行き当たりばったりに走ったはずだったのに、いつのまにか月明かりふりそそぐ空間に着いた。さっき立ち去った時とまったく変わらない。
逃げないと。離れないと。今以上迷惑をかけないようにどこかへ行かないと。もっともっと遠くへ、早く逃げないといけない。わかっているのに足がとまる。
「……ウィロウ」若い柳はなにも答えなかった。当たり前だ、木なんだから。わかっているけれども話す。
「あのなウィロウ。俺、日本を捨てた」右のこぶしを木に当てて寄りかかる。木はびくともしない。口に出してわかった。俺は今だれかに言わずにはいられなかったんだ。
「向こうにもカーリキリトの化け物がでてきた。俺がいるからわいたんだってさ。ウィロウや響さんみたいにまただれかを巻きこむのはいやだ。だから声に、もう帰らなくてもいいって言った」俺はのどの奥で低く笑った。
「そういやさ。ついにグラディアーナに会ったよ。あちこちに鈴つけている奴だった。獣人だけどキャロルとは違って猫そのものの顔だった。日本にいたんだったらいくら探しても会えるわけないよな。後それから」言葉が途切れた。
「それから」言いたいことは山ほどある。でも続かない。
「それから……」俺は右手を下ろした。柳の細い葉を見上げる。
「ウィロウ。俺はこれからどうすればいい? どうするべきなんだ?」やぶをかきわけなにかが近づいてくる音がして俺はとまった。キャロルかイーザーに追いつかれたかと思った。ミサスに話を聞いて大急ぎで走ればのんびり話していた俺を捕まえられる。
ん? でも宿営地とは反対側からだ。じゃあなんだ。
敵か? 俺は背筋に季節外れの冷気を駆けずりまわせた。
どうしよう、俺は今スタッフも荷物もない。仲間も周りにいない、襲われたらいちころだ。物音は迷わず俺に向かってきている。いっそその辺のしげみに飛びこんで隠れようか。迷っているうちに音の発生源が俺の前に姿を現れた。
「あ、いた。やっと見つけた。よかったぁ」「フォールスト」
大荷物をしょってあちこち葉や小枝、顔面にはくもの巣をつけてふらふらだった。そのままよろけて前のめりに転び、背負った荷物につぶされてうめく。
「重い」「大丈夫かよ。おい」
荷物をはずすのを手伝い、すぐに気がついた。俺たちのだ。キャロルはどんな時でも自分の持ち物は自分で持ち運ぶし、ミサスは量が少なすぎて人にあずける必要がない。よって俺のスタッフをふくむ3人分の荷物と、みんなで使うなべ釜などの共通物品だった。いつも怪力のウィロウがまとめて運んでいる食器等は細腕のフォールストにはさぞきつかっただろう。よれよれだった。
もう共有財産を運ぶ人はいない。俺の手がとまった。
「アキト?」「あ、いや。フォールスト、これどうしたんだ?」
「どうしたって、とどけにきたのだけれども。化け物が現れたかと思ったらいきなり消えちゃって、落ちついてみたらアキトたちの荷物がそのまま。きっと取りそこねたと思って届けようとしたんだ。そうしたら丘のどこにもいなくて。話を聞いてみたら森に逃げこんだらしいからわたしも入った。迷って迷ってもうあきらめようかと思ったんだよ。見つかってよかった」
心づかいと思いやりはとてもうれしい。でもよく迷子にならなかったな。フォールストの話からするとここにこれたのは偶然以外の何者でもない。下手をすれば森でくちはてたかもしれないのに。俺は一見度胸にも見える考えなしに驚いた。
「で、アキト。他の人たちは? 一人でなにをやっているの?」当たり前の質問に俺は痙攣した。どもりながら答える。
「別のところで野営している。たしか集まったとき、丘に戻る体力も気力もなくて、とにかく休もうってことになった」「どうしてアキトはここにいるの? けんかでもして飛びだした?」
いや。みんなのためにいないほうがいいんじゃないかと思って逃げてきた。
本当のことはとても言えない。でもとっさに嘘も出てこない。考えあぐねて嘘ではないことを言うことに決めた。
「ウィロウに……」「ウィロウ?」
「ウィロウに会ってた」
月の下、墨色の瞳が大きく開いた。
「どこにもいないよ」「ここにいる。この木がそうだ」
フォールストは全然理解していないようにまばたいた。
「ウィロウは敵の道士を精霊術で封印した。木の精霊術は封印の代償として体の一部を媒介にしなきゃいけないんだけど、ウィロウは自分全部を媒介にした。ウィロウは本物の木になって影の道士は封印された」言葉だけを見るならとても見事に説明できた。でも説明役として失格だろう。俺はフォールストの顔をまともに見れない。
「ウィロウは俺のために笑って木になった。信じられるか?」ふと気がついた。
「あ、そういえば封印って一般用語じゃないんだよな。封印は」「知っている。高位の精霊術のひとつ、細かいところは扱う精霊によって違うけど、相手を半永久的に行動不能、生命そのものを停止させてしまうことでしょう」
かつてのウィロウの解説より詳しかった。
「よく知ってるな」「楽師だもの。封印はいくつか伝承歌に唄われているから知っているよ」
「そうか」俺は拍子抜けした。
「そっか」
フォールストは静かに俺を見る。いつもはなんとも思わない墨色のまなざしに俺はウィロウとおなじ深さを見る。
長い腕がのび、俺をひきよせ抱きしめた。俺はつんのめって鼻が鎖骨にあたる。
「フォールスト?」「わたしは詳しいことを知らない。なにが起こってアキトがどう思ったのかは知らない。悲しさと苦しさもアキトの半分もわからない」
朗々と。
「言葉はない。わたしにできるのはアキトを支えて休ませるだけ」大きな声ではないのに森中にしみわたり広がった。そして俺より細い楽師に抱きかかえられてまた目頭が熱くなる。
「俺、本当に情けないな。今日泣いたの何度目だよ」「アキトは情けなくなんてない。わたしならとっくに逃げだすようなところでもこうして立っているんだから。がんばっているよ。だから辛かったらよりかかって。疲れたらいつでもここにきて。みんなあなたが大好きなんだから」
「……よく、言うよ」
「わたしもそう思う」
みずから道化となりフォールストは笑う。俺は荒々しくそでで目をこすった。きっと赤くなっているだろうな。
「アキト、いいことをひとつ教えてあげよう」「なんだ」
「エントは若い時は人として生きる。歩きまわってしゃべる。そして年をとったら大樹としてひとつの地に根をはり永遠にとどまる。その姿からエントは人の命と樹の命、二つを持っていると伝えられる」
いつか森で会った老エントを思いだした。
「だから、というわけでもないけど、ウィロウはアキトが思っているような手の届かないところに行ってしまったのではないと思うよ。たしかに姿かたちは変わって、アキトの探し物にはもう一緒に行けないとは思うけど、でも今ここにいて、アキトを思っていることは変わりないと思う」「本当か」
「わたしが思うに、本当」
フォールストは胸をはった。いかにも自信に満ちている。俺は柳を見上げた。
本当、なんだろうか。
だったら、それはどんなにすばらしいことだろう。かすかに笑った。ずいぶん久しぶりに笑った気がする。
「ありがとう、フォールスト」「どういたしまして」
おどけて服のすそをつかみ、礼をしたフォールストは凍りついた。
髪一本たりとも動かない。まばたきをしない。浮いたすそもかがめた上半身も、突然人形になったかのようにフォールストはとまった。
「えっ?」しげみで虫が鳴いている。葉がゆれる。フォールストだけ別の空間に投げだされたかのようだった。
「フォールスト?」口元に手を当てた。呼吸すらとまっていて肌は冷たい。
「な、ん、で」信じられなかった。たった今まで笑って話していたじゃないか。どうしても受けいれられなくて後ずさる。
ウィロウに続いて、フォールストまで……?
「心配はない。精霊術で封印した」堂々たる男の声が森とこの場を制した。後ろからだった。
「話がしたかった。そのものには聞かれたくなかったから封印した。おびえるな、アキト」振りかえるのが怖い。おびえるなといったって無理だ。
「アキト、もう俺たちは敵ではない。今この世界でもっとも近いものだ」森中に響くような声につられて、俺は動きたくないのに強制的に背後を向く。
金の縁取りがある純白の外套から、腰にさしている大きな曲刀がかいま見えた。男にしては長い金髪を後ろになでつけ、意志の強そうな瞳は俺のみを見すえている。
何者かすぐに分かった。忘れられない状況で姿を見たことがあった。
「ラスティア、か?」「そうだ、大谷秋人」
こんなにあっさり認められると次にどうしていいのかわからなくなる。ラスティアは大またで俺の前までくる。かなりの長身だから自然と俺が見上げる形になる。足音はなかった。
「以前からお前と会って話してみたいと思っていたぞ、宿命の者」「俺は…… 俺たちは、ラスティアを調べて、できれば捕まえてくるよう頼まれた」
夢遊病患者のように俺はぼんやりしていた。すでにラスティアに飲みこまれていた。
「知っている。しかしお前はもう気にしなくてもいい。必要はないんだ、兄弟」ラスティアは満足そうだった。
「もうすべて終わったのだから」手を上げ、本当の兄が弟にやるように俺の頭を親しみをこめてたたこうとする。そして目を見開く。
「きさま!」熱い衝撃を頭に感じて、俺は宙を飛びフォールストにぶつかってやわらかい大地に転がった。やわらかいはずのフォールストは鉄よりかたい。
「そうか…… それさえも予想していたというのか。わかっていてしむけたのか!」男は消えた。その場で溶けるように消滅した。時を同じくしてフォールストの肢体の硬直がとけ俺と一緒にすっころぶ。
「フォールスト!」「い、今の」
声も話し方もついさっきまでの生きていたフォールストそのままだ。俺は緊張がとけくずれおちた。とても立とうという気にはなれない。
「今なにが起きたの? どうしてわたしは」「封印だって、精霊術の。フォールストが止まっている間に人がきて、邪魔されたくないからそうしたって言ってた」
「怖かった」
フォールストは震える両腕で自分を抱きしめた。
「なにも見えないし聞こえなかった。五感がなくなって暗いところに放りだされて、それでもわたしは意識はあって、ただじっと時間だけ流れていく。いやだ、もう二度と経験したくない。あんなの…… あんなの、ずっと続いていたら狂ってしまう!」言うべき言葉が見つからない。俺にとっては生きてて安心なだけだったが、フォールストにはけっしてそうじゃなかった。ふるえる墨色の瞳が俺を見下ろす。
「イーザーたちは?」知ってか知らずかフォールストは恐ろしい可能性を俺に突きつけた。
俺たちが追いもとめているラスティアが今目と鼻の先までいた。いや、過去形ですむならいい。今もその辺にいてイーザーたちを狙ったら。
「伝えなきゃ」脳裏に寝ていたイーザーとキャロル、今にも寝そうだったミサスが浮かぶ。
「起こして伝えなきゃ! フォールスト、俺は戻る」こんなことなら離れなければよかった。どうして俺は一時の感情で遠くに出歩いているんだろう。自分のまぬけ加減に殴りたくなる。でも後回しだ。殴るのはあとでじっくりすればいい。
「あ、待てっ!」待たなかった。自分の荷物とスタッフをつかみ、かついで走った。フォールストはあわてて二人分の荷物をかついでついてこようとしている。フォールストには悪いが俺は一刻一秒も速くラスティアについて報告しないといけなかった。のんびりしていられない。
もともとそう遠いところではない。何度か転びかけ張りだした枝に額をぶつけ、それでも走ればすぐについた。やぶをかきわけ騒がしく戻る。俺の目には寝ているイーザーとキャロル、火のすぐ近くで目を閉じて動かないミサスがうつる。さっきとたいして変わらない光景だった。火の手はもう上がっていず、燃えつきた枝の奥で紅色がじっとくすぶっていた。あれからミサスは火の番を放棄していたらしい。
俺のとりこし苦労だったかと安心して立ちどまった。後ろからフォールストが情けない声で歩いてくる。
「隠れているつもりか」俺とやっと追いついたフォールストはやぶの中で動きをとめた。どう考えてもミサスは俺たちに言っていない。
「出てこい。いるのは知っている」フォールストが俺の頭を押さえつけて無理にしゃがませ、自分もやぶに身をひそめた。なにもない空間がえぐれ、裏と表がひっくり返るようにラスティアが一歩前へ出た。足音ひとつ立てずにむきだしの地面に着地し、無造作にミサスへあゆみよる。
「翼の戦士。話したいことがある」「近づくな」
はじめて会った時のような感情がこもらない警告をラスティアは平然と無視する。
ミサスが飛びはねた。顔をあげ半分閉じていた目が大きく開く。足は前後に肩幅よりやや広めに開き、腰をかがめ身体を前倒しにしている。槍の切っ先は地面につきそうなほど低い位置からラスティアに向けられ、羽は大きく開いたまま動かない。ミサスの黒い瞳が射るようにラスティアを捉える。ラスティアは何気なく立ちどまる。ミサスが槍を構えるのをみたのはこれがはじめてだった。
対峙したまま二人は動かなかった。俺だって動けない。フォールストが口を開け閉めしていたが音らしいものはもれなかった。
ミサスは警戒心あらわに、ラスティアは唇のはしに笑みまで浮かべて余裕そうに。手足の痙攣一つない。まばたきも息も忘れているかのようだ。
――静かだった。
こう見えても俺は戦いにはかなり加わっている。強敵とも会ったし絶体絶命と感じたことも一度ではない。
でもこれは。世界中の音が消えた。今まで体験したことがない緊張。本当の実力者、俺よりずっと高みにいる者たちだからこそ発生する凍てついた時間。
だめだとわかった。肌で感じた。俺は参加できない。小指一本でも入りこめない。なんとかミサスの手助けをしたくても俺にできるのは見ていることだけだ。介入は許されない。ミサスの邪魔になる。
きえいりそうなたき火にくべていた枝が崩れた。
動いた。
どっちが先だったのかはわからない。ミサスの言葉によってラスティアの周囲に黒い爆発がいくつも起こった。ラスティアは空中で印を描くように動かす。手首の白い金属の輪がひかりラスティアを透明な膜でおおった。森全体をゆるがすような爆音がとどろいたがラスティアは無傷でそこに立っている。ただ膜が消滅しただけだった。
ラスティアは一言も発することなくかがやく巨大な槍を空に創りあげた。槍は帯電しているかのように火花をまきちらし、二本に分裂してそれぞれミサスめがけて飛んでいった。
後ろに跳躍する。俺の予想ははずれた。ミサスは動かなかった。かわりにはねあがるかのように槍を扱う。切っ先と雷光がぶつかり、本物の雷が落ちたかと思うような音とともに爆発する。もう一本はとまらない、と思ったら寸前で炸裂しミサスの肌を爆熱で焼く。地面にリングが落ちる。いつもミサスの手首でにぶく輝いていたリングは無残にやけただれ、威力の大きさを無言でものがたる。
ラスティアが後ろへ飛んで意味をとらえられない言葉をさけぶ。同時にミサスもさけんだ。なにも起こらない。一瞬なにが巨大なものがうごめいたような気がしたが、力づくでかききえた。
「魔力除去!」ラスティアは愉快そうだった。
「時機を魔法発動と合わせたのか。並みの腕ではできない」ラスティアが腰から剣をぬく。刀身が曲がっているあまり見ない剣だった。日本刀のようだったがそのわりには幅が大きくて長い。
「次はどうするつもりだ? 槍で戦うか? お前の武術の腕で? 魔法の発動対も後ひとつ、雷撃に当てられるのは後ひとつだ」ミサスは動かない。ラスティアは小馬鹿にするように肩をすくめた。
「黒翼族独自の魔法は発動体が不要だ。厳密には必要とする発動体は翼だ。魔法で戦う上にはいくらリングがなくなってもかまわないか」はじめて知ることだった。だったらどうしていかにも魔法に必要ですとばかりにリングをつけているんだろう。ひっかけかな。
「だがこれ以上どうやって攻撃を防ぐ気だ。お前一人なら楽によけるだろうが、そこの二人を守りながらというのはむずかしいだろう?」気がついた。こんな中だというのにイーザーもキャロルも横になって動かない。普通に寝ているのだったら起きてもいいはずだ。寝ているというのは俺のかんちがいで、気を失って倒れているのか。
「お前には無理だ、ミサス」ラスティアの目つきはなぜか優しかった。哀れんでいるとさえいえた。
「彼らはフォローにとって有用で貴重な人材だ。彼らの命を守ってくれ。アティウスの依頼だったな」なんの話かわからなかった。やっとフォロゼスでミサスとアットだけの内緒話だと見当がつく。
「イーザーは貴重な錠門魔道士の家系でアティウスの代えがたい友だ。アキトは異界人。キャロルは秘密の多い地下道の一族の秘蔵っ子。その極秘の技術がほしい。だから彼らを影ながら守り支えてくれ。ミサスにとってラスティア探しは二の次でいい。けして悟られないように、悟られるとイーザーが怒るから」急にその情景が目に浮かんだ。しばらくだれも使っていない部屋。困ったような申し訳なさそうなアットがおがまんばかりに頼む。ミサスの前で王者の威厳なんてめっきはすぐはがれる。反応のないミサスにアットは真心と大切な人材とやらの下心をこめてお願いする。しばらくしてミサスは去る。依頼はどうなった。気をもんでいたアットはミサスが城から出ていかないことで悟る。よかった、引き受けてもらえた。
「お前には無理だ、翼の戦士」アットの面影を一切粉々にして、圧倒的な正しさで断じた。
「ミサスは敵を殺す。自分だけ逃げて自分のみ傷を癒すことができる。しかし他者を守る魔法はない。黒翼魔法は黒翼族のためだけに存在している。それ以外の種族にはきかない。黒翼魔法は、お前の能力は人を守れない。お前の実力が不足しているのではない。向き不向きの問題だ」ミサスの両腕が力なく下がる。
「ウィロウへなにもしなかった。今も彼らを危機におちいらせている。そもそもお前は人とのかかわりを避けて生きてきたではないか。なぜ今ごろすりよろうとする? どうして守ろうとするんだ、できもしないのに」ラスティア! 自分でもわからない怒りが胸で沸騰し、危うく立ちあがりそうになってフォールストに押さえつけられた。
お前は、お前はなんてことを言うんだ。
「このままでは俺と戦いお前は敗れる。血をまきちらし羽を地に伏し、無残な死体になる。かつてのお前の友のようにな」お前は降りることができる。猫なで声だった。
「お前は依頼を拒否し一人逃げることができる。だれもとめることはできない。お前のことだからだ。俺はお前と戦いたくない」「お前は影か」
ミサスは急に全身の力を抜いて、リングを拾おうと前へ出た。無造作だった。
「うせろ影。過去に泣くほど老いてはいない、影に惑わされるほど若くもない。主のもとへ逃げかえれ」「俺はラスティアだ」
顔をゆがめたラスティアの足元はたしかに影は存在しなかった。
「どんなにラスティアが強かろうと、お前は俺には勝てない。影はけして人には勝てない。夜を飛び闇をあやつる黒翼にごまかしがきくと思っているのか」ラスティアの全身がゆがみ、あっと思うまもなく消滅した。
たき火の枝がまた崩れる。ミサスはリングを手首にはめ火のそばに腰かけた。いつもの半分寝ているような表情を作る。今さらながらに虫の音が戻ってきた。
「ミサス」
出ていっていいものかどうかすごく迷った。ここはいないふりをするべきだろうか。でもどうせミサスは俺がいることを知っているのだし、出ていかないとなにも動かない。フォールストも俺と似たりよったりの心境らしかったがミサスはそんな俺たちを無視した。
「大丈夫か?」怪我をしているようには見えなかったし、今の戦いでミサスは怪我をしなかった。わかっているのに聞いてしまい当然ながら無視される。
「ミサス。今の話なんだったんだ? どうしてラスティアがくるんだ? ラスティアの立場からすれば絶対に会いたくないはずなのに会いたかったって。どういうことだ。ウィロウとか、影の道士と関係あるのか?」ミサスは反応しなかった。たてつづけな質問に反省する。あれだけ神経張りつめた戦いの後にこの態度はないよな。大体ミサスだってわかっていないことだろうし。全部答えられるのはきっとラスティアだけだ。俺は質問を保留にした。
「今のはなに?影ってどういうこと?」
フォールストのは答えられる内容だったようだ。
「影を飛ばす?」
「離れた場所から自分の影を動かす技」
「魔法なの?」
「魔法だ」
すごく便利な魔法だ。ラスティアが分身してどんどん押しよせるだなんて考えたくもない。どうやってミサスがおいはらえたのか。目の前で見たにもかかわらず理屈が理解できなかった。おっぱらい方を聞けば教えてくれるだろうかと考えつつ、とにかくキャロルへかけよる。
「イーザーどうしたの?」聞くのが怖い質問を簡単にフォールストは口にした。ミサスは答えない。キャロルの顔に触れてみる。普通に息をしているしただ寝ているようにしか見えない。でも普通の就寝ではないよな。今ので起きるはずだ。
「ミサス、これはどういうことだよ」心配そうに俺の後ろからのぞいていたフォールストが鼻を動かした。
「アキト、つかぬことを聞くけどキャロルとイーザーってお酒に強い?」唐突だな。
「わからない。飲んでいるの見たことがない」「もしかして酔いつぶれているだけじゃない? 匂いがするよ」
「うえっ?」
そういえば俺が寝つく直前ミサスから酒を借りていたような。フォールストはその辺に投げだされた水袋を拾いあげ匂いをかぎ顔をしかめた。非難するようにミサスへ視線を向ける。
「こんな強いの飲ませたの?」「飲まれたんだ」
ミサスの表情は変わらなかったが、言っている内容はかなり情けない。水袋は空に近いから全部飲まれたらしい。そうかだから寝ていたのか。日常でも飲酒しないし、ひょっとしたらすごく弱いのかもしれない。フォールストが困ったように身につけている空色の布をキャロルにかけた。
「アキト、どうしようか。起きそうにないけどかついで丘まで戻る?」「無理だよ」
俺もフォールストも力はないし、ミサスはきっぱり非力だ。俺らが人二人と荷物を背負って根かじりの住む丘まで帰れるわけがない。
「俺たちはここで過ごす。フォールストだけ丘に戻って、俺たちが無事だったこととかすまなく思っていたことを伝えてくれないか」「いいよ。朝になったら丘にくる?」
少し考えて首を横に振った。
「このまま国境へ行くと思う」「わかった。そう伝えておく」
フォールストは自分の荷物だけ持ちランタンをかかげて、きたときと同じように何気なく暗い森へ姿をけした。しばらく小枝を踏みつける音が聞こえたがやがてたえる。
音が聞こえなくなるまで見送り、大きく息をつくとたき火のようすを見る。細い枝を慎重に、以前イーザーにあきれられながら教わったとおり空気が入るようにくべる。ほどなくして炎は息をふきかえしはぜた。
イーザーもキャロルもよく寝ている。どんな夢を見ているんだろうか。
「あのな、ミサス」ミサスを見ずに呼びかけた。
「俺はもう日本に帰れない」返事はなかった。
「俺が行き来する影響で向こうにもこっちみたいな怪物が出るようになったんだ。だから声に頼んでもう帰れないようにした」こうして話すと一大決心もどうってことがない気がしてくる。俺の行ったことは一息で話してしまえる内容だった。
「本当言うとな、もう二度と帰れないなんていやだよ。あっちにはあっちの生活があって家と学校と友だちがいるんだ。戻りたい。朝起きて学校行って眠気を我慢しながら授業を聞いて、実行委員会にいやいや出て疲れて帰る生活がいい。でもしょうがないんだ。俺が帰るとあっちまで巻きこむ。俺はこれ以上周りに犠牲を出したくない」話しながら別のことに気がつき、あわててつけくわえた。
「でも、だからってミサスの前から姿をけさないからな。よくわかった、俺まだ命がおしい。自殺行為はしないよ。それに黙って消えたら絶対にイーザーとキャロルは俺を探す。うぬぼれとかこうなればいいって言う希望をとりのぞいても、そうするとしか思えない。俺ていどが逃げおおせるとは思えない。今度こそ顔が変わるくらいぼこぼこに殴られる」
ミサスのことだ。さっきの「じゃあな」がなにを意味していたのか、俺がどう考えていたのかぐらいわかっているのかもしれない。わかっていながら絶対にこうしろああしろと言わないんだな。
「俺はいなくならない。ウィロウに悪いもんな」火が陽気に踊る。なんとかあたりを照らせるだけの光量になって俺は少し安心する。もうないだろうがまた暗闇からだれかがくるかと思うとそれだけで震える。
「あのさ。それからこれって一体どうなっているんだと思う?」俺は聞きたくて聞きたくてしょうがなかったことを、静寂にたまりかねてはきだした。
「これって言うのは、つまり道士やラスティアのことだよ。あいつらはなにをしているんだ? どうして道しるべとか翼の戦士なんて呼ぶんだ? 俺たちの知らないところでなにが起きているんだ? ミサスにもわからないと思うけど、どう思っている?」答えはない。俺は炎を見つめながら聞く。
「ミサス。俺たちはこれからどこへ行くんだろう。俺はこれからどうすればいいんだろう。どうすればウィロウに答えられるんだ? 一体どうすれば―― 明日起きても横にウィロウがいなくて、次の日もその次の日もいなくて、永遠に横に並ぶことがないのに耐えられるんだろ」「忘れるな」
てっきり無視されるものだと思っていた。驚いてとびはねるもミサスの表情は変わっていない。眠たそうに頭をたれて、黒い髪が顔にかかり表情は見えにくい。そのくせ声は明瞭だった。
「忘れるな。忘却は罪だ。思いも努力も願いもけしさる。月日がたっても時々思いだせ。そうした方がためになる」ミサスから助言されたのは初めてなんじゃないか。普段なにも口にしないだけに言葉が重い。どきまぎしながらうなずいた。
「ミサスもこうして親しい人や大切な人がいなくなったことがあるのか」「ある。アキトと同じ年の、未熟な俺を知っている奴はもういない」
薄く目を開ける。闇と同じ色の瞳には炎以外のなにかがうつっていた。いつか夕日さしこむがらくた部屋でのミサスが重なった。
「昔の話だ。俺は忘れた」「ミサス、それって。ミサスは友だちの」
「寝る」
一方的に会話を打ちきられた。
「火の番をしろ。夜明けは近い」それきりミサスは瞳を閉じる。俺はなにか言いたかったが、結局言葉にはならなかった。
空を見あげた。樹冠に隠されて見えない。朝が近いとミサスは言った。でも俺にはまだ太陽は遠く、夜は永遠に続くようだった。