三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

1. 死闘

「いいだろ、これ」

立つことなんて到底できない。なにかを考えることも無理だ。

吠え声ひとつでこうなるなんてどうかしている。分かっているのにどうすることもできない。自分という意識が薄れ、ばらばらになっていくのを理解した。

そのまま気を失う。

……? 失っていない?

重圧による気分の悪さも吐き気もいつの間にか喉元を過ぎていた。震えは止まらないけどもう大丈夫。さっきの人格崩壊するんじゃないかと思った衝撃は消えさっていた。

そうか、竜は通り過ぎてどこかに行っちゃったのか。一瞬どうなるかと思った。吠え声がなくても恐怖を感じるのに十分な怪物なんだ。すれ違いですんでよかった。

安心して俺は目を開ける。まだ起き上がるには足に力が入らないけど、とりあえず動かないと。

暗くてろくに見渡せない室内の空気は張りつめたように震えていた。天井からは埃が降り卓上から書きかけの手紙が落ちる。まだ天災は去っていなかった。

目と鼻の先にザリが倒れていた。固く目を閉じ、食いちぎりそうなほど唇をかみしめて竜の咆哮に耐えている。ザリの両手は俺の耳へ伸びていて、俺は楽になった理由をやっと悟った。

「ザリ、なにやっているんだよ。自分を先にしろ」

起きて手を振り払おうとするも力が入らず、ザリの腕力は半端ではなかった。元々体格の差か鍛え方が違うのか、ザリは俺よりずっと力が強い。そんな人が死に物狂いで頭をつぶしかねないほどふさいでいるんだ、どうにかなる訳がなかった。

「おい!」

別の恐怖を覚えなんとか呼びかけようとした時、まるで業火がかき消えるかのように空気が止まった。埃の雨も止まり、咆哮が消えたのを俺に教える。

耳への力がゆるみ、ザリは顔の筋肉を緩めて崩れた。

「ザリ!」
「だ、大丈夫。ぴんぴんしているわ」

息も絶え絶えに、ほとんど消えかけたかすれ声で言われても安心できるか。跳ね起きて肩をゆする。意外と俺は機敏に動けた。

どうしよう。手当てが必要だ。それは分かる。でも俺医者でもないし魔法も使えないぞ。第一擦り傷切り傷ならともかく、精神の傷をどうやって治せばいいんだ?

「アキト、大丈夫だから。少し休めばすぐ元通りになるわ。だから気にしないで」
「でもっ」
「それより、みんなを」

もっと重要なことをザリは俺に思い出させた。

そうだ。イーザーたちは。みんながみんな、自分を後回しにして耳をふさいでくれる人が横にいる訳がない。倒れたり気絶したりしていないだろうか。

「わたしは少し休んでいるから、行って」
「……うん」

動けないザリをおいて行くのは嫌だったけど、平気と言い張る人よりも今どうしているのか知れないイーザーたちを先にした方がいい。

当座の目標ができたら元気が出てきた。俺は乱暴に扉を開けて廊下へ飛び出す。まずはさっきイーザーと別れたところだ。

「みんな、平気か!?」

大声をあげて足音荒く走っていたから、部屋からもれるうめき声を危うく聞き逃すところだった。扉の隙間からこぼれた角灯の明かりでようやく気づく。

「そこか!」

開けるととぼしい明かりの下、机にキャロルがつっぷしていた。うめいて丸くなっている背中をなでるように黒い外衣がかけられている。

「キャロル」

顔をのぞきこむ。酸欠した金魚のように口を開閉させて額一杯に汗を浮かべている。手をついて起き上がろうとし、よろめく。慌てて支えた。

「大丈夫か、無理するな」
「アキト。イーザー、イーザーを」
「分かった、探すからじっとしていろ」

とりあえず話せるし動こうとしている。大丈夫そうだと判断して外衣をかけ直す。ちょっと考えてから机の上にある角灯をつかむ。

「おーい」

真っ暗ではないとはいえ、角灯だけでは暗すぎてろくにものが見えない。返事をしてくれればいいけど、キャロルやザリの様子を考える限り返事さえもかなり厳しそうだ。考えていたらなにかにつまずいて転んだ。はずみで角灯が割れて獣脂が散り火の手が上がる。慌てて踏んで消そうとする。

消しながら振り返る。なんだか大きく柔らかいものだった。消えかけた火事の芽でつまずいたものを見る。案の定探し人のひとりだった。

「グラディアーナか。生きているか」

返事はない。不安になってそっと寄る。火事にはならなかったが足の裏が熱く、異臭が廊下中に充満した。

「グラディアーナ」

顔に手をかざす。とりあえず呼吸は正常そうだった。

どうしよう。ただ気絶しているのだろうか、それとももっと悪いことになっているのだろうか。ふと天幕市での巨大猫を思い出しておよび腰になる。またああなったらどうしよう。一瞬で食い殺されてしまう。

「うん、でもそんなにころころ猛獣にならないよな。あの時は特別だ特別」

自分に言い聞かせて起こそうとする。キャロルみたいに頬を叩くのは気が引けたので肩をつかんで揺さぶった。

「おい、グラディアーナ。起きろ」

起きない。だんだん気があせる。大きく振った。

「グラディアーナ、目をさませ!」
「……頭が、揺れます。手を止めてください」

弱々しかったが確かにグラディアーナの声だった。

「起きたか」
「なんなんですか、今の。一撃で意識が飛びましたよ」

頭を振りながら立とうとする。あっさり気を失った分、回復も早いようだった。

「竜の吠え声」
「なんですって、帰ってきたのですか!?」
「みたいだ。俺みんなを探してくる。ザリとキャロルは無事で、残り2人が見つけられない」
「手伝いましょう。早く揃って逃げないと」

いつになくあせった様子だった。

「ああ。イーザーを見つけないと」
「待ってください、その前に」

グラディアーナが目を向けた先は俺がきた道だった。夜の闇が沈んだ廊下は俺の目にはなにも見えない。

人ならぬ獣人の目には見るべきものがちゃんと見えたのだろう。ぎこちないながらも進み、キャロルがいた部屋へ戻った。

「どうしました」

キャロルはまだ立てないにもかかわらず、自力ではいずって外へ出ようとした。グラディアーナ自身よろめきつつ歩み寄って手を貸す。

「キャロル、動くな。俺がやるからじっとしていろよ。グラディアーナ、ザリ呼んでくれ。奥で動けない」
「はい了解」

身体は鈍くても口は軽かった。キャロルを俺に渡して明かりがない廊下を行ってしまう。俺はキャロルの肩を支え、とりあえず横たわれる場所を探そうとした。キャロルの身体は力が入らず、重い。

「違う、アキト」

顔がくっつきそうなほど近いから、か細いささやきでもなんとか聞き取れた。

「なにがだ。今ザリを連れてくるからな。すぐ手当てしてもらえるぞ」
「馬鹿。早とちりはやめて」

罵られてしまった。思わず動きを止める。

「早とちりってなんだ。キャロルはすごく苦しいから助けを求めてはい出たんだろ」
「苦しさは耐えるものよ。それよりイーザーが」
「イーザー?」

グラディアーナが戻ってきた。後ろにザリを連れている。ザリはもう平気のようで走りよって「キャロル」ささやいた。

「イーザーを追いかけて。あの馬鹿飛び出して行ったわ」
「え?」
「あたしとイーザーは同じ部屋にいたの。竜の叫びにイーザーは運良く心を引き裂かれなかったようでね。あたしの命に別状がないのを確認してから外へ行ったわ」

床に落ちている黒の外衣を見る。全然気にしなかったけどイーザーの外衣がキャロルにかけられているのはおかしかったな。心配したイーザーが思わず渡したものだったのか。

「外へって、どうして。右も左も分からなくなって発作的に飛び出した。じゃないよな」

そうだったらキャロルの身を案じる訳がない。キャロルに外衣をかけられる余裕なんてないはずだ。膨らむ嫌な予感を直視しないようにキャロルの話に集中した。

「なんでか教えてあげるわよ。息詰まりながらもしっかり聞いたのだから。『大学の人たちが危ない!』だって」

冷ややかなキャロルの声に、やっぱりとめまいを起こした。

「それはつまるところ、イーザーは帝都大学の方々を心配して、外に行ったのですか。灰竜が帰ってきて真っ先に向かいそうなところへ」
「竜避けの薬草はどうしたんだよ」
「眷属ならともかく、本物の竜までには効かないと言っていたわ。むしろ夜の学問通りでは格好の目印よ」

黙りこむ俺たちをグラディアーナは笑った。

「まさか本気だと思っているのですか。いくらなんでもそれはないでしょう。赤の他人のために下手をすれば竜のおやつになってしまいそうな危ないことはしませんよ」
「いいや、する」

俺の真剣さにグラディアーナは笑うのをやめた。本気で言っているのかからかおうとしているのか判断しかねているのだろう。

「グラディアーナ、俺は大真面目だぞ。忘れていた俺がうかつだった。イーザーならする」

きっとする。イーザーはそういう奴だ。とっさの危険に赤の他人を心配して自分をさておいて脇目もくれず行ってしまう。底が抜けるほど人がよく熱くなりやすい男だ。そうでなければ今ごろここにいない。

いい奴なんだが、本当にいい奴なんだが。

「追いかけて捕まえないと」

俺はとても暗い気持ちになった。

「竜が向かうところに行くなんてどう考えても無謀だ。あんな化け物イーザーどころかだれも勝てないよ。大学の人には悪いけどイーザーを止めなきゃいけない」

イーザーは大切な、かけがえのない友だちだ。絶対に失う訳にはいかない。俺は立ち上がり早足で部屋を出ようとする。

「アキト、どうするつもりですか。無闇に行ったって二の舞になるだけですよ」

もちろん俺は無駄に飛び出そうとしていない。考えがあった。

「アキト」

キャロルに寄りそっているザリは、俺のことを分かっていた。

「屋上よ」

ありがとと俺は走り出す。最強の生き物に一時でも対抗できそうな人物に俺は心当たりがあった。


初めての階段を全力で駆け上がる。途中転びそうになったが気にしなかった。そんな暇はない。

つきあたりの扉を右半身で開ける。とたんに妙に暖かい、埃混じりの風が顔に吹きつけて立ち止まる。

外は意外と明るい。遠くで炎が小さな家くらいすっぽり飲みこむ巨大さで燃え盛り、雲と瓦礫の煙に反射して角灯いらずだった。竜の姿は見えない。代わりに大こうもりが狂ったように叫びでたらめに飛ぶ。甲高い声が耳に突き刺さり妙にいら立つ。

「ミサス」

案の定、ミサスはいた。手すりに背中をあずけ腕をかけ、竜もなにもなかったように空を見上げている。手を伸ばせば簡単に首をつかめそうな無防備さだった。

「ミサス、そんなのんきにしている場合じゃない。大変だぞ、竜だ」
「帰ってきたな」

毛ほども動揺していない。咆哮は聞かなかったのか。聞いてもミサスなら平然としているかもしれない。

「こない」

やる気がなさそうに言う。俺の方を見もしない。

「こないって、なにが」
「竜。大学前の炎へ向かった。今のうちに逃げた方がいい」
「そういう訳にも行かないんだ」

俺の困った声にミサスはやっと俺を見た。きっとミサスは俺たちがもう逃げだす準備をして、ようやくいない自分を迎えにきたんだと思っているのかもしれない。実は違うんだ。

「イーザーが飛び出していった。大学の人たちを助けなきゃって」

ミサスの目が少しだけ開いた。背中の羽根が猫を脅かしたかのように膨れ上がる。結構驚いたみたいだ。

「だから、イーザーを追いかけないといけないんだ。ミサスに手伝ってほしいんだけど」
「あの、痴れ者!」

吐き捨てるように叫び、手すりを越えて地上へと飛び降りる。羽根が広がり速度が調整される。イーザー、あのミサスに罵られるなんてすごいぞ。

「待てミサス!」

俺は手すりをつかみ身体を乗り出した。地面へ降り立ったミサスへ声を上げる。

「俺も行くっ」

返事を聞かずに階段へととって返す。ミサスと違って完全に人間の俺には飛び降りられない。多少遅くても正しい道を行かないと。焦る心を抑えて三段飛ばしで走る。

俺がミサスについて行きたがるのにはれっきとした理由があった。戦いが起きた時助けようなんて考えはない。巨大こうもりとの戦闘になってもミサスならひとりで十分なんとかできる。むしろ俺は足手まといだ。

ではなんで行くのか。ミサスの不得意分野を補うためだ。もし人に会った時、ミサスの外見と極端な口数の少なさからいらぬ誤解を招きかねない。俺は舌先三寸でこの世を切り抜ける類の人間じゃないが、そうしたとき無用の争いを回避することも、イーザーがどこに言ったか聞くこともできる。加えてミサスを侮るつもりはないが、やっぱりひとりよりは2人の方がいい。単独行かせて帰りを待つのはもうごめんだ。

ミサスは待ってくれていた。俺に向かってなにかを投げる。緩やかな弧を描いた2つの塊を、訳が分からないまま受けとった。

宝石みたいに綺麗な石だが、玉子ほども大きい。ひとつは夕日のように赤くて石の中心で炎がゆらめいているように輝いた。もうひとつは南の海みたいな青で、光の加減だろうか奥で渦が流れているみたいだった。なんだろうこれ、どこかで見たことがあるような。

「これはなんだ?」
「精霊石」

見たことあるはずだった。ずいぶん前に精霊石に関するごたごたに首を突っこんだ。

「なんでミサスが持っているんだよ、これすごく高いんじゃないか」
「買った。役に立つ。強い意思を持って衝撃を加えれば力が解放される。その大きさだと強力だ。俺を巻きこむなよ」

最低限の答えと使用上の注意を与えると、すぐミサスは走り出した。

「お、おい」

慌てて後を追う。頭の中は疑問と不安で一杯だった。そうか、いつもたっぷりもらっているアットからの仕送りはそう使っていたのかと納得したり、具体的にどう使えばいいのかさっぱりだったり、そんなのを持っていて危なくないのかと心配したり。

「そういやミサス、飛んでいかないのか? きっとそっちの方が速いぞ」
「走る方が速い。今大気は不安定だ。こうもりにも人にも見られたくない」
「あ、そうなんだ」

せっかく羽根があるのに走る方が速いのか。少しがっかりしたがそれ以上の無駄口はきけなかった。ミサスが速すぎてついていくのに精一杯だ。身軽に瓦礫を飛び越えるその後ろで俺はぶざまに大きく迂回する。真似して転んだら置き去りにされてしまう。土煙があちこちから入り口の中が乾いて砂利まみれになる。目が痛くて何回も瞬きをしているうちに涙が出てきた。ずっとここにいたら塵肺になりそうだ。

疲労と煙でよろめく俺は、不穏な気配を感じて顔を上げた。にじむぼやけた景色は破壊された建物たちと、はがれ落ちた壁の上を器用に走るミサスの小さい背中。そしてもうずっと遠い黒翼族へ空から音なくつかみかかる巨大こうもりだった。

「ミサス、危ない!」

俺の警告より先に、ミサスは飛びさがってこうもりの爪から逃げる。慣性の法則など無視した素早い動きだった。空振りで不思議そうに舞い上がるこうもりへ背を向け俺のところまで走り、こうもりはもちろん人だって通り抜けが難しそうなほど小さい路地へと逃げこむ。立ち止まった俺は、ふとこうもりと目が合った。考えるより先にミサスの後に続いた。

道は狭く暗かった。足元がほとんど見えない。できれば走りたくはなかったが、こうもりの羽音が聞こえたので断固やる気になった。逃げた俺たちを追おうとしてこうもりは小路地に入ろうとする。俺をすっぽり覆える羽根は突風を作って髪を揺らすが、こうもりそのものは建物に阻まれて通り抜けられない。悔しそうに高く羽ばたき死んでしまいそうな声で鳴いた。

「ミサス、回り道もいいけど逃げてばかりじゃイーザーに追いつけないぞ。そもそも目的地分かっているのか」
「大学はそこだ」
「へっ?」

ミサスが出口の前で立ち止まる。俺もよろけながら向こうを見た。ミサスは背が低いからなにが起きているのかよく分かる。

悪い夢が広がっていた。普段なら憩いの場であっただろう広場は煙と腐臭でむせ返るようだった。巨大なたき火は蹴散らされ、囲む建物のあちこちに燃え広がり熱風が渦巻く。天幕も馬車も吹き飛ばされ引っくり返され、ごみのように散らかっている。灰竜はそこにいた。

姿を見るだけで吐き気がしてくる。元はどんな生き物に似ているのか、もう見当もつかない。身体の肉は腐り毛は抜けはがれ、牙や骨は一部むき出しでまがまがしい白さを見せていた。目は落ちくぼんでなんの光もない。それでも生きているようで腐敗臭を含んだ吐息をまき散らしよろけながらも動いている。帆のような羽根が広がり、瞬間的な突風の熱に俺はひるんだ。

おぞましい竜に立ちはだかってるものがいた。俺はうめく。

「イーザー……」

灰と土煙まみれで髪が白っぽいが、間違いなくそこにいるのはイーザー・ハルクだった。竜に比べてみるとあまりにも小さく弱々しい。真剣な顔で剣を構え向き合っているのが現実離れしすぎていっそ滑稽だ。イーザーのはるか後ろでおそろいの衣装を着た若者たちが震えおびえながらも建物の影、壊れた牛車の後で目を限界まで開いて見守っている。

イーザーが竜とにらめっこしなくてはならない理由は分かったけどさ、無謀極まりないぞ、分かっているだろう?

すっと、ミサスが息を吸った。

「イーザー、下がれっ!」

はっきりした発音の、言いたいことが明確な言葉だった。きっといつもの小さい声でもよく聞こえただろう。それが今まで聞いたことのない、こんな小さい人のどこにと思うような大声だったからには。ミサスを怒鳴らせるなんて本当にすごいぞイーザー。

虚を突かれ、口をぱっくり開けてイーザーはこっちへ向く。だがミサスは言いたいことだけ言って開けっぱなしの民家へ飛びこんだ。なにも分からないまま俺も続く。

「ミサス、どこ行くんだっ」

答えはない。代わりにもう聞き慣れた魔法の言葉が始まった。唱えながら階段へ走る。

建物はそう大きくなく2階で終わりだった。ミサスは口を休めずに開けっぱなしの窓から飛び出す。器用にも窓枠をつかみ、凹凸の激しい壁を伝って屋根へとよじ登る。

「え。ミサス、俺そこまでできないぞ」

空を飛ばれた訳ではないが、ミサスほど身軽でない俺にはついて行けない。ためしに窓枠をつかんでみたがとても全体重を支える気になれない。しかたなくできる限り身体を乗り出す。いざという時のためにもらった精霊石を握りしめる。

急に空が暗くなった。見上げるとさっきまで赤く反射する埃が舞い上がっていた空に黒い炎が渦巻いていた。ミサスの言葉がひとつ重ねられるたび、炎は一回転して膨らんでいく。竜の反応は鈍く、ゆっくりミサスへ注意を向ける。イーザーはぎょっとしたように下がる。

炎は大きさにふさわしく、魔法の言葉が途切れると同時に竜へ進んだ。光を吸いこむ渦は竜の顔へとめりこみ、爆発して四散した。

「うわっ!」

こんなに離れているのに熱風に思わず顔をかばう。爆発の衝撃で落ちそうになる。広場全体が震えて大気の流れが荒れ狂った。灼熱の火球にまだ顔を焼かれ溶かされながら竜は口を開ける。とっさに俺は耳をふさいだ。

ふさいでもなお魂を貫く吼え声が走った。建物も窓も震え、俺はへたりこみそうになった。顔半面を黒の炎で焼かれ、竜は苦しげに身をよじりわめく。翼を広げ、よろめいているのか飛ぼうとしているのか判断のつかない動作で、ミサスと俺めがけて暗闇しかない口を開く。

「吐息だ!」

竜について素人の俺にでもなにをされるのか分かった。俺を丸呑みできる巨大な口の奥になにが潜んでいるのか分からないが、望ましくないことであることは間違いない。闇雲な恐怖にかられ「くるなっ!」にぎりしめていた精霊石を投げた。

血のように赤い石は、竜に届く直前に紅蓮に爆発した。

どこに当たって竜がどう動いたのか正確には分からない。俺が降りかかる熱風と火の粉から自分を守るので必死だったからだ。しりもちをつきはうように走ろうとする。もうここは危ない。ミサスに続き俺までとなったら竜は絶対にここを狙う。

どぉん。「うおっ!」

家全体が揺れた。勢いで俺は一瞬宙に浮く。2呼吸もしないうちに第二派がきて壁が崩れ始めたが、もうその頃には家の外だった。外気はたっぷり熱を含み腐肉と硫黄の匂いがする。吐きそうになりよろめく俺の前に灰竜がいた。

「う、うわぁ!」

とっさにもうひとつの精霊石を投げる。清らかな結晶は焼け爛れた哺乳類の皮膚に当たって落ちた。反応はしない。

「え、なんでだ!」

裏切られた気がした。なにがいけなかったんだろう。しっかりした決心ではなく急に投げたから反応しなかったのか。

どぉん。灰竜は足元で騒いでいる俺なんて目もくれずに家に体当たりをする。壁がはがれ大きく傾く。屋根から人影が飛んだ。

「ミサス!」

瓦礫と木片と灰竜から逃げ惑う俺の足がとまる。ミサスは羽根を広げ隣へ隣へと屋根伝いに逃げていた。灰竜はなんとかして黒翼族を捕まえようと、元住宅地へ無理に割りこみ壊していく。ミサスの方から攻撃するそぶりはない。俺は灰竜の反対側へとへっぴり腰で逃げながら悟った。

ミサスはおとり役をやっている。少なくとも広場から引き離す目的で今逃げまどっている。確かに広場には赤の他人であり戦闘能力はまったくない学生たちがいる。最強の生き物竜と最強に近い魔道士ミサスが力の限りぶつかったら、ここにいる人々どうなることだか見当がつかない。

気づかいはありがたいけど、でもそんなことしていい相手なんだろうか。小細工や遠慮なんてしていたら負けるんじゃないか。俺は暑さも命の危機も忘れて見上げる。

竜の動きがとまり、漂う腐臭がより強くなった。ぼろぼろに抜け落ちている牙の間から黒い煙が漏れる。

「吐息だ!」
「鳥の人、逃げろっ!」

学生から悲鳴が聞こえる。お前たちこそ先に逃げろ。まだいたのか。

言われるまでもなくミサスは身軽に屋根から飛び降り全力で走り出す。竜は動かない。ミサスが見えていないのか多少逃げても当てる自信があるのか。こんなに離れているのに強烈な炎が肌を焼く。

立ち尽くしたまま一瞬途方もない考えが浮かぶ。今竜は動かない。ミサスへの注意をかかりきりにさせている。今なら俺だって竜の背後に回って殴りかかれる。ミサスへの吐息攻撃も中途半端になるかもしれない。

殴ってどうなるんだと自分に突っこみを入れた。俺のスタッフは人間相手ならともかく、竜に対しては割り箸程度だ。下手に手を出して吐息をもろに浴びても困る。俺にはなんの奥の手もない。黒こげになってしまう。ミサスは心配だけど無謀が過ぎる案だった。

じゃあどうしよう。頭をしぼる。小石でも投げてみるか。だめだ、気づかない可能性が高い上、気づかれたら俺が黒こげだ。自分がやられないためにもどうすればいいか。投げてすぐ隠れるのはどうだろう。あまり賢くも目ざとくもなさそうだし、うまく行くかもしれない。

大きな石を投げてすぐ逃げる。よし決めた。目的はミサスから注意をそらすことで竜を痛めつけるためじゃない。キャロルみたいな芸術的な投石なんて到底できないしする必要もない。とにかく当てればいいんだ。決心した俺はさっそく足元を探した。なにせ状況が状況だ、瓦礫には困らない。すぐ頭ぐらいの大きさの、元は壁だった岩を見つける。両手で抱え上げて竜を見上げる。

せっかくかついだ岩を落としてしまう。見てはいけないものを見た。

竜が突っこみ、今にも崩れそうな建物の最上階にへばりつくようにイーザーがいた。抜き身の剣を逆手に取り、窓枠をつかんで体重の大半を支えている。今にも落ちそうだ。

「イーザー、やめろ!」

叫ばずにはいられなかった。絶対に止められないと分かっていたけど、それでも言わずにはいられない。

イーザーの考えが手に取るように分かる。俺が思い浮かび次第即打ち消した考えを実行するつもりだ。ミサスからの注意をそらせるために剣一本で竜に挑む気だ。

「無理だ、絶対に無理だよ、よせっ!」

俺に分かることがイーザーに分からないはずはないのに、危ないなんて十分に分かっているはずなのに、それでもイーザーはやめなかった。窓枠に足をかけ歯を食いしばる。

身体を乗り出し、飛んだ。

燃え盛る炎の空を背景に、すすと土煙まみれのイーザーは強烈過ぎて宙にとまっているように見えた。剣は光を反射し鈍く光った。

イーザーは灰竜の首へ剣と共にぶつかった。両手にしっかりにぎりしめた剣が深々と首に突き刺さる。重い叫びと共に口から炎がもれ出し広がる。たちまち辺りが火の海になり刺激臭が鼻を刺した。

竜が首を振ってもイーザーはしがみついていた。片手で剣をにぎりしめもう片手で小刀を抜き何回も刺す。灰竜は左右に動き自分から身体を壁に叩きつける。命綱である剣が衝撃で抜けかける。あせりと熱でイーザーの顔がゆがむ。

再び竜が身体をぶつける。振り子のようにイーザーは揺れて、剣と共にすべり落ちる。建物の壁に背を打ちつけて地面に叩きつけられる。学生たちから悲鳴が上がった。

「っく」

イーザーは首を振り立ち上がる。竜は無防備な姿へゆっくり頭を垂れて迫る。イーザーが気づいた時はすでに牙は目の前だ。

とっさに地を蹴り飛んで逃げる。そのまま転びそうに走った。

逃げ出したのではなかった、明確な目的があり、そこへ走った。

俺には分からないものへ飛びつく。勢いあまって転び、半回転してからつかんだものを投げた。深い海のような青い輝きに俺は声を上げた。

精霊石。俺が投げてなにも起きなかった。落ちてそれきりどこかにいっていた。

燃えさかる竜と精霊石が触れた瞬間、きらめく氷の欠片と吹雪のごとき冷気が吹き荒れた。

「うおっ!」

熱風が即座に凍りつく大気となる。息ができず目を開けるのが辛い。手で顔を覆いながら俺は逃げなかった。次に起こる出来事から目をそらすことができなかった。

肌に霜を張りつけ髪に氷柱を吊り下げながら、イーザーは竜へ走る。竜は炎さえ凍てつかせ、虚ろな目をイーザーに向け恐ろしい牙を向ける。凍える吹雪の中でかすむ2つの姿がぶつかりあった。

「イーザー!」