キョウとサキ。2人がいる。
1人は九条キョウ。キョウとしか呼ばれないのでその名が京なのか卿なのか、それとも叫か凶か狂か恐かは分からない。高校生らしい黒いブレザーを身につけて、くしを通していなさそうな乱れた黒髪の下には冷笑とも物見高いとも無邪気とも判断のつかない表情が存在している。コーヒー党でどんな時でも熱いコーヒーを一杯入れて、さめるまで待ってからおもむろに飲む。コーヒーの銘柄には特にこだわりを見せずに手軽に出来るインスタントコーヒーを愛用している。傍観者。
キョウはいろいろな話をする。大抵はどうでもよい、話す価値もない、くだらない、どうでもいい、ささやかな日常茶飯事であるが、それをさも重大なことのように話す。目を輝かせて畳み掛けるように息をつく暇もなく立て続けに話す。人を見下したような小ばかにしたような口調は相手に同意も反論も求めてはいない。彼が話したいから話す。
1人は鷹司サキ。やはりキョウはサキとしか呼ばないので咲なのか先なのか、それとも裂なのか分からない。地味に制服を着、とび色に染めてシャギーを入れた髪を長い紐で1つにくくりつけている。あまり表情を表に示さず、そのくせ目は見る人を射すくめるかのように鋭い。紅茶党で日によってさまざまな種類の紅茶を飲む。高い店の高品質の紅茶を丁寧に入れて上品に飲む。真諦者。
サキはキョウの話を黙って聞いている。本当に聞いているのか話半分に聞き流しているのか聞いているふりをして心を遊ばせているのかは分からない。キョウの長い長い話の中ではサキはたいてい古い本を手に取っていてキョウの方など1回も見ない。それでも話が終わると閉じられたままの口を開け、愛想笑いすらせずにいかにキョウの話がくだらないかを指摘する。
図書館は静かだった。人はキョウとサキしかいない。キョウは熱いコーヒーを手に古い科学論文を読む。サキは熱い紅茶を手に古典的ミステリーを読む。いつもと同じ。変わりない日常。完全なる平穏。
「サキ、悪意と善意について面白いことがあった」「聞きたくない」
「自己否定についてはどうだね? これは実に楽しい行為だ」
「よろしくない」
「言葉のことはどうだ? 全ての源、思考の中核だ」
「せっかくだが遠慮する」
「今ふと思いついたのだが、不選択も選択の一つだな」
「そうかもな。でも話す必要はない」
「我々はどこにいても異端者だ」
「それがどうした」
「高慢と卑下、実によく似た感情だと思わないか」
「さてな」
「偽善というのはとても興味深い」
「よかったな」
「サキ、今日の君は実につれない。いつもなら無言で聞いてくれるではないか。これでは一人で過ごしているのとかわりがない。いやもっとひどい、期待をさせては裏切るのだから。希望は各個人が自分勝手に抱くものとはいえこのむなしさは大変辛い。僕はとても寂しがっている」
大げさに手を上げてキョウは悲しみを表現した。サキは見もしない。
「本が面白いんだ。邪魔するな」「古典的ミステリーではないか。もう何回も読んで登場人物もトリックも犯人も全て見当がついているのだろう?」
「そうだ、でも邪魔するな」
「やれやれ」
古い図書館に静寂が戻る。聞こえるのは本のページを送る紙のこすれるかすかな音のみ。
「サキ、君はいつまでここにいるつもりだね?」
「ずっとだ」
「そうか、それはとても嬉しいよ。今日一日分の失望を帳消しにしてなお上回る嬉しさだ。なぜなら僕もずっといるつもりだからだ」
「そうか」
「しかしサキ、ずっとというのは実にあいまいな表現だな。そう思わないか」
「知らない。今はキョウについてを聞きたい気分じゃない」
「それは寂しい」
「勝手に寂しがっていろ」
日坂高校の裏山に建築物がある。かつて図書館だった建物は打ち捨てられ忘れ去られた。床は泥まみれで本棚はほこりが積もり、書物はもう価値はない。
取り壊すことさえも忘れられた古い図書館に2人はいる。一度たりとも打ち合わせたことはないのに、図書館の外では話したことさえないのに、放課後2人は図書館へ不法侵入を犯し、お茶を沸かし本を読み、そして話し合う。
2人の会話に理論はなく意味はなく価値はなく、終わりはなく始まりはなく。ただそこには停滞したよどんで濁った時が漂うだけ。
よくある、いつでもある、どこにでもある、ありきたりの放課後。
今日も2人は図書館にいる。