天幕市は臭かった。
地竜の谷の出口、そこから扇状に色とりどりの天幕と丸太小屋が広がる。谷とは違い頻繁な人の出入りで雪は溶けかけ、ぬかるんで街ごと泥だまりにしている。往来には武器を持った戦士や汚れた毛皮の山賊が歩き、そのすぐ横から荷物をいっぱい積んだ犬ぞりを走らせる商人が抜ける。ろくに風呂に入っていなさそうな人々の体臭、いい加減に捨てて腐っていく鹿肉、泥の匂いとあいまって天幕市は沼のようだった。
「レイドみたいだな。ほら、水門国家の首都、犯罪都市の」「もっと野蛮だけどね。小さいし」
キャロルは鼻を押さえなにげなく答えた。グラディアーナも顔をしかめている。
「どうした?」「臭いのよ、たまらないわ」
「どうして人間はこんなに鼻が悪いのでしょうか。よくそれで生きていけますね」
「まったくよ」
獣人同士、人間をけなすのに楽しそうだった。よかったなキャロル。言わないだけで俺たちだって悪臭だというのは分かっているんだぞ。
「マドリームの兵はいそうか?」「見当たりませんね。こっそり紛れた密偵ぐらいならいるかもしれませんが」
イーザーは汗をぬぐった。谷抜けと雪かきでしたたった汗は立ち止まっているせいで早くも乾き、そうすると積もっている雪からの寒気が突き刺さる。寒くて震えた。
「洞窟であったチェイサーみたいに、足以外の方法でマドリームの者が先回りしている可能性はある」「ないと思うほうがおかしいわね。向こうには天候に左右されない影踊りの一族がいるのよ。それにラスティアだってただ待っている訳がない」
「天幕市を避けるか?」
無難な考えだった。くたくただし宿を取って寝たいのは山々だが、わざわざ罠に飛びこみたくもない。でもイーザーは首を縦に振らなかった。
「なくした剣とバックラーを買いたい。冬支度の暖かい外衣や外套だってほしいぞ、寒すぎる。食料はまだあるとはいえ買い物をしなくちゃ」イーザーはバイザリムから逃げる時に剣と盾をなくして、今はキャロルのを借りているんだった。キャロルの剣はイーザーのより少し短くて軽い。大きな違いじゃないがイーザーにとっては十分問題だった。
「あたしは剣なしでもいいけど、服は必要ね、確かに」小刀をいくつも持っていて、石投げが抜群に上手なキャロルは帯剣していないのは問題ではないらしい。
「私がひとっ走りして買ってきましょうか?」「グラディアーナは金を持ち逃げするから駄目」
きっぱり却下されたのに、ごもっともとグラディアーナはにやにや笑う。キャロルは人を簡単には信用しないのは知っているが、今回もひどいな。
「どうせなら情報もほしい。マドリームについてエアームについて新しいことが起こっているなら知りたいわね。買い物と聞きこみを分担してしましょう。しばらく滞在するかもしれないから宿も」「しばらく?」
「ミサスと、おまけのザリと落ち合わなきゃ」
あ、そうだった。
「2人が崩れた谷を超えたのだったら絶対にここを通るわ。いつになるか分からないけど多少は待って、最低でも伝言を残さないと」いくら最終目的地は分かっているとはいえ最終すぎる。山で待ち合わせしても会える可能性は低そうだった。
「伝言っていっても、どこに残すんだ」「グラディアーナ、天幕市に信頼できる知りあいはいる?」
「友人なら多少はいますが、まだいるかどうか分からない上信頼できるかというと」
人柄がしのばれる返事だった。もっとも今回は場所も悪いが。
「伝言はその時考えよう。俺とキャロルが買い物で、アキトとグラディアーナは宿を取って聞きこみをしてくれ。黒海は俺たちが引き受ける。夕方ここで待ち合わせよう」「あたしはひとりで行くわ。黒海を預かって防寒具を用意するから、イーザーはゆっくり剣を品定めしてよ」
「キャロル、黒海は一財産なんだぞ。ひとりは危ない。ただでさえ狙われる要素にはことかかないのに」
「だれに向かって言っているの? あたしがそんなことぐらいで面倒に巻きこまれるって?」
「そうじゃないけど」
「群れなくちゃいけないほど危なくないわ。そうでしょう。ひとりで行けるわよ」
断言して俺から黒海の手綱を取り、聞き分けのない馬に言うことを聞かせるべく引っぱる。
「キャロル、自立と単独行動をごっちゃにしていないか?」キャロルの耳に届かなかったイーザーの独り言がとても印象的だった。
天幕市へ入る前にグラディアーナは変装した。手足しっぽ首の鈴を取り、イーザーの黒い外衣を借りる。それだけでも印象は変わった。派手さが消え丈の合っていない外衣がみすぼらしく見せる。
そして人化した。金の毛並みが白い肌に、瞳は茶色に、猫の時より背が伸び肉付きもよくなった気がする。
「些細なことですが、意外とだまされるんですよね。特に人間は」髪をなでつけて手足を確かめるように動かす。「人間の姿は身体が重いんですよ。手配中の身としては贅沢言えませんけどね」
「猫人間の時とは別人だよ。絶対ばれないって」「それはアキトが人間だからですよ。では行きましょうか」
狭くぬかるんだ道に入って初めて気がついたが、柄の悪い男たちの中にすんなり俺は溶けこめた。つまりそれくらい俺も薄汚れていた。
「ついこの前までお城で生活していたのに。すごい変化だ」「戻りたいのですか?」
「いや全然」
酒瓶を抱いてどぶに寝る男を避けながら歩く。グラディアーナは目的が分かっているのか迷いない足どりだった。俺は黙ってついていく。あの男が実は死んでいるのではないようにと祈りながら。
全力で体当たりをしたら崩れそうな家を曲がり、粗末な丸太小屋を押しこめたような中で奇跡的に道として成立している隙間を通る。靴はもちろん膝より下が泥まみれになった。
「グラディアーナ、どこに行く気だ」「酒場に。私の知っている一番にぎやかなところへ行きます」
一番にぎやかな酒場は天幕市にしては珍しく石造りだった。昼だというのに中はアルコール臭が充満していて、卓に突っ伏している人床で死んだように寝ている人が少なくない。ロックにも似た聞くに堪えられない歌がどこからして、酔っ払いは大騒ぎしている。
どう言いつくろっても入るべきではないところだった。グラディアーナは優雅そのものの動作で入り指を鳴らして「エール2つ!」注文する。いつまでも扉でまごついている訳にも行かなかった。スニーカーの裏が糸を引く床を行く。
「グラディアーナ、いつもこんなところに行っているのか? 鼻は大丈夫か」「それくらいは我慢しないといけません。得られるものは大きいですよ。噂なり、もうけ話なり」
「こんなところで酒飲んで楽しいのかよ」
「楽しいですとも。そんなのも分からないなんてお子ちゃまですね」
「そんな訳の分からない判断基準はいらない」
運ばれたエールは生臭く、店内の暗さとあいまって石油のような色だった。グラディアーナはさぞうまそうに一口飲んでから目を左右へと走らせる。
「あそこがいいですね」「あそこ?」
つられて見る。奥の席で杯を片手にした一組の戦士がいた。片方は革でできた外衣を着た男で、もうひとりは金髪をポニーテールにした女だった。どちらも若く、しっかり武装している。
「いいから落ち着けシャープ、お前は分かっていないから言えるんだよ」「分かっていないのはあんたよ。相手はただの女と小さい魔法使いよ。絶対勝てる! 金額を知っているでしょう、一年遊んで暮らせる金が入るのよ」
「もうけ話ですか?」
グラディアーナが馴れ馴れしく椅子とエールを持っていった。親しげに話しかける。
「そんないいものじゃないぞ。俺は手出しをする気はない」「ルドラ!」
「なんとでも言え。黒翼族にけんかを売るほど俺は命知らずじゃない」
黒翼族? 俺はひとり卓で固まった。俺の知っている黒翼族といえばひとりだけだ。でもどういうことだ?
「面白そうですね」グラディアーナの目が細くなった。
「しばらく離れていたので事情に疎くなっているのですよ。聞かせてもらいませんか。主人、エールを2つ彼らに!」シャープと呼ばれていた女はむっとしていたが、ルドラと呼ばれた男は「聞いてもがっかりするなよ」と新しいエールを受けとった。
「少し前、大雪の前日だったかな。天幕市に男がきて市内くまなく歩き回った。人探しをしているとかでしつこいくらい人相を聞いた」「それが驚くじゃない」シャープが口をはさんだ。
「その男、金貨をばらまくように聞いていたのよ! ちょっとでもそれらしい話をしたら石ころでも投げるように金を出したわ」
「まあ、そんな訳でな」
ルドラが興奮するシャープをなだめる。
「その男は尋ね人を捕まえたら目もくらむような大金の約束をして行っちまった。で2日ぐらいした頃、目的の人物がのこのこ出てきたんだよ。天幕市は大騒ぎ、市中の人間がそいつらを追ってるってことだ」「ほう。どんな人物なんですか」
「なんでもバイザリム大火の犯人とか。6人組の雑多な一団だよ。人間の男2人と女、地下道の一族と黒翼族、月瞳の一族。手配書あるぜ」
外衣の下からしみまみれの紙を差し出す。平然と受け取るグラディアーナが人間の姿でよかった。本来の外見なら即ばれていた。
「きたのは人間の女だ。背が高く赤毛で眼鏡をしている。かなり特徴的な上まるで警戒していなかったからすぐ居合わせた奴らが群がった。女は逃げて、こう、追いつめられて、とっさにつないであったディアトリマに飛び乗った」ディアトリマってなんだっけ。確か見たことがある。2メートル近い怪鳥で一見駝鳥に似ているけど、くちばしが俺の頭ぐらいあった。ザリは馬だけでなく鳥にも乗れるのか。
「人が群がってひとりが女の髪をつかんだ。そしたらいきなり上から黒翼族が現れて、飛び降りて魔法を使った。それがもうすごい正確さで、女の髪を根元から切った。女はありがとうって叫び、黒翼族は夜鳴鳥に変身して女の頭に乗って、女はディアトリマで逃げた」危機一髪、ルドラの身振り混じりの話は結構うまくて、俺はいつの間にかのめりこんでいた。ザリが無事逃げきれてほっとする。
「ディアトリマはすぐ戻ってきたわ」シャープが言った。
「女の足よ、そう遠くまで逃げてないわ。探したら大金持ちになれるのよ」「諦めろよ。あの黒翼族、きっと傭兵魔道士のミサスだ。聖レイファニとナーシェッド沙漠国との戦いでの英雄だ。シャープだって弱かないが格が違いすぎる」
「同じ種族だからって同一人物とは限らないでしょうが。例えそうだとしてもあんなちび、ちょっと叩けばいちころよ」
「魔法を使ったところを見ていなかったのかよ。あいつはほとんど唱えなくても魔法を発動させられるんだぜ。よほどの実力者だ。それに術の正確さ、つかんだ腕でも本人でもなく、どちらにとっても安全な髪だけを切ったんだ。なかなかお目にかかれない」
「不意打ちすればいいじゃない。魔法を使わせなければいいのよ。ルドラ、あんた風使いでしょう。音を消す術があるじゃない。言葉がなければ魔法使いなんて」
「なんのために仲間がいると思っているんだ。女に反撃されたらどうするんだよ」
不毛な口論をする2人の周りにはいつの間にか人垣ができていたので、グラディアーナはそっと抜け出すことができた。
「グラディアーナ」「戻りましょう。必要なことは知りました」
一口もつけていないエールを置いて、椅子を蹴るように立った。
扉でターバンとサングラスの女とすれ違う。堕落した酒場に不似合いな明るさで「シャープさぁん」手を上げた。2人の仲間か。
彼らと戦うはめにならなければいい。俺は願った。
黙って丸太小屋の角を戻り、横歩きをして大通りに出る。
「なんでだ?」途端に抑えていた疑問がせきを切る。
「なんでミサスたちの方が速い、逃げ切れたようだけど、でも、手配って」「手配書見ますか」
差し出された羊皮紙を奪い、足を止めてむさぼった。
「先にこられたのは意外でしたが、なにか方法でもあったのでしょうね。魔法ですか」「影に潜るのはミサスしか使えないぞ、空を飛んだのか?」
「なにを言っているのです、ザリも一緒ですよ。夜鳴鳥は人を運べるほど大きくありません」
「人間のまま飛んだのかもしれない。ザリを抱えて」
「アキト。黒翼族は空を飛べませんよ。当たり前の話です。鳥に変身しないと」
「え? いや、ミサスは」
あ、思い出した。ミサスは魔法を使えば有翼人のままでも飛べるけど、それは秘術で内緒のことだっけ。
「いや、俺の間違いだった」ごまかした。どうせよく考えれば非力なミサスが人を抱きかかえるなんてできないだろう。
「でしょう。天幕市にきたのはきっと本人たちでしょうね。偶然よく似た2人連れがいたというのは考えられません」「うん、そうだな」
手配書には丁寧にも全員分の似顔絵まで描かれていた。下に簡単な説明がある。やっと覚えた共通語を俺はにらみつけた。
「えっと、これは髪が黒いだろ。これはなんだ?」「どの人種にも当てはまらない、とあります。アキトのことです」
「そりゃモンゴリアンだし」
俺に関する説明は細かい割に絵はあんまり似ていない。「アキトは無個性でいいですね」グラディアーナにため息をつかれた。
「けなしているのか」「違います、群集に紛れこみやすいと言っているのですよ。黒髪の十代の青年。実にありふれています。外見だけなら密偵に向いていますよ」
「顔だけならな」
グラディアーナが言いたいことは分かる、ありふれていない人のことを伝えたいのだ。
「私、ミサス、ザリが危ないですね。私はまだ人にも猫にも化けられますが、彼らはそうはいきません。目立ちますね」ミサスも鳥に変身できることはできるが、変身後の夜鳴鳥が結構大きい。それにあまり見ない鳥でもある。少なくとも俺はミサスが変身した姿しか見たことがない。きっと目立つし勘のいい人なら気づくだろう。俺は鳥になったミサスが射ち落とされた姿を想像したくなかった。
「天幕市に長居はできないな。どうせ2人と会える可能性もないし、買うもの買ったら出ちゃおう」「正解ですね。しかしやれやれ、また雪ですか」
夕方集まる予定だったのに全員そろったのはずっと早かった。程なくキャロルが黒海をなだめすかしながらきた。暖かそうな毛織物の外衣を着、毛皮の帽子をかぶっている。外衣は灰色で、それはいいとして土色の帽子は革の持ち主である小動物の頭としっぽがまだついていた。犬科の生き物と見た。ぬいぐるみとは明らかに違う生々しい顔に引く。キャロル本人までみすぼらしくなった気がした。
「キャロル、他に帽子はなかったのかよ」「あったけど、これだと耳まで隠せるし頭の輪郭も変わるわ」
「変わるからなんだよ」
「アキト。あたしたちは今少しでも正体を隠したいのじゃなかった?」
「そうだけど、せめて頭がついていないのにすればいいのに。貧乏人っぽいぞ」
「貧しく見せたいのよ」
最後になったイーザーは真新しいバックラーと中古らしい剣を下げていた。剣は古そうだったがみすぼらしく見えず逆に威厳がある。なんだか格式高い、由緒あるものに見えた。いい買い物をしたらしい。
「悪い知らせがある」新しい剣を自慢するかと思ったけど、それより先に早口でまくしたてた。
「俺たちが手配されている。手配書が配られて、すごい金額がかけられている。全員だ」「知っていますよ。ちゃんと仕事はしましたので」
「あたしも聞いた。景気のいい金額だったわね」
「で、ミサスたちがどうも先にきていたらしい。一悶着あったみたいだ。逃げたようだけど、徒党を組んで狩り出そうとごろつきたちが話していた」
悪い知らせだ。
「いつですか?」「分からない。2人の居場所はまだ突き止められていない。ザリが騒動があった時に髪を落としていって、その髪の毛で呪術師が色々やったけどさっぱり分からないらしい」
「呪術師が努力しても分からないのですか。ミサスが手を打ったのかな」
「きっとそうだろ。だから今すぐ危ないって訳じゃないけど、でも慌てた方がいいぞ。雪もやんだしまだ遠くまで行っていないだろうからしらみつぶしに探すそうだ」
「イーザー、そんな噂話の中のこのこ出て行ってばれなかったのか」
「ばれるどころか」
イーザーは憮然とした。
「坊主もどうだって誘われたよ。だれが行くか」面白くないらしい。大局を見れば紛れこんでどう探すか聞いた方が好都合だったと思うのだけど。
「2人はどこ行ったのだと思う?」「さて、見当がつきませんね」
難しい顔になった。
「順当に行けば学問通りでしょう。でも今は滅んだそうですし。避けて通れば後は帝都ですかね。かなりの距離がある上、間には村のような小さいものしかありません」「帝都で待ち合わせか、遠いな」
「待てグラディアーナ、ミサスたちは学問通りの竜襲撃のこと、まだ知らないかもしれないぞ」
イーザーが待ったをかけた。
「俺が灰竜のことを知ったのは谷での洞窟の中だ。ミサスがどういう道を通ったのか分からないが、歩いてきたのじゃないと思う。もしそうならミサスは学問通りについて知りようがないはずだ」「天幕市で聞いたのかもしれない」
「だったら先に手配されたことを知って逃げるはずだろ」
そうだな。
「でもミサスなら、学問通りのことをマドリームにいた頃から知っていた可能性もあるわよ。それで黙っているとか」「そんなこと、まさか」
否定しようとしてイーザーは止まった。
「ありえる。ミサスなら」「ミサスならするわ。いかにもしそうよ」
グラディアーナが「そんな馬鹿な」笑おうとしたけれど、俺たちが真剣に考えこんだのを見て思いとどまった。普通に考えればグラディアーナの言う通りありえない行動だけど、ミサスだものな。
「どうしたと思う。2人はどう行動したんだ? 推理できないぞ」「あたしに当たらないでよ。そうね」
キャロルは足で雪を引っかいた。
「天幕市をくまなく探すなんてことはしないわよ。現実的じゃない。もしミサスが学問通りについて知っているのならエアーム帝都へ、知らないなら学問通りへ行くでしょう。あたしたちは早く会えるように学問通り、帝都へと2つとも押さえていた方がいい。通りながら探すのは当然として、もしあたしたちの方が早かった時のために目印を残しておきましょう。あたしたちがいたというのを確実に知らせたい」
「どうやって?」例えばグラディアーナが素顔を見せながら歩いたらミサスに分かるだろうけど、他大勢の荒くれ者にもつけ狙われる。
「ただの人には分からなくて、ミサスだけに分かるようにしなきゃいけない」キャロルは黒海を見あげた。
「薬草がいいわね」「薬草?」
「ザリのよ。例えばザリの荷から珍しい薬草を選んで売りさばきながら進めば、そのうちザリの注目を引くわ」
「えっと」
マドリームでも薬草と土まみれになっていたザリだ。珍しい草が出回っているとしたら俺たちの存在に気づくだろう。
「でもさ、そんなことをしたらザリ怒らないか? きっと怒るぞ」「怒るんじゃない? 怒るくらいですめばいいけど。ザリの今までの旅した調査結果を投げ捨てるようなものだもの。怒り狂うんじゃないかしら」
「で、やるのか」
「やらない。ザリが怒るのはまあどうでもいいけど、一握りで10人殺せるような薬草売り払って歩いたら別の問題が起こりそうだしね。当局に目をつけられたくないわ」
ああよかった。
「おいちょっと待て、ザリそんな危ないもの持ち歩いているのか! 捨てた方がよくないか、うっかり飲んだら危ないぞ」「もっとましな方法ぐらいあるわよ」
イーザーを無視して説明を続けた。
「逆に買い集めるのがいいわね。遠くフォローからきた一行が馬鹿みたいな値で珍しい草を買うのよ。バイザリムでいくつか宝石を盗んでいるから金には困らないわ」やっぱりやっていたのか。
行き先も決まったし、俺たちはそそくさと天幕市を後にした。
学問通りまでの道は両脇を高い峰に囲まれた、まだ雪が残る谷だった。行きかう人はほとんどいず、たまに厚い外衣を着た旅人やしょんぼりした牛車を連れた商人くらいだった。ぬかるみはひどく靴どころか外衣の下半分が泥にまみれ、空は暗くなりまた吹雪がきそうだった。
「この先ろくな宿がないんだろう。また雪が降ったらどうする」「そうですね」
グラディアーナは空気の匂いをかぐ。用心のためまだ人間のままの姿であるグラディアーナに猫人の面影はない。長い三つあみこそそのままなものの、杖をついて歩く長身の白人青年でしかない。
「人間だと鼻がきかないので自信がありませんが、今晩中なら天気はもちます」「よかった。これでまた雪だったら遭難するわよ」
「大体雪の季節に外へ出るなんて無謀だよな」
「嫌ならひとりで戻れば?」
「そっちの方が嫌だ」
「じゃ、黙ってて」
イーザーがやりこめられたのを見届けてからそっとキャロルに話しかける。
「天幕市に手配したのはラスティアかな、それともマドリームかな」「ラスティアにしては生ぬるい、マドリームにしては間接的ね」
「それ以外じゃないだろ」
「ま、どちらかしか考えられないわね」
「きっとラスティアだ」
イーザーが不穏な表情でつぶやいた。
「ちっとも生ぬるくないさ。これで大きな行動を取りにくくなった。俺たちもミサスも。もしこれが天幕市だけでなくエアーム帝国全域だったらすごく困るぞ」そうか、一都市だけとは限らないんだ。
「そう? あたしたちは今捕まってないじゃないの。あたしは姿を変えられるしミサスだって隠れようと思えばどこまでも隠れられるのよ。大衆の目をかすめるくらい大したことじゃないわ」「今苦しい状況じゃないか」
「そこまででもないわ。もしこれがラスティアの考えだったら二段三段とまだあるはずよ」
今日は大して進めなかった。轍の跡残る岩道を谷沿いに歩き、日が高いうちから野営地を探すことになった。冬は日が落ちるのが早いし夜は冷える。だれも無茶をしたがらなかった。
「あそこがいい」イーザーは貧相な針葉樹の林を指差した。巨岩と木にさえぎられ雪風が入らず、湿った葉が積もっている。小さい隙間だったが4人には十分だった。黒海をつないで木々の間に縄を張り、天幕を下げて屋根を作る。むき出しの地面にも敷物を敷いてから中央にくぼみを掘り固めた。イーザーと2人で大木の影から乾いた木片を集めて火をおこす。この、たった3時間ぐらいの作業でただの空き地はそれなりの仮宿になった。もちろん街の宿泊所とまではいかないけど、少なくとも凍死はしない。
「今夜眠れるかな」火のそばで温めたパンをかじりながら、イーザーは心配した。
「雪も風もない。そんなに問題はないはずよ。見張りを立てて交代して寝る」「お二方とも、胴着を着たまま寝た方がいいですよ」
グラディアーナはどこからか採ってきたベリーを手の中で転がす。
「賞金目当ての冒険者に襲われた時、鎧はあった方が好都合ですからね。翌朝身体は痛みますが」「もちろんそうするわよ。あたしはグラディアーナと比べて若くて柔軟だから、そのくらいで関節がこわばらないの」
「なっ」
ちょっと年寄り扱いしただけなのに、グラディアーナは衝撃を受けたようだった。
「私はまだ21です」ぶつぶつ熱い湯をすする。なおたちが悪いことにイーザーがきょとんと「それくらいで朝が辛いのか?」尋ねた。なまじキャロルとは違い心底不思議そうに思っているのが追い討ちになったようでむっつり口を閉ざす。気分を害したようだ。
夕食の後、見張りの順をくじで決めた。俺とイーザーが先になり、静かに燃える火を囲む。寒いのにじっとしているとすぐに眠くなる。お互い眠気を払うために、低い声で世間話をとりとめなく交わした。