図書館に入ってきてすぐにサキは言い放った。キョウは何杯目か分からないコーヒーを飲み干してから、人を小ばかにしたように笑う。外はもう夕日が落ちかけていて、図書館全体に影が落ちていた。
「それは実に間違えようのなく誤解するいとまもない命令だね。いいよ、じつにいい。大多数の人はサキとおなじ心境になったら相談に乗ってほしいというんだ。しかしそれは間違っているね。相談に乗る前に答えはすでに出ているのだから。問題発生の直後に、あるいは相談相手を選んだときに。そういうときに真に受けて本当に心底同調して助言するとひどい目にあう。だからサキのそういう態度はとても気に入ったよ」サキはだいぶ量の少なくなった湯をやかんにそそぎ、ふたたび火にかけた。無数にある紅茶の銘柄のうちだいぶ軽くなった缶を選ぶ。
「断るのか?」「まさか、その正直さに感心してもちろん聞くさ。しかしそれによってぼくはどのような利益を得るのだい? いくらサキがぼくの大親友だといっても聞くだけ聞いて何もなしというのは不誠実ではないか?」
「ぬかせ。どうせお前はそれを吸収して自分の知識にするのだろう。知恵はどんな財産にも勝る宝だ。それをただでくれてやるんだ。それ以上を求めるのか?」
「その理論だとぼくは君に億を超える金銭の請求ができそうだね。でもそれでいいよ。さて言いたまえ」
サキは沸騰した湯を10秒待ってから、葉が入っているサーバにそそいだ。サーバのふたをして残りの湯を紅茶の杯に入れる。
「友人の友人の伝達で他者による自分の評価を聞いた」「サキにも友人がいるとは驚きだ。実にうれしいよ」
「キョウに友人がいる程度にはいる。彼いわく、わたしは誰とでも垣根を作る視野の狭さ、冷たさがある。もっと心を打ち明けてほしいそうだ」
杯の中の湯を捨てて茶こしを取り出す。サーバから茶こしで濾過して、夕日のように暗い紅茶を抽出する。
「なるほどね。その意見の持ち主は君を憎からず思っているらしいな。友人になりたいのではないか?」紅茶のかぐわしい香りで多少は落ち着いたのか、サキは表情を和らげた。つまり普段と同じになった。
「ああ、きっとそうだろうな。でもわたしからは断る」「そうだろうね。そうに違いない。その意見の持ち主にとってもそのほうがいいよ。なにせ」
キョウは適当に本を取り上げて開いた。大正時代に作られたそれは旧漢字と仮名遣いで内容は難解だった。
「サキは性格がとても悪いからな。冷淡で虚無的で、自分以外の人間を人と認識していない。利己的で自己中心、自分以外の世界は見えていない、過去を切り捨て未来を見ず、現在に希望を抱いていない。すべてに諦めて見切りをつけている。何もかもがどうでもいいと考え放置する、悪い意味での真諦者だ。実にサキは性格が悪いよ。立派に社会不適合者だ。惚れ惚れしてしまう」サキはキョウを無視して本棚に近寄った。もう何十回も読んだ古典推理小説を手にとる。
「しかし意見の提案者もいけないな。サキはこんなに性格が悪いけど、それを隠そうとしてサキなりにがんばっているんだ。こんなに性格が悪いのを何とかごまかして隠して、人格の悪さを他者に悟られないようにしているのにそれを否定して公開してほしいといっているのだからな。なかなかの人物だね。真の性格を見せてほしいといっているけど、もし本性を現したらどうするのだろうね。逃げるだろうね。なぜならサキはとても性格が悪いのだから。ひねくれて捻じ曲がっていて、とても人間が好ましいと思うものではないのだから、きっと一目散に逃げるだろう。提案者は性格を隠している理由をもう少し考えないといけないだろうね。本性を隠しているのだってそれ相当の理由があるものだ、それを深く考えもせず軽い気持ちで言って暴こうとするのは非常に危険だ。しかしサキ、実に面白い話を聞かせてもらったよ。たった2言の文章でここまで愉快になったのは久しぶりだ。何か礼をしないといけない」
サキは本棚に寄りかかり、推理小説を読み始めた。何十一回目だ。
「そうだな。言うことを言ったのだし、後はキョウが黙れば満足だ」「ならそうしよう。ぼくが人の意見を素直に聞くのは珍しいがこれも楽しませてくれた礼だよ」
それきり2人は黙って自分の読書の世界に入って出てこなかった。夕日が沈み、図書館全体に闇がおしよせても彼らは約束どおり1言も口をきくことはなかった。