雪はやまない。
「匂いからして峠は越えていると思いますよ。もう少しでやみます」「やんでもすぐには行けないだろう。歩けないほど積もっているぞ」
夕飯は熱々のカブのシチューと黒パン、干したイチジクやぶどうにあった干し肉もついていた。シチューは熱々でうかつにさわると舌を火傷しそうだしパンも十分にある。ごちそうだ。パンをちぎりながらグラディアーナは洞窟隅の厩で干し草を食している黒海を眺めた。
「せめて馬がもう一頭いればいいのですがね。荷台も引けますしそりだって作れます。なんであんなに気位ばかり高い馬一頭なのですか。代わりに驢馬2頭を買えばよかったのですよ」黒海が敏感に反応した。耳を立てて鼻息を荒げる。
「黒海は買ったんじゃないよ。元はザリのものだ。ザリにはすごくなついているけど他の人には気難しい。乗ろうとするなよ」背中を曲げ陰鬱そうに忠告する、そんなイーザーを鼻で笑った。
「私は器用なんですよ。馬ぐらい乗りこなしてみせます。コツがあるのですよ」どこからきたのか分からない自信に、ぼんやり俺はスプーンをくわえた。
全員の皿が空になってから、さっそくグラディアーナは岩の床を横切り乗馬を試みた。猫人は3回振り下ろされ頭の毛をむしられそうになったところで諦めた。
「なんですかこの馬は! 野生ではありませんよね、どうしてこんなに凶暴なんです」つばと鼻水の雨をもろにかかり、憮然としたグラディアーナは気の毒というより面白かった。笑わないように努力をしてなぐさめる。
「黒海はザリが育てた馬なんだ。だからザリしか言うことを聞かせられないんだ。ザリは本物の調教師じゃないんだし、しょうがないよ」「それにザリはファナーゼ出身よ」
ザリの荷物から勝手に薬を取り飲むキャロルは俺たちを見もしない。
「ファナーゼ? 草原国の?」「他にファナーゼっていう国があるのか?」
「ありませんよ。なんだ、先に言えばよかったのに、ファナーゼ人に馬で争おうとは思いませんよ」
「ファナーゼってそんなに馬が有名なのか」
「世界に名前がとどろいていますよ。歩き出すより先に馬に揺られるファナーゼ人についてもね。あのご婦人意外な特技を持っていたのですね」
見直した口ぶりだった。そんなにすごいのかと俺は悩む。俺はザリ以上の乗り手を見たことがないが、そもそも知っている騎手が少なすぎて話しにならない。馬は貴重品で人々は物を運びたいときは牛、ディマ、ラクダに巨大怪鳥ディアトリマ、後は船を使い馬はよほど急いでいるときに馬借から借りるものだ。それにザリは一度たりとも騎手であることを自慢したことがない。自分で言うことさえない。
「ファナーゼは規則がゆるやかな国ですが、馬の扱いに関しては厳しく決められているのですよ」神経質にグラディアーナはつばきをふき取る。
「昔フォロー千年王国と独立戦争したときの名残でね。優れた馬を他所の国にやらないほうが馬の価格は高いままだし戦いの時にも都合がいいと気づいたのです。ついでに名声にもね。自分の国の立派な馬を独占して使いたい放題なのですから、そりゃ技術も上がるってものですよ」「だからザリはひけらかさなかったのか。ザリの国では言いふらすことでもないほど当たり前のことだったから」
納得してから不機嫌な張本馬にブラシをかける。
たくましい筋肉がすぐ下にある黒い毛を触り、まだいら立っている黒海にかみつかれないよう警戒しながら頭は全然違うことを考えていた。
今のおいしいご飯時、イーザーとキャロルはろくに話をしなかった。もうずっと自分の悩みを抱えている。
少し前まで俺も同じように後悔と重責に押しつぶされかけていたから気がつかなかったが、改めて見つめてみると不健康な空気だった。考えこむことは当たり前だがこのままだと頭のどこかにカビが生える。放っておいたらどこかおかしくなりかねない。
ザリの見よう見まねのブラッシングをしながら、その悩みを晴らすためになにができるかを考えた。
一番いいのは相談に乗ることだろう。一緒に考えればいいことを思いつくかもしれないし、そうでなくても重荷を分かち合える。
でも単に「悩みがあるんだろう、相談に乗るぞ」というだけではどうもこうもない気がする。俺は頼りがいがあるようには見えないし見苦しいところもさんざん見せてきた。なんでもないと強がられるのが落ちだ。
自分でだめなら人に頼ろう。グラディアーナに相談するように持ちかけるとか。
即却下した。グラディアーナも失敗しそうだ。いつもふざけている態度がよくない。重要なことを話そうという気にならないだろう。
もう頼れる人がいなくなった。こんなときザリがここにいたら。ミサスでもこの際いい。
「あ」より嘆こうとしたところで思いついた。イーザーはどうだろう。
キャロルにイーザーの悩みを聞くように持ちかける。うん、欠点がない。イーザーなら気安いし誠実だ。頼りがいだって俺よりある。今の限られた人材の中で最適だ、イーザーだってキャロルが心配だからと持ちかければ断らないだろうし、引き受けたならちゃんとやるだろう。イーザー自身の問題に関しては棚上げになるがひとつひとつ解決するほうが先だ。目をつぶろう。
俺が思いついたとは思えない良案に浮かれ、ブラッシングがいい加減だと黒海から抗議された。なんとか終えて日の前に座っているイーザーの元へと行く。
まきをくべながらイーザーは額にしわを寄せ火をにらみつけていた。照りかかる炎で顔の陰影がより際立ち、そのせいか年よりもずっと老けて見えた。
「イーザー、頼みがあるんだ」ずばり本題に切りこんだ。話しかけられるとは思わなかったのかイーザーは腰を浮かしかける。
「あ。な、なんだ?」困った顔になった。
「アキト、やっぱり俺はなんでしょうと丁寧にした方がいいのか?」「なに言っているんだよ、グラディアーナじゃあるまいし」
横に座って声を潜めた。しようと思わなかったのに恨みがましい言い方になってしまう。イーザーが変なことを言ったせいだ。
「だってアキトはクララレシュウムに選ばれた異界人だ。比べて俺はどこにでもいる剣士志望。色々考えると、あんまり馴れ馴れしいのは失礼なんじゃないのかな」うなだれたくなった。グラディアーナの正解だ。
「イーザーな。俺が敬語使われて嬉しがると思っているのかよ」「でもな、そういうのはけじめが必要なんだよ」
「必要になってからにしてくれ。今は差別かいやみにしか聞こえない」
きっぱり言い過ぎたかな。逆に心配になったが、おどおどされるのも恭しく扱われるのも真っ平だった。
「で、お願いなんだけどキャロルについてなんだ」「キャロル?」
「最近様子が変だろ」
「ああ。でも前と違う態度になるのは当たり前だろう。濃い日々だったんだ」
「そうじゃない。傷が苦しかったり戦いのことがわかっただけじゃない。悩みがあるみたいなんだ。イーザー相談に乗ってくれないか」
「アキトじゃないのか」
「俺が言ってもきちんと話してくれないと思う。大切にされているしなめられている」
「俺もなめられているぞ」
「俺よりはましだろう。それに俺と同じくらい長い付き合いなんだ。聞くだけでいい、なにかしろとは言わないからさ」
「それならいいぞ」
あっけないほど簡単にうなずいた。
「よかった、ありがとう。後で話を聞かせてくれよな」「キャロルがいいと言えばな」
当たり前のような条件付けに、俺は作戦に見落としがあったのを悟った。俺に話したくないと思っていることを人一人経由して通してもいいと思うはずがない。ましてやイーザーが他人からの相談された内容を簡単に人に話す訳がない。イーザーはたまに馬鹿なことをするし、単純で一本気で誇り高いが、思いやりのある性格だ。
内心の動揺を隠して「そうだな、じゃあよろしく」軽く肩を叩き立ち上がる。だれにも顔をのぞきこまれないよう気をつけながら今の失敗についてじっくり考える。
いっそ潔くイーザーに任せようか。第一に浮かんだのがそれだった。いつもだったら間違いなくそうしている。そして俺はのんびり高いびきでなんとかなるのを横から見ている。
でも今は見ているだけではまずい気がする。イーザーにも自分の悩みごとがある。そして俺は人を見て気にする余裕があり、イーザーにはない。
やっぱり俺がキャロルへ聞いた方がよかったな。でもイーザーに今のなしなんていえない。どうすればいいんだ。
直接聞き出せないならこっそり聞けばいい。
盗み聞きをするのか。俺は自分の考えに嫌な気がした。後で聞きだすよりもずっとずるい行動だ。倫理を持つ人間としてきっぱり拒否をするべきだ。でも冷静で人情のないはずのもうひとりが友達を見捨てる気かと責める。俺は身動きが取れなくなった。
しばらく二反する考えに悩んでから、決断力のない俺は天に運を任せることにした。やるだけやろう。2人が話している横にこっそりいて話を聞こう。
そもそも相手は生まれつきの密偵キャロルなんだ。素人の俺が全力をつくしてもばれる可能性が高い。気づかれたら謝ってすっぱりやめる、気づかれなかったら話を聞いて今後を考える。それで行こう。
方針を決めたら次は方法だ、どうやろう。
例えば話しているところでこっそり行く。論外だ。広くない洞窟だ、そんなことをしたら絶対に気づく。
ならあらかじめその場にいて隠れるのはどうだろう。悩みごとなんだからだれにも聞かれないようにこっそり話すはずだ。目星をつけていて潜めば可能性はある気がする。
その「だれにも聞かれない場所」とはどこだろう。まさか外じゃないよな。
落ち着こうと深呼吸をしてから部屋を見回した。台所に居間、寝床と厩。それぞれ仕切りがある訳でもなく、ぼんやりとした境界があるだけだ。綺麗好きな人なら我慢ならないだろう。
その中で一番独立性が高いのは厩だった。干し草や糞を考えれば当たり前だ。推理するに相談するとしたら厩の隅だ。なら先に潜んでいよう、それならきっとばれにくいし聞きやすい。
さて、どうやって。もう夜だし寝たふりをして厩に行くのはどうだろう。見つかりにくいところで丸まってひたすらじっとしていればいつか2人がくる。そうすれば耳を澄ませれば終わる。
こっそり2人の様子をうかがう。研ぎ道具を点検するイーザーと炊事道具を片付けるキャロルをまずごまかさないとな。
寝ている振りをするのはきっと簡単だ。毛布の中に外衣とか着替えとかを突っこんでおけば、だれもいちいち確認しない。問題はどうやって厩まで行くかだ。怪しまれないためにこっそりしなきゃいけないけど、身を隠すところがなにもない部屋でこっそり行くことができるのか。
しばらく頭の中で模擬行動をしたけどどうにもうまく行かない。堂々と行けば初めは気にされないだろうけど、いつまでも戻ってこなかったらおかしく思われる。一回疑われたら見つかるのは時間の問題だ。ばれた時の反応までありありと予想できる。
自力で無理ならどうするか。もちろん人に頼ることだ。
こそこそグラディアーナに近づく。グラディアーナは自慢の毛皮を梳かしているところだった。鼻歌交じりで機嫌がよさそうだ。
「グラディアーナ、頼みがある」「はい?」
「今から厩にこっそり隠れたいんだけど、あの2人の気をそらしてくれないか」
グラディアーナは俺を見て、干し草が山と積まれた厩を見て、憂い顔のキャロルを見てからにんまりと「いいですよ」うけおった。
「理由も聞かないのか」「聞いてほしいのですか」
「ほしくないけど、普通気になるだろう」
「私はそこまで抜け作ではないのですよ。なにが進行中なのかは分かるんです。協力しますから後で話してくださいね、面白おかしく」
からかわれているようでいい気はしなかったが、即座にグラディアーナが立ち「食料のことで話があるのですが、聞きませんか?」言われたことを行動に移したので文句を言いそびれた。グラディアーナはさりげなく立ち位置を動かし、2人が俺に背を向けるように誘導してもっともらしく食糧不足と狩りについて話す。
今しかなかった。俺は毛布の中に自然なふくらみができるよう布を押しこみ、できる限りこっそり厩へ行って樽の後にもぐりこんだ。角灯は居間にひとつかかっているにすぎない。こんなにとぼしい明かりの中なら少しぐらいおかしなところがあっても見落とす。それを祈りつつ後は待つだけだった。
必要ならば一晩中もぐりこむ覚悟で俺は息をひそめた。
夜で暗くてじっとしていると眠くなる。初めは興奮していたけど徐々に眠気が襲ってくるようになった。何回目かの戦いの後どうも舟をこいでいたらしい。
「俺の考えじゃない、アキトから頼まれたんだ」「アキト?」
呼び名に跳ね起き、慌てて息を潜めるはめになった。
「ああ。様子が変だから聞いてくれってさ。アキトからじゃはぐらかされるかもしれないから聞いてほしいって言われた。だからキャロル、意地を張るのはやめて話しちゃえよ。自分が思うよりずっとお前は重症なんだぞ」「あのアキトが」
俺のもくろみはびっくりするほど当たったようだ。すぐ横で話しているかのようにはっきり聞こえるし気づかれてもいない。
最大限努力して動いたものの、いざうまくいくと不安になる。俺は心のどこかでばれて台無しになればいいとも考えていたみたいだ。複雑な心境とは無関係に話は進む。
「俺も驚いた。あのアキトがそんな気回しをするなんて」いきなり話がおかしい方向に行きだした。そりゃ当人のいないところでその人が出る時、よく言われるなんて滅多にないことだとは知っているけど。
「意外と成長しているよな。どんなひどい目にあってもめげないし、ラスティアと戦えなんていわれても泣きも逃げもしなかった。キャロル、俺たちひょっとしてアキトを見くびっていたかもしれないぞ。まだまだ色々足りないし、放り出すには危なっかしいが、もうひとりじゃなにもできない訳でもない」ほめられた。喜ぶより困惑する。見直されるほどいいことをした覚えはない。
「好意的に見すぎているけど、ま、使えるようにはなったわね。あたしとイーザーで苦労したかいがあったわ」「キャロル、厳しすぎるぞ」
「あたしは悩んでいる訳じゃないのよ、ただ個人的なこと考えていただけ」
キャロルの方から本題へ切り出した。
「なんだ、それは」「雷竜神クララレシュウムに言われたのよ、全てが終わったとき生き方を変えなくてはいけないって。今アキトはなにも言わないけど、いつかはアキトを主君として見るのをやめなくてはならないって」
途方にくれたような言い方だった。
「そんなこと言われてもどうすればいいのよ。訳が分からないわ。あたしは、地下道でいずれ影として権力を振るうはずだったタリスは、だれか仕える人がいないと生きていけないのよ? あたしが今まで学んだ技術と知識は自分のためではない、他人に捧げるためにあるの、あたしはだれか特定のひとりのために存在しているのよ。それなのにひとり立ちしろって、人に依存しないひとりのキャロルになれって。無理よ、あたしにはできない」頭を殴られたかと思った。きっと本当に殴られたほうがまだましだっただろう。
俺もキャロルが、俺から頼られているようで実は俺に頼っていることを知っていた。他ならぬキャロルから聞いた。それだというのに俺は深く考えず、流されるまま放っておいた。人にすがらなきゃ生き方が成立しないなんて、そんなの健康的なことでないことぐらい分かっていたのに。
「分かっていたわよ。いつかあたしがアキトから離れなきゃいけないことぐらい。アキトは地下道の一族ではない、ただの人間で、あたしのことを部下だと考えたことさえないだろうってね。逆にいきなり指導者ぶって偉そうにしたらがっかりよ。でも、そんなアキトだからこそ群れからはぐれたあたしは安心してすがることができた。クララレシュウムは言ったわ。友がお前を手助けしてくれる、でも立つのはお前だって。あたしにはできそうにない。
イーザー、さっきからなんであたしの顔を見ているのよ」
「え、暗いのによく分かったな」「暗闇で見えなくなる獣人なんていないわよ。答えてもらいましょうか」
どうだろう。いるかもしれないぞ。夜目がきく動物ばかりとは限らないんだし。
「俺はただ、そんなことで悩んでいたのかって思って」人が人を殴る音がした。俺はキャロルを責めない。今回ばかりはイーザーが悪い。
「待て、待てって! 爪はやめろ、お前の爪はすごく痛いんだ!」「刃物の方がいいの?」
「アキトが起きるぞ、ホラ、黒海だってうるさがってる」
「イーザーを相手にしたあたしが馬鹿だったわ」
「待てってば。馬鹿にした訳じゃない。だってキャロル、そう言っておきながらもう結論は出ているんだろ!?」
多分驚きでだろう、キャロルが止まった。ここぞとばかりにイーザーはまくしたてる。
「もう分かっているんだろ、このままではいけないって。元々キャロルは、アキトが間に合わせの主だって分かっていたじゃないか。とっくにキャロルは理解しているし、雷竜神だって同じことを繰り返しただけだ。ただちょっと怖気づいているだけなんだ、もうとっくに分かっていることを少しだけ嫌がっているだけだよ。できない訳じゃないんだ」「イーザー、あなた」
「俺がなにも分かっていないと思っただろう。あいにくだけどなキャロル、第三者として横に立つと本人以上によく見えるんだよ」
大丈夫。イーザーはうけおった。
「雷竜神だって言っていたじゃないか。周りが助けるって。その通りだ。俺もアキトも手を貸すよ。できる限りのことはする。友だちってのはそのためにいるんだ。助けがあればできるだろ、キャロルなんだから」「どうやっていいのか分からない」
「しっかりしろよ。周りを見てみろ、みんな元は単独で生きてきた人たちばかりだろ。グラディアーナもミサスもザリも、俺だってアルと離れてアキトと会うまでひとり旅だったんだ。よく観察して真似してみろ、難しいことじゃない」
困惑と迷いの空白の後「やってみる」おぼつかない返事が返った。おぼつかなくても肯定は肯定だ。「困った時は、いつだってなにか言うから」イーザーは嬉しそうだった。
「今のアキトには黙っておく。アキトには悪いけど言えない」「待ったイーザー」
今までのしおれが嘘のような、ふてぶてしさと茶目っ気をそなえたキャロルの声だった。安心しきっていた俺は石像になる。ここにいることがばれた。
「なんだ」「このまま帰るつもり? つぎは自分の番かもって思わないの?」
「えっ」
「まさかイーザーは自分が隠しごとが得意だなんておめでたいことは思っていないでしょう。あたしに言うべきことを黙っているようだけど、そろそろ吐いて楽になろうとは思わないの?」
苦しい静けさの後「思わない」苦いがきっぱりと言い切った。
「イーザー」「待てキャロル、言いたいことは分かる、でもこの件はまず俺の中で整理がついていないんだ。どうするべきなのか、どうしたいのかさえ見当がつかない」
「しゃべって意見を求めようとも思わないの?」
「思わない。悪いキャロル、でもだめだ。今はできないけどいつか話すから。だから見逃してくれ」
「立派なこと」
低調で単純な響きだった。
「あたしの言いたいことさえ、まるで分かっていない」「キャロル」
「心の整理とやら、早くした方がいいわよ。あんまり遅いようだと無理にでも聞き出したくなるから。個人的な悩みごとの範囲を超えているみたいだしね」
「うっ」
「ま、今日はありがとう。おやすみイーザー」
「……こっちこそ。覚悟しておくよ」
友人たちの気配は消え、短調な黒海の鼻息しか聞こえなくなった。
俺はすぐには動けなかった。作戦は恐ろしいほどうまく行き、俺は得たものの多さと重さにすくみあがっていた。
イーザーはできると疑っていないみたいだけど、キャロルに自立することができるのだろうか。そしてイーザーの秘密って一体なんだ?
このまま吹雪は永遠にやまないんじゃないかと思っていた。日々雪は厚く積もり、風は強く氷柱は一時間ごとに長くなる。入り口代わりの岩も凍てつき、外をうかがうだけでも一苦労になった。
もちろんそんなはずはなく、ここは不毛の地だけど極地ではないのでいつかは雪がやみ進める時はくる。
「もうすぐですよ」顔一杯に雪を浴び、一時的に白猫になったグラディアーナが発表した。
「2日もすれば雪はやみます。出発の支度をした方がいいですよ」「すぐに出て平気? ここは渓谷だろう。雪崩は」
「この風なら問題ありません。崩れるところはとっくに吹きさらされて落ちてしまいます。急に暖かくなったら危ないですが、可能性は低いですね」
「雪は深いか」
「深いです。その点苦労しますね。馬の足を折りたくなければ雪をかいて進まなくてはいけませんよ」
イーザーは腕を組んだ。
「雪かきのシャベルがいるな」「持っていないぞ」
「作るんだよ」
「どうやって」
「どうにかして。2日もあれば工作ぐらいできるだろう」
「雪をかきながら行くのか。大変だし時間もかかるな」
「しょうがないだろう。黒海なしでは食料品もなにも運べないんだし、見捨てていったらザリと再会した時どうするんだよ」
きっと予想もつかない惨事になるだろう。
それからずっとありあわせの木片で日曜大工をしていたのかというとそうでもない。予想外の来客もあった。地竜の洞窟を知っていたのはグラディアーナひとりだけじゃないということか。
ノックの音にも驚いたが、開けてもう一度驚いた。相手はひとりで人間ではなかった。黒に近い褐色の髪は短く、身長はかなりあった。ぴったりの革の胴着の上に柔らかい毛皮をまとっている。そして背中に一対の鳶色の翼があった。
「有翼人種がそんなに珍しいか」暖かい居間に通され厚い湯を飲み干した後、俺の無遠慮な目つきをたまりかねたようだった。いや、珍しいどころか見慣れている。
「比翼族? でも羽根が白くないぞ」「有翼人種にもいくつか人種があるんだ。比翼族は白鳥の羽を持ち、純白で大きい。俺は鷹目族。鷹や鷲、猛禽類の翼を持つ。他には青鳩族、変り種として夜鳴鳥の羽を持つくせに飛べない黒翼族」
青年はチェイサーと名乗った。まだ雪はやんでいないけど急ぎの用があったので谷を強行し、一休みをするために立ち寄ったそうだ。いくらなんでも雪の中行くのは無謀だというと「雲の上ではそうでもない」とのこと。魔法を使ったミサスよりはるかに飛翔能力は高いみたいだ。その下で俺たちは何日も足止めを食ったというのに、ずるい。
俺たちがマドリームからきたと知ると、チェイサーは様子を知りたがったので望み通りに教えた。もちろんラスティアの陰謀とかバイザリムを燃やした犯人が俺たちであることは隠したが。さぞ驚くかと思いきや意外と冷静に受け止められた。
「手前の町々ではマドリームの火事とエアームへの国境侵略で持ちきりだったよ。かなりいい加減な噂ばかりだったが大筋は共通していた。竜帝国にけんかを売るなんてオキシスマームは老いが脳に回ったのか?」答えようがないので黙っていることにした。
「チェイサー、あたしたちは東をぬけて帝都に行く予定なのだけど、そっちの道はどうかしら」イーザーとの対話の後、キャロルは目に見えて俊敏さを取り戻していった。もちろんすっかり元通りとはいかないけど、そのうちにはそうなる。まなざしは生き生きとしてよくしゃべる。
チェイサーは全身すっぽり覆えそうな羽根を小さく上下させた。
「天幕市も雪が降って地面がぬかるんでいる、それ以外は変わりない。急いで通過したから細かいことは分からないけど、あそこは変わりようがない土地だからな。荒々しくて冒険話と一攫千金のねたが転がっている。定期的に人は出て行くが同じくらい入っていくから変わりようがない。待てよ、3日北上したところに鉱源が見つかったって聞いたな。取れるのは鉄だけだけど、それで少しは人が増えたんじゃないかな」労働者になる気はないから、あまり関係のない話だった。
「エアーム帝都は同じだ。人種渦巻き活気がある。皇帝は高齢で後継者の話が出ている。候補は3人、直系の孫のうち次男コーゼス長女サーラ三男ルーサーがいずれも才気に溢れた若者だという話だ。だれがなってもおかしくない」「待った。跡継ぎだけど皇帝には息子か娘はいないのか? 普通そっちの方が先だろう」
「知らないのか? 皇太子夫妻は14年前北の永久氷土を偵察に行って以来行方不明だ」
知らなかった。だから一世代飛び越しているのか。
「幸い孫は5人いる。長男ククモはちょっと向いていないし、次女ミラーはまだ幼い上に内気で支配者にはなれそうにない。でもまだ3人もいるんだ。安泰だな」「皇位を巡って争いにならない?」
「さて。なんといっても皇帝はまだ健康で頭も回る。跡継ぎが問題になるのはずっと先だろうな」
よかったよかった。
「不安材料はそれで終わりですか」「もうひとつ。夏に学問通りが竜に襲われ壊滅した」
天幕市の日常や帝国後継者が消し飛ぶほどの大事件だった。
「嘘だろ!」「本当だ。学問通りはアム火山のふもとにあったけれども、火中に住んでいた灰竜がとうとう目覚めた。眷属をたくさん引きつれて街で暴れ、そのまま西へ飛んでいった」
「あの竜だったのね!」
キャロルが大声で立ち上がった。
「なんのことです?」「あたしたち、フォロー千年王国で灰竜を見たのよ。巨大なこうもりのような竜で西へ飛んでいったわ。きっと同じ竜よ」
「そんなことあったっけ?」
イーザーがぼけた。俺は覚えているぞ。
「まだウィロウと一緒だった時、歩いていたらいきなり竜が飛んできて慌てて隠れただろ。変身できる人は全員変身して小さくなって、見つからないようにって必死だった」「そういえばあったな。竜なんてそうそういるものじゃない。きっとそうだ」
そんなに昔のことじゃないはずなのにひどく懐かしい。でも竜がごろごろいないということには反対したい。結構会っている気がするんだが。
「キャロル、眷属ってなんだ?」「竜が支配し従えている動物のこと。蜥蜴とか、小型の竜とか」
「灰竜は巨大なこうもりの姿をしている。俺が通過したときまだ大こうもりが街をうろついていた。生き残った住民は逃げた。今学問通りを行くなら注意した方がいい。帝都へ行くにはどうしても近くを通らないといけないが、いつ竜が戻るか分からない」
休息が終わり旅立つチェイサーの最後の忠告に俺は頭が痛くなった。いくら竜帝国という名とはいえ、こうも簡単に竜と会うなんて。
夜、俺は夢を見た。
おかしな夢で、映像はなかったのに音ははっきり聞こえた。
息づかいが聞こえる。まるで獣のような息づかい。抑えきれない殺気を向け、巨大な牙をむき出しにしているような気配。相手は遠くにいるはずなのに、俺は身構える。
緊張しながらうかがっているうちに、相手は俺と敵対しているのではなく呼吸が乱れているだけだと分かった。急な運動でへとへとになって、それなのになお先へ走ろうとする意思と怒りを感じる。
だれだ?
聞きたいのに声が出ない、のどがはりついたように声らしい音がなにも出ない。なぜか明るくも暗くもないところなのに見えない。俺はとまどう。
そこにいる人は一体だれだ。
「アキト!」朝から大声で叩き起こされ、俺は跳ね上がって驚いた。あいまいな夢は一瞬で霧散する。
「キ、キャロルか」「当たり前でしょう」
まだ少し寝ぼけている俺を置き去りにしてキャロルは働く。「キャロル。アキトにさ、もう少し敬意を払った方がいいぞ。ああ見えて選ばれた人間なんだ」「アキトのどこを敬えっていうのよ、つけあがるのが落ちよ」イーザーへの軽口に苦悩の色はもう見られない。いいことだ、と言うべきなんだろうか。
「そうか、今のは夢だったんだ」「なんの話だ? 寝てたんだから、そうじゃないか」
なぜか汗がふき出る、震えがきた。
変な夢だった。夢なんてそんなものかもしれないけど、やけに不安になる。落ち着かない。
あの人はだれだろう。夢の向こう側にいた人に、なぜだか俺は覚えがある気がした。知っている相手なのに分からない。なんだか悔しくて歯がゆい。
確かに知っている人なのに。
「あれキャロル、なんで朝起こすんだ?」朝だから起きるのが当たり前、とは今は思えない。雪に閉じこめられているようなものだ、多少寝坊してもいいのに。
「顔洗ってから外を見なさい」「外?」
よく分からないまま岩の扉に近づき、力の限り横へ通した。
分厚い雪の上には雲一切れもない青空が広がり、雪盲になりそうなくらいまぶしかった。