの「帰れない故郷に住む兎がささやく」だの、どう考えても意味のない内容で真剣にとらえるとこっちがおかしくなりそうだった。

「グラディアーナ、お前実は寝ているだろう」
「私を信じなさい、イーザー」

やはりただの居眠りとは違う答えに、それでもイーザーは疑いを隠しきれなかた。

いい加減見守っているのにも飽きた時、「しまった」イーザーが舌打ちをする。

「どうした」
「次の見張り役を寝かしつけた。キャロルになんて言おう」

そう言えば。もう寝たくて寝たくてしょうがないし、明日にもさしつかえるから交代したいが、次の見張りはキャロルひとりになってしまう。

「起こすか?」
「まずいよ、こっちから頼んだのに。それに寝ている訳じゃない。術を使っているんだ。途中で外から中断させたらどうなるか」
「じゃあ次はキャロルひとり?」
「しょうがない、謝ってひとりでやってもらおう。キャロルならひとりでも十分だろ」

なんて言われるか。俺は気が重くなった。自業自得とはいえ、とほほ。

「2人で怒られよう」
「ああ」
「……おや」

ぼんやりしていたグラディアーナの声が急にはっきりした。目は閉じていてまるっきり寝ている。見た目に変化はない。

「違う。いいえ、これは」

キャロルを起こすのも忘れ俺たちは眠れる猫につめよった。

「前はここまで強靭ではなかった。普通だったのに。しかしこの匂い、この姿、確かにあの人そのものですね。もっと周りにないのでしょうか」

ああ。グラディアーナはにやりとした。

「こっちにもいた。うまい。もうひとりの方で引っかからなかったら見逃してしまったくらいに隠れている。専門外なのにさすが」

俺たちは息詰まるくらい緊張した。見つけたのか。

……ん?

今、外から聞こえる風の音が変わった。一定の間隔で吹きつけてきたのに音が消えて天幕のかすかな揺れがなくなる。

どうしたのだろう。天気が変わったのか。また雪になったらどうしよう。気になって外の様子をうかがおうとする。

「アキト、どうした」
「いや、外の様子が」

のんびり答えながら天幕をめくる。外は闇、鼻先が凍りつきそうに寒く、悲しげな風しか聞こえない。

聞こえないはずなのに、その奥で暗がりが身じろぎした、気がした。

「……えっ?」

なにかいる。草木も眠る冬の夜、天幕の外にだれかいる!

「イーザー、外、なにかいる!」

言うが早いか、ものすごい力で襟をつかまれ奥へ投げ出された。

「キャロル起きろ!」

俺を力づくで奥に押しこめ、入れ替わりにイーザーは天幕入り口で剣を抜く。たった今まで寝ていたキャロルははね起き、枕元の剣をつかんだ。

ぎぃん。とぼしい明かりの中火花が散る。

「気づかれたか」
「月瞳だ、間違いない、こいつらだ!」

襲撃。見知らぬ男たちから襲われている。ようやく理解する。

天幕市でこっそり跡をつけられたのか、魔法で見つけられたのか。とにかく膨大な賞金目当てのならずものだ。いつの間にかこっそり近寄られていた。

運良く気づいたけど、だから有利になったのではない。相手は何人だ。こっちには夢の中にいるグラディアーナもいるのに。スタッフをつかみグラディアーナを守るように立つ。

「だっ!」

2撃。イーザーの恐怖を知らないかのような剣が圧倒的優位であった男をひるませた。すかさずバックラーごと全体重をかけた体当たりで足を取らせる。転んだ隙を見て、キャロルはブーツに挟んでいた小刀で出入り口を支えていた布を断ち切った。

冷たい息吹が顔を凍てつかせる。うごめく人数はざっと7、8人。多い。

「アキト、グラディアーナを起こせ!」

踏みこんだイーザーが叫ぶ。

「小僧!」

3人。全員並み以上の体格の人間がイーザーへ走る。狂ったような黒馬のいななきがした。

「イーザー!」
「ふっ」

ため息のようなささやきと共に、キャロルの腕が動く。ひとりは目を押さえ、もうひとりは手の甲に指ほどの小刀を生やした。

「早く!」

がっ。重量感のある金属音が雪に吸いこまれる。敵が持つ巨大な両手剣は人間をも一刀両断できそうで、打ち合った瞬間イーザーが耐えかねて腰を落とした。転ぶように剣は負けてゆらぎ、かろうじて両手剣を受け流すように地面へ導く。

イーザーの言う通りだ。俺たちは今殺されようとしている。相手は大勢で強そうだ。一刻も早く逃げるか、さもなくば戦わないといけない。寝ていようが術の途中だろうが、グラディアーナを起こさないと勝ち目はない。

「グラディアーナ!」

寒さと恐怖で震えが止まらない。そんな情けない手でグラディアーナの肩をつかみ力一杯揺り動かした。

「ああ、外野が騒がしい」
「起きろ。敵だ、危ないんだ!」
「ちょっと待って、はいそうですかと簡単には」

ぐずる子どものように嫌々と首を振る。特力のせいなのか非常識なほど寝起きが悪い。俺は気が気でならず、さらに声を張りながら後ろを向いた。

「月瞳を起こすな! おかしな術を使う!」

怒鳴り声と共に、俺は襲撃者たちの最後尾、ほとんど光が届かない男の腕ににぶく光る金属を見た。

魔法使い!

「グラディアーナ!」

輪が大きく揺らぎ、男の口から正確な発音がもれた。

突然、全く急に俺の心が恐れと不安で塗りつぶされた。手足はもちろん、口も目も石になったかのように動かせない。舌が張りつき寒いはずなのに全身から汗が吹き出す。

なんだ。なんで俺はこんなところにいるんだ。急に途方もない間違いの中にいる気がしてきた。怖い。冷たい鉄も目を押さえながらのたうちまわる男も怖い。厚い天幕も雪も闇も怖い。戦いが恐ろしい。殺そうとする見知らぬ男たちが、迎え撃つイーザーたちが怖くて怖くてたまらない。

狂いそうな感情に目を開く。嫌だ、怖い、逃げたい、今すぐ逃げたい!

落ち着け。圧倒的な感情のうねりの中で溺れそうな理性がささやく。

これは変だ。そりゃ戦いは怖い。殺されるかもしれない感覚、むき出しの殺意を平然と受け流すことはいまだにできない。

でもさっきまでおどおどしながらも判断し行動することができたじゃないか。なにかあったか分析してグラディアーナを揺り動かせた。それがいきなり死にそうなほど恐ろしくなるなんて変だ。

この感覚には覚えがある。

魔法だ。きっと「恐怖」の魔法。以前ミサスにかけられ思わず逃げだした。きっとあの魔法使いも同じ魔法をかけて、俺の無謀な行動を誘い、自滅させる気だ。

思い通りにしてたまるか。今すぐ逃げ出したい熱望を抑える。思うに俺は前にも同じことをされたから耐性はあるし、こうして考える余裕がある。前と同じことは繰り返さない。気持ちを抑えて、落ち着いてグラディアーナを起こし、戦うか逃げるかをするんだ。

するんだ。そう思うのに身体が動かない。声は出ないし足は力が抜けて持ち上げられない。怖くて動けない。

なにやっているんだ俺。なにをされたか分かっているのに、どうすればいいのか知っているのに動けないなんて。早く、早く。俺しっかりしろ。

「あ、まずい」

夢から醒めた、明るく不自然なまでに朗らかなグラディアーナの声だった。腕に柔らかい毛並みが触れる。居眠りしている人のように、グラディアーナは前のめりにうなだれる、

「アキト」

倒れそうになる。いいや、グラディアーナはかろうじて手をつき、四つんばいになった。声は快活なくせに息は荒く、笑うかのように歯をむき出しにする。端からよだれが垂れた。

「逃げなさい」

口が裂けたかに見えた。大きく開き、犬歯があらわになる。

人の形をしていた手が輪郭を失った。全身の毛がふくれ上がり、急に大きくなったように見える。

身体がぼやける。ちゃんと見ているはずなのに急に乱視になったかのように目でとらえられない。錯覚かと疑っている間に再び線は戻りまともなものが視界におさまる。

俺はこの手のものをさんざん見た。主にキャロルが半獣姿から人間や小さなねずみに変身する時だ。今更変身ぐらいじゃ驚かないつもりだったけど。

姿を変えたグラディアーナは顔を上げる。

猫そのものだった顔は獰猛な肉食獣の表情を映す。柔らかそうな身体は一回り大きくなり、さらにしなやかな、力強そうな動物のものだ。爪は俺の指より大きく、むき出しの牙は骨も砕けそうだ。

獅子でも虎でも、豹でもチーターでもない、もちろん山猫にしては大きすぎる。

グラディアーナは見たことのない、大型の猫科猛獣に姿を変えていた。


天幕の外で黒海が狂ったようにいなないた。戦場に出してもおびえない軍馬が恐怖を感じている。布越しにグラディアーナの異変を感じとったんだろう。俺だってそうしたい。

俺は動けなかった。魔法の影響か、それともあまりの変貌ぶりに威圧されたのか。色は変わらないのにまるで違うグラディアーナの瞳を、伸ばせば届く至近距離で見つめながら馬鹿のように立ちつくしていた。

「なんだ、ありゃあ」

襲撃者までが気を抜かれたようにつぶやく。

グラディアーナの瞳が動き、飛んだ。

「があぁ!」

体重があることが信じられないような、軽くて無駄のない動き。美しいが必殺の威力がある牙は、ぼうとしている俺を超えて男の首へと食いこんだ。悲鳴はすぐごぼごぼという泡に紛れ、振り回している斧が力なく落ちる。男の痙攣がなくなってもグラディアーナは牙を放さない。

「うわあああ!」

恐怖の叫びと共に訪問者は我先にと逃げだす。よく見たら先頭を走っているのはあの魔法使いだった。結構速い。

「おい!」

急に脳を揺さぶられ転びそうになった。イーザーの怖い顔が迫る。

「なにやっているんだ、逃げるぞ!」
「逃げ……?」
「この、ぼさっとするな!」

血走った目のイーザーは肩をつかみ、力づくで俺を持ち上げ引きずる。天幕の外ではキャロルが怯え暴れる黒海の手綱を握りしめる。

「走れ!」
「待て、こいつ乗せてからあっ!」

歯を食いしばり俺の首根をつかんで荷物のように黒海の背へ押し上げた。ぼんやりしているうちに馬上の人になった俺は、口の端に泡を吹いて暴れる黒海に慌ててしがみつく。

「キャロル、変身しろ。おとなしくしろ黒海!」
「ちょっと、黒海はザリしか乗せない」
「いいから!」

イーザーは力づくでよじ登る。元々逃げ出そうとしていたのを力任せで押さえていたから、支えがなくなれば加重にあえぎよろめきながらも駆け出す。キャロルもおとなしく姿を変えながらイーザーの肩に飛ぶ。

天幕を振り返る。消えかけたたき火に移ったのは、ようやく牙を離し赤く染まった口の周りをなめ、頭を上げようとしている猛獣だった。

――暗い木々の間、雪が積もっている夜を闇雲に走る。黒海は人間2人の重さにひるみ獣から逃げ、理性のおよそ対極にあるような走り方だった。垂れ下がった枝に顔面をひっぱたかれしげみに突っこみ、キャロルが落ちかけ甲高く鳴く。落馬の危険を感じない時がなかった。

体感時間では一時間は走ったが、きっと10分も経っていなかったのだろう。林を抜けいつの間にか雲はなく月が驚くほど明るかった。

黒海は嫌がるようにひときわ大きく跳ね、とうとうしがみついているイーザーが振り落とされた。背中から雪上に叩きつけられる。

「イーザー!」

気がそれたのがまずかった。ついでに俺も地面に転げ落ちる。雪の上なのでちっとも痛くない。今は冬だったはずなのだが全身汗まみれで息は荒く、白い雲が俺の顔をいくつも横切った。

「アキト」

灰色の影が覆いかぶさる。とっくにキャロルは元の姿に戻っていた。

「キャロル、無事だったか」
「おかげで。イーザーにつぶされるかと思ったけどね」
「そうだ、イーザーは」

上半身を起こした俺は、雪まみれになりすっかり白くなったイーザーがようやく立つのを確認した。

「みんな怪我なしか、よかった」
「黒海!」

イーザーが足を取られながら走る。走り去ったとばかり思っていた黒海が、少し恥ずかしそうに俺たちへときた。急いで手綱をしっかり握り逃げないように自分の手に巻きつける。

「どうだ、黒海に乗ってやったぞ!」
「あれはしがみついているっていうの。ったく」

キャロルは頭をはっきりさせようと髪に手をあてた。

「グラディアーナが化けた」
「なにが起きたんだ。俺今までグラディアーナは猫の獣人だと思っていたけど、あんな大きな猫見たことがないぞ!」
「落ち着いて。月瞳の一族は間違いなく猫の獣人よ」

足爪でいらだたしそうに雪を蹴り飛ばす。

「なにが起きたのよ」
「恐怖の魔法だよ」

時間が経ったせいかもうすっかり普通に戻った俺が話す。2人の視線が集まった。

「怖くて怖くてたまらなくなる魔法を相手の魔道士にかけられた。それで俺怖くて動けなくなったんだ。前もミサスにかけられた時があった、あの時は状況考えず逃げた。グラディアーナも同じ魔法で変身したんじゃないか? グラディアーナ自身術を使っていた最中だったんだし」
「なんで怖くなったら変身するんだよ、しかも大猫に」
「いや、それね」

キャロルはあっけなく賛成した。

「どうして」
「心から怖くなった時の行動はね、アキトみたいに硬直したりいきなり逃げ出したり、自棄を起こして立ち向かったりするでしょう。恐怖に駆られて闇雲に攻撃するのも大いにありうるわ。全力で暴れることが化け猫になるのと繋がる」
「巨大な猫に変身したのは」
「腕のいい特力使いなのでしょう。本来の獣よりもっと大きくもっと強くなってもおかしくないわ。月瞳ができることは知らなかったけど、実際そんな特力を使う獣人を何種類かは知っているわよ」
「キャロルもできるのか」
「そんな特力はない。地下道の一族が使う特力にいいものは少ないのよ」

だからキャロルはあんまり特力を使わないのかな。俺はねずみ系で大きいものを想像してみた。確かカピバラというねずみが1メートルはあったな。確かに猫科大型獣には見劣りする。

「グラディアーナは凶暴化して、巨大猫に変身したんだな」
「そうね。普通の獣化なら変身しても半獣としての理性と知恵が残っているけど、今は」
「絶対、理性なんて欠片もなかったぞ」

一番近くで顔を見た俺が断言する。あれは人間の目ではない。普通の動物の目ですらない。まともな判断を失い闇雲に牙をむく、危険な生き物だ。

「まずいな」
「まずいね、どうしよう」

重々しく繰り返す2人に、俺は嫌な予感を覚えた。

「キャロル、まさかグラディアーナを倒す気か?」
「倒せればいいのだけど」

珍しく弱気だった。

「今のグラディアーナは殺戮本能の塊よ。追ってきたら即戦いになるわ。で、人間ほどの野獣と戦って勝てるかというと3人がかりでもその気がしない」

良心や仲間意識以前に、そもそも戦って勝てないという苦しい意見だ。確かに、例えグラディアーナでなくても怒り狂う豹や虎と戦って勝てるかというと無理だと思う。

「イーザー、魔法の調子はどう」
「錠門魔法はあくまでも人間相手の魔法だぞ、今まで動物にかけた人はいない」
「最初のひとりになれるわね。元獣人なのだからきっと効くわ。あたしと、まぁアキトで時間を稼ぐからその隙に」
「手加減しろよイーザー、あれはグラディアーナなんだからな」

慌ててつけ加える。

「アーキートー、少し甘い考えじゃない? 向こうは全力で殺しにかかるわよ」
「まだ最善を尽くしていないだろう。グラディアーナを死なせる気はないぞ」
「俺だってそうしたいけど」

イーザーは困ったように剣を抜いた。

「でもアキト」

突然黒海がいななき走ろうと暴れる。慌てて俺は押さえ、キャロルが手伝う。2人がかりでもおさまりそうにない。

「黒海っ、おとなしくしてくれよ、どうしたんだ」

我ながら間が抜けていた。黒海が暴れる理由なんてひとつしかないのに。

「そこ!」

キャロルが指さす。

林の中、音も前触れもなくグラディアーナはいた。こんなに大きくて目にまぶしい毛並みなのに、俺たちはまるで気づかなかった。

金の目には相変わらず理性の色はない。

「グ」

飛んだ。次の瞬間イーザーが押し倒されてかき消えた。

「! イーザー!」

喉を食いちぎられ血しぶきが上がる、そんな幻覚を見た。

「ああ!」

間一髪、イーザーは剣を横に構え、グラディアーナの牙をかろうじて押しとどめていた。グラディアーナのたくましい前脚が肩をしっかり押さえつけ雪が血に染まる。よだれが顔にかかる。

「イーザー!」

イーザーは歯を食いしばり、剣を両手で押し上げようとする。グラディアーナも口へ横に押しこまれた剣をかみながら、むき出しの柔らかい喉へ食いつこうとする。グラディアーナの方が有利だった。

「ちっ」

キャロルが小刀を逆手に斬りつける。俺も黒海は手ばなしスタッフで胴体を殴りかかる。

小刀は毛で流されてろくに刺さりもしなかった。俺のスタッフも軽くはじかれる。厚い毛と、すぐ下の強靭な筋肉はちょっとやそっと殴りつけても無駄だった。そもそもスタッフは致命傷を与える武器ではないこともあるし。

「イーザーを放せ!」

それでも、少しでも気がそれたら。俺はもう一度振りあげる。

シャギャァァアア!

鋭い叫びが夜を切り裂いた。

宵闇を切りとったような大鳥が、キャロルの小刀ほども尖った脚でグラディアーナの顔へ急降下する。グラディアーナは叫び、逃げようとイーザーから飛び跳ね新たな敵めがけて全身をばねに飛びかかる。

大鳥は急上昇し2匹は空をすれ違う。膨大な羽根が舞い広がるも鳥はさらに高く飛び、姿をぼやけさせながら俺の後ろへ着地する。

「ミサス!」

見慣れた、小柄な有翼人種に俺はあっけに取られた。どうしてここにいるんだ。

「グラディアーナが夢から干渉をしてきた。きたかと思えば急に現実へ戻った。危険なことが起きている。探した」

まだ聞いていないのに答えた。満足のいく回答じゃないけど大半の疑問は消える。

「グラディアーナ!」

跳ね起きたイーザーは剣の鞘をつかみ納めた。雪を蹴りとばして走る。大鳥から戻ったミサスへグラディアーナの注意はそれていた。ほんの数秒だったけど、戦場においては十分な時間だった。

「お前も、戻れぇ!」

ぎゃん! 鞘ごと剣で額を叩っ切り、紛れもない猫科の悲鳴が上がる。額に血がにじみグラディアーナはよろける。畳み掛けるようにもう一回イーザーは殴りつけた。獣の叫びが林中にとどろき額が割れ血が噴出す。グラディアーナは支えを失ったように崩れ倒れた。

「グラディアーナ」

まさか。

凍りつく俺の前で、グラディアーナの姿が溶ける。雪上に倒れているのは半獣の月瞳の一族に変わった。割れた額を押さえうめいている。意識があるかどうかは怪しかったがまぎれもなく生きていた。