三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

2. 眠れ、古の夢を見よ

クペルマームの一行は大所帯だった。王子様がいるせいか、使用人に護衛の兵士、天幕や荷物を運ぶティマにティマを世話する人たち、さながらサーカスのキャラバンだ。ご丁寧なことに俺たちを運ぶために2体のティマと引き車まで用意されていて、俺は悪夢のティマ車に乗ることになった。

ティマ車は以前も乗ったことがある。こんなの人間の乗り物じゃないときっぱり諦めた。また乗り心地の悪さは記憶以上だと思いつつへばるはめになった。この太陽の下に出るよりはましだし、なにより用意されたものを断るのはよくない。おとなしく車に乗る。同乗者のイーザーは苦い顔をしてミサスは居眠りをしている。キャロルとザリはもうひとつのティマ車だった。

「アットのやつ、頼む相手を考えろよ」

悪環境の中、イーザーは俺にというより自分に向けて愚痴をこぼした。俺は半分死にながら黙って聞く。

「こんな大人数できて。内密の使命じゃないけど、目立たないにこしたことはないだろ。ったく、恥ずかしいな」
「アットって、友だちが多いんだな」
「そうだな。マドリームにいるなんているとは知らなかった。アットがこうしろと言ったとは思わない。簡単にクペルマームに伝えたら、すごく張りきったんだろうな」

アットの友だちは俺の友だち、イーザーはクペルマームを呼び捨てだった。そんなイーザーの態度を大男は明らかに不快そうだったし、俺の見る限りクペルマームも嬉しそうじゃあなかった。

やっぱり土地が変わると風習も変わるのか。むしろアットが友好的過ぎたのかもしれない。馴れ馴れしい態度は取らないほうがよさそうだが、そのわりにクペルマームは俺たちによく話しかけてくる。おかしなことだった。

昼は暑さと揺れで悪夢のようだったが、夜は至れり尽くせりの待遇だった。食事も寝床もここが荒野だと思えないほど豪華で、使用人は俺たちになにひとつ不自由させないよう働いた。確かに不足はなかったが落ち着かなかった。質素かつ実用的な生活、自分で鍋も出さなければお茶ひとつ飲めない生活に慣れきっているので、今殿様扱いされてもくすぐったいだけだ。

「俺もくすぐったい」

寝る直前、髪を下ろしたイーザーも重々しくうなずいた。つめれば10人は寝泊りできそうな大きな天幕なのに、しいてある毛布は3人分だけ。しかも3人目のミサスは目を離したらいつの間にかいなくなっていた。ミサスだからいつものこととはいえ、どこに行ったのだろう。

「非公式とはいえ、アットからよろしく言われた客をむげに扱えないのか。国の威光もあるしな。確かマドリームは王制だ、王が全ての権力を持っている。その辺の違いもあるんだろ」 「イーザー、俺はマドリームの仕組みを深く知りたいわけじゃない。なんとかこの待遇を悪くできないのか?」
「できないだろ」

キャロルが乗り移ったかのごときそっけなさだった。

「お話中こんばんは」
「うおっ!」
「キャロル!」

当の本人がのんびり天幕に入ってきて驚いた。断りもせずに鮮やかな色のクッションに座りこむ。

「キャロル、外から一声かけてから入れよ」
「脱走して侵入する人がどうして声かけて入るのよ」
「侵入って、天幕の中に入るのは犯罪じゃないぞ」
「あたしの天幕には護衛の兵士がいたわ。大した兵じゃなかったけどね。目をごまかして出てこれたのだから」
「堂々と出てくればいいのに」
「そんなことをする囚人がいてたまるか」

キャロルはこだわっているようだった。

「はい、これザリから。滋養強壮の薬とアキトのために酔い止め。酔い止めは飲むと副作用で眠くなるかもしれないって言っていたわ」
「あ、ありがとう。優しいな。どうしたんだ」
「あたしが親切心を出したわけじゃないわ。行くって伝えたらついでにあれもこれもと持たされて。あたしを配達人と間違えているんじゃないの?」

すごく簡単に想像できる光景で、俺はこっそり笑った。

「配達しにきたんじゃないならなんの用だ」

見るからにまずそうなゲル状の、なにかの匂いをかぎながらイーザーはたずねた。

「あちこち聞いて分かったことを伝えようと思って。クペルマームの父は正真正銘マドリーム国王みたい。クペルマームは末子、カスタノとは叔父と甥の関係なんだって」

どうやって調べたのだろう。

「あの大男は国王の兄弟なのか?」

よくぞ聞いてくれたと、キャロルは唇の両端を吊り上げた。

「違う、カスタノの母親が王の長女なの。国王の孫なのよ。王位継承権は遠いけど近衛兵の一人だからまあまあね」

驚いた。孫?

「クペルマームが叔父で、カスタノが甥っ子なのか?叔父のほうが年下だぞ、逆じゃないのか」
「アキト、ありえない話じゃないんだからそこまで驚くなよ」
「ありえる話かもしれないけど、常識の範囲外だぞ」
「話続けていい?」

キャロルは冷たくさえぎった。そう言いつつも俺たちの反応に満足しているみたいだ、目の端がたれている。

「どうぞ」
「今後のこと。イーザー、クペルマームにさりげなく近づいて話をしてみて」
「いいけど、今度はなにを疑っているんだキャロル」
「全部よ、全部。今まで見ず知らずだった人がこんなに協力するなんて、おかしいと思って当然でしょう。マドリームに裏はないか、クペルマームに裏はないか知りたいの。幸いイーザーは早々にクペルマームと仲良くなった、利用させてもらうわよ」
「慎重なのはいいことだけど、よけいな軋轢を生むし空回りにもなるぞ」
「イーザーが人を疑うことを知らないからでしょう。ミサスは疑っても口に出さないし。あなたたち2人分のお人よしが治ったら考えるわ」

しれっと返事をして「じゃあね」キャロルは行った。後には憮然としたイーザーが残された。


話をしてみてといっても、ティマ車も違えばご飯も一緒じゃないし、自分から積極的に友だちになりたくなさそうなクペルマームをどうやってさぐればいいのだろう。

「不自然でないように探るって、どうやればいいんだろう」

俺は首をかしげて朝食のヨーグルトを口にした。牛乳くさくて甘くない、日本のヨーグルトは甘かったんだなと今更ながらに懐かしむ。

「簡単だろ、アットについて話をしたいって申し出ればいいんだ」
「そんなこと言ったら疑っているようで気を悪くしないか」
「するかもしれないな。でも機嫌をそこねるのが怖かったら情報収集なんてできないぞ」

開き直っているイーザーに俺は感心した。その通りだ。

「今日は俺、なんとかクペルマームのティマ車に乗せてもらう。駄目なら近くを歩く。話をするぞ。当たりさわりのない世間話はもう飽きた」
「それだと牛車に乗るのは俺ひとりか。それは困るな」
「なんで困るんだ」
「話し相手がいなくなってよけいに酔う」
「昨日以上に?」

イーザーはあきれたように、黄色の香ばしい茶に手を伸ばした。ふと視線を動かす。茶のつもりで飲んだらお酢だったような顔だった。

「どうしたイーザー、おいしくなかったか?」
「あれ」

イーザーが指さした天幕のはしっこには、1メートルぐらいの大とかげがゆっくり散歩していた。そんなけったいなものが不法侵入しているにもかかわらず俺もイーザーも落ち着いているのは、トカゲの向こう側が透けて見えているからだ。

「また幻か。部屋の中まできたのは初めてだな」
「食欲がなくなりそうだな。それはそうとアキト、ひとりじゃないだろ。ティマ車にはもうひとりいるじゃないか。ミサスでもいいだろ」
「おまえ、本当にミサスが話し相手になると思っているのかよ」
「ミサスにだって耳はあるぞ。贅沢なこと言うな」

一蹴されてしまった。

当人のミサスは昨日の夜からまた行方不明だった。車が出るころには戻るだろうし、もう姿を消すのにも慣れてしまった。どこに歩いているんだろう。

朝ご飯を食べ終わったら荷物をまとめて出発だ。天幕をたたんでいる使用人を横目に、俺はあっけに取られて荒野を眺めていた。

右も左も化け物ばかりだった。俺の前を竜というより恐竜のような爬虫類が走り回り、ゴブリンの一団が行進して俺をすり抜ける。あまりにも現実離れした光景だった。

「百鬼夜行だな、朝だけど」
「へぇ、アキトよく知っているなそんな難しいこと」

イーザーが感心する。こっちにも百鬼夜行はあるのか。

「今日の幻はすごいな、ミサスあたり紛れこんで分からなくなりそうだ。襲ってきやしないからいいけど」

イーザーはトカゲが天幕に紛れこんだ時気づいていたのだろう、驚かずに「じゃあな」と別れた。俺も自分が乗るティマ車を探す。人が多い上に幻はもっとひしめいているのでそんなことにさえ手こずった。いくら幻が危害を加えないといっても、この量だとあるだけで迷惑だ。

「アキト?」

狭い宿営地で迷子になっているとザリが声をかけてきた。「本物のアキトよね?」と続いたからザリも幻覚に悩まされているみたいだ。

「おはよう、ミサスとイーザーは?」
「おはよう。イーザーはクペルマームと話をしに行った。ミサスは昨日から戻っていない」
「ミサス、どこかで行き倒れていないわよね」

ザリは半ば本気でそう思っているみたいだった。

「薬は昨日の分で足りるかしら。3人分は用意したわよ。ほかに欲しいものはない?」
「揺れない牛車」
「黒海に乗る?

ティマ車よりは揺れないわよ」
「ごめん、やっぱりいい」揺れない代わりに振り落とされる。ただでさえ俺は馬に乗れないのに。ザリはくすりと笑って「体調が悪くなったらすぐにわたしのところにきてね」と立ち去った。こんなに人の面倒を見れるなんて、ザリはよほど面倒見がいいんだな。

やっと自分の使う牛車までたどり着いた。中年の御者と俺より年下の使用人もまた、幻に囲まれて所在なさげにディマ牛に寄りそっている。

「おはようございます。旦那様、お連れの方が」

旦那? 思わず後ろを振りかえる。だれもいない、ということは俺に言っているんだろうな。でも旦那だなんて恥ずかしい。恥ずかしいけどとにかく答える。

「あ、そうだった。イーザーは今日別に行きます」
「いえ、鴉の人です」

なんだ、俺が心配している間にミサスは先に牛車に着いていたのか。

「ずっと中で横たわって寝ているんです、大丈夫でしょうか」
「なんだ。えっと、タブレスさん」心配そうな御者の名前をやっと思いだした。使用人の名前はクムさんだったよな。「ミサスはいつもそうですから平気平気」

能天気に俺は言って乗りこんだ。

確かにミサスは中で寝ていた。2人がけの向き合っている椅子、合計4人用の牛車で2人分の椅子を使って横たわっている。黒の絹布を毛布代わりにかけて、俺が入っても見向きもしない。いつも白い顔はさらに青ざめて、額には大粒の汗が浮いている。俺の見こみが甘かったようだ、ちっとも大丈夫そうではない。

「どうしたミサス、暑さ寒さにやられたか」

返事はない。無視をされるのはいつものこととはいえ、この場合は到底流すことはできない。昏睡状態におちいっているんじゃないか。

「ザリ呼んでくる」

医者が必要だ。急いで飛び降りようとした俺をか細い声が捕まえた。

「呼ぶな。ザリはうるさい」

どんな小声でもミサスの声はよく聞こえる。発音がいいからだ。

「呼ぶなって、どう見ても病気だろ」
「魔力のうねりがひどくて当たった。明日には治る」

うねりがひどいのは外の魑魅魍魎ぶりを見れば分かる。でももうこれは魔力酔いではない。当たったと本人も言っている通り食当たりのようだった。車酔いで人は死なないけど食当たりでは人は死ぬ。

「ザリにもどうすることはできない。うるさいからしゃべるな」
「うるさいって、おまえ人が心配しているのに」

俺は慈愛あふれてはいない。たちまち同情は消えてむっとした。冷静になって、ついでに頼まれたことを思い出す。

「そうだ、ザリから酔い止めもらっていたんだ。飲むか。よくなるかもしれないぞ」
「もらう」
「あれ、どっちがどっちだっけ、忘れた」
「軽いほうが俺。俺の方が薬は効きやすい」
「そうなんだ、確かに子ども用の薬は大人の半分だな」

無視されると腹が立つが、素直に受け取られるのもなんだかむずがゆい。よほど弱っているようだ、落ちつかずに俺は水を口に含んで、茶色の粉末状の薬を飲みほした。俺は薬を水なしでは飲めない。

ザリの言ったとおり、飲むと眠くなった。ミサスの向かいに座ってドラゴンフライの幻の侵入を目で追っているうちに、俺はまぶたが重くなり、ほどなく寝こけた。


荒野をひとりでさまよう夢を見た。水も食料もなく、でも飢えも乾きもしない。ただひたすらに暑く、俺はしたたりおちる汗をぬぐう。頭巾で空がよく見えない。思い切って見上げてみると、予想と反して灰色の空だった。こんなに暑いのに、日差しだってこんなに鋭いのに。

くぼみに足を引っかけ転んで夢からさめた。現実でも腰掛から転がり落ちたらしく、床に寝そべっていて背中が痛い。ミサスは俺が最後に見たときと同じ体勢のまま寝ていた。寝相のいいやつめ。

「あれ」

起きてから気がついた、ティマ車が揺れていない。静かだった。いつの間にかとまっている。どうしたんだろう、俺が寝ている間になにかあったのだろうか。

貫頭衣をかぶって外へ出た。ぐっ、夢よりも暑い。

砂塵で黄土色に染まった貫頭衣の御者が、恐れたように俺を振りかえる。昼をすぎて一番暑い時期、さすがに岩陰に車ごと避難している。俺はとまった理由が即座にわかった。

魔荒野には俺たちの牛車一台だけ立ちつくしていた。あんなに大勢いた人も牛車もみんな消えている。

「イーザーは? クペルマーム王子は? みんなどこに行ったんだ?」

神隠しだ。俺が地平線を見つめていると小柄なクムが違いますと答える。泣きそうな顔だった。

「僕たちが迷子になって、隊からはぐれたんです」

神隠しにあったのは俺たちだった。

「どうして。障害物が岩しかないのにどうやって迷子になるんだ。魔法か?」

俺はたださっぱり分からなかったが、従者は怒られていると思ったらしい。おぼつかなく、幻に取りこまれましたと言った。

「幻?」

つまり、化け物渦巻く幻の中必死で進もうとしているうちに、本物の隊列を見失ったらしい。ようやく昼になって幻像が消えたときにはもう後の祭り。

「魔荒野で人が幻覚にたぶらかされ、消えてしまうという話はよく聞きます。でもまさか本当のことなんて」

幻なんて実害がないからいいやと思っていた自分を心の中で罵った。考えが甘かった。存在するだけで十分迷惑なものもある。

「魔荒野でさまようと戻れないそうです」

そんな苦しみと悲しみに満ちた未来展開図はいらない。もっと明るく建設的なことを考えよう。でもどうすればいいのだろう。実際に牛車を動かす地元民2人にも聞いてみたが、良識あるマドリーム人は絶対に魔荒野に立ち入らないことしかわからなかった。

「じゃあミサスだ。ミサス、迷子になった、どうしよう」

叫んで馬車に飛び乗ると、まだミサスは寝ていた、顔色は多少はよくなっているが、腰かけに横たわっている姿は寝ているというよりぐったりしているという感じだ。まだよくならないらしい。

「忘れていた。どうしよう」

ミサスならなにかできるかもしれない。だが今のミサスは病人だ。俺はうなって外に出る。岩陰なので多少はましになっている。まだなんとか外に出ても平気だ。

冷静に考えてやっぱり道はひとつ、じっと待っていて助けがくるのを願うのみだ。俺たちはどう行けば目的地バイザリムにつくのか知らないし、荒野での歩き方も行き方も分からない。

助けはくるのだろうか。まさかほったらかしにはされないと思うが、こんなところであてなくさまよい消えた牛車を探すのは大変そうだ。目標物はないし大地は硬すぎて車輪跡は残っていない。例え跡が残っていても風で消えてしまう。そんな中どうやって俺たちを探しあてるんだ。

考えれば考えるほど希望が細くなっていく。気を取り直して自分の荷物をあさった。なにか役に立つものがあるかもしれない。

もともと俺たちは5人だけで荒野を越えようとしていたのだから、準備はできる限りしていた。チーズに乾パンなど保存食は山のようにあったし、山羊の革で作られた水袋には水がたっぷりつまっている。重かったけど持ち歩いたかいがあった。懐中電灯はまだ電池が切れそうにないが、どうせ夜は寒くて歩くどころじゃないから別にいい。日本で買った飴の袋も見つけた。賞味期限はいつだと俺はひやひやするも、またまた当分先そうで一安心。でも溶けていないかこれ。同じく向こうで買ったサバイバルの本も見つけた。望みをこめてページをめくるも、あいにく幻像がうろつく荒野で迷子になった時どうするかは書いていない。服は着替えに貫頭衣もある、夜冷えても大丈夫。牛車を家代わりにするならば、これで衣食住はそろった。

「なんだ、いけそうじゃないか」

迷子になった時はもう終わりかと思ったが、意外となんとかなりそうだった。後は助けがくるのを待つだけ、楽勝だ。

あ、でも外の2人と目の前のミサスを忘れていた。3人とも手持ちがないはずだ。ミサスは重いのを嫌がって黒海に荷物を積ませていたし。俺の食料で4人分か。早く助けがきてほしい。

ひたすら待ちだった。太陽が動き日陰の場所が変わるたびに牛車を動かし、じっとして体力を温存し、ただ助けがくるのを待つ。床に座りこみ目を閉じる。湿度がまったくない熱気は身体から水分を情け容赦なく奪い、馬に飲ませるほどあった水は見る見る減った。口が乾いて舌が上あごに張りつく。寝たくても暑すぎて眠れない。

もうだれか俺たちがいないのに気づいたかな。想像をして耐えがたい熱から少しでも気をそらす。

ザリは心配するだろう。キャロルはどんな顔をするやら。イーザーはいなくて幸運だったな、でもここにイーザーがいたらもっといい解決方法を思いついただろうか。幽霊を呼び出して道を聞くとか。

やたら知識が広いキャロルなら迷子になっても戻る方法も荒野をやりすごす方法も分かりそうだし、ザリがいたらミサスを治せただろう。

俺はなにも特技を持っていない、ちょっとはぐれただけですぐこうだ。自分が嫌になってきた。

いや、悲観的に考えるのはよそう。少なくとも俺や水と食料の荷物持ちとして役に立っている。後ろ向きに考えてもいいことはない。反省は後で生かすとして、今はなにも考えずに待ちだ。現状での唯一の方法だった。

今何時だろう。荷物を探って時計を取り出すも、とっくにとまっていて10時を指していた。いつ壊れたのだろう。あまり時間を見ていなかったから分からない。電池はまだあるはずだ、暑さにやられたのだろうか。

時計がなくても時は進む。動かずにいると現実と非現実が混ざり合ってあやふやになる。ぼんやりしている俺の横をエリマキトカゲが走り消える。また幻像が現れた。もう夕方になるらしい。振り返ればあっという間だったが永遠に昼が続くのかと思った。

ほどなく地平線の果てがぼやけて有象無象の姿をとる。あんなに力強かった日差しも和らいだ。直接当たると水ぶくれを起こすので全身くまなく布で覆っているが、それでも今日1日でずいぶん黒くなった気がした。

「まだ、だれもこないか」

他力本願せずに自分でなんとかするべきかもしれない。でもそのなんとかが分からない。いっそ幸運を信じて闇雲に進むか。いや、その考えは荒野を甘く見すぎている。幸運や万が一を信じていい場所ではない。

ミサスを起こそうか。具合が悪いのは分かっているけど、こっちも進退きわまってきているんだ。

夕方の幻はまた一段とすごい。斧を持った半人半牛の怪物が息荒く俺を襲うが、俺は投げやりに手を振ると幻は消える。魔力のうねりというやつなのだろうか。だったらミサスの病気も悪くなっているかもしれない。嫌な予感を覚えつつも牛車に乗りこんだ。

「ミサス、悪いけど」

声をかけると、ミサスはもう起きていた。一日中寝ていたというのに寝ぼけた様子はなく、目は俺を通過してはるか遠くを見すえている。

「おはようミサス、さっそくだけど助けてくれ、今迷子になっている」
「なにかくる」

俺が伝えたかったことはすべて無視された。ミサスは牛車の出入り口から外をうかがい見る。

「今幻がきているからそのせいじゃないか? それよりイーザーと合流しないと」
「幻覚ではない」

ミサスのまなざしは果ての先まで見ることができるのではと思うほど鋭い。俺は救助要請は諦めて付き合うことにした。

「ここには岩と幻しかないぞ。間違えたんじゃないか?」

目の前で幻ははっきりとした姿を取る。一方は鎧兜に身を固めた大軍隊、もう一方は上半身が女の人、下半身が大蛇の魔法使いになる。魔法使いは腕輪で怪物の群れを操り、軍隊と怪物がぶつかる。幻かそれとも昔この地であったことの再現か。こう見ていると俺がいるとも含めて幻のような気がする。

「ミサスまさか、くるものって人間か? 助けがきたのか?」

俺は息づまるほどの期待を抱いた。

「寝ていた俺が、地の果ての人間に気づくと思うのか」

一蹴された。ミサスならなんでもできそうなのに。

「幻でも実在の人間でもなければなんだよ。幽霊か?」
「もっと濃い」

なにがなんだか。

俺を置き去りにしていにしえの戦いは最終局面に入った。蛇の魔法使いの方が高らかに呪文を唱え杖をかかげる。軍隊もひときわ体格のいい、先頭に立っている人が一声叫んで剣を大地につきさす。一瞬の空白の後、白い爆発が視界を染めた。砂塵が天まで昇り、俺は口元を袖でふさぐ。

「なんだよ、なんなんだよこれ! これが昔あった戦いなのか!?」

くぐもった声で、俺は叫んだ。

「あんなのが続いたら、そりゃ荒野にもなる!」

もっと言いたいことはあったが、俺はそれきり口を閉じる。砂煙の中、人影がこっちへ向かってくるのを見た。

その人物は革の外衣が暴風に吹き荒らされるのを気にせず、足どりは確かだった。まるで沙漠にふさわしくない姿だ。頭も顔もむき出しで、全身黄色の毛でくまなく覆われていた。両手首両足首に金の鈴が飾りつけられている。強風に鈴は狂ったように首を振るが、音は聞こえない。長くしなやかなしっぽもまた外衣と同じように風にあおられるままだ。金の瞳は俺たちを見つめている。表情は生真面目だったが、どこか面白がっている風もあった。

俺は知らずに立ち上がって、牛車の天井に頭をぶつけた。かまわず飛び出す。

「グラディアーナ!」

昔日本で出会い、別れた月瞳の一族。猫の獣人。なんでグラディアーナがここに。

グラディアーナは答えず、ただ右手を上げてはるか遠方を指差した。

まだ、こんなところで遊んでいるのですか。

声に出ていない声が、俺には確かに聞こえた。

待っているのですよ。約束した通り。さあ、早くきてください。

グラディアーナは風にあおられ砂煙とともに姿をかき消す。

「あっちだ」

あっけに取られている御者や、いつもと変わらない表情のミサスを無視して、俺は叫んだ。グラディアーナが指さした方向を指して。

「あっちだ、グラディアーナが助けてくれた!」

牛車は動きだす。俺も車の中ではなくディマにつきあって歩いた。また幻が出た時のためだ。見逃したくなかった。

歩きながら物思いにふける。

会ったのはたった1回だが忘れもしない。服装はずいぶん変わっていたがそれだけだった。猫そのものの外見も、面白そうに俺を眺める金色の瞳もそのままだ。やっぱりグラディアーナもカーリキリトに帰ってきたのか。

今はマドリームのどこかにいるのだろうか。早くきてくださいなんていわれても、どこにいるか分からないから困るんだが。

快適な夕暮れはすぐに通りすぎ、寒く凍える夜が訪れる。巨大な夕焼けが牛も人も大地も紅に染めあげる。

「旦那」

タブレスが恐れているように問う。

「差しでがましいですが、本当にこの道でいいのですか」
「グラディアーナが教えてくれた。嘘をつくわけがない」
「でも、荒野の幻については色々言われています。もういない友の姿を取って人を惑わせ破滅させることもあるようです。今の人もひょっとしたら」
「あれは幻じゃなかった、本人だよ。しゃべったし姿もぼんやりしていなかった」

御者は諦めたように黙った。俺は超能力者になったかのように心境を理解した。

第三者からすればとち狂ったようにしか見えないだろうな。俺だって変なことをしている自覚はある。でもあれはただの幻ではなかった。願望が高まるあまり見た夢ではない。意図を持って伝えた事柄だった。例えそのだれかがグラディアーナではなく、その外見を騙っているだけのだれかだとしても、俺はあえて誘いにのろう。

急にぞっとして立ちどまった。そのだれかが敵かもしれないんだった。夕日が沈み紺色の空には星を目一杯ちりばめた夜が広がっている。ようやく俺は気がついた。敵だったらどうしよう。断言した以上「やっぱりやめよう」なんて言えない。凍えるほど寒いのに、俺は全身から冷や汗が吹きでた。

「旦那、明かりです!」

言おうか言わないでいようか悩んでいるうちに、俺たちの運命を司るサイコロは目を出した。タブレスのいう通り、はるか遠くに星ではない明かりが見える。地を這うような、はるか小さい炎の明かりだ。

「やった! 助かったぞ」
「宿営地だ! 追いつけた」

悩みは消し飛んだ。助かった、これで生きて帰れる。

「おいおまえ、先に行って伝えておくれ」
「はいっ!」

従者のクムが頬を真っ赤に染めて走り出す。俺だってそうしたいけど我慢だ。きっとこのままなら空も飛べそうだ、スキップせんばかりに舞い上がる。

「旦那、よかったですね。こんなことがあるだなんて信じられません」
「そうだろそうだろ、グラディアーナに感謝しないとな」

しばらく歩いていると明かりが近づいてきた。気のせいか前見たときより人数が減っている気がする。俺たちを探しに行っていて宿営地に人がいなくなったのだろうか。だとしたら悪い、早く帰って安心させないと。

クムが帰ってきた。行った時とはうって変わって困った表情をしている。

「どうした、おまえ。ちゃんと戻ってきましたよとお伝えしたのか?」
「いえそれが。あれはぼくたちの宿営地じゃありません」
「なんだと」
「荒野民の天幕です。火をたいて囲んでいるのも荒野民です」
「なんだって!」御者はとびはねた。俺にはなんなのか分からない。
「荒野民ってなんだ」
「荒野に住む人々です。かつては人間だったかもしんねぇですけど、今では人間とは似ても似つきません。肌は真っ黒で尾っぽの生えた化け物です。人をさらって鍋に入れちまうといいます、逃げましょう! 荒野よりよっぽど危険です」
「キャロルだってグラディアーナだってしっぽはあるぞ。危険なのか?」
「危険です。間違いなく危険な連中です」

がっかりした。暖かい火もきっと飲み水もあるのに、そこに住んでいるのは危険ときっぱり言われた人外なんて。いい加減寒い。震えは止まらないし直接外気に触れている肌はもう感覚がない。俺たちには安全な宿が必要だし、牛にも俺たちも水がほしい。でもスープの具になる危険を犯していくか。どうしよう。

悩んでいる俺に、しかし選択肢は実のところなかった。

「旦那、命あってのものだねです、引き返しましょう」
「う〜ん」

タブレスはさかんに俺をせかす。牛車の戸が引かれ、ミサスが気だるそうに出てきた。

「ミサス、ちょうどいいところに」
「囲まれている」
「うえっ?」

ミサスの発言には主語が抜けていたのでなにが言いたいのかよく分からなかった。「ひっ」クムがすくみあがり、牛車の周りで人影がじっと眺められているのに気がつく。

背はミサスと同じくらいに低く、さらに灰色の貫頭衣を着て背中を深く丸めているので小人のように見える。頭巾の奥にある顔は真っ暗でなにも見えない。ただ無機質に、機械のように冷ややかに俺たちを見つめる金色の目だけが印象に残った。太い爬虫類系のしっぽが貫頭衣からはみ出て地面を引きずっている。灰色の服の下にはトカゲ人間がいるのだろうか。

俺たちが気づいたと分かるや、荒野民は手にしている角灯の蓋を開けた。本も読めない、ぼんやりとした明かりだったが暗闇に慣れた目にはまぶしい。

今のところ荒野民は襲ってきそうにないが、腰に厚く広い、短めの刃がささっている。戦うつもりはあるようだ。俺はスタッフを握りしめる。もし戦いになったらどうしようか。この人数だ、到底勝てそうにない。シチューの具は嫌だ。

不毛なにらみ合いは続く。お互いしゃべらず、手も出さず。向こうは先に仕掛けてくる気はないらしく、御者のタブレスと従者のクムはすくんでなにも言えない。ミサスは彼らなんて眼中にないかのようだった。

俺は自分で思っているほど忍耐力がなかった。硬直状態に耐えられない。悪い結果になろうとも、事態を動かしたくなった。

「あの、こんばんは」

異種族交流の基本はまず挨拶から。小学校で習ったことに、俺はそろそろ疑いを抱いている。それでもほかに言うことが思いつかないからしょうがない。牛車の2人は抱き合って飛び跳ね、荒野民は反応をしない。

「怪しいものじゃあありません。ただの迷子です。もしよかったら水を分けてください」

言ってから後悔した。直接的に言いすぎたか。荒野民は2人3人で、きゅうきゅう皮をこすり合わせたような声を出して会話をする。ひょっとしたら言葉が通じていないのかもしれない。だったらお手上げだ、どうすればいいんだ。

荒野民の話し合いは続いた。うち1人が、ミサスを4本しかない指で指す。少し騒がれた後、また声が抑えられた。なんだろうとミサスのやる気のない顔を見る。そういえば、俺はともかくミサスが大人しく食われる訳がない。逆に完膚なきまでに荒野民を叩きのめすだろう。そう考えると少し安心する。

荒野民の話はまとまったようだ。ぞろぞろ自分たちの住居、火が見える地の彼方へ帰っていく。その中でひとりだけが俺たちへ向かう。真意を測りかねている俺の手をつかんで、彼らの集落の方へ引っぱった。手は意外と大きく乾いていて、体格の割りに力が強かった。急なことに驚いて動けない。

「旦那!」
「こっちにこいって言いたいのかな」

言葉も顔つきも分からないが、敵意はなさそうだ。ただ引っぱるだけ。俺は落ち着きをとりもどし、荒野民が引っぱる集落へと、自主的にされるがまま流されることにした。タブレスがあわてて牛車を引き、みんなで荒野民の住処へと向かう。

荒野民の集落は意外と普通だった。天幕があり大きなたき火がある。天幕はクペルマームのよりはもちろん、俺たちが持っているのよりはるかに古ぼけていて痛んでいた。生活用品といい服装といい、粗末で原始的なものだった。荒野民全員仕事を放棄して俺たちを凝視している。

「驚いたな、こんなところにも集落があるんだ。ちゃんと生計を立てられるんだ」
不毛の地と考えるのは俺の早とちりだったみたいだ。単に俺が生き方を知らず、適応できないからそう考えるだけで、

国はあるんだし麻みたいに実際に生活している人だっているんだ。荒野に集落があるからって驚くのはひどいことかもしれない。

集落の中央にあるたき火は景気よく燃え盛り、後一歩で鉄くずになりそうな鍋には具がほとんどないスープがよく煮えている。荒野民は火のすみっこまで俺たちを連れてきて、どこからかマグカップを持ってきた。両手でつかむとずっしり重い泥土色のマグには鍋のスープがたっぷり注がれていた。

「あ、ありがとう」

くれるということは、飲んでもいいということだよな。遠慮する理由はないので口をつけた。味は薄すぎるし底には砂が沈んでいる。ありていに言っておいしくない。でも、沙漠で食べ物がどれほど貴重なものか、どんなに大切なものかは分かる。そんな貴重なスープを振舞ってくれた心遣いは身にしみた。

荒野民は火を囲んで自分たちの食事を再開した。注目されているのは分かる、視線が痛いくらいに突き刺さる。あえて無視をしているかのように俺たちになにもせず、いないかのように振舞った。黙々とスープをすすっている。

「信じられねぇです」

タブレスさんがスープを飲むのも忘れてくりかえす。

「荒野民が人と会っても襲わねぇなんて。襲わずもてなすなんて。旦那、あたしは幻に当たったのでしょうか」
「タブレスさんが当たったのならここにいる全員当たっているよ。きっと真心が伝わったんじゃないか」

とはいえ繰りかえされると不安がぶり返す。なんだろう、なんか裏があるのだろうか。ひたすら不安がる2人を置いて、俺はミサスに声をかける。無視されてもくじけないぞ。

「ミサス、なんで荒野民は親切なんだろうな」

ミサスはスープをすすりながら羽根をふくらました。いつも小柄なミサスなのに、羽根を膨らませるととたんに大きくなった気がする。

「なぁ、分かっているなら教えてくれよ」
「無害だから」
「無害?」
「特に群れの中で指導者であるアキトが、むやみに人に危害を加えず、異人種にも偏見を持っていないことが分かったからだ。自分たちに危険はないと判断したのだろ」

なんだそれは。

「俺が無害なのはなんとなくすぐに分かる。武器は棒だけだし、どうしようもなく俺は弱くて、とうてい危険人物に見える訳ないだろうし。でも人外に偏見を持っていないなんて分かりようがないぞ」
「明らかに人外である俺と気軽に話した。そこから敵でないと思われたんだ」

分かるようで分からない理屈だ。

「もし俺たちがミサスをいじめているようだったら、俺たちは食われていたのか」

無視をされた。想像しても楽しく明るい未来ではないので考えないことにした。今は幸せだし荒野民も優しいからいいや。

グラディアーナは知っていたのだろうか。迎えられることを分かっていたのかもしれないし、とりあえずの避難先を教えて後はなんとかしてくださいよだったのかもしれない。どのつもりか分かるほど、俺はまだグラディアーナについてよく知らない。

ふと思いついてミサスに声をかけた。

「ミサスは、俺がグラディアーナを見て騒いだ時もなにも言わなかったよな。なんでだ。ひょっとしたら罠だったのかもしれないし、実際下手をしたら戦いになったのかもしれない」

ミサスは答えずに、まだ中身がたっぷり入っているマグを抱えていた。俺のマグは当に空になっている。いらないのなら分けてほしい。答えをもらうのは諦めて、別の話題に移った。

「あのグラディアーナは何者だったんだろう。本物な訳はないけど、でも幻というにはなんだか」
「夢だ」
「え?」

夢? じゃあ俺は白昼夢を見ていたのか? 俺ひとりじゃなく全員が見たんだぞ。そんな馬鹿な。

「身体から心のみを抜け出してきた。生身ではない」
「ラスティアみたいに?」
「あれは影送り。グラディアーナの使った技は心飛ばし。影より濃い、やり方も簡単で害がない。月瞳の一族は心を扱い精神を自在に動かす特力を使う。その中のひとつだろう」

精神体というやつか。

「そんなにいいことづくめなら、どうしてラスティアも同じことをしないんだ」

無視された。「どうしてなんだろうな」わざとらしくミサスの目をのぞいて繰り返す。日本人の俺より黒い瞳は迷惑そうに俺を見つめ返した。

「心飛ばしは生身の人間を傷つけられない。心が死ねば本人も死ぬ。影はそれがない」

一長一短、長所と短所は紙一重だった。

「加えて、月瞳の一族の特力は月瞳一族しか使用できない。その獣人特有のものだ」

だったらしかたないか。

納得したので俺は近い将来について考えた。

「助けはくるかな。イーザーたち心配しているだろうな。キャロルに怒られたら怖いだろうな」

タブレスの前では気を張っていたが、ミサスにそんな遠慮はしない。ミサスは俺が気丈に振舞おうが振舞わないでいようが、どうしようともくじけやしないだろう。気にされないかもしれない。

「助けがくるとしてもどれくらいかかるんだろう。置いていかれたらどうしよう」

軽い気持ちで発言して、自分で落ちこんできた。

「すぐ助けはくる」

ミサスの口から直接聞いたというのに、ミサスの発言だと信じられない。思わずマグカップが手からすっぽ抜ける。だってミサスが、人を慰めるだなんて。

「熱でもあるのか。そういやさっきまで病気していたのな。脳をやられたのか」
「事実を言っただけだ」

無礼千万な俺にミサスはいつもの素っ気なさで答えた。

「消えたことが分かったら大騒ぎをして探しはじめる。俺たちはマドリームに国として連れて行かれている。いなくなられたら困るだろう。加えて、イーザーは情に厚くキャロルは自分よりアキトが大切だ。ザリは愛情深い。探しださない理由はない」
「もしも、クペルマームが沙漠は危ないから後にしようって言ったら」
「クペルマームごときで行動を諦めない」
「クペルマームが牛を貸してくれなかったら、歩いて荒野を探すことになるぞ」
「黒海がいる」

ようやく安心した。それと同時に少し嬉しくなる。

「ミサス、見ていないようで意外と見ているんだな、俺たちのこと。性格とか、どう行動するかとか」

普段全然口をきかないし寝てばかりで、俺たちのこともどうでもいいと思っていた。

「なんだかすごく嬉しいな」

俺は深く考えず正直に言ったが、言ったとたん逆に考えた。

ミサスは俺たちについてちゃんと見ている。じゃあ俺たちはどうなんだろう。俺はミサスのことをきちんと理解しているのか?

なにかあった時、ミサスならこういう行動を取るだろうなと推理することができるだろうか。

なんだかんだでもう長いつき合いだ。ずっと生死を共にしてきた。もう一見無表情しかない顔に今なにを考えているのか、なんとなく理解できる気がするし、ミサスならああするこうすると考えられる。

でも俺は、ミサスのことを知っているとは言いがたい。ミサスのこと、ミサスの過去についてなにも知らない。

「ミサスは、今までどんな人生を送ってきたんだ?」

思いつきの質問だった。

「今までミサスはどう生きてきたんだ。どんな人として暮らしてきたんだ」

無視をされた。なんでだよ。

「あ」

ミサスは以前言っていた。俺くらいの年だった自分を知っている人間はもういない。それはつまり、きっと生きていないということなのだろう。きっとずっとこんな危険なことをして生きてきたんだ、ミサスはこうして生きのびて、もう伝説のような傭兵魔道士と呼ばれている。だれもついてこれなかったのだろう。

「ごめん、失礼な質問だったな。今のミサスを知っているんだから、それでいいよな」

今のミサスならよく知っている。話題がころころ変わる俺を、どことなくあきれたように見ているミサスならよく。火が大きくはじけてミサスの顔にうつっている陰影が揺らいだ。

「無表情で、怠け者で、自分から行動しないけど最強の魔道士で、いざって時は電光石火の行動をする黒翼族。容赦がなくて、身体はすごく弱くて、他の人でもできることは絶対に自分からはしないし、いつもうたたねばっかりだけど寝ていないも同然に寝起きがよくて、実は結構人がいい」
「人がいいと言われたのは初めてだ」

無視をされなかった。珍しい。

「だってそうだろ、今もそうだし、そもそも俺たちに同行していること自体がそうだ。

そりゃアットにお金で雇われているけどさ、でもそれは俺たちも同じだ。俺たちだってアットにお金をもらって、それを旅の資金としている。

それにもう、お金のためっていう段階じゃあなくなっているだろ。ミサスと互角以上に戦えるラスティアが敵で、フォロゼスは壊滅の危機に投げこまれて、レイドでは暴動に巻きこまれて、マドリームでは沙漠を通りすぎないといけない。いくら大金をもらっているとはいえ、危険すぎるし辛いよ。それなのに黙って、涼しい顔をして俺たちの最後を歩いてきている。それ、実はすごいことだろ。俺は嬉しいぞ、ミサスは自分の意思でついてきてくれるんだなって。そろそろいくらお金をつまれてもやりたくないような大変さなのに、やめるなんて言わないんだから」

ミサスは虚を突かれたように目が大きくなった。羽根がふくらみ、俺から視線をはずす。

俺、驚かせることを言ったか? おかしいことを言ったのかな。なにか見当違いなことが混ざっていたのかもしれない。

今の発言について考えていると、ミサスが頭をあげた。俺もつられる。

たき火の外は夜の闇がおおいかぶさりなにも見えないが、俺は力強い音を、馬が大地を蹴る音を聞いた。荒野民が騒ぎだす。

「ザリだ!」

俺はさっそく立ち上がり、赤毛の友人を迎えようと音のする方へ走った。