キョウとサキ。2人がいる。
1人はキョウ。キョウとしか呼ばれないのでその名が今日なのか凶なのか狂なのか、それは分からない。高校生らしい黒いブレザーを身につけて、くしを通していなさそうな乱れた黒髪の下には、冷笑とも物見高いとも無邪気とも判断のつかない表情が存在している。
1人はサキ。やはりキョウはサキとしか呼ばないので咲なのか先なのか、それとも裂なのか分からない。いつも地味に制服を着こなし、とび色に染めてシャギーを入れた髪を長い紐で1つにくくりつけている。あまり表情を表に示さず、そのくせ目は見る人を射すくめるかのように鋭い。
放課後の学校が淳は大好きだった。
昼間あれだけ人がいたくせに、校舎が橙色に染まる頃にはいっせいに彼らが見えなくなり、やがて静寂の中闇へ沈んでいく。そのわずかな時間帯が淳はたまらなく好きだった。
もちろん彼は少数派だった。淳の友人知人でおなじ趣味を持っているものはほかにはいない。彼は単独行動は好みではなかったが、放課後の学校を満喫するためにはたいてい1人で動く事を強いられていた。
「他の人に分からないのも無理はないけどね」彼は自分で自分を慰めてから、また無人へ移り変わりつつある校舎をのんびり散歩する。1年生校舎の階段を降りても誰ともすれ違わない。左手に曲がり、立派な図書館へ遠回りをして進む。直接行く道はもう鍵がかけられてしまった。
図書館は司書以外だれもいなさそうだった。淳は中へ入ろうとはせずにぼんやりその周辺を歩く。蚊が足にまとわりつくが手で追い払った。そうして顔をあげると、図書館の奥にさらに建物があるのが目に入る。
「あ。旧図書館」日坂高校の図書館は日坂高校のOBが設計した、最近建てられたばかりの自慢の建築物だ。それまで図書館は日坂高校の裏山の奥にあって、何かと物騒だったらしい。
「まだ取り壊さないんだ」淳は2階建ての旧図書館を見上げた。日坂高校は戦前から存在する古い高校で、よくあるように怪談も多い。だれも使用していない図書館は見るからに不気味で近寄りがたかった。淳は夕方の学校は好きだが夜の図書館はそうではない。早々に退散する事にした。
かしゃん。
「ん?」淳の周囲に人影はない。淳は目を離した旧図書館の窓へ視線を戻した。今、確かにそこから何かが割れる音がした。よくよく見ると窓は開いていて、さらにその奥に何かが動いている気がした。
「泥棒?」日坂高校には泥棒も多い。しかしそれは教室のロッカーから物を盗む類のもので、あのような何もないところに行っても得るものはない。淳の脳裏に自然に「怪談」の2文字が浮かび上がった。
「幽霊? いやそんなまさか」笑って打ち消そうとしても疑惑は晴れない。しばらく淳は立ちつくしていたが、やがて意を決して旧図書館へ向かった。幽霊なんて存在しない事を証明するためである。もしも出会ってしまったときは全力疾走で逃げるつもりだった。
当たり前だが旧図書館の扉は施錠されてかたく閉ざされている。どこか入るところはと淳は探し、すぐに窓の鍵が開いて出入りできる事に気がついた。
中はほこりが床に分厚く積もっている。暗くてよく分からないが、ずらりと並んだ本棚はどれも空で本はなく、それがかえって不気味だった。内心謝りながら淳は不法侵入をした。
足音を忍ばせながら恐る恐る1歩ずつ歩いていく。緊張のあまりかどこからか声が聞こえてくる気がする。淳は顔をあげて動いているものを見た気がしたのだから何かあるとしたら2階だろう。階段はすぐに見つかった。
淳はやがて話し声が自分の幻聴ではない事に気がついた。2階は薄暗いが、それでも電灯がともっている。さっきよりはよりはっきり、それでも聞き取れないほど小さく声が聞こえた。淳はその声は1種類だけである事を知った。誰かが独り言を言っているのだろうか。
こっそり淳はのぞいた。1人の女子高生が司書のカウンターに寄りかかって文庫本を読んでいる。もう1人が掃除用具を手にして、割れた陶器のカップを片付けている。主に話しているのは掃除をしている男子高生の方で、女子高生は口を閉ざして何も言わない。
なにを話しているのだろうと淳は疑問に思ったその時、不意に顔をあげた女子高生と目があった。淳は凍りついた。
「おや。おやおや、珍しい、ぼくたち以外の人間だよ」男子高生が珍しそうに淳へ歩き、強引に腕をつかんで女子高生のほうへ連れて行った。淳は思考停止を起こしてなすがままになった。
「珍しいね、ここに人が来るのは。君は名前はなんというのだい」「か、菅原淳」
「ぼくはキョウ、そこにいるのはサキ。では聞こう、淳。尋問のように聞こえるかもしれないがけしてそのような意図はなく、単にぼくの純粋な知的好奇心の結果だと了承してくれ。淳はどうしてここにきたんだい?」
「別に、外から人影が見えたのと、何か割れる音がしたのとできてみたら、2人がいて」
「ああ、そうかなるほど。よく分かったよ。たしかにいささか派手に音を立てたからな。君の疑問に補足説明をしよう。コーヒーを飲もうとしたら意外とさめていなくてね、熱くて思わずコーヒーマグを手放してしまったんだ。そのせいでマグは割れてひどい事になった。今までそれの片付けをしている最中なのだよ」
たしかにキョウと名乗った者の言うとおり、司書のカウンターにはコーヒーメーカーが乗っている。それ以外にもサキと紹介された女子高生の手にはティーカップが、奥の司書室には各種コーヒー、紅茶、やかんにポット、電熱器、お茶を飲むのに必要な道具用具が一式そろっていた。
「図書館で、お茶?」ほかにも聞く事はいっぱいあるのに、淳が聞いたのはまずそれだった。
「うむ、そうだ。こう見えてもぼくはコーヒーにはうるさいんだ。その点サキとは趣味を異なる。サキは紅茶党だ」かなりどうでもいい個人の志向を、いかにも大切にキョウは語った。
「どうしてこんなところで?」「それはなかなかいい質問だ。たしかにこのようなところで何をしているのか疑問に思うだろう。しかし淳、ここは図書館だ、図書館でする事といったら1つしかない、そうではないか?」
「読書?」
たしかにいまだに口を閉ざしたままのサキは、2人などどこふく風とばかり文庫本のページをめくっている。
「その通りだ、ぼくたちはここで本を読んでいる。ついでにサキに言わせれば意味がないおしゃべりも楽しんでいる」それは正論のようでいてどこかにまちがいが潜んでいた。本を読むのが目的ならば新図書館に行けばいい、お茶を楽しむのならば喫茶店に行くべきだ、話したいのならばどこでもできる。どうしてここを2人が選んだのか淳には理解できなかった。
キョウはその淳の戸惑いを見てうなずいた。黒い目がすべてを理解していると不気味にきらめく。ぼさぼさの黒髪が暗くなりつつある空に映え、まるで亡霊のようだった。
「君は理解できないと言いたげだね。わけが分からないか。しかしそれもやむをえない、この世界は分かる事なんてごくごく少しだ。ぼくはそれを君に期待していないから安心したまえ。さあ、席に腰かけたらどうだ。自分の好みに合わせて本をとりたまえ。そうしてぼくの話にも付き合ってくれ。夕方はそろそろ終わる。夜まであと少しだ。急がないといけない。座りたまえ」
「いや、おれは」淳は怖気づいて後ずさった。キョウのあくまでも冷静で高慢な態度に高校生らしい生気をみじんも感じなかった。サキは淳を無視している。2人ともまるで高校生らしくない、変わっていて無礼で不気味だった。
「おれはいいですっ」淳はその場を逃げ出した。2人は淳を追わなかったが、淳はキョウの笑いがいつまでも背中についてきているような気がしてしばらく鳥肌が止まらなかった。
よく考えると、彼らが生身の人間であるという保障はどこにもないのである。淳が初めに危惧したとおり、あれは亡霊で淳の生気を吸い取ろうとしていたのかもしれない。
もちろんこれ以上非科学的な見方はない。常識的に考えれば彼らは普通の高校生で、単に旧図書館が人目につかないのをいい事に自分たちの場所にしているのを淳が見つけたのだろう。しかしあまりにも彼らが常識はずれだったので、淳にはどうしても彼らが普通の高校生とは考えにくかった。
そうして今淳はまた放課後の学校を歩いている。授業は終わったばかりでまだ廊下には生徒がたむろっていて、ある者は部活へある者は帰宅へとそれぞればらけつつあった。
淳はいつまでも幽霊の疑問を胸に高校生活を過ごしたくはなかった。そこでどうすればいいのか考えた結果、幽霊ではないという確かな証拠があればいいと思うようになった。要するに彼らがれっきとした人間である事の証明である。
彼らが日坂高校の生徒であるという事は制服から確実だった。自由な校風の日坂高校は制服をしっかり着る事がかえって珍しく、たいていの生徒が何らかの改造をしている。しかしサキは学校からの指定そのままの姿であるし、キョウもそうひどく改造していない。彼らは他校生でも外部の侵入者でもない事はそれから推測できる。このわずかな手がかりを元に2人の身元を探し出し、彼らがれっきとした人間である事を確認しないと淳は今後安眠できない。
廊下の生徒たちをかき分け、淳が行ったのは職員室へ向かった。誰に質問するかはもう決めている。あの態度からするに相当学校になれた人物だろう。少なくとも1年ではない気がする。2年か3年だろうという推測の元、3年の学年主任の、淳が名前も知らない先生の元へ頭を下げて質問をした。
「ぼさぼさ髪の、おしゃべりな男子生徒と長髪の女子生徒? 君、いくらなんでもそれだけじゃ分からないよ」あの場で得た外見特徴を説明する淳に学年主任はかなり投げやりの、しかし正論を返事とした。
「えっと、男子生徒はキョウと呼ばれていて、女子生徒はサキという名前みたいだったのですけど」「それは下の名前かい?」
「はい、たぶん」
「じゃあちょっとなあ。3年生は300人以上いるんだし、下の名前まで把握していないよ」
淳はすごすご引き下がった。職員室を出て少し考える。すぐに階段を下りて、国語研究室へ歩き始めた。2年の学年主任に会いに行くつもりであった。
「う〜ん、ちょっと思い当たらないな」その次は保健室へ向かった。
「さぁ、分からないわ」淳は新図書館へ行き、司書の先生に会おうとした。もし彼らが本好きであるのならば新図書館へも顔を出していてもおかしくはない。
「知らない」淳はすごすごと新図書館を出た。顔をあげると旧図書館が見える。その中の見えない窓ガラスがやけに不気味だった。
旧図書館へ行けばまた2人に会えるだろう。しかしとても会う気にはなれず無駄に校舎内を徘徊する。すでに学校内には生徒はまばらで、大半が部活か学校外に行っていた。もうすぐ淳の大好きな夕方だというのに少しも心が晴れない。
次は誰に尋ねようか。淳は美術か音楽の教員を考えていた。日坂高校ではこの2つの芸術科目を1年の時にどちらかを選択する。そして授業の特異性からどちらも教員は1人しかいない。現行で授業をとっている可能性は少ないが、昔どちらかを経由していたという事で覚えているかもしれない。
覚えている可能性は低いよと淳の内なる声がささやく。淳自身もいい加減やめようかと思い始めてきた。どう考えても徒労に終わる気がする。淳はため息をついた。この先当分彼らは正体不明のままのようだ。
淳は顔をあげた。その瞬間凍りついた。
キョウが目の前を歩いていた。猫背で、両手をズボンのポケットに突っ込み、お世辞にも正しい歩き方とはいえない。1人であるにもかかわらず、唇には冷笑的な笑みが浮かんでいる。淳を無視してすれ違い、そのまま図書館の方向へ向かう。
「桜木さん、あの人」女子生徒のささやき声が聞こえ、淳は心臓が破裂するかと思った。この時間帯、まだ生徒が残っていてもけしておかしくはないのに。
「あの人がどうかしたの?」「今の人が日坂高校3大奇人の、3年の九条キョウ先輩」
「奇人?」
もう1人の女子生徒が遠慮がちな声で聞き返す。
「そう、1人は大久保先生、1人は3年の中桐典子先輩。そして九条先輩。すっごく変わっているんだって」「うん、それは見れば分かるけど」
1年生らしい女の子たちの様子から、淳は紛れもなくキョウが実在の人物である事を知った。ずいぶん評判が悪いようだが、それはしょうがないであろう。奇人と呼ばれるのもうなずくような人柄である。
じゃあサキもと考え、淳ははたととまった。動かない淳の脇を女子生徒2人がひそひそ声でおしゃべりしながら通りすぎる。
淳はサキもその3大奇人の1人かと思ったが、女の子たちの話に出ていた名前はサキではなかった。ではサキは何者だろうか。1回会った限りではサキはキョウほどではないものの、やはり変わっているような気がする。それなのに名誉ある3大奇人に名前を連ねていない。淳は頭をひねった。
「本人に聞けばいいか」淳は気楽に結論を出し、図書館へ行こうとした。新図書館ではなく旧図書館である。先ほどまでに比べて淳の足取りは軽かった。キョウが実在している以上サキもまた実在しているだろうという根拠のない安心感が心に満ち足りた。
「なるほど、しかしそれは安易な安心感だね。なぜならばぼくが存在しているからといってサキが存在していないという根拠にはまったくならないからだよ」
夕暮れ時が近づく。キョウとサキはまったく昨日と変わっていなかった。強いて違いを上げるとするならば床に掃除用具が散らばっていないぐらいだ。サキは黙って本を読み、キョウがなめらかに話す。
「だが安心したまえ。あるいは残念な事にというべきかな。サキは幽霊でもなければ妖怪でも魔物でもない。れっきとしたホモサピエンス、人類の一員だよ」「いや、別に残念じゃないけど」
淳の弱々しい反論はキョウには無視された。サキは聞いているのかいないのかも分からない。
「彼女の名前は鷹司サキ。日坂高校2年に所属している。しかし彼女は探しても運がよくない限りは分からなかっただろうね。君のその実につたない捜索でもぼくは分かるだろう、なぜならぼくはとても有名人だからだ。この学校に3ヶ月いればだれもが知るほど変人として有名だ。しかしサキはそうでもない。サキは自分のクラス、自分の周辺では猫をかぶっていて本質を隠しているからだよ。サキのクラスメイトや教員、数少ない友人やおそらくいるであろう家族へも巧妙にサキは常軌から外れた自分の本質を隠している。サキの評判は非常に地味な女子生徒で終わるよ」「そうですか」
これだけの話にそうですかで返事を終わらせるのはどうかと思ったが、それ以外に言葉が思い浮かばない。しかしキョウは少しも気を悪くする事はなく話を続ける。
あるいは、と淳は思った。キョウは初めから返事には期待をしていないのかもしれない。相手がどうキョウの発言を受け取りどうのように思うかは関心がなく、ただ自分の言いたい事を言うだけで満足しているのかもしれない。
「しかしそのように疑問を持ち行動する事はとてもいい事だ。立派な行動だよ」「そう?」
少なからず淳は驚いた。どうしてそんな馬鹿げた事をと言われるかと思ったのに。
「ああそうだ。どうした、なぜそのように驚く。本当にこのぼくが、あるいはサキが幽霊である可能性もあるだろう。学校にとりついた妖怪かもしれないし図書館に潜む妖精かもしれない。外部からの侵入者かもしれないし犯罪者かもしれない。絶対にそうであるという事はこの世にないのだ。すべては推測の上に成り立っている、この世の中は実にはかなく不確かだ。そうしてその中で何かを疑いそれを証明しようとするのは非常にすばらしい。感心すべき事だよ」「はあ」
ほめられて嬉しいよりも先に困惑する。キョウは不気味に唇をゆがめて笑い、淳を指さした。
「そうだとも。たとえば君にしてもそうだ。どこをとって君が確実に存在しているといえるのだ? どの部分をさして君が現実の日坂高校生とだと証明できる? 記憶は不確かであり、記録はただの記号の羅列である。目で見えるものは光の情報、耳で聞く事は空気の振動、その認識は間違えやすくあやふやな脳で処理している。そのような中、なにが本当に絶対に確実に存在しているといえるのだ? 記憶は偽物かもしれない、記録は捏造かもしれない、感覚は錯覚かもしれない。そのようなあやふやな中でどうして自分は存在していると自信を持てる?」キョウは本当に嬉しそうだった。
「さあ教えてくれ、どこをとって君が幽霊でも幻覚でも妖怪でもない、実在の人間だと証明できるのだ?」「残念だね。実に残念だよ」
2人きりの古い図書館でしきりにキョウは残念がった。それでも顔の笑いは消えない。
「彼には実感がなかったのか。自分を把握していずにたださまよっていただけなのか。非常に残念だよサキ。いい仲間ができたかと思ったのだがね」「キョウは驚かなかったな」
サキはあくまでキョウの事を見ていなかった。
「驚く? 何を驚くというのだ? 彼こそが実体をともなわない人間だったという事か? しかしサキも最初から最後まで驚いていないではないか。それと同じ理由だよ」「彼は自分の事を自覚したとたんに消滅した」
「その通りだ。うっかり分かっていると思っていたらそうではなかった。彼がどのような理由で存在して学校をさまよっていたのかは知らないが、自分が生者であると確信していた。確信がぼくによってゆるんだとたんに消滅した」
「わたしが危惧しているのは」
淳と違いサキはキョウとの付き合いが長い。キョウの冗長なおしゃべりをさえぎって自分の言いたい事を言う事には長けていた。
「彼が本当に幽霊であればいいという事だ。本当に幽霊で自分を自覚したとたん、成仏だか消滅だかしたのであればいい」「おかしな事を言うなサキ。普通の人間の感覚はその逆だ」
「あれがもし実在の人間で、存在の不確かを認識したとたん消滅したのだとしたらどうする。この世はどんな事でも起こりうる、そうだったな」
「ああ、そうだとも」
「もしそうだとしたらキョウ、お前は人間1人をペテンにかけて抹消した事になる」
「なるほど、それは困ったね」
キョウは困っているようには見えなかった。サキも発言とは裏腹にどうでもよい事が今起きたと本のページをめくる。
夕闇がおしよせる。もうすぐ夕方、逢う魔時。人の時刻はすぎて人ならざるものが徘徊する時刻。それだというのにキョウとサキは動く気配をみじんも見せず、またどうでもいいような話を始める。