三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

3. 良心

大魔道士はわたし、リタ、ミサスと順ににらみつけました。かえるの気持ちが分かりました。急なことで身じろぎできません。

「影踊りに黒翼に人間。珍しい組み合わせだこと」

確かにありふれた3人組ではありません。ミサスもリタも存在そのものが記念ものの種族です。

一見見劣りするはずの人間のわたしを、鬱金はわざとらしくじっくり観察しました。

「村の人間ではないわね」

言っている意味が分かりません。目を白黒させているわたしへ、ああと大魔道士はおざなりに手を振りました。

「こっちの話よ。最近近くに住む人間たちがしょっちゅうきてうるさいのよ。あなたは荒野の民には見えないわね。それで?」
「それで、とは」
「用件を言いなさいとせかしているのよ」鬱金は気の長い人ではないようです。言葉尻に険悪の色が浮かびました。
「ご近所ではない人間と、ちょっと前こてんぱんに打ちのめしてあたしを死ぬほど怖がっているはずの影踊りと、もう滅んだかと思った黒翼がつるんで騒いでいた理由を言いなさい。特にないのなら寝るから黙って帰りなさい」

挨拶や礼儀作法をすっ飛ばし、相手の方から本題に切りこみました。話が早いのはいいことですが、こっちにも心の準備があるのですけど。

と、リタが悲壮なまでの表情で踏み出し、ドレスのすそをつかみました。

「初めまして、大魔道士鬱金さま。わたくしはリタと呼ばれています」

国王にもこうはしないというほど深々と礼をしました。

「人間はザリ・クロロロッド。黒翼族はミサス。用があるのはわたくしです。おふたりには付き添いできてもらいました」

人々の宮廷作法を学ばざるをえなかったことを、リタは今初めて感謝しているのではないでしょうか。リタは怯えていましたが、それにもかかわらず堂々と礼儀正しく振舞っていました。

「お願いがあります。いにしえのわたくしたちとの戦いを思い返し、巫女カーラハディの子孫に代わってわたくしたちへ命じてください」

心なしか鬱金の瞳に面白がる色が見えました。

「なぜ?」
「巫女の子孫が下す命令によってわたくしたちは消滅の危機にあるからです。マドリーム王オキシスマームの持つ誓約は強力で、わたくしたちは逆らえません。今隙をついて逃げ出しあなたさまの元へ参りました。カーラハディの子孫より鬱金さまの方が制約の正当性は大きいはずです。鬱金さましか命令を打ち消しわたくしたちを救えないのです。どうか、どうかお願いします」
「ふん」

鬱金は鼻を鳴らし、蛇の下半身をくねらせわたしたちを見下しました。

「きなさい。詳しく話を聞いた方がよさそうね」

今まで入った中でも最低に汚い部屋でした。

魔法使いらしく巻物や本が山となり、巨大な水晶球が無造作に転がっています。腐るを通りこして乾いて粉になった薬草が、積みに積まれた乳鉢の中にかすかに見てとれます。部屋中まんべんなく空になった酒瓶が転がっています。緑色の小刀が突き刺さった丸いものはチーズのなれの果てでしょうか。中央の黄色い布はきっとベッドだと思いますが、わたしなら雑巾にしたいとさえ考えないでしょう。まんべんなく埃が積もって歩いた後には足跡が残りました。

足の踏み場が全くない寝室へ、鬱金は無理に押しのけ這って進みました。わたしたちは正確に彼女の跡を追いましたが、もちろん歩ける場所がそこだけだからです。

わたしは潔癖症ではありません。研究がはかどっているときは部屋を散らかして人を呆れさせることもあります。でもこれはひどい。片付けるにしてもどこから手をつけていいのか分かりません。埃に喉をやられたのか、ミサスは何回も咳をして不快そうに喉をさすりました。

リタは歩きながらずっと話していました。地下の大魔道士が住む部屋まで行く時から、さながら王座のようにベッドに腰かけ青の瞳がリタを見つめ直す時も。話しているうちに怯えはなくなり、礼儀もなくなりました。事態が切羽詰っていて礼儀作法をはさむ余裕がなかったのです。自分の命と種族の存亡がかかっているからそれだけ必死なのです。熱に浮かされているようにさえ見えました。

「なるほどね」

ようやくリタが口を閉ざし、鬱金は納得したように頷きました。

「ラスティアはここにもきたわ」
「!」
「近くまで飛んできたけどあたしの結界に入れなかったので帰ったわ。あたしはそのとき寝ていたから気配をさぐろうにも探れなかったしね。そう、そんなことが起きていたの」

ため息のように聞こえました。

「鬱金さま。あの」
「さっさとした方がよさそうね。どうせ簡単なことなのだし、伸ばす理由はないわ」

紫の上着と汚れた皿に埋もれていた杖を引きずりだしました。黄水晶を抱いた蛇の飾りが頭にある、大きくて重そうな杖です。

「もっとも竜に近い鬱金、ナーガのガラディアスが盟約によって命じる。ツキカゲよ。あたしに従いなさい。水が低きに流れるように、朝に日が昇るように。あたしが言うことを信じあたしが下した命令どおりに動きなさい。そしてまず命じる。カーラハディの子、オキシスマームに従うな」

魔法や影の世界では、言葉や想像力、意思が強い力を持ちます。ツキカゲという影踊りの(あるいはリタの)本当の名を出した途端、めまいを起こしたかのように部屋が震えました。向けられた杖はリタには触れていないのに、後に押し出されしりもちをつきます。

「リタ」
「あ」

人形の首を無理に曲げたかのように、リタは機械的に動きました。

「信じられない」
「なにが」
「解けたことが」

なんでもないようにふんぞり返る鬱金とは対照的にリタは全身をわななかせました。

「わたくし、やったのですわ、影の呪縛を解きました」

成功したのでしょうか。

「解放されました。もう馬鹿王にもラスティアにも従わなくていい。生きのびた!」

きゃあと本物の娘のように飛び上がり、わたしの手を取り歓喜の踊りを始めました。音痴の演奏団に合わせたような滅茶苦茶さです。へっぽこダンスを披露するのは心苦しかったのですが、喜びに水をさすのも気の毒ですので黙って付き合います。

「鬱金さまのおかげですわ!」

おっと。急に手を離され転びかけました。

「ありがとうございます、感謝してもしたりませんわ」
「礼なら後でたっぷりもらうわよ」

鬱金は尊大でしたが、態度にふさわしい実力の持ち主でした。今更ながらに鬱金が親切で聞きわけがよかったことに安心します。ここでごねたり嫌がられたら、わたしたちか影踊りの一族のどちらかはこの世からなくなっていました。わたしもお礼を言うべく背を伸ばします。

「ザリさまにも感謝いたしますわ」

先を越されました。

「わたし? なにもしていないのに?」
「いてくださったじゃないですか。もちろんミサスさまもですわ。ありがとうございます、次はこっちの番ですわね。間違いなくザリさまを送り届けますわ」
「それ待った」

さりげなく鬱金が止めました。

「その前にあたしは荒野の外がどうなっているのか知る必要があるわ」
「どうなっているかって、わたくしがお話した通り」
「マドリームの外を見たいと言っているのよ」

きっぱり否定してから鬱金はわたしへ流し目をしました。

「雷竜とラスティアの間にあるいさかいは面白そうだし、ただでさえ長い時間寝ていたから今の世情に疎いのよ。取り返さなくてはいけないわ。黒翼、今について知っていることを話なさい。どこに行くのは知らないけど、出発はその後よ」

意外にもミサスは素直に従い、わたしはとりのこされました。


話している間わたしとリタは地上の東屋で待とうとしました。

大理石らしい長椅子に腰かけ、リタが話す感謝と今後について聞いたのは覚えています。ところがその後、首が重いとうなだれてから一切の記録がありません。次に分かったのは顔に山と書物が注ぎ、窒息しそうになって起き上がったところでした。

「本?」

全身がだるく頭がはっきりしません。さっきまで東屋で緑を眺め荒野とは思えない涼しげな風に吹かれていたはずでした。それがいまやカビと埃くさい本に囲まれています。いつの間にかかけられていた毛布をどかし、なぜわたしは図書館にいるのかと首をひねりました。

「お加減いかが?」

ぼんやりしているわたしの前にリタが顔を出しました。なぜか紺のドレスは袖をまくりあげ、つややかな黒髪は後で束ねています。

「わたし、外にいたのじゃなかったっけ」
「ええ。お眠りになる前は」
「寝ていたの?」
「それはもうぐっすりと、隣で竜が決闘しても起きないぐらいによくお眠りに。野ざらしにするのは気が引けたので、鬱金さまのお部屋で一番ましだったところに置きました。よほど疲れていたのですね」

それで図書館ですか。確かにさっきの寝室よりは格段に清潔でした。本しかありませんし床だって歩ける程度には見えます。埃でくしゃみをしながら見上げると空の本棚が目につきました。わたしの身長よりも高い本棚からの攻撃を受けたようです。痛いだけですんでほっとしました。

「そうだ、今何時!? わたしはどれだけ気絶していたの? 早く行かなくちゃ」
「落ち着いてくださいまし。そう長くではありませんことよ。夜になったばかりですわ」
「長いじゃないの」
「でも鬱金さまとミサスさまとの話は終わっていませんわ」
「え?」

夜までずっと語り通しですか?

「ずっとです。一回酒盃とつまみを用意するように言われて働かされましたの。料理は知らないのに、もう」

それで多少身軽な格好になっているのですか。わたしの視線をリタは誤解しました。

「自分たちの分も確保してありますわよ。朝食はいかが。わたくしお腹がすきましたし、ザリさまもそうではありませんか?」
「朝食」

最後の食事はマドリーム城での夕食で、それからなにも口にしていません。そう空腹である気がしませんが、そろそろなにか食べなければ倒れるはずです。まだ頭ははっきりしませんし動くと身体の関節が悲鳴を上げますが、寝たので少しは気分が弱くなりました。そろそろご飯にした方がいいです。

「いただくわ」
「そうこなくては」

すぐにリタはとって返し、大きな包みを手に戻りました。「台所は汚すぎて食事には向いていませんの」外に連れ出します。まだぼんやりしているわたしはおとなしく階段を登り、外気に触れて声を上げました。

「星」

満天でした。世界中の宝石をかきあつめ竜が空へばらまいたかのように星々は冴え、澄んだ大気でより一層鮮やかに映えます。今まで夜数え切れないほど外へ出ましたし、野宿も明かりがない夜もさんざん体験しました。今日の夜はそれら全てより勝って美しいものでした。

「すごい」
「わたくしも夜は好きですわ。光がなくて静かですもの」

料理を知らないと言いながらリタが作ったものは小麦粉を水に溶いて薄く焼いたものに干し肉を挟んだ、なかなかのものでした。

「台所がものすごい長期間手つかずで、食材探しから始めないといけませんでしたわ」

愚痴なのか武勇伝なのか分からない調子でリタはつぶやき、つつましくちぎり口へ運びました。わたしもかぶりつき、あまりにも長い間食事をしていなかったので口中酸っぱくなるような痛みを覚えもだえました。

静かです。ふとわたしはおかしくなりました。昨日まで王城で豪勢な暮らしをしていたのに、今は大魔道士の住処で敵だった子とご飯を食べている。いくら状況は変わるものだとはいえこのめまぐるしさはどうでしょう。大変な一日でした。逃亡、裏切り、戦い、死、出会い。

「バイザリムで」

ふと口に出ました。

「バイザリムの人たちは今どうしているのかしら」
「多少ならお答えしますわ」

2つ目に手を伸ばしながらリタが言いました。わたしももうひとつもらいます。なにかを口にしたら急にお腹が空いてきました。

「分かるの?」
「ある程度なら。王は無傷ですが口から泡を吹いて倒れ、いまだにろくな会話もできないですとか、クペルマーム殿下が街でフォローの客人たちを取られようとして失敗、カスタノが反撃されて重症だそうよ」

それは知っています。ほかならぬわたしたちがアキトと離れている間に彼らと会い戦ったのですから。わたしは弓矢で射られ、自力で手当てをする羽目になりました。痛かったです。分かって言っているのだとしたらリタは意地悪です。

「ライラックも無事ですわ。始まるや否や郊外の別荘に避難しておとなしくしています。ほかならぬわたくしが付き添って送りましたから」

おや。

実はその別荘も襲撃を受け、あわやライラック姫が引きずり出されそうになったときわたしたちが前を通りかかったのでした。もちろん戦いになりました。だれも黙っていようとはしませんでした。ブロッサムと別れたのもその時です。姫君を安全なところに送って守らないといけませんでしたが、わたしたちは先を急いでいました。ブロッサムに付き添ってもらったのです。

「そうだったの。自分も危ない時だったのに」

伝えた方がいいでしょうか。

「大したことではありませんわ。わたくしはあの方が好きでしたし、ささやかながら償いになりますからね」
「償い」
「以前毒殺しかけたことですわ。ほら、台無しになったお茶会で」

言われなくても覚えています。アキトとキャロル、3人で行った華麗なお茶会には致死量のたくらみがひそんでいました。

「リタが盛ったのね」

気分が沈みました。今こうしてよくしてもらっているとはいえ、かつて殺されかけたとは。ライラックのことを言うのはやめた方がいいようです。黙っていることにします。

「ええ、わたくしがやりました」
「どうしてそんなことを」
「決まっていますわ、アキト一行の足止めです。茶会でライラックが殺されればハシド家はもちろん三大貴族も王家も黙っていない。だれの仕業かもめにもめて王宮は疑いあいですわ。そんな中、直接現場にいた異国の使者がいつまで足止めされても不自然じゃありません」
「わたしたちを城にとどめるためだけにライラック姫を殺そうとしたの?」
「ラスティアはザリさまたちに冬中城にいて欲しかったのですわ。なぜだか分かりませんけど」

わたしは分かります。グラディアーナと会わせないため、ひいては雷竜神の予想した未来を避けるためにマドリームを操ったのです。国家を揺り動かした目的がたったひとりの月瞳の一族と異界人を会わせないためだったなんて。どんな顔をすればいいのか分からず、わたしは最後の一切れを口におさめました。

「怒っています?」

恐れたようにリタがのぞきこみました。なにを怖がっているのでしょうか。わたしはこんなに無力なのに。

「怒ってなんて」
「言い訳になりますけど、あの時のわたくしは命令に逆らうことさえ知らなかったのですの。人間世界で真似事をして、ザリさまやライラックとおつき合いをしてようやくなにかを反対すること、ひそかに舌を出してなんとかしないですむように行動することを学びました」
「リタ、後でラスティアに仕返しされない?」

言ったら急に不安になりました。ラスティアは寛大ではありません。リタは黒い瞳を虚ろに光らせ、さてと首を傾げました。

「ばれたらされますわね。鬱金さまに守ってもらえればいいのですが、いっそこのままザリさまに付いていくのもありですわね」
「それは駄目よ」

考える間もなく言いました。

「危険よ、ついてきてはいけないわ。雷竜神のお言葉が真実だったら、リタは宿命の仲間には入っていないのよ」
「参加義務がないからといって加入拒否されるわけではありませんわよ。あら」

わたしたちは同時に振り返りました。

「ミサス」

夜のような羽根を心持ちひろげ、足音ひとつなくミサスが歩きます。うつむき加減の顔はわたしたちを特になんの感慨もなく観察しています。ミサスには夜が似合うなと、少し驚きながら考えました。

「話は終わったの?」
「ガラディアスが呼んでいる」

意外さをにじませながらもミサスは伝言をしました。

「ザリたちに話があるそうだ」

埃っぽい部屋は最後に出たときよりはるかに悪化していました。強い酒の臭いがこもっていますし、リタが作ったらしい軽食の膳はいい加減に積み重ねられていました。

どうよく言ってもごみだめの寝室で、鬱金はわたしたちを待っていました。杖を手に気だるげに水晶をもてあそびます。「きたのね」低く豊かな声で呼びかけます。よく通る明瞭な発言はミサスのとよく似ていました。

わたしは緊張してつま先で歩きます。なんの用でしょうか。

「そう大した用じゃないのよ。ラスティアを負かした人の顔を見たかっただけ」

わざわざ見るものではないと思いますが。

「ラスティアには勝ちましたけど、大したことはしていません」
「いいえ、したのよ」

鬱金は自信たっぷりに立ち上がりました、蛇ががま口を構えるようにわたしを見下します。背の高いわたしにとっては目新しいことです。

「あなたはラスティアに勝った。あのラスティアに。知っている? ラスティアを敗北させたのはあなたが初めてなのよ」

知りません。知りようがありません。ラスティアの能力を考えれば理解できなくもありませんが、でも今までずっと負け知らずだったなんて。

「雷竜の未来視には危ういところも多い。完璧に将来が分かるものなんて存在しえないもの。中でもザリがラスティアに付くか否かは最大級の不確かさだった。ザリが行けばラスティアが勝つ。行かなければラスティアの影は翼の戦士によって死ぬ。とんだばくちだけれどあなたを配置した雷竜は正しかった」

冷静で客観的でした。ひとりはるか上空から見ているような気だるさに思わずわたしは言いました。

「今回は勝ったのかもしれませんけど、最終的に雷竜神がわたしを選んでよかったのかはまだ分かりません。ラスティアが言っていました。わたしは本来はラスティアにつく側だったと。従うつもりはありませんが、不安です」
「なにを馬鹿なことを言っているの」

とても冷たくあしらわれました。あら。

「この戦いを仕組んだのは雷竜の方なのよ。逆転劇として、反逆者へ最小限の犠牲で打ち倒すための戦い」
「ええ」
「先に構成したのは雷竜なのに、ラスティアから奪うもなにもないでしょう。雷竜が彼の味方となる人物を設定してから奪ったですって? 可能性としては絶対に皆無ではない、でもラスティアの口先三寸だと考えた方が筋が通るわよ」

つまりわたしはまただまされたのでしょうか。怒りより先に拍子抜けをします。なんだ。

「鬱金はこれからどうするの?」
「これから? 敵か味方かってこと?」

直接的すぎる表現でしたが聞いたのはわたしです。

「さて、どうしようかしらね」

わたしたちの味方になってくれるといいのですが、そんなこと言えません。いくらなんでも無作法すぎます。

「そもそも正義と悪の戦いじゃないのよね。2つの主張がぶつかり合い、片方が権力をもぎ取ってもう片方が取り返そうとしているだけですもの。力を持つ魔法使いとしては簡単に加勢する訳には行かないわ。第一今更参加しても役が残っているかどうか」

竜と、同じくらい強いものがぶつかり合うと力の余波もまた強力になります。雷竜神は世界を引き裂きたいのではありませんし、ラスティアの方も似たようなものです。ラスティアの目標は革新であって破壊ではありません。

「あたしは中立よ。今まで通りここにいるわ。敵にも味方にもならない」

きっぱり伝えてから、でもと唇を吊り上げました。

「どちらかに味方をしろと迫られたらザリたちへ行ってもいいかもね。あたしはラスティアが気に食わない」

はっきりとした意思表示でした。鬱金はラスティアと面識がないはずですが、こんなに嫌うということはよほどミサスは詳しく話したのでしょうか。

「わたくしも嫌いですわ。選択権があるのでしたら迷わずザリさまの方へ付きます」

これだけは言いたいとリタもまたきっぱりしていました。ああそうだったと鬱金がリタへ向きます。

「リタ。影踊りはみんな滅んだわ。あなたを残して」

なにを言っているのか分かりませんでした。

「リタのおかげでラスティアは彼らへの間接的な支配を失った。だましたかのように仕えさせていたものが自由になったらどうなるか、ラスティアは最悪を予想して手を打ったわよ。ついさっき影での秩序だった思考は砕けた」

率直な言い方に全身の力が抜けました。倒れなかったのはひとえにリタがいたからです。

「ラスティアは、再びわたくしたちを支配しなかったのですね。かつてカーラハディがしたように」
「無理よ。ラスティアの影は失われたのだから。できたのは力づくで消滅させるだけ」
「わたくしは地上にいたから無事だったのですね」
「そうね。リタ、ようこそカーリキリトへ。最後のひとりになった末っ子を同じ孤独な種族として歓迎するわ」

思いやりが感じられない鬱金に、急に腹が立ちました。せっかく鬱金を頼ってやってきたのに。ラスティアにはもちろんのこと、鬱金まで憎く思ってしまいます。

「ナーガのガラディアス、その言い方はひどいわ。リタについてなにも考えていないの!?」
「ザ、ザリさま。落ち着いてください。わたくしは平気です、わたくし自身も不思議ですが感情的になっていません」

リタは慌ててわたしをつかみました。力比べをすればわたしが勝つでしょうが、悲しみも怒りもない、ただ驚いただけの表情にわたしはつっかかる気をなくしました。

「影踊りは全体でひとつ、個としての自覚が薄いものです。例えば枝刺しで増える果樹みたいなものですわ。自分以外の自分がみんな死んだと聞かされても嘆き悲しみはしません」
「それにリタは、もう本来の意味で影踊りではない」

鬱金が杖でベットの上にあるものを叩き落とし、ゆったり胴体を横たえました。

「光の世界にきて人真似をした、表の生き物であるザリにぶつかり人間の考えや行動、信念を知った。もう普通の影踊りとはいえないわね」

わたしは力抜けました。厳密に同族ではないからいい。そんなことって。

「ラスティアは残酷ね」

もう知っていることを改めて鬱金は口にします。リタもうなずきました。

「独善的で押しつけがましい。影踊りたちはラスティアまで復讐してやろうだなんて思わなかったはずなのに。自分のことばかり見て、他の人や他の種族には異なる考えがあるのを理解できないのね」
「鬱金さまは中立といいますが、もしラスティアが勝つのでしたら未来は暗いですわ。ラスティアは神の力を持つべきではありません。王に優しさは不要ですけど、神に情けは絶対に必要ですわ。そう思いませんこと?」

わたしはなにも返せませんでした。

「言っても無駄よ、あたしは積極的に関わる気はないわ。ナーガとして竜が手出しをしないのならばそれに習うし、魔道士として世界の均衡を乱すことはしないわ」
「同じ魔道士でも、ミサスとは違うのね」

あまりにも当たり前のことをつい忘れていたようです。変な話ですが無意識に鬱金とミサスを同一視していました。力ある魔道士であること以外の共通点がないのに。ミサスが戦うので鬱金も味方してくれるのではと甘いことを考えていました。もちろん少しだけ、ですけど。

「あら、そんなに違わないわよ」

鬱金は笑い飛ばしました。

「ミサスと重ねたのは正しいと思うわ。似ているもの。もちろんあたしの方が偉大な魔道士だけどね」

年齢から考えるにそこには疑いを持っていませんが。

「あたしが手を出さないのと同じように彼は関わるわ。竜が頼んだとかラスティアが許さないとか、アキトを守るためだとか、そんなことではミサスは戦わない」
「鬱金はミサスが加わっている理由を知っているの?」

憎しみや愛しさ以外に、人が戦う理由があるのでしょうか。

「義務よ。ミサスはすべきだからしているの。感情が割りこむ隙なんてないわ」
「義務」
「義務。黒翼という種族への義務、魔道士としての義務。黒翼族は主としてあまりにももろく弱いわ。小数で体力はなく、ちょっとした環境の変化であっけなく滅亡しかねない。生き残りたければ外の変化に敏感になること、そして不利な変化だったら止めること。だからミサスはラスティアの敵なのよ。ラスティアの世界に少数民族の生きる土地はなさそうだから」
「なんで、ミサスが」

いつもはあんなに身勝手なのに、周りのことなんてなにも見えていなさそうなのに。理解できますわとリタが頷きました。

「究極の利己はつまるところ自己犠牲に通じるのですわ。ひとり生き残っても血統がなく知識を残す相手もいず自分には有限の寿命がある。だったら生きていてもしょうがないですもの」

だから戦うのでしょうか。簡単に優先順位を組み替えて、形のないものに忠誠を誓って。ひとり一族を離れてさまようミサスは黒翼族の中でもきっと特殊なのでしょう。それゆえの責任。力につきものの重責を背負い、そして黙って犠牲を受け入れるのです。

でも。

「許せない」
「はい?」

きょとんとするリタに気が向きません。それくらいわたしは怒っていました。疲れた身体が熱を持ち、腹の奥から力が沸き上がってきます。

「許せないわ、そんなこと」
「なにがです」
「勝手にひとりで受けいれ、勝手に行ってしまうなんて。そんなのわたしは認めない」

ミサスは大人で魔道士です。だから言葉でしか存在しないものを理解し忠実になれるのです。でもわたしは俗物です。目の前にいる人の方が大切なんです。

「ちっとも周りを見ないで、すぐ後ろに見守っている人がいるとも気づかないで。わたしはミサスが大切よ。わたしたちみんなミサスが好きだわ。欠点はあるけど、それでもいいの。それなのに、ミサスがいなくなれば悲しむ人がここにいるのに。気づきもしないで決心して、ひとりになってしまうなんて、そんなことさせない」
「複雑すぎる感情ですわね」

リタは呆れました。

「相手はあのミサスなのですよ。伝説の魔道士なのです、そんなミサスが命がけの戦いを覚悟しているのに認めないなんて。愛情深いのもいいですけど、自分が惜しくないのですか」

ついていけませんわと天を仰ぎました。鬱金が初めて、そこにいるのを気づいたかのように見つめます。

「リタ、あなたついていけないってことは理解ができるの。信じられないわ」

鬱金の感想をもう聞いていませんでした。わたしは寝室を飛び出し階段を駆け上がります。これ以上じっとしてはいられません。言わないと、伝えないと。

外への扉を跳ね開けると外気がどっと押しよせ凍えました。存在を忘れていた星々がいっせいにきらめき、夜の海のような草原を走ります。

白い息の向こう側にミサスはいました。さえぎるものがない柔らかい草の上、ミサスは空を見上げていました。わたしに無反応ではありません、翼が少しだけ広がりました。

「ミサス!」

十年も離れていたかのようにミサスへ走ります。ようやく星から目を離したミサスの肩をしっかりつかみ、逃げられないようにします。羽のふくらみがより大きくなりました、かなり驚いたのでしょう。

「ミサス、わたしはミサスと一緒に行くからね」
「なにを言っているんだ」

珍しく困惑の色が素直に顔へと広がりました。

「決めたのよ、わたしはミサスを守るわ。どこにいようと駆けつけて、全霊を持ってミサスを守るわ」
「自分の言っていることが分かっているのか?」

暗におかしくなったのかと言いたそうです。わたしは首を振りました、正常です。

「ミサスが特殊な立ち位置であること、雷竜神の宿命の中で重要な位置にいることを知ったの。ミサスは受けいれて進んで死にに行くでしょうけど、そんなことわたしが許さない、だれかひとりでもミサスが払う代償を知って、その上であなたがいなくなったら悲しいと言わないといけないのよ」
「だからザリが言うのか。立派だが馬鹿げている。ウィロウのように犠牲になるつもりか?」
「違う。わたしは立派じゃない。ミサスみたいに理念に命を賭けられない。わたしがこうしているのはねミサス、全部わたしがしたかったからなの。フォロゼスもマドリームでも、わたしは犠牲になっていないし我慢したこともない。わたしが行きたかったから、わたしが許せなかったから行って動くのよ」

わたしは自分勝手です。したいと思ったことはどんなに迷惑をかけてもしてきました。望んだからこそここにいるのです。だれかの意思による介入はありません。

「良心、か」

ミサスは顔をそむけました。表情を自ら覆い隠し、仮面のような生命のない顔を作ります。

「お前は無力だ。望んだとてなにもできない。帰れ、ここは俺の領域だ」

手を振り払おうとします。わたしは離しませんでした。

「嫌。ひとりぼっちになんてさせてあげない。役に立たなくってもわたしは行くわ。本気よ。どんなに危なくったって何回でも飛びこむわ。ミサスが大切な人がいるのだと、ミサスが大切だと理解するまで身を持って示してみせる」

どうしようもないとミサスは息を吐きました。仮面は粉々に砕け、わたしを見上げる瞳には疲れと呆れが混ざっていました。

「分かった」

力が抜けたところですかさずわたしの手から逃げました。静かに羽根を上下させます。

「ついてこい。ザリの気が済むまで、どこまでも」

夜明けです。

初めは空の端がゆっくり白くなり、星が落ちて消えてしまいます。いずれくる朝を待っているうちに急に荒野が赤茶けた地を見せたのに気がつきます、昨日もきて明日もくる太陽が圧倒的な輝きで天を切り抜き、青空の隅に最後の星が瞬き、そして夜が明けました。

これから温度はどんどん上がり、魔荒野は灼熱の地へと変わるのでしょう。寒かった夜は消え、皮ごとはぎたくなるような熱風が吹き荒れるのでしょう。

それでもわたしはこの朝が、なにか素晴らしいものを約束しているような気がしてなりませんでした。裏切られると分かりながらも美しすぎて願ってしまう、希望によく似た祈りにわたしは飲みこまれました。ミサスがつつかなかったら自分が泣いていることに気づかなかったかもしれません。

「いい日ね」

いつの間にか鬱金がリタをひかえさせいました。杖を持ち手首には金のリングをつけ、ナーガの魔道士は自信たっぷりに立っていました。

「リタから聞いたわ、あたしが代わりに渓谷の向こうへ送ろうか?」

おはようと同じくらいの軽さに危うく聞き逃すところでした。

「影を通って?」
「違うわよ、馬鹿ね。あたしぐらいになれば転移のひとつはできるのよ」
「瞬間移動!?」

それはすごい、時間が一気に稼げます。実は鬱金のところに寄ったのを気にはしていました。時間の無駄だとは思いません、実りある訪問だとは思いますが、でも。

「すごいですわね。わたくし魔法での移動は初めてですわ」
「リタ、なにを言っているの。送るのはミサスとザリだけよ。リタはここに残ってもらうわよ」

リタが笑顔のまま凍りつきました。

「すっかり目がさめたし、もうしばらく起きているつもりだから、飯炊きと掃除女が欲しかったのよ。ちょうどいいわ。リタ、ここにいてあたしに仕えない」

リタとしては嫌だったのでしょう。きっとものすごく嫌だったのでしょう。ですが影踊りにとって鬱金は絶対の存在です。膝を曲げドレスのすそをつかみ「はい」ゆっくり承諾するのを、わたしは同情の目で見ていました。

満足そうに鬱金はうなずき、温かみのある青の瞳をまっすぐ向けました。

「あなたたち、この先まだ苦労するわよ。あなたたちの旅が達成するのを願うわ」

歯切れよく言い、鬱金の杖、蛇が抱く石が輝き始めました。

戻るのです。旅へ、宿命のただなかへ。

旅の終着へと。