三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

あまやどり 1

降りはじめは弱々しくてはかなかった。

歩くごとに暗くなっていく空から、ためらいがちに雪片が舞い降りた時には、急いでいるにもかかわらず立ちどまって見上げたくらいだ。

粉雪はわりとすぐぼたん雪に変わり、やがて強風の中雨が混ざる横殴りの大雪になった。谷は白く染まり、ついでに髪も顔も雪が被る。前髪が凍って氷柱になる。全身が濡れて足は凍え、とうとう前を向いて呼吸するのさえ大変になった。

「このままだと遭難ですね。避難しましょう」

グラディアーナが怒鳴る。猫人はすぐ近くにいるのだけど、雨風のせいで大声でないと聞こえない。

「避難って、どこに!? 戻れないぞ」

寂しい谷だった。緑は棘のある低木が思い出したように生えているだけ、足元は岩で覆われ、見回しても休めそうな岩陰はない。仮に座っても強風と豪雪で火も焚けそうにない。

かといってこのまま歩いているだけでは全員凍死だ。どうしよう。

「後少し行ったら洞窟があるんですよ。地竜の谷にある鉱物目当ての山師や山賊のようなものが隠れるような洞穴です。この人数なら入れますし中は乾いてかまどもありますよ!」
「山賊も隠れるって、野盗がいたらどうするんだよ!」
「冬谷にとどまる馬鹿はいません! 人通りさえ滅多にないのですよ!」
「場所は分かるのか!?」
「入ったことがあります!」

グラディアーナの言う後少しは体感としてはかなり長い時間だったが、外套も頭巾からのぞく頭半分も白くなったグラディアーナは見事洞穴を見つけた。入り口代わりに大きな岩でうまく隠されていて、言われなかったらすぐ前を歩いていても分からなかっただろう。

岩を3人がかりで横へずり動かし、ようやく中で遭難の心配なしに倒れることができた。

「雪って怖いな」
「当たり前でしょう。雪が幻想的なのは窓から外を見ているだけですよ」
「俺が住んでいたところ、雪なんて滅多に降らないんだ。死ぬかと思った」
「洞窟がなかったら死んでいましたよ」

凍りついた髪が溶け、少しは歯の根が合うようになってからようやく洞窟中を眺める。

思ったよりも広かった。八畳ぐらいで床はむき出しながらもなめらかな岩で、中央には低めのテーブルと椅子が備えつけられている。隅には簡単ながられっきとしたかまどが座っていて、練炭なんだろうか、横には燃料まで積んであった。前の人が残してくれた干草もたっぷりあり、避難してきたのにかなりの好環境のようだった。

「アキト、なんとかしてくれ!」

夢からさめた。疲れと寒さで動きたくない身体を起こす。イーザーが黒海ともめていた。黒海は馬だから口論なんてする訳ないけど、代わりに洞窟に一歩入ってからびくとも動かず、イーザーが力づくで手綱を取るのを全力で拒否している。

「俺か」
「しょうがないだろ、アキトの言うことを一番聞くんだから。あっちの干し草がある方が厩代わりみたいだ。行ってくれ」

不精不精ながらも俺は交代した。イーザーは背中に山ほど積んだ荷物をほどいて降ろす。「行こうよ」俺はなだめて綱を引っぱる。やっぱり無視されて少し泣きたくなった。

他の問題に比べてどうでもいいことだが、それでも鼻息荒い黒海は十分悩みの種になった。なにが困るってザリの言うことしか聞かないからだ。

もちろんザリのいる時はなんてことがなかった。ザリの言うことをよく聞いておとなしく働き、ザリもかわいがって十分な世話をした。俺たちは手をふれずに優秀な荷物運びを所有できた。

しかしザリは今ここにはいない。バイザリムにとどまったミサスを守るために戻ってしまった。

そして犬のように従順なはずの黒海は、ザリ不在でいきなり手のつけられない暴れ馬になった。進まない、歩かない、手綱に触れるのさえ嫌がる。後ろから押したら蹴飛ばそうとする。ザリが「育て方が悪くてわたしにしかなつかない」と子どもを自慢するようにぐちっていたのを思い出す。あの時もっと真剣に聞いていればよかった。

へとへとで意識もぼんやりしがちな中、代わる代わる主人不在の黒海に言うことを聞かせようとした結果、どうも俺ならかろうじて言うことを聞かせられるようだった。分かってから俺が強制的に馬番を押しつけられ、息もたえだえながらここまで引いてきた。全く、一番馬と疎遠な俺がどうしてだ。乗ったことがあるからか?

「頼むから進んでくれよ、ほら、いい子だからさ」

できる限りザリっぽく言って手綱を引く。黒海はその身長差で俺を見下げ、「嫌だ」と言う代わり唾と鼻水を降らせた。もう見慣れた光景にだれも笑わない。

なんでこうなったんだろう。俺は悩んだ。

ザリがこんなに大切にしていた黒海を置いていった理由は分かる。黒海に積まれた荷物の量は残された俺たち4人が分担しても重すぎる。できる限り少なくしているけど、水など生きていくのに必要なものは捨てられないし、人数が多いから結構な重さになる。俺たちにはどうしても馬が必要だとザリは判断し、かわいがっていた黒海と別れたのだろう。

その判断ができたのなら、どうして黒海がザリしか従わないことを思い出さなかったのだろうと臍をかんだ。

ようやく歩き出した黒海をなおも全力で引きながら後悔の相手を移した。俺たちもよくなかった。ザリがいるうちから少しでも黒海に慣れておけばよかった。ザリが面倒を見ている間、俺はまかせっきりでなにもしなかった。黒海はザリのものだけど全員にとってもなくてはならない馬だった。

一回動き出した悔いは止まらない。俺はそもそもの原因を振り返る。

ザリは行ってしまった。大切な黒海も荷物も置いて。俺が激情に駆られた言葉を受けとりミサスの元へ助けに行った。

ため息をついた。なんであんなこと言ったんだろう。ミサスのことは心配だ、俺たちのためクラシュムに残ったミサスが今どうしているかすごく気にしている。でもだからって不安をザリに話すべきではなかった。後先考えない俺の願いを聞いてくれたザリに、逃げ出したはずの戦場へ走らせてしまった。そっちの方がよっぽど危ないのに。

「ザリの性格考えたら行くのは当然だったのに、なんで言っちゃったんだろう」

意識の外でもれた言葉に、ようやく厩へ着き水と干草を前に並べられた黒海はなにを思ったかいきなり俺に鼻を押しつけた。鼻息荒い中での粘液を顔に押しつけられ後ずさるも、ひょっとしてなぐさめられたのかもと高いところにある目を見る。こういう時黒海は実はすごく賢いんじゃないかと思う。あながちザリも猫可愛がりしていただけではなかったのかも。

「鼻水まみれですね」

一仕事終えた俺へからかいの声が飛ぶ。

「しょうがないだろ、動物を相手にしているんだから。おかげで唾も鼻水も平気だよ。それより外は?」
「ますますひどくなってる。よくここまでこれた」

イーザーは素っ気なく閉めた岩の隙間から外を伝えた。

「いつ止むんだろう」
「さあ」
「収まるまで進めそうにないわね」

俺は意識せずにかまどに燃料をくべていたキャロルを見た。キャロルは淡々と湯を沸かそうとしている。こっちを見ない。しっかり巻いた包帯には血がにじみ凍っていて、たまらず目をそらした。

キャロルの声を聞いたのは久しぶりのような気がする。谷に入ってからというものミサスが乗り移ったかのように無口になった。重傷なんだから当たり前とはいえ、元気がなく、どこか欠けたようなキャロルは見ていて不安になる。とはいえ俺にできることはない。やきもきするしかなかった。

「ザリたち、大丈夫かな」

形のない不安から逃れようと別の恐怖へ目を向ける。

ザリは馬もなく荷物も大半おきざりで行ってしまった。谷は崩れて進めないだろうしろくな食料も金も持っていないはずだ。そんな中ひどい吹雪にあったら下手すれば凍死する。震えながらさまようザリを想像する。

「大丈夫じゃないですか?」

いとも気楽にグラディアーナは答え、自分の手ぬぐいを俺に投げつけた。「顔が見苦しいのでふいて下さい」

「見苦しいってひどいな。じゃない、なんで平気って言えるんだよ」
「彼らだって子どもじゃないのですから、自分の身ぐらい自分でなんとかできますよ」
「雪風ともなればなんとかならないかもしれないぞ。運良く耐えられたとしても追いつけないかもしれない。このまま追いつけなかったらどうしよう」
「今アキトが心配したらザリが雪を避けてまた同行できるのですか?」

嫌なことを言われた。つまる俺にグラディアーナは流し目をする。

「気にかけても仕方がないことですよ。今できるのはせいぜいこれからの最善を尽くすことと祈ることぐらいです。なら振りだけでも平然としましょうか。考えすぎると毛並みが荒れますよ」
「俺は猫じゃないぞ」

憮然としつつもグラディアーナが正しいことを認めた。その通り、考えてもどうしようもない。なんとかしたくても自分たちだって遭難の一歩手前にいるんだ。今ここでできることはない。

ないとは言え、それでも自分の無力さに歯がみしてしまうのが人間のサガだ。


雪も風もひどくなる一方だった。もう外はじっとしているだけでも耐えられない。寒気で肌が痛み、目さえまともに開けられない。開けたところでものが見える訳でもないし。

泣き叫ぶような吹雪の中、洞窟は平穏だった。侵入してくるのはたまに流れこむ寒気ぐらいで、強風からも大雪からも守られていた。残っている燃料のおかげで中は暖かく、かまどで火が通った食事をしてぐっすり寝ることができた。吹き溜まりのような安息の時だった。

もちろんただのんびりしていたのではない。これからの道のりについて地図を囲んで話し合ったりもした。

「地竜の谷からアザーオロムまで、ですね」

丁寧な写し紙を前にグラディアーナは先生のように熱弁を振るった。

「だとしたらアム火山東側を沿うように通ってエアーム帝都まで行き、そこから進むのが正当ですね」
「通る街について教えてくれ」
「いいですよ。クラシュム含むこの一帯はエアーム帝国西端です。れっきとした帝国領ですが帝都から遠く、山々に隔てられているのであまり帝国らしくありません。独自の文化が発展していますし他都より強い自治権が認められています」
「危険か?」
「場所によります。街ごとにがらっと様子が変わる、統一感のないところですから。北からアドマント公国、南から水門国家レイド、西からマドリーム荒野国からの人間が混ざり合って見ものですよ」

中でも有名なものが2つあります。グラディアーナはもったいぶった。

「ひとつは谷を超えた所にある天幕市。山師や冒険者が集まる荒くれの街です。彼らは地竜の谷を初めとする鉱山や産出する宝石、未発掘の遺跡が目当てです」
「遺跡?」
「大昔の王都がこの辺りにあったようですね。よく貴人の墓や館が埋まっています。もちろん宝物も」
「それは盗掘じゃないか?」

犯罪行為じゃないかな。グラディアーナは「ばれなければどうと言うことがありません」そ知らぬ顔だった。いいのか?

「もうひとつは学問通り。もとはここら一帯を支配していた豪族の都でした。彼らがいなくなり、近くのアム火山に竜が住んでから落ちぶれました。今では学問と研究の街として有名です」
「竜? 危なくないのか」
「アキトみたいな人が多かったから街は寂れたのですよ。今のところ一回も竜が街に姿を見せたことはありません」
「竜帝国って言うくらいだからな。竜がいるのはしょうがないか」

イーザーは地図をにらみつけた。「治安は?」

「普通です」
「そこを抜けたらエアーム帝都?」
「ええ。東の大国エアーム帝国の首都。皇帝の一族が住む城と種族を問わぬ商人たちが集う市があります。竜騎士も」
「大国だよな。エアーム帝国の兵士たちは秩序だって冷静だし、軍馬代わりの竜は空を飛び勇敢だ。敵なしだな」

俺たちに関係ある話じゃないけどなと付け加える。ひょっとしてイーザーは竜騎士にあこがれているのだろうか。確かに格好よさそうではあるけど、前みたいに寄り道する余裕はないぞ。時間的にも精神的にも。

「竜騎士ってクララみたいなのの背中に乗るのか? すごいな」

一応の興味を見せて聞くと、イーザーはさっと目をそむけた。

「乗るのは普通の竜だよ。神竜に乗れる訳ないだろ」

ん?

「俺また常識外れのことを言った?」
「……まあね」
「トカゲと日本神話の龍くらいには違うものですね。ま、些細な間違いですよ」

グラディアーナが教えてくれた。全然異なるものじゃないか。それにしてもグラディアーナは日本で色々学んだようだ。

「アザーオロム山脈は帝都の東、東の果て。世界の終着とも評される高い山々です。いつも雲がかかり雷光が荒れ狂っています。厳しいところですよ」
「雷竜神クララレシュウムの神殿がどこにあるか知りたい。知らないか」
「知っています、有名ですよ」

緊張して聞いたのにすごく軽く答えられてしまった。

「有名?」
「神話にもあるじゃないですか。雷竜は東の向こうから来る邪悪を食い止めるためにアザーオロムにいて見張りつつけているのです」

そういえば、昔暇つぶしをかねてのキャロル神話語りから聞いたことがある。本人からも直接聞いたっけ。

「神殿は本当にあるんだよな、おとぎ話じゃないよな」
「みたいですね」

おい、どうして断言しないんだ。不安になるだろ。

「実際に私が見た訳じゃないですから。アザーオロム山脈は本来進入禁止で、ふもとに竜が住み見張りをしています」
「登りたければ竜と戦えっていうのか!? そんな無茶な」
「別に戦いたいなら戦ってもいいですけどね。例外があるのですよ。神殿に巡礼する雷竜神信者がそうです。帝都のしかるべき所に届けを出せば問題なしです」
「なんだ、簡単なんだな」
「大半の信者は遠くから神殿を見て満足して帰ります。ちゃんと神殿の門までたどり着いて触ったと言う話も聞きますよ」
「じゃあ行けるな」

でも厳しい厳しいって言われるんだ、ちゃんと準備しないと遭難しそうだな。なにを買えばいいんだろう。

「帝都で買い物できるかな。イーザー、金はあるか」
「ある。今まで無駄使いしなかったから資金は十分だ。でもその前に天幕市で剣を買うぞ。俺のはなくした」
「そうだったな。まだキャロルから借りていたんだっけ」

うなずくイーザーは目を合わせなかった。


翌日の朝、俺は嫌々ながら避けられているのを認めた。

イーザーが素っ気ない。ここしばらくまっすぐに顔を見た覚えがないし会話もとぼしい。キャロルはもっとひどく、ふさぎこんでいてだれとも関わろうともしない。怪我の具合が心配だが憂鬱状態であるのも気になる。

黒海にブラシをかけながら俺はじっくり考える。物思いにふけりたいとき動物は便利だ。してやらないといけない、細々としたことが一杯ある。

あいにく嫌われる理由には心当たりがある。この争いに巻きこんだことだ。

クララとラスティアのいさかいにイーザーは無関係だ。俺も無関係だったけど今は当事者だし、俺は逃げるつもりも隠れるつもりもない。

「でもイーザーたちは違うんだよな」

ため息が出る。完全に巻きこんだな、さぞ不快に思っているだろう。その怒りが俺に向けられてもちっともおかしくない。

おかしくはないが、今まで遠慮なく付き合ってきた友人に嫌われるのは辛いことだった。鬱屈してつい黒海の毛並みに額を打ちつける。

危うく黒海に前髪をむしられるところだった。慌ててぺこぺこ謝る。この上黒海にまで嫌われたら悲しい。

吹雪はやまない。一日5回は外をのぞくけどいっかな雪は止まらず、谷に積もっているのを確認するだけだった。

「これでは雪がやんでも進むのは骨ですね」

真後ろから声をかけられて心臓が跳ね上がった。こわばった動きで後ろを向くと、目にも鮮やかな黄色の毛並みが見える。

「グラディアーナ」
「早く閉じてください。ひげが痛いです」

言われた通り閉じる。今ここで普通、もしくはそれ以上に俺に話しかけるのはグラディアーナだけだった。

気づいたけどグラディアーナは女並みにおしゃべりだった。どうでもいいこと、日常的なことから始まり放っておけば30分は止まらない。寂しがり屋には見えないけど。

「そういえばグラディアーナは俺と会う前、なにをして生きていたんだ?」

俺は半猫の青年についてほとんどなにも知らないのに気づいた。

「なにって、ずっと放浪していましたよ」
「グラディアーナにもお父さんやお母さん、家があっただろ」
「父親については知りません。子猫の時は母に育てられました」
「離婚か」
「月瞳の風習です。私の母は森の中で移り住む昔ながらの暮らしをしていましてね。慣習を大事にしていたんですよ。ひとり立ちして森を出てからは放浪三昧でね。気の向くままあれこれ行ったり勉強していたりです」
「自由な生活なんだな。困った目には会わないのか」
「日本に行き着いて帰れそうにない時は少し困りました。あそこは刺激的で面白ことが一杯でしたが、人が獣人慣れしていないのでそのままで歩けないんです。肩がこりました」

いい加減に歩いた結果日本とはすごい。でも片道切符だなんて無茶がすぎるぞ。俺に会わなかったら日本に永住する気だったのか。

「いつもひとり?」
「大抵の場合は」
「寂しくなかったのか」
「我慢できます」
「それにひとりだと大変だろう。大勢で行動した方がいいのに」
「群れるのは嫌いなんです」

冷ややかに笑った。

「嫌う理由が分からない」
「アキト、集団になればそれは強いですよ。金もあるし手だって無数です。でも内側の個人は部品になることが必要とされるんです。自分の考えを持つことは許されず目も手も他者のために使われます。いくら群れが巨大でもそんな半人前になる気はありません」

俺たちに背を向けていたキャロルの耳先が震えた。

「ひとり立ちもできず、他人に寄りそっている人間なんてちょろいものですよ」

あせる気持ちとは裏腹に日々は平穏に過ぎていく。

天候による遅れを俺は諦めて受けいれた。やまない雪に文句を言ってもしょうがないし、どうあがこうと外に出れないんだ。食料も燃料もある。それも最低限どころか十分な量があった。おかげで食事は暖かいものをたっぷり食べることができたし、寒さに震えることもない。進めないことを除けば申し分のない生活だった。

「また見ているのですか」

入り口の岩をほんの少しだけ開け、寄りかかって空を見上げていたら声をかけられた。グラディアーナ。

「グラディアーナは人見知りするようには見えないのに、どうして俺ばかり話しかけるんだ?」
「地下道の従姉妹はうつむいて悩んでいますし、イーザーは自分の考えごとに鼻先まで漬かっています。アキトしか話し相手がいないんですよ。ねえ構ってください」

梅雨で暇な飼い猫かよ。

「そりゃいきなり雷竜だのといった話になれば恐縮して敬い考えこむのも無理ないですけどね」

分かっているとばかりに金の片目を閉じる。俺は目を丸くして伊達男を見つめ返した。

そうか、俺が避けられているのは巻きこんで怒っているからだと思っていたけど、そうじゃなくて急に竜や神や世界の滅亡なんていった話にしりごみしたからかもしれないのか。直接クララと話す俺が実際以上に偉く思えて遠慮しているのかもしれない。そういう考えもあるか。むしろ第三者として冷静に見つめるグラディアーナのほうが物事を冷静に見ているはずだ。

「グラディアーナは避けないのか」
「避ける理由があるのですか」

無邪気そうに聞き返された。

「自分の殻にこもっていませんし、話しかければちゃんと応えますからね」

グラディアーナは俺を真似て、吹雪いている切れ目の向こうをのぞいた。

「もっと暗いかと思いましたよ」
「なにが」
「アキトが。顔を会わせるだけで憂鬱になるような性格だと思っていましたけど、実際話していたらそうでもありませんでしたね」
「それはグラディアーナが悪いんだよ」

考えてみればグラディアーナと顔をあわせるとき、両方とも俺はすさまじく落ちこんでいた。どっちも最悪の心境だったから、猫人がそれを普通の俺だと勘違いするのもしょうがない。もちろんどっちが悪いかといえばへこんでいるのにのこのこ出てくるグラディアーナがいけない。

「あの時色々あって俺は限界だったんだ。いつも傷ついている訳じゃない」
「そうですか。今はなにを考えていたのですか?」
「んあ」

迷った。言おうかどうか。

「響さんのこと考えていた」
「ヒビキの?」
「ああ」

なにもかも見通すような金の瞳から目を離す。

「結局のところ、キャロルは正しかったんだ」

グラディアーナは黙っていた。外を見るふりをしてキャロルを探すけれども、視界中にはいない。代わりにイーザーが凝視していた。足元に穴のあいたブーツとつぎ当てようとしていただろうなめし皮が落ちたことにもまるで気づかない。

「あの時俺たちはどうしてもグラディアーナに会ってクラシュムの地下へ行かなくちゃいけなかった。もし会えなかったら俺たちはクラシュムを素通りしていまだになにが起きているのか分からずまごまごしていた。あの時あの丘に俺たちがいることがどうしても必要だったんだ」

ラスティアは、ひいては響さんは知っていた。

「響さんは俺を殺そうとしていたのではない。時間を稼ぐつもりだったんだ。あの時の俺たちはぎりぎりだった。少し遅れればクラシュムの人たちにグラディアーナは見つかり、グラディアーナは逃げ出して俺たちは永遠に会えなかった。それが目的だったんだ」

俺は響さんには勝てなかった。武術の腕、気迫、背負っているもの、どう考えても勝てる見込みがない。分かっていなかったのは俺だけだった。

「キャロルは戦いに割って入って大怪我しながらも勝った。正々堂々したことじゃないけれどキャロルのしたことは正しかった。うっかり罠にはまった俺をキャロルは助け、全員を救ったんだ」

今だって思い返すのはきつい。傷はまだかさぶたさえできていず、そっと触れるだけでも血がにじんで流れた。でも考えずにはいられなかったし、何回も山の手線のように出来事を追って認めざるをえなかった。

白々しい拍手がした。手のひらにも毛がびっしり生えているから音がくぐもって聞こえにくい。

「嫌なことから目をそむけずよくできました」
「がんばったんだよ、こう見えても」

素っ気なく返したが、ふと気になった。

「グラディアーナはどこまで知っているんだ? クラシュムの地下神殿でひとりだけクララからはぶられただろう」
「ええ、ひどい話ですよね。今までのアキトたちが言ったことから推理して、大体は把握しているつもりですよ」
「言ってみろ」
「神竜の末子雷竜は極悪非道な人間ラスティアに地位を追われました。取り返すべくあなたがたを本人の知らぬ間に集めさせ、アザーオロムの雷竜神殿に向かわせている。行ってどうするのかまでは知りませんが、それまでひとりでも欠けてはいけない、そんなところですね」
「ほぼ完璧じゃないか」

俺はグラディアーナを見直した。

「アキトは特に内緒にせず堂々と話していましたからね。分からないはずがありませんよ」

実のところ俺もラスティアのところまで行ってから具体的にどうすればいいのか分からない。力を奪い返すなんてどう行えばいいんだか。多分暴力に頼るはめになるだろう。スタッフでひたすら殴って泣いて謝らせて無理に言うことを聞かせることになりそうだ。野蛮だし想像以上に血なまぐさくなりだろうけど、こんな手しか思いつかない。

「そこまで分かっているのなら話は早い。俺がやろうとしていることはすごく危険なことで、グラディアーナは巻きこまれているんだ。逃げ帰ったほうがよくないか」

本音としてはグラディアーナを追い出したくはない。グラディアーナは地理に精通しているし、ふざけているけど一緒にいると明るい気分になる。いて欲しい相手だ。

でもグラディアーナのことを考えれば、この先別の道を行く方がいい。これ以上無関係な友人を巻きこみたくない。

「いい方法ではあるのですけどね、アキト。結局私が手配されている事実は変わりませんよ」

そういえば別件で探されていたんだっけ。

「私だってとっくの昔から、アキトが私を見つける前から巻きこまれているのですよ。いろいろなことを考えるに、このままくっついていた方が安全そうですね」

そして猫が満足しきったときに浮かべる笑いを張りつけた。

「それに、こんな滅多に起こらない事件があるのに私をハブにする気ではありませんよね」
「危ないぞ、痛い目を見たり最悪死んだりするかもしれないぞ」
「日本だって安全ではありませんでしたよ。ここでも今でも危険は見ました。例え田舎で飼い猫をしていたって危険はあります」
「グラディアーナ、分かっているのか?」
「アキトこそ。そろそろ私が目の前にいない敵にひるんだり緊張しないのだというのを学んだらどうですか」

言い争いに負け、俺はすごすご逃げ帰った。口でも腕力でも勝てそうにない。