三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

1. 沙漠越え

わたしは草原国ファナーゼで生まれました。

両親はフォローから移住した薬草師です。ファナーゼの首都ファル・ファナーゼの水神殿で薬草の研究をしていました。

母はわたしが2つの時になくなりました。わたしはろくに母を覚えていません。

父は努力の人でした。地味に粘り強く成果を積み重ねていく人で、神殿内でも信頼されていました。

では母をなくしたばかりの幼子の父親としてはというと。

人には向き不向きがあるということでした。控えめで優しい人ではありましたが、一般家庭で主婦が受け持つ仕事は徹底的に下手でした。料理も掃除も、泣く子どもをあやすことさえできなかったのです。

ほどなくして父は家政婦を雇い、わたしを毎日のように水神殿へ連れて行きました。神殿には学校に通う子どももいれば、面倒見のいい神官もいます。中庭は広く、遊ぶ場所には困りませんし、常にだれかの目があります。わたしはファル・ファナーゼの水神殿を第2の家として成長しました。


6つの時です。

その日の水神殿はざわついていました。寺院も学校も診療所も研究所も浮ついていて、普段の仕事が手についていません。いつも一緒に遊ぶ子どもたちは今日に限っていませんでしたし、神官のおばあさんも薬草師のお姉さんもまるでわたしが目に入っていないようです。わたしはひとりで神殿の裏にある空き地で遊んでいました。

空き地には香草がたくさん生えていました。香草は全国どこででも見ることができる珍しくもない草ですが、香りはいいですし煮て傷口に当てれば治りが速くなる薬でもあります。香草を集めて薬草師に届けるのはわたしの仕事でした。

草をつんで小さなかごに入れていると、急に暗くなりました、顔をあげると知らない人がいて、影がわたしにおおいかぶさっていました。顔は逆光でよく見えません。

「いたのか。なにをしているんだい?」

男の子でした。子、といっても今から思えばであって、その時のわたしから見れば完全に大人でした。白に金の縁取りの立派な服で、息苦しそうだったのを今でも覚えています。長い金髪は整い、まるでよその国の王子様のようでした。外国人であることはすぐに分かりました。ファナーゼ人は障害物のない照りつける太陽のせいで肌は浅黒いのですが、その人は白かったからです。

「薬をあつめているの」
「あつめてどうするんだ」
「おとうさんにとどける。おにいちゃん、だれ?」
「俺はラスティア。マドリームから来た。そういう君は? なんで神殿にいるんだ?」
「わたしはザリ、おとうさんがここではたらいているの」

会話はとぎれました。作業に戻ったのではありません、男の子から目が離せなかったからです。男の子はその時知っていたどんな人よりも―大人も含めて―賢そうで落ち着いていました。まだ幼いと言ってもおかしくない年だったのに、この世のすべてを見たような静かなまなざしだったのです。見たこともない容貌といい、わたしはなにも言えませんでした。

「ザリ」

見とれて、話すことがなくて困ったわたしにラスティアは声をかけてくれました。

「医者や薬草師ががんばっても魔法にはかなわない。魔法は一瞬で傷を癒す。医術はすばらしいし薬は便利だ。でもそれよりもっと有効な魔法がある。薬草を集めるのに意義はあるのかな」

わたしにというより、まるで自分に問いかけるようでした。

「ある」

その時のわたしには理解しきれていない内容でしたが、わたしははっきり答えました。少しも迷わなかったのです。

「おとうさんがいっていたよ。魔法はとてもすごいけど薬草もたいせつだって。すみわけだって」
「住み分け」
「そう。魔法をおぼえるにはじかんとおかねがかかるけど、薬草はよういしてあればだれにでもすぐにだれにでもつかえるの。だから薬草はたいせつ」
「それはザリのお父さんが言ったのだろう。ザリ自身ではどう思うんだ」
「よく分からない。でもおとうさんがいったことだから」

その時ラスティアがどのような表情をしていたのか、もう覚えていません。あんなにじっと見ていたのに。ラスティアは見上げるわたしの髪をそっとなでました。

「ザリはお父さんが大切なのか」
「ううん、みんなたいせつでだいすき」

ものかげからぞろぞろ人が出てきました。全員知らない人でした。その人たちはラスティアを見つけあわてて駆け寄り文句を言います。ラスティアは反論しましたが大人たちは聞き入れませんでした。

「さよなら」

それだけわたしに伝え、ラスティアは手を引かれて行ってしまいました。

後で父から、異国の使者が神殿を見学していったのを聞かされました。王族や神殿長や、それはもう立派な人たちがきたそうです。その中に天才少年がいることも知りました。雷の神子にして魔道士、たった14歳にして将来間違いなく世界中に名前をとどろかせることが確実な男の子。父はしきりに感心していましたが、わたしは別の感情を抱いていました。

それから月日は流れ、わたしは成長しました。わたしは両親と同じ仕事につき水神殿で働きました。父はわたしが18の時に亡くなり、わたしは天涯孤独となりました。

21歳の時、わたしは神殿長から薬草の植生調査のため全国を回ることを頼まれ、引き受けました。ファナーゼ国内はもとよりプラダ・レクサク連合国、ナーシェッド沙漠国、果てはイージェルソルト氷国など西方の国々を歩きました。黒海ともめぐり合いましたし、北の最果て氷の国、西の果て大樹海も見聞しました。灰エルフの森にも入れてもらい勉強をつみました。ラスティアのことはもうはるか遠い思い出となりました。

そしてわたしはフォローへ行き、思い出と再開しました。


河なのに波のうねりが遠くで聞こえた気がした。

だれもなにも言わなかった。丸い卓は白く、ぼんやりとした黄色い角灯を映している。ひどく静かで、逆に耳が痛くなりそうだ。

「終わり?」

キャロルが恐る恐る問いかけた。

「後はキャロルが知っているとおりよ。わたしはフォロゼスで魔物とラスティアの幻を見た。そしてミサスに頼み、ここまできた」
「ザリ、ちょっと待って」

キャロルは身を乗りだす。ザリが心持ち身体を引くのも気にしない。

「それだけ? それで終わり?」
「そうよ。キャロル、どうしたの」
「たったそれだけ!?」

ザリには相当意外そうだったが、キャロルが全身で主張したことは俺の気持ちを代弁していた。

「隠してじらして、さんざん気をもらせて、それで内緒にしていたのはたったそれだけ!? どうしてそんなささやかなことを後生大事に隠しておくの、まぎらわしい!」

そのとおりだった。イーザーも主張しはじめる。

「ザリ、ほら実はラスティアと兄妹とか上司と部下とか、元恋人とか、もっとこうすごい関係じゃあないのか?」

ザリは目を丸くする。

「わたしに兄はいないしちっとも似ていないじゃない。出身国も違うし仕事も別よ。ラスティアとわたしはわたしとイーザーくらい年も離れているわ。どうしてそう思うの」
「それは知りあいじゃない、赤の他人って言うのよ!」

キャロル魂の叫びだった。

ここまでザリが秘密にするのだったらそれはもうすごいことだと思っていたのに、いざ蓋を開けたらお互い覚えたいたのが奇跡のようなすれ違い。キャロルがつんのめる気持ちも分かる。

もちろんザリは悪くない。勝手に想像した俺たちが悪い。でも言えばよかったのに。「ラスティアを探しているの? わたし昔会ったことあったわよ」気軽に言えばよかったのに。八つ当たりもしかたがない。

「馬鹿らしい、あたしは寝る」

投げやりに自分のベットへ腰かける。部屋の主が就寝するのなら俺たちも長くはいられない。「ほら、男は出て行け」ぞんざいに追い出された。

「ザリ」

出て行く前にこれだけは。俺は振り返った。

「ザリはラスティアのこと、どう思っていたんだ」
「どう」

ザリは俺たちの反応にとまどっていたが、答えは迷わなかった。

「あこがれていたわ。天才で、才能にあふれていた。

もっとしゃべりたかったし、ラスティアのことが知りたかった。伝えたいこともあった。だから、覚えていたのだと思うわ」

「ラスティアが好きだった?」
「……ええ、好きだった」

なぜだか俺はこの返事が返ってくるのか分かっていた。「そっか」背中を向ける。

「イーザー、これからどうする」
「決まっている、今日は寝る」

がっかりしたのはイーザーも同じらしい。俺はふと思いついてミサスへ向いた。

「ミサスは知っていたのか」

闇の中、無言でミサスは首を横に振った。

「あの手紙、ザリからもらったものだろう。ザリとラスティアの関係知らなかったのか」

答えはなかった。自分の都合のいいように解釈する。

「ミサスも結構いい加減だな。キャロルの苦労の一部はミサスが原因だぞ」

ミサスは無言であくびをひとつした。


マドリームまでさらに2日かかった。緑も少なく人の姿を見ることはない。河を上って夕方、比較的大きな街で舟をとめる。俺たちは大勢の乗客とともに舟から降りた。

「お嬢さん、あなたと過ごした日々はとても楽しかったです。この男ばかりのむさくるしい白葉号がどれだけ華やかに彩られたことか。例えモス様の頼みでなくても必ずやこの舟に迎え、河を共にしたでしょう。ここでお別れとは悲しいですが、いつか必ずまた会えると信じています」

カエル船長は別れの時まできざでフェミニストだった。女の子には壮大に悲しんでみせたが、男には必要最低限の礼儀しか見せなかった。俺も同じように別れてほしいとは思わないが、なんなんだか。ザリはカエル船長の言動に戸惑いどぎまぎしていたが、キャロルは結構楽しそうに淑女扱いを受け入れていた。

俺たちはマドリームの首都バイザリムへ行き、ラスティアについて調べる。ラスティアがマドリードのどこ出身であろうとも、諸国めぐりに若くて参加できるくらいだったのだから、早々に首都に呼ばれているだろうとの推測を基に考えた目的地だ。例え間違えていたとしてもまず首都に行って探すのが合理的でもある。

「歩いて7日間ぐらいかしら。遠いし道中野宿するはめになりそうね。準備をしないと」

買い物はたくさんしないですんだ。レイドで買った荷物の大半はまだ手つかずの状態だったからだ。食料の代わりにキャロルは白い貫頭衣を人数分購入した。

「マドリードの国土は大半が荒野よ。緑はほとんどなくて昼は暑くて夜は寒い。過酷だわ。日の光を反射して、身体の水を逃さないために貫頭衣を着てね」

ミサスは反対しなかったが嫌そうだった。いつも着ている絹の黒服とは違い、貫頭衣は重くて動きにくそうだったし背中に羽根を通す穴もない。そもそも大きさが合っていず、寸法調整をしなくては腕も肩幅も丈も大きすぎて着られそうにない。

「キャロル、もっと小さいのはなかったのかよ」
「無理言わないで、人間標準寸法しかなかったのよ。それぐらい自分で直せるでしょう」

俺なら直せない。ミサスはキャロルを一瞥したが、なにも言わなかった。


出発は翌日早朝だった。まだ暗いうちに歩き始める。

夜の冷えはすさまじく、室内で毛布に包まっているというのに寒くて寝つけない。同室のイーザーは安らかに就寝している。イーザーがなにかした訳ではないのに、俺はイーザーを恨めしく思いながら寝返りをうった。

十分に寝ていないまま寒さが一番厳しい夜明け、太陽の気配など微塵もない空の下でひっそり出発した。懐中電灯の明かりまでがなんだかいつもより暗い。

朝になって日が昇り、喜んだのもつかの間だった。気温はぐんぐん上がり、すぐに暑さに倒れそうになる。さえぎるものがなにもない日差しは強烈に鋭く、まぶしさに目がちかちかする。もしそのまま日光の下に肌をさらしていたら、日焼けを通りこし火傷を通りこして、火ぶくれを起こしていただろう。

固くひび割れた大地はただでさえまぶしい日差しを増幅するし、緑は棘だらけの低木かくぼみに生える草だけで、時々ころがっている巨岩以外は風景に変化がない荒野だった。俺たちはおそろいの白い貫頭衣で黙々歩く。歴史で見た殉教者みたいで我ながら不気味だった。

「マドリードの国土の大半は、こんな沙漠なんだって」
「沙漠? 砂はないし、少しだけど緑もあるのに」
「アキトが言っているのは砂沙漠、これは岩沙漠というの」
「沙漠にも種類があるんだ。知らなかった」

荒野国マドリームはどこもこんな風景なのだろうか。寂しいんだな。

「沙漠はね」ザリが続ける。
「雨が極端に少なく、降っても大地は水を吸収せずに流れてしまう。地面に水分を持つ力がないから植物が育たない、植物が育たないから人は定住できない、移動し続けるしかない。かろうじて緑が育つ土地には人がむらがり、養いきれないほどの人口になる」

ザリはため息をついた。「人が生活するには厳しい環境ね」

「大昔はこうじゃなかったって、アルが言っていた」

外衣を荷物につめて白い服のイーザーは、なんだかキャロルのように見える。格好からすると5人全員がキャロルみたいなんだな。想像するとなんだか笑えて、それから怖くなった。

「昔は肥沃じゃあないけど、そんなにひどくもなかった。人が増えて田畑を広げるために、どんどん森を切っていったら雨が減って土地が乾いた。それだけならまだしも、さらにその後戦争が起きて壊滅的にやられたそうだ」

すでに俺はしゃべる気もなくなってきた。しゃべるだけで口の中が乾きそうなくらい暑い。靴底が熱した大地に焼かれて嫌な臭いを漂わせる。足の裏が火傷している気がする。多分しているだろう。だからといって足をとめることはできない。

「気のせいかな、それともそんないわれのせいかな。こんなに暑いのにうすら寒い」

イーザーは額の大粒の汗をぬぐった。

「風邪じゃないか」
「違う、熱があるから寒いんじゃない。瘴気に当てられたんだよ。ほら見ろ、ミサスだって具合が悪そうだ」
「ミサス?」

思わず確かめたミサスの姿は、特には悪そうには見えなかった。

結局ミサスがやったのか、ザリあたりが代わりにやったのかは分からないが、縮めた貫頭衣を着たミサスはなんだか別人のようだった。いつもの色ではなく、羽根が外に出ていないだけでこうも違うとは。

足取りもしっかりしているし顔色も普通、表情だっていつもの無関心そうな顔つきだ。へたばっている俺よりも調子がよさそうにさえ見える。

「そうね。ミサス大丈夫?」

ザリには分かったみたいだ、声をかけて無視されていた。

「キャロル、分かるか」
「あたしには全然分からない」
「だよな」

やっぱり俺にはイーザーの気にしすぎだと思うのだが、違うのだろうか。

暑くて暑くて、肌がひび割れるかと思うほど気温は高く、開いている口や目から水分が蒸発して干からびそうだった。頭巾をはねのけたくなったが我慢する。頭覆いをはずしたら髪の毛が焼けてしまう。

こまめに休憩を入れて、一番暑い昼時と一番寒い夜はテントを張って休む。この気候ではどんなに元気で健康な人でも倒れる。倒れたら終わりだ。下手をすればおいていかれる。

日が傾き夕方になると急激に気温が落ちる。涼しくなるのは楽だけど、すぐに極寒の世界になってしまう。

「どうして一日でこう極端に変わるんだ?」
「太陽をさえぎるものも、暖かさを夜になっても持っているものがないからよ。日があれば暑くなってなければ凍える。沙漠の特徴よ」
「人間が旅する環境じゃあないな」
「あたしもそうだと思う」

キャロルは立ちどまった。

「あの動物はなにかしら」
「動物?」
「狼がいるわよ、見えないの?」

ザリは顔をあげる。俺も同じ方向を見た。

キャロルの視線に、ぬれた犬のような生き物がいた。どこからきたのか、その辺の岩陰から俺たちをうかがっている。岩影はずいぶん遠かった。よく見えたなキャロル。

「見えないわ、ごめん、目が悪いの」

ザリはすまなそうに言った。めがねをかけている人が俺やキャロルより目がいい訳ないな。

「泥狼。獣が大地の猛毒を受け呪われた動物。半分野獣半分魔性。触れると毒に犯されて致命になる」

解説したのはミサスだった。珍しい、沙漠に雨が降るぞ。

「性質は? 人を襲うの?」

ミサスは無視したが、これは答えなくてもすぐに分かった。遠近法で小さいが、実物はもっと大きいであろう牙をむき出しにしてゆっくり迫ってくる。うなり声は妙にむなしく、空洞に風が吹いているようなおかしな声だった。断じて普通の生き物ではない。

「毒ってどんな毒。ザリ知っている?」
「聞いたことがあるわ。泥狼の毒は極めて協力よ。接触で伝播して、普通の人なら10分も持たない。キャロル気をつけて、毒に強い地下道の一族でもどうなるか分からないわ。解毒方法は今のところ効果のあるものはない。触れたら助からないものと思って」

触ったらもう駄目だって。ものすごく危ないじゃないか。そんな危険極まりない生き物が俺たちに向かって敵意をむき出しにしている。

「遠くにいるうちに追いはらっちゃうか。イーザー、頼りにしているわよ」
「俺?」

イーザーはすぐにはなにを言われたのか分からなかったらしいが、少しして渋い顔で剣を収めた。

「あれに死霊の魔法が効くのか?」
「半分はまだ生き物なのでしょう、効くわよ、きっと」

キャロルは足元から手ごろな石を適当に拾い上げにぎると、「ザリ、ボウガン借りるわよ」一方的に伝えた。

「いいけれども、その石はどうするの?」
「いざって時に投げるの、あたしの一番得意は投石よ。もちろんボウだってザリよりうまいわ」

泥狼が近づくにつれて、やっと姿が見えてきた。大きめの犬に似ているが、毛並みがヘドロのような粘着性のもので覆われていて、たえずしたたって地面に落ちている。目は充血していて、牙は黄色に見えるけど泥でよく分からない。

「すごい臭い。吐き気がするわ」

ザリが嫌な顔をした。幸せなことに風上だったので俺には臭いはよく分からなかった。きっと外見の通りに夏中腐らせたような生ごみのような体臭なのだろう。

イーザーが呪文を詠唱し狼たちを指さした。

反応は2つだった。おびえてしっぽを丸め、後じさりしながら情けなく吠える一団と、敵意をむき出しにして俺たちへ飛びかかろうと走り出す一団。飛びかかってくる方の先頭に立つ一匹に、キャロルが放ったボウガンの矢が額に命中し、ぞっとする悲鳴が荒野を走る。人間とたいして変わらない。

「アキトザリ、下がって」

キャロルはボウガンを惜しげもなく投げ捨て、石をひとつつかんだ。

「どうしてボウガンを続けて使わないんだっ?」
「ボウガンの矢を装着するのは違って時間がかかるのよ、機械仕掛けだから。弓矢のようにはいかないわ」

ザリが強引に俺の肩をつかんで自分の後ろにかばう。体格通りかなりの力だった。でも下がるように言われたのはザリも一緒だぞ。

キャロルの腕がめまぐるしく動いては泥狼の額に命中する。だが泥狼の速さは想像以上だった、さっきまで見えにくいほど遠かったのに、今では牙の数さえ数えられるほど近い。ざっと泥狼まで後3メートル、ミサスが遅ればせながら魔法の言葉をつぶやいた。

ザリが一歩前へ出る。肩掛けかばんの中から赤い粉末をわしづかみにして、泥狼の鼻先へ投げた。キャロルよりずっと遅い動きだったが、なにせ距離が距離なので直撃する。命中した泥狼は驚いたようにつんのめって転び、起き上がったかと思えば恐怖に満ちた悲鳴をあげた。当たらなかった泥狼も止まり空中の匂いをかぎ、恐れが感染したかのように尾を足の間へ丸め、弱々しく鳴く。四方に散って逃げだした。イーザーの魔法にとらわれていた泥狼も先陣の様子を見、未練がましく行ってしまう。

「だれも泥に触れていないわよね?」

ザリは平然としていた。イーザーは腰を引きつつも尋ねる。

「触れていないけどさ。それより今の赤いのなんだ。ザリが魔法を使えるなんて全然知らなかったぞ」

ザリは手を身体からなるべく離して何回もはたきながら、薬草よと軽く言う。

「少量だととてもいい鎮痛剤なのだけど、一度にたくさんとった場合、恐ろしい幻覚を見て狂乱するの」

狂乱っておい。そんな物騒な薬をザリはかばん一杯に持っているのか。俺は考えを改めた。ザリに関して戦い方を知らないと考えるのは危なそうだ。剣や魔法は使えないが、長く旅をしているだけあって他の方法を身につけている。なにげなく発狂する薬を持っているだなんて知らなかったし、他にも俺たちの知らない戦い方を知っていそうだ。

ミサスが空を見あげた。天からは太陽が地の果てに追いやられ、冷気とともにひどく澄んだ濃紺の空が広がる。星があちこちに見えた。涼しいと呼べる時間があったのかどうか分からないほど、夕暮れはあっという間に通りすぎて凍える夜の予兆が早くもただよう。

「急ごう。冷え切る前にもう少し進んでおきたい」

異論はなかった。


沙漠の空は澄んでいて、星が驚くほど明瞭に見えた。天体観測にはもってこいだったが、残念なことにだれも星を進む目印以上の目で見なかった。俺も日本とは全然違う星座を観察して楽しもうという気にはならない。宮沢賢治の銀河鉄道の夜のような星空の下、だが厳しい寒さの中をひたすら耐えて進む。

行く手に人工の明かりが見えた。地をはうような小さい明かりは、確かに人がそこに住んでいる証だった。

「驚いたな、人が住んでいるんだ」
「街か、いや村か。どっちにしろ今日の宿だ」

近づくにつれて、街どころか村とさえ言えないような小さい集落なのが分かる。元は立派な街だったのだろうが、今は風化して砂に埋もれ、その上に天幕を張って生活しているようだった。その天幕もせいぜい十数、あちこちで飼われている山羊やラクダも数は多くなく、どうやって生活しているのかが分からない。

「もし自分たちが暮らしていくのが精一杯で、よそ者に貸す宿なんてないと言われたらどうしようか」

イーザーが嬉しくない予想を立てる。

「!」

キャロルが俺の襟首をつかんで引いた。

「危ないっ」

いつの間にか目の前に化け物がいた。鶏と蛇を掛け合わせたような生き物で、俺よりはるかに大きかった。

「コカトリス!?」
「嘘だろ、こんな馬鹿みたいな大きさあるかっ!」

コカトリスってなんだろう。俺がのんびり、ある意味感覚を麻痺させたまま見上げていると、今度はキャロルが俺を突き飛ばした。イーザーは剣を抜いてコカトリスの前に立ちふさがる。コカトリスと呼ばれる鶏もどきは自分よりずっと小さい人間をあざけるように見下して一声鳴いた。

ミサスはコカトリスがなんでもないかのように前へと出た。

「馬鹿、ミサス!」

イーザーがミサスに手を伸ばすが、俺じゃあるまいし身体をひねって避けられる。コカトリスはいい獲物がきたとばかりに、剣と大きさは変わらないくちばしをミサスの脳天に振り下ろした。

残酷な光景になることを想像したが、コカトリスのくちばしはミサスをむなしく通過した。それどころか地面さえもほじくり返さずに大地にもぐりこむ。コカトリスはそのままゆらめくように消える。

今の光景が信じられなかった。俺は疲れて幻覚でも見たのだろうか。

「幻?」

イーザーのつぶやきに、俺だけ見た光景でなかったことを理解する。同時に幻覚を見るわけもないし、沙漠の蜃気楼を体験したのだろうか。今のはなんだとたずねるもミサスは答えない。

「そこの人、大丈夫ですか」

緊張感のない間延びした声とともに、おそろいの白い貫頭衣をきた2人が天幕から出て駆け寄ってきた。村人か?でもこんな厳しい環境で生活しているにはちょっとのんびりしている気がする。

「今の見ていましたよ」
「いきなりでしたからね、驚いたでしょう」

ミサスよりずっと友好的なこの2人の青年は、今の現象についてちゃんと説明してくれそうだった。


「魔荒野ではよくあることですよ」

2人はエクレイヤとルガーノと名乗った。

まず、ここは村ではないらしい。

「魔荒野の由来は知っていますか? 戦いが起き、大魔道師たちの放った魔法がぶつかりあって不毛の大地となりました。ここはかつての大都市の上です。僕たちは神殿より使わされて、今もなお砂の中で埋もれている人々、戦いによって亡くなられた人々、大地が生命を支えきれなくなったせいで生きられなかった人々のために鎮魂と祈りの日々をすごしています」

神官たちは永住するわけでもなく、この場所のみで食糧をまかない自分たちを養っていく必要もない。だから家畜は多くないのだそうだ。

「魔荒野では戦いの時に発生した魔力のうねりやゆがみが今もなお続いているそうです。時々幻覚となって怪物の形となり人を襲います。魔法使いはうねりのみで気分を悪くする人さえもいるのですよ」
「あの巨大コカトリスが、大昔の魔法のせい」

イーザーが信じられないように反復した。俺にも規模が大きすぎてすぐには信じられない話だ。しかし実際に見たい上信じないといけない。

「ところで、ここに泊まる場所はあります?」

いち早く驚きから立ち直ったキャロルは現実的な質問に移った。

「ありますよ。巡礼の神官や物好きにも見聞する貴族、学者に急ぎの旅人や他国の人がきます。そのような方々のために遺跡の一部を掃除して、宿泊用に整えています。食糧は限られているのでたくさんお分けすることはできませんが」
「いえ、それにはおよびません。今日泊まって明日早くに行きます」

キャロルにとって奇妙で謎の多い魔荒野よりも今日の寝床の方が大切らしい。味気ないが、俺もどっちを取るかと迫られたらキャロルと同じことをする。不思議なことひとつふたつぐらい放っておいても問題がない。とりあえず、今日の安全でほどほどに快適な宿は確保できそうだった。

エクレイヤに案内された部屋にはすでに先客がいた。俺と大して違わない年頃の男の子と女の子、獣人の子どもの3人組。俺たちを見て驚いたように目を丸くした。ミサスを見ればだれでも気にするだろう。俺はもういい加減ミサスの存在も周囲の反応も慣れているので、全く気にせずに寝るしたくをする。

「木霊の一族なんて珍しいわね」

キャロルが荷物の中から毛布をかつぎだしながら小声で言った。なんだそれ。

「狐の獣人。森に住む小柄な種族で、幻覚の特力が有名よ」
「木の葉で人を化かすのか?」
「なによそれ。知らない」

キャロルは冷たかったが、狐が人を化かすのは日本でもカーリキリトでも同じと知って感動した。どこでも一緒なんだ。

「ねぇ、僕は麻、どこからきたの?」

感動していると、いつの間にか狐の獣人は荷物と食料を確認しているイーザーに話しかけていた。

「俺はイーザー、千年王国フォローからきた」
「よろしくね。ねえ、外の世界情勢はどうなっているの」
「外?」
「僕たちさ、マドリームの北にあるど田舎から出てきたばかりでなんにも分かっていないんだ。今よその国ではどうなっているの?」
「ああ、そういうことか」

あっという間に仲良くなり、今水門国家レイドでは大変だっただの魔荒野はマドリーム人でも恐れられていて絶対に立ち入らないだの、世間話と情報交換との紙一重の話をしていた。打ち解けるのが早いな。

「水門国家レイドで、そんなことが起きていたんだ。怖いね、なにが原因なの」
「さっぱり分からない。俺たちも一目散に逃げてきたから」
「なにかの陰謀かな。レイドを安定したくないだれかが引き起こしたとか」
「かもしれない。もともといつ暴動が起きてもおかしくないような不安定な街だった」
「マドリームも暴動こそ起こらないけど、貧しいし王様は年を取ってぼんやりしているし、不安定さは同じようなものだよ」
「今のマドリーム王は?」
「マドリーム四世。オキシスマーム国王。もういい年だよ、それなのにまだ引退しないんだ。頭はとっくにぼんやりしているのに」
「麻!」
「ハーディ、僕が王様についてちょっと軽い口をきいたぐらいじゃ怒られないよ。王様は忙しいんだよ、僕の声なんて聞こえないよ」

女の子がたしなめても、麻はけろりとしていた。どこの国も大変なんだな。


翌日太陽が昇る前に出発する。快適な朝と夕方に距離を稼ぐべく進んだ。幻は時々現れて、巨大なトカゲ(バジリスクというらしい)に丸呑みされそうになったり、虎ぐらいの大きさの狐にかみつかれそうになったりしたが、みんな最後には消えた。

「幻といっても信じる限りは本物と変わらない。信じて戦って殺されることもある。人は単純だから、目で見て声を聞けばころりと信じる。厄介ね」

キャロルがぼやいた。

幻も厄介だがそれ以上に沙漠の気候そのものが厳しかった。昼の暑さは骨まで干からびそうだし、夜の寒さは日本の真冬が暖かいと感じてしまうくらいだった。それがかっきり12時間ごとに交互に起こる。人が生きていける環境じゃあない。

太陽高く大地を照りつける昼時、小さな岩の陰で休憩する。暑くて暑くて、立っているだけでも汗がふきだすのに、水を大切に節約して飲んでいるからそうはならない。唇はからからに乾き、目は強い光で痛くて倒れそうだった。

馬をふくむ全員に水が配られ、後は話もしない。じっと動かないか寝るかのどちらかだった。もちろん寝る方がいい。体力の温存につながるし、やってられない暑さを少しでも楽に過ごせる。

でも俺は暑すぎて眠れなかった。頭が鈍く痛み、暑さと乾きは思考力を空っぽにさせる。なにも考えることができず、汗をぬぐって岩陰で地平線を眺める。

魔荒野はなにもない。あるのはからからに乾いた大地と岩、ほんのなぐさめていどに生えている緑だけ。不毛の大地だった。

こんなところででも国はあり、麻のように生活している人たちがいる。なんだか信じられない。俺たちは食料水を外から持ちこみ、なんとか命をつないでいるのに。

「アキト、昨日も昼間寝ていなかったわね。平気なの」

ザリも起きていた。目を閉じて身じろぎひとつしていなかったので俺は少なからず驚く。

「ザリこそ」
「わたしはそんなに辛くないから」

辛くないというのは怪しかったが、泥で汚れているものの顔色も元気そうだし言葉もはっきりしている。俺よりはるかに大丈夫そうだった。長年諸国を歩いただけあって体力が俺とは違うのかもしれない。

「わたしはね、沙漠はこれが初めてじゃあないの。ナーシェッド沙漠国に行って商隊に混ざったことがあったわ。ナーシェッドは砂沙漠でね、魔法はなかったけどここと同じくらいひどいところだった。そんなところにいたこともあるから、アキトよりは慣れているの」
「色々行っているんだな。俺は駄目だ。出不精で、鳥取砂丘さえ行ったことがない」

寝ている人を起こさないように会話は小声だった。しゃべると口の中が乾くが、この耐えられそうにない暑さを紛らわせるために我慢する。

「あ、また幻が見える」

目で見てはいるが頭の中に入らない。ぼんやり風景そのものをつぶやいた。もういい加減慣れた。

今度の幻覚は化け物ではなく人間だった。馬は車を連れて灰色の服を着た隊列がくる。かなり遠い。

「どうして幻覚なんだろうな。沙漠に見える幻といえば蜃気楼なのに。蜃気楼といえば遠くに見える、存在しない宮殿なのに。ここのは実際に動いて襲う幻影だ」
「本当に大昔の魔法が見せる幻なのかしらね。案外、暑さでありもしないものを見ているだけだったりして」

隊が近づくにつれて俺は嫌な気分になった。軍隊みたいに屈強そうな人ばかりで、剣やら槍やらを持って鎧を着ている。きて襲われたらどうしよう。今まで通り無視をすれば消えるのだろうか。

「影があるわね」

ザリが浮かされたようにつぶやいた。「今までの幻にもあったかしら」

「分からない、今まで幻は夕方と早朝にしか見なかったから」

隊はまっすぐこっちへ向かってくる。

「そういえば、日本では夕暮れ時のこと逢魔時といっていたんだよ。夕暮れは魔物に会いやすいから魔物に会う時間、逢魔時」
「魔法。本来なら自然にあらざる力を動かすもの。今まで見た魔荒野の幻は全部夕方と朝だった」

ザリが不吉につぶやく。隊はまっすぐこっちにくる。

ザリはキャロルをゆさぶり起こした。

「なに?」

キャロルは跳ね起きる。今まで寝ていたようには聞こえない、はっきりした声だった。

「キャロル、幻がくる」
「違うわ、実在するものよ。あの人たちは本物の軍隊だわ」

ザリは訂正してイーザーを起こしにかかった。

「なんで。こんなところに人がいるんだ」
「わたしたちだってここにいるわ。エクレイヤとルガーノも、麻たちもいるのよ。人がいてもおかしくない」

それはそうだけど、でもこんな辛い環境に、昼間から人?

隊列をよく見る。荒地の強盗団か山賊の類かと思ったが、そのわりには服も綺麗だし隊列も乱れていない。

「アキト下がって」

頭巾を脱いで素早く寝癖を手で直した。「あたしが話す」ザリはイーザーを起こして、ミサスはとっくに自分から目覚めた。

隊がくる。こうしてそばまで迫られると威圧感がある。俺は気押されて息を飲んだ。遠くからの印象どおりみんな山賊というにはきちんとしすぎている。無精ひげが生えている人などいないし、貫頭衣の下に見える鎧はきちんと手入れをされていた。暑くないのか。

一体何者なんだろう。分からないが、いきなり剣を抜いて「あっち行け」というのはやめたほうがよさそうだ。

声が聞こえるくらい近くにきたところで、キャロルは口を開いた。

「まあまあ、これはどうも立派な方々ですね。あたしたちもあなたさまのようなすばらしい軍隊がそばにいるのなら、安心して巡礼ができたでしょうね」

いつもの俺たちへの態度とは大違いの、こびているとさえいえるほどほがらかで愛想がいいキャロルだった。にこやかさな顔と大げさな態度で、俺たちが胡散臭い集団ではなく巡礼者とその護衛に見せかけようとしている。なんでそういう風に言うのだろう。俺は全員の面子を振り返る。そうとしかごまかせないほど怪しい一団だった。ごまかしたところでなお怪しい。

「その人数で荒野越えか。さぞ大変だろう」

隊の一人が頭巾を取らずに受ける。表情がまるで見えないのが不気味だった。

「はい、それはもう。水も緑もありませんし、暑さ寒さは今まで体験したことがないほど過酷です」
「人間でないものが混ざっているな。黒い羽か、鴉の獣人か」

ちなみに鳥の獣人はいないと聞かされた。理由は単純、鳥は獣ではないからだ。総称で呼ばれるとしたら有翼人。この広い世界、そんな細かいこと考えなくてもいい気がするのだが。

「珍しい種類のものです。戦えるようなので雇いました」
「もういい、茶番はここまでだ」

ひときわ大きな体格の男が、先頭を押しのけて出てきた。身体にふさわしい大きな剣をかつぎ、短く刈った髪の下にある顔はいかめしく怖い。

「イーザー・ハルクはだれだ?」

不意を突かれて息がつまった。どうしてこの集団はイーザーを知っているんだ。

「俺だ」

きっとキャロルはごまかして答えようとしたのだろう、にやけて笑いを浮かべた。だがイーザーは押しのけて堂々と前に出る。

「俺がイーザー・ハルクだ」

その態度はとても格好いいのだけれど、もし「ならば切る」と言われたらどうする気なのだろうか。男はどう見ても好意的ではないし、いかにもそんなこと言いそうだった。

「そうか」

剣こそ抜かなかったものの、表情はより険しくなる。

「我が国王、オキシスマーム・ポラム・アクレモ・マドリーム四世の命により、首都バイザリムまで同行してもらう。イーザー・ハルクとその友人たち」

イーザーもみんなももっと物騒なことになると思っていたのだろう。思いがけない申し出に「はっ?」雰囲気をぶち壊しそうな声を出し、あわてて威厳をとりもどそうとした。

「なぜ。どうして俺が呼ばれるんだ?」
「理由は聞いていない。しかし王の命令である以上従ってもらおう」

イーザーは困惑して振り返った。俺たちに助けを求められても困る。そんなことされてどうすればいいのか分からないのは俺だって同じだ。

「選択の余地はないようね」

キャロルは恐れる風もなく、目の前の事実を受け入れた。大男も命令とはいえ嬉しくなさそうだった。不快そうに「ふん、頭の悪そうな子どもだ。とてもアティウス王子の部下とは思えん」憎まれ口を叩く。

頭の悪そうだなんて言いすぎだ。そりゃもちろんイーザーは大天才というわけではない。でも頭が悪そうはないだろう。時々無茶をするし無謀にもなるが馬鹿じゃない。

俺は違う方向に憤っていたので気づくのが遅れた。「あれ、どうしてアットを知っているんだ?」

「おまえたちに知らせるつもりはない。早く支度をしろ、出発をする。バイザリムは遠い。急ぐんだな」

憮然とした俺に「おとなしくしていていて」キャロルがそっとささやいた。

「キャロル、今すごくまずい状況じゃあないか?」
「すっごくまずいわよ。それとなく探ってみる。それまでなにも知らないように、のんきな振りをしていて」

それは無理な話だった。


同行というより連行といった感じだった。実際そうなのだろう。

ろくに休みもせず、先に先にとせかされるように進む。男たちは見るからに頑丈そうだけど、そんなことをして大丈夫なのだろうか。俺は疲労と熱のあまりぼんやりしながら考えた。汗は出るそばから蒸発して、ちっとも涼しくないし、身体中かわいて舌が口に張りついた。足つきは夢の中を歩いているかのようにおぼつかない。

もう駄目だ、倒れる。

「アキト」

倒れる前に救いの手が差し伸べられた。俺を支える相手を確認する力もなく、首をうなだれたまま目だけを動かす。みんな同じ服装なのでだれだか分からない。

「相当まいっているわね。はい、これ」

救世主はザリだった。口の中に赤く干からびたものを押しこむ。杏かなにかの果物だろうか、甘さよりすっぱさの方が強く、一滴の水分もない俺の口の中につばきがわく。

「しばらくかんでいて。元気が出るわ」

ありがとう。

だがザリは礼を言うより先に、今度はミサスへ行った。ミサスは俺ほど素直ではないが、強引にザリが果物を手の中に押しこんだ。兵隊にちょろちょろするなとしかられる。

なんてまめでかいがいしい。俺は感動した。この恩に報いるためにも、ここで倒れるわけにはいかない。気力は果てかけた体力をわずかなりとも支えて、意思を新たに歩き続ける。

宿営地らしい場所ににたどり着いた。古ぼけた遺跡と恐ろしく深い井戸のみの無人の、石造りでできた建築物だった。そんな狭い場所に兵士全員は収納できない。建物の横に規則正しく天幕が並んでいて、遺跡を圧倒していた。無生物ながらなんだか遺跡が気の毒になる。天幕には間に槍を持った兵士たちが立っていて、大男を見て敬礼する。

「カスタノ様、帰還おめでとうございます」
「客人を保護した。クペルマーム殿下に報告をする」
「ただいまお伝えいたします。殿下はさぞ喜ばれるでしょう」

客人? キャロルがひとり皮肉っぽい笑いを浮かべた。囚人の間違いでしょうと言いたかったのだろう。

大半の兵士はそこで解散し、機械のような正確さで天幕に散っていった。カスタノという名の大男と俺たちはまだやることがあるようで、宿営地の中心に構えられた天幕に入る。一見質素な白い麻の天幕は、しかし中は真紅のじゅうたんがしきつめられていて、壁にはどっしり重そうなタペストリが並んでいる。天幕とは思えない豪華さだった。「カスタノ! 早かったな!」

大きい天幕のくせに、住んでいるのは俺とそんなに年が離れていない男とその召使だけだった。喜色一杯にカスタノを迎え、多少は遠慮がちに、それでも嬉しそうに俺たちを見る。

「マドリームへようこそ客人。ぼくはクペルマーム。マドリーム国王の末子、クペルマーム・ポラム・アクレモ・マドリームだ。よくぞ魔荒野を越えてきた。くつろいでくれ。今食事を用意している。カスタノ、下がってもいい」

大男と違いクペルマームはやけに友好的だった。普通だったら即友だちになれただろうが、こっちには連行されたうらみがある。つられて笑いそうになるのをなんとか我慢した。

「ん? 国王の末子?」

俺は別のことに気を取られて大切なことを聞き逃した気がする。国王の末子って、つまりクペルマームはマドリームの王子様ということだ。この豪華な天幕にもカスタノに平気で命令することにも納得する。王子様なのか。

「マドリーム荒野国殿下は、たかだか一介の囚人を歓迎するのですか?」

キャロルは口に出して皮肉った。まだ外に出ていなかったカスタノが怖い顔をしたが、キャロルは目に入っていないかのようにクペルマームの様子を観察する。俺は気が気ではなかった。いつカスタノが抜刀するかが不安だ。

「カスタノが失礼をしたようだな。カスタノは武人で、礼儀作法がなっていない。許してやってくれ。あなたがたは囚人ではなく、このクペルマームが直々に出向いて迎えた大切な客人だ」
「あたしたちはただのさすらい人ですよ。迎えられる理由がありません。人違いではありませんか?」
「ごまかさなくてもいい。アティウスから話を聞いた。内密にイーザー・ハルクとその一行を助けるよう頼まれたんだ」

意外な名前が出た。今まで気にくわなそうに黙っていたイーザーが「アット?」と警戒を崩す。

「アティウスとは親交がある。イーザーたちはラスティアを追っているのだろう。探すのにおよばずながら協力させてもらおう。まず魔荒野越えだ。そしてバイザリムの城に行って、ラスティアについて分かるまでぼくがイーザーたちの面倒を見る。なにも心配はいらない、任せてくれ」

願ったりかなったりのお誘いに、しかしキャロルは口を結んで考えこんだ。