三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

コロシアムへ行こう

エレニとイウリオスとの遭遇の後、大急ぎで逃げだした。

「メルストアの民は世界の規律を乱すものに対しては非常に厳しいです」

とはウィロウ。「特にイウリオスという人物には傲慢さを感じましたし、破壊活動への嫌悪が見られませんでした。周囲の被害を考えずに魔法を使うでしょう。危険な人物です。メルストアの民の伝説を考えると再会したい人物であるとはいえません」

ウィロウの両腕にやけど跡はもう見られない。ありあまる体力と自分の精霊術ですぐになおした。はじめ平気そうだったのは俺に気を使っているのかと思ったけど、どうも本当にあの程度は大したことがないらしい。雷撃が当たっても平気なんてとても種族の違いだけでかたづけたいことではないが、事実なのだからしょうがない。うらやましい反面安心した。俺をかばって怪我したのだからやっぱり気になってしまうのだけど、大丈夫なのならそれでいい。次はもっと気をつけよう。

もちろん俺も奴らには二度と会いたくない。俺たちは寝るとき以外はほとんど歩きづくめで数日間をすごした。疲れるし足が痛いしで「こんな目に会うんだったらいっそのことあの2人に会ったほうがまし」とさえ思ったのだが、「本当にそう思うの?」とキャロルにすごまれたのでおとなしくした。

でもやっぱりはじめは一致団結して歩いたものの、ずっとそのままでいけるかというとけしてそうでもない。

「これだけ歩いたのだし、そろそろのんびりしてもいいんじゃないか?」

イーザーは写した地図をさりげなくながめた。

「あん?」
「つまりだな。徒歩にしてはかなりの距離をかせいだし、そろそろゆっくり休まないと体力的につらいだろ、アキトとか」

俺がいの一番にあがったのは面白くなかったが事実だった。あれ以来日本にも一回も帰っていなくて正直きつい。

でもそれ以前にイーザーの狙いが他にあるのが分かった。俺でも分かるくらいしらじらしい。

俺ですらだませないのにキャロルに通じるわけはない。周囲の美しい麦畑をながめながら「そういえばこの先はコロシアムの街だったね」

イーザーがとっさに地図をたたもうとする。答えを大声でさけんだようなものだった。

「コロシアムってオリンピックのあれ?」
「オリンピックについて私は知りませんが、コロシアムとはすり鉢状の巨大な建物です。見世物として演劇や軽業、さらに戦闘などを行います」

ウィロウが説明する。

「見世物として戦闘?」
「はい。私には理解しにくいですが、人々は喜び興奮するそうです。戦いといっても擬似的なものにすぎず、殺傷力の少ない素手や刃のない武器を使用するので死者はほとんどでないそうです」
「プロレスとかK−1みたいなものか」

俺は理解納得した。キャロルが意地悪そうに顔をゆがめる。笑っているのだ。

「イーザー、言い訳は?」
「いいだろ、たまには。フォロー最大のコロシアムで日夜試合があるんだぞ、この街道を使うと聞いてからずっと楽しみにしてきたんだ。コロシアム闘技を見たいから、街に行かないか」
「却下」

一言できりすてられた。あまりの早さに俺は内心感動すら覚えた。

「そういうとは思っていたんだ。でもキャロル、休養は必要だ。いつまでもこんな強行軍をしていたらアキトとかがもたないぞ。たまにはゆっくり英気を養わないと」
「なら一人で養えば。あたしたち先に行くからメルストアの相手をお願い。期待しているわよ」
「それに、アキトだって見たいだろ、コロシアムの試合」
「え、俺?」

そんな急にふられても困る。俺はプロレスとか格闘技に興味はないし、賛同したら俺までキャロルに怒られるじゃないか。でも恩ある友人のイーザーにむかって見たくないなんて言えない。

友情と実益の板ばさみで返事をためらっていると意外なところから救いの手がさしのべられた。

「俺は休みたい」

最後尾で黙っていたミサスだった。久々にしゃべったので危うく声を忘れそうだったが、よく通る声は全員に届いた。

「あ。そう」

絶対にイーザーを思いやったのではないだろう発言はかなりの重みがあった。それきりまた口を閉ざすミサスの代わりにウィロウがうなずく。

「そうですね。失念していましたがミサスの種族である黒翼族は体力持久力ともに人間よりはるかに劣ります。今後のために休憩しないといつよくない形で影響がでるか分かりません」
「ったく」

キャロルは腕をくんだ。厄介に思っているようだがイーザーのように無視するわけにはいかない。

「しょうがない、滞在しよう」

イーザーがこっそりこぶしをにぎり「感謝するぞミサス」ときらめく瞳を向けたが、ミサスは完全に無視した。


街がコロシアムと呼ばれているのにあきれた。なんたる安易さ。固有名詞くらいあってもいいのにと思ったが、日本ほど交通網が発達していないここでは十分これで通用するらしい。田舎の住民が生涯どこも行かずに生きるようなところでは村の名前すらないらしい。

そのコロシアムの街は今まですごしたどこよりも荒っぽく治安が悪そうだった。イーザーより縦も横もはるかに大きい男が凶悪そうな顔をしてうろつく。腕の太さに俺は震えあがり、暗い小道には入らないようにして買ったら法律違反じゃないかと思うような露天の商品は見ないふりをした。街自体は大きくないがにぎわいは首都とためをはれる。

ありがたいことにその中でもウィロウは群をぬいて大柄だった。その後ろでもの言わぬミサスの外見も一役買っていたのかもしれない、からまれたら怖そうな人たちは俺たちをさけていった。俺はもうすっかり慣れきったのでなんとも思わないが、たしかに2人も怖そうな人たちといえた。

適当な宿(情報屋はなかった)にはいり2人部屋2つと1人部屋1つをとる。部屋で荷物をおくなりイーザーは上機嫌で「アキトも試合を見ないか、楽しいぞ」を誘いかけてきた。

どうしようか。

「金は大丈夫か?」
「高くないさ、行こう行こう」
「なら行く」

行く前にイーザーは横の部屋に入り俺と同じ質問をキャロルとウィロウにもした。厳密に言えばウィロウは女性ではないが部屋割りの関係上女性扱いになっていた。ミサスは1人部屋、ずるいと思うが余分なお金は自分でだしているので文句が言えない。

「そうですね。後学のためにご一緒します」
「冗談。なにが楽しくて殴り合いに金ださないといけないの。ここにいるわよ」

キャロルはウィロウのしとやかさをもう少し見習ったほうがいいと思うぞ。ともあれ俺たちは試合を見に行った。

コロシアムを中心に発展した街だけあって本来街の公共施設や偉い人の住居があるはずの市街地中央にコロシアムがあった。こぎたない露天や天幕が道いっぱいに広がり確実に犯罪暦を持っていそうな人たちが装飾品や魔法の小道具を売っている。非常にいかがわしかったが同時に奇妙であやしい活気にみちていた。紙一重ゆえの背徳的なにぎわいなのだろうか、なるべくイーザーやウィロウから離れないようにしつつも、俺はおもしろがって周りを観察していた。

コロシアムは白く巨大で地震でもあったらぺちゃんこになること絶対なくらいに古かった。くしゃみをするだけで天井からほこりが落ちてくる気がするけど、多くの屈強な男たちがすごい人数で出入りしているのだからそれなりに頑丈なのだろうか。入り口でウィロウ並みに大きい人にお金をはらう。あの人ただの大柄な人間なのだろうかそれとも人間っぽい異種族なのか悩んでいるうちにコロシアムのかなり上の席についた。

いすはなく立ち見で周りに大きい人が多いから見えにくい。まさかウィロウに肩車してもらうわけにもいかず、人と人のすきまから見下ろすような感じでかろうじて見物できそうだった。すり鉢の底には白い砂がしきつめられているのが確認できる。

「次は」
「人が2人でてきました。はじまるようですね」
「もう?」

ここに双眼鏡があればと思いつつ、ウィロウによりかかるように背のびした。片方の入り口から俺のよりずっと長いスタッフを持った半人半猫の女の人、もう片方からは素手のでかくてごつい2メートルこえる巨人。

「虎人だ。それにオーガ。すごい、俺虎人はじめて見た」

興奮しているイーザーを放っておいて、俺はこっそりウィロウに聞いた。

「虎人ってなんだ? それにオーガも」
「虎人とは西のファナーゼ草原国やプラダ・レクサク連合国を中心に生息する獣人の一種です。希少な種族できわめて数が少なく、そのため種族固有の二つ名も失っています。あまたの獣人の中でも戦闘能力に関してはずばぬけてすぐれています」
「すごいんだ」
「オーガは妖精の一種です。鬼とも呼ばれる大柄な種族で巨体ゆえの怪力はすさまじいです」
「ウィロウみたいなものか?」
「いっとくが、オーガの怪力は木をへしおり、エントの怪力は塔をゆさぶると言われている。エントのほうがすごいんだぞ」

イーザーの口出しに俺はなるほどとひとつ利口になった。そんなエントを足がかりにしている俺はとんでもなく怖いもの知らずなのかもしれない。

虎人がしなやかにスタッフを構え、オーガが俺の顔くらいもありそうなにぎりこぶしを相手に見せつける。中央に立っていた変な顔と変な刺青の人物が合図をするとイーザーふくむ観客がどっとわき、虎人がオーガに殴りかかった。オーガは大きな手でとめるが虎人のするどい足爪でのけりがはいる。

打つ、殴る、はらう。押しとびとめてよける。俺はいつのまにか夢中になって試合に見入っていた。虎人のスタッフさばきは美しく、剣舞を見ているようだった。とても俺とおなじ武器を使っているとは思えない。オーガのあたれば即気絶しそうなこぶしをふるってなんとか一撃当てようとするが、しなやかで美しい足さばきに翻弄されている。そしてある一点で体格差などものともしない、下から首への一撃にオーガはゆらいでたおれた。まるで山がくずれたみたいだった。中央の人物が手をあげ大声でさけび、虎人がスタッフをかかげてコロシアム中の観客向けてふりまわす。俺は観客の大半がそうであるように惜しみない拍手を勝者にささげていた。

格闘技に熱狂する人たちの気持ちがちょっと分かった。


戦いは次々に行われた。大きな男の殴りあいにいかにも強そうな獣人と背の高いうろこ人間のとりくみあい。途中に重量あげや道化師の手品など休憩時間も退屈しないよう工夫されていた。こんな調子だったから午後の一区切りには俺はすっかり疲れはてていた。ぐったりウィロウによりかかる俺を見て、ウィロウは興奮さめぬイーザーをつついた。

「イーザー。アキトは疲れていますし私も十分試合を見学しました。一足先にもどって休んでいます」
「え? ああ、そうか。気をつけてな」
「はい。イーザーこそ気をつけてください。それでは先に失礼します」

ウィロウは俺の左腕をつかんでいこうとしたので俺は転びかけた。ウィロウは動作こそのんびりしているものの、長身からくる歩幅が大きいので結構はやく歩く。おいていかれないよう俺も早足でウィロウの後についていった。

宿に戻ったらもう外出する用もないし、雑用しながら街の日がくれ夜になるのをながめていた。

コロシアムの夜は明るい。日が落ちても街の灯はきえずに熱気とざわめきがのこっている。まるで日本のようだった。

「イーザーおそいな」

俺はウィロウ特選カーリキリト共通語の基本単語一覧表を見ていたらふと夜の寒さにふれて思わず言った。ちなみに俺の共通語習得は全然はかどっていない。勝手に通訳されるので言葉が音として理解できず、あくまでも文字は机上の記号でしかない。独学でアラビア語を学んでいる気がする。

「おそいですね」

荷物ののこりを調べていたウィロウが同意する。後ろではキャロルが床にすわってナイフの手入れをしていた。

俺1人で部屋にいるのは寂しいのでキャロルとウィロウの部屋に邪魔させてもらっている。女部屋だと思うと気恥ずかしいが、ウィロウがいるから自分をごまかせる。

「コロシアムの試合は夕方にはすべて終了しているはずです」
「夜の街へお楽しみにでも行っているんじゃない」

キャロルが冷静にナイフをにらみながらつぶやく。

「って、キャロル! なんてこと言うんだ! 女だろっ」
「見て分からない? 女に決まっているじゃない」

違う、俺はそんなこと言いたいんじゃない。なんて言えばいいのか分からなくなり、俺は気まずくなって夜空に目を転じた。

「放っておいても帰ってくるでしょ。子どもじゃないんだし」

イーザーのことを言っているのだというのが少しして理解できた。そうだな。もっともな意見に俺は安心して、顔のほてりをさますために空を見上げつづけた。

「ん?」

なにか音が聞こえた気がした。部屋を見てもとくに変なところはない。空耳か。

こっ。

「なに? 外から聞こえるけど」

キャロルが不思議そうに立ちあがって窓辺によった。空耳じゃなかったらしい。

「キャロルも聞こえたのか」
「聞こえて当たり前でしょう」
「私には分かりませんでした」
「街中のエントの知覚力に期待はしていないわよ。おっと」

ウィロウを冷たく切りすてて、キャロルは軽く手を上げた。

「(どうしたのイーザー)」
「え、いるのか?」

俺もキャロルの後ろから外を見た。なにも見えない。暗いから当たり前だった。闇の中でも視力を失わないキャロルがいなかったら永遠に分からなかっただろう。

「そんなところでイーザーなにやっているんだ? 早く入ってこいよ」
「(静かにしてくれ。キャロルこっちへおりてきてくれ。助けてほしいんだ)」
「いいけどなにやったの。犯罪はばれないようにやらないとだめよ」

キャロル、ばれなきゃいいという問題じゃないと思うぞ。軽やかにキャロルは身をひるがえしてでて行った。

「なにがあったんだろうな、ウィロウ」
「分かりません。後でイーザーに聞きましょう」
「答えてくれるかな」
「聞けば答えてくれます」

イーザーが戻ったのはかなりおそかった。きっと下でキャロルにおくれた理由を説明していたのだろうなと思っていたけど、2人の表情を見て口論していたのだろうと思いなおした。口論でなければいいわけか。イーザーは困ったような申し訳なさそうな顔で身体を縮めて、キャロルは暗雲立ちこめていた。

3人目もいた。キャロルとイーザーがそれぞれ肩を支えている。ぐったりしていて意識がなさそうだ。動きやすそうな服には黒くなりかかっている血がこびりついていて俺は気分が悪くなった。

「ウィロウ」
「はい」

言わなくても通じる。ウィロウは1人で楽々その人をかかえる。

「傷つき弱っています。このまま放置すると生命が危ないですね。このにおいは毒物でしょうか」
「なんとかできるか?」
「可能なかぎり治療します」

ウィロウはその人を床におろし、目を閉じると右手を前にかざして左手で手首をつかんだ。周辺の空気の色が変わった気がする。見ていてたちまちなおっていかないが、しばらくすれば回復するのだろう。

目の前で精霊術が使われたことに感動してもよかったが、今はそれよりもっと重要なことがあった。

イーザーがつれてきた人物の耳の先はとがり、背中から半透明のトンボの羽がはえている。目を閉じているしレイピアもイーザーがもっているけど間違えようがない。外見といい会った時の状況といい忘れられない。

「フィル?」
「そうだ」

イーザーは心底困っているようだった。


フェアリーのフィルは俺がこっちにきてすぐあった情報屋店員だ。同じ時に会ったイーザーよりも優しそうだったしなかよくなったのだけど、フィルには情報屋としての立場があり、義務にしたがって俺を情報屋本部へ引きわたそうとした。そのとき逃げて以来会っていない。

まさかこんなところで再開するなんて。俺は少し胸が痛んだ。フィルの事情も理解はしているけど裏切られたという思いはきえていない。

ささやかな感傷はキャロルにはどうでもいいらしい。

「つまり、アキトをよく知っている情報屋店員ね」

真冬のオホーツク海に比較検証してもいいような冷たい視線をおしみなくイーザーにふりかけた。横にいる俺にまで寒波が到来する。

「間違ってないけど、キャロルとげがあるぞ」

イーザーは弱々しく反論する。ふんとキャロルは鼻をならした。

「隠す気にもなれないわよ、あきれた」

俺たち3人が俺とイーザーが寝泊りする予定の部屋だった。女部屋は治療のためとフィルが起きた時俺とイーザーが近くにいるのは非常にまずいだろうと考え、ウィロウをのこして場所をかえた。

「しょうがないだろ、襲われて負けそうだったんだよ。助けに入らなきゃ男じゃないだろ。そのときだれが襲われてるかなんていちいち見ないし、もし分かったとしても見捨てられるもんか」
「その場で一緒に倒さればよかったのに」

イーザーはそれを聞いてふかく傷ついた。

いいわけと後ろつめたさをのぞいて事情を要約する。コロシアムをでて早く帰ろうと近道を走っていると、近いかもしれないからって裏通りを歩くのがまずかったのか襲撃現場に偶然でくわしたらしい。相手は2人でフィルは今にも殺されそうだった。イーザーは苦戦のあげく男たちをおいはらって、フィルをかついだのはいいけど、行く場所がなくここにきた。

冷静をめざしているものの実は親切熱血のイーザーらしい行動だった。キャロルのように非難する気にはとてもなれない。むしろ見て見ぬふりをしたら俺は文句を言っただろう。

「イーザー、あなたの情けぶかさはよく知っている。でも時と場合を考えてよ。なんでよりによって情報屋なのよ」
「おいおいキャロル」

それは見捨てろといっているようでちょっとひどいぞ。俺はイーザーに同意する立場としてとめる必要がる。

「アキトは下がっていて」

一言で斬り捨てられてしまった。しょせん俺がキャロルにかなうわけがない。

「フェアリーだけなら怖くないけどその背後に情報屋。そもそも情報屋が襲われていること自体がきな臭いのに、さらにその人が知り合いときた。もしフィルが起きてアキトに気づいたら情報屋本部に今度こそ連行よ。いくらあたしでも情報屋と相手するのは無理だ」

キャロルは蛇のような目つきになった。「いっそのこと」

「キャロルそれだけはやめろ」
「あたしまだなにも言っていないわよ」

一見無邪気な笑の裏にどす黒さが見えかくれする。言わなくてもわかる、その前にフィルを永眠させちゃえとでも言うんだろう。それじゃ助けた意味がないぞ。

「フィルが俺のこと忘れているってことはないか? ほら、会ったのはずいぶん前だし」
「甘いっ。情報屋の密偵が忘れるもんか。死んでも覚えているわよ」
「まだ半年もたっていないだろ。普通の人でさえおぼえているよ」

イーザー、お前までそう言うか。

「とにかくイーザーとアキトはすっこんでいて。あたしが見つけたってことにしてすぐお帰りねがおう」

妥当なところに落ちついた。俺たちもそれでいいと同意するとキャロルは足爪で床をかっきり2回引っかき、「ようすを見てくる」と部屋をでた。

「そう言えばミサスは?」
「まだ言ってない。いいや、そのうち伝えよう」

どうせ口出ししない代わりに助けてもくれないんだ。もうなれたけど、あらためて考えてみると殺伐としているな。しばらくしてますます苦い顔のキャロルとなだめようとして高身長ゆえ扉で引っかかって頭をさするウィロウが戻ってくる。

「キャロル、どうした?」
「もっとややこしいことになった。ウィロウ、説明して」
「はい」

ウィロウはおとなしくうなずいた。


「フェアリーのフィルさんは毒物の影響だともいますが、当分昏睡状態が続きます」
「ウィロウの魔法でなんとかできないのか?」
「無理です。地使いや樹の力では毒をはらうことはできません。毒はらいは風使いが得手とするものです」

そうなんだ。よく分からないけど独特のルールがあるみたいだ。キャロルが部屋にきてそのことを伝えていると、うるさかったのかそれとも根性でか、フィルは目覚めて起きあがろうとした。

「昏睡してるんじゃなかったのかっ」
「一般的にはしばらく起きあがれないのですが。さすがフェアリーといえども情報屋です」
「ほめてる場合か」

おっとり起きあがるのをとめようとするウィロウを無視し、険悪な表情で「お前はだれだ、敵はどこにいる」とつめよった。

「敵はいないわよ。しばらくねこんでたら?」

キャロルは冷静だった。すぐフィルが気絶しそうだというのが分かったからだ。予想通りフィルは片手を伸ばしかけてそのままたおれた。

寝台に戻してほうっておいてもよかったのだが、キャロルはフェアリーがもう片手で腰の荷袋をおさえていたのを目ざとく気づいていた。また気絶したのをいいことにキャロルは荷物を取りだして調べた。

「キャロル、少しは良心の呵責とかためらいとか」
「あると思っているの?」

思ってはいないがあってほしかった。キャロルの倫理を無視した捜索の結果手紙を発見した。手紙には商人らしき名前にコロシアムの蔓延具合について事細かにのべられ、そして危険だから早く戻るようにと書いてあった。

キャロルが嫌がるのも無理はない、なんだかすごいことみたいだ。

「フィルがこれを書いてだれかに届けようとしたんだよな。だれに伝えようとしたんだろう。届けないと大変なことになりそうだけど、これじゃなにも分からないぞ」
「闘技場に蔓延して情報屋が調べるものなんて八百長か麻薬かに決まっている。でもあて先まではさっぱり分からない」

ふてくされたようにキャロルは紙を俺にわたした。もちろん俺は内容が読めないのでイーザーに差しだす。イーザーも紙を広げてうなった。決まっているなんて簡単に言うけど、どっちにしろ大変な事態だ。なにせこうして襲われているくらいなんだし。

「だれに届ければいいんだろうな。コロシアムに侵入した人だと思うけど、これだけじゃ見当もつかないぞ」
「イーザー」今度のキャロルはシベリア並みだった。
「まさか、これをしかるべき人まで届けてあげようだなんて思っていないわよね」
「思っちゃわるいか」

イーザーはキャロルを見もしなかった。

「わるい。どこもだれともわからない奴を探して何日もかけずりまわりたくない。そいつだって情報屋じゃないの、ただでさえフィルが関わっているのにさらに首つっこんでどうするのよ」
「じゃあ見捨てろって言うのかよ」

イーザーの声が大きくなった。

「お前書いてあること読まなかったのか? 薄情だぞ!」
「それがどうしたの。そもそもここまでフィルを気づかう義理も利点もないでしょ。得にもならないのにどうしてそこまでがんばるのよ」
「人が倒れていたら、人が危ない目にあうのを知っているのなら助けに入って当然だろ。どうしてそこで損得考えるんだ、間違ってるぞ!」
「あたしは地下道の一族だもの、人として間違っているわよ、わるい?」

にらみあう。ウィロウはおろおろ不安そうに俺を見る。俺は頭をかかえたくなった。どうしてここでけんかになる。イーザーもキャロルも本気だ、気迫が違う。黙って消えさりたくてたまらないが、あいにくこのけんかは俺にもかなり責任があるから逃げるなんてできない。いたたまれなさのあまり俺は煙になって消滅したくなった。

「あの」

消え入りそうにウィロウが背を低くして挙手した。2人の視線がウィロウに集中する。奇跡的にウィロウは持ちこたえた。

「私たちに危惧がおよばない範囲だけで活動してはいかがでしょうか。イーザーの考えもキャロルの立場も分かりますが、たがいに主張していくだけでは衝突するだけです」

イーザーは口をひんまげたままいすに座り、キャロルはふんと足爪で床をける。跡がのこった。

「具体的にどうするの?」

さすがキャロル、床の傷1つですぐに気分をきりかえた。俺は露骨に安心する。イーザーも下手ながらそうだなと無理をして合わせた。

「フィルにばれなきゃいいんだろう。ウィロウ、後どれくらい寝こんでいる?」
「2、3日は起きません」
「ならその間に俺とアキトとウィロウでコロシアムを探して手紙を届けよう。ミサスは…… どうせ無視されそうだな。事情だけ話して待っていてもらおう」
「あたしは?」

キャロルはえらそうに足を組んでふんぞり返った。イーザーはきょとんとして、すぐに不機嫌そうになる。

「キャロルは見ているだけだろ」
「冗談。猪突猛進とアキトとウィロウの3人でなにを探せるのさ」

厳しい奴。「ウィロウはフィルにつきそっていて。あたしたち3人でつきとめる」

「はい、がんばってください」

おっとりウィロウはうなずいた。


夜中に俺たちはコロシアムへむかった。なにがあるか分からないしここは治安が悪いから武装していても目立たないのでちゃんと武器鎧を身につけている。

「絶対に怪しまれないように。最近コロシアムに入った人間を探そう。従業員とか下働きとかその辺ね。おかしな動きをするものには不用意に近づかない。イーザー、フィルは本名?」
「ああ。前情報屋店員の証明書を見せてもらった。本名だ」
「結構結構。二手に分かれて探そう、手間がはぶける」
「そうだな。うち一人になるのはキャロルに任せる」

キャロルが当然のようにうなずいたので少し驚いた。キャロルがいないと不安だ。でも分かれたほうが見つかりやすいだろうし、俺かイーザーどちらかを一人にするほうがもっと危ないな。

「手紙はイーザーに預けた。あたしはもう覚えたからいい」

さっと見ただけなのにあれで覚えたのだろうか。たいした記憶力だった。

「夜明けにいったんおちあおう。気をつけろよ」
「そっちこそ暴走はほどほどにね」

なんだそれは。

コロシアムは夜でもやっているようだった。贅沢にかがり火がいくつもともされうろつく人々もけして少なくない。試合はもう終わっているにもかかわらずあっちでだぶ屋がぶつぶつうつむき、こっちで予想屋が甲高い声で明日について叫んでいる。さすがに人数は多くもないけど俺たちがうろうろしてもまったく気にもかけられない。キャロルは軽く手をふって大柄でがらの悪い男たちの中にまぎれこむ。俺たちもさっそく捜索をはじめた。

初めからそのものずばりの質問はせず、まず道を聞いたり明日の試合についての雑談からはじめて、さりげなく本題へもちかける。もちろん知らなかったりうさんくさがられたり、下手をしたら怒られて武器に手をかけられ逃げた時もあった。

どうもここは人の回転が速すぎて、たとえ働いている人といえどもだれが新顔なのかさっぱり分からないらしい。夜中2人してあまりの成果のなさにいい加減だれてきた。やっぱりキャロルにいてほしかった。周りにだれもいないのを確認して俺は通路でしゃがみこんだ。

「すごく効率が悪いな。魔法でさっと探せないのか?」
「できたら苦労はない。無理だからアットは俺たちにラスティア探しについて頼んだんだぞ」

そういやそうだった。今が何時だか分からないけど深夜をすぎているのは間違いなかった。俺は眠い、いつもならとっくに寝ている時間だ。

「アキト、あくびをするな」
「つい。悪い」
「気合を入れろ、なんとしてでも探しだすんだっ」

イーザーは燃えていた。熱いイーザーには悪いが、俺はついていけなくなりそうだった。

「夜分に子どもが騒がしいな」

眠気は晴れた。ついでに頭から血の気がひいた。人一人いないと思っていたのに、すぐ後ろにだれかいたらしい。野太い岩のような声から察するに男だろう。

ふりかえって俺の頭が予想よりはるかに上を見上げた。見なきゃよかったと後悔する。

巨大な男だった。俺の知っている一番大きな人はウィロウだけど、ウィロウよりは背が低い。しかしウィロウが全体の形としては普通の人間なのにこの男は横も幅も大きかった。二の腕は下手すれば俺の3倍だし、体当たりをされたらけしとばされそうだ。肌も浅黒く太い髪はざんばらな三つ編み、顔も横にのびた鼻が中央にすわり、じろりと小さな目が俺たちを値踏みしている。子どもがばったりであったら泣きだしかねない恐ろしさだった。

逃げよう。俺は即座に決心した。イーザーも同じことを考えているのを願いつつ走ろうとみがまえる。

「フィルについて聞きまわっている子どもがいると聞いたが、わしになにか用なのか?」

つんのめって転びかけた。ひょっとしてもしかして。イーザーが腹をくくったように男にむきなおる。俺より背の高いイーザーがこうしてみるとまるで子どもだった。

「フィルからの伝言を持っている。伝えてもいいのか?」

男は提案を吟味するかのように少し口ごもった。

「機構。その後でお前さんたちとフィルのことも聞かせてもらおうか。わしはロルフ、情報屋店員だ」

やっぱりというかこんなのが人間であってたまるかというか。ロルフは人間ではなくオーガだった。オーガは昼間遠くから見たことがあるけど、あの人とは別人らしい。こうして近くで見るとその巨体がますます実感する。つくづくロルフが敵でなくてよかった。

ロルフの私室に通されてイーザーがてばやく事情を話した。もちろん俺が異邦人で前に友好的でない状況でというのは省略したが、それ以外はかくさず説明した。

「そうか、やられたか。道理でこないわけだ」
「今のところ俺の友だちが介抱しています。しばらくは寝こみますがそのうちよくなるでしょう。これが預かった手紙です」
「苦労かけたな、アキトたち」

苦労といえばそうだったけどほめられることでもない。って。

「なんで俺の名前知っているんです?」
「なんでもなにも呼びあっていただろうが、お前たちは。そっちの剣士は聞いていないな」
「イーザー・ハルクです」

どうするんだよといいたそうにイーザーはうなだれた。フィルが目をさます前に急いでさらないと本当に大変なことになる。

「フィルが何者にやられたか見当はついているんですか?」
「ああ、分かっている」
「仕返しするんですか? てつだいますよ」
「馬鹿いうな。暴力でやられたから暴力で返すなんて人間の思考じゃねぇよ」

手紙から顔をあげずにイーザーの血気にはやる提案をぴしゃりとはねのけた。すごく正しいと思う。

「わしらの仕事は調べて上に報告だけだ。もう少しここにいたかったが、情報屋もないことだし長居しても危険だ。ころあいだな」
「なにを調べていたんですか?」

深く考えずに聞いたらイーザーににらまれた。何かまずいことしただろうか。

「闘技場に麻薬が蔓延しているそうだからその調査だ。よくある話といえばそうだが気分のいいものじゃないな」

ロルフは手紙を太い指で丁寧におりたたむとたいして量のない荷物をてきぱきまとめて麻袋につめた。

「さて。申し訳ないがフィルのところまで案内してもらえないか?」
「もちろんです」

俺たちはその足でコロシアムを飛びだして宿に戻った。さすがにコロシアムを離れると人気がきえる。俺は懐中電灯をてらして小走りで宿へ急いだ。

「今何時くらいだ?」

イーザーは空を見あげた。東西南北どこにも太陽の予兆はないが、それでもなにかを感じとったらしく「もうすぐ朝だな」と判断する。俺は一晩中起きていたのか。今は興奮しているからちっとも眠くない、よかった。

「もうすぐです」

イーザーが正面にうつる大きな影を見あげた。あとはこの人にフィルをたくして終わり。この人がフィルの休養のためもう少しコロシアムの街にいるか、それともすぐ帰ってしまうかは分からないが、少なくとも俺たちはすぐに立ちさらないといけない。なんとか穏便にすんだみたいだ。俺は安心しきった。

大変な一夜だったなともう終わったかのように感慨を抱いていたら2階らしき場所からなにかが落ちてきた。音からするに2つ、かなり大きいものらしい。その後でまた1つ、今度はゆっくり落ちてくる。なぜか俺はこの風景に見覚えがある気がした。

「なんだ?」

ロルフの疑問にお答えすべく、まだ空中にとどまっているものへ懐中電灯を向けた。

見たことあるはずだ、ミサスだった。明かりを向けられ迷惑そうに手を顔にかざす。先に落ちた荷物はなんと人間だった。うめいているから生きているだろうが元気に動きまわれるまでしばらくかかりそうだった。

「ミサス、なにやっているんだ?」

羽があるので無傷で降りてきたミサスにかけよって聞いてみる。ロルフとイーザーは「珍しいな、見たことがない」「ミサス。黒翼族で俺たちに同行している」となごやかに交流している。

「その人たちだれだ?」

俺には見覚えのない人たちだ。ミサスは後ろのロルフをたいして気にせずに「襲ってきた」とだけ言った。

「そりゃそうだろうな。通りすがりの他人を窓からつき落とすわけないし。ちょっと待て、襲ってきたってひょっとしてフィルを狙ったのか?」

返事はなかったがそれ以外の理由を思いつかない。男たちをよく観察してみる。2人とも俺より大きくナイフを持っているみたいだ。よくこんなのを軽くあしらえるものだ。

「キャロルは?」

それだけ言ってミサスはあくびまじりに宿へ帰ろうとした。

あ。

「イーザー、キャロルどうしよう?」

なんだまだいたのかとロルフがつぶやくが無視する。

「どうしようって、まだコロシアムだろ」
「放っておいていいのか?」
「いいわけないだろ。でもロルフさんをここに連れてくるのが先だったから」
「向こうもこんな風に襲われたら大変だ。俺迎えに行ってくる」
「キャロルなら大丈夫だと思うけどな。でも行ってくれ、約束では夜明けに待ち合わせだったよな」
「ああ。後よろしく」

俺は懐中電灯を持ったままコロシアムに引き返した。


この時俺は確認し忘れていたことがあった。

わざわざ見るまでのないことだったし、そんなこと夢にも思わなかったんだからしょうがないのかもしれない。でもやっぱり確かめるべきだった。たいしたことのない労力をおしんだせいで俺はこのあとさんざん驚かされるはめになった。


夜明け前と推測したイーザーは正しかったらしい。すぐに空のはじが明るくなってきた。

到着してからどこで待ち合わせるのが厳密に約束していなかったのを思いだして、しょうがなく俺は最後に別れたコロシアム正面入り口の柱の影でじっと待った。よっぱらいにごろつき、不良、浮浪者など人がとぎれることはなかったが、こんな人ばかりだったら無人のほうがよっぽど落ちついて待てたと思う。俺はスタッフをにぎりしめ、なるべく平然として見えるようにほおをこすった。

徹夜したせいだろう、じっとしていると頭の芯に泥がつまったように朦朧として、立っているのにいつのまにかうたたねをしていた。寒いし風が冷たいしですぐに目がさめたが、人通りはいつのまにか増えていて人種もさっきよりかなりましになっていた。

「寝ちゃったのかな。キャロルこないな、ひょっとして入れ違いになったか?」

頭をふって俺は起きあがった。また宿に戻ったほうがいいかもしれないと何気なく周りを見て、見覚えのある灰色の髪がないか確かめる。

だれよりもなによりも目についたのは周りより頭2つ分高い緑色の髪だった。いくら人外うろつくコロシアムでも、緑の髪であの身長ときたら1人しかいない。ウィロウだ。

問題はどうしてウィロウがここにいるかだ。宿で介護しているんじゃなかったのか。

困ったようなおだやかな表情のウィロウは人波をものともせずコロシアムへすすむ。フィルやイーザーはどうしたのだろうか。ウィロウはよっぽどのことがないかぎり頼まれた仕事をほったらかしにしない。一体なにがあったんだろう。

「ウィ……」

ウィロウにかけよろうとして危うく踏みとどまった。ウィロウは1人じゃなかった。一見細い腕で軽々とフェアリーのフィルを支えている。俺の体温は急に下がった。

なんでフィルがここに。跳ねあがる心臓をもみほぐして深呼吸をする。逃げよう、見つかったらすごいことになる。逃げるしかない。

「着きましたよ。もういいのではないでしょうか。帰りませんか」

ウィロウが話しかけなければ俺はそのまま逃げていただろう。足をとめて冷静に観察してみると、フィルは歯をくいしばり、目は熱に浮かされているように焦点が合っていない。足元もおぼつかなく、ウィロウが支えていなければ倒れてしまいそうだ。まだ寝ているべきなのは確実だった。

「まだだ。ロルフに伝えるまでは」

のどの奥からはいでるような声だった。

「フィルさん。仲間を心配する気持ちはよく分かります。でも私の友人が3人フィルさんの仲間を探すためにここに来ているのです。ロルフさん探しは私の友達にまかせても大丈夫ですから、宿にもどって寝てください」
「だめだ。素人が探して見つかるわけがない。急がないと」
「とても頼りになる人ですから安心してください。フィルさんのほうが心配です。気力で動いているようなものです。人間だってしばらく起きあがれないはずですのに体力的に劣るフェアリーでそのようなことをするのは無理です」

こっそり会話を聞くうちに俺は恐ろしい可能性に思いあたった。ウィロウとフィルはイーザーたちといきちがいになっている! 確かに宿に帰ったときウィロウには会っていない。それにフィルがこの調子じゃ後からきた俺がそうとう先に到着したのも分かる。でも、そんな、よりによってどうして。

「今動けることすら奇跡的です。フィルさん、約束ではコロシアムを見るだけでしたよね。帰りましょう」

そうだウィロウ帰してくれ。

「だめだ」

震える手でフィルはどこに隠し持っていたのか、カッターのように小さなナイフを手の中に出現させウィロウの胸につきつけた。弱っていてもさすがだ、周囲の人はウィロウにフィルがもたれかかっているようにしか見えないだろう。

「僕のいうとおり案内しろ」

これはもう傍観していられない。俺のことがばれてもいいから止めに入らないと。俺は決心して人をかきわけ出ていこうとした。

刃物を突きつけられてもウィロウは落ちつきはらっていた。逆の手でフィルの手を上からおさえ、目を開けるフィルの前で刃物を胸へおしだした。

「!」

ウィロウがとち狂ったのかと俺は思った。流血かそれ以上の悪い結果になると思っていたのになにごともおこらない。フィルはほうけたように自分よりはるか高くにある顔を見上げる。ウィロウは楽々ナイフを没収すると自分の腕におしつけた。服から察するにかなり力を入れているみたいだが、下の肌にはなにも起きない。なぜかウィロウは申しわけなさそうになった。

「一般的に知られていませんが、エントの肌は樹皮のように固く強いのです。傷つかないわけではありませんがこの程度の刃物では刃のほうが欠けます。残念ですがフィルさんの力では私にかすり傷1つつけることもできないでしょう」

前にも俺を魔法からかばってくれた。人間なら大火傷間違いなしなのに軽くすすけただけだった。薄着だと思っていたのに実はだれより立派な生まれつきの鎧を持っていたのか。

「ですからそのような脅しは私には無力です」

フィルの目が絶望に染まった。よしその通りだ。がんばったフィルには悪いが帰ってもらえ。

「ですがフィルさん。その意気ごみはよく分かりました」

え。ウィロウちょっと待て。

「やむをえません。無理をしないと約束してください、手を貸します」
「約束する、だから連れて行ってくれ」
「はい。では参りましょうか」

ウィロウはナイフを返して優しくほほえんだ。

なんでこうなる、どんなに探してもここにはフィルの探し人はいないぞ。たのむ帰ってくれと祈っても届くわけもなく、2人はコロシアムへ向かう。

どうしたものか。俺はその場で考えた。そうだ、ロルフの部屋に俺たちが先にあって宿に行ったと分かるようにメモを残しておくのはどうだろう。

でも俺字が書けない。書けなければ宿にいることが伝えられない。どうしよう。

要は俺が先にきたことが分かればいいんだよな。だったらメモを残さなくてもなにか俺の持ち物を残していけばウィロウが分かってくれる。我ながらいい考えだ。俺はすっかり気分をよくしてロルフの部屋に先回りすべく走りだした。昨日さんざんさまよったのでコロシアムの構造は分かっている。のんびり行くウィロウより先回りできるのは確実だった。

なにをおいていこうと勢い勇んでロルフが昨日まで使っていた部屋に飛びこむ。

先客がいた。体験した男が3人、主がいなくなってなにもない部屋にいた。机の引き出しは全部開けられていて重そうな棚は転がっていた。先入観から見るに夜ミサスがのめした2人と同じ臭いがした。

お互い予想外の事態だったらしい。ぎこちなく目を合わした後俺はドアを乱暴に閉めて走りだした。まだ俺のほうが心の準備はあったし逃げるのは慣れている。背中が数秒遅れて騒がしくなり、やっと俺にまともな思考回路が戻ってきた。

なんなんだあいつらは。フィルを襲っていたのと同じか? きっと同じようにロルフをやっつけようときてみたらもぬけの空で悔しがっていたのだろう。それはざまぁみろだけど、そこにうかうか飛びこんだ俺は間違いなく危険のただなかにいる。怖くて振り返れないけど足音はついてきている。廊下を行く人々がなにごとかと注目するけどかまっていられなかった。早く逃げないと追いつかれる。追いつかれてからは想像もしたくない。

よりによってばったり会ったのが俺だなんて。イーザーかキャロルか、ウィロウでもいい。この際ミサスでもロルフでもフィルでも文句は言わない。他のだれかがいてくれたら返り討ちできるのに、俺だけだったら逃げるしかない。

不意に、夕暮れの校舎を思いだした。

冷たく空気が通るのどをおさえる。俺はなにを考えているんだ。放課後の学校みたいに立ちむかうのか? 無理だ、できるわけない。そりゃ確かに今はスタッフを持っているけど相手だって剣持った男たちなんだぞ。勝てない、絶対に勝てない。

つきあたり正面の思いドアを開けて中へ逃げこんだ。中はスタッフをなにも考えずに振りまわせるくらい広くて、家具の代わりに壁に大小さまざまな武器がかけられていた。土間の部屋は高校のトレーニングルームを思い出させた。きっと同じ用途で使うのだろう、こっちのほうがずっと物騒だけど。

最重要事項としてここには小さな天窓以外のドアはなかった。なんたる不運、俺は自ら袋のねずみになってらしい。

俺が自分の不運とまぬけさを責める前に追っ手が1人入ってきた。俺を見て笑いを浮かべる。

「情報屋には見えないな。協力者か。あのオーガがどこに逃げたら言ってもらおうか」
「言ったら見逃してくれる?」かすかな希望を抱いてみた。
「礼はたっぷりしてやるよ」

希望はついえた。相手の血走った目を見ながらうしろのドアからキャロルがこないかと死に物狂いで願う。

(さっ、立って構えて)

急にイーザーの声がひらめいた。自然に身体が動く。相手の姿を見て片足を前に踏みだす。重心は身体の中心、地面と垂直に立つ。その時は鬼そのものかと思ったイーザーが毎日苦労して叩きこんだスタッフの構えだった。

「やるのかよ」

男は余裕たっぷりに大振りのナイフをもてあそぶ。完全に俺のことを見下していた。

イーザーとキャロルが自分の時間を削って俺を鍛えたのは日本でこそ泥をいじめるためではない、こういう時まともに抵抗できるようにするためだ。足が立たなくなりそうな恐怖を押さえつけて教えを思いかえす。

(賢く立ちまわったほうが勝つのよ、アキト)

キャロルは正面切っての戦いを馬鹿にしていた。不意打ちだまし討ち舌三寸、そして先手を打つこと。

気合のおたけび代わりに鋭く息を吐いて俺は突撃した。不意をつかれた男はそれでもよけて背を低くして俺に向かってくる。

(スタッフでなにがいいかって長いことだ。長いから剣が届かない距離でも届く。近寄らせてはいけない)

ナイフのような小さい武器にはどうすればいいか知っている。キャロルで俺はもう何十回と体験した。空振りに終わったスタッフを横になぐ。大きな動作にも俺は流されず動かなかった。

男の身体がスタッフにからみとられる。ナイフが弧を描いて男の手から離れた。俺は自分の身体を軸としてスタッフをふりはらおうとさらに力を入れる。ナイフが落ちる音は地面に吸収されてきえた。男がぶざまに肩から転ぶ。うめいて肩をおさえる、痛かったのだろう。気の毒だし目をそむけたい光景だけど、現実から逃げるのをやめてナイフをすかさず拾った。

(敵を無力化する。手足を痛める、武器を取り上げる、拘束する。目を離さない。一番いいのは殺すことだよ、殺せばもう敵じゃないのだから。でもそんなことしたら騒ぎになるしスタッフという武器は殺人には向いていないのよね。だからそれ以外の手段を覚えて、命がかかっているから大至急)

覚えていてよかった。役に立ったよキャロル。

入ってきたドアへ走り部屋を飛びだした。寝不足のせいか気分が高揚しているせいか、目の前がやけにまぶしい。

急いでキャロルかウィロウと合流しないと。刺客がコロシアムまで入り込んでいる以上細かいことを言っていられない。宿に戻ってイーザーたちにも会って、急いで街をでよう。

1人で危険を切りぬけた慢心のせいで、俺はうっかり刺客が一人でないことを忘れていた。

急いで角を曲がったとたん、胸にはげしい衝撃を受けてひっくり返った。でんぐりかえる視界にかろうじてだれかが短い棍棒をさらに振りかぶっているのが見えた。

「拝借しますね」

この場に不釣合いな丁寧さで俺のスタッフがそのだれかを目標として振りおろされた。その後どうなったかは見ていないが、音から察するに昏睡ぐらいはしたのではないだろうか。

背中をしたたかに打って俺はうめいた。動かずに痛みにたえる。

「アキト、大丈夫ですか?」

ウィロウは俺が両手で使うスタッフをほうきかなにかのように片手でつかみ、心配そうに俺をのぞきこんだ。左肩にはもののようにフィルを担いでいる。息も絶え絶えのフィルは片目を開けて「アキト?」とうめいた。

ばれた。もうおしまいだ。でもそれに慌ててわめくほど状況はゆるやかではない。

「痛かったけど平気」
「なんでアキトがここにいるの?」

運のいいことにキャロルも後ろにいた。先に合流していたのか。

「間が悪いことこの上なしね。たたられているんじゃない?」

キャロル、もうウィロウが話しちゃったから俺の名前を呼ばないようにしても無駄だよ。そもそもキャロルを探そうとして今ここにいるはめになったんだ。そもそもフィルがここにいるのはウィロウのせいで俺は悪くない。胸の中に殺到したものはなに一つ言葉にならず代わりにつぶやいた。

「キャロル、3人いる」
「フィルさんをお願いします」

慎重に、しかし猫の子を人に渡すようにウィロウはフィルを預けて俺のスタッフを振った。何とか立った俺はスタッフをかいくぐり、3人目の男がウィロウにナイフを突きたてるのを見る。キャロルは手出しをしたそうだったが、ウィロウのような怪力とは程遠いのでフィルを抱えるのに精一杯だった。

ウィロウはスタッフを手放し男の手をつかんだ。肌の表面でとまっているナイフを呆然と見る男はなすがままウィロウに放りだされる。男は壁にぶつかって落ちた。立とうともがいているけど当分無理そうだろう。俺なら即気絶している恐ろしい攻撃だった。

「あと一人ですか」
「いや、それは奥で俺がなぐって逃げた」
「えっ?」

キャロルがフィルの肩を支えながら、まばたきせずに俺を見る。失礼なことにウィロウまでが「アキトがですか」ときた。

「なんだよ、疑うのか」
「いえ、疑いません」
「やったじゃない、アキト。日々いじめたかいがあったわ」

革の手袋上からキャロルは俺の背中をたたいた。さっき打ったばかりなので痛かったから文句を言おうと思ったが、キャロルが本当に嬉しそうだったからやめておく。

ウィロウの視線は俺を飛びこえた。後ろを向くと肩をおさえた男がいつのまにか奥からでてきて、ドアの前で恐怖の眼で俺を見ている。正確には大人2人を楽々ふっとばしたウィロウを見ていた。

「ではあなたも戦いますか」

邪気のない質問に男は甲高い悲鳴を上げて、俺たちのわきを通って走って逃げた。おれは豹変ぶりにびっくりしてなにもしなかったしキャロルはウィロウからおしつけられた荷物が邪魔で見ているだけ、男は無事に逃げられた。

「逃げましたね」
「見りゃ分かる。あたしたちも行こう。ロルフ氏に合流しよう」
「分かった」

キャロルはフィルをウィロウにこんな重いものいつまでも持っていられるかと返す。

「(でさキャロル、結局ばれちゃったけどどうしよう)」

走りながらこっそりキャロルにささやく。やましいことなのでウィロウとフィルに聞こえないよう小声で。

「(知らない。あたしもうそろそろ見捨てたいんだけどどう思う?)」
「(やめてくれ)」
「(冗談よ。なんとかするわ)」

コロシアムを飛びでて宿へ一直線に進む。通りの視線は朝っぱらから全力疾走している俺たちにたちまち集中した。その気持ちはよく分かる。俺だってエントがフェアリーをかつぎながら走っていたら目で追わずに入られないだろう。

空から影が降りてきて、俺たちの目前を平行して飛んだ。

「うおっ?」

影だと思ったのは黒い鳥だった。全体的な形や真っ黒な羽は綺麗だけど、頭部左に傷跡があるしカラスより大きいので俺はおびえて後ずさった。臆病というなかれ、鳥のくちばしなんて俺の目なんて簡単に突っつけるような大きさだったんだ。

「夜鳴鳥?」

キャロルがけげんそうにつぶやくと、鳥は一声鳴きほそい路地へ飛ぶ。

「なんだあれ」
「追うよ」

俺には鳥の行動がさっぱり理解できなかったがキャロルはなにか感じとるものがあったらしい。俺とウィロウをせかして角を曲がった。

靴の裏がねばつくようなきたない道を進むと、いるはずのない人が待っていた。イーザーとロルフ、そして鳥。イーザーは安心したように大きく息を吐いて、鳥は突如巨大化してふくれあがった。

「あっ」

身長よりはるかに長い槍を肩にかけたミサスになった。変身できるなんで今まで知らなかったぞ。でもキャロルが変身できるのだからミサスにできても不思議じゃない。

「無事か? よかった」
「今のミサスはなに」
「これ以上のすれちがいはごめんだからな。ミサスに案内してもらった」

俺はイーザーを尊敬した。あのミサスにたのみを聞かせるなんてなんてすごい。「どうやったんだ?」と聞くと「俺とロルフでお願いした」といとも簡単そうに言った。でも得意そうでもあった。

「フィル、無事か」

ロルフがフィルを大切そうにひきつぐ。フィルがなにかむにゃむにゃ言ったがとても無事とはいいがたい。本来なら宿で安静になっているべきなのにさんざん振りまわされたのだから無理もない。ウィロウはフィルの代わりにイーザーが運びだした荷物を背負った。

「ロルフ、悪いけどあたしらはこれ以上追われたくないから街をでて行くわよ。お別れね」

キャロルは露骨に情報屋とは関わりたくないと匂わせきっぱり言いきった。ロルフは意外そうにまゆを上げたが「その通りだな」と同意する。

「そっちは2人で大丈夫ですか?」
「わしはオーガだ、人間の1人2人どうということはない。おくれはとらんよ」

たいした自信だった。

「そうか。じゃあね、さよなら」
「待った」

ロルフの助けをかりて、フィルが震えながら顔をあげて俺たちを見る。

緊張が走った。キャロルはさりげなくポケットから小石を取りだしてもてあそびイーザーは立ちすくんだ。俺はどういう顔をすればいいのか分からなかった。ロルフが不思議そうに俺たちを見て「フィル、無理をするな」と同僚をきづかう。

「……どこのだれかは知らないけど助かった。感謝する」

意外だった。純粋な感謝以外のなにかを含んだ、表面上はなんてことのない言葉だった。真意を探ろうとフィルをよく見るけど、フィルは満足しきったようにロルフにもたれかかりかすかに笑いを浮かべる。キャロルに腕を取られ「行こう」とひきずられた。もう一回と振りかえった時はフィルはもう俺なんて見ていなかった。

「あのさ、キャロル」
「なに」
「フィルは俺のこと忘れたのか?」
「どう考えても違うわよ」

そうだよな、やっぱり。

「お礼のつもりか他の意味があるのか、とにかく見逃してくれるって言うのよ。どういう裏があるのは知らないけどここは逃げの一手だ」
「きっと裏はないよ」

キャロルは甘ちゃんがと俺をののしったが、気にしなかった。