三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

白葉号

船長は正真正銘のフェミニストであるらしい。キャロルとザリには2人用とはいえ、6畳くらいの明るく景色も風通しもいい部屋に案内したのに、俺たちには2畳の部屋をあてがったからだ。窓もないし3人なのに2段ベットでなんだかしめっていた。キャロルに言わせれば大部屋でないだけ感謝すべきらしいが、俺は部屋交換をしたかった。あのカエル船長め。

でもいざ乗ってみると、部屋割りはこれでいいと納得するようになった。

キャロルが体調を崩した。海底まで行った強行軍がこたえたのか、慣れない水上という環境がよくなかったのか。気分が悪そうに毛布にもぐりこみ出てこない。

その上ザリの方も元気とは言いにくかった。

俺たちを見ず口をきかず、キャロルの看病をしていた。一見熱心に治療にいそしんでいるように見えるが、だれとも話したくないからぐったりしているキャロルにつきそっているようにも見える。俺の考えすぎだろうか。

舟の旅は快適だった。金持ちのために造られただけあってどこも掃除が行き届いているし、舟の頭には立派な女神像の彫刻がある。これは水竜神ネヴィティリだとイーザーから教わった。揺れは少ないし、夕食もいつもの自炊や食堂で食べているものと同じか、それ以上の料理が出された。狭いことさえのぞけば大満足だ。

舟に飛び乗った翌朝、俺は舟に荷物が積まれて出発するのをぼんやり見ていた。舟は潮の満ち引きの関係上、朝明けに出発して夕方とまる。考えているとキャロルがきた。

「おはよう、アキト」
「おはよう、キャロル」言わない方がいいと分かっていたのに、つい言ってしまった。「やつれたな」
「ほっとけ」

冷たくあしらわれた。キャロルは朝日の中にいるにもかかわらず、どこか青ざめていた。目も熱を帯びて焦点が合っていない。

「朝ごはんどうする」
「食べたくない。寝こんでいるわ。アキト、それよりザリを知らない」
「ザリ? 知らない、部屋にいないのか」
「いたら探さないわよ。あたしがアキトと話したいがために甲板に上がってきたと思っている?」

思っていた。だってキャロルがザリを探すため、体調がよくないのを我慢して甲板にきたなんて考えられない。仲がよくないのに。

「疑っていたのに、もうそんなに仲良くなったのか? それとも不安だからそばにいてほしいとか」
「馬鹿」

今日のキャロルはいつもにもまして口が悪かった。いつもの回りくどくいじめるように慣れていたので、機嫌悪く放たれた直接的な言葉が胸につきささる。

「目を離した隙に変なことされちゃあ困るでしょっ」

ごもっとも。俺がどことなく追いつめられていると、助け船が思いがけないところから出てきた。

「おはよう。なにやっているんだこんな朝から」
「イーザー。ザリがどこにいるか知らないか」
「納屋にいたぞ、馬のいる。前を通りかかったら背中を見かけた」
「そうか、馬ね」

キャロルは納得したようだった。ザリは愛馬黒海を大切にしている。その扱いはペットでも乗り物でもない、仲間だ。いつも体調に気をつかって、暇があれば話しかけてブラシをかけ、自分の食事と同じくらい食べさせるものに注意する。ザリに言わせれば草原国の人間はだれでもこうらしい。本当かどうかはさておき、慣れない環境にいる愛馬を朝一番から訪ねていっても不思議ではなかった。

「キャロル、気になるなら見ていくか」
「そうする」

キャロルは精一杯しっかりと、しかしはたからは危なっかしい足どりで行った。イーザーは見送ってからため息をつく。

「あれじゃ頼りにならないな。アキト、身辺に注意しろよ」
「俺の?」
「俺たち全員だ。こっそり俺たちを狙っている人物が同じ舟にいたらとんでもないことになる。そうでなくてももめごとはごめんだ」

よく言う。正義感でもめごとに首をつっこみたがるのはだれなんだか。でも口にしない程度の自制心はあった。

「今までならキャロルが周りに神経を張って見てくれたけど、今じゃ後ろに小刀突きつけられても気づきそうにないな。キャロルの分までがんばるか。

で、アキト。ザリがどうしたのか知っているか」

「え?」

話題が急に飛んで、俺はついていけなかった。

「なんのことだ」
「昨日からザリがぼんやりしているだろう。なんでだ」
「イーザーも気になるのか」
「元気がないなとは思っていたけど、さっきそこで馬と向き合っているのを見て駄目だと思った」
「駄目?」
「いつも朗らかに黒海に話すのに、今日は黙って向かいあっているだけ。ブラシもエサも、声かけて頭をなでるのもなし。動いていなかった」

思いだしたように身震いした。

「朝から背中が冷えたぞ。生霊かと思った。声なんてかけられなかった」

ザリは馬に声をかけてかわいがっている。子どもみたいだと思っていたが、いざ黙ると確かに不気味そうだった。俺なら悲鳴をあげて逃げる。

「それは変だな」
「すごく変だよ、なにかあったのか?」
「俺が知っている訳がないだろう。昨日の朝はなんともなかった」
「そこだよ」

イーザーは指を指した。

「ザリがおかしくなったのは合流してからだ。つまり俺たちとはぐれている間に、落ちこむようなことがあった」

そういえば思いあたる節はある。あの時、舟着場まで行く時間はたっぷりあったのにもかかわらずぎりぎりになって飛びこんできた。あの時悲しいことがあって、今でも落ちこんでいるのだろう。そうだそうに違いない。

「だったらなぐさめようか。イーザー、馬のいる納屋ってどこだ」
「アキト、まさかザリから聞きだすつもりか」

もちろんそうだ。

「そんな話できるか。俺はそこまで大雑把でもないぞ」
「でも、事情が分からなかったらはげませられない。とんちんかんなことになるぞ」
「もうひとり、事情を知っていそうな人がいるだろ、ザリ以外に」

もうひとり? 黒海のことかな。

「馬は話せないぞ」
「おまえ、俺をからかっているのか」

イーザーに見すえられて、やっと俺は話すことができる人物を思い出した。

「あ、ミサス」
「そうだよ。地上でザリと一緒だった。なにがあったのか聞いてみようぜ」

いい発想だったが、問題がある。

「ミサスに口をきかせるなんて、馬がしゃべるのと同じくらい難しいぞ」

黒海がしゃべりだすほうが早いかもしれない。

「大丈夫、吐かせてみせる。こんな時ぐらいしゃべらなくていつしゃべる」

イーザーが指の骨を鳴らした。力任せで聞くつもりか? 返り討ちにあいそうだ。歩きはじめたイーザーに遠慮しながらついて行く。

「俺たちの部屋にミサスはいなかったぞ」

ドアを開ける。かびっぽく窓もない部屋にはだれもいなかった。

昨日の夜は確実に同室だった。2つしかないベットを早々に取られたのでイーザーとくじを引き、かわいそうに俺は床で寝た。朝起きると、黒翼族はとっくに姿を消していた。ミサスがどこかにいなくなるのは別に珍しくはないので気にしなかった。

「まずミサス探しからしないといけないな。舟の中には必ずいると思うけど、面倒だな。先に朝ごはんを食べないか」
「いや、ひとつだけ。いなかったらあきらめる」

なんだか今日のイーザーは自信があった。つい譲ってしまい、すきっ腹を抱えてイーザーの後ろを歩く。

「いるところが分かるのか?」
「分かるわけじゃないけど、見当はつく。どれだけ一緒にいると思っているんだ」

俺は少しだけならイーザーよりもミサスと長いつき合いだが、とてもそこまでは言えない。甲板の上に出たイーザーは迷うことなく一直線に歩いていく。

「簡単だよ。ミサスはなに考えているか分からないけど、行動は結構分かりやすいぞ」

イーザーは舟頭の女神像の上に、こともあろうに寝そべっている人影を指さした。

「ほらいた」

本当だ、いた。

女神像は2メートルくらいの高さで平らなつくりだったから、小柄なミサスなら上に寝そべるだろうけど、しかし罰当たりなやつだな。忙しく働く舟員が遠巻きに見ている。

「せまい部屋よりは女神像のほうが居心地はいいだろ。寝てもだれかに踏まれることはないだろうし、絶対ここだと思った」
「文句をつけられたらどうするんだ」
「そんな勇気あるやつはそういないし、いてもミサスは無視する」
「苦情が俺たちにくるぞ」
「それもそうだな。言い聞かせよう」

一見穏やかに安眠をむさぼっているミサスにイーザーはためらわず声をかける。

「ミサス、ザリについて話がある」

反応はない。かまわずイーザーは続ける。

「昨日からザリの元気がないけど、俺たちが海底に行っている間なにかあったのか?」

やっぱり反応はない。イーザーは口を結んで、女神像にできる限り近づいた。

「聞いているか? ザリになにがあったのか教えろよ。言うまで動かないからな」

俺たちはいまや甲板上の注目の的だった。恥ずかしいぞ。イーザーの外衣のはしをつかんで「後にしないか?」伝えたが、聞き入れてくれなかった。

「答えろよ、こっちは切実なんだからな」

ミサスはこれだけ言ってもまぶた一つ動かさなかった。少なからずイーザーはむっとする。奇跡的に俺はイーザーの次の行動を直感した。肩をつかむ。

「女神像によじ登らないでくれ」
「とめるな」
「とめるって、イーザーは考え方も行動も分かりやすいんだよ。登らないでくれ俺はこれ以上恥をかきたくない」
「いやならどこか行けよ。俺ひとりでやる。ミサスが気に入らない」
「なにもなかった」

2人で大騒ぎをしていたら、蚊帳の外のミサス本人が口を開いた。イーザーから手を放さずに身体を乗りだす。

「なにもって、なにも? ミサスにはなんてことでなくても、ザリには悲しいことだってあるぞ」
「なにもない。騒ぎの中右往左往しながら舟着き場へ行った。ザリに変化はなかった」

それは変だ。だったらザリは舟に乗ってから元気がなくなったことになる。でも舟上ではなにもない。イーザーも困ったようだったが、俺より早く立ち直った。

「とにかくアキト、手を放せ。飯でも食べながら考えるか」

賛成だった。


朝食の席にはキャロルもザリもミサスもこなかった。

舟から景色を眺めたり、身体がなまらないように特訓しながらそのことについて話し合ったが、生産的な意見はなにひとつ出なかった。悲しいことだ。

「もうあきらめて放っておこうか、実害はないんだし」
「そうかもな。しばらく様子を見てまだあのままだったらその時考えよう」

見捨ててイーザーは甲板のはしに座りこむ。俺は河をのぞきこんだ。どっちに流れているのか分からないような水は暗く、深いのか浅いのか、魚がいるのかそこになにがあるのか、まったく教えずそ知らぬ顔のまま流れている。

人の心と同じだな。なにもみえない。


日が暮れて舟が泊まる。俺はひとりぼんやり、甲板から夕日を見ていた。

全体として平穏な一日ではなかった。キャロルの体調が悪くてザリがしおれていて、ミサスが舟頭で寝てイーザーがよじ登ろうとした。

「夕日に感動しているのですね」

カエル船長が話しかけてきた。スケッチブックと黒炭を片手に風景について力説する。

「分かります、私もそうですから。もう何十回何百回とレイド、マドリード、さらに上流のアドマンド公国まで行きましたが、レイドとマドリード境目の夕日が一番美しい。マドリードは荒野国だけあって植生も建物も低く、空が映えるのですよ。マドリードの夕日はすばらしい」

確かに夕焼けは綺麗だった。たくさんの紅色の雲に太陽が沈み、白い舟も河辺も大地まで赤く染めあげる。

でも俺はそれでもただの風景じゃないかと思うし、そもそもここでたそがれていた理由も深いものはなかったのだが。

「ところで、お嬢さん方はお元気ですか? 不足しているものはありませんか?」
「えっ。いえ、ないです」

2人はあまり元気とは言えないけど、それは船長の責任ではない。「部屋も食事も満足しています」

「そうですか、それは一安心、美しいご婦人の喜びは私の喜び、満たされていて私の心に喜びがあふれます」

フェミニストというより自己陶酔の気障だったようだ。俺なら脅迫されてもそんなこと未来永劫言えない。

「おや、うわさをすればお嬢さんが」
「えっ、キャロル?」

後ろを振りむくも、キャロルの姿は影も形もだった。船長はノンノンノンと俺を諭す。

「後ろではなく前です。かわいいねずみちゃんではなく赤髪が美しいご婦人の方です」
「ザリ?」

陸地を見る。

確かにザリだった。河辺に見たことのある帽子がゆらゆら迷い、背の低いしげみの中に消える。すぐ近くに漁村があり、人々がたくさん働いているのに、人気のない土地にいる。

「船長、俺ちょっと失礼します」

俺は一方的に言い捨てて走った。嫌な予感がする。

舟を降りて1日ぶりに揺れない大地を踏む。舟着き場は白葉号以外にもたくさんの舟が到着していて、人や荷物を降ろしまた乗せていく。俺のようにその辺を散歩する乗客もいれば、ちゃっかり商売をしてしまう半漁人もいる、見物している子どもまでいる。俺はその中でザリの姿を見かけた場所まで行こうと、舟着き場を無視して野外へ飛び出す。

舟で見たときは遠かったし、視線も今とは違う。運がよくない限り分かりそうにない。草木茂った藪は舟着き場から河沿いにずっと続いてこんもり続いているが、いくらなんでもしらみつぶしに探すわけにもいかない。夜になってしまう。

無意味に草で肌に浅い傷をつけながら歩き回っているうちに、茂みが踏みあらされているのを見つけた。

「足跡」

俺はキャロルみたいに注意深くないし観察力が鋭くない。ザリは隠そうともしなかったのだろう。夕日に照らされて枯れススキ色に見える深緑の茂みを俺は気をつけて進む。一息ごとに視界が暗くなり、ザリを見つけるどころか自分が迷子になりそうだった。

ザリはいた。あっけないほどすぐに見つけた。草おいしげる川辺に腰を下ろし、沈みかけた夕日ともう遠い白葉号をぼんやり眺めていた。俺が草を踏み荒らしながら近づいているというのになににも反応しない。さびしい背中は声をかけるのを全力で拒否していた。

「ザ、ザリ」

声をかけようとして気づいた。かすかに震えている。ひどく静かな河辺に、嗚咽がまじっているのにようやく気づいた。

泣いているんだ。

俺はここにきたことを後悔した。ザリがこっそり行ったのだから、つまり他のだれにもきてほしくなかったということだ。どうして俺は気づかずにのこのこきたのだろう。俺は自分の能天気ぶりを責めながら、黙って帰ろうとした。なにも見なかったことにしよう。きっとそれが一番いい。

静かに、だが急いでその場から逃げようとした。

急いだのがまずかった。ぬかるみに足を取られてぶざまに転んだ。

「アキトッ!?」

驚いたような声に、俺は消えられるのなら今すぐこの世から消えてしまいたかった。ぶざまにも限度がある。

「どうしたの、なんでこんなところにいるの」

助け起こされて顔を上げた。

「舟の甲板から見かけて、それで気になって。ごめん、見なかったことにするから!」

それでもどうしても、気になったことが口から出た。

「でも、なんでこんなところにいるんだ? どうしたんだ?」
「……殺すつもりはなかったの」

ザリの肩が小刻みに震える。

「殺す? なんだそれ」
「白葉号に、乗る前のことよ」

思い出した、そういえば舟に乗る間際に人をはねた。

「急に飛び出してきて、避けようがなかった。まだ若い男だった。アキトやイーザーと同じくらいの年だった。首の骨を折って、恐ろしい最期だった」

あれは完全に男の自業自得、ザリがひるんでとまったら引きずりおろすつもりだった、どう考えてもザリは悪くない、むしろ危険をとっさの判断で避けたんだ。

「違う、そうじゃない。止まろうと思えば止まれた、避けようと思えば避けられた。でもわたしは男より目の前の舟を見ていた、はぐれるのが怖くて走らせた」

ザリの目から大粒の涙が転がり落ちた。両手で全身を押さえる。涙は後から後から止まらない。

「わたしが殺した、まだ若い男だった。わたしが殺そうと思って殺した」
「ザリ」
「人を殺したことなんて、今まで一度もなかったのに。ずっと人を助けるために生きてきたのに」
「ザリのせいじゃない」

俺の言葉など無力だった。

「殺したことなんてなかったのに! 生きていて、24年生きて、人を殺したことなんてなかったのに!」

ザリは身体を折った。震えは止まらない。

考える。俺はどうだろう。俺は今まで、人間を殺したことはない。人が死ぬ姿は見たし化け物を消滅させたこともある。人をスタッフで殴って、無事かどうか確かめずに立ち去ったこともある。

でも明確に、間違いなく人を殺したことはない。

なんて言えばいいのか分からない。俺まで泣きたくなった。どうしたらいいのか分からず、俺は逃げ出した。

喉に張りついて言葉が出ない。もう日は落ちたのか、草と低木と大地と河と、すべてが濃紺色に沈む。

「!」

俺のどこにそんな決断力と勇気が眠っていたのだろう。とっさに藪の中にうずくまった。息を止めて、音が出ないように後ろを振り返る。

人がいた。さっきまでは絶対に俺とザリしかいなかった茂みをかきわけ、ひとり音もなく歩んでいる。淡い蛍光をまとった人物は、白い外套を着てながめの金髪を後ろになでつけている。俺は動けなかった。見つからないためにか、それとも驚きのあまりかは自分でも分からない。

もちろん俺はその人物に見覚えがあった。

ラスティア。俺たちが追っている人物、俺たちが追われている人物。クレイタに禁呪をぶちまけ、フォロゼスの城を壊滅させ、響さんを従えている。魔法使いにして精霊使い。なんでここにいる、どこからわいた。

『そうか、おまえは影か』

唯一ラスティアと対峙したミサスの声がよみがえる。

もしかしたらあのラスティアは本物ではなく幻なのかもしれない。だったら今いきなり現れた理由も説明がつく。幻なんだから。

しかし幻だからってそれがどうした。幻だからって魔法を使って人を傷つけられる。真偽は関係ない。

今戦いになったらどうしよう。あのでたらめに強いミサスでさえ防戦だった。相手は魔法使い、それも常識外の力を持つ男だ。俺だけでは万が一でも勝てる気がしない。

動けない俺がここにいるなんて気づきもせず、ラスティアはそのまま行ってしまった。

「!」

ラスティアが向かった方向に、ザリがいる。

迷う余裕はなかった。ラスティアの後を追う。

具体的になにをするかは考えていない。もし戦いになっても勝てるわけがない。でも行かなきゃいけない。ぼろぼろの運動靴は泥にまみれ、どこかの穴から水が浸入している。

ザリを助けないと。

すぐにラスティアに追いついた。ザリもまだそこにいた。顔にいくつもの涙の跡をいくつも残して、それでもまだ止まらない。小さな子どものようにラスティアを見上げる。いつもの穏やかで優しい表情はなく、行き場を見失い途方にくれた顔だった。

「ラスティア?」
「ザリ。小さなザリ。ここにいるなんて信じたくはなった」

そっとザリの顔をなでる。ささやくような、慈しむような声だった。

「俺の敵がザリまで巻きこむとは思わなかった」
「敵。ミサスやアキトのこと?」

ザリは立ち上がらない。夢の中にいるような目だった。

「違う、宿命のものは敵ではない。彼は本当なら友人となれただろう。宿命のものをあやつる存在がある。そのものこそが俺の敵だ」
「操る」
「そう。ザリもまた知らないうちに操られ、俺と戦うよう仕組まれている」

ラスティアは寂しそうだった。蛍光が瞬き河のどこかで魚が跳ねた。

「俺はザリとは戦いたくはない。おまえはなにもしていない。俺の敵に目をつけられ、動かされているだけだ」
「わたしは、操られてなんて」

ザリは弱々しく反論した。言葉が続かない。

「ザリを巻きこんでしまった。俺はもう戦いをとめられない、一目ザリに会いにきて、伝えたかった」

ザリは目を大きく開いた。

「もう時間だ、さよなら、小さなザリ」

光が弱く瞬く、ラスティアの姿がぼやける。

「待って」

ザリは立ち上がる。

「待って!」

ザリはラスティアの肩をつかんだ。ちゃんとつかめることに俺は驚いた。

「待って、待ってラスティア! なぜ、なぜ、なぜフォロゼスに魔性をときはなったの!? 人がたくさん死んだわ、分かっていたのでしょう、それなのにどうして放ったの!?」
「ザリ。俺にはそれしか方法がなかった。敵は巨大で俺はひとりだ。俺は負けるわけにはいかない。手段は選べない」
「言い訳にならない!」

ラスティアの姿は半透明になる。ラスティアの向こうにいるザリがはっきり見える。もう泣いてなんていない。

「どうして、街を呪いに沈めたの。どうして、ヒビキを巻きこんだ。どうして人を傷つけるの、人を殺せるの。どうしてそんなことができるの、答えて!」
「仕方がなかった、ザリ」

表情を見せずにラスティアは消えた。

光が消えて、川辺に闇が戻る。ザリは前のめりに転んだ。

「ラスティア……」

ザリがラスティアの姿を探す。空の手は河辺の泥をにぎりしめる。

「ラスティアアア!」

ザリが叫ぶ。もうラスティアはいない。


河辺は静かだった。舟着き場のにぎわいもここまでは届かない。水面が揺れて岸に当たり、小さな波が生まれてきえる。ザリは身じろぎひとつせずに泥の中でうずくまっている。

俺は現実からはみ出たような気がした。今ここと切りはなされ、目を開けながら夢の中にいるような感触。

ザリは身体を起こした。もう泣いてはいない。悲しそうでもない。さっきまでの魂が抜けたようなザリはいない。なんだか怒っているように唇をきつく結んでいる。

「ラスティア」

ザリは問いかける、もうここにいない人物へ。

「ラスティア、わたしはあなたを追う」

ザリは宣言した。

「あなたを追うためにここにきた。追って、答えを聞くためにきた。殺されるかもしれないという恐怖も、殺してしまうかもしれない恐れも承知で。わたしはあなたを追う。魔荒野の果てまでも、氷の島の向こうまでも。その結果、ラスティを死に至らせることになろうとも、わたしは」

息づかいまでも聞こえてきそうな静けさだった。静かな誓いだった。自分と相手のためだけの、祈りに似た神聖な言葉。なにもかも踏み越えて果たすべき約束。

帽子をかぶりなおし、ザリは俺が行ったりきたりでできた獣道を歩く。俺に気づかず目と鼻の先を通り過ぎた。

どれくらいの時間が過ぎたのだろう、俺は立ち上がった。長時間しゃがみすぎて身体の節々が痛い。

今のはなんだったんだ。

ラスティアはザリを知っているみたいだった。小さなザリだなんて、あんなに背が高いザリへの呼びかけじゃないぞ。どうしてそんなに親しげだったんだ。もう訳が分からない、なにも考えたくない。

直接会って話そう。俺は決心する。

一番手っ取り早いし、誤解もしない。どうしてなのか変な推理をしなくてよけいな不安を抱えなくてもすむ。話してくれないかもしれないけど、じっくりねだればきっと教えてくれる。

もうすっかり暗くなったというのに一行に舟着き場は静かになっていない。忙しそうに働く人の中を、迷惑がられながらもかき分ける。白葉号は夜になっても、むしろ夜だからこそよく目立っていた。迷うこともなく俺は戻す。白くて綺麗な舟体はなによりの目印だった。

会ってどうするのか、どうやって話を進めるのかろくに決めないままに、俺はザリの寝泊りしている部屋に足を向ける。

「ザリ」

ドアを開ける。我ながら緊張してそっけない声だった。開けるとなぜかそこにイーザーとキャロルがいた。

「あれ、なんでいるんだ?」
「アキトこそ」
「今探しに行こうとしていたんだ。なんでもザリが大切な話があるとかで」
「え」

思わず見つめる。ザリは着替えて椅子に腰掛けていた。まだ髪はぬれているし、明るいとはいえないまでもそれなりの光ある場所で見ると顔や手にかすり傷はたくさんある。表情は静かだった。

奥にはミサスまでいた。窓に寄りかかっていねむりをしている。全員集合だった。

「そろったわね」

ザリが静かに口を開いた。

「見つかったというか、アキトが勝手に飛びこんできたというか」
「イーザー、悪いけど扉を閉めて」

ザリはまっすぐ俺たちを見る。

「座って、今まで黙っていたことを話すから」