三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

宿命の影

響さんもまた俺が理解しているのを分かっていたのだろう。俺が落ち着いてスタッフを握りしめているのを当然のようだった。馬の足取りは緩やかでしっかりしていて、雲のように沸き立つ幻が踏まれて消えていく。予定調和のようだった。

20歩先で響さんは馬から降り、茶色の毛並みをもつ馬の腹を叩いた。馬は荒野へ行ってしまう。

「俺がここにいることもラスティアが教えたのか?」

普通の調子だったのに自分でも驚いた。いける。

「いや。ザリ・クロロロッドがバイザリムに戻るのを見ていた。あの人は一直線に走っていたから逆をたどった」

意外なところで足をすくわれた。ザリは思いつめたらどんなとっぴな行動でも迷わずする。そんな一本気なザリがまっすぐバイザリムに帰ることぐらい分かるべきだった。せめて一言こっそり戻れと言うべきだった。

目が痛くなるような朝日の中で響さんの表情は乏しい。きっと俺も同じ顔しているのだろう。

「バイザリムはどうだった」
「城は半分崩れて火神殿は燃えた。住民は右往左往で軍隊は立ち往生している。命令系統が滅茶苦茶になっている。便乗強盗が臨時の自衛集団に殺されていた」

響さんは暗い笑みを見せた。

「ラスティアに協力するからそうなる。あの男は周りに不幸しかもたらさない」

マドリームの災いを心から喜んでいるようだった。ラスティアとラスティアの累するもの全て憎しの心境らしい。

不幸しかもたらさない。その表現は俺にも当てはまった。俺も周囲に悪いことばかり振りまいている。ギンコを見ろ、巫女は俺たちが2回火神殿を訪れたせいで炎になって消滅するのを自ら選んだ。

俺の足元でイグアナが勝手に出現して勝手に消える。いつの間にか俺は緊張しきっていた。

「響さん」

口の中は乾いていた。

「俺たちと一緒にこないか」

響さんは止まった。

「一緒に行ってラスティアをなんとかしに行こう。イーザーもザリも歓迎する。キャロルはまあぶーたれるだろうけどどうしてもって言えば認める」

いざその時が目に浮かぶ。イーザーは珍しい日本の剣術に興味津々だろう。拝むように手合わせを願いかねない。逆にキャロルはすごく嫌がる。でもいずれなじんでいるのが当たり前のようになる。

「ミサスはいつも寝ているけどひとりで天変地異を引き起こせるような魔法使いだ。ラスティアとも対決したことがある。キャロルは優秀だしイーザーも強い」

ふと、これが現実なのか分からなくなってきた。魔荒野は虚無と真実が入り混じるところだ。これは現実なのだろうか、それとも幻なのだろうか。

「協力してギリスさんを助けるんだ。また会って話せるようにする。俺だって会いたい。挨拶をしてお礼を言って、そして友だちになる。みんなが仲良く、幸せに」

一緒に、幸せに。ずっとずっとこれからも。

当たり前のような、でも望んでたまらない未来。そうなるならどんなにいいだろう、どんなに。

響さんは少し笑った。悲しそうだった。

「駄目だ。そうしたらギリスは助けられない。俺は大谷君たちについて十分に知っている。だれがなにをできるか分かっている。だれもギリスを助けられない」
「そんなことない!」
「どうやって。どこにいるのか分からない、会ったこともない女の子を助けるんだ。ギリスはラスティアが押さえている、今ラスティアの目の前にいるのかもしれない。俺がラスティアを裏切れば、ラスティアは手を伸ばせてギリスを殺せる。その手をだれが止めるんだ?」

だれが。だれも。だれにも止められない。

「俺はギリスを守る。この国々、魔法や人外の世界で俺はずっと排斥されていた。言葉も使えないおかしな異界人は剣を手に取り追われた。自分が助かりたいから相手を殺して、金がないから食べ物を奪った」

どこかおかしな音節の日本語で響さんは答える。

「ギリスだけが俺を見捨てなかった。ただひとりだけ俺がいることに気づいた。だから俺はギリスを守りたい、ギリスだけは」
「……日本は?」

俺は確認する。

「帰る方法はまだ分からないけど、努力すればいつかは日本に戻れるかもしれない。そんな捨て身でいいのか。帰りたくないのか。両親や学校や、荷沢さんみたいな友だちは」
「もう帰れないよ」

響さんはとても落ち着いていた。

「帰りたいけど帰れない。俺はこの世界に馴染んだ。日本語も変になったし字は読めない。日本には盗人や人殺しのいていい場所はない。

もう染まった。言葉も文化も風習も倫理も。だから戻れない。この世界の住民になったから。どんなに嫌でもなじんでしまった」

それは俺にとっても同じだった。日本に戻れなくなって久しい。もう日本語の読み書きはできないのかもしれない。言葉は忘れていなくてもそれ以外のはどんどんこっちにある別のものに取って代わられていく。遠くなった故郷。

そうか。俺は分かった。

響さんは唯一、そんな部外者である俺の同朋なんだ。どっちの世界でもよそ者になった俺と同類。

話してみたい。日本のここが懐かしいとかカーリキリトのここがつまずいたとか話題は豊富にある。協力して日本の知識をもっと有効に使えるだろうし異文化について一緒に驚くこともできる。

仲良くなれるはずなのに、親友として手を取り合えたかもしれないのに。俺たちは敵として再開した。お互い牙を向き殺しあう相手だ。

「大谷君こそ、ラスティアを追うのを止めないのか」

思ってもみない点を問われた。

「ラスティアから聞いた。大谷君がやめるならラスティアも狙わない。ラスティアから戦いを吹っかけなくなる。戦わなくてもいい」

戦わなくてもいい、なんて甘美な誘いなんだろう。俺がラスティアを追わなければ殺されることがなくなる。響さんも自由になれる。

俺がラスティアについて調べていたのはフォロー千年王国でアットから頼まれたからだ。そして俺は立派に仕事をした。はるばるマドリームまで来てラスティアが何者か調べた。

もういいじゃないか。アットのお願いは果たした。フォローへ帰ってアットに今までのことを伝えて、それでおしまいにしよう。ラスティアのことは忘れるんだ。

それで悩みは万事解決、殺すの殺さないのもなしになる。アットだってここまでやったんだから文句は言わせない。ひょっとしてもっとやってくれと言われるかもしれないけど断ろう。アットは他の人に頼めばいい、俺さえやらなければそれでいい。

それでいい。それで終わる。

それでいいのか。

俺は闇の中に広がるクレイタを思い浮かべた。燃えさかる火神殿とマドリームが重なった。

たくさんの人が暮らし生きていた街が血に染まり炎に包まれた。俺はいくつもの街が滅びるのを見た。命からがら逃げて死ぬ気で走り、崩れる都市を後にしてきた。

滅ぼしたのはラスティアだ。

フォロゼスの城。ザリとミサスが会った千年王国の城で起きた出来事。

日本では俺を追い詰めるためだけに、日本にはいないゴブリンや幽霊を連れて暴れさせた。

ここまでのことをして、こんなにひどい真似をして見逃せというのか。先に仕掛けて今さらくるなというのか。

もしこの先諦めたとしても、アットはけして諦めないだろう。自分の城をつぶされたんだ。俺が行かなかったら別の人が派遣される。俺の代わりに会ったこともないその人をラスティアに向かわせて、未曽有の危機にさらしていいのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。

俺が旅をやめても俺以外の人はあきらめない。イーザーはそんな理由で引かない。ザリはそもそもアットの頼みを受けていない。自分の意志でラスティアを追うと決め、俺たちと一緒にいる。俺が行こうが行くまいが進むのをやめない。そんな友だちに背を向けられるのだろうか。今まで一緒にやってきた、さんざん世話になってきた仲間を裏切れるのか。

これまでの非道を見ないふりをして、友人を裏切ってまで諦める。見知らぬ人の悲鳴やたくさんの感情や、ウィロウたちの、今まで俺のために払ってきた多くの犠牲を踏みにじって。

だめだ。それはできない。やってはいけない。

俺は自分の決断を恐れて一歩後じさった。こんなことを考えるだなんて信じられない。おののいて目を見開いた俺の前に、朝日を浴びる響さんがいる。ラスティアを追うということは今この場で響さんと戦うということだ。自分でそんなことを選ぶだなんて現実とは思えない。

言葉が出ない。俺はいつまでもまごついた。響さんは動じなかった。

「今更大谷君も、なにもかも投げ出すわけにはいかない。決まっているだろう」

対話は途切れた。俺と響さんはどこまで行っても平行線でけして交わることがなかった。

いつの間にか震える手でスタッフを握りしめる。俺の乾いた手にすっかりなじんだはずの棒は、今日に限って重く冷たい。響さんも手慣れたように刀を抜いた。いつか日坂高校文化祭で模擬刀を手に主人公を演じていた。まだただの先輩後輩だった時。

こうして向かい合ってみるとよく分かる。響さんはかつて高校生だった時よりももっとずっと腕を上げた。刀は鋭さが増し、ただ立っているだけなのに圧倒された。

勝てるのか。俺だって前より腕は上がった。でも日本でなにもせず、カーリキリトでも守られていた俺と響さんとはまるで違う。勝てるのか。

「一対一か」

響さんの言う通り、今は俺もまたひとりだ。どんなに苦しくても負けそうになっても、今の俺に助けてくれる人はいない。不安で頼りないことでもある半面、後ろ冷たさを感じない喜びも混ざっていた。少なくとも俺がいだいている負い目のひとつはない。響さんがひとりであるように俺もひとりだ。

「一対一だ」

だれにも手出しはできない。邪魔は入らない。この戦いはどんなに不利であろうとも対等だった。

お互い黙り、どちらも動かなかった。

響さんの事情は分からないが俺が動かないのは立派な理由がある。響さんには隙がなかった。スタッフの届く範囲ぎりぎり外側にいる。俺の覚えている限りでは響さんの前でスタッフを振り回したことは一度もないはずなのにきちんと把握されている。

ぎりぎりにいるというのが小憎らしい。ひょっとしたら届くかもと期待してしまう。もしうかつにスタッフを振り回したらその瞬間切られる。日本刀で切られてみろ。ウィロウと違って柔らかい肌の俺は一太刀即大怪我、悪くて絶命だ。絶対に軽はずみなことはできない。

俺のできることは限られる。スタッフの利点は長いことだ。響さんの日本刀が届かない範囲から殴ることができる。

でも一回叩いたぐらいじゃ不安なのがスタッフの悪いところだ。剣で切られたら流血の大怪我だが、スタッフは運が良ければ青あざで済んでしまう。一撃必殺なんてスタッフでは夢見事だ。

もし響さんが肉を切らせて骨を断つ戦法を取るのなら勝ち目はない。一回殴ったぐらいでは止まらないだろうし詰め寄られたらどうしようもない。

足元で輪になったムカデが歩いていく。近寄らせないようにしないと。時が過ぎるごとに鋭くなる太陽の下で俺は必死に考えた。

相手を無力化する。キャロルから教わったことだ。教育通りにするなら俺が狙うのは手だ。響さんは両手で日本刀を構えている。片手で剣を持ちもう片手にバックラーを構えるイーザーとは違う。片手だけでいい、いくら響さんでも叩かれたら痛いはずだ。手を殴れば刀を落とすだろう。武器さえなければ怖くはない。少なくともそんなには。

作戦は決まった。後は実行するだけだ。

その実行がどうにもならない。確実に手甲へ一撃やらないといけないのに自信がない。行うは難しだ。一か八かと飛びかかるほど俺は勝負を投げていない。この際荒野の幻に当たって隙でもできないか。そんな理不尽な希望さえ抱いた。

隙を見せたのは俺だった。はるか遠くからの力強い蹄に俺は横目で岸の下を見る。ちょっとのつもりでも響さんから注意を離したことには変わりない。

「アキトォ!」

ザリと一緒に乗っているイーザーが叫ぶ。キャロルの姿はない、ブロッサムも。気にかけてはいられない。響さんは足を地からほとんど離さずに、滑るように俺による。くるな。

「イーザー、くるな!」

自分がこんなに偉そうなことを言えるなんて思わなかった。

「なに言っているんだ、馬鹿野郎!」

ザリ操る黒海がますます速度を上げるというのに、イーザーは半ば立ち上がる。案の定落馬しかけて慌てて捕まった。

本当。俺って馬鹿だ。なにしているのだろう。

「今行くっ!」

さすが黒海、朝もや立ちこめるように幻覚漂う魔荒野を一直線まで突っ切り、岸の上まであっという間に着いた。イーザーが転がるように降り、肩からぼやけるものが落ちたかと思うとキャロルの姿を取った。ブロッサムはいない。ミサスもいない。

外衣も荷物もバックラーもない、抜き身の剣だけのイーザーは泡を食って走る。

「こないでくれ、イーザー、みんなもだ」

俺の声は感情に乏しく淡々としていた。心配されているのはよく分かるけど、それをありがたがる余裕はない。

「アキト!」
「約束したんだ、手は出さないでくれ」
「なっ!」

イーザーの顔が苦痛にゆがんだ。正義感のイーザーにとって約束は守らなくてはいけないものだ、たとえ相手が響さんでも。

「馬鹿、勝てると思っているのか!?」

傷つくぞ、イーザー。

「分からない、でも俺がやらなきゃいけないんだ。そこで待っていてくれ」

イーザーは頬を赤くして歯がみして、そして「キャロル、止まれ」命じた。

「イーザーまでなにをするの。たわごとを真に受ける気?」
「真剣勝負だ、手を出すな」
「救いがたい馬鹿」

ひどい言葉だったがキャロルは従った。

自分でも思う。俺はなにをやっているんだろうな。でもやっぱりだれの手も借りたくない。騎士道とも武士道とも無縁の俺だけど、退いてはいけない時というのは絶対にある。

「意外だ」

響さんがもらした。もしかして今までかかってこなかったのは伏兵を警戒していたのかもしれない。

先に行ったのは俺だった。

踏みこみスタッフをしたから振り上げる。響さんは横へ避け走る。俺は退くように下がりいったん高く上げたスタッフを叩きおろした。響さんはその下をかいくぐるように左から右へ飛ぶ。

またかわされた! とっさに後ろへ二歩下がり、今更ながらに目の端に移る荒野への展望に恐れをなす。あまり大立ち回りを演じると落ちる。でもじっとして落ちる訳にはいかない。

響さんの斬撃がきた。

胴をなぐ鋭い一撃にスタッフを抱えるように引き戻してかろうじて止める。木の棒なのにもかかわらずスタッフは刀を完全に受け止めた。大きな傷ができる。

俺の方が止められなかった。細い日本刀にこめられた力によろける。身体が右へ寄り、両足を広げて腰を落とす。それでようやく転ばず踏みとどまれた。

続けざまに刀を正面頭上へと振り上げる。俺は身体をひねってスタッフを上げた。先を左手で支え、刃を受け止めようとする。

刀は上からこなかった。そのまま振り下ろされるかと思っていたのに両手が脇へ動く。刀が反回転して横に寝て、俺ののど元めがけて突き出される。

頭上への一撃は牽制だった。俺はまんまと騙された。重くて長いスタッフは小回りが利かない。引き戻せない。

負けた。

「アキトオオオ!」

響さんの片腕が弾け苦痛の呻きがもれた。俺の首を貫くはずだった必殺の刀がそれ、あさっての虚空を大雑把になぐ。白い石が落ちた。

「うわああああ!」

キャロル。

百発百中の投石術を持つキャロルは獣じみた叫びをあげた。腰に脇差のように差してあった小刀を抜き、片手に逆手で構えて。

「くっ」

響さんは踏みとどまり、指先が白くなるほど強く刀を握る。

キャロルが大げさな動作で小刀を横へなぎ、日本刀と交差する。

小刀が負けた。初めから勝負にならない戦いだった。小刀はキャロルの手からはじき飛び弧を描いて岸の向こうへ飛んでいく。

キャロルは止まらない。響さんは刀にこめた力を動かし、キャロルの首筋頸動脈めがける。

キャロルは左へ仰け反った。きらめく白銀の刃はかろうじてキャロルの首横を駆けあがり頬真横を削り。

耳を捕えた。獣人であることの何よりの証明、人間とは全く違う大きな耳を。

血がほとばしり灰色の髪を染めた。顔右半分が紅に満ちる。キャロルはしわがれた、すさまじい痛みへの悲鳴を上げた。

武器を失い右耳を失ってもキャロルの足は止まらなかった。身をよじり肩から響さんにぶつかる。身を捨てた体当たりを響さんはまともに受けた。

2人が転ぼうとした先は岸の向こう側だった。

声が出なかった。なにかを張り上げようとしても喉がからっぽで空気が通っていた。

俺は握りしめていたスタッフを突き出した。スタッフは2人の横をすり抜ける。

キャロルのしっぽがからみついた。スタッフの先に人ひとりの重さが加わり俺は膝をついて押さえつける。全体重をかけてスタッフを踏みしめながら顔を上げる。

キャロルは俺が助けた。では響さんは?

響さんはだれが助けるんだ?

スタッフの支えでかろうじてキャロルは踏みとどまる。足爪が大地を引っ掻いた。

そして。

人影が走った。俺を駆け抜けキャロルをすり抜け。響さんへ手を伸ばす。

知らない子だった。俺と同じぐらいの女の子。ほつれた服、汚い恰好の泣きそうな顔の子。ちらちら燐光に包まれた魔荒野の幻は、まるで本物であるかのようだった。

驚きを顔に張りつけた響さんへすがるように飛びこむ。

「ギリス」

響さんは目を閉じる。

一瞬とても優しい表情になって。

落ちた。

短い落下だった。姿がかき消え次の瞬間腹まで届き心臓を揺さぶる震動がこだました。

岸にへばりつきよじ登り、やっと俺のスタッフからしっぽを放したキャロルは岸の下へのぞきこむ。

「よし」

満足そうだった。