翌朝の2人はいつもよりにぶかった。
イーザーはいつも朝早いのに俺よりおそく起きたし、キャロルもどことなく身体の動きが悪い。これ見よがしに鼻を鳴らして「いやな臭い」と評価した。
「お酒のこと?」「そうに決まっているでしょう。酒は嫌いなのよ。かぐと鼻の奥が痛くなる。よくこの世の人たちはそんなものを毎日飲めるものね」
「そうだったのか? どおりで」
でも今回ミサスが持っているものをかすめとって全部飲んだのはキャロルなんだが。思いはしたが言わなかった。
「そういうイーザーは? イーザーも酒に手をつけないわよね、普段から」「酒は神聖なものだ。故郷では俺みたいな年少者は一年に一回の祭りにしか口にできない」
髪を後ろでぞんざいに縛りながらつけくわえた。
「葬儀の式は別だけどな」「……それは地下道も同じよ」
俺はなにも言いたくなかった。木々の間から見える空は青く、今日一日のすばらしい天気を約束している。そんなさりげない喜びさえも逆に重く、苦しい。
「もう、行きたくないな。ここでじっとしていたい」「なに寝言ほざいているの」
「いでっ」
キャロルに首筋をつつかれた。普通の人がやったらくすぐったいだけだろうけど、キャロルの手には人間にはありえない立派な爪がある。立派な武器だ。
「つまらないこと考えている暇があったら、とっとと火を直して朝ごはんを用意しないと。後片付けもね。今日で国境を越えないと」いやになるほどキャロルは現実的だった。感慨にひたる暇もくれないらしい。
「ところでアキト、この跡なに? 昨日寝ている間にミサスでも怒らせたの?」不思議そうに足元を見る。
「まさか。怒らせたらこの程度ですむわけないよ」なんて言おうか。ちらりとミサスを見たがひとごとのような顔をしていた。絶対に俺よりもうまく説明できるはずなのに。
仕方がないから気持ちをふるいたててなにがあったのか話す。昨夜、フォールストが荷物を運んできたこと、ラスティアとの出会い、ミサスとの戦い。間々にあった個人的な話し合いを除くと驚くほど簡潔に説明できた。
「そういうこと早く言え!」「どうしてのんびりしていたのよ!」
怒られた。
「え?」「え、じゃない! ぼさっとしていないですぐ逃げるわよ! またラスティアが来たらどうするのよ!」
今さらながらに俺はその可能性に思いあたった。
「あ、そういえば。いやでも、前はミサスがよく分からない方法で追いはらったし」「またミサスがやってくれるって? 楽天的にもほどがある。どんなにふ抜けていたのかよく分かるわ。イーザー、すぐ荷物をまとめて。出発するわよ」
「キャロル」
キャロルと同じように大慌てで支度をするかと思ったイーザーは少しおかしな顔つきになった。
「逃げだす仕度をするのに異論はないけど、出発する前に、その、ウィロウに会っていきたい。いいだろ」「駄目」
切りすてた。
「イーザーにだってそれくらい分かるでしょう。急がないと、早くここから逃げないと。またラスティアがくるわよ」「分かるけどさ」
イーザーは不満そうに散らばった毛布をまとめはじめた。
「お前本当に冷酷だな。魂が氷でできているんじゃないのか」「結構なことじゃない。冷静で悪いことは一つもないわよ」
てっきり俺はまた昨日のようにけんがになるのじゃないかと思った。でもそれ以上罵りあわずに手際よく逃げる支度を進める。ありったけの荷物をかつぎ、まだぼんやりが抜けない俺の横をイーザーは通り抜けざまに肩に手をかける。
「アキトも気をつけたほうがいいぞ。キャロルの機嫌を取っておかないといつばっさり捨てられるか分からないからな」はき捨てるイーザーに俺はなにもいえなかった。
「アキト、悪いけどこの辺みんな持って」「え、ああ」
「ミサスは特に支度することないわよね。行くわよ」
後ろから見たら姿が見えないくらいたくさん担いで、キャロルは俺たち全員を見回した。
「なにぼさっとしているのよ、早く」後ろを振りかえりきつい言葉を放つ。ぼさっと? キャロルが最後尾だから後ろにはだれもいないけど。
「……あ」不意をつかれたような、急に疲れはてた表情になった。
「ああ、そうだったわよね。これで全員だったわね」「キャロル」
「悪い、勘違いしていたわ」
のど元までこみあがった言葉を前もって拒絶するように背中を向け、キャロルは黙って歩く。かなりの早足であっという間に先頭のイーザーを追いこし、前へ前へと行ってしまう。
「なんだ、あいつ」不思議そうにキャロルを見るイーザーは、ようやく追いついた俺に邪気なく問いかける。
なにがあったのかを言う代わりに、イーザーの首に強引に腕を回した。
「イーザー、あんまりキャロルのこと悪く言うなよ。ああ見えて結構傷ついているぞ」「アキト?」
「分かんなくてもいい」
気だるさはいつのまにか消えていて、代わりにキャロルの不機嫌さが俺の胸にあった。困惑するイーザーをおいて、俺も追いつこうと足を速めた。
肩が抜けるかと思うほど重い荷物をかついでようやく森を抜ける。出口にはこじんまりした集落が待っていた。村となんてとても呼べないような規模の人里だが、ありがたいことに情報屋があった。当たり前のように向かう。
「なんてこんな田舎に情報屋が」「国境沿いだもの」
さも当たり前のことを聞くなとキャロルはすました顔で卓につく。また時間が早く、店内にはほとんどいない。そういえば朝ご飯をぬいていたことを思い出した。そういえばお昼ももうとっくにすぎていないか。ひっそり悩む俺を気にすることなくイーザーが席を立った。
「どうした?」「ちょうどいい、アットからの仕送り金を受けとる」
「そうか」
アットが出してくれる俺たちの報酬兼道中もろもろの費用は情報屋を通して渡される。特別な魔法がかかった小板を情報屋店員に手渡して、まるで銀行のように金が動く。あまりの便利さに感心すると同時に胸が痛くなった。俺はもう銀行には行けない。銀行だけではない、日本に関係するものすべてに俺はもう触れない。俺は考えるのをやめた。考えすぎるとおかしくなりそうだ。
「あれ」感傷なんて知りもせず、イーザーが変な声を上げる。首をかしげながら戻ってきた。
「どうした、イーザー」「金がない。送りこまれていない。十日ぐらい前からだ。おかしいな、こんなこと今までになかったのに」
「銀行が間違えたんじゃ。違う、情報屋が間違えたんじゃないのか」
「違う、金が動いていないんだ。どうしたんだろう」
「路銀はまだ残っている?」
香ばしいお茶をすすりながらキャロルが無気力に言った。
「ああ」「じゃあいいじゃない。待っていれば再開するでしょうよ」
珍しく投げやりだった。
「いいや。アットは律儀な奴なんだぞ。ちょっとやそっとじゃやめるはずがない。何かあったのか?」イーザーは本当に友だちがいがある。アットを心から心配していた。
「イーザー、気になるならフォロゼスに戻るか?」「あ、それいいな。そうしよう」
冗談のつもりだったのに本気にされてしまった。
「冗談だよ。ちょっとで戻れる距離じゃないし、またこの長い道を行くのは大変だよ」「全員で歩いて戻るんじゃないよ。誰か一人早馬を情報屋から借りるんだ。金はかかるけど速い。むだ使いはしていないからな、往復の早馬代くらいはあるぞ」
俺はイーザーの提案を考えた。特におかしなところはない。ひょうたんからこまで意外と実現できそうだ。
「行くんだとしたら、だれが? 言っておくけど俺は馬には乗れないぞ」「それくらい知っている。飯の後で決めよう」
イーザーも空腹には違いがなかったらしい。自分のお昼の注文をした。
食後の話し合いは短かった。俺以外全員が分かりきっているかのようにフォロゼスに一人行くのはミサスに決まった。
「なんで?」あのミサスが文句も言わず引き受けたのに驚いた。
「普段羽一枚動かすのも嫌がるくせに、どうしてそんなに素直なんだ?」「アキト、お前の中でミサスはどんな人物なんだよ」
イーザーが苦笑いを浮かべた。
「いいかアキト、アットの送金が止まっているということはな、ミサスの報酬も自動的に止まっているんだ。それだとミサス自身なんのためにここにいるのか分からないだろ」「そうか。でもどうしてミサスなんだよ。ミサスは特別馬の扱いがうまいのか?」
「そんなのは知らない。ミサス、そうなのか?」
ミサスは無視した。実は俺と同じくらい下手だったりして。
「馬術については知らないけど、人並みにはできるだろ。ミサスはとにかく身体が小さくて軽いからな。早馬で急ぐのには適役だ」「そうか」
一つ一つ説明されてみれば、たしかにミサスが行くのが一番いい。納得した。
普段の宿代や食事費に比べて桁違いの金を出し、栗色の毛並みの馬を借りる。ミサスは手綱を引き馬の身体に触れ、少し様子を見てからなにげなくまたがった。身長より長い槍を器用に後ろに回し邪魔にならないように避ける。馬の扱いにはそれなりには分かっていそうだった。意外というか、ミサスがこんなことぐらいで困るわけはなかったというか。
「たのんだぞ。なにもなかったら文句言ってこい」イーザーの温かい見送りに無言で馬に鞭をくれる。見る見る間に馬は走りだし、街道の果てへ走りぬけた。
「あの様子だと三日で着くかな」「短いな。それだけですむのか」
今までの長い期間はなんだったのかと考えこんでしまいそうだ。意外と近かったんだな。
「そんなに速いんだったらこれからも馬で行ったらどうだ」「とても金がもたない。それに目立つ。アキトは馬に乗れないから二人乗りになるだろ。早くないぜ」
「アキトをおいていけば速いんだけど」
「論外だ」
物騒な提案をイーザーはきっぱり否定した。納得したようなしないような。
「それで、俺たちはこれからどうするんだ」「街道にそって進むよ。あんまり変な道を行くと途中でミサスが合流できない」
「そうじゃなくて、今日これから」
「今日か。そうだな」
空を見上げる。真昼はとうにすぎ、そろそろ傾きかけていた。
「今日はもう無理だな。ここに泊まろう」というわけで俺たちはそのまま情報屋にとんぼ返りし、今日の宿をとった。キャロルは女の子なので別の部屋に。
借りた部屋で荷物を降ろして中の整理をし、どれも必要で持ち歩かざるをえないと考えていると「なあ、アキト」イーザーが外の風景を見ながら声をかけた。
「外に出ないか?」「遊びに行くのか?」
見たところ特に特徴のない普通の農村だ。はっきり言って田舎、見るものがあるようには思えない。またどこかにコロシアムでもあるのだろうか。
「一足先に水門国家レイドに入らないか、キャロルより先に」「どうしてだ?」
「いや、特に理由はないけど、アキトはまだフォロー出たことないし、国境越えをしてみようぜ」
ようはレイドまでの散歩か。結構簡単に出入りできるみたいだ。
少し考えた。あんまり意味がない気がするが、たしかに俺はフォローを出たことがなければ日本も脱出したことがない。そう考えると国境越えにもなにかの意味がある気がしてきた。
「行く」「そうこなくっちゃ」
俺はふとこの場にキャロルがいないことに感謝した。ここにキャロルがいたら「子ども」と冷たく一瞥するだろう。その通りとは言え、キャロルはちょっと見も蓋もないしきつい。いなくてよかった。
島国日本では外国に行くのは飛行機か船を使わないといけない。だから手続きは大変そうだし心の準備がいる。逆に小国乱立のヨーロッパではよその国に行くのはすごく簡単だそうだ。
俺ははるか異国の地で、今さらながらに文化の違いをかみしめていた。
「これでもう水門国家レイドだ。感想は?」「日本で市を超えるのと同じだな」
壁もなければ関所も役所もなく、普通に郊外へと歩いていたらイーザーに宣言された。そんな看板も目印もないのに実感がわくわけはない。
「そう言うなよ。レイドのことは知ってるか?」「キャロルから聞いた」
「じゃあ繰りかえさない。フォローは中央よりやや南東に位置している。レイドはそれよりさらに南東。東の果てにはアザーオロム山脈があって、竜帝国エアームはアザーオロム西一杯が領土だ。レイドはエアーム帝国の隣。レイドの国土は広くないからエアームまですぐだぞ」
俺は以前キャロルに地図を見せられて教わったことを思いかえした。
イーザーが世界と認識しているのは左右に広くのびている大陸のことだ。最西端は大樹海と呼ばれる大きな森が広がっていて、東は北南に走るアザーオロム山脈でそれ以上の行き来を封じされていて、向こう側とは断絶している。
大陸の北にもオーストラリアのような巨大な島があるそうだが、寒すぎて住民はわずか、イーザーたちは明らかに人間居住区と考えていない。北極南極のようなものなのだろう。南の海には小さい島々があるけれども、距離と文化が離れているためやっぱりイーザーたちの認識は薄い。アザーオロム山脈の向こう側といい、ここには未開拓の場所が多すぎる。その気になれば俺でも第二のコロンブスになれるかもしれない。今後の人生設計として考えておくことにした。
「エアームってどんなところなんだ?」「正確にはエアーム竜帝国。大国だ。世界で二番目の大きさだけど、国土はあまり豊かではなく、アザーオロム山脈みたいな危険な未開地が多い。でも貴重品もエアームでしか手に入らない魔法の品もあるぞ。竜帝国だけあって竜が多い。その辺に普通にいて、竜使いとか人や荷物を竜で運ぶ仕事もある。竜に乗って戦う竜騎士なんて人もいる。俺竜騎士を一度見てみたいな。だれもが恐れる竜に乗って空を飛ぶなんて格好いいよなっ」
イーザーには悪いが俺はそうは思わない。日本育ちの俺にとって馬にまたがるのも一苦労なのに空を飛んで火を吐く生き物に乗るなんて。振り落とされて墜落する姿しか思い浮かばない。
放っておいたらいつまでも竜騎士について語りそうなイーザーを制したのは民家もない畑もないなにもないところでの人だかりだった。崖の前で地元住民らしい人々が集まり、好き勝手に話している。
「なんだあれ」「なんだろうな」
たいして目的のない散歩、野次馬根性が頭をもたげてきた。深く考えずに近寄ってみる。
よく見るとただの崖ではなく、俺が背筋を伸ばしながら入れるほどの大きさの洞窟があった。手前にやぐらや祭壇といったものがだらしなく壊れて地面に散らばっている。神聖な場所のようだ。
「いつからあったっけ」「前々から危なかったけど、とうとう壊れたか」
「むしろよくもったな」
聞こえる会話の内容からすると、だれかが器物破損したわけではなく勝手に崩れただけみたいだ。新たな国への第一歩としてはじつに縁起が悪い。イーザーも同じ気分になったみたいで眉間にしわがよっていた。怖いもの見たさで、もっとよく見ようと首を伸ばして前へ出る。
「まずいな。神殿に教えに行かないと。っておいアキト!」「ん?」
せっかく最前列に出たのにイーザーに止められた。ふりむく俺の左腕にゲル状の感覚が。見ると穴の奥から半透明の縄が伸びてきてからみついている。
「えっ」驚く間もなく突然すさまじい力で引っぱられる。
「でええっ!?」当たり前のように俺は引きずりこまれた。
中は自然の洞窟のようで、明かりは一切なかった。今まで明るい空の下にいたのもあってまったく周囲が見えない。地面は水分を含んでやわらかくなった泥のようで、しばらく俺は力につれられて走ることができたが、ほどなく転ぶ。引っぱる力は弱くなるどころかますます強くなり、横たわったままさらに奥へ連れ去られる。
「ちょっと待てぇ! よせ、やめろっ」顔に容赦なく泥水が入ってきて吐きだす。全身ずぶぬれのはずなのに身体中が熱い。こういう処刑法があったの俺知ってるぞ。まさか実際に体験するとは。
穴ぼこは一直線ではなく途中何ヶ所か分かれ道があったが、帰り道を心配するところではなかった。全身ぶつけてすりむいた。どこかの分岐点で思いっきり壁に顔を打ち、目の前を星が舞って涙が出てきた。
「た、助けてくれぇ」始まったのと同じように唐突に止まった。ゲル状の縄がほどけて自由を取り戻す。上下左右なにも分からないまま、とりあえず鼻を押さえながら立ち上がろうとする。全身がまんべんなく痛い。立っているのか立とうとしてもがいているのか分からない。俺を軸に全世界が回転している気がする。
少し先がぼんやり明るくなった。蛍光灯でも角灯の明かりでもない、青白い光だった。蛍かきのこかと思ったが、本で見た限りでは緑色だったはずだ。俺の前にあるものとは違う。
「じゃあなんだ。放射能物質か?」それはありえない。日本なら何百何千分の一でありうるかもしれないが、ここは原子爆弾もなければ原子力発電所もないところだ。原子の説明をするだけで一苦労の世界だ。
動けない俺の前で光量は増していき、おおよその姿かたちが分かるようにまでになった。
一言で言うと巨大な蛇だった。身体は半透明のゲルで俺の身長の倍はある。今まで気づかなかったが二歩歩けば落ちるようなすぐそこに静かに湖が広がり、蛇もどきは湖から半身を出して、鎌首もたれて俺を見ている。頭に当たる場所は目も鼻もない。
透きとおる身体のあちこちに頭ほどはあるミトコンドリアのようなものが埋まっていて、青白い光はそこから出ていた。ミトコンドリアもどきは湖下の下半身にも存在していて、光が拡散し洞窟全体が発光しているようにも見える。
蛇の全長はよく分からない。下半身は半分水と同化しているからだ。ミトコンドリアから推測するに三階建てビルほどはある気がした。身体のあちこちから俺の腕ぐらいの触手が何本も生えていて気味が悪い。
蛇本体は俺を見ているだけだが触手はのっそり寄ってくる。本能として俺は後ずさる。今度引きずりこまれるとしたら湖の中だろう。柔らかい泥でも全身すり傷だらけのひどい目にあったんだ、同じことをされたら大流血の重傷を負ってしまう。それ以前におぼれる。
逃げないと。俺はよろけながら立ち上がる。
「アキトォ!」思いがけない声に俺は喜ぶよりも驚いた。聞き間違いにしてははっきりしすぎている。
「イーザー!?」なんでここにいるんだ。
「馬鹿、こいっ!」言われてようやく俺は走りだす。触手はつかず離れずの距離を保ってついてきた。
遠くに暗い明かりがゆれる。角灯を消えない程度に振りまわしているのはたしかにイーザーだった。俺の姿と後ろにくっついてくる蛇を確認するや、顔を引きつらせながらも角灯を地面に置く。逃げださなかった。
「どうしてここにいるんだ」「きたんだよ、いいから横でじっとしてろ!」
安心してついへたれこんだ俺をいたわるより先に、イーザーは腰の小物入れから小瓶を取り出し、口で封を切って俺の頭に振りかけた。傷にしみる、目に入って痛い。
「なんだこれ」「塩水」
自分たちの周りに黄色い粉をまいて四方に白い石を据える。
「なんで塩水をかけるんだ?」「魔よけだ。魔性のものを祓い清める効果がある。円陣崩すなよ」
「円陣? この黄色い粉と石のことか」
「硫黄と獣の骨」
崩すなと言われなかったら、場合が場合でなかったら俺は逃げだしたかもしれない。硫黄はまだしも動物の骨ってなんだよ。
「どうだ。これでいいはずだが」イーザーはすがるように蛇に目を向ける。触手の動きが止まり、縮むように後ろに下がっていく。
「……よし」「どうなっているんだ?」
「即席の魔よけの陣。ちゃんとした結界じゃなくて向こうに俺たちが見えないようにしただけ。うまくいっているみたいだな」
「イーザー、なんだか自信がないんじゃないか」
「悪いがない」
心強い返事だった。
「しょうがないだろっ。俺はな、傷を癒して死者と意識を通じることはできても、竜と立ちむかって結界を張るなんて専門外だよ」沈黙の中に何かを嗅ぎとったようでイーザーは猛反論した。振り返ってみればわざわざこんなところまで助けにきて、自分の得意分野でないのにできる限りの努力をしている。俺は感謝の限りをすることはあっても不満を抱くいわれはない。悪いことをした。
「すまん」「え、いや。俺こそ悪い。もっと魔法もやればよかった。剣ばっかり鍛えていたからな」
反省しあう。蛇もどきはそんなことなど知るよしもなく、湖から長い身体を出して俺たちへ直接身を乗り出してきた。
「イーザー、きたぞ」「きたな。動くなよ。走ってもとても逃げられそうにない。じっとやり過ごすぞ」
「いつまで」
「竜があきるまで」
「それまでずっとこのまま?」
「そうなるな」
蛇がほかのことに気をとられるまで俺たちはずっとここでにらみ合いをし続けないといけないことになるらしい。精神的にもつのか。
「後イーザー、今これのこと竜って言わなかったか」「言った」
「竜? これが? どう見ても普通の生き物じゃないぞ。どっちかって言うとくらげの新種だ」
その蛇くらげは俺たちを知覚できないようで、不思議そうに首をひねった。見ようによってはかわいいのかもしれないが、俺はついさっきまでなにをされたのかよく覚えている。
「竜だよ。前にウィロウに言われただろう。ほら、灰竜が飛んできたとき。広い意味での竜はふつうよりずっと強くて賢い生き物の総称だ。人知を超えたものだ」「大きくて変なものはみんな竜?」
「そういう訳でもない。近いけど。人が昼間の生き物だとしたら竜は夜を飛ぶ生き物だ。人間が恐れる時間を我が物にして、人には及びもつかない知恵を持ち、神秘の力を振るう。竜はそういう生き物だ。下手に手を出してはいけない。
きっとこれは水に関係ある竜だろうな。洞窟の入り口のあれで鎮めてきたかなだめていたのだろうけど、壊れたから外に出てきたんだろう」
「イーザーもかなわない?」「俺が十人いても勝てる気がしない」
俺を引きずりまわした触手が蛇くらげから何本も出ている。一本で到底俺がはむかえなかったことから考えるに、俺やイーザーではとても勝ち目はないな。
「その竜が、どうして俺を捕まえるんだよ」「知るか、竜に聞け。あえて言うならそのとき一番洞窟に近かったからじゃないか。それかお前だけ異世界出身だから珍しかったとか」
「そんなの分かるのかよ」
あ、そういえばカーリキリト臭いとグラディアーナに言われた。猫に分かるなら竜に分からない訳はないか。
今のところ竜は飽きる気配がなかった。ミトコンドリアが一定の間隔で瞬き、竜は長い首を伸ばして俺たちのすぐそばまで顔を寄せる。もし竜が俺たちを見つけたらどうなるんだろう。想像したくなかった。
「ああったく、なんでミサスがいないんだよ。こんなの俺できないぞ、やったことない!」苦しまぎれにイーザーが愚痴る。俺もいつ巨大な頭突きをあびるか心配するよりは話して不安を紛らわしたい。
「なんでミサスなんだよ。ミサスは竜の専門家じゃないだろ」「俺よりずっと専門家だよ。魔法や精霊術も竜と同じ、夜と闇の世界のものだ。ミサスの使う魔法は闇を扱い影をあやつる。そうでなくてもミサスは一流の魔道士だ。竜と対峙するのはミサスの分野だよ」
でもミサスはいない。単にいないだけじゃない、フォロゼスへ向かって馬を走らせたのをほかならぬ俺たちが見送った。ミサスが俺たちの危機をかぎつけここにくる可能性は絶望的に低かった。
「そうだ! アキトお前の世界の道具で竜を追い払えるもの持っていないか?」「持っているわけないだろ」
「じゃあちょっと今帰って買ってくるのは。あ、そうか、自分の意思じゃいけないんだよな」
イーザーは日本をどういう風に思っているのだろう。たしかに便利な道具は色々あるが、竜退治の道具はないと思うぞ。そもそも竜がいない。
「もどってもない物はないよ。それに俺はもう帰れない」「なんだと?」
イーザーの顔が険しくなった。しまった、俺まだ言っていなかったっけ。
「そういうことになったんだ。後で話す」「今言え」
逆らえない断定的な口調で言われてしまった。こうなったら俺のできることはただひとつ、観念するだけだ。俺は日本で体験したことを全部話した。
「なんで言わなかった?」声が怒っている。それこそまた殴られかねない。俺はいつ握り拳が飛んできてもいいように心づもりだけはしておいた。
「日本のことは夜のうちにミサスとウィロウに言って、俺それで満足しちゃった。朝はごたごたしてつい話しそこねた」「まさか」
「えっ?」
「まさかお前が自分のふるさとを断ちきったのと同じように、俺たちに迷惑がかかるから黙っていたんじゃないだろうな」
「そんなことはない。俺は」
「いいか、俺は今までアキトに関することで、迷惑だと思ったことは一回もないからな。一回もだ! でなきゃここまでこないぞ。今だって助けたかったから助けたんだ。迷惑だと思うな。俺にとってアキトが困ったり死にそうになったりするほうがよっぽどいやだ。よく覚えておけ!」
イーザーは本当に本当にいい奴だと思った。なんでここまでいい奴なんだろう。ここにきたとき初めて会ったのがイーザーでよかった。
「……え、えっと。本当に言い忘れただけなんだ。悪い」「! アキト足!」
「あ」
長い時間同じ体勢でいたので疲れたのか、自分でも気づかないうちに身動きしていた。イーザーは硫黄をけちったのか急いでいたのか、円陣は二人が入るには狭く、俺が少し身動きしただけで黄色の粉に足がかかる。
「馬鹿、足をどけろ!」「すまん、でも少し踏んだくらいでそこまで怒らなくってもいいだろ」
俺は間違っていた。イーザーはもっと怒ってもよかったのだった。それまで目的なくうろうろしていた竜はやっと俺を見つけたように首を伸ばしてつつこうとする。反射的にのけぞる。イーザーの結界が破れたのだ。
「イーザー、どうしよう」「俺が聞きたい!」
イーザーが青ざめて見えたのは竜の明かりのせいだけではない。剣に手をかけるも表情は絶望的で、戦っても勝ち目はないのは明らかだった。
「いちかばちか、走って逃げるしかないな」「逃げきれると思うか?」
「無理だと思うが、今戦うことに比べたらまだ可能性はある」
竜は動かなかった。ミトコンドリアが一定の間隔で点滅し、触手が海草のようにうねる。俺は息を飲み、イーザーはそっと角灯を拾った。
ミトコンドリアもどきの光がもっとも弱くなり、光が暖色の角灯のみになった瞬間、俺たちは同時に逃げだした。体育の見本にだってなれるほどすばらしい走りだしだった。
竜本体は動かなかったが触手の反応は早かった。ゲル状の触手は一斉に俺めがけて走り、十数えないうちに俺は首と右足首をつかまれてそのまま引き戻される。
「アキト!」イーザーが手を伸ばした。つかまろうとするが触手のほうがはるかに早くて力が強い。イーザーの手がむなしく宙を舞う。
そのとき地下洞窟内に怒声が反響した。女性らしい甲高い叫びに俺の頭が回る。なにを言っているのか聞き取れなかった。
声に一番最初に反応したのは竜だった。触手の力がゆるむ。とっさにはいつくばって逃げるが、なにがあったのか分からず、起き上がることさえできずにいた。
女の声は終わらなかった。矢継ぎ早にまくしたてる。同時に逃げる予定だった方向から複数の足音と蛍光色の明かりが見えた。魔法の明かりに照らされているのは3人の女だった。おそろいの青い縁取りのある白い法衣を着ていて、先頭の女は巨大な鉄の扇を持っている。
女に従うかのように竜は後退する。今までの暴れっぷりが嘘のようなおとなしさだった。長い身体が湖の向こうへ沈んでいく。泡がいくつも浮かんだ後、湖の奥底に青白い光は消えていった。
「追いはらったのか?」イーザーが信じられないものを見たようにつぶやく。
「そこの方、生きていますか?」やっと女は俺にも分かる言語を使った。
「あ、はい、生きてます。それよりどなたさま」「水竜神の巫女か」
答えたのは彼女ではなくイーザーだった。
「なんだそれ」「水竜神ネヴァティリに使え高位の水の精霊術を使うことができる女の人のこと。戦闘用鉄扇が何よりの証拠だ。あれは水巫女しか持たない」
「申し訳ないですけど、扇について語る元気があるならすぐに洞窟から立ち去ってくださらない? 今から竜のために新しい祭壇の用意をしないといけませんの。うとい方がいるとまた竜が起きてしまいかねませんし」
言われてしまった。よく考えなくても俺がここに長居したい理由はない。早々に出ていくために起き上がった。
巫女たちの中でも指導者らしい巫女はマロリアと名乗った。髪を後ろではなく両脇に長く伸ばしている。性格はきつい。どうして言いきれるかというと壊れた祭壇に興味本位で近づいたことに関してさんざん怒られたからだ。イーザーも飛びこんだら危ないと説教された。心配だった、とっさの行動だという反論は全部黙殺された。
竜についても説明してもらった。あれははるか昔からここに住んでいたそうだ。別に人間に対して敵意はない。というよりも思考が人間と違いすぎて関わることができない生き物だそうだ。
敵意がなくても竜と呼ばれるだけあって能力は並大抵ではない。触手1本で人を殺せて戦いをいどんだ人間全員返り討ちにしてしまえる化け物だった。もちろん会話も意思疎通も不可能。こんな危ないものを野放しにしては置けないというわけで、地上に出ることがないように水竜神の巫女が静めなだめて地下湖にとどめておこうと祭壇を作った。
祭壇で閉じ込められたことに対して特に竜は人を恨んだり憎んだりはしていないようだ。もし竜が殺意を持ってかかってきたならとっくに死んでいるはずだからだ。俺を引きずりこんだのは単に興味本位だったのだろう。なんて迷惑な。
「竜はまた水竜神が責任を持ってなだめ祭ります。今度は百年はもつ祭壇を作りましょう」「また祭るの?」
宣言するマロリアについ口を出してしまった。
「なに。なにか文句があるの」う、怖い。でも一回言ってしまったものはしょうがない。最後まで言いきらないと。
「いくら悪気がなくても危険なんだろ。どうして退治しないんだ?」「それはね少年。レイドに竜を退治できるような強い軍隊がいる訳ないからよ」
なんて現実的な理由だ。もう1つはとマロリアは胸を張った。
「竜は危ない。危険極まりないし人に迷惑をかけかねない。またいつ今日のようなことがおきないとは限らない。でも少年、竜はそこにいるのよ。私たちがこの世界に当たり前のように存在しているのと同じように生きている。私たちは認めないといけないわ。竜はただの大きな動物じゃない。人が手出しをしてはいけない領域の、人知を越えた生き物よ。尊び大切にしないといけない。安全の問題じゃないわ。竜の存在を守らないと、私たちはこの世界で生きていけない」
理解しにくい考え方だった。手出しをしたら急に物理法則が変わるというわけでもないのに、どうして危険な動物を受け入れて共存できるのだろう。ここの人々が神話を信じて魔法を使うのと同じように、分からなくても受け入れなければいけないことなのかもしれない。
説教と事情聴取が終わってようやく解放された。田舎にしては大きめの水神殿から出たのは深夜と呼んでもいいほどの時間帯だった。うろ覚えの道をたどって宿に戻ろうとする。
「キャロルまだ起きているかな。心配しているかな」「起きているだろ。おいアキト」
「ん?」もう2度と洞窟をのぞきこむまいと誓っていたら、イーザーに肩をつかまれた。
「なんだ」
「アキトの故郷に戻れなくなった話、キャロルにしておけよ。今日中にだ。寝ていたとしても起こして話せ」
「また怒られるぞ」マロリアにたっぷり説教されたばかりなのに。
「黙っていたからだよ。お前のせいだ。しっかりしかられておけ」
ひとごとだと思って、イーザーはとても冷たかった。