魔荒野の夕暮れは死んだ人とまた会える。聞いたのはサンザシからだったでしょうか。
よくある話です。どこの国にもあるおとぎ話、ましてや古の亡霊うごめく魔荒野です。あって当たり前でした。
きっと嘘なのでしょう。会えるはずがありません。ありえない望みにすがる、すがるのも無理のない悲しい祈りです。
でももし本当だとしたら。別れて会えない人とまた会えるのだとしたら。
わたしはなにを望むのでしょうか。だれのおもかげをたそがれに見るのでしょうか。
徒歩は遅いです。黒海なら一呼吸で景色が流れ草原を横断できるのに、足では途方にくれるほど進みません。こんなに気が急いているのに、うんざりするほどのんびりとした速度でしか走れないのです。
顔を上げると果てしないという表現が誇張でない大地が広がっています。今までわたしたちがこの距離を歩いてきたのが信じられません。そしてまた引き返そうというのも現実感がありません。
やるべきことははっきりしています。ミサスを助けます。あの、黒い羽根を生やした、だれよりも小さくてまるで子どものように軽い魔法使い。追っ手を遅らせるためにひとり残ったミサスの元へ行きます。
行ってどうするのでしょう。わたしになにができるのでしょう。ミサスは絶大な力を持つ魔道士で、敵は大勢でみな屈強な兵士です。わたしにはエントの強力も危機を切り抜ける知恵もないのです。大軍を率いていなければ伝説の剣も幻の魔道書もありません。それどころか自慢の黒海も横にいないのです。わずかな手荷物とボウガン、背中にアーバレストを担いでいるだけ。たかが一介の薬草師が行ってどうするのでしょうか。
歯を食いしばりました。大粒の汗が目に入り涙となってこぼれます。
それでも行かないといけません。例えなにもできなくても、なにひとつ助けることができなくても走るのをやめることはできません。けしてひとりきりになんてさせません。
膝が笑い目がかすみます。眼鏡が蒸気で曇っています。少しでも気がゆるめば立ちどまり倒れてしまいそうでした。
方向はこっちでいいのでしょうか。
小さな疑問が生じました。わたしはクラシュムから地竜の谷まで一直線に行き、そして戻ろうとしています。しかしミサスやマドリーム兵たちが直線上にいないかもしれません。
ありえます。ミサスはマドリーム兵らを少しでも長く釘付けにするために残りました。ならばすぐ谷へ行こうとはしないでしょう。マドリーム兵撹乱のためわざと違う方向へ向かっているかもしれません。そうでしたらわたしが行ってもだれもいないことになります。
そんな間の抜けたことはごめんです。わたしは汗をぬぐい、どうするべきかを考えました。行けども行けども変化のない、起伏にとぼしい地形ですがそれでも右手からぐるりと行けば、見通しのいい高台へ登れそうです。
予想以上に高い岸を歩くと、正解だったことが分かりました。すぐにクラシュムが見えてきました。地下にあれほどの巨大遺跡を抱えているだなんて思えない、小さな国境沿いの街は息をひそめているかのように静かです。
街の手前にひどい土煙が巻き上がっていました。自然発生したものではありません。長剣と盾を持ち鎧で身を固めた男たちが行進しているのでそう見えるだけです。一体何十人いるのでしょう。ここはもうエアーム帝国です。マドリーム荒野国が兵を派遣したら重大な国際問題になりますし、下手をしたら戦争です。それだというのに、国境を越えてまでの執着心にわたしは震えました。
頭を振ります。わたしはマドリーム兵を見にきたのではありません。ミサスを探しにきたのです。肝心の魔道士はどこへ。
「いた」見つけました。土煙の中、こんなに離れているのに分かってしまいました。ミサスは目立ちすぎるのです。どこにいても黒い羽根はすぐ見いだせます。
ミサスはひとりマドリーム兵と離れ対峙していました。手に短い杖を持っていますが、きっと槍の成れの果てでしょう。後ろを向いているので顔は見えません、見えたとしても遠すぎて分からないでしょう。
ミサスは動いていませんでした。柔らかい髪と翼が強風にあおられ揺らめきます。マドリーム兵を目の前にして逃げようとしません。蜘蛛の糸のように細いなにかが空中から飛び出しミサスの足元へ落ちます。よくよく見て矢だと分かりました。
ミサスがなにをしようとしているのか、考えなくても分かります。魔法、きっと大勢を傷つける破壊の魔道を準備しているのでしょう。
「ミサス!」叫んでも聞こえるはずがありません。わたしはなんとか岸を降りてそこまでいけないかと見回しました。切り立つ崖ではないので降りることそのものは厳しいものではありませんが、特に策もなく降りたら大怪我確実です。黒海がここにいてくれたら駆け降りられるのですが。下手にミサスに近づいたら巻きこまれるとか、行ってもなにもすることがないとかということは無視しました。この際多少の痛みは覚悟して、なんとかあそこまで行けないでしょうか。
「なんとかして」途方にくれながらわたしは小さな、あまりにも頼りない黒くて小さな背中を見つめました。
その頭上に白い腕が現れました。幽霊というにはあまりにもはっきりした手です。わたしの見間違いかと目を大きく開いても手は消えません。
手は伸び、ミサスの頭に触れました。
なでたとも触ったとも言いません。手は透けミサスの頭を通過し、揺さぶって握りつぶしました。手はそのままぼやけて消え、ミサスは痙攣したように身体をこわばらせました。
ミサスの目の前に球体が出現しました。音も先触れもなく黒い太陽のような膨大な火の玉です。矢がミサスの腕をかすり太ももに当たります。
球体は大きく膨れ上がり破裂しました。熟した果実が落ちて割れるように、ある一転でほころびを生じ均衡を崩し、荒野を覆い地平線を塗りつぶして、荒れ狂う業火へと転じました。もちろんマドリーム兵もミサスも一瞬で飲みこんで。
「!」言葉が出ません。目と自分が信じられません。遠く離れすぎていて肌を焦がす高熱も目を焼き視力を奪いさる閃光ともわたしには無縁ですみました。わたしは無事です、でもそれがなんだというのでしょうか。すぐ隣で砂利を踏みつける音がしました。
「すごい威力だ」麻痺したように首だけ動かすと、白い外套がありました。炎を映すその色はひどく印象的でした。
「彼は実力者だ。大魔道士と呼ぶにふさわしい。そう思わないか、小さなザリ」「ラスティア」
敵意は感じられませんでした。ラスティアは落ち着いて微笑みかけます。まるでわたしがまだ小さい子どもだった時のように。
なぜここにいるのか、どうしてこんなことをするのか、聞きたいことはたくさんありました。それなのにいざ本人を前にすると喉がつかえてなにも言えなくなります。
「ミサスでさえも押しつけられた役割からは逃げられなかったな」「あの手はラスティアがやったことなの」
ミサスの頭をかき回した白い手は。
「察しがいい」ラスティアの余裕のある言い方に、わたしはなにも読みとれませんでした。
「ギリスはどこに」ラスティアの憤りをさえぎり、わたしは己を叱咤しました。どうしてギリスを聞くのか、わたしにも分かりません。
「俺の手からは届かないところに行った」まるでひとごとでした。わたしは思わず立ち上がります。膝に力を入れ手を握り締めて。大丈夫、まだ立てます。
「あなたがやったのでしょう!」「そうだ。それなりにきちんと守っていたのにいなくなった。どのようにしていなくなったのか見当がつかない」
ラスティアは不審がっていました。本当にギリスの行方について疑念を持っているようです。わたしはおぼろげながら分かっていましたが、もちろん教えません。せいぜい悩んでいればいいのです。
「どうして、ヒビキを利用したの」また目元が熱を帯び涙が浮かびます。今朝―― あれからまだ半日とたっていないのです―― の光景ははっきりと目に焼きついています。きっと死ぬまで忘れないでしょう。
「やむをえなかった」わたしが感情的になればなるほど、ラスティアは感情を失っていくようです。
「やむをえないですって。どうしてそんなことが言えるの。ヒビキはまだ若かった、こことはなにも関係がない異界の住民だったのよ。故郷から無理に引きはがし、なんの手助けもせず放置して、人質を取りいうことを聞かせて。ヒビキを死に追いやったのはラスティアなのに!」「そうだ。俺が全て悪い」
ラスティアは受けいれました。わたしは顔を上げます。
「俺が殺した、俺が手を下した。彼は俺と雷竜が謀って舞台に押し出し脱落させた。怒っているのか、小さなザリ」「当たり前よ!」
「責めたいなら存分になじれ、気のすむまで罵るがいい」
「そんなこと、しないわ」
わたしではありません。ひどい目にあったのはヒビキでありギリスです。わたしは横で見ていただけにすぎません。ラスティアを責めるのは彼らです、わたしではありません。
「小さなザリ、俺はどんな責めも受けよう。だが後悔はない。罪悪感もな」ラスティアがヒビキへ謝罪していないのを思いあたりました。
「覚悟はできている。響だけではない、戦いで生まれる全ての憎しみ、全ての責めを受けよう。分かっていたことだ、あの夜、苔さえ生えぬアザーオロム山へ嵐の中ひとりで神殿へ行った時から。戦いを始めた時俺は山より高い怨嗟を負うだろうと知っていた」ラスティアは覚悟をしていると言います。人から恨まれ、無関係だった彼らを巻きこみ、自分の平穏も幸せも投げうって戦っていると、雷竜神と同じようなことを言いました。
「戦わなければいいのに」わたしにはもう大声をあげる気力も立ち向かおうとする力もありませんでした。混乱しすぎて自分がどこに立っているのかも怪しくなってきます。
肩に力が入りました。あまり遠慮せずにラスティアが手をかけます。ラスティアはかつて会ったどんな時よりもわたしの近くにいました。太陽のような金髪、手は大きく固い、剣をにぎったことのある手でした。力強く精悍で、なにがなんでも自分の信じた道を貫く意思が瞳から読み取れました。
「戦いをやめることはできない」「あなたが始めた戦いよ」
「やめるつもりはない。今ここで取り下げたら踏みにじってきたものたちに合わせる顔がない。カーリキリトというこの世界にもな」
小さなザリ。ラスティアは肩に力をこめました。
「昔から不思議だった。なぜ千年前の城に今でも住み続けているのだろう、どうして百年前の書物が今でも読み続けられるのだろう。人々は安穏として昨日と同じ今日、十年前と同じ生活を送っている。同じものを食べ、同じ道具で同じ仕事をし、考えることは彼らの祖父と変わらない。これは変だ、奇妙なことだ、年月はいたずらに浪費され、世界は停滞し硬直している。なぜ技術革新は起こらない? 文明の進化は? あらゆるものはよき方向へ未来へと向かっているはずなのにどうして足踏み以上のことが起こらない?俺は魔道を学び精霊の力を手にし、ひとりでここではない世界へ飛ぶことを知った。憑かれたように行ける限りの異界へ飛んだ。秋人の住むアースに暮らしたし、滅んだウラスへも立ち寄った。機械仕掛けの女神が守る世界も、あらゆる異界人が交流する市場という世界へも行った。様々な世界があった。広い世界や機械文明が発達した世界、生命や物理法則がカーリキリトとは全く異なる世界も見てきた。
おぼろげな疑問は確信に変わった。カーリキリトはとまっている。ただ立ちどまるだけならまだしも期間が長すぎる。次への準備段階や休息というのですらない。どよみ腐っている」
肩にかかる手の力でラスティアの憤慨がよく伝わりました。おそらく何回も何百回も同じことを考えては怒ったのでしょう。演説はなめらかで感情的でありながらも力強く、飲まれそうです。
「カーリキリトに戻り俺は雷竜の元へ行った。雷竜は俺と同じく異界を見聞きし力は革新と変化のためにある。俺は雷竜へ訴えた。今こそ眠りから覚め世界に新風を」「雷竜神はお断りなさった」
ついさっき同じ話を聞いたばかりです。視線の向きこそ逆なれど。
「そうだ、小さなザリ。雷竜はしりぞけた。自分に力はあるがそれはやってはいけない、手を加えてはいけないと」不意に怒りがよみがえったかのように、ラスティアは歯を食いしばりました。
「この世で最大の力を持つ竜がなにを言うんだ! これは罪だ、力あるものが役割を放棄し、世界を滅びゆくままにするなど!」「だからってラスティア」
「ならば俺が代わりにやろう。力と役割を力づくで奪い、怠惰な竜の代わりに世界を救おう」
恐ろしいことを。
ラスティアは自分のしていることが分かっているのでしょうか。天地始まって以来だれもが考えることさえしなかった真似をなんでもないかのように行うなんて。クララレシュウムの付けた呼び名通りです、ラスティアは反逆者でした。
「俺を罪人と見るか、小さなザリ」わたしはきっぱりうなずくべきでした。それだというのに見つめられて言葉が出ません。悪人のはずです、神の地位を不遜にも奪い力を利用して好き勝手にしている、どうしようもない極悪人のはずですのに。肯定できないわたしをラスティアは好ましそうに見ていました。
「反逆ではない、革命だ」ラスティアの手が離れました。
「無能で寝てばかりの竜を引きずり降ろし後釜についた。人である身に代わりができるのか分からない。だがその座につくのに魔道士にして神子であるラスティア・ラガスがもっともふさわしい。俺は竜を追放しただけで満足しない。世界を変化させる。魔道も学問でも異界から取り入れ人々を啓蒙する。世界のために」その言葉はラスティアが口にするには不似合いでした。
変化。いいものはなんでも異界から取り入れて。心惹かれる内容です。マドリームのサンザシ農場で見た新しい農法は荒野マドリームに緑を取り戻す、夢のようなことを実現していました。そしてアキトがたまに話す異界技術のすごさ、だれでも思う存分勉強ができ、国中どこにでも病院があって人々は80歳まで生きる。空を飛ぶ乗り物が当たり前にあり食料は豊富で飢えを知らない。
あまりにも現実離れしすぎて夢とも思いません。アキトが生活していたことがぴんとこないおとぎ話です。
ラスティアはそんな夢をここで描いているのでしょうか、本当に実現させようとしているのでしょうか。
「みんなのために」「世界のために」
「でもラスティアは今、みんなを不幸にしている」
不幸なんて言葉で片付けたくはありません。多くの人が街が傷つき壊れて二度と戻りません。破壊を繰り返してきたラスティアを信じられません。
「ああ、そうだ。俺は時に不必要な破壊をせざるをえない。なぜだ」わたしに聞かれても。
「孤立しているからだ」自分で答えました。孤立?
「俺はひとりだ。ものごころついてから親兄弟はいない。神殿で精霊術の修練をし魔術を学んだ。周りは養育したが友人も保護者もいなかった」わたしは雷に打たれたように立ち尽くしました。わたしと似ています。わたしは片親もいましたし、神官も含めてたっぷり愛されましたが、わたしも神殿で育ったようなものです。
「戦いを始めてからはなおさらだ。神と仰ぐものを打ちすえた俺を、カーリキリトのものはだれも助けない。かろうじて異界の存在と契約を交わして協力を得た。影を自在に操る術を学んだ。それだけだ。俺はひとりで、横にはだれもいない」胸が苦しくなります。わたしは同情したのでしょうか。哀れんでいい相手ではないのに。
「秋人たちは大勢だが俺はひとりだ。雷竜によって」クララレシュウムの? どうしてそうなるのでしょう。話の過程を省略しすぎて理解できません。アキトが仲間たちと一緒にいるのはクララレシュウムのお導きです。かの方がおっしゃられたのですから間違いありません。でもラスティアの方は。
「小さなザリ、お前は本当なら俺の側にいたんだ。唯一俺のそばにいる存在。雷竜は能力で見た未来をねじまげ秋人の方へ行かせた。お前は俺の味方だったんだ」わたしの呼吸はとまり目の前に広がるもの全てが色を失いました。例え今崖から身を投げ出してもこれほどの痛みと衝撃はなかったでしょう。ラスティアのみが唯一の光であるかのように輝きます。
「嘘よ」「考えたことがなかったのか。どうしてここにいるのかと。戦えない、ごく普通の薬草師がいるのだと」
あります。クララレシュウムからの話を聞いてからは特に。状況に翻弄されつつもいつも心の片隅で考えていました。なぜわたしなのだろう、どうしてわたしが選ばれたのだろう。わたしはここにいていいの?
恐ろしい問いかけです。もしも駄目だと言われたらわたしはどうすればいいのでしょう。わたしは剣を手に勇敢に戦うこともなく、魔法の類も使えず、深い知恵で皆を導くこともできません。なにもできないわたしがついて行ったのはひとえにわたし自身に目的があったから、ラスティアを追うと決めたからに他なりません。いつの間にか巨大な宿命の中に飲みこまれていました。もしもそのことが間違いだったら。
「クララレシュウムは道標ウィロウを排除し代わりにお前をすえた。いくつかの点でお前はウィロウと同じだが、一番の違いは本当はそこにいるべきではないということだ。道標はいつづけ、良心は俺の横にいるべきだった。ウィロウはいなくなり小さなザリもいない。戦いの均衡は失われ流れるはずがない血はいまだ止まらない」耳をふさぐことはできませんでした。ふさいで目をつぶり、身体を丸めてしまいたいたいと思っているのに、もう十分聞いたのだからやめたいと思っているのに。
「やめて」それはまるで。「小さなザリは悪くない、クララレシュウムが起こしたことだ」
「やめて」わたしのせいで。
「お前の誓いも悲壮な決心も、全ては雷竜の手の中にあった」
「やめて!」
「道標ウィロウが脱落したのはお前のせいではない、小さなザリ」
あくまでも優しく、ラスティアは責めるのをやめませんでした。
「哀れな、小さなザリ。雷竜に思うがままに操られ、願いも祈りさえも利用された」「それ以上言わないで! こじつけだわ、わたしは信じない、だまされない! そんなことを言って、わたしをアキトから裏切らせようとしているのでしょう!」
「そうだ。だが俺はそそのかしていない。お前は元々裏切り者だ、初めからそうだった。俺は伝えているだけに過ぎない」
ラスティアは泣いているわたしへ手を差し伸べました。大きく固い、頼りになりそうな手を。
「運命を戻すのは難しかった。こうして話すだけで響修がいなくならなければならなかった。だがもう惑わされない。共にこい、小さなザリ」「わたしがいても、なにもできないわよ」
本心です、例えわたしがここにいるのが間違いだったとしても、無力であるということには変わりがないのです。
「違うな。小さなザリは無力だ。しかしお前は俺を止めることができる。俺ひとりでは容赦ができない、人を殺しすぎる。俺は血にまみれた道を進み、立ちはだかるもの全てを倒さずにはいられない。止めるだれかが必要だ」「わたしにできると?」
「本来お前がやるべきことだ。俺にはお前が必要だ。響のような犠牲をこれ以上出させないでくれ」
ラスティアは真剣でした。手はまだ差し伸べられています。
「小さなザリ、俺を助けてくれ」わたしは笑いました。
初めはくぐもった声がだんだん高く大きくなっていき、ついにはほとんど狂乱したような笑いでした。わたしは涙を流しながら大笑いしました。おかしくておかしくてたまりません。
ラスティアは動きませんでした。冷静にわたしを見つめます。それだけでわたしはまたおかしくてたまらなくなります。わたしは馬鹿です、どうしようもなく間が抜けていました。こんなに自明のことなのに、今の今まで気づかなかったなんて。
分かりました。やっと分かったのです。理解するのは遅かったですが、手遅れにはなりませんでした。
「ラスティア」自分が泣いているのか笑っているのか分かりません。声は自分でも驚くほど静かでした。
「あなたは身勝手で残忍だわ」わたしはラスティアを指さしました。
「あなたは覚悟を決めて死を背負っていない。生命を軽く見すぎていているから責められてもなんとも思わないのよ。人の痛みに鈍すぎて踏みつけてもなんとも思わない。避けられた破壊をして平然と自分ではないだれかに責を押しつける。嘘をつきたくさんの命を奪い苦しめてきた」なんでこんなに、いつだって目の前に吊り下げられているようなことが分からなかったのでしょうか。救いを求める手は偽りです、ラスティアは友人なんて欲しがっていないのです。欲しかったのは部下、自分を殺したいほど憎んでいても計算どおりに動く手下だけです。
「ラスティアはわたしが必要ではない。それなのにしつこく誘ったのは、わたしが抜けるとアキトの宿命が崩壊し、ラスティアが勝利を得るからだわ。わたしがいなければアキトはアザーオロムのラスティアまで行き着けない、だからラスティアはわたしに声をかけた。わたしは甘い、どうしようもない甘ったれで、だから彼らの中でひとりだけ誘惑に乗せられそうだったのよ。わたしが馬鹿だった。でも分かった以上、誘いには乗らない」そしてわたしがここまできた理由も分かりました。自分さえも把握しきれていなかった衝動の正体が見えたのです。
かつてわたしはラスティアを尊敬していました。女性優位の精霊使いたちの中ですさまじい力を持ちつつも、同時に魔法使いであるという快挙。世界中いつの時代にもどんな種族にも滅多にないすごいことです。多くの人が自然にするようにわたしもまた敬いました。
フォロゼス城で魔性を解き放ったのはラスティアであると知った時、わたしは追うことを決めました。追い求めて会い、あれは本当にラスティアだったのか、そうだとしたらなぜそんな恐ろしいことをしたのか知るためです。
もしわたしの勘違い、ラスティアの無実でしたら誠心誠意謝ります。でも本当にラスティアがしたことで、ラスティアが少しでも後悔しているのでしたら。破壊がラスティアの力が足りないことによるもので仕方がないことだったら。わたしはラスティアの友となり、なにがいけなかったのか伝え、間違いをおこさないようにそばにいるつもりでした。キャロルが宿命の影と呼ばれアキトの補佐をするように、ラスティアの足りないところを助けたいと思っていました。
もしそうでないのだとしたら。ラスティアの知性と計画は完璧で犠牲は出るべくして出たのだったら。ラスティアは後悔どころか気にもかけていないのでしたら。
報いを与えないといけません。城で魔性を滅した時のように、追いつめ声高に非難します。冷酷な裁断者となりラスティアを非難します。けして助けなどするものですか。
わたしは今ようやく見極めました。
「ラスティア、わたしはラスティアを許さない」例えラスティアが言ったことが正しくても、わたしが二重の裏切り者で本当はラスティア側の人間だとしても、わたしはラスティアの敵です。
「あなたを見捨てる」ゆっくりとラスティアの表情が歪みます。さながら鋭い刃物で切りつけ、あまりにも鋭すぎて初めは痛みもなにもなかったのに、徐々に血が流れようやく気づいたかのように。
「そうか」差し伸べられたはずの手は腰にさしてあるシャムシールへ伸びました。声はひどい苦痛と屈辱で震え、悔しさに溢れていました。
「ならば死ね!」吠え声とともに地を蹴ります。大柄なのに舞っているかのような身軽な動きでした。
わたしもまたクロスボウを構えました。
わたしは冷静でした。いざ戦ったらどっちが強いか、そんなの分かりきっているのに不思議と落ち着いていました。
なぜならわたしは勝ったのですから。宿命に組みこまれた戦いで確かにラスティアに勝利したのです。この先にある命のやり取りはおまけでしかありません。
怖くはない。すでに勝っているのですから。
天がねじまがり反転しました。光より生まれた影は鳥の形となり、翼翻して急降下します。
ミサス。
ミサスの手の中にある影が凝縮し、力ある刃となってラスティアを貫きます。とっさに伏せたわたしの横を刃は通り過ぎ、すぐ横の岩が切りさかれるのを見ました。
「翼の戦士!」振り返ったラスティアの、身体より離れた腕が消滅しました。ついで身体も、腕から感染したように消えうせます。損失は全身へ広がります。生身にあるべき地も肉も備わっていない影は音もなく消滅していきました。
影。アザーオロムに閉じこめられ動けないラスティアが、生身のままでここにくるはずがありませんでした。
あっけなく―― あれほど言葉を交わしたのが嘘のようにラスティアだったものは消滅し、跡にミサスはおぼつかなく着地しました。すでに槍は断片さえも失われ羽根ははげちょろ、服はあちこち破れていました。いつも着けている額飾りは常の位置になく、ミサスの手の中で宝石は青く光りました。
「お前には恐ろしいものはないのか?」荒い息の中、聞き間違えようもない明瞭な発音でした。へたり座っていたわたしは顔を上げます。ミサスの表情はよく見えず、翼が息づかいにあわせて上下していました。
「な…… なによ」今まで緊張し続けたことへの反動でしょうか。さんざん流れた涙がまたこぼれそうになりました。
「あなたには言われたくないわ、黙ってひとりで勝手になにかをして。普段はものぐさで指一本動かさないくせに非常時だけひとり犠牲になって。それで怠け癖が許されると思っているの、免罪符になって帳消しになると思っているの!?」口が止まりません。けんかすべきではないのは分かっています、でももう自分で制御できないのです。
「黙って犠牲になればいいだなんて大間違いよ!」「静かにしろ。頭に響く」
声は奇妙にがらんどうで一切の感情がこぼれ落ちていました。不吉な、予感というにはあまりにも強い幻影にわたしは言葉をなくしました。
巨大な樹木がそうするように、ミサスは大きく左右に揺れ、そのまま倒れました。
がはっ。獣じみた吐息をもらし、ミサスはのたうちまわります。黒い羽根が狂ったように羽ばたき辺りにふきあれます。片手で起き上がろうとしますが到底体重を支えきれず、何度も肩や顔を岩に打ちつけました。もう片方の手で喉をかきむしり、首が赤く染まり指が食いこみました。喘息のようなあえぐ呼吸は空虚に響きます。
「ミサス」呼吸は見る見る弱くなっていきました。まるで無人の洞窟を通り抜ける風のような声でした。
「ミサス!」恐怖に全身を打たれ駆け寄りました。肩をつかみ仰向けにして、とにかく上体を起こそうとします。羽根が膝に当たりましたが、力が弱々しすぎて痛くありません。
なにが起きたのかすぐに分かりました。魔法の反動です。魔法使いが実力よりはるかに強い術を使うとき、魔法の一部は直接魔道士へ戻り身体の内側をずたずたに引き裂きます。症状も条件も全て反動だと指し示していました。
治療をと、第一に考えました。でもどうすれば。魔法の反動には有効な治療方法が存在しないのです。なにせ身体の内側がまんべんなく傷つけられるのですから。薬草を飲ませるにしても傷を水竜神殿特製の融糸で縫い合わせるにしてもうまくいきません。
痛みを和らげて安静にして、後は本人の体力しだい。これが一番効率的なのですが。
駄目です。わたしは判断しました。どこの世界に黒翼族の体力にかける医者がいるでしょう。虚弱貧弱病弱の三重苦です。当てにできません。
唇をかみ、どこまでできるのか考えます。持っている薬草の大半は黒海の背ですが、今ある肩掛けかばんの中にもかなり入っています。確かその中にある薬草の抽出液があったはずです。濃度が高すぎてうかつに飲みすぎると劇薬ですが、ちゃんと測れば効くはずです。ミサスの体重なら分かっています、どれだけ飲ませればいいのかも知っています。
と、首をかきむしっていた手が、今わたしがさせまいとつかんでいた手が震え、指がわたしをつつきました。
「ミサス?」「起こせ」
途切れ途切れの小さい声でしたが、意味は通じました。
「静かに。安静にして」肩をつかみ、背中のやや下辺り、翼の付け根すぐ下へ手を入れわたしへ寄りかからせるようにしました。首が座らず土まみれの黒髪が腕にかかります。
なにをする気なのでしょうか。今起きるのはけしていいことではないのですが。
倒れてもまだつかんでいたサークレットをにぎりしめ首の上辺りにかかげました。砂を払うように翼がひらめき、単調ながら意味のある動きを繰り返し行います。聞きなれない魔法の言葉が、ゆっくり噛みしめるように始まりました。
「ミサス、今はまだ魔法は」手中の青玉がかすかに内から光を持ちます。言葉は同じ節をなぞり、ミサス自身がえぐった首が少しずつふさがり癒えていきます。
なんだ。わたしは安心し拍子抜けしました。
「回復魔法、使えたの」魔法の反動を直すのに一番都合がいいのも魔法です。魔法ならば傷が内側にあるのも範囲が広すぎるのも関係ありませんから。
薬草師としては少々複雑です。もっとも手っ取り早い回復方法があって喜ぶ反面薬草の限界を見せつけられたようなものなのですから。なにも言う気になれず静かに手を下ろし、最低限翼を動かせるよう頭を膝の上へおき、ようやく気を抜いてぼんやり空を見上げました。
風が翻り雲が速く飛びます。空の切れ目切れ目から見える空はミサスの宝石のように青く、とてもグラディアーナの予言が信じられません。