三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

道しるべ

国境付近を横ばいにすすみ、日が少しかたむきかけたころ根かじりの丘についた。今まで見てきた人間中心の街とは違い、丘のあちこちを穴倉のように掘って扉や窓をつけてすみかにしている。根かじりと呼ばれるのもむべなるかな、街の同属とおなじように地下に住んでいるのだった。

どれもこれも根かじりの一族の小柄な身体にあわせてつくってあるので俺にとっては狭い家だった。ウィロウだときっと入れない。大半の家は無人のようで、明かりのともっている家はほとんどなかった。

根かじりの一族はどこに行ったのか。小高い丘の広間に集ってお祭りの準備を進めていた。校庭の倍以上はある丘の上には色とりどりの旗がかざられていて、低めの卓には信じられない量の食べ物と飲み物が並んでいた。その辺にいる獣人の数と比べても明らかに量が多い。食べきれるのか。

グーさんを先頭に丘に登るとたちまち根かじりの一族に囲まれる。主にグーさんと一目で楽師とわかるフォールストが人気で、明らかに普通の人間であるイーザーや俺は適度に放っておかれた。

陽をうけて若草色の丘がゆるやかに紅に変わっていく。沈みゆく太陽の下お祭りの熱気はますます高まっていく。どこからか湯気の立つ料理をのせた大皿をもったエプロンのおばさんが無理矢理卓にのせる。同じ年ぐらいの若者が赤や黄色に染めたとっておきの服を自慢そうに見せびらかし、小さい子は興奮してあたりを走り回り忙しそうにしている男にぶつかって2人で転ぶ。空に雲がいくつも流れ、昼の暑さは失われつつある。俺はため息をついた。

「アキト、ますます憂鬱そうね」
「文化祭思いだした」

こっちのほうが楽しそうだし規模も大きいが、それでも日坂高校後夜祭を連想させる。後夜祭は容易に文化祭に結びつき、後はもう想像するまでもない。そしてそのたびに俺は底のない深い穴に突き落とされたような気分になる。

「いっそ本当に突き落とされたほうが気が楽かも」
「なに変なこと言っているの? 外からの客人はこっち」

なにも考えられず、手を引かれるままに連れて行かれる。遠くの高台で立派な服を着た根かじりの一族の老人が演説を始めた。どんなことをいうのか興味がなくもなかったが、遠すぎるし周りが騒がしすぎるしでちっとも聞こえない。

「あそこの人たち気が早いな。もう酒の封を切っている」
「真面目に聞く価値もないんでしょう」

キャロルひどいこといっていると思っていいたら、「はい」と杯をてわたされた。中には変なにおいの麦色の液体がはいっている。

「じゃあわたしは仕事をしに行くから楽しんでね」
「ちょっと待ったフォールスト。これはなんだ?」
「麦酒だよ、知らないの?」

ビールぐらい知っている。飲んだことがないだけだ。わたされたからには飲まないといけないんだろうか。でもなんで俺だけ。

「俺、酒を飲んだことがないんだけど」
「そうだったの? おいしいよ、飲んでみない」

好意には逆らえない。しょうがなく杯に口をつけようとした俺をキャロルがとめた。

「え?」
「フォールスト。アキトが酔って変なことしたら祭りがだいなしになるから進めないで。気持ちだけもらうわ」
「そう? じゃあまた後で会おう」

たいして気を悪くせずにフォールストは夕闇の向こうへ去った。俺は飲酒しないですんだ安心と、ちょっとは飲んでみたかった好奇心が入り混じった内心でキャロルに礼を告げる。

「ありがとうキャロル。とめてもらえるなんて思わなかった」

予想ではキャロルはあおり騒ぐかと思った。心外だったらしく顔をしかめる。

「アキトに飲ませる酒はないわよ」
「そうだ。もしおかしな癖があったら困るのは俺たちだからな。よしとけ」

イーザーにまでとめられた。そんなに酒に弱そうな顔をしているのだろうか。

高台の老人が大声でなにかを告げる。周辺がいっせいに沸きあがった。歓声があがりいくつもの手が食べ物をつかみ杯に酒を注ぐ。時は夕刻、日が落ちかけた時。はじまったみたいだ。

「アキト、あたしあっちへ行ってくるね」
「……俺も」

さばさば手を振ったキャロルにイーザーがのっそりついていこうとする。2人は顔を見合わせ、たがいに苦く笑う。見えないなにかが通じ合うのを俺は確かに感じた。

「じゃあそういうことで」

逃げるようにたちさった。ぼんやり送る。

「急に仲よくなったな」
「さまざまな点で真逆である彼らがあのように気が合うのは非常に珍しいです。どうしたというのでしょうか」

いつのまにかミサスまできえていなくなっている。もっともミサスがいなくなるのは珍しいことでも意外なことでもなく、したがって全然気にしないが。

「昨日あんなにぶつかり合ったのにもう仲よしなんて。雨降って地固まるってか? そうは見えないけど」

顔をあげるとウィロウは根かじりの一族にかこまれて見世物になっていた。自分の身長よりずっと低い獣人に「西の大森林からきたのか?」「飲まず食わずで生きているのは本当?」質問が矢継ぎ早に飛ぶ。一つ一つ丁寧に答えるウィロウは見ていてかわいいが、無視されて俺は少しさみしかった。「ウィロウ、俺その辺見てくる」とだけ声をかけてはなれる。

もうそろそろ空に星が見えて本格的に夜になる時間だ。あちこちでかがり火をたいているのでであるくのに不自由はしなかった。卓ごとに根かじりの一族が料理に舌鼓をうっては談笑している。料理は肉と野菜の煮つけ、分厚いハムに山盛りの魚の燻製やよく熟れた果物。素朴だけどおいしそうな食事は見る見る間になくなっていった。すごい、このままならたりなくなるかも。

部外者である人間や根かじりの一族以外の種族も思ったよりはいて、商人らしい人がビールの商談を熱心にしていたり、いつか橋であった女魔道士が手から火をだしてまわりに喜ばれていた。

輪の中に加われればきっと俺は受けいれられて、珍しい話を聞いて楽しく過ごせた。でもどうしてもそういう気分になれず、あてもなくその辺を歩いていた。

周りは比較的なだらかな丘だったが、周辺はうっそうとした森につつまれている。けして散歩して野いちごつんだりと過ごしやすそうな森ではなく、ウィロウがいないと歩くことすらおぼつかないようなくらい森だった。俺の祖父の祖父の代からはえているような高い木々には祭りの火も届かず、温かみや居心地のよさなどは全て拒まれる。

「あ」

森に見慣れた人物が入っていくのを見た。黒い服を着ているから夜と区別がつきにくいミサスは森へきえていく。

「なにやってんだ」

そんなにいやならそもそもこなければよかったのに。俺は頭をかいた。ついていってなに考えているのか聞いてもよかったが、どうせ返事してくれないだろうし俺が迷子になりかねないからやめておく。

背後から聞きおぼえのある弦楽器の音色がした。青い服のフォールストが行儀悪く卓に腰かけてリュートを演奏している。卓はさっきまで宴会で十分使用されたらしく、汚れたお皿がすみにまとめられて肉汁の水たまりがとびとびにできている。せめてふきんを持ってきてふけばいいのにと思うが、俺以外はそうではないようでフォールストの服が肉の色に染まるのをだれも気にしない。手早く陽気な曲に根かじりの一族は大喜びで、輪になって聞き手をたたいたり口笛を吹く。踊りだす奴まででてきて、うっかり杯につまずきひっくり返す。中身がほとんどなくてよかった。

つれづれとフォールストの明るい音楽に耳をかたむけた。背の低い根かじりの一族の邪魔にならないように座る。演奏は絶世というほど上手ではないがそこそこ聞けた。

俺の姿を認めたのか、演奏に熱中していたはずのフォールストは片目を閉じて曲の調子を微妙に変えた。そこぬけに明るく気ままにうつろい遊ぶ歌。曲に同調するように低い声で、俺にはわからない言葉で歌う。歌は曲と同じくらい明るくほがらかだった。

不意にだれかがわりこんだ。どこからきたのか、キャロルだった。フォールストの横に立つように卓に寄りかかり、高く澄んだ声で歌によりそう。専門家のフォールストと負けず劣らずの歌だったが、なぜか痛々しいほどの悲しみがこもっているようだった。悲鳴のようにさえ聞こえるキャロルの歌は、言葉がわからない俺でも息がつまった。胸の奥がしめつけられる。

陽気な歌と切ない歌はお互いからみあい夜に昇っていく。2人はあまりにも対照的だったが、でも同じものであるということもわかった。どんな内容の歌詞かは最後までわからないが、俺はおしまいと同時に立ち上がって拍手をしていた。フォールストはうれしそうにほほえみ、キャロルは見えないドレスのすそをつかんで優雅に礼をした。

「キャロル、すごいじゃないか! いつそんなことおぼえたんだ?」

親戚一族の興奮を落ちついてかきわけ俺のもとまできたキャロルはこともなく返す。

「大したことじゃないわ。密偵のたしなみよ、歌い手や旅芸人に化けるときのため、芸の一つ二つは身につけているものよ」
「よくこんな古い歌を知っていたね。驚いたよ」

フォールストも加わってほめたたえる。

「あたしが言いたいわよ。もう獣人にしか伝わっていないと思ったのに」

おいていかれた気がした。他力本願で追いつこうとする。

「今のってなんだ?」
「昔の歌。言葉も今では使われていない」
「どんな内容だ?」
「さあ。あたしも細かいところはちょっと」

知らないのに歌えたのか。それはそれでたいしたものだ。フォールストが代わって説明する。

「わたしが歌ったほうはうつりかわる季節を喜び、祝福する歌よ。春夏秋冬、全部すばらしく麗しい」
「キャロルのほうは?」

フォールストはかすかに笑った。

「絶望を」

予想外だった。フォールストの笑いはきえない。

「すべてを許し愛する絶望を意味している」

あんなに明るく楽しい曲だったのに、なぜか俺は背中に冷気が走った。

「ところで、どこか少しだけ隠れられる場所を知らない?」

ころりと表情を変えおなかをおさえる。

「飲まず食わずでずっと弾きつづけて、どこかで休まないと倒れるかもしれない」

といいながら手近なビールを受けとり、いかにもおいしそうにのみほした。少なくともこれでのどのかわきはおさまったはずだよな。

「なに言っているの、本業でしょうが」
「本業でもなんでもずっと続けるのはきつい。少しでいいから休みたいよ。根かじりの一族は小柄だからどこに行っても目立って目立って。どこかいいところ知っている?」
「森なんてどうだ?」

ミサスの背中を俺は思いだした。「ミサスもあっち行っていた」

「ミサスも? どうして」
「人気のないところで静かにいたかったんだろう」
「誘ったりしてよけいなことしたかな」

ミサス本人に言えばきっぱり肯定が返ってきそうだったが、俺はとてもフォールストに言えない。「どうだろうな」とごまかした。

「じゃ、休んでくる。ついでにミサスにも麦酒を飲ませてあげようか」

フォールストは小さい樽と真鍮の杯を2つつかんで、重そうにかつぎながら森へ歩きだした。

「見つけられるといいな」
「無理でしょ。一人で飲むはめになりそうね。迷子にならないといいけど」

放っておいてもいいのだろうか。森で迷子になったら命取りにならないか。とめようか迷う俺に杯がさしだされた。

「キャロル?」
「飲む? 酒じゃないわよ」
「もらう」

口をつけてみると甘酸っぱい果物のしぼり汁だった。意外と飲みやすく、すぐに杯は空になる。キャロルも同じものを手にしていたが、こっちは少しずつ飲んでいた。

並びながら俺は内心困った。沈黙が重い、なにを話そう。

昨日の主とかなんとかの話を聞いて以来、こうキャロルと二人になったことはなかった。あの話は本気なんだろうか。主といわれてもどうすればいいんだ。いばったり先輩ぶったりすればいいのか。そんなことしたら即完膚なきまでに倒される気がする。

俺はどうも冷静でいられないが、キャロルは平然と根かじりの一族について好意をふくんだからかいのまなざしをそそいでいる。その頑丈な精神がうらやましい。

「どうしたのよ、人の顔見て」
「いやまあ」

それとも実はキャロルも平気ではなく、でも平然としているようにふるまっているだけなのだろうか。それならそれで演技力がうらやましい。

「そんなに美しい?」
「えっと、その」

真顔でいわれてもどう答えろって言うんだ。

「もうすぐフォロー王国でるんだなと思うとくるものがあって」

我ながらすぐにばれそうな嘘だった。

「うん。フォローをでて水門国家レイドに入る」
「どんな国なんだ?」
「田舎よ、基本的に。フォローよりもさびれて古くさい。でも首都はそうじゃない。主とレイドは海に面していて大きな港を持っていて、東のエアーム竜帝国から西のプラダ、レクサク連合国、はては南西諸島まで船をだしてさかんに貿易を行っている大都市。レイドは実質首都だけがあればよくて、後はおまけね」
「すごいな。船でエアームまで行くのか?」
「いや、イーザーと話したのだけど、素通りして徒歩で竜帝国に行く」
「なんで?」船でいけるのだったらもう夜へとへとになってベッドに倒れこまなくてもいいし、足の豆がつぶれて包帯をまいてなお歩かなくてもいいのに。キャロルは空になった俺の杯に新しい果汁を注いだ。
「たしかに船ははやくて楽だけど、のっている最中に空から大魔法をかまされてみなさいよ。地上と違って逃げる場所がないわ。ミサスしか助からないわよ」
「あ」そのことには気がつかなかった。
「船にいかないなら首都レイドに行くのはお断りね。レイドの異名を知っている?」
「知っているわけないだろ」
「犯罪都市」

それだけで避ける理由がわかったが、ご丁寧にキャロルはことこまかに解説する。

「人口に比較した殺人、暴行、麻薬流用量堂々の世界一、行方不明者、失踪者は比較するまでもなく世界一。世界に名高い悪意と暴力の街。用もないのに行きたい?」
「行きたいわけないだろ」
「常識的な回答でよかった。あたしだって行きたくない。一人で行くのならともかく、この大人数で行って熱しやすい剣士と非常識の異界人とぼけぼけのエントをあらゆる犯罪から守りとおせる自信がない」

そう並びたてられるとなんだか俺たちはキャロルにすごい迷惑をかけている気分になる。いや事実迷惑をかけているだろうけど、それでも時には剣で大奮闘のイーザーや落ちついた心と不思議な精霊術と間違いなく人外の腕力のウィロウはまだ助け返している。一方で俺はどうだろう。考えると人生がむなしくなってきた。

「どうしたの、いきなりうなだれて」
「俺っていいところないな。情けない」
「いやね、アキト」

キャロルは思いがけなく優しい顔になった。

「そんなのはじめっから分かっているわよ」

こうくるのはわかっていたが、さらに悲哀と虚無を感じた。

「キャロル、俺が絶望して首でもつったらどうする気だよ」
「この程度で絶望には遠いわね。大丈夫よ。アキトの能力もアキトができることもたいしてないけど、あたしたちがアキトのそばにいるのは、アキトが好きで人柄を認めているからだから」

しれっとそんな風に持ってこられると照れてしまう。まずいことにキャロルは暗いところでも昼間と同じようにものが見える、暗視の力があるから表情とかがさぞよく見えているだろう。俺は顔をそむけた。

「アキト。探しました」
「ウィロウ」

髪がちんちくりんにあみこまれたウィロウは、のんびりしたエントにしてはかなり急いでよってきた。背後に金のガチョウのごとく根かじりの一族を引きつれてはいるものの、実質的に一人だった。

「その髪どうしたの。あみこんだのはじめて見るわよ」
「根かじりの一族にいじくられました。私の髪は実際に人間の髪とは少し異なり、感覚があるので結ばれると痛いのですが話を聞いてもらえませんでした」
「話し方がおそいからよ。今ほどいてあげるからじっとして」
「助かります」

腰かけたウィロウの若草色のキャロルは器用な手つきで一つ一つほどいていった。こうしてみるとどっちが年長者だかわからない。

「アキトはいつキャロルと一緒になったのですか?」
「ついさっき。歌を聞いていたら見つけた」
「フォールストがいないようですが、移動したのですか?」
「そうそう。ミサスの真似して森のほうへ行った」
「うわさをすれば」

またたく間に髪をほどいたキャロルが指をさす。その方角にはたしかに青い人物がいた。息を切らして走ってくる。「おかえり。どうした、変な虫でも踏んだか」

全力疾走にしてはおそい到着だった。肩で息をするフォールストは、口を呼吸のみに使用して意思表示は首を横にふることではたした。キャロルがさしだした飲みかけの果汁杯を一息でのみきりむせる。

「た、大変っ」

背中をたたかれながらそれだけしぼりだした。あくまでも俺はのんきに聞きかえす。踏んだのは虫じゃなくて小動物の死骸だったのかもしれない。

「大変ってなにが?」
「あのね、ミサスが」
「ミサスがどうした?」

はじめフォールストは光ささぬ森の中で遠くの喧騒を楽しみながら適当に歩いていた。すそを引っかけたり転んだりも愛嬌、そう遠くには行かずにのんびりしていた。

しばらくして高い木の頂点の枝にいたミサスを見つけ、自分も負けじとよじのぼり、幸運にも落ちなかった。

「景色はどう?」
「よくわかったな」

ミサスが口をきいたからには本人なりに見つけられたことを驚いたのだろう。俺だってびっくりだ。よく夜中の森で黒しか着ていないミサスを見つけられたな。

「根かじりの麦酒を一緒に飲もう。おいしいよ」

差しだされた杯をミサスは拒まなかった。しばらくミサスとフォールストだけで酒盛りは進行する。しゃべったのはフォールストだけでミサスはあいづちひとつうたなかったのだが、それでもフォールストは満足だったらしい。酒はすすんだ。

「あ、あれはなんだろ」

フォールストが空を見あげた。杯の中の麦酒がこぼれる。

「あれ、いない。気のせいかな」
「なにを見た」

ミサスがようやく口をきいたことがうれしくて、フォールストは深く考えず見たままを話した。

「影。背はウィロウくらいあって手足をだらりと下げて宙を浮いていた。羽はないし、きっと見間違いだね」

フォールストはもう一度夜空を凝視したが、もうわからなかった。

「変なもの見たな。酔ったのかも」
「フォールスト」

ミサスは小さく魔法の言葉を口にし、枝にまぎれていた槍をつかんだ。背中の漆黒色した翼が夜にひろがり溶ける。

「すぐにキャロルに伝えろ。ウラスの道士が影をひきいてきた」

「嘘だ」

フォールストが嘘をつく理由なんてひとつもないのにとっさに俺は叫んだ。すぐに受けとめられない。

「本当本当。ミサスがそんな風に命令するなんてすごくまずいことが起きたんだなって思って、枝から落ちて走ってきたの」
「ミサスはどうした!?」
「わからない。すぐ降りたから」
「キャロル」

ウィロウが声をかける前からキャロルはどうすればいいのかを導きだしていた。

「あたしはイーザーを探す。ウィロウはアキトを守りながら荷物を持ちだす。フォールストは地下道の偉い人にこのことを伝えて」
「なんて?」
「敵がきたって」

誤解の入りようがない、まるでミサスのように簡潔な言葉だった。やっとフォールストが青ざめる。ウィロウが言う。

「わたしたちがばらばらになってしまいます。どのように今後合流しますか?」
「落ちあう場所を決めよう」
「私たちはここの土地に不慣れです」

キャロルはいらだって地面を足爪で引っかいた。柔らかい草がえぐりとられる。

「あたしは把握してもあたし以外は覚えていない。ちっ、落ちあう場所はここ! 今すぐ覚えて、じゃあがんばって逃げてね」

キャロルはきびすを返して走った。根かじりの素朴な獣人が親戚が血相を変えて走るのをなにごとかと見送る。夏至の祭りはあいかわらず盛況でみんな楽しんでいたが、俺たちはもうそんなことは目に入らなかった。

「あの、わたしはどうしよう」

フォールストがまだ事情を理解しきれない。

「キャロルの言ったとおり、このことを根かじりの一族まとめ役に伝えてください」
「このことって」
「異世界ウラスの道士がすぐ近くまできていることです。その魔道士は私たちと敵対しています」

ウィロウにしてはわかりやすい説明だった。

「わ、わかった」

声も身体もふるえながら、それでもフォールストは祭りの中心へ走りだす。

「アキト、この場所を覚えましたか?」
「なんとか。でも動けばすぐに忘れそうだ」
「私も覚えました。覚えつづけるよう努力しましょう。では先ほどおきざりにした旅道具を持ちだしましょう」

ウィロウは落ちついてこれからを話す。その背中で森が巨人のようにゆれうごいた。

「う、ああ。ウィロウ」

いつの間にいたのだろう。どうして俺たちは気づかなかったのだろう。よく晴れた夜空には無数の影がいる。人のできそこないのようないびつな姿が星をさえぎる。異常に気づいた根かじりの一族たちは空を見上げてざわめく。かろうじて人型をしているものの人間とはかけはなれた影はいっせいに襲いかかる。俺たちへきた影はほんの一部で残りは思い思いに人々へ襲いかかった。楽しいお祭りが一瞬にして戦場になり、皿がわれて椅子が倒れる。

「でやっ!」

スタッフがない俺は持っていた杯を影を投げつける。我ながらちゃちい一撃だったが多少はひるんだらしく、命中した影は地上へ降りるのをためらうそぶりを見せる。もちろん人影は一匹だけじゃなかったが。ウィロウがのせてある料理全てを無視して卓のはしをつかみ、化け物向かってなぎ払う。甲高い悲鳴とともに影は夜に溶け消滅した。

悲鳴を上げて影から逃げまどう根かじりの一族たちを、俺は手をこまねいてい見ているしかできなかった。

「ウィロウ、あいつらの狙いは俺たちだろう。なんで根かじりまで襲うんだよ!」
「本能的に生命そのものを憎んでいるのか、知能が低すぎて個体の判別ができないのかのどちらかでしょう。あるいはなんらかの理由による命令なのかもしれません。アキト、動かないで下さい」

ウィロウは軽々と俺の鼻すぐ先まで卓を振った。気づかないうちに忍びよっていた影をおいはらうが、逆に俺は悲鳴を上げる。襟から首筋が火を投げこまれたかのように熱い。ウィロウが背中をたたいてとりついた影を払うが、俺は地面にはいつくばってもがいた。

首だけを上げてウィロウを見る。片手に卓を持って深く思慮しているように見える。ウィロウ自身も影にまとわりつかれて皮膚が焼けるにおいがしてきたが、ウィロウ自身は別のことに気をとられているように動かない。

「ウィロウ!」
「失礼します」

卓をその辺に投げすてた。ウィロウは軽々持っていたがやっぱり重いものだったらしく、派手な音を立てて卓が砕け丘をえぐる。ウィロウは自分のした結果を見もせずに俺の両脇に腕を通して持ちあげ、小動物を抱きあげるように抱きかかえ走りだした。

「ウィロウ!?」

動作がのんびりしているから足は遅いが、身体が大きいので当然歩幅も大きく、2歩で俺の3歩分は稼げる。持ち上げられててみてはじめてわかったが足はそれなりに速かった。

「おい、降ろせって! 俺だって走れるよ!」

ウィロウが答える前に視界が暗くなった。月明かりもかがり火も見えなくなり、俺は状況がつかめず固まった。ウィロウの足はとまらない。

「ウィロウってキャロルみたいに夜でもものが見えたっけ?」俺は不安にかられて肩をつかむ。
「いいえ。わたしはキャロルのように暗視はできません。わたしは暗い場所ではアキトと同じようにしか見ることができません。しかしここは森です、それもはるか昔から存在している広大で立派な森です。エントである私はこのような場所では知覚が非常に鋭敏になります」
「なんとなくわかったけど、それって勘で走っているってことか?」
「そうなります」
「降ろせ」
「妖精が常ならぬものを見、獣人の感覚が人間と比べて極めて鋭いように、一見危険ですが不安はありません。安全ですよ」
「わかったからおろしてくれぇ」

結局ウィロウがとまって降ろしてくれたのはさらにしばらく走ってから、俺一人では昼の安全な時でももう丘に帰れないような森の奥深くでだった。しばらくかつぎあげられていたので足が震えて立てず、もうしばらくウィロウにしがみついていた。

「一体どうしてこんなところにきたんだよ」

暗すぎてどこにウィロウがいるのかさえもよくわからない。適当に顔がありそうな高いところを俺は見上げた。

「それには理由があります。もう歩けますか?」
「なんとか」
「では歩きながら話します。もう少し歩くと樹冠がとぎれていて、月明かりが地上まで届いて明るい場所があります。そこでなら会話がしやすいのではないでしょうか」
「大賛成だけど影の化け物が襲ってこないか?」
「森の中でならわたしは思う存分精霊術を使えます。影たちを簡単においはらえます」
「なるほど」

ウィロウにしては珍しく、少しというのは本当に少しだった。すぐに枯れて腐った木が倒れている空間に出る。木にはしめったこけでびっしり覆われ、周辺にはやわらかそうな草やしだが生えている。まるで太陽のように月明かりがふりそそいでいて、実に絵になる場所だった。

座ってゆっくりしたいところだけど、ウィロウの目の前で初々しい植物を尻にしくのはためらう。我慢して立ったまま会話を再開させた。

「精霊術が使えるから森に入ったのか?」
「はい。それ以外にも理由があります。ここでしたらアキトが影と呼ぶ異界の存在から隠れやすいこと、また脱出したいのであればすぐに森からでて行けること。それにもしかしたらミサスの行き先も感知できるかと思いました」
「ミサス? どこにいるのか分かったのか?」
「いえ、わかりません。影の気配も感じとれません」

淡々とした報告を聞きおえて、俺は大きく息を吐いた。まだ襟首が痛いしウィロウの白い肌にも所々やけどのような跡が残っている。

「ウィロウ、俺を逃がすのに必死で自分のこと後回しにしたのか。ごめんな」
「アキトが気にすることではありません。私の肌は頑丈でそうたやすく傷つきませんが、アキトはそうではないので先にしました」
「それからさ。けちをつけるわけじゃないから気を悪くしないでほしいんだけど、俺だけじゃなくて他の人や根かじりの一族の人たちも助けられなかったのか?

すぐ逃げちゃったけど、そこにいればなにかできなかったのかって」
「むずかしかったでしょう。見ただけで20人はいましたし、丘すべてとなると百人はこえたでしょう。全員を守りきるのは不可能です。

「そっか。悪い」
「アキトは自分が根かじりの一族を巻きこんでしまったと考えているのですか?」

直球かつ図星すぎて俺は肯定できなかった。

「しかしアキトが気にする理由はなにもありません。アキトが意図的に巻きこもうとしたわけでも、もちろん襲おうとしたのでもありません」

その通り。でもそうおさまらないのがある。

「でも、もし俺がいなかったら祭りはなにごともなく楽しく終わっていただろ」
「仮定の条件で現在を推測するのは不毛です」
「それに」

背伸びをして身をのりだした。

「俺がいたせいで、無関係だった響さんまで巻きこんだ。響さんはなんも悪いことをしていなかったのに。俺のせいだ」
「アキト」
「よく考えればあの街だって、えっとクレイタだってそうだ。そもそもウィロウだってイーザーたちだってそうだ。俺のせいでこんな危ないことに巻きこんだ。俺はいやなんだよ、これ以上他の人を巻きこむのは。響さんと会ってからずっと考えていたんだ。俺、本当はいない方がいいんじゃないか」

俺の口はとめどめもなく動く。自分の意思をはなれてとまらない口は、そっと手の甲でふさがれた。穏やかで知識あふれる深緑の瞳が笑う。優しく自然な微笑みだった。

「そんなことを言わないでください。私はアキトが好きですので、アキトが自分を否定すると悲しくなります。そのように考えてしまうのは無理もありませんが、それは正しい考えではありません。自分を否定しないでください。やめられないのでしたら、私のためにその考えを捨ててください」

俺はウィロウの手をそっと押した。

「ウィロウ」

聞こえるかどうかわからない小さな声だった。それ以上をだせない。

「ごめん」
「はい。ではアキト、これからどうしましょうか」

いきなり現実感覚が戻ってきた。そうだった、どうしよう。

「ここだったらウィロウは強いけど、じっとしていてもどうしようもないよな」
「他の人たちの様子が気になります。影も森には入れないのでしょうか、いませんね。一回根かじりの丘まで戻りますか」
「うん、キャロルが心配だ」

俺はウィロウを見上げる。背中の陰がゆらいだ。

「あれ?」

なんで天高い月明かりで背中に長い影ができるのだろう。どうしてウィロウは直立しているのに影は踊るのだろう。

「ウィロウ、後ろ!」
「え?」

ウィロウは後ろを向いた。そのまま肩から切りさかれた。


身をよじらせたままウィロウはくずれおちる。肩からけさがけに切られ傷は腹まで達していた。前のめりに倒れた身体はみじんも動かず、完全に切りさかれた肩は血は流れていない。俺は腰から地面に落ちた。足の力が入らない。

「ウ、ウィロウ」

駆け寄って声をかけて助けないといけない。やることはわかっているのに手も足も動かない。舌は乾いて声はでないし、今この目で見ていたはずなのになにが起きたのかわからない。

うつぶせにふせたウィロウをまたいで、影は俺へ向かってくる。月の下へすすむにつれて影の姿が変わっていく。ウィロウと同じだった身長が縮み、くずれそうにいたんだ灰色の法衣をまとう。

(一人)

動かない。逃げなければと思っているのに俺はなにもしなかった。

(これで宿命はさまたげられる。すべては終わった、ラスティアが勝利した。だがまだだ。完全に宿命をさまたげないといけない)

空であるはずの法衣の腕が俺へさしのべられる。闇しかない法衣の顔は俺しか見ていなかった。

「あ、あ」
(宿命の者。ラスティアの敵)

ウラスの道士の手の先に凝縮した闇がゆらめいた。

(死ね)
「魔道ではけして傷つかない呪い。間違いなくミサスは言いました」

切られていない左腕がウラスの同士の胸へ迫りひきよせる。ウィロウが、人間だったら絶対に生きていないはずのウィロウが、エントだからって死にかねない重傷で絶対に動けないはずのウィロウが。エントらしからぬ敏捷な動きで起きあがる。

(道しるべ!)
「ならば精霊術は有効のはずです。精霊術は魔法ではありません。私はあなたを傷つけることができます」

でしたら私のやることは一つ。ウィロウはなにもかも理解したような、静かな表情だった。

左腕に力がこもる。ウィロウの内面から、けして俺には見とれないなにかが解きはなられ暴れはじめた。

(道しるべ、なぜだ!?)
「わかりました」

ウィロウの髪が、力なくたれている右腕がむきだしの左肩がぼんやり光る。

「やっとわかりました。私がここにいる意味が、私のすべきことが、私のあり方が。私ははじめからこうするためにいたのです」
「ウ、イ、ロウ」

俺の声はかわいてかすれて小さくて、俺ですら聞きとれなかった。

「アキト、ここでお別れです。私は自分を媒介にウラスの導師を封印します」
「ウィロウ!」

封印。そう古くもない記憶がよみがえる。樹の封印を受けたものは最終的に消滅する。身体の一部によるいけにえが必要。ウィロウ? ウィロウ!

(放せ、放せ、はなせぇぇぇ!)
「放しません。けして放しません」
(自分を犠牲にして、我を滅ぼす気かぁぁ)
「そうです。私の役割です」

今のウィロウは光そのものだった。両足で大地に立ち、戦士に聖母のように。片手でもがき叫ぶ道士を抱きしめる。表情はまぶしくて直視できなかったが笑っているようだった。

「ウィロウ、ウィロウ、ウィロウ! なにやってるんだ、よせ、やめろ、やめてくれっ!」
「アキト、そんなことを言わないでください。 困ってしまいます」

足だったものが代わっていく、腕だったものが変化する。若草色の髪が風もないのに動く。森のあちこちから蛍火がつどい集まり、ウィロウの元へ訪れて光がまた強くなる。

「困ってもいい、手を放せ、そいつを放せ、術を使うな!」
「アキト」

どこが口でどこが顔か、もう俺には分からない。

「アキト、アキト。宿命の者。あなただったのですね」

俺は目を見開いてウィロウを見た。明るさに目がつぶれてもいい、本気だった。

「ごめんね。どうか、どうか悲しまないで」

道士の悲鳴がはるか遠くに聞こえる。無理だ、そんなこと絶対に無理だ。

「母上」

ウィロウの全身が膨らむ。

「母上! 大樹海に住まう樹竜リンネよ!」

はじめて、感情をあらわにしたウィロウの声だった。

「お願い、お願いです。私に使命を果せる力をください。アキトを、アキトたちを守って!」

――閃光が破裂した。

ありとあらゆる音がきえて、闇の中に一人たたき落とされた。

風がかすかに髪をなでる。俺は動かない。

月明かりに目が少しずつなれる。もう何もうつさないと思っていた瞳に柳がうつった。若木は風もないのにだれかの髪色の葉をゆらして俺のほおにふれた。


「アキト」

どれだけ動かずにいたのだろう。俺は動こうとした。でも身体中きしんでできなかった。

「影は消滅した」

いつ消えたのか。俺にはよくわかったけど言わなかった。一歩踏みだした足音がする。一体彼はいつきたのだろう。

「イーザーとキャロルには会った。ここにくる」

なんでここにくるんだろう。わからなかったけど聞かなかった。動かず話さずの俺をおかしいと思ったのか、また先に話した。

「影の消滅の同時刻、ここで発光と魔力のうねりがあった」

それでここにきた理由なんだろう。ほかには俺には思いつかない。全ての感情がこぼれ落ちたかのように俺は無反応だ。

「……ウィロウは?」

永遠に動かないだろうと思っていたのに痙攣した。全身に血がよみがえる。口が重い。

「ウィロウは」

ひどくゆっくり俺は振りかえる。月の下でミサスは、俺たちにしか見分けられないほどかすかに困惑していた。

「ウィロウはぁ」

不意に目のはしから涙がこぼれた。そのまませきを切りあふれてとまらない。俺はミサスの細い肩にもたれかかるように手をかけてくずれた。

「ウィロウは、あ、あ、うわあああ!」

意味のある言葉を忘れた。俺の重みでミサスはよろめき危うく転びそうになったが、俺はよりかかった。

「うわああぁ! う、う、あああ……」

遠くからイーザーが走ってくる。俺を指さして後ろのキャロルになにか言っている。ミサスは動かなかった。

月明かりがふりそそいで、倒木やこけや草やしだ、優しくそよぐ柳の若木を照らしていた。