三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

決闘

今から考えればミサスの驚きがよく分かる。

本を読んで盗みに入って、やっと分かったとんでもない陰謀。一大事と戻ってみたらだれもいず、俺の机には書置きが一枚。

頭のいいミサスのことだ、手紙を読んだ途端何十通りの悪い想像が駆け巡っただろう。手紙は本物か、本物だとしたら俺はなんのつもりでどこへ行ったのか。偽物だとしたらだれが手紙を書いて俺を連れさったのか。本当に俺が書いたとしても強制されたのかもしれないし、心変り自体だれかの企みが潜んでいたかもしれない。

俺はともかく、他のだれもいないのはなぜか。俺を連れ戻しに行ったのかもしれないしついていったとも考えられる。別の事件に巻きこまれたのかもしれない。可能性は無限大で、しかもそれは3人分。

今すぐ伝えなくてはいけないことがあるのに全員失踪、ミサスが抱いた苦悩はすごいだろう。しかも国王がラスティアと共謀している以上マドリームへ捜索協力することはできない。ひとりででもミサスのような目立つ外見で4人の人探しを至急内密に行うなんて無理だ。

どうしようもない事態にひょっこり全員帰ってきた。いくらミサスだって安心するし一言言わずにはいられない。むしろミサスだからこんな落ち着いた反応だったのであって、俺だったら人目憚らず大騒ぎして城全住民をたたき起こしていただろう。つくづく申し訳ない。

「どうしよう」

俺はそれしか言えなかった。

「どうするもなにも、ミサスとミサスが起こした行動。どれだけの人間が気付いた? 何人ミサスの行動を知っている?」
「俺はひそまない」

キャロルは攻撃的かつ乱暴な悪態をついた。気持ちは分かるが落ち着け。

「明日には城中に伝わっていそうね。どこぞの黒翼族が影踊りと戦って署名文を強奪したって。言い訳のしようがないわ。マドリーム全軍がなだれこむ前に逃げよう」
「今か」
「当たり前でしょう!」

運のいいことに俺たちは即出奔できるように荷物をまとめている。俺のほめられない行為が原因だ。

「どこに行くんだ」
「東。馬で一日も行けばミーディア山脈、越えればエアーム帝国領に行ける。他国に行けばマドリームも無茶はできまい。エアーム竜帝国は大国だ、一番攻めにくい」
「待て、行く前にやることがある」
「なに」

キャロルは言外に下らないことを言ったら蹴飛ばすとにじませていた。

「ブロッサムだ。どうするんだよ、敵陣の真っただ中にいて、しかもそのこと知らないんだぞ。俺たちがいなくなったら行き先知っているんじゃないかって疑われる。問い詰められるくらいならともかく、拷問で行き先教えろって責められたらどうする」

俺は小さく声を上げた。すっかり忘れていた。

「ブロッサムは身を隠さないと。隠せないなら一緒に連れていく。巻きこまれて怒るだろうけどしょうがない。命には代えられない」
「道理は通っている」

キャロルは気が進まなそうだが渋々認めた。

ブロッサムもまた十分巻きこまれている。本人はなにひとつ知らないけど、そんなこと言っても絶対に通らない。俺たちが姿を消したライーザーの想像以上にひどいことになる。

「イーザーの言う通りだ、ブロッサムも一緒に行こう。マドリーム国内にいるのは危ない」
「時間はないわよ、分かっている?」
「分かっている、すぐ迎えに行く」
「俺も行く」

キャロルはいかがわしそうに俺とイーザーを交互に見るが、「ブロッサムと友だちなのはアキトたちだけだからね。あたしらは一回会っただけだしミサスはそれすらない。そしてひとりで行かせられない」

納得したけどキャロルは不安を隠さなかった。俺は思わず身を乗り出す。

「すぐ戻るから」
「当たり前でしょう。あたしたちは支度をしている。食料を台所から盗んでこなきゃ」

身近で現実的な心配をしていた。俺たちの身の心配もしているよな、そうだよな。

「早く行くぞ」

イーザーはキャロルをろくに見ずに俺の腕を引く。引きずられて俺は部屋から出た。


夜の廊下を行くのは今日で3回目だ。初めはここを出たい一心で、帰りは静かな受け入れ。そして今はなるべく早く、でも見つからないように走った。心はミサスが暴露した企みで人間不信に陥りかけていたし、自分の足音イーザーの呼吸ひとつにも怖がるありさまだった。できれば立ち止まってじっくり今の出来事を整理して落ち着きたい。なのに状況とイーザーは待ってくれない。

「イーザー、どこから出るつもりだ。門は昼でも夜でも見張りがいるだろ。なんて言って通してもらう気だ」
「そんなことするかよ。キャロルの手を借りる。馬小屋へ出るぞ。あそこは外に近いし馬を出したり餌を運びこんだりで勝手用の門がある。鍵は内側から開けられる」
「そこから出るのか。キャロルもその予定だったんだな」

ついさっきイーザーに殴られた庭を通って、裏門にしてはかなり大きい扉のかんぬきを開けた。そっと出ようとすると若い男が柱にもたれかかっていた。驚いて凍りつくが、俺と同じくらいの兵士は身じろぎしない。よく見ると大口開けて寝ていた。

「なにしているんだ、起こすなよ」
「ひ、人がいるだなんて思わなかったんだよ。寝ているのか、俺たちすごく運がいいな」
「知らなかったのか? 俺はキャロルを待っていたときから分かっていたぞ。キャロルが一服持ったんだよ」
「どうしてキャロルが薬を飲ませたって分かったんだ?」
「キャロルのことだ、やりかねない。調べてみたらザリの催眠薬が減っていたしな」

盗んだのか。確かに分けてもらえるはずもないし、交渉しようとしてもなんで必要なのか説明できない。でも泥棒をするなよ。それに薬を使うのは専門家の知識が必要なんだぞ。ぐっすり夢の中にいる男に副作用が出ないことを祈りながらキャロルの手柄だけを横取りした。こっそり外へ出る。

息が白い。じっとしていると冷気が全身にしみこんでいてもたってもいられなくなる。夜のバイザリムは暗い。足元はもちろん建物の壁も、自分の手足も見えない。イーザーは夜が暗いことをちゃんと知っていたのだろう、腰にくくりつけている角灯はまだ灯が消えていず、掲げていると意外なほど明るかった。

「アキトのカイチュウデントウは便利だったな。明るくて軽くて熱くもなかった」
「ああ、でも今はミリザムの底。しょうがないよ、いつかは電池が切れたんだし」
「デンチ?

なんだそれ」
「懐中電灯の動力」
「燃料か」
「そうそう」電池を燃料というのはかなり変だったが、細かいことを説明できる気がしなかったのでごまかした。

イーザーはまだ一回しかブロッサムの住む火神殿に行ったことがないはずなのに、しっかり道を覚えていた。あんなに賑やかだったとおりは今俺たちしか歩いていず、静けさが肌に痛い。角を曲がるたびにマドリームの兵士が出てきて尋問されるんじゃないかと、俺は服の上から心臓をもみほぐした。

ブロッサムがいる火神殿は本神殿に比べて小さかったが、それでも目の前にすればかなりの大きさで手に汗をかく。正面の門は固く閉ざされていた。

「裏口はあるのかな」
「あるに決まっているだろ、どこだ」

神殿の壁を回るとすぐに小さな扉を見つけた。城ではないので見張りはないし、運のいいことに鍵もかかっていない。角灯を掲げたままそっと中へ入った。

「人に見られてたら間違いなく泥棒に見られるよな、言い訳しようがない」
「言い訳するはめになりたくなかったら静かにしろ。ブロッサムはどこだ」

どこだろう。俺たちは部屋に押しかけられたことはあっても押しかけたことはない。うっかり違う部屋に入るのは具合が悪いし、大勢の人が生活している神殿を不用意に歩いたら望んでいなくてもそうなりそうだ。

「ブロッサムは下っ端なんだから、部屋も一番悪いのを与えられているはずだ。きっと台所の横だよ」
「ギンコの手伝いなんだからギンコの隣じゃないか? 一番大きい部屋の横だ」

意見が分かれた。俺が正しいと思う半面、イーザーのが合っている気もする。

「そもそもブロッサムが個室でなかったらどうする。2人部屋とか6人部屋とか。ありえるよな」
「アキト、お前嫌なことを言うな」

言いつつもイーザーは俺の正しさを認めている。もしブロッサムが相室だったらひっそり呼び出すなんてどだい無理になる。イーザーは難しい顔で考え「戻ろう」と宣言した。

「え、諦めて帰るのか?」
「そんなわけないだろ。こうするんだ。正門へ戻って堂々と入りブロッサムを緊急の用で呼び出すんだ」
「ここの人にばれないか?」
「ばれるし多少は怪しまれるだろうけど、いいんだよそんなのは。大事なのは一刻も早くブロッサムを連れ出すことだ。少しぐらいおかしいと思われてもいい」
「なんて言い訳をするんだ」
「だれかに急病になってもらう。アルかアットか、いっそ両方ってのもいいな」

なんのために裏口を見つけたのか。そそくさと出て正面から入り直した。堂々と行くと決めたらイーザーは少しも隠れたり潜んだりしようとはしなかった。ご近所に迷惑をかけない程度に、でもかなり大きい音を立てて入った。

「!?」

火の神殿だけあって礼拝堂にはかがり火がたかれていて、広いお堂がますます広く、かえって暗く寒く感じた。

運は俺たちについていた。礼拝堂にはブロッサムひとりがいた。長椅子に座り、祈るでもなしにぼんやり視線をさまよわせていた。俺たちの乱入で生気を突如取り戻し、幽霊でも見るような顔で立ちあがった。

「イーザー? くるなって言ったでしょう!」
「そんなこと言ってられない。ここを出ろ、逃げるぞ!」
「はっ?」

ブロッサムの反応はしょうがないものだったが、俺には苛立たしかった。

「逃げるって?」
「俺たちマドリームから狙われていたんだ、逃げるからブロッサムもこい」
「なんであたしも? イーザーひとりで逃げたら?」
「ここにいるとブロッサムも危ないんだよ。一緒にこい」
「いやだ。なにしたのか知らないけどあたしはギンコさまと離れる気はないし神殿を出るつもりもない。適当に行って。あたし知らぬ存ぜぬで通すから」
「そんなことラスティアに通じるか!」
「なんで怒っているのよ。いきなりきて訳の分からないこと言って。あたしはもう前みたいな放浪の修行者じゃない。神殿仕えの身なんだから変なこと言わないでよ」

ブロッサムは冷ややかさを隠そうともしなかった。興奮しているイーザーを遮り、なんとか理性的に説得しようとする。

「あのなブロッサム、俺はアットに頼まれてラスティアを追っているんだけど、ラスティアの方も俺たちをなんとかしようとたくらんでいるんだ。ラスティアはマドリーム国王をたらしこんで俺たちをバイザリムから出さないようにした。俺たち今から逃げるんだけど、アットやイーザーと仲のいいブロッサムがひとり残ったら危ないと思ってさ、誘いにきたんだ。逃げよう」

我ながらかなりいい説明だと思ったのに、ブロッサムは胡散臭さを増しただけだった。

「なにそれ、アキト正気?」
「間違いなく正気だよ、それで本当のことなんだよ」

俺は歯がゆさに身もだえした。こんなことならミサスから署名書を借りてくればよかった。きっとミサスはキャロルとこの手の問答をするのが嫌でわざわざ王宮奥にまで強奪しに行ったんだろうな。

「アキトの言っていることは本当だよ。ギンコがどう神殿の地位がどうなんて言える余裕はないんだ。死にたくなければくるんだ」

イーザーはしびれを切らせて手を伸ばし、ブロッサムの肩をつかもうとした。それがまずかった。「なにするのよっ!」手を振り払い、逆にイーザーの腕をつかんで殴ろうとした。

「やめろ!」
「手を出すなら黙ってない!」

たちまちもみ合いになった。そんなことしてもお互い不利になるだけなのに、頭に血が上っている。止めさせたいのはやまやまだけど、どう止めたらいいのか分からない。下手に手を出したら俺も巻きこまれるよな。でも遠くで困っているだけでは絶対に止めない。

扉が開いた。乱闘騒ぎを聞きつけられてだれか目を覚ましたのか? 出てきた神官は、白い鎧兜を身につけてたいまつを手に剣を腰に差していた。ひとりふたりではない、神殿中の神官が出てきたのではないかと思うほど人数は多い。驚く俺たちを囲み、戦士が正面にかんぬきをかける。あっけにとられている間に閉じこめられた。

「ウルイ様」

ブロッサムは慌ててひときわ立派な兜の男へ向かった。

「すみません、今いきなり昔の友がきまして、少し話していました」
「ブロッサム!」

イーザーが走りブロッサムへをつかんで後ろへ引っ張る。ウルイが剣を抜いてブロッサムへ向けたからだ。たった今までブロッサムがいたところの鼻先あたりに剣の切っ先がくる。ブロッサムを切ろうとしたのではなさそうだが、味方のやる行動ではない。

「えっ?」
「よくやった、ブロッサム」

ウルイは冷ややかにブロッサムをほめた。

「お前はじっとしていろ。その2人を捕えろ」

二言目は周囲の神官たちへ向けていた。武装した男が手際よく俺の両肩をつかんでがっちり押さえる。「なにする!」イーザーは暴れて抵抗したが、数の暴力で剣を抜く間もなく3人がかりで床にはいつくばらせられた。ブロッサムは放っておかれている。

「ブロッサム、逃げろ!」

イーザーは叫び、顔を床に押しつけられた。

「なにをするんですか!」

ブロッサムは逃げなかった。逃げずに上司に牙をむく。

「イーザーはあたしの友だちなんですよ、放してください!」
「ラスティアの予知通りだ、驚いたな」

人が入ってきたときより取り押さえられた時より、ラスティアの名が出て心が凍りついた。

「ラスティア? だれですかそれ」
「マドリームの救世主だそうだ。このものたち、異界の一行は逃げだす間際にブロッサムと接触する。あの能力は本物なんだな、信じがたいが」

やられた。ウルイが首をかしげ、事情を少しづつ飲みこんでいるブロッサムの頬が徐々に赤くなっていくのを自分でも奇妙なほど落ち着いて見ていた。

きっと全部が明らかになった時、ブロッサムを置いていけないのをラスティアは見抜いてブロッサムの周囲で待ち伏せしていたんだ。イーザーの性格を考えれば、いやイーザーでなくても普通の人なら敵陣にかつての仲間を放っておけない。そこを突かれた。

「あたしを利用したのか」
「人聞きの悪いことを言うな。なんのために無教養で粗野な子供を遠くフォローから拾ったと思っている。ラスティアの命令で神殿の一員になれたのだ、これからもいさせてやるからおとなしくしろ」

聞き捨てなれない。野蛮人を諭すような言葉が本当だとすると、ラスティアの支配はいつから、いったいどれだけ深く根付いているんだ。

凶暴な叫びが礼拝堂に響いたかと思うとブロッサムがウルイへ飛びかかった。

「やめろブロッサム!」

ウルイは大人数で完全武装なのにブロッサムは素手でひとりだ。しかもきついことを言われてただでさえ切れがちの理性が消し飛んでいる。止めようとしたくても両腕をつかまれている。

ウルイと共に床へ転がる。手加減なしでブロッサムは相手の顔面を2発殴り、3発目で暴走を止められた。ウルイの上から力ずくで引きずりおろされ、なお暴れようとするブロッサムの首筋に剣が5本突きつけられた。

「アキト! アキト?」

外からの扉が叩かれザリの悲鳴がした。もちろんかんぬきがきしんだだけで開こうともしない。

「ザリ、なんでここに!?」
「仲間だ、外の女を黙らせろ!」

ウルイは血まみれの顔を押さえながら立ち上がった。

「よせっ、ザリになにをする気だ」
「この、災厄どもめ!」

ウルイは剣を握りしめる。怒り狂ったブロッサムを見る。

「ブロッサム!」

イーザーがもがくけど立ち上がれない。ブロッサムは怒りと軽蔑を隠そうともせずに、堂々とウルイをにらんでいる。

やめろっ。

「ウルイ」

この場にそぐわない、年を重ねた呼びかけが神殿を制した。

暗い廊下を背にし、老巫女が静かに立っていた。

「ギンコ」
「ギンコさま!」

暗い廊下を背にし、老巫女が静かに立っていた。炎のような真紅の法衣を身にまとい、大勢の殺気だった人々にも負けない、堂々とした姿だった。

「ギンコさま、なぜここに! これから血で神殿を汚すのです、去ってください!」
「ギンコ! こいつらにお前も手を出していたのか、お前もブロッサムを騙したのか!」

ウルイの疑問よりイーザーの弾劾に、ゆっくりギンコは頷いた。

「そうよイーザー。私もまた神子ラスティアに従っている。アキト・オオタニを初めとする一行をマドリームで食い止め、なんとしてもエアーム竜帝国に、ひいてはアザーオロム山脈に行かせてはならない。そのために遠いフォロー千年王国からブロッサムを連れてきた」

ブロッサムの表情が崩れた。「嘘」急に力が抜けうなだれる。心底尊敬していた巫女から直接聞かされたんだ、怒る力もなく黙って涙を浮かべた。

「でもイーザー、私はずっと考えていたの」
「なにをだよ、この、よくも騙しやがったな!」

ギンコは落ち着き払っていた。

「大っぴらにラスティアに異を唱える者はマドリームを出た。そうでなくてもラスティアには逆らうことのできない力がある。精霊使いは理性より感情で動く、ラスティアに立ち向かうなんて考えられない」

ギンコの立ち姿からちらちら明かりがもれた。

「私は見極めないといけなかった。なにがラスティアに力を与えたのか、なぜアキトと戦っているのか。今―― なにが起こっているのか」

明かりの正体は松明や角灯ではなく、ギンコの身体自身からもれているのだと気づいた。

「私なりに推論を重ねて、やっと答えらしきものを見つけた。やるべきことも。

ラスティアは恐ろしい。かつて愛しい子どもだったラスティアが今はなによりも恐ろしい。自分の身も惜しい。浅ましいことだ、こんなに長く生きたというのに」

「ギンコさま」

ブロッサムが顔を上げる。今やだれが見ても分かるほどまぶしく熱い。でもなにが起きているのかはだれも分かっていない。

「決めたのはもうひとりの愛し子、ブロッサムだった。一途で熱心で血の気が多い私の弟子。なにもしないでいたら愛し子が危ない。ラスティアは足元の些細なことに気を配る子ではない。無造作に踏みつぶす」
「ギンコ?」
「ギンコさま!」

赤の法衣が膨れ上がり、ギンコの枝のような腕の光が白熱して燃え上がる。俺はいつの間にか汗をかいていた。

「イーザー・ハルク。心優しく勇ましい死命の剣。私の予言を無視して、危険を承知の上でブロッサムのためにきた。だから私もイーザーを見習おう。孫ほど年の離れた子に教わるなんて恥ずかしいことだけど、まだ取り返しがついた」

ギンコは燃えていた。指が髪が耳が、光は灼熱の炎となって肌を焼いて神像をゆがませる。ザリが扉をたたく音が一段と激しくなったが神官も俺も構っていられなかった。冷静なのはギンコだけだった。自分が発火しているというのに。

「ギンコさまぁ!」

剣先を向けられたままブロッサムが叫ぶ。ギンコは目を閉じ、全身が炎に包まれた。紅蓮の熱風は膨れ上がり、熱でステンドグラスが割れ粉々になって礼拝堂に降りそそいだ。

「うわぁぁぁ!」

絶叫がステンドグラスの破片に反射する。かつてギンコだった炎はブロッサムを囲んでいる神官へ、イーザーを押さえている神官へ、まるで俺たちの味方をするように荒れ狂った。

「よくもおお!」
「ブロッサム!」

狂気にも似た怒りを浮かべ、ブロッサムは絶対的多数である神官へ襲いかかる。押さえていたはずの剣はすでに向いていない。ウルイへ走り、岩でも砕きそうな勢いで鼻っ面を殴った。

拘束から自由になるとすかさずイーザーは跳ね上がり剣を抜いた。ブロッサムの無防備な背中へ向けられようとした剣をバックラーで受け止める。木製の盾は大きく傷つく。

「無茶をするな!」
「イーザー手伝え! こいつら、こいつら皆殺しにしてやる!」

いまや燃えさかる神殿の中、古い友人たちは昔に返ったかのように息を合わせた。ブロッサムは身軽で柔らかい動きなのに、鎧のない顔や首へとぶつける拳は一撃で神官たちをなぎ倒し昏睡させる。背後をイーザーが守り、明らかに不利で劣勢で、どう考えても人数で押し切られるに決まっているのに持ちこたえる。

俺だって。手を振り払い人のいない長椅子への間へと逃げようとした。

「待て!」

神官が剣を手に追う。最初の一刀はスタッフで受ける。熱風で汗が止まらず目に入りそうで怖い。二刀目を受けるには俺の技量が足りなかった。スタッフで止めはしたもののよろめく。足場は最悪だった、椅子の足につまづいて後ろにしりもちをつく。

「アキト!」

イーザーがかけ寄ろうとするが、すかさず目前の戦士に切りかかられた。とっさに受けるも、バックラーが耐えきれなかった。イーザーの腕から四散して落ちる。三刀目が降りあげられる。俺に避ける方法はない。

扉が砕けた。蝶番が弾けかんぬきが木っ端みじんになり、火竜神を模した像が胸からひびが入りばらばらに爆発する。外から凍りつくような冷気が流れこむ。

「アキト!」
「ザリ!」

黒海に乗ったままザリが飛びこむ。肩にはアーバレスト、壁も砕くお化け石弓が支えられていた。弓はあっても矢がない。たった今鍵代わりに使ったからだ。

「ザリ、アキトを!」

なぜここにいるのかとか、イーザーは余計なことは一切言わなかった。ザリも質問せずに馬頭をめぐらせ俺へ走った。神官たちはだれも邪魔をしようとしない。あまりの突然な出来事と、そもそも普通よりはるかに巨大な馬の前に飛び出して突撃を止めようとする命知らずはいない。

黒海は荒れ狂う炎も倒れた椅子も砕けた神像も恐れず走る、ザリも落ちるかと思うほど身を乗り出して腕を伸ばした。俺はよろめきながら立つ。強い力で引き上げられ、俺は馬上に押しつけられた。

「イーザー!」
「俺もブロッサムもいい。ザリ、行け!」
「……後で迎えるからねっ」

風が巡ったかと思うと、俺の頬は冷たい空気に触れる。狂乱の騒ぎは聞こえなくなり、燃えさかる天井の代わりに限界ない空が見える。

外だ。

「安全なところまで行くから、少しだけ我慢してね。飛ばすわよ」

ザリは俺にろくに注意を払わず、さらに黒海を走らせた。抱きかかえられているだけの俺は落ちそうになって焦る。黒海の速さはまるで自動車のようだった。落ちたら命がない。かろじて俺が恐慌に陥らなかったのはザリが冷静そのものだったからだ。

「ザリ、ちょっと待った、落ちる! せめて乗り直させてくれ」
「駄目よ、バイザリムを抜けないと」

落ち着いた表情を炎が照らす。爆発音、振り返ることのできない背後で崩れる音がした。

「火神殿が!」

まだイーザーがいるのに。

「違うわ、落ち着いて、動かないで!」
「違うって、ならどこだよ!」
「城よ」

言われるまま見上げると、バイザリム城の左端から炎が噴き出している。暗くて分かりにくいが一部が欠けている。

「城まで? どうして、火神殿の飛び火か?」
「ミサスよ」

ザリは言いたくないことを言うように口が重かった。

「なんでミサスが城を」
「イーザーとアキトが行ってから気がついたの。ブロッサムとギンコはこのためにマドリームにいるのかもしれないって。たとえ逃げ出さなくてもイーザーなら一言声をかける。わたしたちが出ていく時を知らせるためにいるのではないかって」
「うん、そうだった」
「わたしたちは出ていかないといけない。ラスティアの思惑に乗る訳にはいかない。マドリームがそのことを知ったらなにがなんでも引きとめるはず。殺してでも」

実際俺たちはギンコの助けとザリの乱入がなかったら生きていなかった。

「でも、それとミサスが城を壊すのとどういう関係があるんだ! ただじゃ済まないぞ、なんでザリ止めなかったんだよ」
「止めたかったわよ!」

泣き声だった。

「そんな危ない真似、たったひとりでなんてさせたくなかった。でもちゃんと理由があるの、行かせざるをえなかった」
「理由?」
「わたしたちが今すぐ、全員逃げるためになにか大きなことを起こすのが一番いい。国中全員の目を釘付けにしてわたしたちどころじゃなくなるようなことを。だからミサスは派手に暴れているの。キャロルも行ったわ、地味だけどミサス以上に致命的なことをするってね。わたしは伝令兼迎え。このことを伝えて一刻も早く逃げないといけないって」

ザリはうめいた。

「遅かったわね。できる限り飛ばしたのだけど」
「そんなことない、すごくいい時にきてくれた」

ザリが飛ばしたというのだったら、それは俺たちの持っている手段の中で一番早かったのだろう。

「遅かったわ。本当なら全員連れて行きたかった」

周囲の景色が流れるように変化した。ザリは一瞬止まって振り返る。もうすでに郊外と言っていいような場所まで辿りついていた。冷たい風にむせながら城を見る。かつて俺たちが過ごしていたバイザリム城は闇の中赤く輝いている。燃えているんだ。ただの小火なのか、焼け落ちそうなほど激しい火災なのかは分からない。ザリが再び前を向いて、たちまち城は遠ざかった。

空には月がかかり、この先行く荒野をかろうじてかろうじて照らしていた。足元が見えないのにザリは迷わず黒海を走らせ続ける。黒海の筋肉がうねるのを体感しながら、こんな時だというのに俺はふと夜の海を進んでいる気がした。うねりのない海を静かに船が行く。俺たち以外人はいず、暗すぎて周りになにあるのか分からない。そんな夜だから余計にそう感じた。

「だから黒海って名前なんだ」
「そう」

俺の考えていることは全て分かるとばかりに肯定した。

「その時のわたしは海を見たことがなかったのだけど、黒海と走ると草原全てが海だと思う時があった。だから黒海。遮るものなにもない夜の海原」
「ザリ?」

俺は顔を向けた。

「泣いているのか」

こんな飛ぶような速さで走っているから、泣いているだなんて思いもしなかった。

「ごめん、大変な時なのにこんなこと聞いて」
「違う、アキトのせいじゃない」

拍子抜けした。

「なんで泣いているんだ。イーザーかミサスか」
「ギンコさまは炎化を使ったのでしょう」

炎化? 聞きなれない言葉だ。

「炎化がどういうものかは知らないけど、目の前で燃え上がった。火はあちこちに燃え広がった。あれは炎の精霊術か」
「そう。高位の術で自分の使う精霊そのものに姿を変える。精霊によってそう難しくないのもあれば最難関の術にもなる」
「火の精霊になるのは難しいのか?」

俺の見る限り難しそうではなかった。

「アキト、全ての精霊化に言えることだけど、変化は『なる』ことより『戻る』ことの方がずっと難しいのよ。形を崩すのは一瞬でも再構築には長い時間がかかる」

馬上でザリの声はよく聞こえた。

「炎化は自分の精神力を炎に変えること。高齢の、もう力ない巫女がそんなことをしたら、自分の生きる力まで使いはたしてしまう。戻る力はない、炎のまま消えてしまう」

ギンコの覚悟が、ブロッサムの嘆きが、ザリの苦悩がようやく理解できた。

「なんで、だったらギンコは命をかけて炎になったのか? そこまでして俺たちを助けたのか? なんで」

そこまでして。俺は今更ながらに呆けた。死を覚悟でかばわれた。

「ラスティア」

ザリがうなだれた。

「わたしたちを追いつめて、ここまでしてなにをしたいの。あなたはわたしたちへなにを望むの?」

うめき声も命の炎も、荒野の海にのみこまれ消えた。


黒海の背に乗って飛ぶように進みながら俺はずっと考えていた。

仲間のこと、マドリームのこと、そしてラスティアについて。

もしラスティアが予知能力者だったら、どこまで分かっているのだろう。ブロッサムに会いに行ったところか、火神殿から逃げるところか、ザリに連れられて凍える荒野を突っ切っているところまでも分かっているのだろうか。

そこまで分かっているのだとしたら、ラスティアは次にどんな手を打つだろうか。

「ここ!」

ザリは急に止まった。黒海が高らかに鳴いて前足を宙に浮かせ、俺は投げ出されそうになった。

「降りて、少し待っていて」

降ろされたのは荒野の端、とげだらけの低木の他にはなにもないところだった。小高い山へ向かう途中、三合目ぐらいで切り立つ岸から荒野がよく見えた。

「ミーディア山を越えたらエアーム竜帝国、ふもとにクラシュムという街があるそうよ。わたしは戻ってイーザーを迎えに行くわ、ここで待っていて」
「うん」
「見晴らしがいいわね。だれかがきてもすぐ分かる。もしマドリーム兵がきても隠れられる」

確かに。家はないけれど岩しかない荒野とは違って低木は所々に生えている。潜れば痛そうだが、人目をごまかせる。ザリは心配そうに俺をのぞきこんだ。

「ひとりでも、大丈夫?」
「平気だ」

嘘をついた。あらかじめ心の準備をすれば俺でも立派な嘘がつける。

「……夜明けは近い。気をつけてね」

不安をぬぐいきれなかったようだが、それでも黒海にまたがり走った。俺を乗せていた時と比べて格段の速さで、やっぱり俺は重かったんだと認識する。

崖っぷちにしゃがみこんで赤い背中をぼんやり見つめた。去っていくのが遠くからでも見える。ミサスみたいに羽根はないんだし、近づきすぎて落ちるのは馬鹿げている。後ずさった。

予想通り俺はひとりきりになった。

ザリが俺にずっとつきそわないだろうとは思っていた。後で迎えると叫んだんだ、俺を置いてまた戦場へと向かうだろう。ザリは絶対気は進まないだろうが、イーザーを見捨てられる訳がない。

俺がここにひとりきりになる、そこまでラスティアが分かっていたらどうするだろうか。無防備にも孤独な俺を狙うだろう。今まで俺が無事だったのは助けてくれるだれかがいつも近くにいたからだ。今の俺をひねりつぶすなんて朝飯前だ。

どんな手段を取るだろうか。ウィロウの時みたいに化け物を呼びだすか。あれはウラスの道士が封印された瞬間消えてしまった。もう出ないだろう。

ザリが警告したようにマドリームの軍人がくるか。荒野を埋めつくす大群でなくても、一握りの人だけでどうにかできるはずだ。くるだろうか。

今この瞬間にもミサスがおとりとして破壊行動にいそしんでいる。人目と人手をミサスへ集中させるため、とんでもなく派手なことをしているんだ。引っかからない人がいるだろうか、仮にいるとしても自分の国が燃えて、なにがなんだか分からないほど混乱しているのにきちんと命令を聞く兵士がいるのだろうか。俺には分からない。

選択肢を丁寧に潰して、やがて当たり前の結論にたどりついた。

くるとしたら響さんだ。響さんならマドリームが燃えても俺と同じくらいにしか気にならないだろうし、俺と戦ってもまず負けない。イーザーと互角に戦える人が俺に負けるとはちょっと思えない。

そして響さんが俺と対決できるのは今をおいてもうない。改めてキャロルと合流したら、みんなは万全の対策を持って周囲への警戒をするだろう。響さんが手出しできないくらい。

響さんが俺と戦うよう命令を受けたら、今を狙う。俺だったらそうする。

いつの間にか真正面の空が藍から暁色に変わっていた。足元をゲジゲジにトンボの羽が生えたようなけったいな生き物が飛んで俺をすり抜けていく。魔荒野の幻覚だ。こんな端までうろついているんだ、ザリが迷子にならなければいいけど。

響さんがくる。くる可能性が高い。俺は自分の考えに胸をつまらせた。まだ覚悟ができていない。

分かっていたのならザリにいてもらえばよかったのに。心のどこかがささやく。自分の安全という点から考えればその通りだ。一対一で負けても二対一なら簡単にはいかない。いくらザリが戦士でないと言ってもいてもらえば勝ち目はある。

俺はそうしなかった。理由は俺の方にある、もう一度響さんと話してみたかったからだ。ミリザムとは違い俺はくることが分かっている。前よりは冷静に話せるはずだ。

それだけが目的だったらザリに低木の中隠れてもらえばよかったのかもしれない。どうしてもと言ったらザリは邪魔をしない。きっと会話をさせてくれる。でも俺はよしとしなかった。それはどう考えても不公平だ。俺は今以上に負い目を持って響さんと話したくはない。

地面から紫色の二葉が芽を出し、ゆがんだ蔦を伸ばし不気味な花を咲かせ茶色に干からびる。手を触れようとしたら消えた。

太陽が昇りつつあった。相変わらず空気は鋭く冷たいが、荒野を照らす日差しは強くなりそうだ。今日の幻は多すぎず少なすぎずだった。

自問する。俺は響さんと会っても動じないで対話できるのか?

今こうやって考えている俺は驚くほど冷静だが、実際に顔を見たらどうなるのか自信がない。多少の動揺は仕方がないとして、話にまで影響が出るのは避けたい。

そしてその先は? もし戦いになったらどうする。俺は戦えるのだろうか。響さんにスタッフを向けて打ちすえることができるのか。命がかかっているんだと分かっていてもできるかどうかは別問題だ。実際に勝てる勝てないは置いておいて、まず精神面で負けていたら話にならない。いくら考えてもこればかりはやってみないと分からない。

何回も同じ問いかけをして、その度にその辺の幻に手を伸ばし、イーザーたちが無事であるよう願って。見知らぬ対決を頭の中で描いているうちにもう夜とは絶対に言えない時間になった。

やがて馬のひづめが聞こえてきた。駆け足ではない、ゆっくりきている。俺はスタッフを手に立ち上がった。

ザリじゃない。ザリならきっと走らせている。

自分でも意外なほど落ち着いていた。少なくとも今はまだ。来客を待ち、やがて俺と同じ瞳と肌の色を持つ、俺より少し年上の人物を認めた。

「響先輩」

予想が当たったとはいえ、全然嬉しくなかった。