「本当の自分というのは一体何なのだろうな」
「どうして」
「けんかを売っているのか」
「どうして」
「仮面を何もつけていない状況で人と接する事はありえないだろう。サキ、君だって初対面の人物と会う時にはそれにふさわしい態度をとるはずだ。逆に非常に親しい者と合う時でも素のままの自分というのはありえない。親しい友人という名の仮面をかぶる。どんな時でも人と関わる時は仮面をかぶる。では本当の自分の出番はどこだ? 誰もいない時、誰とも会わない時、1人の時だ。その時に現れるものが本当の自分だろうな。しかしそれを誰が認めるのだ。それは誰もいない森で倒れた樹の音にも似ているな。音は存在するのかしないのか、聞く人がいないからこんな簡単な問題が非常に難しくなる。まして人なんて人と関わって存在を認められてこそ人でありうる。他人がいないのでは人は人ではありえない、存在そのものが消滅してしまう。そこで本当の自分だ。人格なんて他者がいる所でしか認められないのに、どうして誰もいない所でしか現れない自分をほしがるのだろう。サキ、君はどう思う」
「無意味だと思う。キョウの議論がだ」
「電車の中に転がっていると思っている」
「それはどういう意味でだね?」
「ふむふむ、実によくある光景だね。目に浮かぶようだよ」
「その電車とある駅で止まる。大きな駅で乗客の大半が降りる。女の子の友人たちも1人を除いて降りてしまう。1人残された女の子は空いた席に座ってかばんからティーンズの文庫本を取り出し、しかしそれを開かずにぼんやり表紙を見る。そんな時本当の自分が表れるのだと思うな。ただけして本人は気づくことはないだろう。気づいた瞬間あわててほかの電車の客へ向けて無難な自分を作り出すからだ。結局本当の自分というものはまったく関係ないよその人間がふと気づくものなのだろうな」
「なるほど。実に面白かったよ。今度ぼくが電車に乗るときは注意深く観察しよう」
「よしたほうがいいな」
「絶対に痴漢に間違われるからだ。キョウは外見も危ないし口をあければとんでもない屁理屈をこねる。そんな男が女の子をじっと見てみろ。通報されるぞ」
「サキ、君はぼくを誤解していないか?」
「いや、正しく把握しているだけだ」
背表紙がガムテープで幾重にも補強されている辞典から顔を上げ、眼鏡の奥に冷たい光を持って、サキはキョウを見た。
「何が言いたい」サキは砂糖も何も入っていないティーパックの紅茶をすする。キョウはサキにはかまわず大きな目で天井を眺めながらコーヒーに口をつける。
「だからね、よく言うじゃないか、本当の自分だよ。絶対的大多数の人たちはそれを求めてさまよう。本を読んで、教室に通って何時間も語り合う。しかし僕は思うね、そんなのは無意味だよ」「どうして」
キョウは穏やかにたゆとう湯気を見上げ、堰を切ったように話し始めた。
「決まっているではないか、たとえば僕たちは学生だ。何か事件を起こしてあるいは巻き込まれたとき、新聞に載る称号は高校生だ。僕たちは世間一般には高校生の仮面をかぶって過ごしていることになる。サキ、君は兄弟がいたかい? 兄弟の前では年長者、年少者としての仮面をかぶり、それにふさわしく年下の者を導き守り、年上の者を敬い尊敬する。最もサキはその程度の理由では人を尊敬しないし守りもしないだろうけどね」「けんかを売っているのか」
サキの表情は変わらなかった。キョウは薄ら寒く笑う。
「そんなことはないよ。なぜなら僕もその程度で人に深くかかわろうとはしないからだ。もしくは親の前ではその子供という仮面をかぶり甘えて頼る。逆に親になった時は教育して愛する。恋人の前ではそれにふさわしい態度を取るだろう。僕たちは複数の仮面を持っていて、時と状況に応じてそれを使い分ける。そして何も仮面をつけていないとき、いわゆるすっぴんという状態が本当の自分というものだな。社会人という仮面に疲れた人たち、学生という仮面に疑問を持った迷える若者はそれを求める。しかし考えてみろ、それは無意味だ」「どうして」
「仮面を何もつけていない状況で人と接する事はありえないだろう。サキ、君だって初対面の人物と会う時にはそれにふさわしい態度をとるはずだ。逆に非常に親しい者と合う時でも素のままの自分というのはありえない。親しい友人という名の仮面をかぶる。どんな時でも人と関わる時は仮面をかぶる。では本当の自分の出番はどこだ? 誰もいない時、誰とも会わない時、1人の時だ。その時に現れるものが本当の自分だろうな。しかしそれを誰が認めるのだ。それは誰もいない森で倒れた樹の音にも似ているな。音は存在するのかしないのか、聞く人がいないからこんな簡単な問題が非常に難しくなる。まして人なんて人と関わって存在を認められてこそ人でありうる。他人がいないのでは人は人ではありえない、存在そのものが消滅してしまう。そこで本当の自分だ。人格なんて他者がいる所でしか認められないのに、どうして誰もいない所でしか現れない自分をほしがるのだろう。サキ、君はどう思う」
「無意味だと思う。キョウの議論がだ」
キョウはコーヒーを飲み干してお茶請けのチョコレートを取り出した。君も食べるかいとサキに進める。サキは無言でそれを受け取り、再び紅茶に口をつけた。キョウはもう1杯カップにコーヒーを注ぐ。
「そうだ、サキ。君はそういう意見を持っているんだ? せっかくだ、君にも何か思っていることがあるだろう。サキは本当の自分といったものについてどう思っている?」「電車の中に転がっていると思っている」
「それはどういう意味でだね?」
キョウの目が輝いた。一見奇妙な返答に大いに好奇心を刺激されたのだろう。サキはキョウを見ていやそうに顔をしかめた。できれば返答したくないという風情だったが、キョウはいったん興味を持ったら人が嫌がろうとも泣いて拒否しようとも聞き出すまでついて回るだろう。サキは明日以降をキョウに追い掛け回されたくはなかったので答えた。
「ふとしたきっかけで現れるものだろう。たとえば電車の中。女の子が数人でおしゃべりをしている。高校生か大学生かそれとも社会人かは知らないが、それでも非常に楽しそうにはしゃいで、いささか電車の中のほかの客の顰蹙を買っている」「ふむふむ、実によくある光景だね。目に浮かぶようだよ」
「その電車とある駅で止まる。大きな駅で乗客の大半が降りる。女の子の友人たちも1人を除いて降りてしまう。1人残された女の子は空いた席に座ってかばんからティーンズの文庫本を取り出し、しかしそれを開かずにぼんやり表紙を見る。そんな時本当の自分が表れるのだと思うな。ただけして本人は気づくことはないだろう。気づいた瞬間あわててほかの電車の客へ向けて無難な自分を作り出すからだ。結局本当の自分というものはまったく関係ないよその人間がふと気づくものなのだろうな」
「なるほど。実に面白かったよ。今度ぼくが電車に乗るときは注意深く観察しよう」
「よしたほうがいいな」
サキは本を閉じて紅茶をもう1口すすろうとした。ぬるくなって味が落ちたのか、口をへの字に閉じる。
「どうしてだい?」「絶対に痴漢に間違われるからだ。キョウは外見も危ないし口をあければとんでもない屁理屈をこねる。そんな男が女の子をじっと見てみろ。通報されるぞ」
「サキ、君はぼくを誤解していないか?」
「いや、正しく把握しているだけだ」
サキは表情を変えずに断言した。キョウは気を悪くした様子もなく、サキに指摘されたとおり、気味の悪い笑い顔を浮かべた。
「ほう。おっとそういえばコーヒーが冷めてしまった。もったいない」図書館の外はせみがけたたましく鳴いている。7月もそろそろ終わりだった。