冬になりつつあった。
秋は気がついたら遠くに行ってしまい、時々窓の外で雪がちらつくのを見た。俺が住んでいた地域では雪は年に一度降るか降らないかだからはしゃいだが、ほとんど積もらずすぐに溶けてしまった。ジェズモさんいわくバイザリムは降水量が少なく、雪もまず積もらないらしい。これがちょっと東へ行って山を越えるととたんにすごいそうだ。
俺はいつの間にかここの生活に慣れていった。無駄に広い部屋にも高そうな調度品も変だと感じない。
慣れて思うことは、やっぱり日本の技術力はすごかったことだ。
例えば風呂、日本では蛇口をひねれば簡単にお湯が出て、普通のホテルなら個室にひとつは必ずある。一方マドリームでは確かに豪華な風呂があっていつでも入れるけど、定期的に使用人が熱い湯を大きなたらいで運んでいるのを見かけた。これじゃ個室に風呂を持てるのは王様と貴族だけだな。
コンビニも自動販売機もないから小銭でおやつを買うこともできないし、テレビもラジオも、それどころか娯楽らしきものがほとんどない。ザリを初めとする医療関係者に文句をつけるつもりがないが、医術は比べ物にならないし、家だって俺の住んでいたマンションのほうが住み心地よくて快適だと思う。カーリキリトのどんな王侯貴族の生活よりも日本の一般人のほうがいい暮らしをしている。魔法や精霊術がある点を除けば、カーリキリトの人がどんなにお金をかけても日本の暮らしには勝てそうにない。
いくら日本に負けているとはいえ、俺が住んでいるところは王宮。いつまでもだらだらしていてもいいのだろうか。俺のささやかな疑問はとうにイーザーが思いついていたらしく、クペルマームと話し合ったらしい。答えは意外にも「調べ物が終わるまでいつまでもいていい」とのお墨付きをもらった。それどころかイーザーは首を振りながら「逆にずっと王宮にとどまってほしそうだった」とさえ言った。
そんな大歓迎のわりにはクペルマームは普段俺たちに近寄らない。バイザリムの大広間の後一回もクペルマームの顔を見ていなかった。仕事が忙しくて、仲良くしたくてもなれないのだろうか。王子さまも大変なんだな。
キャロルはバイザリムの人々を調べるので忙しかった。毎日綺麗な格好をして、高貴な人々の間を歩き言葉巧みに複雑な人間模様をさぐっていた。そのうまかったことといったら、俺でさえキャロルはフォロー千年王国でもお姫さまをやっていたんじゃないかと疑ったぐらいだった。ためしにキャロルに聞いたら即打ち砕いてくれたが。
「マドリームは国王ならびに王族の権力が強い。フォローの反対ね。現国王オキシスマーム陛下は王位について30年以上は経っている。王としては凡庸。マドリームが沙漠ばかりの小国であるのをとても気にしてなんとか力を広げたがっているけど、大して影響力のない小国だから今まで王位につけたようなものね。ありがたがらないと」キャロルは自分の部屋では言いたい放題だった。俺たちを呼ぶ前に盗み聞きされていないか慎重に探ったみたいだけど、それでもこっそり聞かれていたらどうするのだろう。
「王の子は7人。末子がクペルマーム。王位継承は順当に行けば長男のタビラコマームが継ぐでしょう」「クペルマームは?」
「若輩だし末っ子だし。優位ではない」
「なんだか大変なんだな」
「アキトの想像を絶するほど大変よ。
マドリームの貴族で最も力を持っているのはダーソニア家、トリコ家、ハシド家の3家。ダーソニア家は娘をタビラコマームに嫁がせ勢力を伸ばしている。トリコ家は3家の中では一番新興で頭が切れる。当主はデルマ・トリコ。マドリームの宰相。ハシド家はかなりの土地を持っていて、ひょっとすると国王より金持ちかもしれない。その分ややおっとりしているようね。ライラック姫はハシド家の姫君よ」
「キャロル、もっとゆっくり言ってくれ。覚えられない」メモをとろうとしたら「文章で残さないで」怒られた。しょうがないので頭の中で復唱して覚えようとする。
「マドリーム軍事最高権力者はゲンゲ・センナ。地方の冴えない貴族だけど武勇にすぐれていて、とうとう将軍になって王族の姫君を降嫁されたの。その長子がカスタノ近衛兵」「すごいわね、お姫さまをお嫁さんにもらうなんて」
ザリが感心したように髪に手を当てた。
マドリームに着いてから回りの熱意あふれる勧めにより、ザリは髪を伸ばすことに決めたようで、後ろ髪が肩に触れるくらいにはなった。まだ長くはないけど髪留めで固定している。バレッタは抽象的な薔薇がかかれた赤と緑の大きいもので、豪華さは高貴な人たちに受けたし、ザリは模様が気に入ったようだった。
「宮廷魔道士たちは、マドリームではどのような立場なの?」「存在はしている。でもあまり権力は持っていないわ。
最近不祥事があってね、最年少の女魔道士が他11人に無礼を働いて、そのまま出奔したの。魔道士たちはそれなりの実力者みたいだったけど、一番若い女にいいようにやられて権威は地に落ちたわ。今はなにもできずにおとなしくしている」
「無礼って、なにをされたんだ?」魔法合戦で怪我人がたくさん出たとか。
「なんでも全員カエルに変身させたのだって」「やり方が古いのね」
ザリはあっけに取られた。カーリキリトでも魔道士が嫌な相手をカエルに変えるのは時代遅れなんだ。
「なんでそんなことをしたんだ」「さぁ、そこまでは分からなかった」
その魔道士たちの内輪もめも気になるけど、今は関係なさそうだ。
「以上、マドリームで重要な人物はそれくらいね」「その中でラスティアに協力している人がいるとしたら、だれだ?」
「ハシド家かしらね。なんといってもお茶会の件があるし」
「でもあれからもライラック姫と会うけどなにもないぞ」
ライラック姫は時々俺たちと一緒に話そうと誘う。いかにも純真無垢なほほえみで。顔を見るたび俺は毒入りのお茶会を連想して、そして疑い深い自分がすごく薄汚くなった気がして恥ずかしくなる。
キャロルはその手の咎めは無縁のようだった。
「もっと具体的な知らせはないのか? ラスティアを見かけたとか手を組んでいる証拠とか」「あったら真っ先に言っているわよ」
当たり前だな。
「ハシド家に気をつける、今はそれくらいしかできないのか」イーザーはじれったそうだった。「もっと調べるわよ」キャロルがなぐさめたがあまり効果はなかった。
到底キャロルには及ばないものの、俺もできるだけ周囲の人たちと仲良くなって話をした。
そのひとりは俺の部屋で仕事をしている使用人のジェズモさんだった。灰色の髪をきつくまとめた冷たい目の召使さんは、初め俺があれこれ話しかけてもそつなく返して、てきぱき自分の仕事をしていた。でも俺は仲良くなるのを諦めなかったし、ジェズモさんもなにかと俺が不慣れで、ことあるごとにキャロルからからかわれているのを見て考えを変えたらしい。
「失礼ながら、アキトさまはいくつかのことについてお詳しくないご様子ですね」「うん」文字練習表を眺めながら上の空で相槌を打った。ウィロウお手製の文字練習表を俺はいまだに理解しきっていない。
「のんびりおっしゃってよいのですか。キャロルさまに言われているようですけど」
「よくはないけどしょうがないよな。地道にがんばるよ」
「でしゃばるのをお許しくださいませ。もしアキトさまがよろしければ、私がお教えいたしましょうか」
「え」
意外だったけどその提案は助かる。俺は字が勉強できるしジェズモさんとも近づけるでいいことづくめだった。
「いいの? ぜひお願いします!」「かしこまりました」
俺はひとつ勘違いしていた。てっきり文字だけかと思っていたけど、ジェズモさんは俺の歩き方食事の仕方などの礼儀作法や立ち振る舞い、生活全般に渡ることについての教育を語っていたのだった。
ジェズモさんはいかめしい外見から予想されるとおりスパルタで、口こそ礼儀正しかったが厳しかった。しかもある程度できるようになるまで解放してくれない。俺はスプーンの上げ下げにがみがみ言われながら、深く考えずにうなづいたことを後悔した。仲良くなって情報収集をしようとは思っていたけど、こういう形で仲良くはなりたくない。
ブロッサムやライラック姫とも仲良くなった。ブロッサムは時々神殿の用事でお城にくるけど、そのたびに俺のところにもちょっと顔を見せによる。そして俺がたどたどしく字の書き取りをしているのを馬鹿にしながら、イーザーの様子を聞いたり世間話をして帰る。なんだかんだで同年代の人が周りにいなさそうだし、話し相手に飢えているのか? それともイーザーと仲直りしたいけど声をかけられないのだろうか。
ライラック姫との交流は優美の一言につきた。特に用もなく庭を散歩したり取りとめもなく服や髪型について長々話したり。俺にとっては散歩も流行のドレスもどうでもいいことだったけど、ライラック姫の優しい性格は一緒にいて楽しかったのでつまらなさには我慢した。キャロルが毒について疑っているのが嘘のようだ。
緊張を忘れそうになるほど落ちついた日々が続いていた。
昼下がり、俺は人気のない中庭で座っていた。天気がよくあまり寒くない、横には肩掛けを羽織ったザリが腰かけている。
イーザーは剣とバックラーを構えていた。いつもの剣術の練習なら相手は俺かキャロルだけど、今日は俺じゃない、キャロルも今ここにはいない。
相手はミサスだった。長い槍を無造作につかみ、イーザーに対峙している。イーザーの剣は刃のない模造刀だったしミサスの穂先も布でくるんで当たってもひどい怪我をしないようにしていた。
ミサスが武術の練習なんてこうして自分の目で見ても信じられないが、よく考えればミサスの槍は飾りじゃないんだしなにもしないでも天下一級の槍捌きができる訳がない。日々積み重ねの練習をしなければいけないし、たまには実践訓練をしたようがいいに決まっている。そう考えると驚愕の事態でもなんでもなかった。
ミサスは無感動そうだったがイーザーは嬉しそうだった。珍しい対戦がよっほど楽しみなのだろう。
先にイーザーがしかけた。ミサスが槍を振るって後ろに飛ぶ。すごい瞬発力だった。
「ミサスって魔道士じゃなくて槍使いになればいいのに」イーザーもできる限り小刻みに動いて近寄ろうとするが、ミサスについていけない。槍を大きく動かし近寄れないようにさせて素早く逃げる。黒い羽根が腕を振り回しているかのように力強く羽ばたいた。
「無理よ」今日は淡い桃色ワンピースのザリが断言した。服は薄手で見ているだけで寒い。
「どうして。結構戦えているし強そうだぞ」「体力が全くないから。黒翼族は人間からするととても貧弱なの。敏捷性と瞬発力は優れているけど、それ以外は人間の子ども並み、ひ弱なの。人間に混じって槍使いになるなんてできない」
「槍を持っているのに?」
「ミサスの本業は魔道士でしょう。そっちの方がはるかに大切なのよ」
「じゃあなんで槍を持っているんだ」
「万が一のためじゃないかな。魔法を封じる魔法もあるのだし、魔法を使ってはいけない時槍を使うのかもね」
「なるほど」
「後敵を遠ざけるとか。いくら強くなさそうでも槍のそばに寄りたくないわ」
「それもありそうだな」
イーザーが攻めてミサスが逃げる。ミサスが機敏な上槍が長くてイーザーは近寄れない。ミサスに攻める気はなさそうだ。非力なミサスが槍でつついても、イーザーは大して痛がらないだろう。でもこれでは練習にならない。
「アキトはスタッフを練習している?」「うん、毎日。まだイーザーには負けっぱなしだ」
「一回も勝てないの?」
「いいや、2回ぐらいある。運がよかった。俺が勝ったらイーザーものすごく悔しがって次から手加減なしになる。怖いぞ」
「本当? 怖いわね」
ザリは笑った。
「ザリこそボウガンに慣れておけって言われたんだろ。当たるようになったか?」「なかなかうまくいかないわ」
うんざりしているようだった。
そうだろうな、戦士でないザリが戦い方を知っているわけがない。アットのお兄さん、ラディーン王からの贈り物をいきなりうまく使えるわけがなかった。ましてザリは極度の近視で乱視も入っている。いくら眼鏡着用とはいえボウガン使いには向いていそうにはない。
八つ当たりするようだけど、大体ボウガンをくれたアットとアットのお兄さんが悪い。キャロル教授によればボウガンは機械式の弓で専用の矢を装着して引き金を引いて射る。からくり仕掛けなので非力な人でも強力な矢が打てるのが特徴だけど、力が強く目が悪いザリに利点は少ない。その上ボウガンは矢の取りつけに手間がかかる。巨大ボウガンのアーバレストは矢を巻き上げる専用の道具が別にあって、これが5分か10分はかかる。アーバレストは例外とはいえ、ボウガンは色々な制約に加え重いのでイーザーのように身軽にあちこち行く旅人からは好まれていない。キャロルいわく軍人や兵士に持たせると相性ばっちりだそうだが、俺たちは軍人でも兵士でもない。
逃げてばっかりだったミサスが反撃に出た。軽い身のこなしで飛び上がり槍を一回転させてイーザーの足を打つ。イーザーは顔をしかめるも、逆に振り回された槍の穂先を難なくバックラーで受けとめた。逃すかとミサスに詰め寄ろうとするがあっさり逃げられ、また間合いを取られる。
「いっそボウガンを捨てちゃえばいいのに、重いんだし」「でも、国王陛下から頂戴したものだから。フォロゼスでは役に立ったしいざという時キャロルなら当てることができるわ」
フォロゼスでは確かに役に立ったらしい。あらかじめ矢が準備されていたことだし(本当は使う直前に装着するもので、イーザーが武器の管理がなってないと腹を立てた)あの時一番破壊力があるのはアーバレストだろうから。でも今後も役に立つのか? ボウガンはザリが使えなくてもキャロルが使って当てられるとして、アーバレストを射る力があるのはザリだけだと思う。
あ、数人がかりでやればいいのか。
俺が簡単な答えを出した時金属がひしゃげる不吉な音がして、俺のすぐ横を袋が飛んでいった。
「え?」振り返るとずっと向こうの地面に槍の穂先が落ちていた。なにがあったのかよく知ろうとすると、ミサスの槍の先がなくなっているのに気づく。イーザーがあんぐり口を開けていた。
「いっけないの。槍を壊しちゃった」計ったようにキャロルが登場し、今のできごとをまとめた。
「す、すまん、ミサス!」イーザーが剣を放り出してうろたえた。
「まさかこう簡単に取れるなんて思っても見なかった。つい力一杯やって、悪い。ちゃんと直すから」反省と誠意を見せるイーザーとは裏腹に、ミサスは試合自体興味をなくしたように無感動に槍の先を確かめる。紐はちぎれ小さな金具がゆがんで足元に落ちていた。キャロルも槍を野次馬する。
「直りそうか?」「無理、鍛冶屋に見てもらわないと直らないわ」
俺も穂先を取りに立った。いつの間にか背中が冷や汗で濡れている。ほんの少し角度が違えば刃が俺の顔を直撃していた。今度はもっとはなれたところで観戦しよう。
「そんなに? 外れただけだろ」「悪いけど、この槍特注品よ。柄も刃もすごく軽い。普通に直せないわ」
イーザーのうろたえはひどくなった。
「修理にいくらぐらいするかな」「さぁ。城つきの鍛冶屋にやってもらいましょう。話の持って行き方によってはただですむ」
「すまん、ミサス」
ミサスは無視して俺から刃を受けとった。
「ミサス、少しは反応してあげたら。イーザーがかわいそうでしょ」ザリの小声もミサスには届かなかった。その辺は俺も気にしないでキャロルを見る。
「どこに行っていたんだ」「ライラック姫と取り巻きたちと一緒にバラ園へ。楽しいおしゃべりとろけるように甘いお菓子、そして薔薇。全くよく飽きずに楽しめるわね」
同感だが、キャロルが飽きずに楽しめるものも俺には理解できないと思う。キャロルはさりげなく周りを見て、人がいないのを確かめた。
「いつもライラック姫のそばにいるリタに気をつけて。あの娘は普通の姫君ではないようよ」「リタ?」
いたっけそんな人。キャロルは少しいらだった。
「黒髪の、紺色の服しか着ない人よ。アキト話したことあるでしょう」「そういえば」
忘れていたのもしょうがないと思う。無個性で、これといった特徴の無い女の人だった。無口でも引っ込み思案でもないが逆に大勢の中に埋もれているような人だ。
「どうして普通じゃないって分かるんだ?」「肌。今日リタは首にレースを巻いていたのだけど、三重重ねの下の首元に刺青が入っているのを見た」
「刺青」
なるほど、普通じゃない。まさかマドリームにやくざがいるわけないし、特殊な文化なのだろうか。
「どんな刺青だったんだ?」「さて、そこまでは。ミサスの服のまじないのような感じだったわ」
キャロルが言っているのはミサスが道中着ていた黒服のことだろう。あれには銀糸で魔法の文様が縫いつけられていた。ちなみに文様はミサスの手縫いだった。
「書いてみろ」話を聞いていなかったようなミサスが反応した。キャロルは意外そうに目を見張ったものの、おとなしく従う。俺のスタッフをにぎり地面に描いた。どことなくボヘミアン文様に似たゆがんだ円の形には俺には理解不能だったが、ミサスには通じるものがあったらしい。表情を変えずに言った。
「リタという娘を見たい。案内してくれ」「珍しい。拾い食いでもしたの」
キャロルの気持ちは分かる。バイザリムにきて以来ミサスは人前を露骨に避けていた。ミサスの気性と一風変わった外見、そこから予想できる未来を考えると無理もないとは思う。ただでさえ異人種が多いフォローでもミサスは目立っていた。ましてマドリームではどれだけ外見で騒がれて見世物になることか。だれだってパンダにはなりたくない。そんなミサスが積極的に動くなんて。
「紹介するな。気づかれないように観察したい」「分かった。きて」
2人は行った。しばらくして戻ってきた時、ミサスの表情が意外さと予想通りだったという2つの感情が混ざり合っていた。もちろん慣れていないと分からないほどかすかにだったけど。
「どうだった?」「影踊り」
なんだそれは。言葉が少なすぎて意味が分からない。リタは影踊りだって言いたいのか?
「影踊りってなんだ?」文脈からして種族名かな。どんな種族だ。
「俺、聞いたことがある」イーザーが知っていた。
「影踊りは影の世界に引きずりこまれた人、飲みこまれた人の末路だ。知性はなく、命あるもの全てを憎み、影を食って仲間に引きずりこもうとする。怪物だ」そんなものとは生涯会いたくない。ミサスは時々影に潜って移動するけど、そんな怪物がいるなら控えたほうがいいんじゃないか。
「違う、それは影食い」「え、そうなの?」
なんだ、違う種族か。
「影踊りは影の世界の住民。影の術に通じている。精神生命体でこっちの世界に出る時は不固定のかたまりの姿しか取れない。身体全体に紋様を植えつければかろうじて生き物らしい姿に固定することもできる」「リタさんの本当の姿はスライムなのか」
想像してみてげんなりした。スライムはそこまで嫌いじゃない、以前会ったゼラチンには好感を抱いた。でも人間だと信じていたものがスライムだというのは。
「人間の姿になっても影に潜ったりできるの? ミサスみたいに」「俺以上のことができる。俺は術で影の世界へ飛ぶが、影踊りにとっては故郷だ」
「まずいじゃない。音もなく影の中を歩いてどんな密室にも出入りできる。密偵としても暗殺者としても申し分ない」
キャロルの指摘に俺は震え上がった。いつ後ろに忍び寄られるか分からないなんて物騒だ。そんな種族がこの世にいるなんて。加えて影踊りはリタさんひとりとは限らない。もっと大勢、何食わぬ顔でそのあたりを歩いているのかもしれない。
ミサスが立ち上がった。すかさずザリが前に立ちふさがる。ザリの一見大げさな行動はもっともだった。こう先手を打たないとミサスは黙っていってしまうのを俺は知っている。
「どこに行くの」「図書館」
「なにを見るの」
「影踊りについて調べる。影踊りがこちら側に出てくるのは珍しい。影の世界で満足して表には出ないはずだ。王宮に潜りこむなんて起こるはずがない。見落としがある」
「手伝うわ。図書館の場所は知っている?」
ザリは置いて行かれまいとミサスについて行く。らしからぬ素早い行動に、どれだけミサスが深刻に取っているかを理解した。
ザリはすぐに帰ってきた。手助けするつもりだったものの、ミサスが第一に手にした本は魔道語で書かれていた。共通語の本は調べない。ザリは諦めて帰らざるをえなかった。
ミサスはいつまでも帰ってこなかった。バイザリム王宮図書館の司書はものぐさらしく、本の整理がなっていなかった。ミサスは歴史書と料理の本が隣になっているような本棚をさまよって調べ物をするはめになった。ものすごく大変そうなのに、ミサスは不満ひとつもらさず黙々と働いていた。初めのうちは図書館に朝から晩までこもりきりだったが、本に囲まれて居眠りをしているのを俺が見て、突然死をしたと大騒ぎをしてからはご飯と寝る時は外に出てくるようになった。俺はキャロルとジェズモさんにものすごく怒られたが、しょうがないじゃないか、本の下敷きになって動かなければだれでも事件だと思うぞ。
「アキト、今日の昼あいている? 行きたい場所があるのだけど一緒に行かない?」午前俺が礼儀作法の特訓を受けているとザリがきた。俺は静かに歩き回るのを中止する。
「あいているけど、どこに行くんだ?」「知り合いになった薬草師。農園を見せてもらうつもりなの。ひとりで出歩くのは危険だから、アキトついてきてくれないかしら」
俺は薬草にも農園にも興味がないけど、ザリをひとりで街まで行かせるのはできない。ザリに限った話ではない、だれであろうとも単独行動は避けられるなら避けたい。
「行く」「ありがとう、お昼食べたらわたしの部屋にきてね」
ザリの部屋は訪れるごとに混乱していく。ザリはむしろ綺麗好きなのだが、じっくり腰を落ちつけることができる環境と珍しい薬草類が多いマドリームの植生に魅せられて、整理整頓を棚上げにすることにしたらしい。ちらかっているなんて簡単な言葉ではザリの部屋は表現できなかった。俺は目立たない服装に着替えて部屋に入るとザリももっと動きやすい格好で待っていた。暗い城の中を歩きながら俺は聞く。
「その薬草師ってどんな人?」「ロダリクさんという方でね。バイザリムの外れに広い畑を持っていて、珍しい植物や新しい技術の研究をしているの」
「ザリと同じような人?」
「わたしは集めて分類と調査が仕事だけど、ロダリクさんは育てるのが本業ね」
馬小屋に着いた。ずらっと馬が並び、腰の曲がった老人があまりない歯をむき出しにして笑った。
「ザリさま!」「こんにちは、体調はどう? ちゃんと言いつけを守っている?」
「もちろんですわ。おかげでほれ、今じゃ走り回ることもできそうですよ」
「それはやめてね、危ないんだから。黒海と一緒に外出たいのだけど、いい?」
「もちろん大丈夫でさぁ。黒いのときたら、王様の馬よりも大食らいなんでっから。そのうち王様から買わせてくださいって頭下げられるかもしれませんぜ」
「まさか。黒海はわたし以外を乗せないのよ。お譲りするわけにはいかないわ」
いつの間に馬番とここまで仲良くなったのだろうか。俺は驚いた。
老人の言った通り黒海は元気一杯だった。周りの馬たちより明らかに大きい黒海はザリがきたので興奮し、足を踏み鳴らして顔をすり寄せた。ザリも嬉しそうに鼻をなでる。
「あのさ、ザリやっぱり俺も馬に乗るのか?」「少し遠いからね」
「俺、ひとりで馬に乗ったことがない」
一瞬ザリが異星人を見るような目つきで俺を見た。悪かったな。
「ファナーゼ草原国では歩きだすより先に馬に乗るのだけど。でもファナーゼ以外では馬は貴重だしね。大丈夫、わたしの後ろに乗って」「2人乗りか」
「黒海は2人ぐらい平気よ。どちらにしろ黒海にひとりで乗ろうとしたら振り落とされるわ」
「2人ならいいのか?」
「うん、それに黒海にもアキトには慣れたでしょうし」
いつものことだがザリが黒海を人間のように尊重するのが分からない。そりゃ大きいし立派だけど、でも馬じゃないか。そう黒海を見上げたら鼻息荒くすごまれた。実は俺の考えていること分かっているんじゃないかと尻ごみする。おっかなびっくりザリの後ろに乗せてもらった。
バイザリムは広い。中央にあるお城からロダリクさんの農園までほこりっぽい道をかなり歩くはめになった。もう冬でじっと立っていると寒さが身体にしみわたり、いても立ってもいられなくなる。あちこち真っ赤な暖炉があって暖かい城が恋しくなった。
やっと着いた農園は予想以上に大きく、畑や平屋の家に何人もの農夫が出入りしていた。
「ロダリクさんっ!」ザリが大男に声をかける。あの人がロダリクさんなのだろうか。背はザリより頭ひとつ高く、農作業で鍛えた腕は太い。
「ああ、ザリ」「農園を見せてもらいにきたわ、今時間いいかしら」
「もちろん。後ろの子は?」
「アキト・オオタニ。わたしの友人よ」
「はじめまして」
ロダリクは外見のわりに内気らしく声は小さかった。
「マドリームは雨が少なくて土もよくないけど、どうするの?」「いくつかの方法を試している。国王から新しい技術について任されているんだ。遠い異国の方法だって」
「ファナーゼも雨が少ないのよ。草原国でも応用できるかしら」
2人とも専門のことについてはどんどん饒舌になっていった。話に半分置いていかれている俺を連れて外に出る。
「これが石並べ方」そう指した狭い畑には大きな石が敷き詰められていた。石のすきまからひょろひょろと草が生えている。
「石をどかして畑を耕さないの?」「石が大切なんだ。そのままだと土は水分を捕まえられず乾いてしまう。この辺は昼夜の温度差が激しい。石を並べれば土が乾かないし、夜の露がたまって水分補給になる」
「なるほど」
ザリは感心していた。俺は首をひねる。これどこかで…… なにを植えているか、どこを注意しているか熱心な質問をするザリをよそに、俺は違和感をつきとめようとした。
次にロダリクは広い畑を見る。かなり広く土地を使っているのに、草が生えているのはごくわずかなところだけだった。
「畑を全部使わないの?」「使わない、これは水集め方なんだ」
「どういう仕組みなの?」
思い出した。俺は口をはさむ。
「地面に傾斜をつけて一部だけ水が集まるようにしているんだ。畑全体では少ない降水量でも一部に集中すれば普通の水量になる。その一部だけを使って畑にするんだ」「アキト、君は農夫か?」
ざんばら髪のロダリクが驚いたように俺を見た。いや農夫じゃない。俺の家は普通の会社員だ。
「テレビでやっていたんだよ、NHKの。沙漠地域の農業で、大学の先生が沙漠に緑をよみがえらせるんだけど、それで紹介されていたんだ」ぼんやり見ていただけで内容を覚えていると思わなかったけど、間違いない、これは日本の最新技術だ。
それがどうして科学後進国のカーリキリトにあるんだ?
俺の言ったことを理解しきれない薬草士2人を無視して俺は考えこんだ。ただの偶然か?
ザリはロダリクから農業技術を学び、乾燥に強い植物についてじっくり話し合い、お礼に数種類の種を渡して帰った。
「アキト、考えごと?」帰り道ザリが聞く。まだ日は高かった。
「うん、あの農業法と同じものが日本にもあって、ここで使われている。絶対変だ。偶然と思えない。でも関係していると思うのも、なんだか考えが浅い気がする。帰ったらキャロルと話してみる」「それがいいわね。キャロルだとまた別の視点で見るから、新しい発見があるかもね」
馬をのんびり歩かせながら俺は謎をひとつしまった。きっとそうだ、帰ったらきっと解決するさ。すっきりした俺は大通りに目を向けた。露店ひしめき歩くのも大変そうだ。ここを馬で通るのは人に迷惑なので、別の空いている道があるならそっちに行きたい。
と、俺たちの前で色鮮やかな巾着が落ちた。落とした人は砂よけの頭巾と襟巻で、目以外をすっぽり覆っていて気づかない。人波にまぎれてしまう。
「そこの人っ!」ザリが叫んでも気づかない。
「もう」ザリは黒海から降りると俺に手綱を渡した。え?
「届けてくるわね」巾着を拾って走り出した。通りに入っていく。馬上から見る限りなかなか追いつけなくて四苦八苦のようだ。
ザリ、親切なのはすごくいいことだけど、俺は黒海動かせないぞ。幸いザリがいないからといって即振り落とされはしないけど、動かせない。
どうしよう。もし黒海が自力で動きたくなったら止められないし、道の真ん中で立ち往生しているのも客観的に見て賢くない。
ザリみたいに降りてすみで待つか。でも俺は馬の乗り降りを自力でやったことがないんだよな。今までの数少ない機会はみんな人の手を借りていた。人がまたがるところはかなり高いし、動いて柔らかいものだから乗りにくい。でもこのままのほうが不安だし、ここはひとつやってみるか。
「よいしょ」黒海の首を両腕でしっかりつかみ、右へずれていく。予想ではなにごともなく着地できるはずだったのに、黒海がつかまれるのを嫌がって首を振って後じさりした。おい。
「黒海、動くのをやめてくれ。じっとしていればすぐ降りるからさ。頼むよ、少しだけでいいんだ」黒海は話を聞いてくれなかった。ますます首を激しく振り、しっかりつかまっていたのが災いして俺は前のめりになってそのまま落ちた。足から落ちたのが幸いだった、怪我ひとつない。周りからひそやかな笑い声がして俺は恥ずかしくなった。人の言うことを聞かない黒海が悪いんだ。
とにかく降りた。次は黒海をすみまで引っぱっていくことだ。俺は手綱を力任せに引いた。黒海はびくともしなかった。
「あれ」ザリは手綱一本、下手すれば優しい声だけで黒海をあっちへ動かしこっちへ動かしているぞ。この馬、人を見ているな。俺がやっても動かない。
「こっちきてくれよ、もう」全身の力をこめても動かない。困り果てて、ひたすら黒海を見上げていると助けが降ってきた。
「なにやっているの」「ブロッサム!」
買い物中らしくごぼうのような根菜をかご一杯に持って、ブロッサムが俺を見ている。
「いいところにきた、助けてくれ」「は? なにを?」
事情を訴えると馬鹿にしながらも手伝ってくれた。2人がかりでなだめすかし押すとようやく黒海は動いた、これで一安心。
「助かった、ありがとう」「この馬アキトの? 大きいわね」
「いや、ザリの黒海」
「赤い髪の人? 背の高い」
「うん、そう」
「馬から落ちたところも見たよ」
見たならその時点で助けろよ。
「落ちたんじゃない、降りたんだ。ブロッサムは買い物中?」「そう、今神殿に帰るところ」
「俺とザリもそう。今ザリが戻るのを待っているんだ」
なかなかザリは帰らない。落とした人がよっぽど遠くにまで行ったのか。
「神殿か。ギンコさま元気?」「普通。外出できないけどね」
まだ謹慎中か。元気なのはいいことだがそれはよくない。
「平気なのか?」「ギンコさま? 外出できないから話に飢えていらっしゃるようでアキトたちの話を聞きたがっているよ。だれはどんな人なのかとか、なにをしているのとか」
キャロルの話がよみがえる。ギンコが俺たちのことを知りたがり、ブロッサムを使って聞き出している。やっぱりギンコはラスティアと協力していて、俺たちを探っているのだろうか。
目の前が回った気がした。俺はさりげなく「ザリはまだかな」と大通りを見る。これ以上ブロッサムと話すとぼろが出そうだ。
「いないな」「あれがそうじゃない。奥の広場で話している人。赤い髪よ」
「どれどれ」
いた。だれかと話している。巾着は持っていないみたいだ。もう渡したのか。
話し相手はフォールストだった。ライラック姫のところで見た、ちょっと洒落た上掛けを羽織ってリュートを抱えている。2人だけじゃなかった。小さな集団は3人いた。
3人目は。
俺は力が抜けて黒海にもたれかかった。馬が迷惑そうに身をよじるが構っていられない。農園もギンコも消し飛んだ。
「響先輩!」3人目は響さんだった。日本刀を持つ同郷者だった。