三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

2. 角灯担ぎ

「ラスティアが会いにきた」

湿気を含んだ風の中にミサスの低い声が混ざります。気がつくと聞かれてもいないのにわたしは話しはじめました。

「ラスティアはこの戦いは正当なもので、それにはわたしが必要と言っていた。わたしは本当はラスティア側の人間で、わたしがラスティアと共にいれば戦いの犠牲が少なくなるって」

今わたしがここに座っていることがなによりの報告ですが、なぞるように続けました。

「断ったわ。ラスティアに正義はないし、今までの行いが許せなかったから。戦いになろうとした時、ミサスがきた」

後はこの通りです。

わたしは少し考えました。こっちへこいというラスティアを拒否はしましたが、それはそうとしてわたしが本当は敵側の人間だというのは真実なのでしょうか。もしそうだとしたらわたしはどうするべきでしょうか。今のうちに離れた方がいいでしょうか。

まさか。わたしは自身で一蹴しました。いつか敵になるかもしれないから別れようだなんて馬鹿げてます。今更さよならするにはわたしはアキトやキャロルと関わりすぎました。重い使命を背負わされた彼らが心配で、そばにいて助けずにはいられません。それにミサスだって。

「ラスティアが干渉した」

ミサスもまた言葉を打ち切りました。魔法を続けないで大丈夫なのかと心配しましたが、首はもうえぐったような跡しかありません。声もしっかりしていますから魔法はもういいと見るべきなのでしょうか。

「干渉?」
「詠唱中直接精神に割りこみ妨害してきた。だから魔法が成功しきらなかった」

失敗したようには見えませんでしたが。しかしこうして術者が反動で苦しむというのは成功ではないのでしょう。わたしの推測では今までの過労も加わったと見ました。マドリームのアキト失踪以来不眠不休で走り回ってきました。普通の人間でも疲れはてて倒れかねない仕事量だったのです。頑丈なわたしならともかく、か弱いミサスにはこたえたでしょう。非常時とはいえ自分の体力も考えて欲しいものです。

急に不安に襲われました。またラスティアが干渉してきたら?

今ミサスは傷つき疲れはてています。魔法で生命の危機は脱したといえ休養が必要です。わたしがいくら元気でも戦力になりません。そもそも干渉なんてしなくてもシャムシール片手に現れるだけでいいのです。

「影を殺した」

わたしの考えていることが分かるかのようにつぶやきました。

「当分ラスティアは影送りができない」
「殺した?」怒涛のようだった交錯を思い出しました。
「本体は死んでいないだろうが傷ついたはずだ。また自分の影を遠方に送りこむには時間がかかる」

事実だけを述べているのに、本体が死んでいなくて残念だと言っているようでした。

「マドリームは、これからどうするのかしら」

追っ手がどうなったかはもう見ました。わたしが知りたいのはその後です。

「諦めない。ついてくるだろう」

もうここはエアーム竜帝国領内です。マドリーム兵が押しこんできたら侵略したように取られかねず、二国間で開戦になります。そうなったら東の大国、竜騎士を多数抱くエアーム帝国と弱小の荒野国マドリームでは話になりません。ましてやつい先日、ほかならぬわたしたちがマドリーム首都バイザリムを炎上させたばかりです。

「戦になれば楽になる」

いや、マドリームがエアーム帝国に踏みつぶされればわたしたちの心配はひとつ減りますが、その言い方はないでしょう。

マドリーム国家の今後はどの道わたしたちの手に余ります。とにかく帝都にまで出ればもうこないでしょう。

「思い出した!」

わたしは大切なことを抜かしていました。寄りかかっていたミサスが転んで頭を打ちます。わたしは構わず続けました。

「ミサス、わたしたち後続のマドリーム兵を足止めしたくて地竜の谷を封じたわ。谷を崩したの、もう進めないわ」

アキトたちを追えません。最終的な目的地は分かっているので未来永劫という訳ではありませんが、谷を行けないのでしたらどのように進むのか分からないのです。下手をしたらアザーオロム山脈で合流です。

わたしは暗くなりました。行けないのはわたしだけでミサスひとりなら空を飛ぶなり影を通るなりで進めるのです。どっちの方法もミサスひとりでしかできません。本当なら困らなかったはずなのにわたしが余計な手出しをしました。

一体わたしはなにをしたのでしょう。熱くなって走ったあげく、会うはずのない危険に首を突っこみミサスを助けるどころか足手まといです。じっくり落ちこみました。

考え直します。これでよかったのです。足手まといになってもわたしはひとりきりにさせたくありませんでした。だれであろうともどんな時でも。

「道はある」

わたしの苦悩と解決なんて知るよしもなく簡単そうに言います。

「あるって、回り道を知っているの? どれくらい時間がかかるの」
「かからない」

どう行くつもりなのでしょうか。

「谷に竜が住んでいた昔、行き来は洞窟を通ったと聞いた」

言われてみればそんな話がありました。でも伝説です。

「退治された竜の身体があるなら、洞窟も実在する」

納得しました。もっともです。

「急げ」

細い腕で身体を起こすミサスを思わず冷静に見、とっさにさえぎりました。

「いけない。まだ休まないと。後半日はおとなしくしなさい」

自分で耳にしてからなお確信します。

「ミサスの身体は魔法の反動にあったのよ。内側がずたずたに引き裂かれたわ。魔法で傷は癒えたのかもしれないけど全治したはずはない。流れた血はすぐには戻らないし衝撃だって残っている。身体への損害は消えていないのよ。無視して動くといつしっぺ返しがくるのか分からないわ」

結局一瞬で怪我が完治する方法などないのです。魔法はかなりいい線をいっていますが、元通りに動くには時間が必要です。

とはいえ急ぎたいのも事実です。一刻も早くアキトの元へ行きたい。ミサスの具合との間で板ばさみです。

悩むわたしをミサスは意外そうに見ていました。なんでしょう。合流するほうがはるかに大事だろと言い出すつもりでしたら、即座にその考えを訂正しますが。

「お前が俺を連れて行けばいいだろう」

なにを言っているのでしょうか。

あ、なるほど。

よっとかがんで片腕をミサスの羽根付け根下に、もう片腕を膝下へ通して抱きかかえました。うん、予想したより重いですがこれなら運べそうです。本当でしたら怪我人をひとりで運ぶのは布にくるんで引きずるのがいいですが、相手は意識もありますし大人ひとりにしては異様に軽いミサスですからこれでよしです。

やる気を出すわたしとは裏腹にミサスの目がしらけました。おや。

「確かに俺の言葉が足りなかった。ザリの腕力も考慮していなかった。それにしても」

なにが言いたいのでしょうか。

「俺が夜鳴鳥に変化するから肩か頭に乗せろと言いたかった。降ろせ」

そういえば、ミサスは鳥になることもできたんでした。言われるままに降ろします。ミサスはすぐに変身して自主的にきました。

乗せる場所は少しもめました。鳥ミサスは意外と大きくて、気楽に頭に乗ると爪が食いこんで痛いのです。結局肩掛けかばんの上に乗ってもらいました。安定は悪いですし安静でもありませんが、ミサスは歩かなくても移動できました。


谷までだれにも邪魔されませんでした。

改めて地竜の谷、もとい谷だった地を見ます。地震でも起きたかのようなありさまでした。わたしの三倍はある岩々にはさまれてかろうじて竜の骨が地に刺した剣のように生えています。これほど巨大な岩の下敷きになりながら折れていないのはさすがです。

少しは持っていた希望も消え去りました。岩をどけて通ることもよじ登ることも不可能です。ひとりで土木工事などできませんし、よじ登ろうとしたらきっと二次災害でしょう。わたしは竜の骨ほど頑丈ではありません。

「伝説にすがるしかないのね」

洞窟探しはほぼ自動的にミサスの仕事となりました。健康なわたしがなにもせずさっきまで半死のミサスを働かせるのは嫌でしたが、飛べる人のほうが洞窟探しに向いていること、わたしの視力が悪いことを考えると任せざるをえませんでした。悔しいことですが両方ともがんばればなんとかなるものではないので、しょうがありません。

判断は正しいものでした。予想したよりずっと早くミサスは人工の穴ぐらを見つけました。かなり高いところにあり、道がなく地盤がゆるんでいる山をよじ登るのは大変でしたが、擦り傷よりひどい怪我をすることなく行くことができました。

登っている間に不安がひとつ増えました。大気中に水の臭いをかぎつけたのです。わたしは目が悪くとも鼻には自信があります。グラディアーナの予言も含めると、もうすぐ雨が降るのは確実のようです。

追われる身としては雨を歓迎しますが、とてもそんな気持ちになれません。ぬれたら体調を崩しますし、第一谷の地盤はどうなのでしょう。壊したてほやほやの谷が水によってさらに崩壊したら困ります。まして洞窟内にいる時に決壊したら。震え上がって大急ぎで手を動かしました。

坑道は思っていたよりも大きいものでした。少なくともわたしがかがめば通れます。片手に角灯をかかげ持つのですから這いつくばるはめにならなくてほっとしました。

少し行くとすぐに安心は消え去りました。道が入り組んでいました。初めは二股、次は三通り。洞窟は上下左右に走り回り、どのように行けば谷を抜けられるのか見当がつきません。気づいたときにはすでに初めの選択路まで戻れるのかもおぼつかなくなっていました。

「こんなところで迷うなんて」

急いでいるのに。ミサスはがあとも応えずわたしの頼りない声は無限の闇に吸いとられ、重い静寂が支配します。

ここで朽ち果ててしまうのかも。明るい日の下なら考えもしないことは、逃げまどって追いつめられ、暗い岩の中頼りなく立っているとやけに真実じみてきます。足が意思に反して震えだし、気がついたらなにもないところを凝視していました。

このままではいけない。分かっているのに立てません。歯の根が合いません。

夜鳴鳥となったミサスがかすかに身じろぎします。足を組み替えました。

金縛りが解け洪水のように正気が押しよせてきました。そうです。なにをおびえているのでしょうか。ちゃんとわたしはここにいて、怪我もそうなく明かりもあります。暗闇におびえる子どものように、毛布をかぶって目を閉じる訳にはいかないのです。

まずは正しく進まないと。角灯を置いてかばんを探り、すぐに墨を見つけ出しました。地面すれすれの壁に数字の1と書きます。角を進み次の別れ道で進む方向には2。順に進む方向を記します、道が行き止まりでしたら戻り改めて数字を。前に書いた場所にまた出てしまったのなら別の道を。進み方はゆっくりですしまどろっこしいですが、今わたしにできる最良の方法です。

片手に角灯、もう片手に墨を持ちながらふと考えます。あの時ミサスが身じろぎしたのは、恐怖にかられたわたしを助けようとしたのかもしれないと。そんなつもりはなかったのかもしれませんし、もし助けるつもりだとしてももっと直接的にしてほしい―― 例えば変身を解いて励ますとか―― ものですが、どうあれ立ち直れたのは事実です。

「ありがとう、ミサス」

もちろんミサスはなにも言いませんでした。

数字が20を突破し、一歩ごとに狭くなる道をどんなことでも見逃さないよう集中します。もうずいぶん行ったのだし、そろそろ。

「先は行き止まりですわよ」

優雅な物言いは洞窟にはふさわしくないものでした、人の気配はまるでなかったのにどこから、

「道は細くなって、そのうちザリ様には通り抜けられなくなりますわ。もうだれも使わないのですもの。あちこち落盤や陥没が起きていて危ないですわよ」
「それでもここしか行けないのだから」

思わず言い返してしまいました。相手はひそやかに笑います。わたしが要求する前に自ら明かりの下へ歩いてきました。

「リタ姫?」

紺色のドレスをまとい、整えられた黒髪の下にはわたしたちを見つめる大きな目がありました。

「違いますわ。わたくしは姫ではないのです。さまや殿をつけられるものじゃありません」

ここが舞踏会であるかのような完璧な身だしなみ、いきなり現れたこと。ミサスから聞かされていなくても、リタが姫君ではなく、それどころか人間ではない、普通の生き物でさえないことが分かります。

「わたしだってさまと言われる人間じゃないわ」

筆を置き、いつでも走り出されるように後じさります。

「用はなに」

リタは影踊りの一族です。

影踊り。世界の裏に暮らす精神生命体。本来定まった身体を持たず、今目の前にいる女性の姿はかりそめでしかありません。影より自由に出入りし人の心を食らう。本当ならわたしたち生き物とはかかわりを持たず、住み分けを持って不干渉で生きるはずです。

しかし影踊りたちはまた、古代マドリームの巫王との盟約によって今でもマドリーム王に忠誠を誓っています。そして王はラスティアと手を組み協力しました。巡り巡ってわたしたちと影踊りの娘リタとは敵対しています。

「そんなに警戒しなくても。わたくしザリさまを食らおうとは思っていませんわ。取引をしにきたのですよ」
「取引?」

お決まりの、ラスティアの味方になれということでしょうか。

「わたくし、谷を越えるお手伝いをいたしますわ。だから代わりに寄り道をしてくださらない? 一緒に会って欲しい方がいますの」

奇妙な提案でした。

「もう少し詳しく説明してほしいのだけど」
「影飛びをご存知? 影の世界を通り現実世界の障害をもとともせずに移動することですわ。ミサスさまは魔法で、わたくしは生まれながらにできること。ザリさまにはおできになれないのですよね」

当たり前です、生身の人間なのですから。リタはまるで健康な足があるのに歩けないのですと言われたかのように、理解できなさそうに首を傾げました。

「ザリさまは影を歩けませんけど、わたくしが手を引いて案内すれば進むことができますわ。みんなで影を歩けば岩や土に悩まされませんことよ」

確かに。その影歩きができれば谷を超える必要がありません。いきなりアキトの前に現れることだってできるのです。欠点のない提案に夜鳴鳥ミサスは降り、着地と同時に有翼人の姿になっていました。

「人間が影に落ちたら発狂する」

どっちに向かって言っているのか分かりませんでした。

「発狂?」
「影は混沌としている。不確かで精神的なものだけが意味を持つ。まともな人間なら異様さを受け入れられない」
「影に引きずりこんで正気をなくしてから食らうのは影食いの習性ですものね。わたくしは影踊り。そんな醜い真似はしませんことよ」

するつもりはなくても発狂してしまえば結果的に同じなのですが、それにミサスはそんな危ないことを今までしていたのでしょうか。

「狂わなくてもいい方法をわたくし知っていますわ」
「どんな方法?」
「表の世界で生活していて気づきましたの。例えば泥酔している方、深く眠っている方は影側から干渉しにくく、無視されてしまうことも多いのですわ。血と肉の身体が目と耳を閉じれば回りを見ずにいられるように、内のものだって寝てしまえば恐ろしい目に会いませんわよ」

いわば心に麻酔をかけるのですか。

「ザリさまが今すぐ寝るか前後不覚になっていただけたら、後はもうわたくしが運ぶだけですわ」
「今すぐって、そう簡単には寝つけないわよ」

感謝的に言って思わず苦笑しました。マドリームを夜中出て以来座ることさえままならず体力と精神をすり減らしていました。今はまだ興奮していて疲れを感じませんが、目を閉じて横になれば三呼吸で寝入ってしまいそうです。足の感覚はなく目は重く、全身が熱を持った気がします。

「それはザリさまにがんばっていただかないと。それくらいはお願いしますわ」
「表の世界の人間は影の世界では目立つ。飢えた影食いが押しよせるぞ」

またミサスが危険なことを言い出しました。

「戦うのはミサスさま、お願いいたしますわ」

愛らしい微笑みにミサスはほんの少し眉間にしわを寄せました。「なんで俺が」そんな声が聞こえた気がします。

「わたくしだってザリさまを守れるものならお守り申したいですわよ。でも先だっての戦いで深い傷を負いましたの。今のわたくしは歩くことはできても戦力にはなりませんことよ」
「傷?」

医師としてリタを不遠慮に観察します。白い肌は欠点ひとつなく、洞窟に不似合いなドレスでさえどこもほつれていません。どう見ても健康体です。

「ザリさま、わたくしの傷はかりそめの身体にはありません。本体のほうが苦しいのですわ。お気持ちは嬉しいですけれども、ザリさまにはどうすることもできません」

意味ありげにミサスを見ます。

「黒翼の戦士と遭遇したわりには驚異的に軽症だったと思うべきですわね。馬鹿正直に対峙したわたくしの一族はみんな切りさかれ破片になってしまいましたから。ひどいものですわ、あれでは元に戻れず消えてしまいますよ。仮に戻れても元の彼らではありませんわ」
「ひとり俺を見るなり逃げた影踊りがいたな」
「ミサスさまの噂はよく知っていますもの。ラスティアに聞かされる前からですわよ」

いつの間にか見えないところで戦いが起きていたようです。時期的にミサスがいなくなってからアキトがマドリームのお城に戻った間でしょうか。

「ミサスさまは影歩きがうまいですけど、他者を案内することまではいきませんよね。3人で協力して先へ進みましょう」

調子のいいことを言います。ミサスは口を利きません。もう問題点はないのでしょうか。

影を進むのは危険が伴いますが、それは崩れそうな洞窟を歩くのも一緒です。でしたら確実に先へ行く方法をとるべきです。幸い昏睡状態になるのは簡単です。わたしは麻酔や痛み止めとして使う薬草を数種類持っています。飲めば睡眠や泥酔よりも早く意識をなくし、ちょっとやそっとでは起きません。考えれば考えるほどいい手に思えました。

「分かった。お願いしてもいい?」
「もちろんですわ」

ミサスからも異論は出ませんでした。さっそく肩かけから茶色の粉末や水を取り出し必要な分量を計算します。壁に式を書きながら、ふと大切なことを聞きそびれていることに気づきました。

「そういえば会って欲しい人はだれ? 寄り道ってどこへ?」

リタの表情は変わりません。かすかな呼吸や筋肉の動きまで止まり、いきなり表情が消えたかのように見えました。わたしはリタが動揺したのだと―― 緊張のあまり、リタにとってかりそめの外見の制御を手ばなしたのだと気づきました。

「荒野に住むナーガ。伝説の存在、大魔道士鬱金さまの元へ」

だれもが一度は名を聞く人物でした。


夢の中にいました。

夢でもわたしは眠っていて、まぶたの裏を眺めながら手を引かれていました。温水の中のようにわたしは身動きひとつせず、手の主に全てをゆだねて丸くなっていました。

「あなたがたにとっては大昔、わたくしたちにとってもかなり前」

朗々とした意思が聞こえます。

意思? 目を閉じている人間に伝わるのは声や匂い、感覚です。人の心が聞こえるはずはありません。しかしそれでも分かるのです。ゆるやかに遮断された五感を通りこし、目や耳や鼻はいつもの感覚を失い。とまどいながらもより直接情報を手に入れます。わたしは理解しました。普段なら混乱してしまいそうな伝播方法に落ち着きます。

「うごめく複数の意思はすぐ近くに、存在の仕方が異なる意思があることを見つけた。ばらばらで脈絡のない意思たちは行って食おうとした。その怪物たちは自分ではない意思を取りこまないといつか消えてしまうから」

その人はわたしに語りかけているのではありませんでした。他者に伝えようとしていません。ただの独白でした。

「もっと秩序だった集団は食う必要はなかったが、やはり行ってちょっかいを出した。その意思たちは信じられないほど数が多いくせに脆弱で消えては生まれてを繰りかえす。少しからかっただけでも、いや手をふれず凝視しただけで影響を受け、散り散りになって消える。弱すぎた。意思の防御が全くなかった。……面白かった」

吐息は黄色に広がり発言者の呆れが味として残りました。

「すべきではなかった。彼らの中にもひとにぎりの、だがとびきり強く意思を持ち操るものたちがいたのだから。彼ら、いや彼女らは混乱の元たちを消し秩序のものたちを消し、残ったものたちを屈伏させた」

発言者の微笑みが紺色の粒子となり、わたしはやっとリタがいることを知りました。

「それが現マドリーム王の先祖、巫女カーラハディ。わたくしたちは今もまだ彼女の遺志に従い続けている」
「マドリーム王家が影踊りを自在に動かすなど聞いたことがない」

もうひとつの意思が加わりました。声ではありません。上質の鋼のような黒の人影は話そうと思って話していません。ここでは氷砂糖が水に溶けるように、いるだけで身体がとろけ意思が浮遊し、勝手に分かってしまうのです。教わっていないのに理解してしまいました。

「当の人間たちはとっくに忘れていましたわ。それなのにあの白い人。まぶしくてとてもそばにいられない金の人が古文章から盟約を掘り出し、老王にそそのかしたのです。影の意味も知らず意思だって貧弱な王は、それでも巫女の子孫。影踊りは言われた通りにするしかなかった」

リタの怒りが手を通じて直接流れこみます。わたしは警戒し、そろそろと眠りへと戻りました。それでもすぐ横にこんな強い意思があるのです。眠れる訳がありません。

「だがお前はここにいる、命令に逆らい俺たちへ協力している」
「ミサスさまのおかげですわ。忌々しいバイザリムは燃え王は狂乱の一歩手前です。まともにものを考えることだってできませんわ」
「生きていたのか」

特に殺す気はなかったが、火の回りから逝っていそうだった。冷静な予想にわたしは頭を抱えました。必要だったらミサスは国王殺しまでしたのでしょうか。

「とっくに心は死んでいますわ。少なくともあの脈絡のなさならばしばらく死んだと扱ってもいいかと。王が正気に返るか、回りの人間が見切りをつけて次の王が即位しないうちにと、わたくしすきをついてミサスさまの元へ行きました」
「影踊りの総意か」
「わたくしの独断ですわ。驚いて?」

リタの希望通りミサスは驚きました。ほんの少しさざ波が立ち波紋を投げかけます。水の滴る音がしました。

「わたくしは一番若い意思、影踊りの末っ子。だから貧乏くじを引かされて人間に化けるはめになった。重い有機の身体は嫌だったし騒がしく意識が多すぎて目が回りましたわ。本当にひどい日々でした」

リタは今まで鼓動さえない闇の中で生きていたのです。地上をうるさく思って当然でした。

「でも、いいこともありましたわ。耐え忍んでいるうちにわたくし変化しましたの。人間生活がいい刺激だったのでしょう。自立心を持ち独自に行動するようになりましたわ。こうして大魔道士へ会おうと思いつきましたしね」
「鬱金のナーガ。大魔道士ガラディアス」

リタの驚きが舌に突き刺さります。影踊りの娘は大魔道士の名を知らなかったのです。そういうわたしも初めて知りました。伝説は聞いたことがありましたが、名前があったのですね。

「なぜ、それを」
「俺も魔道士だ。大魔道士が魔荒野に住んでいることは聞いたことがある。だが魔荒野に入った時探したが見つからなかった」

いつ探したのでしょうか。ミサスはよくいなくなりますし、心当たりが多すぎて分かりません。

「鬱金さまは隠れていらっしゃるの。簡単には見つかりませんでしたわ。こつがあるのです」
「なぜガラディアスを?」
「いにしえ影踊りとの戦いで鬱金さまは時の巫王を助け共に戦いわたくしたちを支配しましたの。鬱金さまにもわたくしたちに命令を下す権利があるはずですわ。行使してマドリーム王の命を打ち消し、ラスティアから自由になりたいのです」
「リタの理由だ。俺たちが会う必要も道理もない」

今のミサスは饒舌です。実際に会話しているのではなく思念が勝手に漏れているのですから当然でしょう。ミサスの口数が少ないからといって彼が考えなしである訳がありません。

リタの姿が石になりました。それも長い長い時間嵐にさらされ続けもろくなり壊れかけた石像です。

「ひとりでは怖いのです」
「怖いか」

不思議とミサスの声には冷たさや軽蔑はありませんでした。

「怖いのですわ、わたくし。わたくしたちの個体の概念はかなりいい加減で感情や記憶を一部教えあい共有しているところがありますの。お馬鹿な昔のわたくしたちは鬱金さまにこてんぱんにやられましたわ。それこそ滅んでもおかしくなかった。そんな恐ろしい、いまだにがっちり支配している方に会うのですよ。死ぬほど緊張しますわ」
「表現が誇張ではないからな」

わたしたち人間とは違い影踊りは精神生命体です。精神的な重圧がそのまま負傷となり消滅への第一歩―― 彼らの死は人間の死とは色々違うようですが―― になるのです。

「お分かりいただけましたか? だから緩衝役としておふたりを引っ張り出したのです。鬱金さまに通じるミサスさまと、宿命の一部としてラスティアを退けたザリさま。ザリさまがいてくれたらきっと一緒にきてくれそうだと、わたくし計算しましたわ」

ミサスはげんなりしました。茶がかった灰色の波動が広がります。

「俺はザリを連れて影へ飛べない。自分ひとり融けないので精一杯だ。リタの提案に乗った方がいい。それにもし利点がなかったとしても、今の事情を聞けばザリは頷くだろうな」
「ザリさまはお優しいですから」

はるか遠くで泥がうごめきました。そばにいるだけで悪臭が漂い、不快さを覚えます。その存在が持っているのは生命への渇望と己までも食らいつくしてしまいそうな食欲です。あまりにも貪欲すぎてそれ以外の思考がありません。

「影食い」

リタはあからさまに見下しました。

「ミサスさま、よろしくお願いします」

ミサスはすでにいませんでした。精神が分裂したかと思うと落ちるように遠くへ走ります。すでにいるのはかすかな残像で、かの人はもう泥へと飛びこみました。

駄目です。わたしは反発しました。重い身体へ手を伸ばします。

理性は起きてはいけないと告げます。本能は恐れおびえます。その狭間でわたしは目を開き呼吸に耳を澄ませ心臓に魂を添わせます。

行かせない。

わたしひとりだけ安全な場所で眠っていて、黙って戦いへ行かせるなんて。最良だと理解はしても心の底から湧き上がる叫びは止められません。

闇の中、わたしは目を見開きました。

「ザリさま!」

手を引くリタが上げた悲鳴はわたしを貫き、カスタードクリームの味がする洪水にまたたく間に飲みこまれました。リタの思考です、混乱しているのです。

「なぜ起きたのです!? いいえ実は分かっていましたわ。ザリさまの眠りはとても浅くすぐ目覚めてしまうこと、表の世界であんなに確認したのに。しょうがないことだったかもしれませんわ。わたくし生き物を連れてきたことはありませんし、わたくしもミサスさまもここでは目立つ、騒がしい存在ですもの。でも起きてしまうだなんて。

いけませんザリさま、もう一度寝てください! ここは危険です。血と肉に親しんでいる存在にとって致命的な場所なのですわ。今ザリさまを失うわけにはいかないのです。寝てください」

言われても眠れそうにありません。急に起きたときとっさに周りを見渡すのも、とっさに環境に適応できずぼんやりするのも、寝起きの人間にできることなんて限られています。現実でのベットの上ででもこんな異様な場所ででも、行動の種類は複雑ではありません。起きたわたしは桃の香りがしました。

ここがどのような世界かは理解しています。わたしは少し顔を上げ、闇の中に濃い黒を見つけます。彼女がリタでした。その姿は強いて例えれば死にかけたスライムでした。全身無傷なところがないほど傷つき体液をしたたらせ、今すぐつぶれて死んでもおかしくない姿でした。

「うっ」

うめきます。嫌悪ではありません。谷の洞窟で聞いたことは本当でした。リタは重症です。それなのに忘れ、すぐ横にいて気づきもしなかったわたしへの責めです。自分のうかつさに腹が立ちました。

ミサスは遠くでした。遠くだというのに距離はほとんど感じませんでした。

まず目につくのは一対の黒の羽根です。いつもはミサスの背中で小さくたたまれている翼は羽ひとつひとつを手でなぞることができるほどひろげられていました。翼そのものの大きさも違います。ミサスの上半身を覆うくらいだったはずなのに、今はわたしと同じ大きさでした。

羽根の付け根にミサスの身体はありません。影に同化し消えてしまったかのようです。唯一見えるのは目のみです。馴染み深い黒ではありませんでした。いつもはミサスの髪や羽根と同じ、闇の色をしているのに違いました。

青でした。最高級の宝玉のような瑠璃色です。翼と同じく一対二つの瞳に見覚えがありました。ミサスがいつもしている、絶対に手ばなさない額飾りと同じ色でした。

ミサスは泥水の中にいました。周りに腐り泡を吐き出している、水溜りほどもないたくさんの沼に囲まれています。シャボン玉のような丸い土くれはわたしがミサスを見つけると同時にわたしを見つけます。奇妙に虚ろな思考で見つめられたかと思いきや、急に強風がきたかのようにわたしたちへ襲ってきました。

「影食い」

リタの思念よりも先に、わたしは彼らについて分かっていました。身体の輪郭はあるのにやけに空っぽ、そんな生命は聞いていた影食いでしか考えられません。

わたしは動きました。身体があるかどうかすら定かではないので行動できるか不安でしたが、いざやってみると現実と同じように動くことができました。

影食いへ一歩進み、リタと彼らの間に立ちます。影食いは水死体のような手を出現させ、わたしの胸を貫きました。

「ザリさま!?」

リタの悲鳴が世界中にこだまします。わたしは傷ついた影踊りへ倒れこみながら、自分の核にあったものが抜き取られるのを感じました。


沈みます。

永遠につかないであろう奈落へと、わたしは沈みます。

子どもの頃住んでいた街の近くに沼がありました。毎年何頭もの羊や子牛が行方不明になり、底なし沼と住民には恐れられました。

そこに落ちたらこのようになるのでしょうか。なにも見えず、終わりのない墜落へ。わたしはぼんやりと感覚だけの世界を眺めていました。

わたしは死んだのかしら。

問いましたが分かりません。わたしたちの世界では絶対的である生死でさえ、リタの住処ではあやふやになるのでしょうか。

リタ。死にかけている影踊りの鬼っ子、思い出して申し訳なくなりました。わたしを失う訳には行かないといってくれたのに。わたしがこのまま帰れなくなったら、リタはミサスだけを頼りに大魔道士と会わないといけないのでしょうか。気の毒に。

空より水が流れ暗い河になり下方へと注ぎます。わたしは遠慮するように目を伏せて眺めています。

「……ミサス?」

反応はありません。でも確信しました。人の姿はなく、今はものでさえありませんが、この河の流れはミサスその人です。

「助けにきてくれたの?」

ささやきは泡となって河の水面ではじけます。それを機に無数の飛沫がいっせいに広がりました。

それはミサスの思考そのものでした。影の世界で己を律することであり、影食いへの敵意であり、大魔道士鬱金への興味、リタやわたしといった同行者への気遣い。

それらが淡いしずくだとしたら本流は生命の執念と保身です。自分が安全だったら隣人が死のうが国が滅びようがどうでもいいという身勝手な欲望。しかしわたしは溢れる奔流の下に鋼を見ました。

河の芯は黒翼族という強くか弱い種族への忠誠と魔道士として世界を維持し守る義務がありました。普段は怠けて寝てばかりもミサスはいざ危機が迫ると全てを投げ、自分の命さえも駒として戦うのです。今こそその時でした。ラスティアによってカーリキリトが変異しようとしているとき、ミサスは起き上がり投げやりな無関心さで争いへ飛び込みます。ひとりで大変なことを背負い、そのまま消えても一向に構わない気持ちでした。

ミサス。

失ったはずの頬に涙が伝います。なぜ泣くのか、どうしたいのかが自分で分かりません。涙と共にわたしは下へ沈みます。河よりも下、だれの手も届かないところへ。ミサスの手をこぼれ落ち底へ。

語りえぬ夢が眠る場所。思い出せない夢が黙って待っているところ。

言葉以前の言葉、語りえぬものを語るための言葉が聞こえるところへ

どれくらい時が立ったのでしょうか。気がつくとわたしは地面らしきところに立っていました。無音で光はありません。知らずにわたしは目をこらし、耳を澄ませ感覚を研ぎ澄ましていました。

ここは影の世界。狂気と混沌、存在が確定しない危険な世界。飄々と歌うような粒子の流れは現実なのか幻想なのか。

だれかが一歩踏み出しました。驚きに打たれてまじまじと見つめます。あんなに注意していたというのに、だれかがいることにまるで気づきませんでした。

闇の中、その人の姿はなぜだかよく見えました。影へと融けるような髪は長く豊かで、まっすぐ見つめる瞳も恭しくまとう衣も宵闇でした。唇には黒をたっぷり塗り、肌は見てぞっとするような白でした。

敵か味方か。戸惑い動けないわたしへその人は手を差し伸べます。まるでのがれえぬ死神のお迎えのように、慎重に、そっと。

「だれ」

彼女は答えませんでした。あなたは知っている、そう言いたげに見つめます。

とまどいます。その人の言うとおり、わたしは彼女を知っていました。ただだれか分からないだけで。

必死で頭を回転させます。彼女は少しも思い出させるようなことを言ってくれそうにないので自力でがんばるしかないようです。だれでしょう。よく知った人のようですが。強いていうのならどことなくラスティアに似ているような。

ラスティア!? 思わず引きました。ついさっきミサスがしばらく現れないと断じたばかりですが、見誤ったのかもしれません。

しかしラスティアにしてはおかしいところもあります。女の人ですし、今のところ無害です。見かけだって少しも似ていません。それなのにどうして近いと思ってしまったのでしょうか。

落ち着いてと、混乱してなにも考えられなくなるそうになる自分をはげましました。冷静に考えるのです。理論的に推理すればきっと正しい答えが分かるはずです。

まずわたしにはたくさんの友人知人がいますが、大半は除外されます。ここは影の世界であり、普通の人はこれないのですから。

わたしの知っている人で影に潜れるのはごく少し。ミサス、リタ、そしてラスティアです。わたしはミサスとリタを置き去りにしてきました。かといってラスティアというのも考えにくいです。

では、彼女はだれでしょうか。

雷に打たれたかのように目を開きました。もうひとり影へと進んだ人を数え落としていたのを思い出したからです。そして影とはなにかをも同時に理解しました。

影とはカーリキリトの裏、寄り添い離れませんがけして表に出ず黙っているところです。そこでは確固たるものが存在せず、抽象的で魔法じみています。同時にひどく原始的で荒々しいです。なかなか御せず、時には牙をむき襲いかかる。恐ろしいところです。

しかしこれはわたしの一部でもあるのです。身勝手で欲望に忠実で、獣のような心をわたしは持っています。そして影の側面は悪ではないのです。嫌なもの、怖いもの、目をそむけたいものですが邪悪ではなく、わたしは自分が常に影を抱えていることを認めないといけません。

受けいれてしまえば怖くはありません。

わたしの半身。力強く真実を持つもの。常の時にはわたしが御しおとなしくさせていますが、いざ生死が荒れ狂い、危険な影に迷いこんだ時にはわたしは半身に身をゆだね、影の言う通りに導かれ行動しなくてはいけません。

だからわたしは目の前にいる人物の手を取りました。

「わたしを、ミサスとリタのところまで帰して。ザリ・クロロロッド。影のわたし」

気づいてしまえば認めるのにためらいはありませんでした。


うっすら目を開けるとミサスに眺められていました。羽根だけの姿ではありません。背の低い黒服の有翼人種の青年でした。ミサスにとっても意外なことだったようで目を見開きます。

起き上がります。全身に鉛をつるしたかのように身体が重く、頭には無意味な単語が渦巻いています。まだ正気ではあるようですが、体調が悪いことは確実のようです。

「ミサス、その額飾りはなに」

状況の割にあまりにもどうでもいい質問ですが責めないでください。あまりに重大なことを知り、自分の影を受け入れたばかりなのです。虚脱してしょうがありませんし、初めに目についたものをふと気にかけてもそれほどだらけているのではないと思います。それにここでは言わなくても考えるだけで相手に伝わってしまうのですし。

「魔道の補助をするものだ。魔力の増強と詠唱時間の短縮。黒翼の秘宝で山を降りるときにゆずりうけた。お前はこんなところでなにを考えているんだ」

ミサスも普段だったら絶対に答えなかったのでしょうが。

「まだ正気を保っているのか。信じられない」

まるで狂気でなければいけないような口ぶりですが、ミサスが心から驚いているのが分かったので思考は言葉にならず感情として離散しました。

「影の中で意識が目覚め、影食いに食らいつかれても平気なのか」

そうだ、影食い。大変なことを忘れていました。彼らはどうしたのでしょう。

「蹴散らした」

ひどく簡単そうに真相を明かしました。そうですか。

「驚くことではありませんわ、ミサスさま。ザリさまは自分の影を認めたのですもの。影歩きができるのも少しかじられても平気でらっしゃるのもそのせいですわ」

リタの思考です。なんだか疲れて寝ぼけているようでした。

「元々、ごくごく少しですがいますの。この恐ろしい世界は実は自分の内面によるものだと分かってしまう方が。滅多にいませんが皆無ではありませんわ。そうした方々はもう影を恐れず、2つの場所を行き来してわたくしたちと語り合います。そうした方々を真似した魔法が、ミサスさまたちお得意の影歩きですわよ。

昔精霊術を似せ、世界律を揺り動かす言葉を編成し、そうして魔法ができたのと一緒ですわ。ザリさまのような方々がいて、それから影歩きの魔法ができたのですわ」

「リタ、どこにいるの?」

声はすれども姿はありません。思考はごく近くで聞こえるのですからそばにいるはずなのですが。

「ここですわ、ここ」

足元の薄布をのけたかのように、リタの姿が浮き上がりました。紺のドレスを着た女性の外見です。地にはいつくばりいかにも気分が悪そうにわたしを見上げていました。

「リタ?」
「ザリさま、お願いですから落ち着いてください」

そして咳きこみ、大きな音を立てて泥土を吐き出しました。明らかに人間の体積よりも大量の土くれはすぐに分解し消えてしまいます。身体の末端、手足の皮がめくれ内側から靄がわきあがりました。とっさに背中をさすろうとしましたがすげなく手を払われてしまいました。

「ザリさまのせいですわよ」
「わたし」
「わたくしへ倒れてきたでしょう。ぶつかって、ザリさまの精神がどっと押しよせてきたのですわ」

またリタはのたうち回って吐きました。

「人間としての考え方とかなにかを好きになったり気を寄せたり恨んだり、複雑で統一のない精神が流れこんできて。軽い接触までは問題なしでしたのに。ああ混乱する」

咳きこみながらの声は狂ったかのように音調がばらばらでした。男性の低音から幼子の甲高さまでぐるぐる行き来していました。わたしの横でずっと観察していたミサスが判断を下しました。

「とまどっているだけだ。消滅はしない」

死ななきゃいいというものではないと思うのですが、手の出しようがないことも事実です。

苦しむリタをなぐさめたり励ましたりして時間がたち、ようやく彼女が動けるようになるまでずいぶんかかりました。リタの乱れは周囲にも広がり磁場がおかしくなりましたが、先へ進めないほどではありませんでした。


丘には緑が広がり、裸足で歩いたら気持ちがよさそうです。所々に果樹が生えてあり、イチジクやオリーブが実っていました。読書にぴったりの東屋もあり、丘の岩のように周囲に調和しています。

少し目を動かせばそこは夕暮れの魔荒野で、朧な人影の幻がひとり歩き消えていくのが信じられません。丈が短い草で覆われた丘には幻は一切なく、気候さえも穏やかでした。

「ここが大魔道士鬱金の住処?」

わたしは感嘆のため息と共に吐き出しました。すごい。

「そうですわ、ザリさま。一見無防備に見えますけど勝手が分かる人がいないとここを見つけることさえできませんわ。そうでしょう、ミサスさま」

もちろんもう表の世界、身体があって走ったり跳んだりするのが可能な現実に帰ってきていますから、ミサスは顔色ひとつ変えずに無視をしました。荒野にこんな場所があれば目立って仕方がないはずなのに、だれにも知られていないのは結界でも張っているのでしょうか。

「ここが温暖で草木が茂っているのも、大魔道士の力?」
「ええ。鬱金さまの無限に近い魔力の賜物ですわ。生き物は緑の土地に憧れを持つものですわよね」
「さあ。ずっと沙漠に住む人とか、沙漠でしか生きられない動物もいるのだし」

いささかがっかりしながらの返事でした。もしもこれが農業技術の賜物だったらぜひ習いたいと思っていたのですが。

わたしの投げやりな言葉で会話は死に、後はぎこちない沈黙でした。

分かっています、なぜわたしたちは無駄ともいえる雑談をしていたのか。せっかく影の世界へ死にものぐるみで進み、ようやくたどり着いたというのに。

わたしたちは皆怖かったのです。リタにとってはそれどころではすまないでしょうし、ミサスにはとても大げさな表現に当たると思いますが、結果としてわたしたちはしりごみをして遠慮していました。

相手は伝説、歴史上でも偉大な人物、その物語を聞いたことはない子どもはいない。大魔道士ナーガの鬱金なのです。そんな人物にお願いをしにきたのです。臆して当然でした。

「まず鬱金がどこにいるかを探さないと」

いつまでも立ちぼうけてはいられません。まずは本人を探すところからです。

「ここにいるのは確実ですけど、見る限り分かりやすい住居はありませんわね。隠しているのですわ」
「結界を張っていることですでに隠れているのだから、家はそんなに難しく隠していないと思うの。探せばすぐに分かるはずよ」
「うるさいわね。眠れやしないわ」

低くなめらかな声が割りこんできました。ぎくりと動けなくなります。まるで悪巧みを先生に見つかった子どものように。

24歳の悪がきはぎこちなく振り返ります。案の定でした。リタの全身が薄くなります。

二つ名にふさわしい豊かな髪は鬱金色でした。灰がかった青の瞳はわたしたちを射抜きます。実力に裏づけされた自信と誇りが気だるそうな顔の裏に見え隠れします。眠たそうなのに女王のような威厳がありました。

下半身は緑の鱗で覆われた蛇でした。大蛇と呼んでも足りない胴体は腰の辺りで人間へと変わります。

大魔道士鬱金、ナーガのガラディアスその人でした。