三つ首白鳥亭

−不可視都市−

4.そして、アイ

空気の圧縮音と共に地下鉄の扉は閉まった。わずかな乗客をのせて無人電車は次の目的地へすべりだす。

構内にはバンショウには珍しく人がおおかった。しかしすべてがアイのしらない人だから、無人であることとそうたいしてかわらないのかもしれない。アイは迷うことなく改札口へむかった。3回目の使用である、いい加減駅構内の配置はおぼえる。ただでさえ重いアイのかばんに、今回さらに加わったものがあった。うっかりそれをつぶしてしまわないようにアイは静かに歩いていった。

構内の天井には巨大な浮き彫りが配置されている。アイはその中のだれが車椅子であるのかを見つけようとする。3分探してどこにもいないとあきらめて外へでようとする。今まで全敗だった。

外は強烈な春風がふいていた。とうにアイは慣れていて、歩くこととおなじように自然に上着を左手でおさえている。かつてあったようにふきとばされて探しあるくはめにはなりたくなかった。

アイの目的地はすぐそこだった。白い建築物は見なれた建物とはちがい、敷地面積がひろいわりに高さがそれほどではない。アイは現代人であるが、それを空間のむだづかいと非難するつもりはまったくなかった。病院の階層が高いと、いろいろ不都合がでる。

いつもとおなじようにとある病室をめざす。そこは贅沢にも1人部屋で、しかも普段当人が住んでいる場所よりも広かった。

「こんにちは、グァバ」

白い病室でつまらなそうに自分の報告書に訂正を入れていたグァバは、救いの神でも見るかのように出入り口にたたずむアイへむいた。

「たのんだものは持ってきてくれたか?」
「挨拶よりもそっちが先か。いろいろ報告したいこともあるんだよ、月間昆虫学なんてむずかしい雑誌よりも先に聞いてよ」

グァバとしては雑誌のほうを優先したかったのだろうが、書店で買いもとめたアイへの恩がある。小声で「だから入院なんて大げさなことはいやだったんだ」とぼやきながらもアイの話を聞く体勢になった。

「いや、グァバ、大げさもなにも、入院が必要って診察されたんだから素直にしてよ」

不法侵入者排除装置からかけられた薬品もバンショウ総合情報処理母体の部屋の一時的呼吸困難もたいした影響はなかった。それよりもガラスを叩きわったときのグァバの右腕の裂傷が意外とひどく、即グァバは入院生活を余儀なくされた。一方アイのほうは身体検査のみで終了した。そのことをグァバはうらやましがっている。

「まず、ぼくだけど。昨日バンショウ市長から連絡があって、正式に決まったわけではないけどぼくがバンショウ名誉市民になれるんだって」
「そうか」

グァバはあまり感心しなかった。ほかならぬグァバが昨日名誉市民の内決定をアイからしらされたからであろう。それでもなにか言わないとまずいと気を使ったのか「よかったな」とつけくわえた。

「それなりにはよかったよ。次、グァバに植物研究所からの引きぬき依頼が2件入った」

アイはグァバの世話役ではないが、アイ以外にする人がいなかったので自然とその位置におさまった。グァバはしぶい顔をする。

「断る。どうせわたしのことを聞いて、宣伝がわりにしようとするんだろう。そうでなくてもわたしには13区港南部植物研究所があるんだ」
「だろうね。ちなみにぼくのほうも教育機関をでたらぜひって、誘われちゃったよ。まだ学生だし返事は保留しているけど、悪い気分じゃないね」
「浮かれるな。一時期の報道やら広告やらでつかれたんだ。あれをもう1度はごめんだ」
「ぼくもだけど」

今では報道陣も落ちついて、アイたちには見向きもしない。飽きたのだろうが、実にいいことだとしみじみ思う。

「温室の具合はどうだ?」

しばらくして、グァバはたずねた。

「ぼくががんばっているよ。毎日巡回もしているけど虫も病気もない。あ、でもそうだ、奥にあるウリの葉に白い丸いものがいくつかできているんだけど、あれなに?」
「たぶんうどんこ病だろう」
「それはなに」
「カビの病気で非常に宿主範囲が広い。なににでも感染するから、その白いカビが生えた部分を消毒した刃物で切りとって捨てろ。切りとった葉はその辺に放りださないで、居住区の生ごみ入れに捨ててくれ」
「わかった。ちゃんと留守番はやっているからね。退院するときにはさらに立派な温室にして返すよ」
「崩壊していないだけでありがたいよ」

そのときのグァバは心底そう思っていた。アイは少々傷つく。

「こっちも見ての通り元気だ。退屈するひまもない。カワイ先生がひまなら報告書をまとめなおせと伝えてきてな。病院内は情報処理端末は使用禁止だろう。紙に報告書は書きなれていないから大変だ」
「そっか。じゃ、これが最後。とっておきだよ」

アイは自信たっぷりに隠していたものをグァバの前にだした。グァバの目が一瞬見開く。

「桜か」
「うん」

アイが手にしていた細い枝には、淡い桃色の花びらがついてやさしい芳香を病室にもたらした。

「もちろん本物の桜は終わっているけど、バンショウ内に八重桜があるってきいたから。ためしに行ってみて、はやく咲いたものを許可とってもらってきた」
「そうか。ありがとう」
「よろこんでもらえてなにより」

アイは花を生けるため、花瓶を探そうと立ちあがった。グァバはさもいとおしそうに枝を指でなでる。

「そろそろ風が弱くなるな。毎年この時期には春一番も終わるんだ」
「でも、どうせビル風は1年中でしょう」
「当たり前だろ」

枝に比べて大きい花瓶を見つけてきたアイにグァバは八重桜を手わたす。

「アイ、ここをどこだと思っているんだ。バンショウだぞ。無風の日は存在しない」
「よくわかっているよ。身にしみてね」

軽やかに切りかえし、アイは春の日差しの中、花瓶をどこにかざろうか頭を悩ました。