三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

私が見つけた秋人

なにもないところだった。

床は灰色の正方形が隙間なく並べられていてそれだけ。周りは暗すぎて壁も見えなければ天井も分からない。立っているのは俺だけだった。

「え?」

我に返って後ろを見る。人ひとりいない。

「嘘だろ。さっきまで俺はここじゃない部屋にいた、みんなと一緒にいた。どうして今こんなところにいるんだ?」
「移動させたからだ」

灰色の正方形は継ぎ目をなくして一枚の板になる。俺の目の前に光源が現れた。細かい造作は分からない、ぼんやりと光る人影から懐かしい声が聞こえる。

「声!」
「久しぶりだな、秋人」

一週間離れていたような何気なさだった。いい加減色々なことが限界で俺は膝をつく。

「本当、久しぶりだな」
「礼儀作法が分かってきたじゃないか」

日本でさんざん聞いた「声」の持ち主は一歩前へ踏み出す。途端全身をまとっていた光が薄皮はがれるように落ちた。

年のころは二十代半ば、ザリぐらいに見えた。堂々とした顔つきは男か女か分からず、性別を超越している。絹のように細い金髪は恐ろしいほど長く伸び、床を引きずっていた。金の縁取りがある白の法衣は見たことがない型で、かなりの長身である「声」でさえもぶかぶかなほど大きい。

俺はげんなりとした。思わず床に手をつけて這いつくばる。

「どうした」
「説明してくれるんだろうな」

恨みがましく声をにらむ。

「なにをだ」
「全部だ、全部! あっちも謎こっちも謎で、もうなにが分からないのかも分からない」

ただでさえ響さんのことでもうぎりぎりだったのに、ミサスがたたき起こすようにして俺を立ち上がらせたというのに、目覚めてみればこのありさまだ。

「これでうやむやにしてごまかしてみろ。俺発狂するからな」
「いっちょ前に私を脅迫する気か」

声は身体があるとなお偉そうになった。両手を腰にまわして胸を張る。

「ごまかしはしない。機は熟した。初めから終わりまで分かりやすく話してやろう」

俺はなお疑いながらも、あぐらをかいて聞く体勢になった。

「私の名はクララレシュウムだ」
「長い名前だな。苗字はあるのか? 種族は? どうせ人間じゃないんだろう」

クララレシュウムは顔を覆い、深々とため息をついた。

「分かっていたこととはいえ、実際に聞くと目新しい。改めて宿命の影には苦労をさせた」
「なんだよ」

俺はなにか間違えたのか? クララレシュウムは物憂げに気にするなと手を振る。

「姓はない。姓を持つ種族は人間と後少しだ、私に氏はいらないんだよ」
「いらない? クララレシュウムは少数民族なのか?」
「クララと呼べ、長い名前は呼びにくいだろ。少数民族ではある。大まかな区分でも数が少ない一族で、厳密に分けると私は自分以外の同族を持たない」
「最後のひとりなのか」

急に同情が頭を持ち上げた。後は滅びるだけの一族なんてかわいそうだ。しかしクララは否定した。

「最初からこうだった。それに2人以上いる意もない一族なんだ」
「なんだ? もっとはっきり言ってくれ。よく分からない」
「私は竜だ」

どう見ても人型のクララは、衝撃の告白をこれで終わりにしなかった。

「雷のごとく速く、身体は血と肉ではなく光からなる。百年に一度消滅しよみがえる。つかさどるは破壊と瓦礫の上での再生。若い竜、新しい事柄を守り禁呪をも手にする恐れ知らず。私は雷竜だ。雷竜神と呼ばれている」

聞いたことがあるはずだった。道理でため息もつくはずだ。

「神さまじゃないか!」
「そうだ」

神さまと遭遇した場合、這いつくばって礼を尽くすべきだろうか。それとも手を合せて拝むとか。仏さまじゃないから後者はなしかな。

どう見ても神さまのようには見えない。確かに人間離れしているし偉そうだが、後光も差していないし震えあがる威圧感も泣いてすがりつきたくなる慈愛もない。普通の人でないのは分かったが、神さまだというのも飛躍しすぎてつていけない。

「なんで神さまがここにいるんだ」

結局いつもの態度を取ることにした。つまり質問漬けにすることだ。顔見知りだし、いいか。

「ここは私の神殿だ。いてなにが悪い」

とても納得のいく答えだった。でもまだ謎はあるぞ。

「どうして神殿がここまで機械づくめなんだ。どこかでアメリカあたりにつながっているんじゃないか」
「お前は二つの見当違いを起こしている。ここは間違いなく私の故郷カーリキリトで、地球のどこかではない。地球はまだここまで技術が進んでいない」
「地球より上?」
「ずっと上だ。異界から技術を持ち出し私が組み立てた」
「クララは機械が好きなのか? わざわざ取り寄せるだなんて」
「異界の技は私の分野だ」

得意そうだった。

「カーリキリトの地で唯一私だけ隣家を訪れるように気楽に別世界へ歩いていける。兄姉たちにはできない、私のみの特技だ。これらの超技術は私がつかさどるものだ。ならば自分の家を丸々覆ったとしても許されるだろう」

許されるとは思うけど、そういうのって許可するしないの問題なのだろうか。

「ただの趣味か」
「そうでもない。目的は選別だ。限られた人間のみを選ぶ。普通に暮らしているのではけして手に入らない知識を持つものしか入れないようにしかけた」
「俺みたいな?」
「そうだ」

よほど納得のいく理由だった。うぬぼれでなくここには俺がいなくてはたどりつけない。

「そんなの、俺しか行けないじゃないか」
「可能性でいえばグラディアーナも進めたはずだ。ラスティアもかつてきたことがある。お前だけではない」

ラスティア。その名を聞いて俺の胸が冷たく重くなった。聞くべき本題に今更ながら切りこむ。

「ラスティアは何者だ。どういう関係なんだ」
「ラスティア・ラガス。精霊を操る神子であり魔道士でもある。荒野国マドリームで生まれ育ち、幼くして才能を存分に発揮した」

クララは目を閉じ、流れるように畳かけるように語った。それだけで今までの気安い雰囲気は消え、けして邪魔も手出しもできない不可侵をまとう。

「成長してラスティアは自力で異界へ渡る力を身につけた。雷の精霊術で人の身が許す最大の力だ。彼は人前から失せ単身で異界をめぐり歩き、この世界に対して独自の考えを持つようになった。すなわち、カーリキリトは文明を手にしてから今までの発展があまりにも停滞している。歳月の長さに比べ進化が乏しく、いたずらに同じことを繰り返すに過ぎない」

ウィロウも同じことを言っていた。巨人の砦、みんなが寝静まった夜に。

「私は東の果て、アザーオロム山中に殿を構え身を置いている。ある時ラスティアはアザーオロムを登り私と対面した。人の身で私に会いに聞いた人間なぞ久しぶりだったな。ラスティアは私を見て、今まで見聞きしたことを伝えて訴えた。この世界にも変化と革命を、変革を守る竜よ。世界に新たな風をと一心に願った」

俺は息をのんだ。

「それで、どうした」
「断った。訴えを退け想いを共有していないこと、その気がないことを伝えた」

過去の話だというのに、なぜか安心して一息ついた。よかった。

「拒否した理由はいくつかあるが、そのうちのひとつにその時の私は転生して間もなかったからだ」
「転生?」
「雷竜の特徴だ。私は人よりはるかに長い時を過ごしたが、寿命は人と大差ない。百年ほどで私はひとたび死に、光になって離散する。ばらばらになった私はやがて集まり新たに蘇る。転生したばかりの時は力も知識もほぼなくしている。その姿ではラスティアの望みをかなえることはおろか真剣に考えることもできない」

生まれたてか。そう思うのは違和感があるな。寝起きでぼんやりしているようなものと解釈しておこう。

「ラスティアは解答を許さなかった。私の怠惰と無気力こそが世界をよどませる原因とした。私の役割は私にふさわしくないと決めた。ラスティアは私にとって代わろうとした」
「とって代わる?」

たった今まで崇めていた相手に下克上するなんてすごい度胸だ。

「私は敗れた。戦いに負け力の大半を奪われ、アザーオロムの神殿に身を封じこまれた。ラスティアは無限の力を手に入れカーリキリトを変えようとしている」

反逆は大成功した訳か。ラスティアは神と呼ばれる力を手に入れた。それじゃどうしようもない。

「待て、負けたのにどうしてクララはここにいるんだ」
「力の大半と言った。全てを奪われ死に体になったのではない。私は封印されたが、その封印した力も私のものだ。多少は好機があったようだった。私の身体はその日よりいましめを解こうと暴れ続け、ラスティアは手を離せずアザーオロムにとどまらざるをえない」

今までラスティアは自分の影や部下ばかりを送り続け、一回も自分からこなかった。そういう理由だったんだ、ラスティアはきたくてもくることができなかった。

「そしてごく限られた私の心は、今秋人と会話をしている私はラスティアから奪われた力を取り戻そうと、こうしてお前のそばにいる」

奪われなかった力のひとつに未来予測がある。クララは続けた。

「なんだそれ。未来を予測するなんてだれにでもできることだぞ。自慢しなくても」
「私の予測とは秋人が考えている範囲を超えている。はるかに」

例えばとクララは手をかざした。足元に小川が出現し手の中に小石が生じる。川はどこからきたのかどこへ行くのかさっぱり分からないような、ありふれた清水流れる川だし、石はもうなんの特徴もない普通の石だ。クララは呪文ひとつ身ぶりひとつ使わずに出現させた。

「石を川へ落とす。秋人、どうなると思う?」

クララの意図が分からない。俺は曖昧につぶやいた。

「石は沈む」
「もっと詳しく。できる限り想像しろ」
「えっ、えー。石は落ちて同心円の輪を川の表面に作って沈む。川底の石や泥は少し揺れて、すぐ静かになる」
「正しい予想だ。秋人、私は水面にできる円の形も石によってざわめく泥土の粒子も水のゆらめきも正確に推測できる。石によって起きる生物への影響も川全体へどう影響するのかも分かる。

人間の想像を絶する情報収集と無限大の計算能力。私は未来を限りなく正しく予測することができる」

手から石が転がり川に落ち波紋を水面に描く。広がる同心円とともに川も石も消えて元の殺風景に戻った。

「未来の予言か?」
「そんな非科学的なものではない。秋人の世界風に言えばこの世すべての事項を網羅したスーパーコンピューターが未来を打ち出しているようなものだ」

非科学の塊であるクララにだけは言われたくない。

「コンピューターってクララは生き物だろう。そんなことできる訳がないだろう」
「できる」

信じられない俺を、クララはきっぱり否定した。

「竜として私の精神容量はそれだけの情報を計算管理することが可能だ。そして私そのものである雷の力はしたいと思えばいくらでも収集できる」
「完全に未来が見ることができるなら無敵じゃないか」

俺は納得ができなかった。

「どうしてラスティアに負けるんだよ」
「私は限りなく正しく予測できると言ったぞ。したいと思えば、とも言った」

ちゃんと話を聞いていたのかとでも言いたげだった。

「常日頃から未来を見るような真似はしていないし、掛け値なしに全宇宙を把握して完全な未来予想ができるほど意識は無限ではない」

限度があるのか。制限の存在にかえって安心した。今までずっと横にいたクララが生物離れした電子脳だと思うよりはずっといい。クララは俺の安心なんて全く気にしなかった。

「完全無欠ではないとはいえ、未来予測は雷竜の精神があるからこそ可能な芸当だ。人間であるラスティアには真似すらできない。

ラスティアに敗れた瞬間、私は光になり世界を駆け巡った。すべての事項を集めあらゆる人々を探した。私は奪われた力を取り戻したい。封じこめられ死に近い眠りについている我が身を取り戻したい。そこで今や意識だけの私を助け、代わりにラスティアと戦い私を救うものを探した。カーリキリトにとどまらず全ての世界、宇宙そのものから求めた。

そして秋人を見つけた。ラスティアと戦えるもの、私の取るに足らない手助けだけで立ち上がり、私を助けるもの。宿命の者を」

なにを言っているのか分からなかった。クララの瞳は真剣に俺を見つめている。俺はかろうじて口を開けた。岩のように重い。

「俺」
「そうだ」
「未来を見て、ラスティアと戦って、クララを助ける人が、俺」
「そうだ」
「それが宿命の者」

笑いたかった。無理にでもわらってなんの冗談だと言いたかった。嘘だといてもひどすぎると言いたかった。

今クララが目の前にいて、これが掛け値なしの真実であることを伝えていた。俺が今ここにいる理由は、俺がはるばる日本から呼び寄せられ何回も往復させられたのは。クララは未来を見て、俺がクララを助けると知ったから呼ばれた。

俺は後ずさった。震えて首を振る。

「俺にはできない」
「今ここにいるだろう。クラシュムの忘れられた神殿で私と会っているだろう。私はほとんど手を出していないぞ。やったことはお前を呼び出し、細々とした小言を言っただけだ。ほとんどなにもしていない。それなのにお前は私の元まできた」
「助けがあったからだ。イーザーやキャロルとか、ものすごい人たちの助けが。俺ひとりではなにもできなかった」

俺は声を上げた。静寂の中一対一でも十分話は通じるのに、いらだって怒鳴る。

「そうだよ、俺がやったんじゃない。ここまできたのは俺の手柄じゃない。それなのにどうして俺に言うんだ。他の人でもいいじゃないか」

クララは黙っている。

「俺は頭も普通だし運動神経だって人並みだ。それなのになんでだ。イーザーは強いぞ、ミサスなんて最強だって言われているんだ。日本人でなきゃいけないなら響さんがいた、関口だって、いや日坂高校の生徒でない、もっと大人でもっと強くて賢い人にすれば! なんで俺なんだ、どうして俺に言うんだ!? なんで俺を呼んだんだよ!」
「お前の武力も知力も関係はない」

クララはそっけなく冷たかった。

「秋人より優れたものは大勢いる。秋人より強く賢く立派な人間はそれこそはいて捨てるほどいる。しかし彼らでは駄目だった。いくつかの局面での判断、とっさの行動、常の態度が招く周囲。秋人以外にたどりつけるものはいない」
「俺はただの高校生だぞ! 戦いはできない、ものも知らない」
「今ここにいる」
「俺の力じゃない」

言いきれる。

「俺がやったんじゃない、友だちのおかげだ」
「お前の友だ、お前が集めた。お前でなければここにはだれもいなかった。お前の性格、考えと行動、お前自身がひとりひとりばらばらの集団を集めまとめている。

お前には欠けているところも足りないところもいくつもある。できないことは無限にあるがそれは問題ではない。お前の友が代わりに行う。周りが自ら進んで行動する。

お前は彼らを指示しない、彼らを導かない。だが彼らはお前を中心として集った。

お前しかいない。彼らを集めてラスティアと対決できるのはお前だけだ。大谷秋人」

「……他に人はいなかったのかよ」

すがりつくような声だった。

「クララには助けてくれる人がいっぱいいるだろう。他の神様とか信者とかがいるはずだ。どうしてその人たちじゃないんだ。その人たちでもいいはずだぞ」
「なるほど、確かに私の兄姉たちは喜んで助けてくれるだろう。ラスティアと戦い、勝つかもしれない。だが彼らに手出しを許すと被害が大きくなりすぎる。最低限の被害で収めたかった」
「最低限、だって?」

胸の奥が急に熱くなった。

「響さんのことを知っているだろう!? 今まで家とか街とかいくつも崩れて滅んだのを見たぞっ。マドリームは国単位でだ。それにウィロウだって、どこが最小限だよ、なにを見てそんなこと言えるんだよ。死んだ人や滅んだ街に向かってよくもそんなこと言えるな!」

クララは表情を変えずに手を伸ばす。なんだと思った時にはもう頭をつかまれていた。力づくで床へと頭を叩きつけようとする。目を閉じたが覚悟した痛みの代わりにゼリーに顔を突っこんだ感触がした。思わず目を開ける。

床の向こうは黒い大地だった。俺ははるか上空にいる。見渡すと巨大な山から麓まで無造作に巨岩が転がっていて、まんべんなくタールをぶちまけたように黒く、生き物の姿はどこにもない。太陽は沈みかけていてやけに巨大で赤い。ぞっとした。

「アザーオロム山脈の東だ」

クララが告げた。俺が今まで見たことのある地図では東はアザーオロム山脈で終わっていて、その先は未知のはずだ。

「かつてはそうではなかった。緑あふれ獣が住む豊かな土地だった。はるかいにしえ、竜も人も全力で唯一の邪悪なるものと戦った後だ。あれから何千年たっても大地は腐ったまま、命は失われたきり戻らない。鳥も草も、細菌のような普遍的な生き物さえもう住めない。ここは滅んだ、還らない。

アザーオロム山脈は自然の山ではない。大地の汚染を切り離すため私と兄姉たちが作り上げた。何重にも封印し消してここから向こうの毒が届かぬようにして、私が見張りのため残った。雷竜である私がここにいる理由、東の最果て、世界の壁の番人である理由だ」

チェルノブイリ、広島に長崎。幾つもの地名が思い浮かぶけどアザーオロム東は原子爆弾を上回っていた。

「他に例をあげてほしいか? 西の大樹海、北の死の島。南方諸島はもともと島ではなかったと聞いたら驚くか? いにしえのカーリキリトはもっと広かった。

これが犠牲だ。人々が神々が全力でぶつかりあった結果だ。秋人、私は豊かだった大地の前で誓った。もう二度と繰り返さないと。カーリキリトを滅びの瀬戸際まで追いこまないと」

もういい、分かったからもういい。しかしクララは許さなかった。

「響のことは気の毒だ、ウィロウは今でも申し訳なく思っている。だがカーリキリトを灰塵に帰すくらいなら何回でも彼らを殺す」

クララが手を離し、のけぞるように俺は逃げた。アザーオロム東が消え暗くなる。元の灰色神殿に戻ったのかと思ったけど違った。

目が慣れるに従いここががれきの山だと分かった。夜のようで人気はない。微風に乗っておかしな臭いがする。

「ここはどこだ」

風が吹きさび雲を散らした。月が顔を出し明るくなる。

「……あ」

明かりに照らされてがれきの上に浮かんだのは、捨てられたような人間だった。

「う、うわあああ!」

一目で分かる、みんな息絶えている。匂いの正体は血と死臭だったと気づき、いきなり胃がでんぐり返った。いつになってもこの嫌悪は慣れない。

なすすべなく彼らを見ていたが、ふと俺は既視感を覚えた。虚ろに開いたこの瞳にかつて会ったことがある。

「エレニ!?」

以前メルストアの民という一族が俺へ襲いかかってきた。そのひとり、比較的常識的な考え方の赤毛の戦士。その時強い光を持っていた目はなにも映していない。

「どうしてっ!」

俺は嫌悪も敵意も丸ごと棚上げして走ろうとした。歩くことさえおぼつかない小山を四つん這いで駆けあがり、抱きかかえようとした腕はしかし届く前に別の力に引かれ投げ出された。

「うわっ!」

視界が一転し回る頭のまま灰色正方形の連続を見た。

「帰って、きたのか?」

雷竜神の神殿へ。

「今のは」
「メルストアの民は滅んだ」

淡々とクララは告げる。急ぎ俺は起き上がった。

「ラスティアの存在を知り世界にとって有害であるとして、一族で戦いを挑み返り討ちにされた」
「全滅したのか」
「ひとりふたりくらいは生き残った。でももう二度とメルストアの民が歴史に顔を出すことはあるまい。いにしえ、初めて魔法を手にした人間の血は絶えた」

メルストアの民が滅んだことは驚いた。同じくらいに、クララの声が悲痛と悔いに満ちていることにも俺は動揺した。

「避けられなかったのか」
「言った所をお前も見ていただろう。だが分かってはいた、私が伝えたところで意味がないことは、彼らが聞かないことは分かっていた。逃れようがないできごとだった。愚か者どもめ」

これも犠牲のひとつか。

「ラスティアがやった」
「そうだ。あの男は冷酷だ。目的のために喜んで血の海を歩く。立ちはだかるものを、立ちはだかる可能性のあるものをあっけなく殺すだろう。そして今ラスティアがもっとも殺したがっている人物がお前だ」

言われなくても分かっていたこととはいえ、改めて断言されると感慨深い。クララはラスティアと正反対の立場にいると、別にクララが俺を殺したがっているのではないと分かっていても、まっすぐ俺を見ている目から逃げ出したくなった。

「私の未来予測は完全ではない。常にほんのかすかなほころびが、不慮の事故により未来が変わる余地がある。ラスティアは自分が倒される未来に動揺し、無理にでも変えようとしている」
「変えるってどうやって」
「お前やお前の友を殺すか旅から追放することによってだ。お前は私や他のものによって守られているが無敵ではない。お前たち全員が欠けずにラスティアの元に行くことによって、ラスティアとの戦いへ勝つ道が開ける。つまり予想した未来を変えるにはお前たちのうちひとりでも脱落すればいい」

顔から血の気が引いた。目眩と吐き気がする。

「ウィロウは。ウィロウは今ここにはいないぞ。俺はもうラスティアに負けた!」
「否。ウィロウは定めを全て果した。ウィロウは「道標」だ。お前に行くべき方向を示し、導き守り知識を与え、そして犠牲になる。ウィロウは私の望みを叶えた」

ウィロウは犠牲だった。怒りが腹からこみ上げる。しかしクララが疲れたように、悲しみすぎてとうに麻痺してしまったように重々しく頭を振って話を続ける。うっかり罵りそこねてしまった。

「ラスティアの行動を私はかなり正確に予測して回避し続けた。大体のところうまくいっている。いくつかぞっとしたがお前たちは逃げることができた。私がどんなに嬉しいか、きっと想像もつくまい」

さて、どうする。クララは聞いた。

「どうするって」
「知りたがっていたことは全て伝えたぞ。大谷秋人。私はお前を日本の生活から引きはがしラスティアとの戦いに巻きこんだ。異界の無関係なお前を無理に連れ出し血を吐くような苦労をさせた。お前の押しつぶされそうな後悔と悲しみはすべて私のせいだ。

その上で頼もう。反逆者ラスティアの元へ行き倒して欲しい。雲と雪かかる無人の山アザーオロムへ行き、かつて私のものだった神殿へ行って欲しい」

クララは頼んだ。腰をかがめ俺の目をのぞきこみ、心から願った。

「もちろんお前は断ることができる。ふざけるなと非難して私の仕打ちに怒り狂い、頼みを投げ捨て無視することもできる。願うならお前を後夜祭の深い夜まで帰してもいい。秋人を連れ出したのは私の勝手だ。お前に強制する権利も力も、思いすら私にはない」

腰が引けた。自分のことだと言うのにクララは見下げるように言う。力のなさを悔いてこのざまだと自嘲している。

うなり声がした。どこからかと思ったら俺の喉からだった。俺は悔しくて残念で、いつの間にか気管の奥で空気を転がしていた。

「ずるいぞ。声、お前俺が断れないのを知っていて言っているだろう」
「ああ」

そうだ。俺は断れない。力なく両脇にたれさがったこぶしが強く握りしめられる。

「ここにくるまでに俺はたくさんのことを踏みつけてきた。多くの願いと期待を担いで、友情と好意に甘えて支えられてきた。俺は断らない、引き返せない」

だって、ここで怖気づいてやめたら。

「全部丸ごと裏切ることになる。そんなことできない」

そりゃラスティアと戦うなんて怖い。勝手に人のけんかに巻きこまれて冗談じゃないと思っている。日本に、諦めたはずの故郷に帰してくれるというのはものすごく魅力的だ。正直今すぐそうしてくれと言いたいくらいだ。

でも、それでうなずいたら。

俺が踏みつけにしたウィロウは。

情けない俺をずっと助けてくれたイーザーたちは。

丸々俺を信じてくれたアットは。

ラスティアに殺された街は、人は、マドリームは。

俺が殺した響さんは。

彼らになんて言えばいい。逃げますごめんなさいとでも? そのざまで俺はこれからどう生きればいい、なんて顔をすればいい?

俺にはもう選択肢はなかった。

「受ける。やる。クララを助ける。俺はアザーオロム山脈を登ってラスティアに会ってくる。戦って勝てるのかどうか分からないけど全力をつくす」
「そうか」

クララはかすかに笑った。

「すまない。私はお前のことを知っていた。おまえが義理堅く薄情ではないことも分かって聞いた。必要なことだった」
「いいよ、もう。分かっているから」

素っ気なく言った。渦巻いている感情を悟られないようにできる限りつっけんどんに。


「これから具体的にどうすればいい?」

精神的に一杯一杯の時、しなくてはならないことがあるというのはすごくいい。目の前にある仕事で忙しければ悲しみに沈んでいる暇もなくなる。今ここで落ちこみすぎるのは危ない。たたき起こしてくれるミサスはいないんだ。

「未来が分かるんだったら話は早い。どうすれば一番いいのか教えてくれ」
「あいにくだが教えない」

期待の全てを裏切る、きっぱりとした口調だった。

「なんでっ。どうすればいいのか分かっているんだろう」
「知っている。だがお前がそれを知ったらとたんに未来は変わるだろう」

偉そうな口調で押さえつけるように言う。

「お前たちが知る必要のあること、知らなくてはいけないことは全て伝えた。後は進むだけだ。知恵をしぼり話し合ってもっともよいという道を求めろ」

クララはしかめっ面で迫った。

「まさかと思うが、あらかじめ予想がついているのだからいい加減に行こうと考えるなよ。怠け心を起こしてみろ。即ラスティアにつけこまれる。私はお前たちが最善と思う方法をとった場合を推測している。ラスティアは持てる力の全てを使ってお前を阻止しようと考えている」
「分かったよ、分かっているって」

実は分かっていなかった。別にぐうたらしようと思った訳じゃないけど。きっと俺の考えてることなんて予知をする間もなく知っているのだろう。釘を刺してからクララは復習を要求した。

「さて、お前はどうすればいいと思う?」
「なるべく早くアザーオロム山脈に行ってクララの神殿を目指す。行ってラスティアを倒す」

倒すって、つまりぼこぼこに痛めつけたり果ては殺してしまうということだよな。できるのだろうか。俺は響さんを殺すことはとうとうできなかった。俺が殺したも同然だけど直接手を下していない。俺にひとりの人間を殺すことができるのだろうか。

よく考える。俺は響さんを害したい理由はなかったが、ラスティアを力の限り殴りたい訳はものすごくあった。俺にされた仕打ちを考えるだけで腹の底から怒りがこみ上げる。うん、これならできるかもしれない。殺気がわいてきた。

「そのためにまずクラシュムから出る。出られるのか? マドリームの兵士がいるし、なんでかグラディアーナも追われているし。グラディアーナが追いかけられているのもラスティアの仕業か?」
「そうだ。彼のみがクラシュム神殿へお前たちをいざなうことができた。だからラスティアは月瞳の男を捕らえようとした。危なかったぞ。後一時間すぎたらグラディアーナはお前たちと永劫会えなかった」

クララはしてやったりとばかりに笑った。

「マドリームから今までの陰謀が全てお前とグラディアーナを会わせないためだったと聞いたら驚くか?」
「まさか」
「本当だ。クラシュムにきて私と話すことが絶対に必要だった。ラスティアは阻止するためなりふり構わなかったが、お前たちのほうが上手だった」

理由を言われても信じられない。言っては悪いがたかがグラディアーナと出会うことがそんなに大切だったのだろうか。そんな小さいことで宿命と言うやつは揺れ動くのだろうか。

「もっともグラディアーナの手配についてはラスティアは全く苦労しなかったようだがな。グラディアーナがこっそりやっていた悪事を告げ口しただけだ」

なんでもかんでもラスティアのせいという訳でもなく、自業自得も含まれているようだ。グラディアーナなにをやったんだ。強盗とか人殺しとかだったら芽生え始めた友情を考え直すぞ。

「クラシュム脱出もグラディアーナがやってくれるのか?」
「否。翼の戦士の仕事だ」

翼の戦士。いつだかラスティアもそんなことを言っていた。

「ミサスのことか?」他に羽根のある知りあいはいないもんな。「なんで名前を呼ばないんだ」
「思考からラスティアに読み取られたくなかった。彼が果すべき役割で呼ばせてもらっている」
「みんな役割があるのか」

知れば有利不利というものではなく、ほとんど好奇心が聞かせた。

「だれがどう呼ばれているんだ? 例えば、イーザーとか」
「死命の剣」
「キャロルは」
「宿命の影」
「ザリ」
「良心」
「ウィロウ」
「道標」
「グラディアーナは」

クララはあいまいに微笑んで首を振る。ないのか。

「そしてお前が宿命の者。お前が中心だ」

改めてそう言われると臆す。怯えを隠そうと俺は「さっぱり分からない呼び名だ、あいまいすぎる」文句をつけた。

「分かりやすかったら本末転倒だ」
「クララは」

言ってすぐに反省した。言葉が足りなさすぎる。

「これからクララもくるんだろう。また日本みたいに声になって」
「私はいつもお前のそばにいる。だが話しかけても姿を見せもしない。ないものと思え」
「え」

てっきりもちろんと言うに決まっていると思っていたので意外だった。がっかりした、といってもいい。威張っていて尊大だとはいえぜひともいて欲しかった。

「どうしてだ」
「私は目立ちすぎる。ウィロウやミサスの比ではない。横にいればたちまち国中の精霊使いが騒ぎ出す。もちろんラスティアもだ。わざわざ積極的になることもないだろう」
「日本ではいたじゃないか」
「まだラスティアの力が及ばなかったからだ。状況が違う」
「でもクララがこないんだったらなんてみんなに言えばいいんだ」

そうだ、すっかり忘れていたけど俺が今聞いたことはきちんと伝えないといけない。そのとき「どうやって知った」と言われたらどうしよう。神様が俺に教えた。説得力のある理由じゃないぞ。即医者ザリの世話になりそうだ。嘘をつくしかないが、キャロルたちをだませるのだろうか。

「安心しろ、私から言っておく」

そんな舌の根も乾かないうちに。

「こないし話しかけないんだろ。それでどうやって説明するんだ」
「今お前と私が話している方法でだ。呼び出して説明する」

その手があったか。でも全員? 俺を含めて6人だぞ。

「あまりなめるな。それくらいできる」

クララの長い髪がおぼろげに光り、すぐに輝きは肌に服にと染まっていった。驚いている俺の前で人としての形が崩れ、そのくせ完璧な人の声で笑う。

「さあ戻れ。手札は出揃った。後は行動するだけだ。頼りにしているぞ宿命の者、私が見つけた秋人」

堂々たる宣言に、床が空気が俺までもがまぶしさに感染し。

俺は帰った。一瞬で、ひたすらすみやかになんの抵抗もなく。俺はクラシュムの地下深く、機械に守られた雷竜神殿へ戻った。


「あ、アキト?」

イーザーの態度はいきなり消えて戻った友人を見るものではなく、正気に返った人が風景を確かめるようだった。俺は珍しくもクララの言っていたことは正しかったのだと察す。

多かれ少なかれみんながみんなそんな感じだった。頭を振ってまばたきをして今見た夢から戻ろうとしている。ひとりグラディアーナだけがあっけに取られ俺たちを見ている。

「なにごとです。どうしたのですか」
「グラディアーナは見なかったのかよ」
「なにをです。なにも見えませんでした」
「俺はどれくらい消えていた」

体感時間で30分といったところかな。そんなに長くひとりきりにしてしまって悪いことをした。

「消えていませんよ、一秒たりとも」

待たせなかったのはいいことだが、あんまりこういうことが続くと自分の時計を信用できなくなりそうだ。

「特に臭いませんが悪い空気が立ちこめていたのでしょうか。失神でもしましたか。おやアキト、それはなんですか」
「それ?」

グラディアーナの指をたどると俺の胸元にたどり着いた。首からおかしな金属製の彫刻をさげている。なんだこれ。

「いつ出したんですか? 気がつきませんでしたよ。黄銅のようですね。あ、分かりました。竜像ですよ。かなり抽象的なので分かりませんでした」

俺には言われても分からない。細い鎖でいくつもの金属片がペンダントのように固まって繋がれている。かろうじて「複数のもの」ではなく「ひとつのかたまり」に見えるけど、それ以外はどうがんばっても。

「きっとくれたんだな」
「だれに」

もちろんクララに。でも答えていいものかためらった。もしグラディアーナが宿命とやらに巻きこまれていないただの人なら言うのは詳しく問題だし、簡単に「竜からもらった」なんていったらよくて笑われ普通怒ると思う。第一そういう俺だってだれがくれたのか見当はついてもどうして渡したのかはさっぱり分からないんだから。これはなんだ。

「ミサスッ!」

幸い答えずにすんだ。ミサスは目がさめるや否や飛び起き、鈍色の球体へ駆け寄った。後一歩で奈落まで迫る。いくら落ちても死なないだろうとは分かっていても、こっちのほうが涼しくなってしまう位置で手をひろげ、俺には分からない言葉をつなげ合わせる。

「なにをしているんです」

ミサスは魔法にかかりきりで、返事はもちろん振り返ることさえしなかった。緩慢な音がぼんやり響き球体がかすかに震える。

「あの人なにをしているのですか」
「俺だって分からないよ。魔法じゃないかな、魔法のようななにかの仕掛け」

球体の震えはほとんどないも同然だったのに、妙に身体に残る。なにを見つけたのだろう。

聞き逃してしまいそうなほどかすかに鍵の外れる音がした。ひとりおいてきぼりで面白くなさそうなグラディアーナがいち早く聞きつけ、正確に音の出所を探り当てる。

「扉がっ!」

誓って今までただの壁だった部屋奥に切り取られた通路ができていた。なんだかどんどん技術進歩しているな。

「いいですね、きた道を引き返したりここでじっとしているよりも安全です。今のは黒い比翼族の仕業ですね。やるじゃないですか」
「先行を」

ほめ言葉には耳を貸さず、ミサスは埃ひとつ舞い上がらないように一歩引いた。グラディアーナが訳知り顔でうなずき飛びこむ。

「行こう。キャロル、立てる?」

ザリも気持ちを切りかけ黒海の手綱を握り、そっとキャロルの肩を抱いた。反抗するかと思ったが、キャロルはおとなしく導かれるままだった。どうしたんだと気味悪がっていたら「お前もだ」イーザーに荒く背中を叩かれる。そうか、俺もぼんやりしていたのか。

明かりは足元にある非常用光源のみだった。緑色のぼんやりとした光に照らされる通路を行く。歩みは小走りになり、すぐに疾走になった。いくら足元なめらかとはいえこんな暗いところを走ったら転びかねないのにだれも安全に行こうと言い出さない。

かなり速いと自負していたのにグラディアーナは競争に負けたらしい。はるか先で自動扉が開き強力な蛍光灯の明かりが差しこんだ。俺の知らない人の怒声と白刃のぶつかり合う音、そして鈴の軽やかな音色。「くっ!」イーザーが走りながら剣を抜いた。戦いだ。

もっとも俺がたどり着いたときにはすでに終わっていた。血相変えたイーザーが飛び出したとき、革鎧と剣の見知らぬ男たちはぼんやりと立っているだけだった。思わず俺が顔を近づけても目の前で手を振っても反応がない。よく見ると目の焦点が合っていなかった。

「アキト、遊んでいる場合ではありませんよ」
「遊んでいないよ。なにがあったんだ」
「後で説明します。まずは逃げないと。お互い不幸な鉢合わせは避けたいですね」

異論はない。

「と言ってもどこに行きましょうかね」
「エアーム帝国へ!」

俺は叫んだ。それだけははっきり分かっているし間違えてはいけない。

「エアームへ行くのは分かっているけど、でもどう行けばいいんだ?」

逆に言えばこれしか知らないんだよな。

「東へ進んで地竜の谷を抜けます。アム山脈を辿って天幕市、学問通りを経由して北東へ」

さすが地元民だ、地理に詳しい。

「クラシュムを出るのもいい方法がある?」

グラディアーナは色っぽく微笑んだ。

「精一杯努力をして、後は月竜に任せましょう」

これはグラディアーナを責めるのは間違っているよな。グラディアーナは万能じゃないんだ。街地下で塀に囲まれて実は秘密の抜け穴があるとか都合のいいことを言い出すわけがない。あ、よく考えたら機械遺跡自体が秘密の抜け穴なんだっけ。それなのに発見されたんだからどうしようもない。

「強行突破しかないか」
「ええ」
「ちぇ。グラディアーナ、行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、案内ぐらいさせてください!」

諦め覚悟を決めたイーザーは自ら先頭へ走る。慌てふためいて追う猫人の背を、流されるように俺も追った。

地下迷宮によほど多くの兵士がいるのか、それとも俺たちが目立ってすぐ見つかるのか。たちまち戦いに巻きこまれる。角を曲がった瞬間兵士2人と出会い、すかさずイーザーがひとりの剣をはじきもうひとりと切り結ぶ。初めて会った時と比べてイーザーの剣術は確実に上がっているなと場違いな感想を抱いた。そうしているうちにグラディアーナが前へ進み、拍子を踏み手首を振りあげ舞うかのような動作を見せる。澄んだ鈴の余韻が消える頃には、兵は今まで戦っていたことも自分がなにものかであるのかも忘れ、ただぼんやりと立つだけになる。そうして俺たちはまた走り出す。

「グラディアーナ、それはなんだ」
「それ?」
「踊ったら相手が半分寝ること」
「特力ですよ。猫人、月瞳の一族の特力。地下道の一族と一緒にいるのですから特力ぐらい知っていますよね」
「知っている。動物や人間に変身することだろう」

グラディアーナは俺がそれ以上話さないのを確かめると目を閉じ肩をすくめた。走りながらなのに器用な奴。

「獣人の特力は変身だけではありませんよ。極めれば魔法や精霊術もかすむほどの威力を持つのです。今のは狂気の舞。月瞳の一族はきまぐれと狂気の月竜に守られていますからね。特力もその手のものが多いのですよ」
「グラディアーナは特力を極めているのか?」
「後一歩二歩といったところですね。今まで危機を乗りこえてきましたよ」

自慢そうに鼻を引くつかせた。

「明かりだ!」

イーザーが剣で前を指す。人工灯とは明らかに違う光が切り取られたように居座っていた。走れば走るほど大きくなる。

飛びこむ。まぶしさに目がくらむほどではない。地下に潜る前はあんなにいい天気だったのに今の空は今にも降りそうだった。

人気のない、半分崩れた墓地には俺たちへ狙いをつけた弓使いが一ダースはいた。

「射ろ!」
「!」

光る兜の偉そうな人の命令と、ミサスがとっさに上げた切りさくような言葉は同時だった。

黒の嵐が舞った。この世のどんな刃より鋭いかまいたちは弓の弦を切り頑丈そうな革鎧を切り裂き屈強な兵士たちを血の海に沈めてのたうちまわせる。一秒にも満たない時間のできごとだった。

ひとり金属鎧だったから深手を負わずにすんだ男は目を向き、慌てて腰に下げていた角笛をつかんだ。イーザーが抜き身の剣を手に飛ぶように走るが、男が息を吸って角笛を口にする方が速い。

「うわっ!」

男の手がはじけ角笛が地面に跳ねかえって落ちた。「キャロル?」さっきまでぼんやりしていたキャロルは無感動そうに投擲動作から起き上がる。イーザーは全く遠慮をせず襲いかかり、一撃で相手をはいつくばらせた。

「行くぞ! グラディアーナ、地竜の谷はどっちへ!」
「クラシュムを背に直進。このまままっすぐです」
「よし、急ごう」

つられて行くかと思いきや、ミサスは動かなかった。うめき声と血臭の中角笛を見つめる。岩にぶつかった衝撃で端がかけた角笛は、吹いたら街の端から端までとどろきそうだった。

「ミサス? なにしているんだ」
「先に行け。おとりになる」

いつも通りの、いっそ胸がすがすがしくなってしまいそうなほどの簡潔な内容だったのにもかかわらず「へ。なんで」聞き返してしまった。

「追われて負け戦になる。ここで追っ手を押さえる。先に行け、壊滅させたら追いつく」
「なっ」

イーザーは見る見る赤くなった。大またでミサスへ向かう。外衣翻しまだ片手剣を手にしたまま。お世辞にも怒った人にしてほしい格好ではないし、今の形相で近寄られたくない。

「なんだよ、それ」

ミサスの前に立ちふさがる。子ども並みの身長であるミサスは平然としていた。

「なに勝手に決めているんだよ、いい加減にしろ。いつも黙りこくってたまに口を開けば命令だ。何様のつもりだ」

不満をぶちまけるようにだんだん声が大きくなる。

「ミサスはいつもそうだ。口を出さず動かずでなにも知らないふりしている。それなのにいざって時は人押しのけてでしゃばる。ひとり突っ走って強引になんでも決める。ふざけるな、どうしていつもそうなんだ。なんでいつもそんなことばっかり。どうして」

とめたかったがとめ方が分からない。血を吐くようにイーザーは叫んだ。

「なんでお前ばっかり、苦しいことをしなきゃならないんだ!」

イーザーは突然力尽きたかのようにうなだれた。ひどい疲労に屈したように。特になんの感情も抱かずに見上げていたミサスの表情が不意に和らいだ。

「お前はいい奴だな、イーザー」

虚を突かれたようにイーザーは目を見開く。やや苦く、困ったようにミサスは笑みを浮かべた。初めて見る表情のミサスはいつもの突き放した年齢不詳の色は消え、俺よりずっと年上の、頼っても大丈夫だと無条件に納得できる大人びた雰囲気をまとっていた。

「ここに残るべきなのは俺だ」

静かに、だが断固としてミサスは言う。イーザーはミサスの表情に驚いて、いまだに目を丸くしている。

「マドリームとクラシュムの兵を足止めし引っかきまわす。ここにいるものたちで俺が一番向いている、だから俺がやるべきだ」
「だからってひとりで」
「魔法は手加減ができない。横にいたら巻きこむ。俺ひとりのほうが存分に使える」

いつもミサスの操る魔法は強力だった。強力すぎた。俺まで一緒くたにされそうになって肝が冷えたこともあった。

ミサスは気づかわなかったのではない。加減が自分でもできなかったんだ。

ならばそばに人がいない方がいい。

「後から追いつく。行け」

ザリは不本意そうにもイーザーの肩をつかんだ。うつむいたイーザーは赤毛の薬師に引かれるままだった。

「急いで」

グラディアーナがせかす。

「この先は谷間で見通しがとてもいい。ろくな木も丘もないですよ。足止めしてもらえるというのならなおさら急がないと」

グラディアーナの言う通りだ。それは分かっているけど。

石を飲んだ気分だ。走る代わりに振り返る。ミサスはとっくに背を向けていて、どんな顔をしているのかが分からなかった。


グラディアーナの言ったことは正しかった。多少のくぼ地や岩はあるも、大地はむき出しで緑は潅木と背の低い草のみだった。

走っても走っても大して風景が変わらない中焦りと怯えを抱えて進む。自分のこともミサスのことも、目の前が心配すぎてわめきたいぐらいだ。

「あれです、地竜の谷」

やっと平坦な草原に変わったものが見えた。壁のように立ちはだかる岩山をグラディアーナは指差した。

なんで地竜なのかすぐ分かる。小刀で切りこみを入れたような岩と岩との間、すなわち地竜の谷には道路標識のように竜がはりつけになっていた。肉も皮もなく、今にも風化しそうな骨が俺の胴くらいはある巨大な縄で何十にもはりつけられている。空の瞳は大きく角は少なくとも3メートルはある。かつての巨大な身体を物語っていた。

「いにしえ、マドリームの先祖がエアーム帝国から脱出する時のことです」

生命がなくなってもこれほどまでに圧倒的な生き物に目が離せなかった。

「谷には道が二つありました。厳しい、見捨てられて久しい坑道と人を殺す竜が住む谷。彼らは谷を行き、竜と戦い勝ったそうです。そのときランスで串刺しにされた竜がこれ」
「竜殺しの記念につるし上げたのか?」

冗談で言ったのかと思いきやイーザーは本気のようだった。イーザーが馬鹿になったのかそれとも竜に勝つのはそこまですごいことなのか。友情も加味してすごいこととしておこう。どうすればこんな生き物に勝てるのかさっぱり分からないしな。

「初めはちゃんとランスではりついていたのですが、だんだん風化して落ちそうになったんですよ。崩れたら被害甚大ですので危なくなるたびに綱を持ってくるそうです」

よけいなことを言いました、早く行きましょうと走り出すグラディアーナの外衣をすかさずキャロルがつかむ。グラディアーナは間接的に首を絞められた。

「つまりここが崩れたらエアーム竜帝国までの道は閉ざされるのよね?」
「そうなります。ですが崩すのは大変ですよ。便利な魔法使い氏はいませんし、私はもちろん崖を切り崩すことはできません」
「グラディアーナ、剣があるでしょう。細い剣」

血がにじむ包帯が痛々しいキャロルは、でも場違いなほど落ち着いていた。なんでもないことのように話すキャロルがなぜか怖い。

「ありますけどつるはしの代わりにはなりませんよ。私に似て繊細で折れやすいんです」
「どこのだれが繊細よ。それで綱を切って竜を落とすの」

キャロルは指さした。「岸に階段を掘って作業した後がある。辿れば竜まで簡単に行ける。綱を切って竜を落として谷をふさぐ。飛べもしない人間の兵士たち相手には時間を稼げる」

「なるほど。念のために言いますがマドリームの歴史的に貴重な遺産ですよ」
「どんな遺産より自分の命が大切だと思わない?」
「思いますね」

悪党たちの話は難なくまとまった。イーザーまでもが「三手に分かれるか」と加わる。

「刃物を持っていない人間2人は離れていて。どこまで破片が飛ぶか見当がつかない」
「キャロルは大丈夫なの。そんな怪我をして剣を振るえるの」

もっともな心配にキャロルは不機嫌になった。

「平気かそうでないかなんて問題じゃないでしょう。やるのよ、早く行って」

言い捨てて駆け足で岸に向かうキャロルからザリは目を離せなかった。しょうがないので俺が手を引く。骨の下敷きになって死にたくはない。

きっとそんな小細工をしても一時的なんだろうな。天候と同じように俺は陰鬱になった。

岩山によじ登り竜の端々へ危なっかしく立つキャロルを見て俺は止まった。竜からすればあまりにも小さい小刀を抜くのを見る。もう十分な距離を歩いたと思うと途端に足が動かなくなる。

俺はラスティアを追っているのか追われているのか分からなくなる。今は間違いなく追われているのだけど、一歩一歩アザーオロム山脈へ行くことは追っていることになる。平穏な生活を捨てて、安穏とした生活と快適なことを捨てて、おいしいご飯と寝心地のいい寝床も捨てて、持っていたものをたくさん諦めて追いかける。

不意に身体中の血が凍った。今まで落としたものが平和とか快適なら諦めもつくけど、でもそれより大切なものをも失ってきた。

今更ながらに思い返した。ミサスはひとりクラシュムに残った。マドリーム兵をひきつけるために。

ミサスは強い。かつてひとりでバイザリムを炎上させてラスティアと一騎打ちしたぐらいだ。ただの人間が何人いても負ける訳がない。

でも俺は今まで何回も「そんな訳がない」ことを見てきた。

豆粒大の大きさになって剣をのこぎりのように引くイーザーを見る。イーザーの言った通りだ。ミサスは一番大変なことをしている。なんでもなさそうな顔だったから気づかなかった。

もしも。

だれの助けもなく、周囲敵一色の中にいて。

もしミサスが帰ってこなければどうしたらいいんだ。ウィロウのように二度と会えないのだったら。

遠くの仲間たちが上げる声がはるか遠い。頭がしびれて目がかすむ。俺、クラシュムでミサスにひどいことを言ったぞ。理不尽きわまる八つ当たりをした。まだ一言も謝っていない。もしミサスが戻らなかったら俺はどうすればいいんだ。

横の赤い影が座りこんだ。力尽きたのかと慌てるけど違った。ザリは地に膝で立ち、手を祈りの形に組んでいた。目を閉じた飼い主を黒海がつぶらな瞳で見下ろす。

「ザリ」

祈りの対象はだれだろう。神々だろうか。俺は祈れない。クララが雷竜だった時点で祈りは色あせた。俺はザリの肩をつかむ。すがるものがないと立っていられない。

「アキト?」

ザリは驚いたようだった。眼鏡に俺がうつっている。

「どうしたの。どこか痛いの?」
「助けて……」

声は震えていた。顔をつっぷして見られないようにする。

「ミサスを…… あの怠け者の、ろくでなしを助けてくれ!」

ザリの息が止まる。どんな驚きの顔をしていたのか俺には分からなかった。

「……任せて」

顔を見上げた。眼鏡の向こう、赤茶色をした瞳は思いがけないほど力強く俺を見ている。表情は静かで落ち着いていて、覚悟を決めているのが分かった。不敵であるとさえ言えた。

「薬箱は置いておくわ。キャロルにちゃんと飲むよう言ってあげて。なにを飲むかはキャロル自身が知っているから。黒海、この子たちをお願いね」

無意識だろう、優しく黒海に触れてささやいた、そして反対方向へ走りだす。

「ザリ!?」気づいたキャロルが大声をあげる。「戻れ、崩れるわよ!」

風化は想像以上に進んでいた。キャロルはちょこっと切れ目を入れるだけでよかった。竜のなきがらは自分の重さに耐えられず、長年共にあった岩と一緒に前へ傾く。小石や小石とは呼べないような礫が降るもザリは止まらない。肩かけかばんとベルトにくくりつけられたクロスボウがぶつかるも音はかき消されて俺まで届かない。

「ザーリィ!」

狙い通り竜が倒れる。もうだれにも食い止められない。ザリは竜なんて目に入っていないかのように走る。

間一髪、赤毛の薬師が走り抜けたのと同時に地竜は崩れた。もうもうたる土煙を立て骨は岩に押しつぶされ、山が爆発されたような轟音をたてて谷の入り口は完璧に埋まった。