中は狭くてものがなかった。扉を閉めると思った以上に静かになり、街の騒音が遠ざかる。
「これ。雷竜神の紋様だ」イーザーは扉に彫られている直線ばかりの幾何学文様を指さした。キャロルの言ったとおり、ここが本当の雷神殿らしい。
それでもまだ、俺はぴんとこなかった。ちっとも神殿らしい変わったところや違うところがない。どこにでもある小さな民家みたいだ。風神殿も広さと汚さは同じだったが、あそこはまだ普通ではない空気、住むのが目的ではない感じがしていた。ここはそれさえない。空っぽの建物というだけだ。
「大丈夫か、ここで」ラスティアの手が先に着たらどうしよう、という問題ではない。それ以前だ。俺がとまどっているあいだにキャロルたちは奥へ進む。俺もあわてて追った。
奥というほど距離はなかった。狭い玄関の次の部屋がもう最深で、四畳半の空間があり、中央には人がひとり乗れるほどの透明な板が置かれていた。なぜか左側が池になっていて、表面に白い泡を一杯浮かべて潮の香りをただよわせている。
無人だった。部屋には他へのドアもない。
「キャロル、これどういうことだ?」キャロルのせいでないことは確実だったが、聞かずにはいられなかった。
「ラスティアに先をこされたのか? もともといた人たちは追いはらわれて、置かれていた神像とか本とかは捨てられたのか」「そうじゃないと思う。生活臭がないわ。あったものをなくしたのでさえない。もうずいぶん長く住んでいないのよ」
さすがのキャロルもどうしていいのか分からないようだった。「無人神殿は風神殿の専売特許だと思ったのだけど」
「勝手に調べちまおうか。申し訳ないけどな」「どこをどう探せというのよ。椅子ひとつ本一冊ないのに」
「あの水はなんだろう」
俺はさっきから気になっている池を見る。「水もれじゃないよな。なにかあるんじゃないのか」
「水神殿じゃないのよ」キャロルはうんざりしたように、それでも水辺へ寄った。俺もつられて動く。池ではなく部屋中央にある透明な板に触る。
「プラスチックじゃないかこれ」はじめて見た時からひょっとしたらと思ったが、本当にプラスチックだった。透明で軽く、触った感触は明らかにガラスとは違う。
なんでこんなものが雷神殿にあるのだろう。もの自体は異世界から持ってきたものかもしれないが、いかにも大切そうに貼りつける理由がわからない。「ぷらすちっく?アキト、変なことしないでよ」
俺はどう思われているんだ。キャロルはこっそり傷ついた俺の心中などまったく気にせず、水の匂いをかぎ指にひたしてなめる。
「海につながっているのか。というかキャロル、あんな汚い海の水飲んだら腹を壊すぞ」
「地下道の一族だから平気。毒物病気には強いのよ。でも、なんでここに海水が沸いているのかしら」
「俺に聞くな。知らないよ。水は深いのかな」
「ミサス、槍を貸してくれ」
器用にも神殿内にまで槍を持ちこんでいたミサスはあっさりイーザーに手渡した。イーザーは槍の穂先ではなく柄の方を水にさしいれる。
ミサスの槍はかなり長い。俺のスタッフだって結構長く、色々ぶつかって周りに迷惑をかけるがそれよりもはるかに長い。ミサスの身長の2倍以上はある。そんな槍の触れるところが全部沈んでも底に届かなかった。
「深いぞ」「見かけじゃ全然そう見えないのにな」
水辺に座ってのぞきこんだ。光量がとぼしい室内では水の奥がまるで見えず、槍を引き上げるイーザーの手によって水面が不規則に揺れた。
思いきって、俺は水に顔をつけた。
目を開けるとたちまち海水が目にしみた。水中は暗くほとんどなにも見えない。
無駄足だったな。気落ちした瞬間変なものを見つけて、肺の中にある空気を全部吐きだした。
肩に爪が食いこみ、無理に俺を大気中へ引き戻した。勢いあまって鼻に水が入って痛い。キャロルはまったく同情しなかった。
「アーキートー、なにやっているの。いきなりもぐるなんて変なことしないでよ。どうせなにも分からないでしょう。人間には暗視能力はないんだから」目も鼻も痛い、口の中が塩辛くって水が一杯ほしい。今はそれよりやることがあった。
「いた」「ん?」
「水の中に変なのがいた。透明でぶよぶよした大きいもの。壁に張りついていた」
キャロルの表情が引きしまった。
「スライムかしら」「水中の? スライムは陸上の生き物だろう。湿ったところが好きだろうけど、水の中に生きていけるのか?」
ごぽり。
スライムとはなんだと聞く前に、ぶよぶよは水中から浮きあがり床の上へはいでる。とっさにキャロルは腰の剣を抜き逆手で俺をかばう。イーザーはもう少し冷静にミサスの槍をその場で落として、剣の柄に手をかける。
「なんだ?」思った以上に巨大だった。全長は2メートル、俺ぐらいすっぽり包んでしまいそうだ。見上げてみるとまるでゼラチンの塊、大きなゼリーだった。今にも襲いかかってくるのかと思ったが、そんなことはなかった。
よく見るとゼラチンの中には蛍のようにちかちか発光する気泡のようなものがあり、それらの点滅とともに空気がふるえ、ひそやかな声が聞こえた。
『雷竜神の信奉者か?』聞こえるか聞こえないかのささやかな声だったが、まぎれもなくゼラチンは言葉を発した。つまりはこれもカーリキリトの一員、知的生命体なのだろうか。巨大アメーバーさえも話すカーリキリトの人外さに軽く目が回る。人間しかいない日本がいまさらながらに懐かしい。
「いや、俺たちはここの人に聞きたいことがあってきたんだ。えっと、雷神殿の人?」ゼラチンはまた気泡を光らせた。
『違う。私は留守番、代理人』こんなに大きいのに今にも消えそうなはかない声は一体どこから出ているのだろう。不思議だ。
「じゃあ神殿の人に会わせてくれないか?」『かまわないが、大気で生きている人々には大変な過程となる』
「でも、そのためにわざわざレイドにきたんだ。かまわない」
『分かった。用意するから少し待て』
ゼラチンは沈んだ。
「外見はともかく、言っていることは普通だったな。よかった」会話も無事終わり胸をなでおろして、ようやくイーザーもキャロルも珍しいものをみる目で俺を見ているのに気づいた。なんだよおい。
「アキト、度胸があるな。あんなわけの分からないものに普通に話すなんて」俺は普通に話したおぼえはない。内心化け物と思いつつも努力したんだ。目の前でひっくり返って驚いたら話が進まない。
「人外にはいい加減なれないとな」「あんな種族、見たことがないぞ」
「あたしもよ」
「うぇ?」
全人生をここで過している2人が知らないということはカーリキリトの常識外の人ということになる。ひょっとして以前知り合った96566みたいにここではない世界の人かもしれない。今更ながらに俺は暗い水の底を見た。
「だったら、あのゼラチンはなんだったんだ?」「知らない。あれによく似た生き物ならスライムっている半固体半液体物がいるけれども。スライムに知性はない、人食いの化け物よ。話すことができて光ってというのは知らないわ」
イーザーはミサスに「知っているか」と振ったが反応はなかった。さらに問いつめる前に『大気中での私の呼び名はない。適当に呼べ』とこだました。
「あ、ゼラチン」適当に呼べといわれたのでそうさせてもらおう。ゼラチンは嫌がりもせずに『神殿の長は海底都市レイドでお待ちしている。大気のものたちでもいけるよう用意はできた。こい』ささやく。
今変なことを聞いた。誤解のないように聞き返す。
「待ってくれ、雷神殿のえらい人は水の中にいるのか?」『そうだ』
「俺たち、もぐって会いに行かないといけないの?」
『神殿の長はここにくることができない。会いたいのならお前たちからこい』
「泳げって言うのか?」
『水中では歩けないのだろう。移動するためには泳ぐ必要があるはずだ』
一応言っておく。俺は泳げる。学校のプールで50メートルクロールを楽勝に泳ぎきれる。でも海底都市レイドとやらにいけるかというとまったく自信がなかった。率直に本心を語ると絶対無理の4文字に尽きる。
「ちょっと待ってくれ、無理、できないよ! 泳ぎきる自信がない。海底都市レイドがどこにあるかは知らないけど、海底にあるんだろ。絶対息が続かないって! なんでえらい人はここにこれないんだよ、海底都市ってなんだよ」ここまで一息で言うと、いつの間にか槍を拾ったミサスに背中をこづかれた。表情はなにも浮かんでいないが、どうやら落ち着けという意味で突っついたみたいだ。普段とめるはずのイーザーとキャロルはそろってゼラチンを凝視しているだけだから、いやいや自分から行動に出たらしい。
『混乱しているな。説明する。お前たちは陸に住んでいて、陸上のレイドのみを知っている。だが海の中にも生きて住んでいるものたちがいる。彼らも街を作り都市を持つ。そのひとつが海底都市レイドだ』人外だらけのこの世界、街は地上だけではないということか。海に生きる伝説の生き物といったらまず思いつくのは人魚だ。どうしてゼラチンなのだろうか。
『2つの世界は一般的にはあまり関わりを持たないが、ここレイドでは積極的に交易をし、両方を行き来している。地上には雷の精霊使いはほとんどいないが、海底のレイドには世界でも有数の雷の使い手がいる。だから地上の雷神殿は海中への窓口として、本当に用があるものをもうひとつのレイドへ案内している』「なら、どうしてはじめ呼んでも返事をしてくれなかったんだ。帰ったのかもしれないのに」
『陸のレイドは治安が悪い。心から雷のものを求める人間よりも盗人や犯罪者の方が多く訪ねる。用心と見極めのためだ』
なるほど。じっくり観察していたのか。いい気はしないがしょうがないのだろう。
「俺たちをレイドに連れて行ってくれるって言っているけど、俺海底まで泳ぐ自信がない」『おまえは私に地上で跳んだり走ったりすることを期待していない。私たちもおまえが水中で自在に行動することを想定していない。私がおまえたちに水中でも自由に動け呼吸ができるよう特別な術をつかう。その後私が海底都市レイドまで運ぶ。危険はない』
俺は少し考えた。正直不安だがこうも断言している以上、うっかり溺死することはないだろう。えらい人がここにきてくれればよかったのだけど、海の底にいるのだし用があるのはこっちなんだからこっちから出向くのが礼儀でもある。落ちついて考えるとゼラチンの言うとおりにするのがいい気がしてきた。
「分かった、そこに連れて行ってほしい。どれくらい時間がかかる?」『すぐだ。くるのはおまえ一人か?』
げっ。
「違うよ、俺たち5人だ。ひとりは今外にいる」振り返り、俺は言葉を途切れさせた。イーザーとキャロルがにいやな顔をしている。まるで怖気づいたみたいだ。いつも通りなのはミサスだけだった。
「えっと。みんなで行くよな?」不安になった。「いやだ、アキトひとりで行け」って言われたらどうしよう。
「あ、当たり前だろ! アキトひとりで行かせるかよっ!」イーザーが勇ましく断言した。少しやけになったみたいにも聞こえたけど、それでも胸をなでおろす。よかった。
「だったらあたしも行かなきゃ。アキトとイーザー野放しなんて、どんな問題かかえて帰ってくるのか分からないもんね」キャロルの言ったことは本当なので反論できなかった。「俺、ザリにそのこと伝えてくる」イーザーが外へかけだす。
「ミサスは? 当然ミサスもくるわよね」「行かない」
誤解が入りようがない、分かりやすい意思表示だった。無言でついてくると思っていただけに意外だ。
「どうして? 海が怖いの? 昔海の生き物になにかしたの?」「俺は水にもぐれない」
かっきり2秒後、キャロルは明白に悪意のある笑い声をもらした。俺は「そっか浮力か」とこぼす。キャロルはすぐに笑うのをやめる。
「浮力ってなに?」「え?」
どうでもいいような、思いつきにつっこまれるとは思わなかった。俺はしどろもどろになる。どうしよう、物理は得意じゃないぞ。公式さえ覚えていればテストでいい点が取れるから成績はいいけど、だからって理解しきっているとは思わない。
「浮力ってのは、つまりその、ものが水に浮く力だよ。ほら、木は水に浮いて鉄は逆に沈むだろう? ものは体積に比べて重さが、ある一定より大きいと沈んで、軽いと浮くんだ。人間もそうで、筋肉ばっかりの人は沈みやすくて、女の子みたいに脂肪が多いと浮きやすい。ミサスは普通の人よりはるかに軽いし、その上背中に羽根もあるだろう? それで体積のわりに体重が軽くて、水にもぐりたくてももぐれないんだなと思って」
「へえ、そうなの」いまいち理解しきれていないように、それでも一応納得したのかキャロルは何回も大きくうなずいた。ミサスさえも今はじめて浮力を知ったというように、ほんの少し目を開く。おい、本人もわかっていなかったのかよ。
「駄目だ、ザリ」イーザーが戻ってきた。「海底都市レイドにザリは行けないって」
「どうしてよ。まさかザリも泳げないの?」「黒海を放っておけないって。外につないでおくのは危険だし、神殿の中におくのも失礼がすぎてできないってさ。ゼラチン、俺たちと同じように馬も海中で連れて行けるか?」
『大きすぎず、一般的人間とおなじくらいの知能があればできる』
無理だった。黒海は大きい馬だし、いくら賢いといっても人間並みには賢くない。黒海がこれないのだったらザリもいけない。俺たち3人で行くことになる。
だったら留守番代わりにマドリードの船でも確保してよ。結果がどうあれ行くことになるから。話すキャロルを背景に、俺はまだ見ぬ海底へ覚悟を決めた。
水辺に並んで、水中でも自由に動ける術をかけてもらった。
ゼラチンの身体の光が不規則になり、声ではない空気の震えが部屋中に満ちる。俺たちの身体にまとわりつく空気がやけに湿っぽく、ねばつくような感じになった。
『終わりだ。水の中に入ってもいい』「もう?」
思っていたよりも簡単だった。見たところ俺の外見に変わったところはない。本当にこれで大丈夫なのだろうか。実は魔法をかけそこなっていて、俺は飛びこんだとたんにおぼれないだろうか。
「アキト、なにしているんだ。今更怖気ついたのか?」内心問答している俺に、イーザーが小ばかにしたように笑った。いつもの外衣はなく、ブーツも脱いではだしになっている。だからだろうか、笑顔はどうも珍妙だった。
「なんだよ、違うよ。ちょっと心配しただけだ」「同じように聞こえるな。じゃ、先に行ってくる」
イーザーはいとも簡単に、暗い水の中に身を投げた。意外と小さいしぶきが上がり、そのまま浮いてこない。思いだしたように泡が浮いた。
「勇気と自棄って、似ているのね」やはり剣を取り、革鎧を脱いだキャロルは肩をすくめた。長い手袋もブーツもなく、灰色の短い毛がびっしり生えた手足がむき出しになっている。小刀や細々とした道具は布でつつんで腰にくくりつけ、けして手ばなそうとしない。
「あたしも」どこかあきらめたように投げやりに、それでいて口の端に緊張を浮かべて、キャロルもまた飛びこんだ。
残るは俺ひとり。
いざひとりになってみると、改めて水は暗く深い。荷物はなくスタッフは置いた。どうもためらってしまう。術はかけてもらったしそもそも俺は泳げるのだから心配はいらないのに。
もちろん今更やめたなんて言えない。ゼラチンと話したのは俺だ、神殿のえらい人に話をしたいといったのも俺だ。
先に飛びこんだ2人は上がってこない。きっと大丈夫なのだろう。安易な直感に突き動かされ、大した覚悟もないまま俺は飛びこんだ。水しぶきが上がり、視界が一転して暗くなる。
水中は思ったより暖かかった。生ぬるいともいえる。おかしなことに水中にいるというよりも、溶けかけたゼリーの中に沈んでいる感触だった。
水中でも息ができるといわれたのにもかかわらず、呼吸を止めながら目をあける。なにか違和感を感じる。
理由はすぐに分かった。
『ぬれていない! えっ?』俺の髪も服も水中だというのに、水気を含んでいなかった。強いて言えば湿っぽくはなっていたが、それだけ。加えて水中で叫んでも口から空気が出ていかず、水が入っていかない。慎重に呼吸をしようとすると、陸でいつもそうしているように空気が肺へと入っていく。
『息ができる』水中呼吸というのは空気の代わりに水を飲みこんでも平気なものかと思っていた。息ができてぬれない。ためしに右腕を動かしてみた。水の抵抗はない。
『なじんだな』目の前にゼラチンが現れた。暗い水の中ではゼラチンの半透明な身体は認識できず、光る球体しか見えない。ちなみに球体の分布からして、ゼラチンは俺が思うよりずっと大きいみたいだった。俺が観察している間、イーザーが苦情でも言ったのか丁寧に返事をする。
『そうだ。ちゃんと2人も横にいる。魔法で外からの衝撃をとめているから言葉は聞こえないし、人間はこの光量ではものが見えにくい。あきらめろ。出発するぞ』光る球体が一瞬にしてひろがり、俺の周囲を包んだかと思うとすさまじい速度で下に引きずられた。肌は空気の流れも水流も分からないし、周りの景色も見えないのでなにが起きているのか分かりにくい。すごく速い下りエレベーターに乗った浮遊感に似ているからそうなのだろう。
『落ちている!』『海底都市レイドへ進んでいる。私がおまえたちを連れて移動している。すぐにつく』
自分を乗り物にしてレイドへ連れて行ってくれるようだ。俺は上下左右の球体を見てやけに安心した。ついでにだれかが酔ったのか『我慢しろ』との声が遠くから聞こえた。
はじめこそおかしかったが、すぐ慣れた。立っていても疲れないし、見るものも周りの球体以外にない。電車の中みたいに寝ようかな。
「アキトだったな。おまえと少し話がしたい」今までのゼラチンよりはるかに小さい、耳元でささやくような言葉に俺は目を開けた。
『俺だけ?』「そうだ、アキトだけだ」
『いいけど、なんで俺なんだ? 陸のことならイーザーのほうが詳しいぞ』
「ひとりは普段味会わない振動に気分を悪くしている。もうひとりは警戒のあまり話しどころではない」
どっちがどっちだ。
「アキトは、陸の世界の住民ではないのだろう」え?
『な、なにを言っているんだ。俺は陸でしか生きていけないぞ。肺呼吸の哺乳類だ」「そういう意味ではない。アキトはカーリキリト外の生き物なのだろう」
陸の世界というのは、つまりカーリキリトの陸地ということか、納得して素直にうなづいた。
『そうだ。でもどうして分かったんだ? イーザーと同じ人間なのに』「知識だ。祭られている板の名前を知っている、浮力の考え方を知っている。両方とも地上では流通していない知識だ」
球体が淡く光った。
「そして海の住民を恐れない。海に対して警戒していない。地上の知的生物にしては珍しい考えだ。海になじみぶかい職でも立場でもないのに」『恐れるわけがないだろ。そりゃ確かにゼラチンは見たことがない種族だけど、でもまだなにもされていないのにびくつきやしないよ』
「おまえにとってはそうだが、残りの2人はそうでなかっただろう」
言われてみれば。硬直したり強がったり、イーザーたちは変に身構えていたようだった。ミサスは平然としていたが、ミサスを驚愕させるものなんてこの世にないだろうから参考にならない。
「陸と海は異なった世界だ」ゼラチンはゆっくり解説した。
「陸上と水中の生き物は姿も形も違う。陸の生き物は用意をしないと水中では生きていけない。私たちもそうだ。その上技術も魔法も文化も異なる。ゆえにここと陸地は異界同士だ。すべての世界でもっとも近い異世界、それがお互いの認識だ」キャロルたちの警戒ぶりを思い返した。過剰なほどの態度は、異世界とそこの住民に対するものだったとしたら納得する。反面俺からすれば海は珍しくもなんともない。今までさんざん変なものへの耐性もつけたし、なんともないとまでは言えないけれども、特に問題があるわけでもない。
『そっか、キャロルにとってはゼラチンは異世界の住民で、今していることは異世界へ無謀に突撃しようとしているようなものか。どおりで』「おまえにとってはそうではないのだろう。友人の家に行くような気楽さだった」
『そこまで気軽じゃなかったけど、でも確かにゼラチンの言うとおりだ。俺は日本人で、カーリキリトの人間じゃない』
「雷神官に会いに、次元を渡ってまできたのか」
『違う、偶然だ。神官さんに会いにきたのはまた別のこと。調べたい人がいるんだ』
「おまえが異界のものであることと関係あることか?」
『あるような、ないような』
あいまいな答えを最後に会話はとぎれた。お互い黙り、そろそろ慣れた浮遊感の中で俺はぼんやりした。ゼラチンがなにを考えたのかは分からない。短い無言のあと『そろそろつく』ゼラチンは告げた。
水中の街と言われて思いつくものは、絵にもかけない竜宮城かSF未来都市のどちらかだった。
俺たちが通されたのはどちらでもなかった。俺の知っている語彙の中で例えるなら、白い巨大なビニール袋に空気をつめて海底に移し、浮かないように見えない糸でつないでいる場所だった。そんな理解のできない場所の内部にゼラチンは俺たちを放りだした。しばし待てとだけ言い残して、俺たちをおきざりにしてどこかへ行った。
まるで待合所みたいなせまい部屋だった。ビニールの中は空気だったので、ようやく水中でも呼吸ができるというどうも不自然な状況から解放されたものの、不安はつのる。
「ゼラチン? 戻ってくるのか?」イーザーが神経質につぶやいた。椅子もないので直接床に座りこんでいる。俺たちをとりかこむビニールのようなものは、極上のクッションもかくやというようなやわらかさだった。どんな格好でも苦にならないが、弾力がなさすぎていつまでも同じ体勢だとそのままめりこんでしまいそうだった。
「心配してもしょうがないでしょう」キャロルも不機嫌で投げやりだった。俺はなにも答えずに外を見る。向こう側は海で、太陽の光は届かず深遠が横たわっている。はるか遠くに白く弱々しい球体が複数個浮かんでいる。ここと同じようなビニールなのだろうか。なんだか深海というより宇宙に連れてこられた気がする。考えてみれば共通点は多い。見たことのない技術、常識離れした人たち、外に出たら即死の密閉空間。SFの要素はそろっている。
「雷の神官ってどんな人なんだろう。人間に近いといいな」ここまできてなおかつ相手が人類であることは期待していない。せめて人形であれば接近感がわく。最大限譲歩して脊椎動物であるといい。
「地上の言葉が通じるといいわね。海の言語は学んでいないのよ」「俺だってそうだよ。みんなそうだ」
そっとふれているビニールの張りが変化した。イーザーが変な声をあげて立ち上がる。腰の辺りまで手を伸ばすが、いつもなら剣があるはずのそこにはなにもない。
外側から大きいなにかがビニールをつき破ろうと突撃してくる。海の向こうからの侵入者に、とっさにどうしていいのか分からず動けなくなる。
ビニールが破けたらどうなる。即溺死だろう。運よくゼラチンの魔法でまだ息ができるとする。それでもこっちへきたがっているなにかが敵意を持っているとしたら、ものすごく簡単に達成されてしまう。だれかが敵意のない人だとしても、海の底でひとりとりのこされてどうやって生きていけというんだ。それとも水の圧力につぶされて死ぬのかもしれない。
暗い未来を一瞬で考えているうちに、侵入者はあっさり入ってきた。
「うえっ?」小さく叫んだ。その人は俺が想像していた化け物ではなく、顔立ち整った大人の女の人だった。黒髪は海水をたっぷり吸っていても黒々した美しさを失わず、青がかった黒い瞳は長いまつげでおおわれている。唇は赤く小さく、なぜか俺は血の巡りが速くなった。
なんでこんな人がこんなところに。口に出せない疑問に答えは出ず、俺は女性が空間内に入ってくるのを見ていた。幸いなことに内部へ水はほとんど入ってこない。
「ふっ」ため息のような声で、女性は侵入を完了した。ビニールは女性が入りきると同時にぴったり閉まった。一体どういう物質なんだろう。こんな高度技術日本にもないぞ。
想像してしかるべきだったが、女性は人間ではなかった。上半身は間違いなく色っぽい女性だったが、下半身は魚だった。人魚というやつだ。
「あら、『深遠の中突如輝く閃光』は? 明かりがついていたからいると思ったのに」朗々として深みがある、低めの声だった。外見といい声といい、これぞ人魚だ。完璧さに俺はうっとり見とれる。こんなに想像通りの人外を見たのは初めてかもしれない。
「あなたたちはだれ? 地上の人?」ほおに右手を当てて俺たちを見る。
「俺はイーザー・ハルク。地上の人間だ。こっちはアキトで女の子はキャロル。そういうあんたはだれだ。ゼラチンの知りあいか?」機嫌の悪いキャロルとぼんやりしている俺の分までイーザーは説明した。
「ゼラチン? 深遠の中突如輝く閃光のことね。あたしはメイルーン、人魚よ。閃光の中突如輝く閃光に伝えたいことがあってきたのよ」さりげなくかきあげた右腕には、金色に光る腕輪がゆれていた。ミサスみたいな魔道士なのだろうか。
「ゼラチンならいないぞ。出かけている」「そう。なら待たせてもらうわ」
メイルーンはえらそうに言って器用にはいずり、部屋の中央に座りこんだ。下半身が魚というのは海中ではすごく便利だが、空気中では行動しにくいだろうな。そんな俺の疑問を打ち消してしまうほど動作は堂々と手慣れていた。
『神官が会うそうだ。雷神官のいる場所まで連れて行く。メイルーン、どうしてここにいる』「ゼラチン!」
ゼラチンかビニールから顔だか身体の一部だかを出して、俺たちに伝えた。意外と戻るのが速い。長時間ここにいたいわけではなかったが、もっと長くかかるかと思っていた。
「地上で興味深いことを聞いたから、伝えにきたのよ」『後だ。モスが彼らを待っている』
「つまらないわね。そこの地上の方々も聞きたがることなのに」
『アキトたち、私の上までこい』
かわいくすねるメイルーンを完全に無視して、ゼラチンは俺たちに移動をうながした。俺ならどんなに急用があってもこんな風にねだる女の人をほうってはおけないのだが。こうも平然とできるのは旧知の中だからか、それとも種族が全然違うからだろうか。
人魚はビニールを引きちぎって入ってきたといった風情だったが、ゼラチンは初めからビニールなどないかのように通過して語りかけた。俺が深く考えずにゼラチンの頭に足を踏みいれると、ゆっくり沈むようにゼラチンの中へ落ちた。
今度は速すぎず遅すぎずで出発し、すぐに吐きだされた。
次こそ竜宮城か近未来都市かと思いきや、予想はまた裏切られた。
俺たち3人は穏やかに波うつ海岸に立っていた。上には空の代わりに黒く乾いた岩が球状に広がっている。学校ぐらいの大きさの半円の中は、大半がなめらかな岩地で中央に体育館ほどの苔むした山があった。半球の端に扇状に海が広がり、まるで陸地の海岸のように海水が波うっている。空中には光る珠がいくつも浮いていて、かなり明るい。
人が大勢いた。海に住む代表的であろう種族半魚人に毛の長い獣人。空を自由に飛ぶ熱帯魚。果ては武装した人間までがゆったり行きかい、話をしたり座ってくつろいでいる。
「4分の1が海岸になった東京ドーム」第一印象をありのままに言ったら、なんだそれはとイーザーに聞かれた。
「ここはまだひかえ室なの?」疲れたようにキャロルは腕の力を抜いた。
「ゼラチン、あたしたちなるたけ早く会いたいのだけど」『もう会っている。ここが雷神官のいる場所だ。ここは海底都市レイドには珍しく、地上と環境が極めて似ている。意識的に調整している。ゆえに地上活動を得意とするものたちが集う傾向がある。
ここは乾いていて私はここ以上は入れない。おまえたちだけで行け』
行けと言われても。
「その前にだれが神官なんだ? 人が多すぎてだれだか分からないぞ」『目の前にいる。一番大きな方だ。分かるだろう』
分からないのが分からない、と言いたげなゼラチンだった。そう言われても大きな人は何人もいるし、目の前には岩場と山しかない。
と、イーザーが低くうめいて山を見上げた。キャロルがこづき、うやうやしく山に一礼をする。
分厚いこけで覆われた山から、ゆっくり眠そうな爬虫類の頭が出る。
ようやく俺は小山ではなく、巨大な亀だということが分かった。悲鳴とともに。
「馬鹿」
キャロルは遠慮なく俺の足を足爪で踏んだ。ふがいない男に代わるように前に出る。
「無礼をお許しください。私はキャロル、地下道の一族の娘です。こちらは人間のアキト・オオタニとイーザー・ハルク」「よくきた、地上のものたち。私はモス、雷の力を理解して扱うもの」
モスと名のる亀の言葉は非常に分かりにくかった。寝起きのおじいさんが水を飲みながらしゃべったみたいだった。だが俺の頭の中で明瞭な意味を持ってひらめいた。キャロルが「精霊術のひとつね。伝心」とささやく。
「長い年月がたち、私の言葉は地上のものが理解できるほど分かりやすい発音はできない。こうでもしなければ伝えたいことが伝わらないのだ」聞きたいことがあるのだったな。キャロルが謝罪もしくは言い訳をする前に亀は本題へ入る。
「あ、はい。俺たちはラスティアという男について調べています。ラスティアは雷の精霊使いで魔道士でもあります。なにか知っていることがあれば教えてください」背筋を伸ばして両手両足をそろえたイーザーは、キャロルほど見事でも礼儀正しくもなかったが、言っていることが分かりやすかった。
「知っている。ラスティア・ラガス。少し前に人々のうわさで聞いた」亀は知っていた。しかも少し前ときた。飛び上がって喜びかけたが、キャロルに足を踏まれて地面にい続けることになった。
「人間の中では雷の力を扱うものは少ない。研究が進んでいない上、善良な能力と思われていないからだ。事実雷は古いものの破壊、そして新しいものへの再生の力だ。地上の森を焼いて若草を息吹かせる。天まで届く塔を砕き土地と土台に戻す。必要な力だがありがたがられない。そんな価値観の人間たちの中で、ずば抜けてすぐれた精霊使いがいると聞いた。ただ力を感じて動かせるだけではない。本質を理解し雷とともに生きる上位者だ」
イーザーが小声で「上位者って、巫女のことか」つぶやいた。そうか。
「ラスティア・ラガスはそれだけではなかった。言葉によって力の方向性を意のままに動かす術、魔道も己のままにしていた。これは大変珍しい。精霊術と魔道は両立しない。例外は歴史上数人のみ、雷使いとしては初めてだ。ある日人々の前から姿を消した。それきり人のうわさはない。レイドで活動する旅人や商人の話題としてごくまれに登る。死んではいないようだな」
「消えたのは、いつ?」「なんでいなくなっちゃったんだ?」
キャロルが邪魔をするなとばかりににらみつけた。ひるみかけたが、よく考えるとけんかを売られる立場じゃないぞ。
「消えたのは10年以上前。理由は分からない、当時神官やとりまきが探したが、痕跡ひとつ見つけられなかったそうだ」10年以上前。
「あの、さっきの少し前って、やっぱり10年前のことですか?」「そうだ」
どんなに人間らしく丁寧に話しても亀は亀だ、年月の考え方が違う。いやこの場合、相手が高齢で俺たちが十代だからこそのかけちがいなのだろうか。10年前って言えば俺は小学1年生だぞ。
「地上の方々!」空間中に響きわたる女の声がした。海への出入り口、浜辺にさっきであった人魚のメイルーンが、魚の下半身を海の中へ投げだしながら両手で身体を支え起こしている。大きい声なのに耳ざわりではない、その呼びかけはここにいる全員へ確実に届き、メイルーンは注目をあびた。
「地上のレイドで暴動が起きているわ! 商品は奪われ船は攻撃され、人々はお互いに殺しあっている」こけしたたる水滴まで聞こえそうな静寂。
少ししてあちらこちらで不安そうなささやきが交わされた。血気盛んそうな若者が半魚人と一緒に海へ飛びこむ。急に心配になった、ミサスとザリはどうしたのだろう。ミサスは黒翼族で目立つ外見だし、ザリも黒海をつれている。人目を引く組み合わせだ。注目されて困ったことになったり、さらに戦いに巻きこまれていたら。ミサスはまあ、戦いになっても結構大丈夫そうだがザリが危険だ。
「キャロル、すぐに戻ろう!」「まだよ。なんのためにここまできたのよ、なにも聞いていないじゃない。どの面さげて戻れるの」
「ミサスを放っておくのか!?」
イーザーが食ってかかる。キャロルも負けじと言い返した。
「海底都市レイドに生きる長寿の雷神官。対面なんてそうそうできやしない。今から戻ってミサスを探し、またくるの?冗談じゃない、今聞いて即帰った方がいいわよ。そうしてマドリードへ行く。
そのためにやるべきことをやらないと。目的を果たしていないのにうろうろするわけには行かない」イーザーが不安そうにキャロルを見つめた。「もしかして、これは」
「ありえるわね。この隙になにかをたくらんでいるとか」
俺には分からない会話を、2人は解説する気はまったくないらしかった。「メイルーン!」
メイルーンはすでに質問で頭の中をあふれかえらせている人々にとりかこまれていた。殺気立った人種さまざまな人たちに三方を占領されているのに、臆することなくてきぱき答えている。水中ドームはもう大騒ぎだった。
たくさんのどなり声にも負けずにキャロルも口を開いた。「船は? 港はどうなっている?」
メイルーンには聞こえなかったようだが、おとなしくうずくまっていたゼラチンは受けとってくれた。ゆっくりとした動作で浜まで上がる。もちろん俺たちだってかけよった。
『港に人はほとんどいない。船着き場から暴動は発生した。船はほぼすべてがレイドを離れた。そうでない船は強奪されるか沈められた』キャロルが舌打ちをして爪で砂を引っかいた。
「待て、河は? 河の舟着き場はどうだ?」今ひらめいたとばかりにイーザーが口をはさむ。
『河? よくは分からない。港からも離れている、無事だと思う』ふくらんで今にも破裂しそうな風船がいきなりしぼんだように、キャロルは脱力した。
「そうよ、あたしたちは河から行くのよ。よかった。河が無事ならマドリードへ行ける。イーザー、いいところに目をつけた。あなたは時々賢くなるわね」
「時々はよけいだ、時々は」あいにくだが、イーザーが常時頭脳明晰と断言することは俺にもできなかった。
「時間がないわ。神官モス! ラスティアは召喚の魔法を使う!?」「否。しかし雷の術の一部は禁呪。起こしてはならぬことを起こし越えてはならぬ境界をたやすく越える。星星の距離ほど遠くへだてられた世界を行ききし、人を呼び道をつなぐ技がある」
「俺、ここの世界じゃないんだけど、俺を呼んだのはだれか分かるか」
「分からない」
「魔法か、精霊術か」
「分からない。魔法だったら感知は不可能だ。精霊術だとしてもおまえに雷の気配は感じない。樹の香りがする」
「ウィロウだ」
のんびりしたエントと俺はしょっちゅう行動を一緒にしていた。ウィロウが得意だった木の精霊術の香りだって移るだろう。黙りこんだ俺をイーザーは悲しそうに視線を投げる。
「俺たち、主にアキトだけど、身体のない声が聞こえることがある。どうもラスティアと関係があって、一連の出来事の鍵をにぎっていそうなんだ。そういう団体や人物、魔法や精霊術にに心当たりはないか」質問は投げっぱなしになり、帰ってこなかった。
「分からないのか」「否。推測はできる。しかし言わないほうがいい事柄だ」
「どういうこと」
キャロルが不機嫌そうに口出しする。
「そのままの意味だ。おおよそは分かる。同時に口を出してはいけないことであることも理解した。今伝えるより伝えないほうがおまえたちとその味方のためにはいい。おまえたちは塩なしの河から他国へ行くのだな。助けよう。
深遠の中突如輝く閃光。私の名の下に海のものが扱う舟まで彼らを送り届けよ。地上で価値のある宝で舟主への褒美とせよ」
『はい』「終わりだ」
亀は口を閉じた。
その後俺たちがどんなに騒いでもどなっても、けしてもう一度話しはじめなかった。
帰り道。ゼラチンの体内で、俺はぼんやり急上昇エレベーターの気分にひたりながら聞いた。そういえは、高山病は大丈夫だろうか。距離としては似たようなものだろうな。
「ゼラチン、ちょっといいか」『いい。だが急いでいるから少しだけだ』
「キャロルとイーザーはどうしている」
『キャロルは小声でつぶやいている。今「なによ、あの鼈甲の材料は」とつぶやいた』
ゼラチンは2秒の空白の後、ゆっくり続けた。
『罰当たりな娘だ』「キャロルはああなんだ、気にするな。すぐ慣れるよ」
実は俺だって、なんで出し惜しむんだ爬虫類のくせにと思っている。もちろん、ほんの少しだけだが。
『出ろ』「もうか?」
背中から押されて、俺はわけが分からないうちに海の中に突き落とされた。驚いているうちに浮き上がって空が見える。
「アキト!」キャロルが一足先に陸上の人になって俺を見下していた。いつも広がり気味の髪が頭にへばりついている。
「あ、うん。って、ゼラチンは海の中に俺を投げだしたのか?」「今気づくな」
「そんなこと言われたって。急に水の中に投げだされたら冷静になれないよ」
ゼラチンのせめてもの思いやりか、俺たちは港のすぐそばで落とされたらしい。すぐに地上にはいあがることができた。
「ゼラチンひどいぞ。かなづちだったらどうするんだ。って、ゼラチンは?」「あっち」
キャロルがあごで示した先は河辺で、舟が何隻もつながれていた。海の船と違ってどれも小ぶりで、その代わりに平べったい。そのうちのひとつ、一番大きい舟の上にゼラチンはいた。水から離れずに、ゲル状の身体を長く伸ばして船員と話している。
髪からしたたりおちる水滴とゼラチンを見ていると、舟の上から小柄な男が「おまえたち速く乗れっ」叫んだ。
「交渉成立だ、マドリードまで乗せていくぞ」「え、連れて行ってくれるのか?」
亀の言ったことに嘘はなかった。俺たちが水の中でもがいている間に舟を用意してくれた。俺はさっきまで胸の中でこねていたわだかまりをすっととかして感謝をした。白い舟を目指していこうとする。
あえいでいたイーザーが俺の足首をつかみ、悪口とともに忘れていたことを思い出させた。
「勝手に行くなよ。ミサスたちどうするんだ。はぐれたらもう会えないぞ」「ゼラチン! 悪いけどあたしらの連れがどこかの舟取っているはずなの! そっちを先に探すわ!」
いつもなら人と荷物で大にぎわいの舟着き場は、今俺たちしかいなかった。気候は穏やかなのに妙に冷え冷えとしている川辺に、再び舟の上から聞こえる。
「いいからこい!」問答無用というやつだった。俺たちもいつまでもここにいて目立ちたいわけではない。しかたなく主張を曲げ、ぬれた服を引きずって舟へと桟橋をよじ登った。
舟の上には思ったよりも多くの人がたむろっていた。乗り手らしい頑丈で気性が荒そうな男たち、たった今俺たちと同じようにあわてて船に飛び乗ったような旅人。
「ようこそ、旅人。白葉号へ」その中から清潔でしゃれた服装のカエルが出てきて手をさしのべた。肌はぬるぬると黒い緑で、縦も横も人間と比べたら小さい。ミサスよりは大きいか。
「私は船長のレオナールです。モス様の頼みとあれば断ることなど考えられません。旅人たちを心から迎え、無事マドリームの岸辺まで連れて行きましょう」「(沼もぐりの一族ね)」キャロルが俺にこっそりささやく。
「どうもありがとう、レオナール船長。俺たちはたった今海底都市からきたばかりなんだが、今どうなっているんだ」
せっかくきちんとたずねたのにずぶぬれではあんまり決まらなかった。
「市街地、特に港ではひどいようです。逃げ遅れた船は略奪と暴力の対象になりました。ここは犯罪都市レイドです。貧富、種族と階級の差別。暴力がありふれ不平と不満がいつでも爆発する隙をうかがっているような街。火種はいくらでもあった。たまたま今回発火したのでしょう」船乗りのくせに知識人じゃないとキャロルがつぶやいた。キャロルは職業への偏見が多い気がする。ちなみに後で知ったのだが、この白い舟は本来裕福な人たちが物見遊山したり旅行をするときのための舟で、レイドで5本の指に入るほど高価なものらしい。それは船長もインテリなわけだ。
「長くは続かないでしょう。組織的なものではなく、偶発的な事件のようです。犯罪組織、商人教会、情報屋にはそれぞれ独自の制止力があります。犯罪都市には犯罪都市なりの秩序があるのです。明日の朝にはなにごともなかったかのように静かになっていますよ」自信たっぷりに説くレオナール船長に、なぜか俺はかんにさわった。こう話している間に、舟がひとつまたひとつと川辺を離れ上流へ進む。
「とはいえ長くいつづけたい理由はありません。すぐ出発します」『白葉号は海底でも有名な舟だ。安全と確実は保障する』
ゼラチンは太鼓判を押して河へ潜ろうとする。ちょっと待て。
「ゼラチン、さっきも言ったけど他に仲間がいるんだ。羽根がはえたミサスと赤毛のザリ。離れ離れになったら困る」「ほかに2人?」
「そう」レオナール船長にやっと肝心のことを伝えられた。
「ひとりはミサス、背が低くて槍を持っていて」
「アキト、そんな説明のしかただと埒が明かない。あのな。ミサスは黒翼族で、背中に黒い鳥の翼を背負っている。もう一人はザリ、二十代の人間女で背が高く黒馬を連れている。先に舟に乗っているはずなのだけど、どこかで見かけなかったか?」
レオナール船長は目を一回転させた。さすがカエル、絶対に人間にはできないことをする。
「いえ、いえ、いえ。お嬢さん」人間で言うところの人差し指を振った。「お嬢さん」キャロルはうっかり砂をかんでしまったような表情になる。確かにキャロルの年はお嬢さんと呼ばれてもおかしくはないが、外見も性格もその呼び方とはほど遠い。皮肉か、それとも本気で初対面の女の子をお嬢さんと呼ぶ人なのか。かえるの顔からは真偽は分からなかったし、どっちにしてもちょっといやだ。
「その2人は舟には乗っていません。船着き場にも来ていません」「舟に乗っていないのはともかく、船着き場は広いじゃないか。2人がきていても見逃した可能性があるんじゃないか」
「そんなはずはありません。これが普通の人間2人組だったら見逃していたでしょう。しかし片方は有翼人種、もうひとりは馬を引き連れている。そんな目立つ2人が分からないはずはありません」
レオナール船長は自信たっぷりだったし、俺は深く納得した。そして船長は女の人ならだれでもお嬢さんと呼ぶんだな。
「まだ、きていないの」「巻きこまれたのか?」
予想外だった。海で話を聞いていた俺たちと比べて、ここに直進するだけのミサスが当然先にきていると思ったのに。なにかあったのだろうか。
「舟はいつ出るの?」「すべての乗客が乗ったらすぐにでも」
ミサスが来ないと舟は動かないのか。そう考えた俺はすごく甘かった。
「ミサスを待ってくれているのか?」「長居をしたくはありません。こないのでしたら先に行きますよ。お嬢さんをおいていくのは心苦しいですか」
そういうことか。「ミサスはどうなるんだっ」イーザーがくってかかろうとしてキャロルにとめられる。「船員のほうが正しい」後ろの髪をつかまれつんのめった。
『待つことはできないのか』ゼラチンが問う。半透明の身体の向こうでまた一艘舟が陸を離れた。もうろくに残っていない。
「モス様の頼みでもそこまでできません。私は舟と乗客に責任があります」「おおい、乗せてくれっ!」
2人組の人影が全力疾走して舟にくる。若い男と半魚人だった。さっき海底都市でも見なかったかあの2人。
2人は看板まで転がりこむと、そのまま倒れる。荒い呼吸の上で「おまえが遅いから」「そっちが道を間違えるから」お互い責任をなすりつけあっている。大丈夫みたいだ。
「予定していた乗客は全員そろいました。もう以上です。今から出航します」船員がさっと散らばる。もうどこの舟も限界のようで出発しかけている。
『やむをえないか。ではアキト、ここで別れた』「あ、ゼラチン。うん。どうもありがとう」
俺がぼんやりしているうちに、ゼラチンは身体の中の光を光らせ、水の中へと縮み戻る。
「しょうがない、マドリームで落ちあうか」「できるのか」
キャロルがあきらめて荷物をかつぎなおす。
「落ちあうって、キャロルそう簡単に合えるのか?」「知らないわよ。この騒動がおさまったら舟に乗ってくるでしょう。それともザリの黒海を使うのかしらね」
イーザーは悔しそうにキャロルをにらんだが、陸地へ目を移して声をもらす。
いつの間にか無人の舟着き場に男がいた。身なりが悪く、無目的にふらふらしている。
「どうした、イーザー。あの人たちも乗るのかな」「なにとんちんかんなこといっているのよ。あの顔はね、少人数だとおとなしくしているけど増えたらこっちに押しこんでくる連中よ」
げっ、あれが暴徒か。
暴徒といえば手に手に武器を持つ、目が血走っている恐ろしい集団だと考えていた。しかしこうしてひとりひとりだとごく普通の人だった。その辺を歩けばきっとすれ違うし、きっとなんの感想もいだかず離れていってしまうだろう。
「そんなものよ。いつもはただの善良な一般市民。群れたら手に負えなくなる。早く出発しないと」「ったく、どこで道草を食っているんだ」
別に遊んで遅れているわけではないと思うが、イーザーに言い訳する気にはなれない。
白葉号の乗組員は優秀だった。傍目にも手際よく働き、出発の支度を整える。船員の一人が舟の先頭で金色のトランペットを吹きならす。俺は舌打ちをした。
まだかミサス。なにやっているんだよザリ。今どこにいるんだ。こっちへ走っているのか、迷子になっているのか。どうしようもないことがあってこれないのか。
こっちは不安になるんだよ。もしこのまま会えなくなったらと思うと、壁に頭を打ちたくなるほど不安になるんだよ。速くこい。きてくれ、頼むから。
「行こう、アキト」キャロルが軽く肩をこづいた。
「今後の計画を練ろう」「ああ」
キャロルに手を引かれるまま、連れて行かれそうになった。
「待った、動くな!」イーザーが叫ぶ。俺はキャロルの手を振りきり陸へとかけよる。
「ザリ!」黒海にのったザリが白葉号にむかって駆ける。はじめはただの土煙にしか見えなかったが、たちまち姿は大きくなり、ザリだとはっきり分かる。馬の頭には烏より大きい鳥がとまっている。ミサスまた楽しているな。
「きた!」「舟を止めろ!」
言わずとも舟は出航を一時的にとめた。走り迫る巨大な馬は普段だって注目するだろうし、こんな状況なら仕事の手を休めてもだれも責められないだろう。
船着き場で無駄にたむろしていた男たちが、舟とザリとの直線をふさいだ。
「おっ、なにを考えているんだあいつら」「足止めをして、ひるんだ隙に馬から引きずりおろすつもりでしょう」
「なんだって」
イーザーは丸腰なのに、ザリのいるところまでものすごく離れているのに。舟の桟に足をかけて身を乗りだした。ザリを助けるつもりだった。
「待てイーザー、そりゃ無理だよ!」「だってこのままじゃザリが!」
俺はイーザーの足にしがみつき、ほかになすすべもなくザリを見つめる。
ザリは目を見張った。手綱が乱れ黒海の足がもつれる。
「ザリ!」俺は黒海がそのままとまると思っていた。黒海はよろめいたまま前につんのめるようにこらえる。速度は落ちない。
「え」俺はなにか起きるか直感して、とっさに目を閉じた。後ろでどよめきがしたので音も聞こえない。
「お嬢さん、乗りなさい!」レオナール船長が命じる。目を開けた俺の前でザリは桟橋を1回蹴り上げ白い舟に飛びのる。
船着き場には3人の男がうつろな瞳でこっちを見上げていた。ひとりだけ倒れている男は高いところから落ちたかのようだった。例えるならビルの3階くらいから頭から落下。詳しい様子はとても直視できない。
「あれは」「はねたの」
ザリが馬から降り、そのまま腰を抜かしたようにしゃがんでしまった。
「前に出てきて、わたしがとまらなかった。とまることもできたけどとまらなかった」「なんでこんなに遅くなったの」
ザリはそっちの方が大切とばかりに問う。
「ごめんなさい、色々あって」トランペットが高らかに響いた。桟橋がはずされる。予想していない振動により俺は転びかけた。
「出航だ!」イーザーはほっとしたようにザリの肩をつかんだ。
「無事でよかった、怪我はないよな」ザリは青ざめたまま無言でうなずく。レオナール船長も笑顔のようなものを浮かべてザリに手を貸した。
「ようこそお嬢さん白葉号へ。ぎりぎりでしたね。さぞ疲れたでしょう」「あ、ええ」
ザリは起き上がった。鳥のミサスも自主的に降りる。
陸はすみやかに離れていったが、3人の男たちはまだ舟を見つめていた。



