「おかえり秋。声が死んでいるわよ」
「疲れたんだよ」
俺は帰りを待ってくれていた姉さんのかわりに時計を見た。9時すぎている。
「朝6時に出て夜9時に帰る。15時間は学校にいたのか。労働基準法違反だ」「なによそれくらい。大学では夜の12時回らないと家に帰れない人もいるんだから」
「俺は高校生だ。風呂入って寝る」
じつのところ俺は口で不満を言うよりも疲れていなかった。カーリキリトで労働基準法どころか基本的人権真っ青の長時間運動をしているせいか、適当に軽口をたたける余裕がある。
「明日も文化祭あるんでしょう。私も行くよ。秋のでる劇何時に始まるの?」「俺はでないぞ。えっと、12時50分に新体育館でやる。明日は1回だけ。朝錬もないからゆっくり寝られる」
「寝過ごさないようにね。なにかおすすめの食べ物ある?」
「1の3のお好み焼きはうまくなかった」
「秋のクラスでしょうが」
姉弟の交流が一通り終わり、文化祭案内冊子を片手に布団へもぐるころ、今まで静かだった声が再び話しかけてきた。
(明日はなにを見る気だ?)「1年8組のもち焼きがうまいと評判だ。なんとしても食べる。2年生のお化け屋敷とか迷路は全部回るぞ」
(なんだかんだでのりのりだな)
「いいだろ、別に」
からかわれ続けるかと思ったらそうでもなかった。冊子に蛍光ペンで印をつけるのもそこそこに俺は寝た。
翌日。まんまともち焼きを購入して、昼飯代わりに中庭で食した。一見やわらかいたこ焼きだけどたこのかわりにもちが入っていて、熱々でおいしい。評判どおりだった。
今日は日曜日だからか、昨日よりもさらに外部の人間が増え、外を歩くのにも人並みを見ぬいて流れにのらないとおしながされる。俺はもち焼きにマヨネーズをたっぷりつけて食べながら普段の学校とはまるで違う様子に飲まれていた。
「後30分か。そろそろ行かないと」(お前には一緒に文化祭をまわる友人もいないのか)
声、お前は俺の母親か。「たまたま、偶然だよ。関口はお好み焼きで忙しいし」
(夏輝はどうした)「高校生にもなって姉さんと一緒に歩けるか」
空になったもち焼きの箱を燃えるごみに入れて立ちあがった。
体育館裏からこっそり入った俺は、実行委員たちが台本も見ずにかたまってひそひそしているのを見た。昨日よりはるかに不安そうな桜木さんが俺を見つけてそっとちかよる。
「どうしたんだ?」「大谷くん、響先輩今日見た? まだこないの」
「……うえ?」
今劇開始15分前。俺みたいな役なしは15分前でも5分前でも、実を言うとこなくてもいいのだけど役者は違う。30分前にはきて準備をしないといけない。現に響さんのぞく全員はもう集まって衣装を着替えている。
「見てない、けど」「今日響先輩を学校で見た人いないんだって」
「嘘だろ。じゃあ今日先輩休みなのか?」
「たぶん」
「どうするんだよ、劇。主役が休みなんて公演できないじゃないか」
桜木さんに言ってもしかたがないことだけど言わずにはいられない。さらに不安そうな顔になった桜木さんがなにか言うより先に荷沢さんが舞台わきへ入ってきた。
「響のクラスへ行ってみた。やっぱり今日見た人いない」「さっきから携帯に電話しているけど電波の届かないところにいるみたいだ。でない」
「本当にお休みなんですか? 響先輩こないんですか?」
盛大な拍手がおこった。前の劇が終わったのだろう。後10分、主役不在でこの時間は短すぎる。泣きたくなるほどあせってきた。どうするんだおい。
「先輩、どうしましょう」「劇中止か?」
「もう間に合わないよ」
荷沢さんは青ざめていた。震える唇をかむように一文字にむすぶ。
「中止にはしない。代役を立てる」「だれが代役を立てるんです、一番むずかしい役なんですよ。それを練習なしに」
桜木さんがとめようとする。無理もない。
「私がでる」半分驚いて半分納得した。今役を持っていなくてかつ主人公の長いせりふを覚えていそうな人はシナリオを書いた荷沢さんしかいなかった。
「先輩、でも」俺が名前を知らない1年生が手を上げる。
「最後のアクションシーンはどうするんですか。あんな複雑な動き練習なしじゃできませんし、そもそも運動量が多くて途中で息切れしちゃいますよ」響さん自身運動神経がいいので難しい動作でも結構こなした。だから荷沢さんが調子に乗ってどんどん付け加えた。きっと今では当人意外がやろうとしたら失敗の連続のすえ肩で息をしながら舞台への階段を上るはめになる。ちっとも格好よくない。
「荷沢さん、体育の成績はどうですか」「実技は並の下」
ますますだめそうだった。荷沢さんは唇をかみしめ床を見る。不意に顔をあげた。俺と目があう。
「アクションシーンは大谷くんにまかせる」(……思いきったな)
すぐに返答できたのか声だけで、実行委員総員23人はそろって絶句した。
「荷沢先輩、それは少しむずかしいですよ」永遠に続くかと思った空白の時間後、桜木さんが非常にひかえめに発言した。肝心の俺は口を開けども言葉がでない。
「大谷くんは劇に全然参加していないんですよ。10分前、もう5分前ですよね。演劇部員というわけでもないのにいきなりクライマックスの主人公なんて無理ですよ」「大谷くん、運動神経ばっちりよね、痴漢退治だってできたんだよね。もう一回やってよ。とにかく細かいところはいい、大立ち回りして敵をけちらして、格好よく皇帝をやっつければいいから。この際台本無視してもいいから」
「荷沢、無理だって」
金色の皇帝衣装を着た3年生が、つけひげをもごもご動かしながらとめにはいった。
「後輩を困らせるなよ」「でも、大谷くんならできそうなんですよ! できそうなのは大谷くん以外いないんですよ!」
我慢の限界だったのか、荷沢さんは先輩にくってかかった。
「今ここにいる全員が役持ちで、ほとんどクライマックスにも登場するんです。しない人は女の子ばっかりで、あんな運動どう考えてもできないんです! 今ここにいて、大げさな運動ができて、クライマックスにでることができるのは大谷くんしかいないんです! あんなに練習したんですよ、毎日話しあって遅くまでのこって大変だった。それなのにここであきらめるのは、途中でやめるのはあんまりじゃないですか! あんなにみんなでやったのに」荷沢さんは何回もまばたきをした。目がうるんでいる。
(選べ、秋人)どんな顔をしていいのかわからない俺に声が告げた。
(もちろんお前は拒むことができる。無謀さを指摘して自分のいたらなさを告白して、この場から走って逃げだすこともできる。これは義務ではない。願いを断ることができる。しかしお前にしかできないことだ。他のだれにでもない。今、ここでまぬけ面をさらしている大谷秋人にしかできないことだ。イーザーやキャロルや響修にはできない。今ここにいるお前にしかできない。
さて、お前はここでなにを選ぶのだ?)
俺は口を閉じた。いつのまにかすっかり干からびている。
初めて実行委員会に参加してから色々あった。いいことはほとんどなかった。朝早くから夜遅くまで事務仕事をして書記ノートとにらめっこした。演劇のどうだっていいようなことを長時間かけて決めて、くる日もくる日もダンボールの銃を組みたてた。遅くまで学校にいたせいで泥棒にもあったし本当にろくでもない日々だった。
役員4人でたわいないおしゃべりをしたことを思いだした。全員で海にくりだしたこと、昨日劇に見入ったことを思いだした。
「やります」少しは楽しかったこともあったし、楽しみにしていたことも思いだした。荷沢さんは力がぬけたようによろめいた。桜木さんが信じられないと俺を見上げ、怒ったように目を細める。え、なんで?
「ありがとう、大谷くん」「いいのか?」
3年の先輩が心配そうに台本を渡す。
「きかないでください。よくないけどやるしかないじゃないですか」劇をだいなしにしないために、今までの苦労を無にしないためにやるしかない。できるかできないかは二の次だった。
「決定。大谷くんは今からみっちり台本読んでいて。時間がない、気合を入れていくよ!」台本はさんざん使いこまれて汚れていた。はじまりのブザーが体育館に聞こえる。俺は死刑執行の合図の音に聞こえた。
「むずかしい、むずかしすぎる。無理だ、こんなの絶対無理だ」
(もうおそい。泣きごと言うよりも早く覚えろ)
「なんで響先輩こないんだ。今からでもこないか」
(こないから代わりにお前が壇上に上がるんだ。わかっているのだろう)
劇はもう半分以上すすんでいた。裏方や今登場していない役者が俺を遠巻きにしている。顔をあげなくても一様の不安を肌で感じる。こいつで大丈夫かとそろいもそろって思っているんだ、間違いない。自分で言いだしたこととはいえ俺だってそう思う。
(なあ声、俺が前半分覚えるから後ろ半分覚えてくれないか。本番俺に教えてくれよ)(その方法だと動きがずれるぞ。くだらないことを考えずに早く覚えろ)
「おぼえられるか。動作なんだぞ、せりふじゃないんだ。今すぐここでじっと読んで覚えられるか」
俺は左壁に軽く頭をたたきつける。後何分だ。5分か3分か。それまでこれ全部覚えてさらに演じることができるのか? 理性と常識がきっぱり無理だと答える。
(いや、でも一見無理でもやってみないとわからないはずだ。カーリキリトで絶対だめだと思ったけどうまく行ったことがいくつもあった。やってやれないことはない)(しかしここには頼りになる仲間はいないぞ。失敗しても尻拭いはしてくれない)
(やっぱりだめだ、きっとだめだ。格好つけずに断ればよかった)
「大谷くん」
「一夜漬けならぬ30分漬けなんて。え、桜木さん?」
自分の出番が終わり、もう楽にしていてもいいはずの桜木さんは俺よりもこわばった顔つきだった。ちらちら舞台を見ながら缶の紅茶を持っている。
「のむ? 緊張がほぐれるよ」「のむ」
茶をのんだぐらいで落ちつかないと思っていたけれども、気がつけばろくに舌がまわらないほど乾いていた。缶を開けて口につける。今さっき買ってきたばかりのような午後の紅茶ストレートは口の中を麻痺させるほど冷たかった。のどから全身の熱がひき、いつのまにかかいていた背中の汗がおさまっていく。
「ありがとう。買ってきてくれたのか?」「うん、まあ」
「いくらだった?」
「いいよ、お金は」桜木さんは遠慮した。
「そういうわけにも行かないだろう」
「いいって。もうかばんを取ってくる時間もないし」
あ、そうだった。
「そろそろです、大谷さん」たった今まで舞台に立っていた女の子が俺に現実を思いかえさせた。くつろぎが瞬時にふきとぶ。缶をおいてたったとき足は震えていた。動揺のあまり桜木さんに礼を言うことも忘れた。
「こっちへ」白いレジスタンスに扮した俺たちはこっそり裏からでて体育館の出入り口へかけあしでまわった。手にした高周波ブレードである棒きれはいつも持っているスタッフよりはるかに軽く、やけに不安にさせる。ほかの出演者たちの目が痛く、俺はいっそ貧血で今倒れたほうが楽になるんじゃないかとさえ考えた。通りすがった一般客が不思議そうに俺たちを見る。
「大谷。そろそろだ、開けろ」乱戦の火蓋を切るのがほかならぬ俺だったりする。客の意表をついて後ろの一般席から扉を開けて入り、俺に続いてレジスタンスがなだれこみ戦闘に入る。俺の責任は最初から重要だった。
覚悟も決まっていないまま台本に書かれていた通り両開きの扉を押した。とたんに三方からスポットライトがふりそそぎ、まぶしさに一瞬盲目になる。そのおかげで体育館中老若男女全ての視線が向けられたことに対して鈍感でいられた。
スポットライトにひるんでいられる時間はあまりにも少なかった。背中からレジスタンスが押しよせ前から黒い鎧の帝国兵がダンボールの銃を向ける。
今までこんなに真剣に本を読んだことはないとばかりに読みこんだ台本を思いかえし忠実に従った。かがむように低い態勢をとり銃へ切りつける。銃はいかにも軽そうに宙に舞った。
予定では立って前へ走ろうとして、数歩すすんでから今の帝国兵士が剣をぬいてかかってくるから受けとめて、3秒つばぜりあいした後ねじふせる。俺の記憶は完璧だった。あんな短い時間でよくできたものだ、やっぱり真剣になると違うんだろう。
俺は肩ひざから立とうとした。動作が終わらないうちに兵は剣で切りかかってくる。え、待て、おい。予定と違うぞ。
きっと向こうも緊張していてうっかり間違えたのだろう。ささいなことだったが一杯一杯だった俺は虚をつかれ、頭の中のあった台本が真っ白になるのを見た気がした。目の前に作り物の刃が迫る。とっさに俺は行動した。相手の刃より早く、転ぶように一歩左足を進めて相手の手首へ高周波ブレードを当てた。
(手を抜け秋人。彼が怪我をする)声にいわれなかったら俺は全力で切りかかっていた。あわてて力を抜いたせいで思いのほかへなちょこになった一撃に、それでも相手は倒れる。俺はその横をすり抜けて前へ走る。走りながら俺は冷や汗が全身からふきでるのを感じた。努力してつめこんだ台本はいくらがんばっても思い返せない。
まずいまずいまずい、ピンチだ絶体絶命の危機だどうしよう。思い返そうにももうひとかけらたりとも思いかえせないし、落ちつこうにも実際劇が進行して全員めまぐるしく動いている中落ちつけるわけがない。
とにかく前に進んで舞台にでればいいんだ。最低限だけ確認して走りだした。
驚く観客の顔が左右に流れる。それ以上に驚いたような帝国兵たちが立ちふさがろうとする。俺は数手組みあわせると軽く剣を当てて走った。
音楽が変わる調度に舞台に上がらないといけない。その時期がわからない。イーザーに比べてびっくりするほど遅い剣を受けとめながら俺は考えた。いつだ。
(20秒後だ)(20秒? この距離でそれはきつい!)
(のろのろ走ったせいだな。後15秒)
(でええ、間にあえ!)
歯をくいしばって走った。帝国兵が本当の敵のように立ちふさがってきたが、おれは切っ先を左手で持ち相手の体ごと受け流す。本物の剣ではないからこそできる芸当だった。肩から体当たりをして無理に走る。相手は本当にふっ飛ばされて客席の前で転ぶが、今はそれどころじゃないので気にしないことにした。
カーリキリトではなく日本でこんなに真剣に走ったのは初めてかもしれない。足よちぎれろとばかりに両足を酷使し、舞台へわたる階段を3段飛ばしでかけあがった。無茶したせいで転びそうになり、あわてて舞台を踏みしめると同時に低い音楽へ移った。間にあった。
俺の前には金色の衣を着た皇帝がいた。ひげを生やして精一杯恐ろしそうな表情をする。実は優しい3年の丸尾先輩は杖を構えてにじり寄る。俺もあらためて高周波ブレートをそれらしく持って一歩下がる。これからどう動けばいいのか全部忘れた。
(声、この後どうすればいいんだっけ?)(残念だが時間がない)
その通り、休むまもなく皇帝は杖でついてきた。俺が避けると殴りかかろうとする。はじめは秩序正しく、だんだん乱暴にでたらめに。俺はけしてはやくない杖を剣で次々に受けとめながらこの後どうするか考えた。
(いつも使っているスタッフと比べて短いかいし扱いにくい。先輩少し手をゆるめてくれないかな)(彼はお前がするべき動作をしないのでとまどっている。はやく芝居を続けろ)
(そんなこといわれても次どうするか忘れた)
うっかりしていたけど、本当は舞台の端から端へ半円を描くように動く予定だったのを俺は後ろへ一直線に後退していた。ついさっき舞台に飛びのった俺は観客席にかなり近いところにいた。
つまり足を踏みはずして落ちるのはすぐだった。もう一歩と左足を後ろへ運ぶとかかとから先がなかった。皇帝の顔色が変わり客席がどよめく。後ろによろめいた。
右足に全体重をかけ上半身を前のめりに倒す。水泳の飛びこみのように滑りこみ転がる。間をおかずに立ちあがり、目の前で後輩が落ちかけてまだ呆然としている皇帝の額めがけて高周波ブレードを叩きつける、ふりをした。
すん止めの剣を見つめ、ようやく我に返ったように皇帝は大げさな悲鳴を上げて倒れる。音響がとまり舞台全体が静まりかえった。
(台本とぜんぜん違うことしちゃった)(そうだな)
沈黙をうちけすかのようにめまぐるしい曲が大音量で踊りみだれる。やっと俺は忘れきっていたせりふを思いだした。
「皇帝は倒した、ここはもうすぐ崩れるぞっ。逃げろ!」多少は棒読みだったかもしれないけど言ったことは言った。体育館中にばっちり聞こえたはずだ。
シナリオとは違う展開に呆然としていた白いレジスタンスたちがもときた出口へ殺到する。俺も舞台から飛びおりて、一番最後にでて扉を閉じた。
まだまだ夏の太陽がまぶしくて、暗い体育館になれた目にはきつすぎる。今さらながらにひざが笑って扉によりかかる。もう立てないかもしれない。
「大谷くんっ」だれかが呼びかけた。顔を上げると荷沢さんがそこにいる。逆光で表情がわからない。怒っていないといいのだけど。
「上着返して。次でないといけないんだから急いで。まだ終わっていないのよ」正論だった。すっかり終わり気分な俺はあわてて脱ぎはじめた。
脇の控え室、舞台裏の汚いマットと平均台の上で俺は力つきて座りこんでいた。終わった。全て終わった。出番もやることももうない以上安心してだらけられる。くたびれきっているはずなのに興奮冷めず、学生服のままで動くに動けない。とっくにぬるくなった紅茶を意味もなくつかんだまま俺はぼんやりしていた。
(もう金輪際二度と演劇にでない)(そこまでこりなくてもいい。いくら素人演劇でも通常起こりえないことだ)
(事実起こっただろ。ひどい目にあった)
(自分で選んだことだ)
(そうだけど)
「大谷くん、急いで」
「え?」
ついさっきまで俺が着ていた主人公の衣装を着て、荷沢さんが手首をつかんだ。いきなり疾走するので転びそうになる。
「なんですか?」「舞台挨拶よっ」
「え?」
確かに舞台の上に連れて行かれた。壇上にはもう全員そろっている。荷沢さんは強引に俺を先頭真ん中まで連れていき「OKよ」合図をする。即幕が上がり、再び俺は客席という名の暗い海の前に立ちほうけることになった。追い討ちをかけるように爆発するかのような拍手が起こる。わけわからないまま周りに合わせて頭を下げた。
(なんだなんだ)(舞台挨拶だ。知らないのか)
(いや、知っている。知っているけど、でも俺代役だぞ、Yシャツだぞ)
(役を持った以上挨拶にでるのは当然だろう)
(当然か?)俺は演劇については完全素人なのでわからないが、でるとは思っていなかったのでひたすら驚いていた。拍手はなかなかなりやまない。
(上々の評価だな)
(主役、荷沢さんと俺なのに?)
(その上でだ。少しはお前の手柄だぞ)
嬉しいというより信じられない。代役で、しかも肝心のクライマックスがあのざまで拍手されるなんて。ぼんやりしているうちに幕は下り、最後の挨拶は終わった。
実行委員会の面々は群れて舞台裏へおり、おりたとたんに大声で抱きあったり手を叩いたりと狂喜乱舞の様子を見せた。恥ずかしげもなく泣きだす人もいて、ぼんやりしていた俺は波にのりおくれひとりとりのこされる。
「えっと」「やったよ大谷くん!」
荷沢さんが俺の手を取り振った。踊りだしそうな喜びようだ。
「うまくいった! あの拍手聞いた? 大喝采だよ。どうなるかと思ったけど成功した!」「はあ」
「今までずっとずっとがんばってきたけど、とうとう全部報われたの。よかった、本当によかった! 特に大谷くんはいきなりだったのに演じてくれたね。うまかったよ、最後の最後まで本当にありがとう!」
「はい、ええ」
正面きってほめられると照れてしまう。どう言っていいのかわからず、俺は曖昧な返事をした。
「次の演劇があるから荷物を持って控え教室に戻ろう。片つけは明日の10時から。今日はこれで終わりです。お疲れさまでした!」「お疲れさまでした」
手に手に道具を持って、次のクラスの邪魔をしないようにそっと退散した。暗い体育館では立派に見えた芝居衣装も日の下ではかなり荒くて安っぽい。そんな集団がどやどや走っているのを一般客が珍しいものを見るような目で見た。俺は制服でよかった。
荷物を置いてかばんをつかみ、これからどうしようかと考える。しばらく休んでいたいけど文化祭が終わる前にもっと見て回りたい。どうしようかと計画を練っていると桜木さんが舞台衣装のままそっと教室をでて行くのを見た。
そういえば俺は紅茶代をまだ払っていなかった。財布から110円だして追いかける。教室外で明らかに周りから浮いた衣装の桜木さんへかけよって肩を叩こうとした。
「秋! 劇見たわよ!」実に悪い時に悪い人とあった。俺と桜木さんが向いた方向には俺と同じ顔の女が気軽に笑っていた。桜木さんは俺が後ろにいたことに驚き、明らかに俺の身内の姉さんに驚く。とまどいながらもそっと俺に問いかけた。
「大谷くんのお姉さん?」「うん、まあ、そう」
「こんにちは、桜木です」
「どうも。秋人の姉の夏樹です」
「じゃあ大谷くん、私部活を見てくるからまた後でね」
「あ、うん」
手の中の110円を渡すことなく桜木さんはそそくさと立ち去った。後姿を見送って姉さんは曖昧に笑う。
「私間が悪かった?」「かなり」
「ごめん」
「いや、別に」そうたいしたようじゃなかったし。「それよりなんだ?」
「そうそう、今の劇すごかったじゃない」
気まずさをけろりと忘れて姉さんは大げさな身振りでどれだけすごかったか示した。
「まさかでるとは思わなかったから驚いたわよ。デジカメ持ってこなくて損したわ。一世一代の大舞台じゃない、どうして昨日嘘ついたのよ」今の劇が俺の生涯一番華やかなことかい。俺はこれからどんなしょぼい人生を送ると思われているのだろう。
「嘘ついたわけじゃないよ。ちょっと手違いがあって」「感動したわよ。ねえ、せっかくだからいい屋台案内してよ? どこがいいの?」
「いいけど」
身内をつれて校内をうろつくのは格好悪いがいやといえない。どうか友だちに見られませんようにと祈りながら人並みの中に飛びこんだ。
夕暮れになり日がかたむく。文化祭は終わり後夜祭へ移りゆく。アナウンスが流れ一般客は帰り、教室は閉ざされいまだ熱気さめぬ生徒たちは校庭に集まる。校庭の中央には木材が規則正しく積みあげられ、そばに灯油と消火器がおかれていた。校長先生と実行委員長の荷沢さんの演説の後盛大なキャンプファイアがあげられるのだろう。
俺は一人疎外感を味わっていた。荷沢さんの堂々とした演説も耳に入らない。俺をのぞく全生徒が仮装していたからだ。
劇の衣装、ヨーロッパやアジアの民族衣装、きぐるみや和服、すごいのになると男子生徒の女子水着。そんな中で制服の俺はある意味とても目立っていた。
「仮装するなんて聞いていないぞ」「大谷今までなにを聞いていたんだ? 気合の入った人は春から服を作っていたっていうのに。知らなかったのかよ」
「知らなかった」
黒の外衣でヴァンパイアを気どる関口は「まじかよ」とあきれた。俺だって自分に今までなにをしていたんだと問いただしたい気分で一杯だった。
『それでは後夜祭を始めます。皆さん火に近づきすぎないように楽しんでください』荷沢さんの長い話は皆が一番聞きたかった言葉で締めくくられた。木材のそばにいた教師たちがたいまつを投げこむ。もともと灯油をかけていた木々はすぐに大きく燃えあがり、校庭にいくつものゆらめく影を投げかけていた。大音量のマイムマイムが設置されていたスピーカーから流れる。
「大谷どうするんだ?」「帰る」
独りだけ制服ではとても後夜祭にのめりこめない。劇でくたくたに疲れたし、後夜祭は実行委員会ではなく教師の管理下だからいなくても問題はなさそうだ。帰って寝よう。
「明日片づけさぼるなよ」「さぼらないよ」
関口にそっけなく挨拶をしてすごすご帰る。
「あ、110円」せめてこれだけでも桜木さんに渡そうかと思ったが、肝心の桜木さんが見あたらない。この人の中を探すのも骨が折れそうだし、それも明日でいいか。
(疲れた疲れたと、運動量はカーリキリトの普段にも満たないだろう)「いいんだよ、普段の生活と違うということはそれだけで疲れるんだ。帰って風呂入って寝る」
(老人のようだな)
「別にいいだろ」
日暮れだというのになお騒がしくなる学校を後にして、俺は自転車で帰宅した。
「ただいま」返事はない。どうせ両親は仕事だし先に帰ったはずの姉さんは寄り道しているのだろう。久々に静かな家だ。
自室の扉を閉めたとたん、急に世界が回った。
「げ、今!?」(そうだ、行け。今日とは比べものにならないほど向こうは大変だ。覚悟をしていろ)
それを最後に俺の意識は闇へ閉じた。
カーリキリトでも大変だった。正規の街道へ通じる橋が落ちたので遠回りのわき道を通らなくてはいけなかった。初めてここに来たときと同じような深い森の中、森へともどりつつある道を歩く。天候も今の気分にふさわしく重い雲で旅路は遅々として進まなかった。昨日文化祭で感動をまきおこしたかと思えば今日は遠い地の森を歩いているなんて、なんて複雑なわが身の上だ。分かっていたことだが改めて自分の複雑な立場をかみしめた。
四畳半ほどの、それでも開けた空き地に着いたとき一休みをキャロルが提案した。ありがたい。
「ウィロウ、森を抜けるのにどれくらいかかりそうだ?」「そうですね」ウィロウは深い瞳を虚空に映した。「休息をはさんでも、日が沈む前に国境をぬけだせます」
「朝から歩きっぱなしだ。そのくらいしか支障がないならたっぷり休もう」
「そうですね。少し歩いた所に泉がわいていますよ」
嬉しいおまけをウィロウは加えた。
「いいね、実にいい。湯をわかして茶でも飲もう」「火は必要なだけにしてくださいね」
ウィロウがいかにも植物の味方らしく釘をさす。いわれなくてもだれも必要過剰な火をつくろうとは思っていない。
「私が水をくみます」ウィロウが立候補した。もちろん水がどこにあるのかわかっているのはウィロウだけなのでだれも反対しない。
「俺もついていこうか?」「お願いします」
「アキト、迷子にならないようにね」
キャロルが笑って注意した。腹が立つな。森の中で万能のウィロウがいてどうやって迷えというんだ。たきつけを相談するイーザーたちへ背を向けて憤然とウィロウの大きな背中をおった。
「まったく。そりゃ街で迷子になったことはあるけど外で迷子になったことはないはずだぞ」「野外ではたいていの人間は単独行動を避けます。よほどのことがない限り迷いません」
「前街でウィロウと一緒に迷子になりかかったことはあったよな。集団行動しても迷子になるときはなるぞ」
「そうですね。気をつけましょう」
生真面目に答えられてしまった。「アキト」
「なんだ?」「森の様子がおかしいと思いませんか?」
「いや別に」
「私はおかしい感触がすると思います」
「どこが?」
ウィロウがおかしいと思っているところを俺がわかるかどうかは不安だけど、なにかあるなら早めに聞きたい。
「そうですね。大変簡潔に言ってみればいやな感じです。直感で変だと分かっているのですが直感以外の根拠はないのです」なんだそれは。よく分からないぞ。
「精霊使いの勘か? それともエントの勘か?」「私には2つの区別がつきません」
「帰ったらキャロルに話したほうがいいな。ウィロウの勘だから警戒したほうがいいと思う」
「そうですね」
ウィロウのおかげですぐ泉に着いた。泉というより深い水たまりという感じで底は水ごけでびっしりおおわれているが、それでも水は水だ。火にかければ飲める。
「ウィロウ、水を入れる袋いくつ持ってきた?」「アキト」
おっとりしたウィロウには珍しいせっぱつまった様子で俺の肩をつかんだ。力の加減を間違えたのか、俺が声を上げるほど強い力だった。
「だだっ、ウィロウ、痛い!」「たった今人が出現しました」
「え?」
空気をきりさく音がして、ウィロウのわき腹を矢がかすめ岩にはねかえって落ちた。
「うわっ!」「なにものかに射られましたね。アキトも気をつけてください」
「どうやって飛んでくる矢に気をつけるんだよ!」
避けようがない。俺の悲鳴に答えるように遠くのほうで情けない声が聞こえた。
「いえ、射手は私が精霊で動きをとめます。弓師以外に見知らぬ人物が接近しています」ウィロウの話す速度は遅かったが俺は間にあった。木のかげから汚い男がでてくる。短刀を腰のあたりで構えている、なにをしたいのか一目瞭然だった。
「でえぇ!?」とっさに手がでてスタッフで殴りかかる。スタッフは男の3メートルは前で空振りしたが、男は突撃をやめて俺を見すえた。
「なんだ。野盗か山賊か強盗団か?」「その類でしょう」ウィロウが両手をかざす。
俺がしたことはスタッフをふりまわしただけだったけどウィロウにとってはそれで十分だったようだ。男の上空に何十ものつたがふりそそぎ、からみついて動きを封じそのまま空へ運んだ。男はなんだこりゃとかこのやろうとか汚い言葉でわめいたが、すぐつたに口をふくむ全身をつつまれて声がくぐもる。
「ウィロウ、ひょっとしてこの後しめあげて殺しちゃうのか?」「殺生は好きではありません。必要がありますか」
「ないない、全然ない」
俺だって殺生はせずにすむならしないほうが絶対にいい。でもウィロウの圧倒的な力がなければ殺生されていたのはこっちだっただろうな。
そこで俺は我に返り、一番重要なことを思いついた。
「キャロルは! イーザーは、みんなはどうした、今ごろ襲われているんじゃないのか?」「そのようです」
「ウィロウ、先に言え! 助けに行かないと、今どこにいるのか分かるか?」
「はい。3人はばらばらです。イーザーとキャロルは共に行動していましたが襲撃で離れてしまいました。キャロルは3人に追いまわされていますが獣化してやりすごしています。イーザーは一対一で戦闘に入っているようです。ミサスは2人に狙われています、今のところミサスは行動を起こしていません」
「ミサスなら2人ぐらい返り討ちにできるだろうし、ねずみに化けたキャロルなんて見つかるわけない。危ないのはイーザーだ。助けに行こう」
「はい。案内します」
強盗は宙づりのままほうっておいて、俺はウィロウをせっついた。
イーザーの元へはすぐに着いた。ウィロウの言うとおり交戦中で、到着したとき相手はイーザーのくりだす剣をよけて間合いを取った。改めて2人は対峙する。少し離れたところに馬が戦いにおびえるでもなくじっとしている。馬でここまできたみたいだ。
離れた高台からウィロウは相手を冷静に見つめ、イーザーと呼びかけた。
「ウィロウ!」イーザーはふり返らない。「無事だったか」
「はい。今加勢します」相手の男は俺たちへ視線を走らせる。少しもあわてた様子はなかった。
「俺はいい、それよりキャロルを! はぐれたんだ、先に探してやってくれ」「いえ、キャロルなら逃げきれます。今はイーザーのほうを優先すべきです」
「俺はいいんだ。一対一、剣士と剣士の対決だ。こいつは手だれだ、邪魔されたくない。手出しは無用だ」
「イーザー、それは非合理的な考えです。相手は未知の存在です。慎重になってください」
俺のひざが崩れた。これ以上立てない。倒れそうになるのをウィロウが片手で支える。
「アキト、どうしましたか」「俺、知ってる」
ウィロウの深い瞳が邪気なくまばたいた。
「なにをですか?」「その人が。だれか知っている」
これは現実なのだろうか。さっき平和に泉にいたときと連続する現在だととても思えない。目が回る、夢を見ているのかのように世界が存在感をなくし、俺の周囲のみが渦をまいてうるさい。
「なんでいるんだよ……」答えは返ってこなかった。
「響先輩」「知りあいか?」
虚をつかれたようにイーザーは聞き返した。俺は無視した、イーザーの疑問など俺の驚きに比べればないも同然だ。
はじめは本当に分からなかった。いつもの制服に比べて今着ているものは雑巾にもならないくらい汚れている。俺の知っている客観的で落ちついた表情はなく、この世の全てを警戒して身構えているような面構えが取ってかわっている。両手にはさりげなく、しかししっかりと日本刀がにぎられていた。
「だっているわけないんだ。そうだそんなはずはない。他人だ、別人だ」「アキト、どうしたというのです」
「いるわけないんだ!」俺はどなった。「おとといまで文化祭にでていたんだ! 今までずっと会っていたんだ、今ここに響さんがいるわけない!」
「いるわけないのはお互いさまだろう、大谷くん」
俺が知っている声よりもずっと低く、どこか発音が変だった。もし今そんな人は知らないと否定したら、俺はすぐ信じただろう。
否定はされなかった。
「そんな、わけはない。ありえない、起こるわけはない」「こっちのせりふだ」
彼は言った。
「どうして大谷くんは1年前と同じなんだ。なんで変わらないんだ」1年前? 最後に会ったのはおとといだ。彼は続けた。
「なんで日本語で通じるんだ? なんで大谷くんは日本みたいにのうのうとすごしているんだ? どうして…… そんなに幸せそうなんだ?」それは勝手に聞こえるからで。のうのうとなんてすごしていなくて。俺はちっとも自分が幸せとは思っていなくて……
「アキト!」俺と響さんの並々ならぬ空気にイーザーは怒ったように叫んだ。
「なんだ、こいつはなんなんだ。おとといがどうしたんだ?」「会っていたんだよ」
前が見えない。これは現実ではない。こんなことあってはならない。口が勝手に動く。
「おととい、高校の文化祭で。日本にいた時に会って話していたんだよ。昨日は文化祭2日目で、先輩がこなくて、俺が代わりに役やってやりすごしたんだ」「俺にとっては1年前だよ。文化祭の朝、普通に登校しようとしたとたん人生がひっくり返ったんだ」
響さんは一歩下がって日本刀をふるった。後ろからこっそりしのびよっていたつたを一刀で断ちきる。
「帰ったってどういうことだよ。戻れないのじゃなかったのか。アキト!」イーザーが血相を変えた。剣が自分の重みで下がる。イーザーの致命的なすきをつき響さんは背を向けて馬の手綱を取る。
「今日は大谷くんがいることの確認だけだ。この程度のごろつきなんてたいしたことはないだろう。俺はもういい」すっかり慣れきった動作で響さんは馬にまたがる。イーザーが「待て!」と血相を変えた。追おうとするも間にあわない。
「さよなら大谷くん」「響さん!」
俺は手を伸ばした。到底届かずウィロウがあわてて支える。
響さんはきたときと同じようにあっけなく行った。