いつも持ちあるいている火口箱から火種を作り、キャロルはたきつけにうつした。簡単に集めた枯れ草に火がまわったのを確かめて、イーザーはまずは小枝、順に太い枝にくべていく。しばらくして小さなたき火ができた。
「火によれ」不機嫌そうに言われて俺は近くへ腰かけた。肌が熱を持ち、俺はそこに火があることを知った。今までずっと火をおこすのを見ていたが認識していなかった。
今俺が見ているのは、かつてウィロウだった若木だ。
あれ。そういえば今ここにないぞ。おかしく感じてすぐ思いだす。イーザーに引きずられて場所を変えたんだった。同じ森でも月は見えず、火の外側は夜が色濃くうずくまっている。
それぞれ思い思いの場所で黙っていた。イーザーは火のそばに片ひざついて、キャロルは大きな丸太に腰かけて。ミサスは火と闇の境界線ぎりぎりのところで木によりかかって目を閉じている。
「もしも」小枝をつかんで火の中に投げいれ、イーザーはだれともなしにつぶやいた。
「俺がそこにいたら、丘で一緒だったらこんなことにはならなかったのか?」「知らない」
「俺が危ないと自覚していて行動していたら、こうはならなかったのか?」
「知らないわよ」
「もしも、もしもだ」
「黙りなさい」
高圧的な言いように明らかにイーザーは気を悪くした。キャロルは無視する。
「木の精霊術の封印は媒介を必要とする代わり対象をつつみ封じ、やがては消滅させる。前にウィロウ本人が言っていた。だからウラスの道士はもうおしまいだ。もう空から大魔法が飛んでくるのを心配しなくてもいい。いいことね。道士とラスティアは別のものだというのもはっきりわかった。あたしたちの目標はまだ達成されていない」
「以上か?」イーザーがだしたとはすぐには信じられないような、冷たくて感情が抜けおちたような声だった。キャロルが顔をあげる。
「そうね。ウィロウがいないからこれからは厳しくなるね」「そうか。ウィロウがいないのに平然として出した結論がその程度か」
「なに。アキトみたいにみっともなく取り乱して嘆き悲しめっていうの?
ごめんね。ウィロウがいない以上一番物事を理性的に考えられるのはあたしだけだもの。動揺なんてしていられないわよ」
「キャロルは動揺なんてしないだろう。大切なアキトは無事だったんだからな。なにも気にすることもないだろ。全員が大切な俺とは違ってな」「言いたいことがあるなら言ったら? なに遠まわしにしているのよ」
「言いたいことはもう言った。キャロルはその程度しか考えられないんだな」
イーザーはその辺の草を土ごと火へ放りこんだ。首もとのとめ具を音を立ててはずし、いつも身につけている黒の外衣を俺へ投げる。
「寝ろよ、アキト」受けとりそこねて俺は頭から外衣をかぶった。そのままイーザーを見る。
「魂が消えたみたいな顔だぞ。その面は俺が見たくない。寝て少しはしっかりしろ」寝たいとは思わない。頭の芯が麻痺してなにも考えられない。でも俺は外衣をぼんやりはおると倒れた。
「……ああ、もう、ミサス。酒持っているでしょう。ちょうだい」「キャロル、お前酒は」
「通夜ぐらい飲みたくなるわよ。イーザーもつきあいなさい。いいでしょ」
まだ続く会話は耳に入っていたけど聞こえなかった。
夢を見た。
あまりにも抽象的で変すぎたから、俺が寝ぼけながら考えていたなにかだったのかもしれない。二つの違う場所があって薄い布でしきられていた。俺は針先のように小さくなって、布の縦糸と横糸の間をすり抜ける。何回も何回も行ったりきたりを繰りかえしている間に布に穴ができる。小さなすきまに俺以外のだれかが大挙して押しよせ、反対側へ行こうとしていた。
俺は目を開けた。地面はしめった草と泥ではなく合成樹脂の床でイーザーが貸した外衣はなかった。
日本に戻ってきた。俺は家にだれもいないのを確認しないで呼びかける。
「声」(なんだ)
「いるかどうか聞いただけだ。用はない」
(聞きたいことがあるのではないか)
「あった。でもいい」
起きあがる気にもなれず動かなかった。なにも考えられない。このまま空気に融けて消滅してしまえば。そんな馬鹿なことを思う。
居間で電話が甲高くないた。俺は少し顔をあげて今を見る。だれからだろう。
あわただしい鍵音がして玄関が乱暴に開いた。飛びつくように電話にでる。
「はい、大谷です。え、はい。まだ秋人は帰っていないみたいなので代わりに伝言受けますが。……はい、7時半に学校ですね。今からですか。わかりました、伝えておきます。それでは」電話がきれて、俺の部屋が開いた。
「あ、秋いたの」「姉さん」
「寝ていたの? なにとぼけた顔してるのよ。電話ぐらいとってよね」
「だれから」
「荷沢さんって人。学校に7時半にこいって。今日の夜よ」
「なんで」
「それがね、大変みたいよ」
姉さんは文化祭で買った古本とバザーの服を床に置いて大げさな身振りを取った。
「何でも、実行委員会の響さんが今朝家をでたまま行方がわからなくなっているんだって」刀で心臓をつらぬかれたかと思った。手をついてゆっくり上半身を起こす。
「……あ」「まだ目がさめないの? それで実行委員で集まって探そうってことになったみたいよ。荷沢さんって人すごくあわてていたよ。泣いていたんじゃないかしら」
俺はかばんをつかんだ。居間へ玄関へ外へとでる。肩を姉さんがつかんだ。
「秋! どうしたの、なにか変よ。後夜祭でなにかあったの?」「学校に行くんだ」
俺は今はじめて姉さんを直視した。男女の区別あれど俺とよく似た顔は眉をひそめて心配している。俺は姉さんの手を静かにはずした。
「ありがとう姉さん。俺行くよ」「あ、うん。気をつけてね」
とまどいながらも、外にでてまでとめようとはしなかった。
「さよなら、姉さん」俺は階段をかけおりた。
駐輪場の自転車で夕闇迫る通学路を走る。道の家々はどれも明かりがついていて夕ご飯の匂いがした。平和な俺の国の光景。
学校の正面まで後少しのところまできた。ろくな明かりもない日坂高校の校庭が見え、夜だというのに人が幾人も集まっていた。その中央に荷沢さんがいる。取り乱して他の人になだめられているのを見たとたん、俺はこわばった。
俺はなにやっているんだろう。響さんは探しても見つからない。知っているのにのこのこ出ていってどうする気だ。そ知らぬ顔で探すのか、それとも響さんは日本全国どこを探してもいないというのか。どっちもできない。学校には行けない。
(秋人)「だめだ、俺どこにも行けない」
自転車が夜道に音を立てて横たわった。俺は学校と反対側へ走った。
「俺、どこに行けばいいんだろうな」声から答えはなかった。俺もほしくない。
坂をなにも考えずに下りると小さい駅がある。いつもここで俺以外の役員だった荷沢さんと響さんと桜木さんは電車に乗る。俺が乗ったことは数回しかないが、四車両しかない電車が入ってくるのを見てなにも考えずに無人改札口を通りぬけた。
電車は人が少ない。せいぜい仕事帰りの疲れている男の人がだらしなく座っている。俺は息をついてドアへ寄りかかった。
「大谷くん」俺は真横にブレザーの女子高校生が立っているのを知った。
「桜木」「大谷くん電車通学じゃないよね」
目をきつくつぶって手を額にあてた。
「それに学校は。私は学校に呼ばれたんだけど。大谷くんは知っているの?」「知ってる」
「そう」
それきり桜木はなにも聞こうとしなかった。
「桜木はどうしてここにいるんだ」「電車を降りようとしたら大谷くんがかけこんできたから」
「そうか」
終点までの20分間会話はなかった。終点のにぎやかな街で金を清算して駅をでる。桜木もついてきた。
夜だというのににぎやかさは昼以上だった。ビルや店からは人があふれて新たにむらがる。駅をでてすぐの大通りはギターを持った若者、おしゃれなストリートダンサー、複数で見事な曲を創りあげている外国人に帰宅途中の勤め人が足をとめる。
この中で友だちが遠くに行ってしまったことがある人はいるのだろうか。とても大切な人がいなくなったことがある人はどれくらいいるのだろうか。俺は足をとめずに桜木へふりむいた。
「なんでついてくるんだ。早く学校へ行かないと荷沢先輩がうるさいぞ」桜木は顔をあげた。
「だって、響先輩も心配だけど大谷くんも心配だよ。なにかこのままいなくなっちゃいそう。どうしたの」「いなくなるか。響さんみたいに」
俺は少し笑った。
「それはそれでいいかもな。でもどこに行けばそうなれるのかな」「大谷くん」
ふと思った。ここで全ての真実を告げたら桜木はどうするのだろう。馬鹿にするのか、笑うか、それとも信じるか。
「なあ、桜木」足をとめた俺の耳に涼やかな鈴の音色が届いた。かすかに、しかしけして聞き逃すことがない。
「懐かしいですね」音はすぐ近くにいた路上の踊り手からだった。金髪に茶色の瞳、肌は白く顔立ちは日本人とは遠い。革の外衣をはおって手首足首に小さな鈴をつけている。サンダルの足がとまり長い三つあみがゆれて静まった。
「魔法と精霊。石油臭いこの地ではありえない臭いです。ここで会えるとは思いませんでした」小銭が入った箱をまたぎ、男は俺の目をまっすぐに見る。
「あなたはだれです。どうしてこの臭いがするのですか」この人もまたカーリキリトに関係する人なのだろうか。
口を開こうとしたその時、車の鋭いブレーキが夜空に何十にも響きまぎれもない交通事故の破壊音がした。
「なにっ?」桜木が一番に反応した。駅の連絡通路を走り屋根のないところ、外が見えるところへ急ぐ。
大勢の人をかきわけて通路外へ身を乗りだしてようやくなにが起きたのかわかった。玉突き事故だった。普段から交通量が多くせまい道は何台もの車がおりかさなるかのようにボンネットがつぶれ窓ガラスがわれていた。車の横でへたりこんだ人が大声で泣き、上空の無関係な人たちの手から色とりどりの携帯電話が鳴り聞こえる。
「ああ、間違えている。問題はもっと身近なところにあるのですよ」いつのまにか俺の後ろにいる外人が余裕ありげにつぶやいた。
彼に説明をもとめる必要はなかった。騒ぎは交通事故が原因ではないことをすぐに知ったから。
蛍光灯がまぶしいよどんだ空がゆがんだ。そこだけ高温で熱されたかのようにねじくれて、ゆがみから猿が落ちてきた。なにが起きたのか目の前で見ていながら少しもわからない日本人の前でゴブリンは、俺だけが知っているあっちの世界の子鬼は牙をむきだしはきそうな体臭をまき、悪夢のような叫びをあげて手じかにいたサラリーマンへ爪をむけた。
「うわぁぁ!」虚空から押しこまれたように半透明の亡霊が出現し、冷たい手にふれられたスーツの女性が悲鳴を上げて倒れる。下で店のガラスが割られて展示していた花束がつけていたバケツごとひっくり返る。なにが起きているのかろくに理解していない人々は、それでも大声をあげ我先にと走りだす。もみくちゃにまきこまれた小学生が転んですすり泣いた。俺は一歩後ずさる。日本では空想の産物、カーリキリトでは実在しているものたち。
「……なに」桜木は呆然としすぎてむしろ冷静に見えた。逃げることも怪物を受けいれることも、現実を逃避することさえせずに立ちつくす。その桜木にもゴブリンが、本人が気づかないまま近寄られる。どこで拾ったのか鉄パイプを振りあげ、その無防備な頭を殴ろうと襲いかかる。殺されかけているのに桜木は気づかず目を見開いたまま動かなかった。
とっさに桜木に飛びかかっておしたおす。桜木の額の代わりに俺の背中が打たれるのを覚悟したが、金髪男が優美なまでにゴブリンの後頭部を蹴りつけて悶絶させた。
「女の子をかばうなんてかっこいいではないですか」「あんた、強いのか」
俺は礼を忘れた。金髪男はとがめない。気にしていないのか、気にする時じゃないからか。
「素手ではいまいち。まず逃げませんか? いいところ知ってますよ」俺も大したことができない。もともと強くないんだし、いつも習慣のように持ちあるくようになったスタッフもここにはない。この男が何者なのかもわからない。ゴブリンを見ても驚かないしさっきの発言もある。でも助けてくれた以上もっと当てにしても大丈夫そうだ。俺と桜木を守ってもらうために誘いにのろう。男が敵かもしれないという可能性は無視することにした。
「桜木、立てるか?」「あ、うん」
立ち方を忘れたかのようなおぼつかない桜木の手を引いて、背中を向けた金髪男を追った。かなり足が速く、桜木の手を引いて追いかけるのは大変だった。桜木ももっと大変だっただろうけど文句は言われなかった。
悲鳴が聞こえる。俺のわきで一組の男女が今まさにいびつな怪物に襲いかかられろうとしていた。
「危な」すぐかけよって、怪物の気をそらせて二人を逃がして。想像したことすべてを俺はしなかった。立ちどまろうとして背中に桜木が「うわっ」小さく悲鳴を上げてぶつかりかける。顔をあげると金髪男の細い背中が小さくなっていた。
俺は今すぐ鼓膜を破り、ついでにいきなり視力が致命的にだめになればいいと思った。
助けたくても俺にはなにもできない、かろうじてできるのは現実を認識できず人形のような桜木をつれて逃げることだ。今桜木がいる、助けて守らないといけない。彼らを見捨てても。
俺は無力感に首根っこをつかまれて全身をからめとられる。ウィロウ、あの時も今も俺はなにもできない。
男が言ったいいところとは、雑居ビルが乱立する区域奥の、前の店舗がつぶれてまだ次が入っていない鉄筋コンクリート4階建てビルだった。そのうちどこかの事務所か店が入るのか、なにもない空間には机と事務用具そして掃除用具が散らばっている。俺は柄の長いほうきを手にとった。軽すぎるけどいいか、なんとかスタッフの代わりになる。
「さ、見逃してもらえるといいのですが。彼らがこなければよし、着たら早々に帰ってもらう。そんなところですか」男は白木の杖を取りだした。スタッフよりも短いし細い。頼りになりそうにないけど素手よりも自信があるのだろうか。桜木が床に座りこむ。呼吸が荒く汗をかいていた。口をきくのも辛そうなのに早口でまくしたてる。
「お、大谷くん?あれはなに!?」
「桜木」
「あれはどこからきたの、なんで襲われるの? 大谷くんは正体を知っているの? どうして落ちついているの!?」
「落ちついてなんかいないよ」嘘じゃない。また遠くで事故の音がする。あんなのが道をあるいていたら事故も起こる。交通法の予想外だ。
なんであっちの化け物が日本にいるんだ? 偶然きたわけはないよな。なにかで、だれかがそうしたんだ。どんな理由で。
「俺のせいか?」もっともいやな考えにあたって立ちすくむ。また俺のせいなのかもしれない。だったらどうすればいいんだ。
「大谷くん?」「戯れ言を」
こんな面白いことは久々に聞いたと男はあざ笑った。
「あなたみたいな一介の人間がこんな大それたことできるわけないでしょう。あまりふざけないでください、命が風前なのですよ?」男もふざけているようにしか聞こえないが。
「妄想よりもこれからどう撃退するかを考えてください」冷静に考えてみると、これほど切羽つまっている状況はない。俺は自己嫌悪しているよりも今後の対策をねらないといけなかったんだった。
赤い逆三角形の窓ガラスが破片になって舞った。人影が飛びこんでくる。
どうやってここに人がいることが分かったのか推測する暇はない。ゴブリンは待ってくれない。一匹は小刀を振りかざし男へ、もう一匹は桜木へ。
「はっ!」男は杖を腰に構え、つきの瞬間鞘が宙に舞い白刀ひるがえった。キャロルとよく似た、ためらいも遠慮もない一刀はゴブリンの首をなぐ。赤い血がふきだして地面と男を紅に染めた。
「あ」桜木は立ちぼうけで動けない。俺は立ちふさがりスタッフでせまる小刀をはじいた。そのまま殴ろうとするもゴブリンの胸から刀がはえるほうがはやい。男がゴブリンの背後から突き刺していた。
「はい、あがり」絶命したゴブリンから慎重に刀をぬく。俺は気分が悪くなったが男はへいちゃらだった。
「あなた武器はそれだけですか。思ったより奮闘しないといけませんね」「あんた、その剣」
「これですか」
ゴブリンの汚い服で刀の血のりをふきながら答える。なぜか上機嫌だった。
「仕込杖ですよ。TVで覚えました」「あ、あ。きゃああ!」
桜木が絶叫した。
「あああ! これはなに、なに!」狂ったように絶叫は続いた。両手で頭をかかえ狂ったかのように髪をかきむしり抜けた毛が足元に散った。あわてて支えようとしたが、逆に俺から逃げるようにはなれた。爪に血がこびりついている。
「大谷くん! どうして大谷くんは平気なの、そっちの人だって、刀とか殺したりとか。なんでそんなに平気で。いや、いやあああ!」「桜木、落ちつけ!」
「高校生にしては耐えたほうですね」
ひとごとのような態度の男に腹を立てながら、どうにかしてなだめようとした。
「別に俺だって平気でもなんでもなくて」「大谷くん!」
桜木が向けた目はお世辞にも友好的ではなく今まで見たこともなく。恐怖におののき心からおびえ。
そしてそれだけじゃなかった。単純に怖がっているといえない複雑な色がまじりとけている。驚愕か屈辱か、触れるだけで熱い純粋な怒りか。理解しきれない感情が渦巻いていた。
桜木?
「大谷くん」桜木は俺をにらみつけた。怒りとそれ以外の奔流に俺は押し流される。
「あなたはだれなの。何者なの!」もっとも恐れていた言葉に、しかし答えられない。
「桜木後ろ!」「え」
桜木は振りかえりそのまま停止した。俺と桜木の視界に半透明のどくろが壁をすり抜け桜木に手をのばす。男が一歩すり足で進む。
「これだから幽霊はいやなんですよ。実体がないから刃ではどうしようもない」どくろの軽そうな腕がのび桜木の胸を貫く。本物の剣で切られたように硬直した桜木は白くこわばった顔で俺たちへ向き目を見開いた。
男がぼやけて変化する。金の髪は前身を走り毛むくじゃらになる。飾りはそのまま耳だけが巨大化し、明るい瞳が輝いて黄金色に変わる。縦になった瞳孔ごと瞳がきらめき、立派な爪のある足を2回踏みならす。鈴の音がした。
「うせなさい」誓って男のやったことはにらんだだけだった。それにもかかわらず敵意みちていたどくろは興味をなくしたように壁に引っこみどこかに行ってしまった。
幽霊が消えると同時に彫刻のようだった桜木さんが崩れた。あわてて頭を打たないように手をさしこむ。
「桜木!?」「気絶ですよ。いくらこっちの世界の人間でもあの程度では死にませんって」
言われても蝋のように白い桜木の顔色に俺まで死にそうだった。「私を見て気絶したのではない辺り見込みはありますね」とか軽い言葉は無視して唇の上に手の甲を当てる。正常に呼吸していることを確かめてから、あらためて男と向きあった。
長身の白人男性はもういない。代わりにやや背が高い、金の毛を持つ直立する巨大猫がいた。顔は猫そのもので手足は形こそ人間だけど毛並みにおおわれていた。そしてなにより印象的なのはその瞳。毛並みと同じく黄金の色が俺を見下ろしていた。お前は。
「猫の獣人ってことは月瞳族か」「そうですよ」
「俺は大谷秋人だ」
「私はグラディアーナ。そう呼ばせています」
かつてさんざん探した異世界の研究者がそこにいた。
(驚いている場合ではないぞ、秋人)
声がしゃりしゃりでてきた。俺だけではなくグラディアーナも宙を見上げる。
「なんですこの声は」「グラディアーナも聞こえるのか!? こいつは声、俺の知りあいだ」
「そのまんまな呼び名ですね」
いいだろ別に。ささやかなつっこみは無視して声との会話に集中した。
「なんの用だ」(これから続々押しよせてくるぞ。覚悟はいいか?)
「げっ」
気絶した桜木を引きずって清潔そうな床に寝かせる。ぐっ、重い。
顔をあげて割れた窓ガラスを見る。グラディアーナが放置されている机で防壁を作ろうとしていた。
「手伝う」「助かるといいたいところですが、それより出入り口を見てください。不意打ちはいやです」
「わかった」迷わずグラディアーナに背を向ける。この日本であんなに探していたグラディアーナといきなり一緒に戦うなんて。あまりにも現実離れして常識の感覚が狂っていく。
「こんな時にいうのはなんだけど、俺はずっとグラディアーナを探していたんだぜ」
「それは光栄。できれば美しいお嬢さんからいわれたいところではありますが」
なにを言ってるんだ。
「グラディアーナが異世界の研究をしてるって友達の友達から聞かされたんだ」「私の世界ではないところを研究するためにふらふらしていたら、いつのまにかこんなところにたどり着いてしまいました。なかなかおもしろいところですね」
「俺はここの出身だけど、自分の意志でなくカーリキリトと行き来している」
おしゃべりはそこまでだった。グラディアーナがもうひとつ机を積もうと四苦八苦しているところで、机をものともせずに窓を通過して影の化け物がいつまでも耳に残る叫び声をあげてやってきた。
「ここは出入り口ではありませんよ!」今度は俺のほうが速かった。箒の柄を腕と平行に構えて突撃する。人でいう顔面を貫くと影はあっけなく消滅した。いい気になってはいられない。何体も同じように入りこんできた。
「彼らは切れますか?」「切れる」
「うれしいことです。実体があるんですね、一応」
仕込んでいない仕込み杖はただの短めの日本刀だった。グラディアーナは片手でひるがえす。
「おい!」敵は窓ばかりからくるのではなかった。正面の動かない自動ドアを力任せに破ってゴブリンが襲ってくる。俺は一匹目の刃を受けとめて逆にはじき返すも、二匹目は柄を使うひまがなく転んでよけた。一対複数じゃあどう考えても一人が負けるに決まっている。
「グラディアーナ、きりがないぞ!」「困りますね。この場しのぎとして上の階へ逃げましょう」グラディアーナの毛並みは返り血で美しさを早々に失っている。見ていまさらながらに血臭で気分が悪くなった。
「外じゃないのか?」
「獣人の姿をさらすのには抵抗があります」
場合が場合だし夜だからいいんじゃないかと思うのは、俺がもうすっかり慣れたからか。せまるゴブリンの手をグラディアーナが引き受け、俺は桜木さんを背負い半分引きずるように階段へ向かう。ああやっぱり重い。
後がない思いで俺たちは二階へ逃げた。事務所になる予定の部屋に入ったとたん俺は桜木の重みでつぶれた。桜木の名誉のために言っておく、桜木は人間としては重くないと思うが、そもそも気絶した人間というのがものすごく重いのだった。どうして人間は意識を失うといきなり重くなるのだろう。
グラディアーナが容赦なくゴブリンを蹴り重いものが階段を転げ落ちる。即座にドアを閉め鍵をかける。ひとまず、本当にひと時だが静けさが戻った。
(とりあえずしのいだが)声がまた話しかけてきた。
「とりあえずってどういうことだよ」(そのままの意味だ、秋人。建物は四階建てでいつまでも上へ上へと逃げまわれるものではない。いつかは追いつめられて終わる)
「なにかいい方法はないか?」
声はためらうように黙った。もう声に慣れたらしいグラディアーナも参加する。
「私も質問したいですね。なぜカーリキリトの者たちが日本にくるのですか? こことカーリキリトは遠くへだてられています。現に私も二年前きたきり戻れません。それなのに押しよせるなんて信じられませんね」(ラスティアが秋人を狙って送りこんでいる)
胸をスタッフで殴られたような衝撃とともに、ああやっぱりと納得した。
「この人を狙って? そこまで価値があるようには見えませんね。それにどうしてラスティアとやらはこんなことができるのですか。生き物を大量に送りこむなんて信じられません。神様でも無理ですよ」(ラスティアは世界に類を見ない魔道士だ。しかし、世界屈指の実力の召喚術でもたしかに無理だ。ラスティアはちょっとした仕掛けを利用している)
「どんなです」
(そこの秋人は本人の言うとおりカーリキリトと日本を往復している。しかしもともと遠く存在し重なることがない土地。行き来するには無理がある。それを重ねているうちに隔たりにほころびが生じた。非常に行き来しやすい空間が秋人の周囲に発生している。ラスティアはそれを利用して自分の配下を送りこんでいる)
「やっぱり俺のせいなんだな」
静かな物言いに、グラディアーナはぎょっとこっちを見た。
「声」(なんだ)
「声の力でこいつらをカーリキリトに送り返すことはできないのか」
(ほころびが存在している限りすぐ戻ってくる)
ドアの上部にはめこまれた窓ガラスが割れた。外からすごい力でたたかれて破られそうになる。グラディアーナはあわててその辺の机を引きずってドアの前に持ってくる。
「ほころびを閉じることはできないのか」(閉じても化け物は存在し続ける。日本にとどまり悪さをする)
「だったらさ」
声がふるえた。
「俺がいるとほころびになるんだろ。俺ごと奴らをカーリキリトに返して、二度とこれないようにはできないのか」(できる)
「ならしてくれ」
淡々としたやり取りにむしろグラディアーナのほうが驚いた。机を背で押さえつけながらも「ちょっと待ってください」口をはさむ。
「それはつまり、アキトが故郷の日本に帰れない。そういうことになりませんか」(そうなる。ついでにお前もだぞ。お前も日本に住むカーリキリトの住民だ)
「私はもともとカーリキリトの住民です。でもそこの少年はそうではないでしょう」
「俺はいいよ、グラディアーナ」
気を失っている桜木を見る。姉さんを思いだして関口を思いだして荷沢さんを思いだした。日坂高校や駅前を思いだし、悲鳴が満ちるのを想像する。
「もういいよ…… 俺のせいで、巻きこまれる人を見たくないんだよお」顔に冷たいなにかが触れる。ぬぐってみると涙だった。ドアがはげしくたたかれグラディアーナは仕込み杖を構える。山刀でドアが切りさかれた。
(すまない、秋人)声が告げた。
視界が流転した。今までのとはまったく違う、なにかが一つ一つ音を立てて切断される。俺の根源にあるものがあっけなく消えていく感覚だった。
(わかっていた。お前ならそういうであろうことが。お前が日本を巻きこむのに耐えきれず選択をするのを知っていた。知っていておまえに選ばせた)切りはなされて転移する。ゴブリンや幽霊や影の手が武器が声が重なり合いこだましてきえる。なぜかその中にグラディアーナのおどけた声も混ざった。
「アキトオオ。あなたがどこのだれか知りませんが重要そうだとはわかりましたああ。また会いましょうねええ。わたしは待ちます、待っていますよおお」音は遠ざかる。世界はしぼみはじける。開いて閉じる。変化して引き離され戻る、強力な流れに俺はなすすべもなく翻弄されて身動きひとつ取れない。俺はどこかのゆがみにつき落とされて、それきりそのまま動かなかった。
聞こえるのは虫の音、火のはじける音。腐った落ち葉と水とこけの匂い。上半身を起こす。イーザーの外衣がずり落ちた。
イーザーは地面に倒れるように、キャロルは倒れた幹へよりかかって寝ていた。ミサスは俺が覚えているよりも火のそばにいて目を閉じている。たき火は小さく、今にもきえてしまいそうだった。俺が日本に帰ったときからほとんど時間がたっていなさそうだった。
戻ってきた。もう帰れない。
わかりきっていたことだ。それなのに一人静寂の中で座っているとやけに身にしみて涙が浮かんだ。俺は日本には帰らない。家も学校もちゃんと別れを告げてきた。もう未練はない。それなのに俺ときたら。
無為に時が流れる。だれも起きていなくてよかった。邪魔されず質問されることもなく静かに涙を流した。
これでよかった。俺は最善の方法を選んだんだ。もう心配することはない。これで日本に手出しはされない。論理的に言い聞かせても俺は泣きやめない。なんでだろう。われながら子どもっぽいぞ。
日本に手出しは。日本には。
恐怖が全身を貫く。俺は立ち上がった。
ここにもいられない。行かないと、今すぐに。おびえながらも一歩踏みだす。
「どこへ?」悲鳴を上げるところだった。
「起きていたのか」寝ているとばかり思っていたミサスは目を眠そうに半分開け、たき火にまきを面倒そうに投げた。だから火が消えなかったのか。
「……俺、ちょっと行くから」質問の答えになっていなかったが、ミサスは返事をしなければ聞き返すこともなかった。いつもの無関心をいいことに黙って歩きはじめる。
「じゃあな、ミサス」ミサスがまた寝たのかそれも少しは反応したのかはわからない。俺は振り返らずに走りだした。