三つ首白鳥亭

−不可視都市−

3.バンショウ

1つの都市がある。

名前はバンショウ。ある大国の主要都市であり大都市。都心であり国の命綱の1つ。最先端都市でありありとあらゆるところで最高の技術が惜しみなく使われた。科学者と建築家の夢の結晶、彼らの願いが具現した街。

合理性と機能性を至上として、いずれ劣らぬ7人の天才によって街は設計された。そこで生きる人々は空を飛ぶちり1つ落ちていない道を歩き、地下に張り巡らされた無音の通路を利用する。建物はすべて天まで届かんばかりの超高層建築物、電子の粒子は街のすみずみまでいきわたる。だれもが認める理想の最高の都市。

「グァバ、きいてもいい?」
「答えられる範囲だったら」

夜のバンショウは街中いたるところで明かりがついて、歩くのに問題はなかった。建物の中は暗いが外灯がそれをおぎなうように歩道車道地上空中まんべんなくどの道にもこうこうと輝いている。温室ではあれほど輝いていた銀の月も、線路の上から見てしまうととたんにちっぽけな、今すぐにでもきえはててしまいそうな輝きでしかなかった。

「7人の創立者って、どんな人物だったの?」
「駅の浮き彫りで見なかったのか?」
「見たよ。でも外見だけではなくて、性格もしりたいんだよ」
「わたしが彼らの細かい性格をしっている理由がないだろう」

しずかだった。正真正銘すべての住民はきえさり、今ここにはアイとグァバしかいない。電車も車もとおることなく、足音も運動靴と空に吸収される。アイは世界が滅びるというのはこういうことなのだろうと思った。唐突に、なんの前触れもなく、すべてがきえさり無音の世界をつくる。だとするとその中で穏やかに会話をしながら世界を見ることができるのは人生に2度もない、まれな幸運なのだろう。

グァバはすこし考えてから、ふるい記憶を思いかえすように答えた。

「7人いた。全員国籍、年齢、性別はばらばらだったが、だれもがそれぞれの分野で最高の評価をうけていたものたちだった。国からの命令をうけてバンショウの開発をすすめた。3人が都市制御情報構築、2人が都市設計。1人がこれらのことを有益で投資する価値があると広告をして、1人が6人を統制した。彼らがいなければバンショウ再開発計画は倍の年月はかかっていたということで、彼らの功績をたたえ、街のあちこちに浮き彫りがつくられた。そんなところだ」
「彼らのつくった都市制御情報処理が狂っているのに、彼らに責任を問う声はおこらないのかな」
「さて。でも10年だぞ。情報技術の世界の進歩ははやい、10年前にたずさわったからといっていまさら呼びだされるものなのか?」
「まずありえないね。責任を問われるのは今の局長だ。でも呼ばれないのかな」
「たしか、創立者の2人は死んで1人が入院、3人引退して今現役で活躍しているのは1人だったな。呼ぶのはむずかしいぞ」
「たった1人しか今も仕事をしていないの!?」

アイにはべつの意味で驚きだった。あの浮き彫りにはそこまでひどい老人はいなかったはずだが。

「1人は自殺、1人は飛行機事故だ。そこまで珍しがることでもないだろう。10年はながいよ」
「へえ。だったらいまさら呼んでも、という感じだね」

7人組はもう崩壊している。呼んでもくるのは1人だけだ。創立者たちは過去の存在となり、今では浮き彫りの中でしかいない。

「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「もしもあの、地下2階で聞いたことが本当だったら、どうしてそんなことをしたのかなと思って」

2人の歩みは非常におそかった。ながいこの先に向けて体力をむやみに消耗しないように、ゆっくりゆっくり前へ進む。周りの風景はほとんど前とおなじで、しかし少しずつ確実にうつりかわる。

「そうだな。なんでだろう」
「もしもグァバが、あるときあの温室をつぶして倉庫にすると聞いたら、全身全霊をもって大反対するよね。建物を全部とりこわして、草も木も全部切って、土を捨てて、でていってくださいって言われたら抵抗するよね」
「当たり前だ。反論しないほうがどうかしている。それこそ相手とさしちがえる勢いで抗議するぞ」
「だめだよ、本当にさしちゃ」

駅の構内で見せた子どもっぽさからして、グァバは本当にやりかねない。アイはいまさらながらに警戒をした。

「でもそうだよね。自分でつくったものはそうやって大切にするのが本当なのに、どうして彼らは自分たちからこわそうとするんだろうね。ぼくにはよくわからない」
「……そうか?」

グァバは小さく聞きかえした。

「アイにはよくわからないのか? わたしにも理解できないが、アイはなんとなく理解できている気がしたぞ」

アイの鼓動がはねあがった。

「そんなことはないよ、どうしてそう思うの」
「そうか。いや、なんとなくだ」

線路沿いの建物はすべてがはかったように似たような高さ、似たような外見、おなじような建物だった。よく気をつけないと情報管理局を見逃して通りすぎたかもしれない。

「あそこが今の情報管理局だね」
「ああ、そうだな。行こう」
「旧管理局へ行かないと、都市制御情報母体へは行けないんじゃないの」
「でも、どうせ旧管理局へは端末で見たとおり、入れないだろう。今の管理局へ行ってみる」
「どうして」
「昔の創立者たちが使っていた情報処理端末があるだろう。そこで作業をしていたということは母体へよほど密につながっていたんじゃないか。そうでなくても古いバンショウの情報があるかもしれない。どこかに警備管理の抜け道があるかもしれない。それを見つける」

そう簡単に見つかるわけがないとアイは考えたが、いきなり旧管理局へ行くよりはよほど平和的だ。アイは口答えすることなくグァバについていった。

情報処理管理局は無人だった。昨日との違いは人がいるかいないかだけで、それ以外はなにも変化がない。だというのにアイはここが情報管理局だと断言するのに何回も確認が必要だった。アイから見て、まるで別の建物のように思えた。あれほど大勢の人間が出入りしていて、熱気に満ちていた場所とおなじとはとても思えない。

「建物を構成するのはしょせん人だからな。よいしょ」

グァバは閉ざされた自動扉を強引に力任せに開けようとした。アイの予想にはんして扉は少しずつ開いていく。すぐにアイとグァバが入れそうなすきまができた。

内部はまだ電気が通っていた。適当にアイが壁を探って明かりをつける。

「地下2階はどっちだ?」
「たぶんこっち」

前に1回きているにもかかわらず、アイはなかなか思うとおりに進めなかった。24時間前までいた作業場は比較的たやすくつけたが、それから先の地下2階への扉が見つからず、グァバと2人で壁という壁をはって探すはめになった。

「何でこんなわかりにくいところに偶然行けたんだか」
「人にこいって言われたからだよ。そうでなきゃ見つからないし、見つかっても行かなかった」

今度は見つけたのはグァバのほうだった。扉の向こうには前とまったくかわることがない、暗い通路がまっすぐに伸びている。あの時も今もここには人気が皆無だった。だから、むしろアイは安心してその先へ踏みこめる。

「車椅子の女の人だったのだろ」
「うん、そうだよ」
「変だな」

道はせまくて2人で並ぶことができない。自然とアイが先に行く。会話がとぎれないのがありがたい。ふりむかなくても1人ではないことがこれ以上なく感じられる。

「変って?」
「どうして遠くにいるアイに手助けをもとめるんだ。隣の席の同僚でもよかっただろうに」
「それはぼくがいかにもしたっぱ、短期労働のように見えたからじゃないの。声をかけやすかったんだよ」
「たしかにアイはしたっぱだな」

自分でもわかっていたことなのだが、肯定されてアイはすこし落ちこんだ。グァバは思ったことを口に出さない術を身につけないとそのうち本当にそれが原因で没落しかねないとひとごとながら心配する。

「でも助けがほしいときは遠くのしたっぱより近くの同僚だぞ。声が届くかどうかもわからないあんなひろいところで、いくつもの情報処理端末が間にあるときにはなおさらそうだ」

昇降機はまだ起動していた。ぼんやりとした橙色の光はここが地下1階であることを伝える。アイは楽をしたいと考えたが、万が一昇降機が途中でとまったら笑い事にならない。楽をするのはあきらめて階段へ向かった。

「それに呼んでおきながら先へ行くのも変じゃないか。急いでいたとか、きっとくると思っていた以前に、普通はそんなことはしないぞ」
「うん、普通はしないと思う。でもぼくは、ぼくを筆頭として普通じゃない人を大勢しっているから、そんなのもありかなと思った」
「なしに決まっているだろう」

1人で腰が引けながら進んだ階段は、2人で問答をしながらだとおどろくほどすぐについた。アイはこんなに浅い場所だったのかと感心して、鉄の塔の形をした情報処理端末へグァバを案内しようとした。

ぽーん。

『助けてください』

アイは身体がすくんだ。すぐ後ろで息をおしころそうとして失敗したようなおかしな声がする。

ぽーん。

『助けてください』

アイは扉からこっそりのぞいた。だれもいない、闇が落ちる空間に奇妙に現実味のない人間が、虚空を見てうったえている。足は地面についていなかった。

ぽーん。

『助けてください』
「……あ、ああ。グァバ、大丈夫、異常通信が起こした現象だよ」

不法侵入でとがめられる心配がなくなり、アイはグァバに見せつけるかのようにわざと大胆に扉をひらいて奥へ進んだ。グァバはその場でしばらくじっとしていたが、意を決してアイの後ろをいく。

アイは適当に壁を探り、部屋全体の明かりをつけた。情報処理端末が蛍光灯の白と床の灰色の中に浮かびあがる。立体映像のぶきみさと人間らしさはとたんに消滅し、同じ言葉をくりかえす画像はむしろ、あわれさとこっけいさを感じさせた。

「ここにも異常通信がきたのか」
「もうだれも何もしないからね」

アイはこの場所で、とうに自明だったことをようやく実感した。床の傷はまだ生々しく残っている。

「本当にバンショウは見捨てられたんだね。もうだれもこないし、なおそうという人も助けようという人もいないんだね」

ぽーん。

『助けてください』
「だったらこの異常通信は、バンショウの訴えかもな」
「未来からの? グァバらしくないね。そんな非現実的なこと、切り捨てるかと思った」
「わたしだって感傷的になっている1人だからな」

ここにきた目的も忘れて2人は同じ言葉をくりかえす、ただの通信でもなければできそこないの人形でもない人物を見上げていた。アイはふと、その人物がだれかに重なって見えた。

「アイ、この情報処理端末から情報を引きだせないか」
「まだやるつもりだったの」

アイは正直、これでもう帰ると思っていただけにおどろいた。

「それは絶対不可能じゃないけどやりたくないよ。異常がぼくの情報処理端末に感染したら困る。それにこの異常通信がどういう効果を起こすのかわからないけど、ひょっとしたら情報がすべて破壊されているかもしれないよ」
「そうか」
「うん。ぼくはやりたくない」

グァバは長い髪をいじり、灰色の天井を見上げて灰色の床を見下ろした。アイは内心どうかあきらめますようにと祈り、手持ち無沙汰になってあたりを見物する。ここにきただけでも十分土産話の種にはなった。

目を適当にさまよわせているうちに、アイはおかしなものを発見した。そこにあっても本来おかしくもなんともないが、アイとしてはあると困るものだった。

「グァバ!」
「なんだ、アイ。今ようやくいい考えが思いつきそうなんだから邪魔しないでくれ」
「あそこに、昇降機がある」

アイの指さした場所には、アイが通りすぎたものよりはるかに大きく新しい昇降機と、その横に非常用階段があった。

「それが」

どうした、といわぬうちから、グァバは口をつぐんだ。

「おいアイ、どうしてここに、いかにも使いやすそうな昇降機があるんだ。さっきの通路を通って昇降機を使うより、こっちのものを使ったほうがはやいし近いだろう。それなのにアイが見た女性は、どうしてこれを使わなかったんだ」
「わからないよ」

アイは本当にわからなかった。本当にあの女性は幻覚かみまちがいだったのかもしれない。

「アイ、その人は車椅子だったのだろ」

グァバは昇降機のようすを見るために近づいた。

「うん、そうだった」
「だったらここにその人はいたかどうか、覚えていないか?」

アイは昇降機をながめながら思いかえした。あれから1日しかたっていないのにはるか遠いときのことのように感じる。

「覚えていない。いなかった気がするし、もしいたとしても暗いのと動揺したのとで、ろくに見ていないからわからない」
「そうか」

ぽーん。

『助けてください』
「ところで唐突だが、アイ」

グァバは異常通信と同時に発言した。この状況にしては表情が明るい。

「非常用階段、さらに地下まで続いているんだ。もう少しここを探そう」

アイの祈りは届かなかった。


神はグァバに味方したらしい。さらに地下深くおりたところで、アイは偶然地下用水路への引き戸を見つけた。鍵はかかっていず、だれでも入ろうと思えば入ることができるようになっている。

「グァバ、ここから先へ行くつもり?」
「行ければな。どうだろう」
「ここから直接つながっているわけはないと思うけど、建物の近くか、運がよければ内部にまで入れるかもね」
「じゃ、行こう」

やはり結論はそれだった。グァバは引き戸を開けて中の様子をたしかめ、慎重に地下のさらに下へ足を伸ばそうとする。

「でもアイはこれ以上進んでほしくはなかったんじゃなかったか? どうして先へ進めるようなことを言うんだ」
「行くのに気が進まないことと、嘘をついたり隠したりするようなことは別だからだよ」
「そうか。アイはけっこういいやつだな」
「ははっ、いまさらわかった?」

おちゃらけた会話をしているうちに、やっとアイも落ちる覚悟ができてきた。底が闇しかない空間に足を投げいれ、いつその下が床でも奈落でもいいようにゆっくりゆっくり降りる。会話はそこで中断した。時間にして1分足らずのそのときは、しかしアイには10倍かのように感じられた。

「明かりがほしいね。懐中電灯でも光るきのこでもいいからなにか持ってくればよかった」
「光るきのこは本当に明るいぞ。品種にもよるが10つもあれば新聞が読める。それはともかく、べつにいいじゃないか、本当の意味で真っ暗ではないんだ」

バンショウではこんな人目につかないところでさえも真の闇は存在しなかった。足元に5メートルの間隔で青白い光が設置されている。新聞を読むのにはとうてい足りないし、たがいの顔の表情を見ることでさえも困難だったが、少なくとも転ぶことはないだろう。

地下用水路は使われなくて久しいようだった。水は通路にも用水路にもなく、かえって乾燥している。地下独特の冷たい空気の中、グァバは「あっちだな」と自信ありげに先頭に立った。

「わかるの?」
「なんとなくだが。この街に生きている以上、最低限の地理は頭に入っている。それにわたしは方向感覚が鋭いほうなんだ」
「温室で6年すごしているうちに、その方向感覚が鈍っていないことを願うよ」

この街の地理にかんしてなら、アイは自分のほうがよくしっていると思っていた。

すぐに2人は通路よりもかれた用水路のほうが広くて歩きやすいことに気がついた。用水路はもうだいぶ古いものらしく、あちこちかけてひびが入っており、もうもとの目的で使用しようにもできなさそうだった。

「下水道にしてはあんまり臭わないんだね。ほとんど無臭だ。よっぽど使われていなかったんだろうね」
「下水道じゃないと思うぞ。どこもかしこも道路舗装されてバンショウは雨水の行きばがないから、それを海へ流してしまうためのものだろう。あるいは、もともとあった川をつぶすとき、かわりに用水路をつくったとか」
「グァバのいう通りかもしれないね」

あとはそれきり、会話はこれ以上のものはなかった。

よどんだ空間であるにもかかわらず、空気はすんでいて息苦しくはならなかった。ほこりがすこし鼻につく。どれくらい歩いたのだろうか、途中途中にきたときとおなじようなはしごがいくつか目についた。ためしにグァバがのぼってみるも、目的の情報局旧本部ではなく、野外のめだたない地面だった。

「もしこれが、通じていなかったらどうする?」
「そのときはもどって別のところから行くんだろうな」

ほんの少し、アイはなりゆきでついていったことを公開した。暗くて後ろを歩いているのをいいことにアイは疲労を表情にだす。細かいきづかいなどには無縁のグァバは当然気づくことなく、新しい上方へのはしごを見つけると歩道に手をついて上り、はしごを下から見上げる。そのままアイに一言もかけずにのぼりはじめた。

アイは歩道へよりかかって足を休めた。温室の日々で肉体労働にはなれたものの、せまい植物園では長時間歩くことはない。足がはれてひざが痛んだ。きたない服の上から少しでも楽にしようと手でもみほぐしてみるものの、効果があるのかないのかわからない。

「アイ、見つけた」
「え、本当?」

疲れはたやすくけしとんで、急いでアイもはしごに手をかけた。

おりるよりものぼるほうが、終着点がわかっているだけみじかく感じた。グァバに続いてアイは地上にあがり、そして周囲を見て絶句した。

「多分ここが情報管理局旧本部だと思う。自信はあまりないが」

グァバの声も耳には届かない。アイは立ちつくしていた。

「ここは…… 楽園か」

アイの自覚なく、唇から言葉がもれた。

巨大な円筒の空間は建物の最上階までつらぬいていた。天井には鉄筋のかわりにガラスがはめこまれていて、アイが忘れかけていた朝がもうすぐであることを告げていた。足元は黒土で、柔らかい若草色の草花で一面おおわれている。螺旋型の階段があり、1階層分だけのぼることができるも、本来の地上のあたりから上には階段はとぎれていて壁しかなく進めそうもない。その螺旋型階段にも壁にもびっしりつたがおいしげり、元の壁の色もわからなかった。

足元にはタンポポやスミレの花がさいていて、外灯も非常灯もない空間には無色で透明な太陽の光が静かにしみわたり、花の本来の色をアイにつげる。空調がきいているのか気温は快適で、アイの前髪がひそかにゆれた。

「グァバの温室と、おなじだ」
「ぜんぜん違う。一緒にするな」

植物の専門家として聞きずてならなかったらしい。アイは独り言のつもりだったが反論ははやかった。

「ここは温帯植物、どこにでもある草木が主流でわたしのほうは熱帯植物だ。管理の具合もちがう。ここは設備を整えて種をまいて、あとは何もやっていない、生えるにまかせている。こっちは日々こまめに手入れをしているんだ」
「じゃあグァバのほうがすごいの?」
「そんなことはない、環境がちがうだけだ。これもそれなりにはすごいよ。一番はじめの計算が大変だっただろうな」

アイにはそれはまけおしみに聞こえた。たしかに現在の手のかかりようはグァバの管理している温室のほうが上だが、美しさや完成度ははるかにこちらのほうが優位だった。無人のまま存在し続ける楽園。きっとここはバンショウが滅んでもアイたちが立ち去ってからも、ひょっとしたらアイたちの寿命がつきたあとも依然としてあり続けるだろう。そう考えるとアイは全身がふるえて鳥肌が立った。これが感動というものだろうか。

「すごいね、ここは」

グァバは感動とは無縁でしばらく空を見上げていたが、そのうち庭園にあきたのか草木を踏まないように慎重に歩みを進め、階段の手すりにつかまった。

「ヤブガラシだ」
「ヤブガラシ?」

聞いたことのない名前だった。かけよるアイにていねいに説明をする。

「ヤブガラシは雑草の一種だ。つる性の多年生植物で、すごく繁殖力が高い。ぬいても地下茎がすこしのこっていたら復活するし、繁茂する速度がはやい。その勢いは植物にからみつき日光を遮断して、藪までもからしてしまうからヤブガラシという名がついた。」
「強いんだね」
「どこから生えてきているのやら」

壁をつたって螺旋をえがく階段をのぼり、行けるところまで行った。もう道はない。弧をえがく野原がゆるやかに続いてもとの階段へもどる。アイは壁によりかかって地面に腰をおろした。ヤブガラシの茎のとげが意外といたい。

「つかれた」
「朝ごはんにしようか?」

アイに異存はない。グァバがせおいかばんからおむすびと真鍮の水筒を取りだしてアイにてわたした。どこかゆっくり座れるところはないかと探しているうちに頭上から機械音が低く聞こえる。その振動は壁にも伝わり、すぐに水滴が天から落ちてきた。しずくはすぐにふりそそぐ雨に移りかわる。

「人工潅水装置だ。豪勢だな」
「グァバ、こっちは雨がしのげる」

アイは壁の一部に屋根といすらしき場所を見つけた。そこに隠れ、人工的降雨が大地に吸いこまれるのを見つめる。アイはぼんやりそれを見物しながらおにぎりをほうばった。具は何もなく味付けは塩のみだったが、空腹という調味料がよくきいていた。

「うまい」
「そうか。それはよかった」

雨音が2人の間を流れた。

「本当は、潅水装置はこうでないほうがいいんだ」

聞いていないのに専門家のくせか、グァバは語りだした。

「上からやるとは植物が傷つくこともあるし、ある一定の水はどうしてもむだになる。人工潅水はもっとこう、植物の根元に穴のあいた蛇管を通して、そこから水滴がこぼれるようにしたほうがいい」
「そうなんだ」

アイはたいして聞いていなかった。眠ってしまいそうなほどこの場所は美しい。音もなく人もいず、すべてがしずかだ。人工的なものと自然物とが均等に混ざりあっている。もし死に場所を選べるのであれば、アイはここで死んでしまいたい。だれもしらないこの楽園で。

雨がやんだ。時間にしておおよそ10分ていど、もう太陽の光は色をおびてこれから長い昼がくることをそれとなくしらせる。アイは残念だった。残念という感情は当てはまらない、それより無念と表現したほうが正しい、わけのわからない気持ちがのどの奥から競りあがってきた。この気持ちをだれかに、手近にいるグァバに伝えたいが、アイはそれを表現する言葉を持たなかった。

「朝だな」

グァバはアイの内面に渦巻く感情など露しらず、立ちあがり服のすそに露がこぼれるのも気にしないで屋根の外へでていった。壁をていねいに見てある一角でふれようとし、奥に扉でもあったのかこじ開ける動作をして、息を切らせてあきらめる。

「昇降機でもあったの?」
「あった。でも動かない。電気が通っていないか、さもなければ壊れている」
「壊れているんじゃない? ここは機械にとっていろいろ困る場所だし、使わなくなってどれくらいたっているかわからないもの。第一、昇降機を手でこじ開けるなんてそれはむりだよ。できるわけがない」
「そうみたいだな」

グァバはとほうにくれたように天を見あげた。人工潅水のせいか、まだ時々水滴がこぼれて落ち、地面に小さい穴をつくる。

「窓はあるんだな」
「ん?」

唐突すぎてなんのことかわからなかったが、円筒の壁には規則正しく窓がはめこまれていて、外側の建物の内部につながっているようだった。グァバはそれを見て、壁一面にはりついたヤブガラシを見て、手で下へ引っぱった。

「よし」

グァバは白衣をその場にぬぎすて、ヤブガラシをつたってよじ登りはじめた。

「なにやっているんだ、グァバ!」

アイは前かがみに走り、転びそうになりながらもグァバの元へかけよる。

「ばか、おりろよっ」
「といっても、これをつたってしか建物の中には入れそうにないんだ。しょうがないだろ」
「なんでそんなことをするのさ」

アイはまったくわからなかった。使いふるした運動靴が1つ、もう1つと地面に落ちた。靴のままでは登りにくいとグァバがぬいだ。

「どうしてそこまでして母体に行きたがるのさ。そこまでしてなにになるの。絶対に行きつけないよ、どこかで挫折するに決まっている、はじめからむりだったんだよ。なのにどうしてそんな無茶をしてまで前に進みたがるの。どうせグァバは部外者で、情報技術はぜんぜんだめじゃないか
もうやめようよ。行けるところまで行ったよ。バンショウのほかの住民はだれもやっていないことをしたよ。あきらめよう、ほかの街でもいいだろ。バンショウじゃなくても住めるよ、きっといいところだよ」
「真剣を見たかったんだろ」

グァバはアイを見もしなかった。

「靴を脱ぎ捨てても走るつもりはあるか? ないならアイはもどれ。わたしは先へ行く」
「なんでさ」
「バンショウを愛しているからだ」

アイは急に、笑いがこみ上げてきた。

「ほかの街に住むのはいやなの? うつるのが気にくわないの? そんなに、最先端のバンショウが気に入っているの?」
「ちがう。気に入るもなにも、わたしはここ以外に住んだことがない。すきとかきらいとか、そんな感情は浮かばない」
「だったらどうしてさ!」
「アイ。わたしはただの研究者だ。百姓だ。1人で植物とむきあい、目の前にある昆虫しか見ない、どこにでもいるありきたりの人物だよ。そんなわたしが奇行に走る原因は1つだけだ。単純でありきたりの、よくあることだよ。

ここが故郷だからだ。わたしはここの住民だからだ。帰る場所だからだ。だからなんとかしたい、自分にできる全力をつくして、なりふりかまわず走って、この街を廃墟にしたくない。わたしは創立者たちの意図がまったく理解できない。彼らの気持ちがわからない。でもバンショウをこのまま滅ぼしたくはない。だから行くんだ」

話はそれで終わりだった。グァバはもう振りかえらない。黙って上のみを目指す。

「……ばかみたいだ」

アイの鼻に水滴が落ちた。

「やめなよ。ばかみたいだ。どうしてそうするのさ。郷土愛? 愛国心? たったそんなもののために、1人で情報技術者や特殊部隊をしりぞけたバンショウに立ち向かうの?

やめろよ。ばかみたいだよ、グァバ。古臭い、時代おくれの、旧式の考えかただ。ちゃんとした教育機関をでて、研究者として活躍して、それなのにそうふるまうなんて発狂したみたいだよ。ぼくなら絶対にやらない、そんなまね絶対にしない、そんなこと。

やめろよ、グァバ。やめろよ。ぼくはそうは考えないよ。あきらめるよ。だからグァバもあきらめようよ。ぼくなら絶対にそんなこと考えない、グァバ。

やめろよ。やめなよ。やめようよ、グァバ」

言葉はかさねるごとに意味をうしなった。アイの達観した、理性的で賢い意見は宙にきえてばらばらになる。

どうしてそんなことが言えるのだろうか。合理的という理想を追うアイに、泥くさく原始的な現実を前にして、それでも言葉をかさねられるのだろうか。

「もうやめよう。がんばったよ。だからやめようって。みっともないよ。成功なんてしないよ。ばかみたいだよ。失敗したとき恥ずかしいよ。グァバ、どうしてそんなにするんだよ。どうして」

水滴がまた1つ落ちる。葉の上ではじけてきえた。

「どうしてぼくは、ああいう風にできないのだろう」

アイの全身の力がぬけた。

目の前には靴が転がっている。グァバが無造作に捨てた、泥まみれのはきふるしたきたない汚い靴。

アイも靴を脱ぎ捨てた。

ヤブガラシにしがみつく。茎の小さいとげが手に刺さり、しっかりヤブガラシをとつかめない。つかんでみてはじめてわかったが、藪をからすほどの雑草なのにちぎれやすく、紐がわりにするには不適応だった。

「ぼくも行くよ。こんなところで放りだされちゃぼくが困る」
「だからアイも変人といわれるんだろうな」

グァバがどのような顔をしているのか、アイにはわからなかった。


壁が平らではなく、凹凸があったことが幸いした。そうでなければアイは早々に、グァバもかなりの確立で落ちて床にたたきつけられただろう。専用の綱でもないただの草で壁をよじ登るということ自体が無謀すぎた。

アイの本来情報処理端末をたたくことができればよい手はアイ自身の体重を支えるのに精一杯でひどく痛みはじめた。目の前のつたをつかむのに精一杯で、進路や到着地点を見る余裕がない。呼吸は冷たくのどに響き、口の中はひび割れそうなほどかわく。汗が目に入り、軽いはずのかばんがやけに重く感じられた。落ちかかったことも1回2回ではなく、うっかりもろいつたをつかんでしまったことも、すでに弱り体重を支えきれないものを手にして危うく手放し、生きた心地がしないこともあった。靴を脱いだことをアイは後悔していた。ヤブガラシの茎のとげが足に刺さる。その分登りやすく自分を支えやすいのだが、それでもアイはいまさらながらにはきなれた靴をいとしく思った。

あと1歩。そう思ってからまた1歩。どれだけこの単調な作業をくりかえしたのだろう。上も下も距離を確認できない。下をのぞけば目がくらんで落ちる、上を見上げればあまりの遠さに気が遠くなる。距離を確認する余裕はない。しゃべりもせず、余計なことも必要なことも考えず、1歩先だけを見て登る。そうすることで理念も主義もすべてそぎ落とされ、アイには今登っている現実とこれからどうするかの予定、その2つのみが残される。

3歩先のグァバが危なっかしくも片手でヤブガラシをつかんでもう片手で荷物に腕をつっこみ、真鍮製の水筒をつかんだ。壁のへこんでいる部分に足をのせ、片足をわずかに下げる。その不安定な体勢の中で、水筒を力いっぱいふりおろした。かたいもの同士がぶつかり合う音が3回して、4回目に何十もの香水瓶を落とし砕いたような、きらめく光と音が円筒の空間に反響してふりそそぐ。アイは目を閉じ、身体をこわばらせじっと耐えた。

香水瓶がきえさり、軽い金属同士がこすれあう音がした。

「アイ、窓を開けたぞ」

アイはとくに安心も安堵もしなかった。目を開けて、頑丈そうなつたを選んで身体を持ち上げるというおなじ行動をくりかえす。窓ガラスの破片が首筋に入ったのだろうか、背中が冷たく、そしてあつい。

あるていどのところまで登ったら、グァバが腕を取り建物の内部に引きこんだ。窓を開けたというのは正確な表現で、窓の一部を割って穴をあけたあと、そこから腕をねじこんで開錠したらしい。鍵の場所と穴をあけた場所は遠く、無理に腕を入れたせいでグァバの深緑のつなぎの右腕部分は黒ずんだ血で染まり、液体が床にしたたりおちた。

「グァバ、腕」
「ああ、わかっている」

つなぎの袖をまくりあげる。二の腕がガラスの破片で鋭くきられている。グァバは水筒の残りの水すべて腕にふりかけた。冷水の最後の一滴がこぼれ落ちると、グァバは顔をしかめて腕を反対側の手で押さえ、前のめりにへたりこむ。

「痛かった?」
「当たり前だろ」

こんなところで割るからだ、もっと鍵の近くにすればよかったのに。アイは口にはださず、かわりに自分の上着を適当に2つにおりたたみ、包帯代わりにしてグァバの腕に巻いた。

「これでどうかな。応急処置を習ったのは第3期総合教育機関だからな、もう覚えていないよ」
「よかったんじゃないか。わたしもとうに忘れた」

一息ついて、ようやく回りにも意識がとどく。合成樹脂の白い床に白い壁、白い天井。色があまりにもなさすぎて目がおかしくなりそうだった。救いとして、ところどころにある非常灯の緑と防火等よろい戸を起動させる壁の赤いボタンだけだった。どれくらいこの場所が使われていないのかはわからないが、掃除はいきとどいていて床には髪の毛1つちり1つ存在しない。それがかえって長い無人を教える。

「入れちゃえば簡単だね」
「終わってからはなんとでもいえる。さて、都市制御情報母体はどこだ」

このような研究所に親切に案内掲示板が立っているわけはなく、行き当たりばったりに前へと歩きはじめた。

「高層建築物なんだから、きっと上だ」

2人ははだしと靴下のみだった。服装も、もともと気づかってはいなかったが今は泥と草まみれ、正真正銘ぼろ布を着ているようで、もしこのまま平常のバンショウを歩けば公安局に通報されかねない。さもなくば病院か。それだというのに足取りはけして重くはなかった。表情は軽く、少々上気して赤くなっている。アイは奇妙に気分が高揚しているのを感じた。

「なんなのだろうね。変な気分だよ」
「しるか。危険をのりこえたからおかしくなったのか」

グァバは顔をこわばらせて後ろをむいた。アイの目のはしに動くものが一瞬うつってきえる。

「なにかいた」
「なにが?」
「小さい、頭ぐらいの大きさの」

呼吸音とおなじほど、小さなささやかな電子音がした。アイは自分たちの後方に、グァバの証言どおりの頭ほどの大きさの丸っこい機械が自動的に動いてくるのを見た。

「なんだ、あれだよ」
「なんだあれは」
「掃除用の自動装置じゃないかな。だからここは無人なのにこんなにきれいなんだ」

掃除用自動装置はまた1つ出現した。丸みをおびた外見は建物と同じく純白で、気をそらすと見失ってしまいそうだった。

また1つ現れる。グァバは1歩引いた。

「アイ、これ、本当に掃除用自動装置だと思うのか」
「それ以外に思いつかないけど」

また1つ。ほぼ無音でアイたちに近づいてくる。なぜかアイは温室で見たカイガラムシを連想した。

「不法侵入者排除の装置と思わないのか」
「ああ、言われてみたらそんな気がするね」

また1つ。幸いにして速度はおそい。どちらが先ともなく、2人はかけあしになって逃げだした。

「あれが近づいてきたらどうなるんだ?」
「しらない。どっちに行けばいいのかもわからないのに、あんなのに追われたくはないよ」

人間は線路を歩き地下用水路を歩いて壁をよじ登り、いい加減つかれていた。一方自動装置のほうは疲労をしらない上、次から次へと出現して個体数をふやしていく。簡単に引きはなせると思っていたのはまちがいで、むしろ進めば進むほど追いこまれていくようだった。白い通路ははてしなく続き、聞こえるのはあらい呼吸音のみ。どこもおなじような風景なので迷ってしまった気もする。

「どこに行けば、いいんだろう」
「このっ」

窓ガラスをわったことで暴力的な気質にめざめたのだろうか、グァバは手近にあった壁にへばりついている赤いボタンを心中の水筒でなぐりたたいた。同時に防火等よろい戸が上から意外とはやい速度でおりて退路を断ち、自動不法侵入者排除装置を遮断する。

「うまくいったか?」

アイは立ちどまった。最後に見たときには10はこえていた自動装置はすべて壁のむこう側だった。

「アイ、あっちに昇降機がある」

情報管理局本部とは異なり、昇降機までもが白一色にぬられていて壁に埋まっており、そのため一瞬わからなかった。周囲に階段はない。ためしに地下3階と表示されている緑の光に指でふれてみたら光が強くなり、低い機械音での反応があった。

「動いている。上に行けるよ。階段じゃないけど、これでも先に進める。行こう」
「またきた」

喜ばしい報告に、グァバはまったくうれしがらなかった。あちこちへこんで傷ができた、もう次回本来の目的で使うことがないであろう真鍮の水筒をしっかりつかむ。侵入者排除装置が2体、ゆるやかにアイたちを目指して向かってきた。

「またっ? しつこいね」
「それが仕事だからな。昇降機と侵入者排除装置どっちがはやいんだ?」

おそらく侵入者排除装置だろう。グァバはどうするべきかと顔をしかめた。長い長い髪の先端がゆれる。

「相手はすばしこくない。だったらだれかが離れたところでひきよせて、昇降機がきたら中にすべりこもう」
「いいけど、そのおとり役はだれがやるの」

微妙な空気が訪れた。侵入者排除装置はその後ろから数をふやす。威嚇的な光も音もなく、ただ無表情でおしよせる、それがかえって不気味で、アイは昇降機の前から逃げだしたいと思ってしまう。

「言いだしっぺの責任だ。わたしだろうな」
「悪いね、本当はこういうことは男がやるべきなのだろうけど」

グァバはめがねの上からアイをにらみつけた。「ちっとも悪いと思っていないんだろ、本当は」

「じつはそうなんだ」

アイは悪びれすることはなかった。グァバはため息をついて、小走りで侵入者排除装置へ走りよる。侵入者排除装置はいっせいにグァバへおしよせた。グァバのほうが足もはやく、機転だってある。アイは安心して昇降機の前に張りついていた。

鈴の音を模した合図とともに昇降機への扉がひらく。アイはその中に歩いてはいり、昇降機の扉を手で押さえた。

「グァバ、きたよ」
「わかっている、行く」

アイの見ていないうちにいつのまにかグァバは360度全方向自動不法侵入者排除装置にとり囲まれていた。グァバは昇降機がきたのを見て唇をかみしめ、自動侵入者排除装置の間をむりに歩き、けとばしけちらし、強行突破しようとした。

ふしゅ。空気と同時に気もぬけるようなまぬけな音がして、グァバの足にふれた自動排除装置から白煙が顔面にとんだ。グァバはせきをして顔をおおい、それでも昇降機へ向かおうとする。その足がもつれた。

「グァバ?」

のどに手を当て、はげしくせきこみながらグァバはたおれる。真鍮の水筒が床に落ちて傷をつける。自動侵入者排除装置はゆっくりせまる。アイは昇降機をとびだして、グァバにかけより手をつかんだ。

「グァバ!」

返事はせきのみ。目の前には自動侵入者排除装置。アイは呆然とするよりも、自分やグァバの身を心配するよりもまず、グァバの腕をつかみ引きずって、つんのめるように歩いた。

あとから考えても、疲れていたアイのどこにそんな力があったのかわからなかった。自分よりも長身の人物を、自他共に非力であるはずのアイが運べるだなんて信じがたい。床はなめらかで摩擦がない分足がすべり、自動侵入者排除装置はアイめがけておしよせる。グァバの身体から力がぬけ、はげしくせきこんでいたのが弱々しくなり、小さな呼吸音しか聞こえなくなる。

昇降機はふたたび軽やかな鈴をならして両開きの扉が閉まる。アイは自らの腕をはさんでむりに扉をこじ開け、自分とグァバをねじこむ。すきまに自動侵入者排除装置が入りこもうとするが、アイは乱暴にけりとばした。3回目の鈴がなり、今度こそ昇降機の扉が閉まる。

適当なボタンを押さないとふたたびひらいてしまう。アイは最も高い位置にあるボタンを押した。はじめからなんとなく、もしも母体があるのだったらそこにあるのだろうと理性ではなくかんで思っていた。しずかな空調の中、アイは全身に普段より余計な重力が両肩にのるのを感じた。

「グァバ」

アイはグァバをゆさぶった。グァバの反応はない。

「グァバ」

唇に人差し指と中指をあててみた。冷たい。いささか普段よりは弱いが、呼吸は正常にしている。グァバの顔から、鼻の奥がしびれて痛いような臭いがした。アイは化学科でもなければ機械学科でもない。なにをされたのか正確にはわからないので、おおよその推測で我慢するしかなかった。催涙剤とかアンモニアとか、ぶつけられたら気を失うものをかけられた。その程度しかわからない。

今はなんともない。しかし今後どのような悪影響がくるのか。精神障害、記憶障害、視力聴力嗅覚味覚の欠如、ありとあらゆる想像がアイの頭をかけめぐる。

そして空を目指している昇降機の中でアイは思う。グァバはこうなることは考えなかったのであろうか。だれもが子どものときに考えたように、自分だけはどんな困難があっても無事だと考えていたのであろうか。それとも、その危険を考慮しても行く価値があると思ったのだろうか。この街、バンショウに。

そうしてアイはどうするべきなのであろうか。アイはとくに街をどうにかしたい、この目で見たいとは思っていない。グァバについていっただけだ。肝心のグァバが脱落した以上、アイはこのまま帰ってもいい。だれにもなにも言われない。今すぐきた道を戻って引き返すことができる。

4回目。両扉が開いて、冷たい空気が昇降機の中にはいってきた。アイは顔をあげた。

アイが今後どうするかなど最初からわかっていた。自明すぎるほど明確だった。

アイはグァバの左の二の腕に手を回し、グァバを引きずるようにかかえて昇降機からでた。昇降機の扉は閉ざされ、アイは力強くもなければ断固ともしていない、不たしかでおぼつかない足取りで前へ1歩ふみだした。


ぽーん。

『助けてください』

最上階は今までのバンショウに比べて異質の部屋だった。

アイのしっているバンショウは合理的でありながら人工的、機能的な美しさを持ち、それらが都市のすみからすみまでをおおっていた。

ここはそうではなかった。合理性しか持ちあわせていない、無骨な、黒い空間だった。部屋中すべてアイの情報処理端末とおなじ黒でおおわれていて、管が足の踏み場もないほどうねり、排熱の風は野外よりもはげしくアイの髪をゆらす。あちこちで電子情報が光となって飛ぶ音が聞こえる。どこかでなにかが赤く光り、一瞬部屋全体を照らす。昇降機と頂点にして正三角形をつくる2つの巨大な窓のみが、ここがバンショウであることを証明していた。

ぽーん。

『助けてください』

奥に人がいた。すぐにそれはまちがいだと気がついた。アイとおなじ大きさの立体映像は異常通信におかされていて、人の形を模しむやみにむなしい言葉を発する。以前見たときははりぼての人形だった。最後に見たのは精密な人形だった。今見るとそれはもう人間でしかなかった。どこかアイに似た細く白い、しかしとりたてて個性のない平凡な人間の女性だ。異常通信の成長か、それとも立体映像転写装置がそこいらとの端末とははるかに性能がちがうのか。

その奥に総合的電子情報処理母体はあった。アイは情報管理局本部で見た鉄の塔を思いかえした。はじめそれを見たときアイはなんて悪趣味なと思った。しかし今こうしてみると、単に寸部たがわず同じものを新しい情報管理局につくっただけにすぎなかったらしい。母体の全身は漆黒で、当時ではなく現在の最先端技術の部品をかきあつめよせあつめたような、いびつでゆがんだ母体だった。これがかつてバンショウの都市制御情報を構成して、人間にとって長く年としては短い年月バンショウを支え、そして崩壊に導いている。

背後で昇降機が下へ落ちていく。アイはグァバを肩で支えなおした。アイの身長ではグァバをせおうことはできず、グァバのつま先は床でうねる管に引っかかった。最後の重労働にアイの呼吸はたちまち乱れ、額に大粒の汗が浮き、目に流れてあごからしたたる。部屋の中は寒いほどなのに、アイは全身が熱を持ち浮かされたかのように暑かった。背中は重く、全身の感覚がしびれ、夢の中をさまよっているかのように現実から意識が剥離する。

ぽーん。

『助けてください』
「助けてほしいのは、ぼくだよ」

アイはとまることはできなかった。けして返事が返ってこない異常通信に毒づく。はたから見れば狂気の一歩手前に見えることはわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。

「あっ」

ふとアイは、今となってはどうでもいいことに気がついた。場ちがいにも笑いがこぼれる。

ぽーん。

『助けてください』
『お前はだれだ?』

異常通信以外の声がした。女性の画像がゆがみ崩れ、あっけなく崩壊する。その中からでてきたのは、本物と区別がつかない映像だった。アイよりはるかに年上の、知性と威厳を持つ男はアイにきびしく詰問する。

「アイ。第4期総合教育機関情報学科の5回生」

情報処理母体の前に立つ。絶対不可能と思っていたことは、いまや目の前にそびえたっていた。アイはグァバをそっとおろし、情報処理母体にふれてみる。1度も人がふれたことがないかのように冷たかった。

『バンショウ情報管理局のものか?』
「ちがう」

情報処理母体はしずかに稼動している。アイは都市制御情報を呼びだそうとした。

『では国家所属情報技術者か?』
「ちがう」

男の立体映像の上におおいかぶさり、バンショウ全域がうつしだされる。アイはこの中にひそむ異常を見いだすため、息をひそめた。

『なら公安局特殊工作部員か』
「それでもちがう。ぼくが所属しているのなんて教育機関ぐらいだ。バンショウ市民ですらない、通りすがりの旅人だよ」
『その通りすがりのものが、どうしてここにきている?』
「バンショウの異常を解決するため」

アイはやっと立体映像の男を見る。問いかけ受け答え、人間を相手にしているのとかわりがない。

「あなたはだれだ」

会話に不自由ない人工知性をつくることはむずかしくない、しかし人間らしい会話を成立することができる人工知性をつくるのは困難だ。ましてやここはバンショウの情報処理母体、かぎられた情報技術者のみしか入室を許されない選ばれた場所。本来人工知性がいてもいい場所ではない。

『わたしはバンショウ創立者たち。7人の意識すべての代弁者』
「……ああ、そっか」

アイは全身の力がぬけてくずれおちそうになった。とぼしい体力と気力を駆使して立ちつづける。

『すべての創立者を代弁する。この場から立ち去れ』
「あなたたちのうち2人は死んで、現役で活動しているのは1人だけですよ」

ついさっきグァバから聞いた情報をアイは水増しせずにくりかえす。「亡霊や、幽霊はバンショウにふさわしくない。あなたこそかえったらどうですか」

どこかで電車の扉が開いた。

ちがう、空気が抜けた。男の姿の立体映像がゆがみ変化し、アイより小柄な女性の姿になった。

『バンショウは滅ぼす。わたしたちはそう決めた。それにしたがってもどれ、部外者』

発音、言葉の韻、どれをとっても完全に女性のそれに移りかわっている。

「そりゃ、ぼくだってもどれるものならもどりたい」

母体までの警備がきびしかった分、肝心の母体の外部侵入者への警備は甘い。ここに外部の人間がいるわけがないというおごりか、それとも正当な判断か。

『ではなぜもどらない。すべてのバンショウ市民のためか。国のためか。それ以外の理由か』
「なんでだろうね」

緊張のあまりだろうか、アイは頭に血がのぼり、息苦しさを感じた。

「本来ぼくは、そっち側の人間なのに。あなたたちとおなじように考えるような人間なのにね。ぼくはなんとなくわかる気がするんだ、どうして、世界最高のこの街を自分たちで滅ぼしてしまおうと考えた理由」

ぽーん。

『助けてください』
「最高傑作のままで残したかったんだろう」

言葉は重なった。情報処理母体のどこを操作してどこに注目すれば異常がなおるのか、理解の糸口さえつかめない。

「時が流れてバンショウのようなものがほかにもできて、バンショウがおとろえて普通の街になって、やがてすべての人々に忘れられるよりはいいと思ったんだろ」
『たしかにアイはわたしたちの同類だな』

女の姿がゆがんで壮年の男性へかわる。一目でわかる、アイよりもはるかに能力も経験も、知識も地位もある人物だ。本来同一の場所で並べるような人物ではない。

『だったら、どうして放っておかないんだ?』

アイはやっと、さっきの空気音の意味がわかった。鼓動がはやくなる、どことなく息苦しい。

この部屋の空気がぬかれて少しずつ薄くなっている。最後の不法侵入者防止装置なのだろうか。窓を開けないと、アイは母体から身体をはなすも、あいにく2つの窓は開閉する仕組みにはなっていない。このような高所の窓はそもそも開くものではない。

『そうだ。バンショウはまぎれもなく最高傑作だ。知力と技術と金銭、世界中の最高を結成してつくりあげた。それによってわたしたちは至上の富と名声を得ることができた。だから劣化して退化する前に滅ぼす。うちくだき粉々にして破壊する。完膚なく、はじめからなかったかのように消去する。完成した時点で7人は話しあいそう決まった』
「迷惑だよ、こっちこそ放っておいてくれ。もう7人の街ではないんだ。住民がいて生活がある。放っておいてくれ」

アイは情報処理母体をかけめぐり、侵入者排除装置の解除を命じようとした。どこに命じればいいのか、どのように命じればいいのか、まったくわからないまま走りだした。

『どうしてそんなにこの街に愛着するんだ? 住民でもないのに』

ぽーん。

その後に続くであろうと覚悟した言葉はない。かわりに創立者たちの、親切めかした教えが続く。

『そこまで必死になるほどたいした街か? そんな価値があるものではない。わたしたちにとっては価値があった。名声をえた、富をえた。しかし生きて住むのにいい街ではない。わたしたちがそうしたように情報1つ狂えば、電気信号に1つの混乱があればあっけなく滅びる街だ。生きるため暮らすための施設はなく、海は埋めたて封鎖して陸はすべて道路舗装して、街のどこを見わたしても超高層建築物に空が支配されている。植物も動物もない、人としての余裕がどこにでもない街。もともと人が入るべき場所じゃなかった。』

異常がどこかわからない、解除の方法が皆目見当がつかない。アイの心にひたひたと、波うつように恐怖と絶望で満ちる。アイの手が震えはじめたのはけして呼吸が満足にできないからではない。

『混乱の前からこの街はすでに廃墟も同然だった。崩壊の種はわざわざわたしたちがまく必要はなかった、はじめからいたるところに隠れていた。手を下さなくても、そのうち滅んでいただろう。お前たちは気づかなかっただけだ。わたしたちは創立者だったが、バンショウを正当に評価している。バンショウは住む意味も守る価値もない、欠陥だらけの架空の城だった。それなのにどうしてそうするんだ』

不意にアイの意思に反してひざが落ちた。

身体中が熱い。手も足も体温よりはるかに熱を持つ。心臓の鼓動が全身にいきわたり、髪の毛1本1本まで血が流れる。

「どうしてそんなことを言えるんだ」

顔をあげるのにすら渾身の力が必要だった。また立体映像が変化する。次はどんな人物になるのだろう。次から次へと移りかわる中間点、人が電子の波にとろけたような姿のまま画像は中断する。もう終わりなのだろうか、わざとなのだろうか、それともアイの目が曇りはじめたのか。

「どうして、そんなことが言えるんだ!」
『事実だからだよ。アイ』

アイはわけもわからない怒りに震えた。胸の奥から吐き気がする。

アイは自分と彼らが似ていることをしっている。この、アイの内心におさまりきらない怒りは同族への強烈な嫌悪感であることも。

「よくもそんなことが言えるな、よくもそんな高みから見下ろして口がきけるなっ」

すべてはどうにもならないとあきらめて、必死に努力するのが面倒で、格好悪いとごまかしていた自分。

「そうだよ、ぼくもそういう風に思っていた! 終わった街、進まない街、あとは滅びるだけのバンショウッ。滅びるのは運命だと思っていた、ぼくではどうしようもないと思っていた、国中の世界中のどんな力でもどうしようもないと思っていた! なにかするのが面倒だったからだ、奮起するのがいやだったからだ、努力してなんとかしたくないから、現実と立ちむかうのがしんどいから、はじめからあきらめて放置して見捨ててたんだっ」

はじめからアイにはバンショウなんてどうでもよかった。旅のとちゅうに立ち寄った、すこし珍しい街。なにか恩恵があったわけでも、好きで好きでしょうがないわけでもない。例え明日けし飛ぼうが、アイにはどうでもよかった。

しかしそのどうでもいいもののために何日も徹夜をして今にも死にそうな顔をした人物がいる。どうでもいいもののために靴を捨ててつるをつかんで、墜落するのを覚悟の上で先へ進んだ人物がいる。

「でも、そうでない人だっているんだ。崩壊の現実がこんなに荒々しく、理不尽にせまりすべてを奪おうとしているのに、怒りもせず泣きもせず、ほかをなにもせめずに前へ行く人がいるんだ。牙も見せず爪も立てず、無言で壁をよじのぼっているこの人の前でそんなことが言えるのか!」

どんなに合理的に考えても、目の前の現実には無力だった。その無力さを承知の上でグァバは、バンショウの住民は立ちむかう。アイはそれに圧倒された。はげしい思いで痛い目を見たくないから、悟ったふりをしてあきらめたようにして自分を守っていたアイはその思いを前にして呆然とした。愛しているから、その一言だけでグァバは前へ進む。

どんなに口をあけても酸素が入ってこない。恐ろしくて苦しくて発狂しそうだ。こんな形で排除される、考えるだに全身の震えがとまらない。生まれてはじめて、アイは自分に忍びよる死の影を見た。

でもアイはおびえて昇降機に逃げだすかわりに言葉をつむいだ。

「恐ろしくはないのか。恥ずかしくはないのか」

アイは恥ずかしかった、自分が恥ずかしくて恥ずかしくてきえてしまいたかった。アイがいまも逃げないのはグァバへの恩だ。こんなに恥ずかしい自分を、けしてアイに教えずに自身の態度で悟らせた恩だ。

ここで逃げだしたらアイはもう、恥ずかしくて生きていけない。

「現実で、こんなにバンショウが好きだという人がいるのに、あんたたちは恥ずかしくないのか! 上から見下ろして、つくったのにどうでもいいといって、自分の街を捨てて。

どうして自分たちの街を好きでないんだ。つくりあげたのに、故郷なのに。帰るべき場所なのに、自分の唯一の楽園なのに。ちくしょう、腹がたつ。

どうしてそんなことを言えるんだ。現実に立ちむかう人の前で、机上の理論のみでなにもかも打ち切ってしまえるんだ。

恥ずかしくないのか。それでどうして胸をはれるんだ、どうやって天に誇れるんだ」

代弁者は話さない。あらかじめ決められた、人工的な動きしかしないものに言ってもむだだ。やっとアイはそのことに気がついた。それでもとまらない。言わなくてはいけない。手足がしびれて吐き気で気が遠くなる。力がはいらない。死神はかまを振りあげた。

「ぼくは恥ずかしい」

それが言葉として成立したのかどうか、アイは確認できなかった。それを耳で聞く前にアイの意識は失われた。


ぽーん。

ぽーん。

ぽーん。

「ああ、そうだね。本当にその通りだよ。アイ。これは完全に絶対にあなたのほうが正しい。普段のあなたはいつも正しいわけではないけど、これに関してはその通り、アイのほうが正解なんだ。たとえ創立者といえども、街を滅ぼしてはいけない。それはいま住んでいる住民が選択すべきなんだ」

どこかでだれかの声がする。アイのしらない人物だ。アイは闇の中でだれだったか思いだそうとした。

ぽーん。

ぽーん。

ぽーん。

「そうだね、だったらどうしてそんなことをしたのか、そんな風に思ったのか聞かれそうだね。そのときはそれが一番いいと思っていたんだよ。恥ずかしながら、街の寿命が長くないのはみんなうすうす感づいていてさ、いっそのこと、誕生から滅亡まで歴史に残るようなそんな街にしようって。はじめはふざけ半分だったけどだんだんみんな本気になって、引くに引けなくなってね。みんな子どもだったんだろうね。創立者、天才とおだてられてもやっていたのは子どもの遊び、小さな部屋の中でお気に入りのおもちゃを丹念に組み立てているようなものだったからね。だれもやめようとは言えなかったんだよ」

金属がきしむ音がする。情報処理機ではない。もっと簡単で単純なつくりの道具だ。

アイは必死の努力によってうっすら目を開けた。目前に大きな車輪がある。

ぽーん。

ぽーん。

ぽーん。

「いや、今も子どもなんだろうね。分かっていたのにだれもなにもしなかったもの。死んだやつらはしょうがないにしても、このことを分かっていて行動にでたのはわたしだけ、しかもやったことといえば、だれかが気づいてくれるかもしれないって期待の元に異常通信をつくっただけ。まったく情けない。わたしたち7人は全員合わせても、そこの植物研究所所長さんや第4期総合教育機関を卒業していない学生さんよりも下なのだから」

さ、おきておきて学生さん。アイは肩を軽くゆさぶられる。顔をあげた。車椅子にすわった女性が静かにアイを見下ろしている。異常通信の映像で助けをもとめていたものと同じ顔は、しずかにうれしそうに微笑んでいた。

ぽーん。

「アイ、唯一ここまでたどりつけた勇気ある学生さん。さ、おきて。

つらいのは分かるけど、苦しいのは分かるけど、でもあと1歩なんだよ。あと少し、母体は目の前、バンショウ都市制御情報を狂わせた異常はすぐそこ。だからおきなさい、立ち上がりなさい。

あなたはよくがんばった、今までにないほどがんばった。だからほめて甘やかして寝させてあげたいけど、まだ終わってない以上それはできないんだよ。あなたの、今まであなたが生きてきてはじめての、あなたでしかできない仕事があるんだよ。さっ、おきて学生さん。あとすぐそこなのだから。わたしもほんの少しでいいのなら力を貸すから。わたしたちのかわりにここまできてくれたアイ、わたしたちは本当にあなたに感謝している。だから、さっ、学生さん。おきなさい」

ぽーん。車椅子がきしんで動く。どこに行くのかアイは問いかける力がない。彼女がだれで、なぜアイの元にきたのかも聞くことができない。

ぽーん。

異常通信の軽やかな音は、黒い情報処理母体の部屋に高く高く澄んできえた。

ぽーん。


アイは目を開けた。のどをさする。

呼吸が普通にできる。苦しくない。アイは起き上がった。部屋中がなぜか明るい。立体映像は消滅していて、赤い光が静かに点灯している。アイの前髪が浮きあがった。風がふいている。排熱装置の風ではない、天をかけぬけ大気をふるわせる、そうしてそれでもやはりバンショウらしい、どこか人工的な強烈な風。

風は窓からふきこんでいた。窓はくだけて空が露出している。アイは半ばはいつくばって窓へより、ガラスの破片に注意して下をのぞきこむ。はるかな地面には人の気配はまったくなく、下に小さく車椅子だったものが押しつぶされて道路舗装にへばりついている。アイは目を皿のように、それこそ自分が落ちる寸前まで身をのりだして観察した。人も人だったものもない。車椅子にはだれものっていなかった。アイは身体を引っこめてからため息をつく。そうだったんだ。

立ちあがると多少の立ちくらみはしたものの、転びもよろめきもしなかった。バンショウの総合的電子情報処理母体へまっすぐ歩く。

『ようこそ、バンショウへ。何か御用ですか?』

アイは口にだすよりも手のほうが先に動いた。都市制御情報の奥へもぐり、異常部分を把握する。あれほど難儀していた異常個所は簡単にわかり、中指1つでアイは削除した。あっけないほど、本当にたやすく訂正は終わった。

「これで終わりだね」

だれもなにも答えない。いかにもバンショウらしい沈黙。

「おい、アイ」
「グァバ」

グァバは倒れふしたまま気だるそうに、しかしそれでも発音明瞭に呼びかけた。

「大丈夫、生きている?」
「物騒なことを言うな、死者がしゃべるか。それで、ここはどこだ、どうなった」

アイはいろいろ言いたいことがあった気がした。あるいはすべてを黙っていて、静寂のうちにうやむやにしてしまおうとも考えた。一瞬で頭を回転させて、やはり1番聞きたいこと、確認したい事項を優先した。

「グァバ、7人の創立者のうち、車椅子の女の人はいた?」
「ん? いたぞ。浮き彫りではわからないようにごまかされているけど、都市制御情報構築を担当した1人が足に障害を持っていて車椅子を使用していた。それがどうした?」
「いや、そうたいしたことでもないよ。そっか」

アイはみょうに気分が晴れやかですがすがしかった。我慢しようとしてもしきれずに、アイはのどの奥で笑う。グァバがけげんそうに頭をすこし持ちあげるも、アイはかまわず声を上げた。笑い声は窓から空に吸いこまれてきえていった。