普段怒るのもさめるのも一瞬、人間湯沸かし器な性質の人間が静かに怒るのは怖い。
城に戻ってもイーザーは俺を見ようともせずに部屋にこもった。こっそり壁に耳をつけてみたが、悪態も暴れる音も聞こえない。ますますまずかった。
「どうしたのよ」のぞこうかと悩んでいたらキャロルに見つかった。今日はきつい桃色のドレスを着ている。とっかえひっかえよくもまあ服があるものだ。最大2着だった道中とは大違いだ。
俺が事情を話すと小首を傾げ「ザリの部屋で詳しく話そう」俺の手を引いた。なんでザリの部屋なんだろう。キャロルの部屋は散らかっているのかな。
ザリに与えられた部屋は間取りこそ俺と同じだったが、受ける印象はまったく違っていた。あちこちに花が飾られ、テーブルクロスはレースだった。
そして机の上には見慣れない本が散乱し、メモ書きがそこらについていた。乳鉢乳棒小瓶が当たり前のように床に転がり、草の臭いと混ざり合ってなんともいえぬ部屋の香りとなっている。ザリの本業は順調のようだった。
「ザリ、こんなところでまで勉強か」「聞いてアキト。昨日知り合いになった方の薬草園を見せてもらったのだけどとてもすごかったわ」
「後」キャロルはきっぱりさえぎる。
「趣味のことは後回しにして。アキト、さっきの繰りかえして」
俺はもう一度同じ話を繰り返した。終わる頃にはザリは床を簡単に片付けお茶を3人分入れる。香ばしい香りが広がり、部屋の臭いがますます訳が分からないものになった。
「まったく、どうしようもない」キャロルは当たり前のようにお茶をすする。
「イーザーはまだ怒っているの?」「怒っている。当分続くだろうな」
「さめない怒りはない、いつかは自分で飽きるわよ。その後もブロッサムとの友情が続くか絶縁かは知らないけど」
「絶縁か。そこまで行くのかな」
「さぁ、なんとも」
自分に置き換えて想像してみる。例えば高2になってクラスが離れた関口に会いに行く。関口と新しいクラスメイトが固まっていて、そのうちひとりが「なんだこいつ」と俺を指す。関口は恥ずかしそうに「大谷、後でな」とか「おい、クラスにこないでくれよ」と言う。
考えただけで腹が立ってきた。何様だよと思うし頼まれなくても関口のクラスに行く気にならない。どうせクラスが離れ離れだし、会おうと思わなければ会わない。そのままずるずると赤の他人になることも大いにありうる。イーザーとブロッサムも同じ道をたどるのか。
ブロッサムが悪いのか。そうでもない気がする。ブロッサムは言葉を使い間違えただけで、一番悪いのは正面切ってイーザーを怒らせたギンコだ。偉い巫女だ偉い巫女だとちやほやされすぎてぼけたのだろうか。初対面の人間をいきなり悪く言うなんて普通はしない。
だれが悪いのかの結論を出していると、ザリが邪気のない瞳で言った。
「キャロル、なにを考えているの」「色々と。あたしの中で答えがまとまったら伝えるわ」
「ひとりでなんでも抱えこまないでね」
「はいはい。ひとまずの危機はお茶会ね」
お茶会? ライラック姫が誘ったあのお茶会のことだろうか。どうしてそれが危機なんだ。
「イーザーも招かれているけど、今のイーザーをとても貴族さまの前に出せないわ。本心を隠して礼儀正しく振舞えそうにない」「休ませるか。急病って嘘ついて」
「あまりしたくない。ただのお茶会ではなく上流貴族のやることだから、ひとりひとりに席が設けられて人数分のお菓子が用意されているのでしょう。呼ばれた立場で空席をひとつ作るのはね」
「よかったら、わたしが代理で出ようか?」
ザリが思いもよらぬ助太刀を申し出た。キャロルが吟味するように10秒黙って「そうしてくれるとすっごく助かる」受けいれる。
「これで問題は解決。後はイーザーの機嫌が直るまで放っておくか」「え、仲直りさせないのか」
当然そうするものだと思っていた。
「なに言っているの。なるようになるわよ。イーザーの友人関係についてあたしたちが口出しをしてもしょうがない」「キャロル、ここは口を出すべきよ」
ザリは俺の味方だった。キャロルは嫌そうな顔になる。
「おせっかい」「なんとでも言って。ブロッサムという子はイーザーを傷つけた自覚があるから後ろ冷たくてもう近寄ってこないでしょうし、イーザーもそんなに怒っているのなら自分から歩み寄ろうとはしないわ。だれかが仲介しないと」
「友だちとけんかして縁切りなんてよくあることでしょう、いちいち関わっていられないわ」
「ブロッサムはわたしやキャロルのようにイーザーと一緒に行動した仲なのでしょう。ただの知りあいではなく大切な仲間。そんな人と行き違いで仲たがいなんて悲しいわ」
「けんかしたいのならさせておけばいいじゃない。自分でそれくらい処理できるわよ」
「キャロル、わたしはたかが16歳のキャロルを好きにすればいいなんて見捨てることはしないわ」
「言ってくれるじゃない」
話の雲行きが怪しくなってきた。キャロルは騒ぐなと投げやりで、ザリは子どもに言い聞かせているようでキャロルの癇にさわっている。とにかくなだめようと俺は立ち上がった。途端つつましやかなノックが聞こえた。
「アキトさま、いらっしゃいますか」聞き覚えがある。
「ジェズモさん」「だれ」
「俺の部屋で働いている使用人の人。なんの用です?」
扉を開けると灰色の髪を固めたジェズモさんは重々しげに伝えた。
「火神殿の使者、ブロッサム・チェルホさまがお見えになっています」張本人がやってきた。
急遽場所を俺の部屋に移す。ザリの部屋はちょっとまずい。ザリとザリの仕事に理解のある人でないと怪しい人に思われてしまう。
俺の部屋できょろきょろ待っていたブロッサムは、ようやく入ってきた俺がひとりでないことに驚いたみたいだった。気を取り直すように首を振る。
「アキト」「くるとは思わなかった、ブロッサム」
「イーザーのことで話がある。悪いけど、後ろの人たちは遠慮して」
「大丈夫、キャロルとザリもイーザーと一緒にいる人たちだから。イーザーについても事情もよく分かっている」
「一緒って、このままエアームへ一緒に?」
いぶかしげに見る。変に思っているのは明らかだった。無理もないけど。でもブロッサム、この人たちは今でこそ着飾ってお嬢様っぽくしているけど、内面はまったく違うから。
「はじめまして、ブロッサム・チェルホ」キャロルがすましてお辞儀をした。「あたしはキャロル、後ろの赤毛はザリ・クロロロッド。ブロッサムのことはイーザーからよく聞いていたわ」「はじめましてキャロル、あたしはブロッサム」
ブロッサムは優美さはなかったが、はきはき答えて礼をした。動作には身体をよく鍛えた人独自の清々しさがある。
「イーザー怒っている?」「すごく怒っている。部屋にこもってなにしているか分からない」
「そっか、しまった」
成長期特有の、身体の大きさにあっていない長い腕でブロッサムは頭を抱えた。
「そんなつもりじゃなかったのに。どうしよ」キャロルが皮肉っぽい目つきで俺を見る。口出しをしたいのだろう。心にしまっておけキャロル。その人は喧嘩っ早いぞ。
「謝りにきたの? 早く行ったほうがいいわよ、イーザーも待っているわ」ザリが優しく肩に手を乗せると、ブロッサムははっと顔をあげた。口元を引き締める。
「違う、あたしはただ様子を見にきただけ」「謝らないの?」
「だれが! 早とちりして怒って帰ったのはイーザーよ。絶対にあたしは謝らない」
ふてくされたように横を向いた。
「どうせいつもみたいにイーザーから話してくる。心配ない」「それは嫌でも顔をあわせていたときの話でしょう。今は違うのよブロッサム。このまま会わないでいると本当に友だちでなくなるわ。今行った方がいいわよ」
ブロッサムはこぶしをにぎり卓を叩いた。カップが落ちて床でくだける。
「うるさい! 説教はごめんだ、だれがなんと言ってもあたしは謝らない!」意地になっている。もうなにを言っても聞かないな。ザリはまだ言い足りなさそうだったが、キャロルがさりげなく静止した。ここで暴力事件が起こるのを望んでいる人はいない。
「それだけ。ちょっとそれだけ確認しにきたの。あたし帰る」「まぁ待って」キャロルが押しとどめた。「あたしにも聞きたいことが山のようにあるのよ、いい?」
言葉こそ疑問形だが有無を言わせぬ態度でブロッサムを座らせる。
「あれから火神殿はどうなった? 大騒ぎになったでしょう」ブロッサムは苦い顔になった。「すごかった。本神殿からも人がきてもうてんやわんや。ギンコさまが錯乱したんじゃないかと言いだす人までいて、なんて奴だ、もっと殴っておけばよかった」
「殴ったのか」
ある意味錯乱していたと思う方がいいんじゃないか。正気でそんな発言する人だったと認めるよりはずっといい。
「ギンコさま? なにもおっしゃらなかったわ。それをいいことに本殿の奴らギンコさまに外出禁止とか。あたしにもくれぐれも注意しろだってさ!」
憤慨したようにブロッサムは床を踏み鳴らす。いらだちがすぐ表に出る人だな。
「ブロッサム、あたしたちラスティアという人物について調べているのだけど、知っているの?」「ラスティア? イ−ザーもそんなこと言っていたわね。知っているわよ、ギンコさまがよく話していた」
キャロルは大したことでもなさそうに「初めから教えて。どんな小さなことでも飛ばさずに」ゆっくり言う。落ち着いているな。俺は今にもつめよらんばかりなのに。
「いいけど、別に。えっと、名前はラスティア・ラガス。マドリームのどこかの村の生まれ。親なし。
小さなころから雷使いの才能を発揮していたのでバイザリムに呼ばれたんだって。そこで魔法も勝手に身につけて、ばれて大騒ぎ」
「でしょうね。想像できるわ」俺にはできない。そこまで大騒ぎすることなのか。
「精霊使いとしての力も巫女並み、男のくせに高位女性巫女に匹敵するくらいで、神子なんて呼ばれていた。頭もすごくよくって学問をあっという間におさめて、もう天才だ大天才だと期待されたんだって。今もいればマドリーム一の有名人だったのにね」「今はマドリームにいないのね」
「いない、ある日突然いなくなった。誘拐されたんじゃないかって探したけど、もう諦められた。10年以上の話よ」
「ラスティアの精霊使いとしての力かはよく分かった。魔道士としての力はどのくらい?」
「んー」
ブロッサムは上をむいて考えた。目がくりっと回る。
「少なくとも一人前以上のはずよ。イーザーよりは上。ギンコさまの話をもとにしたあたしの推理では、そんじょそこいらの魔道士じゃ太刀打ちできないくらいよ」「ギンコさまはラスティアと縁深いの?」
「うん、ラスティアは雷でギンコさまは炎、精霊こそ違うけどギンコさまはマドリーム有数の巫女だからね。たまにラスティアが面会しにきたそうよ」
それは縁深いとは言えない。ごく普通のおつきあいという。
「その程度のおつき合いなのに、ギンコさまはラスティアの話をよくするのよね」キャロルはひとつひとつ確かめるように話した。
「うん」今更ながらにブロッサムも気づいたらしく「あれ。そういえば変だね」つぶやく。
「ほら、きっと天才だからよく覚えていたのよ」「かもね。ありがとう、手間取らせたわ」
「別に、このくらい」
気前よくブロッサムは言って、今度こそ帰った。
「キャロル」「なに」
「なにが分かったんだ。今の話で。俺にはただラスティアはすごい人だってことしか分からなかった」
「今考えているところ。ばらばらの情報を組み合わせたらどうなるかをね」
とはいえ難しそうな顔だった。
「ま、いいわ。棚上げにしておきましょう。そろそろお茶会だし」ふんわりしたスカートの下で爪が床を削る音がした。
赤々と燃える暖炉の火、窓から注がれる柔らかな日差し。部屋はお茶とお菓子、花の香りで一杯だった。白いレースがたっぷり飾られた中に女の子の上品な笑い声がこだまする。
上流階級の人たちがどんなことをして過しているのか、目の当たりにして俺はひたすら驚いていた。右も左も上品でかわいらしい。俺はその中で浮いていた。まぬけな顔をさらして、どうしていいのか分からずにぼんやりしている。お茶会が始まる前からもう帰りたくなった。
幸い浮いている仲間が横にいた。柔らかいクリーム色のワンピースを着たザリも俺と同じくらい驚いていた。俺が女の子たちのひそひそ話や明るい笑い声にうといのと同じようにザリも関わったことは多くないらしい。ほおに手を当てため息をついたが、感心しているのかちょっと呆れているのかは俺には分からなかった。
一方キャロルは即なじんだ。生まれたときから上流階級にいるように礼儀正しく挨拶をして、天気や服装について、話さなくてもどってことないことを大切なことであるかのようにしゃべる。洗礼されているな。
「アキトさま」「ライラック姫」
取り巻きをつれたライラック姫が、どうしたのか俺へきた。
「いらしてくださったのね、嬉しいわ。どうぞゆっくりなさって」ライラック姫は無邪気にはしゃぐ。「ハルクさまは?」「イーザーは具合が悪くなってしまったので、代わりにわたしが参りました。招待していただきありがとうございます」
「ザリ・クロロロッドさま。よくいらしてくださいました。ハルクさまはとても悪いの?」
「いえ、それほどでは。ただ人前に出られないのです。すぐよくなるとは思いますけれども」
嘘というわけではないので、多少はザリも言いやすかったようだ。今のイーザーを人前に出せないのは本当だしな。少し安心した俺は、ようやくのんびりとしたリュートの音色に耳をかたむけることができた。
「街にとても素敵なリュート楽師がいると聞いたので。お父さまにわがままを言って、きてもらったのですの」まぁ本当素敵と取り巻きが感心する中、俺は危うくひっくり返りそうになった。
「フォールスト……!」フォールストは目を丸くして音をひとつはずした。青髪の楽師にとっても、ここで俺たちと会うのは予想外だったのだろう。あわててリュートに集中する。
久しぶりに見たフォールストは宮廷用に衣装を整えていた。髪はポニーテールにして、黄色と緑の大きな外衣を肩がけにしていた。いつもよりすました、けれども真剣な面持ちでリュートを爪弾く指が踊る。俺の化け方と違い、なかなか堂々とした宮廷音楽家の姿だった。
「アキトさま、おかけください」「あ、はい」
見とれている場合ではなかった。キャロルの推測どおりひとりひとり席が設けられていて、それぞれ複雑な文様のティーカップに銀のスプーン、パンには蜂蜜クリーム、複数のジャムがそえられている。食べる前に甘さでしびれてしまいそうだ。キャロルは正しかった。欠席者を出してはいけない。俺の横にザリ、さらに横にキャロルが腰かける。
優雅なお茶会は始まる。俺たちの普段着よりもよっぽどいい格好の使用人が大きいティーポットでひとりひとりにお茶を注いでいく。フォールストの音楽がゆっくり落ち着いたものになり、軽やかな笑い声が大きくなった。
「アキトさまは夏にフォローを旅立たれたのですか。マドリームはいかがです?」俺の前に座った黒髪の女の子が俺を見た。まだそんなにしかたっていなかったか。一年は過ぎたかと思った。
「マドリームですか、えっと」「フォローのような緑あふれた国に比べて、荒野国はさぞ寂しいでしょうね」
うん、そう思う。
でもそんなこと正直に言えないし、どう答えよう。ただでさえない食欲がうせてきた。
「ここもとても綺麗ですよ。間広野を行くのは大変でしたけど、朝とか夕方とか、太陽で荒野が真っ赤になって、俺たちの影がすごく長く延びて。荒野でしか見られない風景でとてもきれいでした」がたん。
テーブルクロスが引きずられて動き、ティーカップが受け皿ごと俺の太ももへ落ちた。「あっちゃ」反射的に立った俺は、ザリがうずくまり背の高い椅子から崩れ落ちるのを見た。
「ザリ!」キャロルがザリの力ない身体を支える。ザリは青ざめキャロルになにかささやく。キャロルは深刻そうに口を結び、「みなさまごめんなさい」礼儀正しく謝罪した。そろって仰天している高貴な姫君へ落ちたジャムまみれのドレスのすそをつまむ。
「申し訳ありませんが、連れが体調を崩してしまいまして。せっかくのお茶会を台無しにしてしまい申し訳ありません。あたくしたち失礼しなくては。アキト」「あ、うん」
キャロルに促されるまま俺はザリに肩を貸した。ザリはなにかにおののくように唇を動かす。さっきまであんなに元気そうだったのにどうしたんだ。俺は今更ながらに不安になった。
「まぁ、大変」ライラック姫はおっとりと寛大だった。ザリは倒れついでにテーブルクロスをにぎったのでひっくり返り、全員のお茶とお菓子をあらかた駄目にしてしまったのにまったく意に介さず即使用人たちに手伝うよう命じる。ザリは姫に感謝しザリを連れ出した。
ザリの部屋まで来るとついてきた使用人に礼をいい、丁重に引き取ってもらうと鋭く俺を見た。
「アキト、イーザーをつれてきて」「え、回復の魔法がいるのか?」
「そう、いるの、だから連れてきて」
「今イーザー怒っているけどくるかな」
「嫌だといったら力づくでも連れてきて。どうしてもきてもらわないといけないわ」
「分かった」
俺は走り出した。ああまでキャロルがきっぱり言うんだ。全力疾走してイーザーを呼ばないと。短い距離を走ってなにごとと驚いている小姓の人を無視し、俺はイーザーの扉を叩いた。
「イーザー? ザリが倒れた、イーザーの力が必要だ」出てこなかったらどうしようか。力づくでって言われても、具体的にどうすればいいのだろう。ドアをぶち破るなんて不可能だし、壁は論外だ。
いざというときはジェズモさんに頼んでカギを借りてあけよう。ジェズモさんは怒るだろうけど緊急事態なんだ、きっと許してくれる。ドアが開けばこっちのものだ、引っ張り出していこう。
勢いよく扉が開いた。
「なんだって?」あれ。すぐに出てきた。
「だからザリが倒れたんだ、イーザーの力を今すぐ借りたいんだけど」「すぐ行く」
部屋を飛び出して走り出した。俺も続くけど、へそまげてひとり閉じこもっていた人とは思えんぞ。
「イーザー、ブロッサムとけんかして怒っていたんじゃなかったのか」「それがどうした、別のことだろ。そんなことでザリを放っておくと思っているのか。怒るぞアキト」
もう怒っているくせに。ぶっきらぼうに告げるイーザーに、俺は賢明にも黙っていることにした。しかし、それもそうだよな。親切で人がいいイーザーが、機嫌が悪いからって助けを拒むはずがなかった。ただ具合が悪いだけなのに生死がかかっているように慌てるなんて、本当にイーザーはいい奴だ。
「ザリ!」扉を蹴破らんばかりに部屋に飛びこんだ。
当のザリは「え?」顔をあげる。手にはメモと巻物で、イーザーがきてもいいようにちょっとは足の踏み場を作っておこうとしているようだった。
「あれ、起きている」アキト? ふりむかれずに問われた。
「ザリが倒れて瀕死じゃないのか」「イーザー、勝手に殺さないで」
目の前で死人呼ばわりされても、ザリは気にしなかった。
「だって、アキトがすぐこいって」「言ったけど、俺ザリが今すぐ危険だなんていってないぞ」
「だましたな」
腹を立てたようにイーザーがにらむ。違うって。言っていない、ただの言葉のすれ違いだ。
「ザリこそ寝ていなくていいのか。部屋が汚いのがいやなら俺たちが片付けるぞ」「ありがとう、でも大丈夫。わたしでないとなにがどうなのか分からないから置いておいて」
あれ。俺を胡散臭く眺めているイーザーじゃないけど違和感を感じた。
ザリの顔色こそよくはないけど、てきぱき座る場所を作る姿は立った今倒れた人の動きじゃない。
「用がないなら俺は帰るぞ」確かにこの様子ではお呼びじゃない。
「駄目」ザリが止めた。背を伸ばし、きっぱり断言する。
「用があるの、ここにいなくてはいけないわ。キャロルが帰るまで待って」珍しくはっきり用事を突き出したザリには、逆らいがたい雰囲気があった。自分が面白くない以外の理由もないし、イーザーは立った今紙が散らばっていたところに腰を下ろした。
「あれ。キャロルはどこだ?」「ミサスを迎えに行ったわ」
「え?」
それはイーザーよりはるかに難関だぞ。なんて言えばいいのか見当もつかない。イーザーの勘違いじゃないけどザリが死んだと言っても出てくるかどうか。
キャロルは俺には想像もできない魔術を使ったらしい。帰ってきたキャロルの後ろにはちゃんとミサスがいた。
「ミサス? どうやってだまされたんだ?」「だましてなんかいないわよ。正しく伝えたらついてくる気分になったらしいの」
キャロルはやや神経質に周りを見て、もっと部屋真ん中に固まれと言った。
「なんだよキャロル、やけに気を使うんだな」「盗み聞きされたくないのよ。ザリ、本題をどうぞ」
キャロルだけでも聞き捨てられないことを聞いたのに、ザリはそれさえ消し飛びそうなものを抱えていた。
「お茶会の食べ物に毒が入っていた」「あ、わたしは飲んでいないわよ」
ザリがあわてて付け加えたくらいなのだから、よほど俺たちの顔が分かりやすかったのだろう。でもそんなことを言っても驚きは減らなかった。
「な、なんで?」俺の頭は真っ白になった。「なんで毒が?」「それより、どうして分かったんだよ!」イーザーが俺を押しのけた。
「そんなの、見て分かるわけないのにザリはどうやって気づいたんだ?」
「イーザー、静かに。
臭いよ。わたしは目が悪い代わりに鼻が利くし、仕事上薬草や毒物には詳しいの。人間が飲むと即呼吸困難になる致命的な毒草の、特有の甘ったるい香りがしたの。どの食べ物に入っているかはわからなかったけど、とっさに倒れた振りをしてテーブルクロスを引っぱって、お茶会をめちゃくちゃにしたわ」
「あれわざとだったのか!」「アキト、声が大きい」キャロルが冷たく俺をにらみ、ザリは恐縮したように縮こまった。
「キャロルに迷惑をかけたのは悪かったわ。まさか毒の臭いがするからお茶会をやめてって言えないし、とっさに思いついた手段がそれしかなかったのよ」
「いい考えだったわよ、ザリ」珍しくザリがほめた。
「駆け寄ってきたキャロルに毒がと伝えたら、すぐもっともらしい嘘をついてごまかして引きあげた。このことについてすぐ伝えないといけないからイーザーとミサスを呼んだの」
ザリは正直そうな顔をしているくせに、キャロルと共謀して俺ふくむお茶会にいた全員をだましたというのにもびっくりした。あまりにも混乱しすぎて、俺はついどうでもいいことを聞いた。
「ザリは毒があることに気づいたのに、キャロルは気づかなかったのか」キャロルは苦い顔になった。
「悪かったわね、分からなかったわよ」「アキト、キャロルは地下道の一族なのだから仕方がないのよ」
ザリが弁護した。なんだそれ。
「街ねずみの獣人地下道の一族は極めて病気に強いのは知っている?」「うん、キャロルから聞いた」
「地下道の一族は病気や毒にとても強いの、はやり病が発生して街が滅んでもみんなけろりとしているでしょうね」
「うん」
「とてもいい特徴だけど、わたしたち人間にはちょっとよくない面もあるのよ」
「あ、それも聞いた。病気のキャリアになって感染しても発病しないで、病気を他に運んじゃうとか」
「そうそう。それで毒に関してだけど、わたしたちにとっての毒はキャロルにとってはなんてことない物質なのよ。なんでもないものならわざわざ見分けたり種類を調べたりする必要はないのよね。だからキャロルは有毒かどうかの判断ができないの。意味も必要もないから」
なるほど。盛られても平気ならわざわざ勉強することもないよな。うらやましいけど、今回みたいにだれかが毒を盛られたら困る。
「種族の体質だし、しょうがないか」
「だから薬もききにくくって大変」
「いや、それは今は関係がない」
イーザーはつっこんだ。「それよりも、なんでお茶会に毒なんてあったんだよ!」
いらだったように質問する。そういえばそうだな、そっちの方が大切だ。
「偶然に入りこむなんて普通にはありえないわよ。だれかが、だれかに悪意を持って毒物を入れたのよ」「だれが毒殺されるところだったんだ?」
イーザーが腕を組む。
「姫さまたちか、ザリとかアキトか? 盛られても平気なキャロルじゃないよな」「分からないわよ。この特異体質はあまり人には知られていないしマドリーム人は異種族には慣れていない。専門家ならともかくちょっとかじっただけの素人には分からないかもしれないかもね」
「マドリームの人たちが俺らに毒を飲ませてどうするんだ? 俺たちは通りすがりだよ、こことは関係がない人間だ」
「じゃあ狙われたのはライラック姫か? いい人みたいだし、なんで殺されなきゃいけないのか分からないけど」
キャロルはわざとらしく、大きく息をついた。
「アキトもイーザーも、貴族というものを分かっていない」「俺が分かっているわけないだろ。日本に貴族はいないんだし、マドリームにくるまで知っている偉い人はアットひとりなんだし」
「開き直るな。つっこみどころ満載のアキトの認識はともかくとして、目標がライラック姫である可能性は低くない」
「なんで」
「なんでって」
キャロルは俺を馬鹿を見る目で見た。
「ライラック姫が消えれば得をする人がいるからじゃない」「そんな理由で殺そうとするのかよ」
「する。絶対にする。当たり前のことでしょう」
「キャロル」ザリが聞いた。
「わたしたちがいる時に、偶然暗殺未遂事件が起きたの?」
キャロルは苦い顔になった。
「偶然だなんて認めたくない。なにかの意図が隠されているはずなのよ」キャロルはそう言うけれども、姫さまが暗殺されるのと俺たちがいあわせたのとどんな関係があるのだろう。偶然とは思いたくないけど裏があるとも考えにくい。どっちにしても無理がある。
「普通ならあたしたちを狙う理由はないのだけどね」「なにを考えているんだ?」その言い方だと、俺たちを狙う理由もあるようだった。
「例えば、ラスティアが裏で糸を引いて一服盛ろうとしたとか」
全身が緊張した。
「ラスティアが?」「フォロー千年王国で魔性を解き放った馬鹿者のように、内部にラスティアに協力する人がいてもおかしくないわよ。あいにくクペルマームのおかげであたしたちはマドリーム中に存在を知られている。ラスティアにとって狙うのは簡単なはずよ。ここはラスティアの祖国だしね」
「ラスティアが俺たちを? なんで毒なんだ。直接襲えばいいのに」
直接襲ってほしいわけじゃないが、そっちの方が簡単なはずだ。
「今までさんざん直接襲いかかってきたけどあたしらは全部切り抜けてきたじゃない。ラスティアが学習していてもおかしくないわよ。実際、もし今日あたしたちが毒の目標だったら。イーザーがすねて代わりにザリがきたのは偶然よ。そのままだったらあたしは毒に気がつかず、アキトとイーザーは死んでいた」「怖いことを言うなよ!」
ぞっとした。毒殺まで紙一重だったのか。イーザーも青くなったが、ややして「待て」キャロルをとめる。
「キャロルはライラック姫がラスティアの部下だと疑っているのか?」「疑っている。招待した本人だしね」
「そんな。あんなにかわいらしくて優しそうなのに、ラスティアの仲間だと言うの?」
「顔と行動を一致させないでよ、ザリ。ザリこそとぼけた顔でお茶会全員をだましたじゃないの」
ザリの顔に赤みがさした。確かに意外だ。
「天真爛漫な人柄みたいだけど、マドリームでも特に上位の貴族の娘だし、分からないわよ。あたしが一番心配しているのは、だれがラスティアの手の者か分からないことよ。マドリーム住民だれであってもおかしくない。使用人か農民か、それとも貴族か。だれに背を向けたら危険なのかが分からない。あたしは分かるまでマドリームを離れるつもりはない、調べるわ」
「どうしてだよ。マドリーム出れば刺客なんて怖くないぞ」「怖いわよ。人気のない田舎でうっかり兵士一団に夜討ちされてみなさい」
なるほど、怖い。
「ラスティアについてはブロッサムのおかげで一応ひとくくりできたけど、もう少しここでラスティアに従っているものはいるのか、いるとしたらだれなのかを探りたい。うっかり後ろから襲われたくはない」俺としても文句はない。イーザーが難しい顔でたずねる。
「いるとしたら、だれが一番怪しい?」「火巫女のギンコ」断言だった。イーザーとしては予想外だったようで、少しの間口を開けた。
「でもキャロル、ギンコは偉い巫女だろ」
「偉くってもラスティアとつるむ時はつるむだろう」
「そうじゃない、そうじゃないんだアキト。精霊使いや巫女の考え方は普通の人と同じじゃないんだ。
浮世離れしているって言うか、権力とか金よりも精神的なものを重要と考えている。精霊ごとの規範って言うか、考え方があってな、より精霊使いの能力の高い人ほど忠実に従う。それは法律とか決まりごとだから守るんじゃない。もっと原始的、欲望みたいにわいてくる考え方なんだ。言ってみれば第二の本能だな。ギンコほど高位の巫女なら、自分の哲学を追うのに忙しくってラスティアにかまっている暇なんてないと思うぞ」
イーザーは補足した「神殿に精霊使いの能力がない神官職があるのもそれが原因だ。精霊使いたちは数が少ない上、独自の衝動に従っている巫女は神殿の雑多な仕事には向いていない、実際に神殿を切り回す人間が必要なんだ」
「じゃあ精霊使いや巫女は全員いい人なのか?」「えー、いや、違う」
なぜかばつが悪そうだ。
「逆らいがたい衝撃に従って法律を犯すことがある。本人はいけないことだと理解しているのだけど、なにせ半分本能だからな」「ウィロウは」急に胸がつかえてどもった。あれから長い距離を歩いてきたのにまだ平気じゃない。
「ウィロウは、そんな変なことはしなかったぞ」
「精霊使いだからそれほど衝動が強くなかったんじゃないのか。能力に比例するそうだし、種族によってもかなり違うみたいだ」
一段落したところでキャロルが口をはさんだ。
「ギンコは昔ラスティアを知っていたし、今でもそれなりの好意を持っている。地位も権力も力もあるし人を動かせる。もしラスティアがバイザリムで協力者を見つけようとしたら文句なしの人材よね。アキト、会ってみてどうだった?」「別に普通の人だったよ」
話にならないとキャロルは床を引っかいたが、俺としてもラスティアと手を組んで人に毒を飲ませそうな人物かと聞かれても。
「そんな人の近くにイーザーの友だちを置いていいの? 助けに行かないと」「あ」
イーザーが腰を浮かせかけるが、すぐに座りなおす。
「知るか。俺はもう関係がない」すねたような顔つきは、言っていることとは裏腹にけんか中でもイーザーが友だち思いだと伝えていた。こんなにあからさまなんだから早く仲直りすればいいのに、ブロッサムが謝るまで折れないつもりなのかな。
「それになんて言えばいいんだ? ブロッサムは老巫女を心から尊敬している。離れそうにないぞ」「いずれギンコと話す時ブロッサムがギンコの近くにいたほうが都合がいい。ブロッサムはそのままにしよう」
「キャロル!」
「もちろんブロッサムの身は守るわよ。あたしたちが狙われていること、ブロッサムも危険かもしれないことを伝えないと。アキトよろしくね」
「俺?」
「イーザー以外ならアキトが一番仲がいいでしょう」
仲がいい? 他人も同然なのだが。そりゃキャロルよりは顔を合わせているけど。
「怪しい人はギンコさまだけ? 他には?」「そこが問題ね。みんな怪しいわ」
「強いて言うならクペルマームは違うだろう。アットの友だちで事情を知っているんだ」
「本当にアティウス殿下の親友なのよね?」
「くどいぞ。昔の冒険譚を知っていたんだ。俺のことも詳しかった。アットと仲がいいのは本当なんだ。もしラスティアがなにかたくらんでいてもアットの友だちには近寄らないと思うぞ。即座にばらされたら陰謀どころじゃない、そんな危ないことはしないはずだ」
「そうね」
キャロルはあまり納得していないみたいだった。
「クペルマーム以外はだれがラスティアの手下であってもおかしくないな。慎重に行動しないと危ない」「イーザー、アティウス殿下への連絡お願いね」
「分かっている」
アットに手紙を出すのはいつもイーザーの役目だった。
「ブロッサムから聞いたことを今から書く。今後の方針も」「あたしたちがどうするつもりかもね」
イーザーはザリの机のはしっこにむかった。俺は自分の紙を取ってこようと部屋を出た。あの分だと長い手紙になるだろう。たくさん持ってこよう。
廊下は寒く、暗がりにだれかが潜んでいるかもしれないとぞっとした。もちろん俺の気のせいだけど。