三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

彼らのために

大股でイーザーが、キャロルの胸倉をつかんで立たせた。

「なんで行った」

怒っていた。目尻がつりあがり、今ここでキャロルを突き飛ばしかねないほど怒っていた。

「なんでって?」

大怪我で顔から血の気が失せたキャロルは、それでもいっそふてぶてしい態度で悠然と聞き返す。

「なんで決闘に割りこんだ!」

感情を爆発させたように言葉を叩きつけた。

「アキトは約束していたんだぞ、一対一の決闘だったんだ! それなのにどうして手を出した!」
「……ああ」

キャロルは手をぞんざいに振り払った。

「負けそうだったもの。あたしはアキトを死なせる訳にはいかない」
「キャロルはアキトの約束を破った! お前はアキトとヒビキの、キャロル自身の誇りも踏みにじったんだ!」
「それがなによ。誇りがどうしたの。そんなちんけなものあたしになにをしてくれるの」

あたしはアキトが大切なの。高らかに宣言する。

「そのためにあたしはここにいる。剣も頭もアキトのためにある。あたしはアキトを我が主として、アキトのためだけに生きている。アキトを守りアキトのためになることならなんでもやるわよ。例えどんなにアキトが嫌がろうともね」
「……お前という奴は」

イーザーの手が震えた。

「お前という奴は!」
「やめてくれ、イーザー」

ぼんやりとした声は俺だった。二対四つの瞳が俺を見る。

「キャロルが悪くない、俺が」

俺の手もまた震えていた。イーザーとは違う理由で。

「俺がするべきだったんだ、本当は俺がするべきだったんだ。でも俺にはできなかったからキャロルが代わってくれた。本来俺がやるはずだったことを肩代わりしてもらっただけだ」
「アキト?」
「俺がやった」

スタッフが震えて軽く揺れる。

「俺がやった。キャロルに少し代わってもらっただけで本当は俺がやったんだ。俺が殺した」

罪悪感に押しつぶされる。自分がやったことの大きさに息ができない。

「俺が、俺がやったんだ。俺が決めて、俺のこの手で、響さんは巻きこまれただけなのに、悪いのが俺なのに、俺が、俺が響さんを」
「おい!」

イーザーが肩をつかんでゆする。「アキトは悪くないぞ!」

「違う! 俺のせいだ、俺がやったんだ!」
「……アキト?」

キャロルが、耳を切りつけられても乱暴に問いつめられても平然としてたキャロルは腰から下から力が抜けたようにへたりこんだ。血に染められた瞳が見開き唇がわななく。

「あたし、間違えた……?」
「あ、あ、ああ」

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「うわあああああ!」

許してください。


幻はいつの間にかいなくなっていた。

日が高くなりつつある。ここは荒野だというのに暑さを全く感じない。凍えそうなほど寒い。俺はぼんやり座っていた。

空はよく晴れている。雲ひとつない。

ザリがキャロルの手当てをする。キャロルは途方に暮れたように動かない。ザリが不安そうに俺を見るが答えなかった。

はっとザリが空を見上げた。影が多くなり、巨大な羽ばたき音が降り立ち、ザリは悲鳴を上げた。

「ミサス! どうしたの!」
「急げ」

ミサスは直接本題へ入った。

「マドリーム正規軍が統率できるだけの人員を引き連れて向かってくる。逃げろ」
「逃げるって、キャロルがまだ。ミサスも手当てをしないといけないわ。それにアキト」

声につられて俺はミサスを見る。目に膜が張っているかのように、荒野やその地に立つ人々には色と生気が失せて、遠い存在になっていた。

気持ちが麻痺している。無感動な視線がミサスをようやく見つめる。ザリが悲鳴を上げるのもしょうがなかった。槍は柄が途中でへし折れ翼は逆なでしたように膨らんで羽根がごっそり抜けていた。服に血らしい黒い塊がべっとりこびりついている。ひどい姿だ。俺は人ごとのように見ていた。

ミサスもまた俺を見る。普段感情を全く見せない瞳が俺を貫いた。

「ヒビキと戦ったの」

ザリが親切に教えるが、空から降ってきたミサスには言わずと知れたことなのだろう。

「ブロッサムは」
「マドリームで別れた。一緒に行くつもりだったけど行けなかった。マドリームでやることがある」

ミサスの興味はそれきりだった。俺も気にしなかった。いなかった。でもそれがなんだというんだ。

「アキト」

肩に軽く圧迫があった。なにがあったのかゆっくり顔を動かす。へし折れた槍でミサスが俺をつっついていた。

「立て。敵がくる」

命令通り立ち上がった。身体が重い。そのくせ足元はおぼつかなく雲の上を歩いている気がする。

「行くってどこへ」

イーザーの声もまた疲れきっていた。

「エアーム領へ。山越えになる」

単純な事実を突き放すように伝えられた。

いい天気だった。快晴で目が痛くなるほど。こんなにいい日なのに軍隊がくるなんて信じられない。

だれもがミサスの言っていることを理解できずにただ座ってミサスを見上げている。ミサスは無表情だった。自ら覆い隠しているかのようになにも見せない。やっと最近ミサスの表情や考えていることが分かりつつあったのに。だれも動かないのを見取って声を上げる。

「早くしろ。全てがかかっている!」

見ていなかったようでミサスはエアームまでの道のりを完全に把握していた。ザリに手早く指示を出し先頭に立つ。背中の羽根が歩みに合わせて上下した。

イーザーは崖に立った。強風で外衣が大きくはためく。うつむいていて表情はよく見えない。

「イーザー?」
「返す」

荷物を詰めている袋から薄い魔道書を持ち出した。レイドで見せた、イーザーのものではない魔道書。

「取る気はなかった。悪かったな」

放り投げた本は緩やかな弧を描いて落ちた。

「イーザー」
「今行く」

それきりだれも話さなかった。俺はミサスのすぐ後ろをついていった。

今ここが現実のことだとは思えない。

大地が柔らかい、視界がゆがんで虹色に染まる。天と地が逆さまになって踊っている。

やったことがないけど、泥酔した時というのはこんな感じなのだろうか。それとも狂気の世界なのだろうか。

思考がばらける。夢の中にいるみたいだ。

なにも考えず、ただミサスについていく。後ろにザリたちもついてきているはずだけど足音が聞こえない。みんなどこに行ったのだろう。

ミサスは無言で歩く。振り向きもしない。俺は夢の中をさまようように歩く。

徹夜したはずなのに疲れはない。苦しみも悲しみもない。あまりにも負の感情に浸りすぎて感覚が狂ったのだろうか。心は飽和していたなにも考えられない。

時間が失われて距離が意味をなさない。どれくらい歩いたのだろう、道が厳しくなり大岩が転がり穴だらけの坂を上って、いつの間にか下りになってやがて平坦になっていく。時間がたつのはなんて早いのだろう。

「もうエアーム領なのね」

ザリがことさら大声を出す。

「街だ。よかった、着いたのね」

ザリの言う通り、白い家々が緑の丘一面にびっしり固まっている。あまり大きくはないし建物は所々崩れたりと劣化している。古くからある街のようだった。ひっそりと国境代わりのミーディア山に埋もれているようだった。

「アキト」

ザリが、ガラスの破片を触るようにおずおず俺へと手を伸ばす。俺はザリへ振り向かずにただ歩く。

着いて、それから? どこへ行くんだ? 旅の終わりはどこだ?

緑の芝広がるなだらかな丘に道はゆるやかに蛇行している。地面から生えているかのような巨岩のふもとに黄色が落ちていた。まるでタンポポのようだった。

「人?」
「! アキト!?」

人影へ俺は走った。その人はこんなに武装した集団が近付いているのに動じない。青空の下、腕をまくら代わりに組んで寝ころんで。のんびり昼寝をしていた。

俺がかけ寄っても驚かなかった。

「この天気も後わずか。崩れて雨になるでしょうね」

かすかにひげを震わせ、けだるげな金の瞳で俺を見る。

「ずっとそこで待っていたのか」
「いいえ」

起き上がり、丘の上から慌てて走る友人たちを眺める。

「ただ、こんな時だけ。よく晴れていて風が気持ちよく、泣き出しそうになるくらいいい天気の時だけです。外へ出て寝そべって、うつらうつらと夢を歩きます」

肌触りのよさそうな体毛、大きな耳。首手首足首しっぽの先にくくりつけた鈴の装飾品。革の外衣、かたわらには細い木の杖。

猫特有のまなざしが俺を笑いながら問う。

「どこに行っていたのですか、ずっと待っていたのですよ」
「……グラディアーナ」

「アキト、そいつはだれだ」

イーザーは肩で息をし、剣を持ったままの手を膝へ当ててかろうじて質問した。

「そいつとはご挨拶ですね。私はグラディアーナ。踊り子であり盗賊であり。時には学者にもなります」

演出過剰にグラディアーナは礼をした。

「グラディアーナ?」

イーザーが意外そうに月瞳の一族を見上げる。

「男じゃないか。なんでグラディアーナなんて名前なんだよ。女名だろ」
「分かっていますよ。名付けたのは他ならぬ私なのですから」

面白そうにグラディアーナが笑った。

「こっちの方では獣人は珍しくてね。そこのお嬢さんのように人間寄りの容貌ならともかく私は獣寄りですから、人間は私の外見では男女の区別がつかずうろたえて面白いのですよ。だからさらに混乱するようにと」

イーザーは苦いものを噛んだような顔になった。

「趣味悪いぞ」
「知っていますよ」

グラディアーナは平然としたものだった。

「見て!」

ザリが今来た道を差す。ミーディア山、急斜面の下り坂に蟻が群がるように黒い粒が集まっていた。

「きた」
「なんです、あれは」

ひとり事情を知らないグラディアーナにザリは早口で伝える。

「わたしたち今追われているの。グラディアーナと話をしたいのは山々だけど、急いで逃げないと」
「追われている?」

グラディアーナはまだはるか遠くの集団と俺たちを見た。

「ざっと20人以上といったところでしょうか。本当に逃げるつもりですか? そんな様子で」
「捕まる訳にはいかないのよ」
「手伝いましょうか? いい隠れ屋を知っていますよ」

にこやかに告げるグラディアーナにザリは虚を突かれた。

「ここら一帯は古い土地でしてね。ちょっと掘ればすぐ昔の遺跡に当たるのですよ。そこの街、クラシュムもそのひとつでしてね。地下に広大な古い神殿が隠されているのですよ」

片目をつぶった。

「なんで知っているの?」

ザリは信じられなさそうだった。だまされることへの警戒ではなく、内容が壮大すぎるからだろう。

「私の実力で見つけました。この知性に注意力、後は幸運を味方にすれば大抵のことはできます」

派手で嘘っぽい。

「……お願いできる?」

イーザーがぎょっとする。

「ザリ、信じるのか?」
「わたしたちの足とマドリームの速度は違いすぎる。すぐ追いつかれるわ。それに休憩が必要よ、手当てをしないと」

イーザーはちらりと俺を見た。「そうだな」

「決まりですね」

グラディアーナはとても友好的にはしゃいだ。

「では参りましょうか、クラシュムへ」

実際のところ白い家々のクラシュムへは入らなかった。郊外のけばけばしい、朽ちかけた神殿に地下へと続く道が隠されていた。黒海ごと進めそうな大きな通路をグラディアーナは角灯を掲げて先陣を切った。

「暗いな」
「足元に気をつけなくても大丈夫ですよ。滑らかで転びようがありませんから」

自分が築いたわけでもないのに自慢げだった。

「外からの明かりはありません。空気は澄んでいるのですけど、ここの光も音も上の街へ気づかれることはありませんよ。安心して騒いでください」

騒ぐどころかろくに返事もしなかった。時々聞こえるキャロルのうめき声を除けばグラディアーナの単独演説だ。ザリが支える。

明かりに照らされた通路はグラディアーナの言うとおり光も音も外部と切り離されていた。黒く滑らかな金属板で組み立てられた遺跡は今までこの地で見てきたどの建物とも似ていない。あまりにも合理的かつ近代的で無機質、古い建物とは思えない損害のなさ。

グラディアーナがだれかに問いかける。俺の顔を見て、少し気を悪くしたようだった。

「グラディアーナが知っている地下遺跡」

分かりきっていることを確かめるようにイーザーは何回もつぶやいた。

「グラディアーナ、ここはどこなんだ。こんな鉄の家俺は今まで見たことがないぞ」
「私もこんな壁はここ以外で見たことはありませんよ。世界一の技術を誇るドワーフでも作れませんよ。古い本を読みあさったところ、ここは神殿のようですね。礼拝者も神官もいらない、いつの間にか存在していた建物です」
「分かった」

イーザーは身を乗り出した。

「祭っているのは狂気の竜、うつろいかわる存在、禁呪に手を出し半身を焼かれた神、今も天をさまよう月竜神ラーラティスだ! 月瞳の一族はラーラティスをあがめる数少ない種族だし、月竜神は信者を必要としないからな」
「はずれです」

かなり自信があったのだろう。イーザーはがっかりした。

「神の名はありませんし、神像も紋章もないので私には分かりません。月竜神ではありませんよ。月瞳のはしくれとしてラーラティスだったら分かります」
「そうか」

曲がり角には毛布や汚れた皿、だらしなく寝泊まりした跡が残っていた。

「ここが私の家です。ようこそ我が家へ」
「我が家?」

キャロルが険悪そうにつぶやく。グラディアーナのすみかは我が家から連想する温かみはなく、浮浪者が地下道の一部を陣取っているのに似ていた。

「少なくとも静かで人はきませんよ。避難所としては十分すぎます」
「そうね。グラディアーナ、少しわたしたちをここにいさせてね」
「どうぞ」

グラディアーナはくつろぎ切った様子で腰かけ、その辺に転がっている瓶を手に取り直接口にした。

グラディアーナはもうザリの眼中にはなかった。キャロルを座らせ血まみれの包帯を解く。キャロルはぼんやりなすがままだった。

「うっ」

イーザーがうめく。キャロルの耳はほとんど取れかかっていて、包帯を解いたことでまた出血したらしく灰色の髪をザリの色に染めて、しずくになって床に落ちる。俺は無関心に眺めていた。

ザリは怖い顔で傷を見ていたが、表情を緩めるとキャロルへ向いた。

「キャロル、落ち着いて聞いて。耳はほとんど切られていてもう組織としては役に立たない。このままだと腐って頭にまで影響してしまう」

いつも以上にゆっくりとした口調だった。

「だから、キャロルの命を守るため切断しないといけない」
「予想していたわ」

キャロルはとても疲れているようで投げやりだった。

「ザリがいいと思うようにして。あたしは従うから」

ザリはなにか言おうとしたが思い直した。荷物から鋭い小刀をはじめ多くの道具薬草を取りだす。

「すぐ終わるからね」

再び包帯を巻き、熱を測ったり脈を数えたりしてかなり時間が経過してからやっとキャロルから目を離した。イーザーもミサスも座りこみ、ぼんやりしている。みんな疲れきっていた。

「で、なにをやらかしたのです?」

絶妙の間でグラディアーナが聞く。一切の音が吸いこまれる冷たい鉄の部屋に言葉が響いた。

「なぜマドリーム荒野国がエアーム竜帝国に攻め入るのですか? そりゃこの辺りはエアームの端っこ、山が邪魔して半分エアームではない感がありますが、それでも大国エアームを侵略するなんて狂気の沙汰です。あなた方事情を知っているようですが、なにが起きているのですか?」

ザリはためらった。

「グラディアーナ、わたしたちは今とても危険な状況にいるの。聞かない方がいいと思う」
「ご婦人」
「わたしはザリよ」
「ではザリ、あなたは月瞳の一族について知りませんね。未知のもの、分からないものには貪欲なのですよ。好奇心は尽きず物見高さはどこまでも。ちょっとやそっとの危険ではひるみません」
「グラディアーナこそどんなことが起きているのかちっとも分かっていないのよ」
「それにグラディアーナが味方とも限らないしね」

キャロルが加わった。誤解を生じえないはっきりとした声で。「よせよキャロル」イーザーがぶっきらぼうに止めるが気にしない。

「あたしの方でも山のように聞きたいことがあるわ。なぜアキトを知っているの、なぜこう都合よく会うの。何者? マドリームと通じているんじゃないでしょうね」
「キャロル、お前いい加減にしろよ」

イーザーがすごむ。グラディアーナは小首をかしげた。

「もっともな質問とはいえ答えにくいものばかりですね。順番には答えませんよ。マドリームとは通じていません。私はグラディアーナというものです。都合よく会ってはいません。求め探してやっと出会えたのです」

少し口が止まった。

「アキトとは日本で出会いました。すぐ別れてしまいましたが普通ではない事情を抱えていたようですのでね。カーリキリトへ戻ってからも私なりに研究をして探していたのですよ」
「グラディアーナは自由に異界へ行けるのか!?」イーザーは大声を出した。
「そんなすごい魔法使いなのか?」
「いえ、残念ですが。偶然行って偶然帰っただけです」
「俺たちもグラディアーナを探していた。アキトからそんなこと聞いていないぞ、会ったことがあるなんて」
「それどころではなかったと思いますよ。あの時アキトは色々あったようですからね。見ていてうっとりするほどの落ちこみでした」
「あんたの言っていることは嘘くさいわね。信用できない」
「信用してもらわないと、私の知っていることは話しましたよ。そっちは? これだけ聞いたのに私はお預けですか?」

ザリに言うところがずるいところだった。ためらった後開き直ったように言った。

「わたしたちはラスティアという人物を追っているの。ラスティアは私たちが邪魔で妨害しようとマドリーム国王をそそのかした。危ういところでわたしたちは逃げたけど国王は諦めていないわ」

グラディアーナの目が細くなった。鋭く油断のならない顔つきに見える。

「ラスティアなら私も知っていますよ。日本にちょっかいを出したのをアキトを共にみました。よりによって荒野国をね。マドリーム国王オキシスマームは凡才で有名です。まずいことに巻きこまれているようですね」
「逃げるなら今のうちだぞ」

イーザーは暗い表情だった。

「考えておきましょう。それでこれからどうする気ですか」
「しばらくはここで休むわ。キャロルが心配よ」
「あたしはいいわよ」

ザリは相手にしなかった。

「本当なら街に置いていくほどなのよ。置いていく方が危険だから一緒に行くけどね。ミサスとイーザーも治療をしないと。しばらくいさせて」
「その程度なら」

グラディアーナは寛大だった。待てとイーザーが止める。

「俺よりアキトを先に治してくれ」
「俺」

イーザーはなにを言っているのだろう。俺はどこも怪我をしていないのに。ザリが首を振った。

「なにもできないわ」
「ザリは薬草師だろう。そういう薬はないのか?」
「ない。眠らせたり心をぼんやりさせるのならあるけど、今使うのはかえって危ない」

はるか遠くの出来事を見るように俺は彼らを見る。言葉と単語は分かっても、会話の意味が分からない。よく知っているはずの人々は今はまるで別の生き物のようだ。

「外の様子が気になるわね。マドリーム兵は街を通過するかしら。しつこく探さないといいけど」
「見てきましょうか?」
「危ないわ。見つかったらどうするの。相手は大勢よ」
「私をなめているのですか、楽勝に決まっていますよ。そこの片耳の子よりもはるかにね」

盗賊の誇りを刺激したらしい。外衣を翻し立ちあがり、柔らかい足取りできた道を戻った。大股なのに足音はしない。

「お見事、ザリ」
「しまった、悪いことを言っちゃったわ」

ザリは反省した。しかしすぐに「ミサス、羽根を見せて」と行く。

「胡散臭いわね。どこまでが嘘でどこまでが本当だか」

キャロルには刺があった。

「またそれか? 助けてもらって感謝もしないのかよ。最低だな」
「本当に助かったのならね。イーザーこそどこのものとも知れぬ月瞳を信じているの? マドリームで懲りていないの?」

キャロルは指を組んだ。指先が小刻みに震えている。

「事態は最悪に近いけどまだ道はあるわね。ミサスもいるしまだだれも死んでいない。休んだらまた逃げましょう」
「逃げられるのかよ」
「逃げるしかないわね。戦うつもり? どうしてもだめならあのグラディアーナを使えばいいわ。おとりとして犠牲になってもらいましょう。その隙に逃げる」
「キャロル」

イーザーが歯を食いしばりキャロルの前に立つ。

「黙って聞いていれば、冷血の人でなし。どこまで、どこまで卑怯で性根が腐っているんだよ。お前って奴は」

イーザーは拳を振り上げた。キャロルは動かない。虚ろな目のまま冷笑を浮かべている。

「お前なんて、あの時ヒビキに!」

力の限り振り下ろされた。

「ヒビキに殺されちまえばよかっ」
「そこまで」

ザリの手が受け止めた。2人の間に入り。ひどく低くて感情のこもっていない声だった。イーザーの全力を自ら受ける、派手な音がした。

「キャロル。イーザーを痛めてはいけない。自分が傷ついているからと言って友だちを傷つけても苦しいだけよ」

押し殺した声だった。

「イーザー、どんなに悲しくても涙を流せない人だっている。イーザーなら知っているでしょう。苦しんでいないようだからといって責めてはいけない」

気まずそうに黙ってイーザーは手を引く。キャロルはそっぽを向いた。

「アキト」

ザリは俺を見た。近づいてくる表情は今すぐにも泣きだしそうだった。

「アキト」

肩に手を置き揺さぶる。俺はなすがままだった。天井が大きく揺れる。

「アキト」

きっぱりした言葉が割って入った。ザリの手がどく。

見下ろすとミサスがいた。なにを考えているのか分からない、なにも浮かんでいない顔だった。

「もういいだろ。起きろ」
「……ほっといてくれ」
「十分放っておいた。これ以上はできない」
「別に、俺のことなんていいだろう」
「よくはない。今の争いはアキトが原因だ。アキトが自分にかまけているから起きた。いつまでもそんな些細なことにこだわっていないで目を開けろ」
「些細なことだって」

ミサスは平然としていた。

「些細なことだろう。死んだだけだ。いいことだ。敵がいなくなったのにどうして嘆くんだ」

俺の目に涙が浮かぶ。さんざん流れて流れて、もう枯れたと思っていたのに。全身に熱い風が吹き荒れる。今まで止まっていた激流の栓を外されたのように。

「黙れミサス!」

力一杯罵声を浴びせた。

「響さんは俺のせいで死んだんだ、俺がギリスも響さんも殺したんだ! 俺が巻きこんだ、俺さえいなければ。響さんはなにも悪くなかった。俺だ、俺のせいだ。それなのに、そんな些細なことだって? いいことだって!?

そうだろうさ、どうせミサスにはその程度のことだろうさ、どうしてなんて聞けることだろうさ。でも俺にはそうじゃなんだ! 俺だけは響さんの苦しみが分かる、ミサスには他人事だろうけど俺にとっては違ったんだ。先輩で友だちで唯一の同類だった。分かりあえたはずだったのに! それなのに、それなのに俺のせいで!」

せき止められていた感情が奔流する。泣き叫ぶ俺にミサスはびくともしなかった。

「ミサスに言われたくない! ミサスは他人事だからどうでもいいだろうさ、響さんも俺もミサスにとってどうでもいいことなんだろうさ。自分以外は全部どうでもいいことだろうさ。俺には違うんだ、俺はそうじゃないんだ、放っておいてくれ、構わないでくれ、黙ってくれ、置いていってくれ、どっか行ってくれ!」
「そうだ」

ミサスは頷いた。

「俺にとってはどうでもいいことだ」

へし折れた槍で俺の顔をそむける。

「見ろ」

向けられた先にはイーザーとキャロルとザリがいた。

イーザーは決まり悪くそっぽ向き、キャロルは恐れるように壁へと身を縮め目を開く。ザリは黙って、ただ俺たちを見ていた。みんなが傷つき悲しんでいた。

なんでだろう。俺は不思議だった。

なんで苦しむんだろう。響さんと友だちだったのは俺ひとりなのに。俺しか理解できないのにどうしてそんな顔。

分かった。

分かってしまった。

みんなだって響さんを知って、どんなことがあったのか、どんな苦痛があったのかちゃんと分かっているんだ。分かっていて同情して、なんとかしたいと願っていたんだ。響さんが死んでみんながみんな悲しんでいるんだ。俺だけじゃなかった。

それだけじゃない。

俺が傷つき苦しんでいるということ自体にまでみんなが傷ついていた。俺が自分を責めて泣いている、それ自体が悲しくつらいことで、どうにかしたくてもどうにもならない痛みと無力感にさいなまれているんだ。

俺のせいだった。俺が後悔に押しつぶされていることが周りへの苦しみになっていた。それでけんかになってそれでザリは俺へ訴えて。

俺はミサスを見た。ミサスは冷静だった。あらかじめ分かっていたかのようになんの感情もなく俺を眺めていた。はっきり俺へ焦点を合わせている黒い目はただひとつだけを突きつけていた。

苦しくて辛くてどうしようもなくても。打ちのめされてもう駄目だと思っていても。自分で立ち上がれないのであっても。

お前が大切な彼らのために、お前を大切と思っている彼らのために立ち上がれ。

冷たい要求だった。事務的で情のないことをミサスは俺に求めていた。無理やり立ち直ることを、涙を隠して起き上がることを命じていた。

ミサスの言う通りだ。

俺は大きく息を吐いて、袖で乱暴に顔を拭いた。

「分かったよ」

自力では無理でも、俺を大切と思ってくれるだれかのために平気な振りならできる。

ミサスのごっそり抜けた羽根が、安心したかのように下へ垂れさがった。


「お待たせしました。おっ」

いなくなっていたグラディアーナが戻ってきて、空気が変わったのに敏感に気づいた。思惑ありげに俺を見る。

「グラディアーナ。外どうだった?」

改めてグラディアーナと向き合う。グラディアーナは前日本と会った時と比べてずいぶんカーリキリトっぽい服装になっていた。グラディアーナも日本と離れて久しいのだろう、同じなのは鈴の装飾品と仕込刀だけだった。まだ持っていたのか。

「それがですね、ばれちゃいました」

いきなりそうきたか。

「なんだって?」
「大丈夫、地下神殿はクラシュムより大きい上、深くて道が入り組んでいます。迷宮のようなものです。奥へ逃げましょう」

ここに半分住んでいるグラディアーナの言うことだから信用できるのだろうけど。俺はグラディアーナの盗賊としての腕に疑問を持ちつつあった。派手好きみたいだし大丈夫なのだろうか。

ザリが散らかしていた医療道具をしまって背負う。「こっちです」グラディアーナが先陣を切った。

「グラディアーナ、ばれたってどこまでばれたんだ?」

マドリーム兵は俺たちがクラシュムへ入ったことは知っているだろう。問題はそこから先だ。グラディアーナが協力していることや地下迷宮に行ったことはもう分かっているのだろうか。

「遺跡の出入り口を探していました。私は猫になってこっそり戻りましたけど、突き止められるのは時間の問題でしょう」

はばかるように声をひそめる。

「実を言いますと私にもここの全貌は分かっていないのです。広すぎる上入れない部屋通れない道が多すぎましてね。出入り口がほかにもいくつかあるのは知っていますが下の層はちっとも知りません」
「分からないのだったら下へ潜るより上から出て、クラシュムから逃げた方がいいな」

イーザーが負けるかとばかりグラディアーナに並んだ。

最後尾は黒海を連れたザリとミサスだった。よく見るとザリもいつの間にか怪我をしていた。左二の腕が血でにじんでいるうえ、袖の下には血で染まった包帯が巻かれていた。表情は重く暗い。

「ミサス。ごめんなさい」

低い謝罪にミサスは片羽根を軽く上げた。

「本当だったら私がアキトを正気に戻すべきだったのに。私が自分の感情で一杯になってしまってなにもできなかった」
「ザリにはできないだろう」

ミサスは完全に普段通りだった。なんでもないことを説明するような淡々さ。

「ザリにはできない。情が入りすぎる。突き放せないだろう。

その時俺にしかできないことをやっただけだ。詫びられることではない」

納得できかねないようにザリは口を開いた。

「いたぞ、金の猫だ!」

正面から知らない男が飛び出し、グラディアーナを指差した。2人組の武装した男で、軍隊所属にしては装備がよくない。革鎧と剣だけ、バックラーが割れる前のイーザーに劣った。

グラディアーナを捕まえるより先に前列2人が動いた。イーザーは兵の手を打ち払い、剣をはじき落とし腹を力一杯蹴る。グラディアーナは抜刀一戦、肩を切り裂いた。男は悲鳴を上げて肩を押さえるが、俺の見たところ出血は派手だけど傷は浅い。腹を押さえてうずくまった男の方が痛そうだった。

一瞬で戦意喪失させた男たちの横を難なく通り過ぎる。イーザーはグラディアーナを疑わしくにらんだ。

「今の、マドリーム人じゃなかった」
「そうですか」
「それにグラディアーナが目的だったぞ。俺たちは眼中になかった。どういうことだ」
「怒らないでください」

いたずらがばれて悪びれしない子供のように舌を出す。

「実は私も追われています」
「なんだとっ」

イーザーが足を止めかける。

「あいつら、お前を探しているのか」
「悲しいことにそのようですね」
「なにをやった!」
「それがさっぱり分からないのですよ」

グラディアーナの猫顔はどこまでがふざけていてどこまでが本気なのか分かりにくい。

「これまで軽い悪事はかなりしましたけど、どれもばれていないはずです。ある日いきなり手配書がばらまかれましてね。心当たりもないのにお尋ね者になりました。なにで手配されたのかさっぱりです」
「なにもしていないのに追われるというのはあるものね」

なぜかザリが万感をこめて共感している。俺はグラディアーナについてもう少し考えることにした。分からないと言っているけど悪いことをしてきたのならいつか捕まるのは自業自得じゃないか。

「止まって」

停止の呼びかけに俺は曲がり角付近で壁に張りついた。その先を殺気だった兵が6人走っていく。さっきの人たちとは服装が異なる。マドリーム兵だろう。ばれきっているじゃないか。

忌々しげに前をにらむイーザーを眺めているうち、俺はふと聞いた。

「イーザーの剣短くなっていないか?」
「なんだよ、今さら。これはキャロルの剣だ。俺のは刺したら抜けなくなった。急いでいたから置いてきて、キャロルのを借りたんだ」

軽くて使いにくいとこぼすが、それは贅沢じゃないかな。ミサスなんてばっさり折れてもう杖ほどの長さもないのだから。

「行けます」

十分うかがったグラディアーナの合図が出た。

いつまた敵が出てくるか、神経をすり減らしながら進む。歩きながらようやく俺は気づいた。

「なんだかやけに現代的だな」
「やっぱり?」

無駄口をとがめることなくグラディアーナは笑って同意した。

前同じ通路を通ったことがある訳ではない。でも木造か石造りかが建築技術の中心であるこっちに比べて、鉄の遺跡はコンクリートと鉄筋でできた日本の街並みを連想させた。どこにも無駄がなく、人が作ったことを忘れてしまいそうになるほど無機質で表情がない。

道の途中に周りと色が異なる壁があった。

「扉か?」
「さて」

グラディアーナは見向きもしなかった。

「以前からあったものです。扉かもしれないと色々試してみましたが、開けるどころか紙一枚隙間に入れることもできません。それよりこの先は十字路です」

俺は変色した個所の前で立ち止まった。

どう見ても扉に見えるけど、ドアも手掛かりもない。開けたくても開けられないのなら扉と見る訳にはいかない。グラディアーナがいろいろ試したと言っているのだからどうしても開かないのだろう。

ほとんど無意識に俺は変色個所右側の中央あたりに手を伸ばしていた。なにも考えず、まるでここが日本であるかのような錯覚のもとに自然に動いた。手をかざしじっとする。

「アキト、止まるな」

我に返った。

「あ、悪い」

なにをやっているのだろう、俺。

「ついこうしていたら開くかなと思っ」

身をそむける俺の横で、変色個所は電子音とともに左へ滑った。

俺にだって意外だったが他の人たちにとってはもっと意外だった。

「開いた」
「そういうことですか!」

グラディアーナが拳を握りしめた。

「自動扉だったとは! 分かってみればどうということではありませんが、確かに私は長時間じっとしてはいませんでしたからね。日本に3年暮らしたのに、アキトごときに負けるなんて!」

ごときっておい。日本にいた期間なら俺は16年ぐらい生まれ育ったんだ。俺が勝つに決まっている。自動扉のセンサーに手をかざすなんて慣れすぎていて考える間もなく出た。優劣の差じゃないと思う。

「魔法か?」

イーザーは信じられないものを見たように俺から後ずさった。

「なにをしたんだ?」
「なにもしていない」
「アキトの国にある仕組みです。好都合、行きましょう」

盗賊の心得があり、遺跡に住んでいるグラディアーナでも分からない仕掛けなら追手がいくら頑張っても分かる訳がない。不思議な出来事をすかさず利用するグラディアーナはさすがだった。

「あ、うん」

俺は驚いていたし俺以外はだれにも開けられないはずの扉を俺が手をかざしただけで開いたのに仰天していた。

「すぐ入らないと閉まりますよ!」

日本で自動扉を見知っているグラディアーナがせかす。後押しされてようやく俺が一歩を踏み出した。全員通過すると扉は勝手に閉まる。

黒い壁は足元に点々と照明が続き、天井には所々に赤電灯が灯っている。どこかで空気調整しているらしい音がした。まるで日本というよりも。

「未来SFじゃないか」

気味悪そうに遠巻きにされる中、俺は信じられない思いで一杯だった。

「どうして蛍光灯があるんだ。エアコンも自動ドアも。あるはずないぞ」

グラディアーナ。俺は月瞳の一族を見た。

「ここはどこなんだ。日本並みの機械がある、だれも知らないここはどこなんだ。どうしてグラディアーナはここを知っているんだ。ずっと前、声の予言通りにグラディアーナは俺を案内した。この先なにがあるんだ」
「さあ」

グラディアーナはあいまいに微笑む。

「私は現実的に一番いいと思うことをしているだけです。概念的な意味はありませんし先のことも見えません。敵がいて逃げる、それだけしか手をつけてはいませんよ」

どこまでが本当でどこからが嘘か。金の瞳はなにも伝えない。

「俺は」

なにを言いたかったのか俺にも分からない主張はミサスに制止された。自動ドアに耳を張りつける。はっとキャロルが代わろうとするが、ザリはつかんだ手を離さなかった。

「ミサス?」
「離れろ」

ミサスが頭を起こした。扉の向こうで鼓膜をつんざく音がして床が震える。

「魔法使いが力づくでこじ開けようとしている」
「げ」

相手が暴挙に出ることぐらい考えておくべきだった。

「アキト、魔法で扉は開きますかね」
「分からない。日本に魔法がないんだから。ミサス、その魔法使いどうにかできないのか」
「壁越しでなにをしろって言うんだよ、アキト。逃げた方がずっと早いぞ」

イーザーの言っていることはもっともだった。奥へ進もう。

変色扉の仕掛けが分かれば後は簡単だった。センサー感知器のありそうなところに手をかざせばひとりでに道ができる。次なる通路を開くたびにグラディアーナは今まで分からなかったことに歯がみして、俺はあえて見ないふりをした。

「今、どこに行っているんだろう」

不可解さと追われている不安で足がもつれそうになる。根を上げなかったのは大怪我しているキャロルやミサスが一言も不満を言わず、それどころか不安を見せさえしなかったからだ。ここでひとり疲れたなんて口走ったら今後なんて言われるか。安っぽい誇りと俺より支えが必要な人がいることが俺を助けた。

「もう私にも分かりませんよ。潜ってはいないはずですが」

グラディアーナの余裕もなくなりそうだった。

もう何回目かも忘れた自動扉を開いて中へ飛びこむといきなり空気が違った。神経がささくれ立っているイーザーが剣を構える。「なんだ!?」

「あれを見てっ」

まっさきに目についたのは空中に浮かぶ大小様々の球体だった。消炭色でゆっくり上に下にと動く。

広い部屋だった。天井は高く壁にも床にも小さな電灯が瞬いている。出入り口は一か所だけだ。奥の床は切り取られたかのように失われ、球は床がないところを漂っていた。球がひとつ沈むたびにぽーんと虚ろに長い電子音が聞こえる。道を間違えて悪夢へ迷いこんだような超現実の光景だった。

「なんだ、あれ。あんなの日本にだってないぞ」

俺がしゃべり終わるか終らないかのうちに次の超展開が動いた。虚無の大穴手前、床がある一番奥で光が螺旋を描いた。細い白色光は意思を持ってかけめぐり、かろうじて人間らしい輪郭をかたどる。動くに動けない俺の前で人物は口を開けずに語りかけた。

(ようこそ。私の家へ)

懐かしい、よく知った声だった。