三つ首白鳥亭

−不可視都市−

2.グァバ

2人の人物がいる。

2人の人物がいる。

1人はグァバ。旧13区港南部熱帯植物研究所の所長にして唯一の研究員。とび色の長い長い髪はみつ編み、赤みがかかった瞳には眼鏡。作業用の深緑色のつなぎの上に髪より長い白衣をはおり、始終ポケットを紙切れと写真であふれさせている。10分あれば1週できる温室の中が彼女の全世界。そこで寝起きし、植物を研究して生きている。


公安局の取調べからやっと解放されたアイはふたたび温室へ向かおうとしていた。

非常識な時間帯だった。いくらグァバが余り女性らしくないとはいっても女性だ。太陽がとっくに沈み、夕方を通りこして夜という時間帯にグァバの元へ行くのは好ましくないことぐらいアイはよく分かっていた。しかしだからといってこのまま宿へ直行するのはさらによくないだろうし、直接会う以外の方法で連絡を取ることはできなかった。アイはグァバの連絡先も電子通信の番号もしらなかったのだ。

温室は一応明かりがともっていた。温室全体ではなく、居住区のみに薄ぼんやりした明かりがあるのみで、外の外灯のほうが明るい。アイは今日の朝そうしたようにガラス戸を横へ動かした。

「今もどったよ」
「おかえり。待っていたぞ」

さながら今日を忠実にくりかえすかのようにグァバが情報処理端末の前からふりかえらずに返事をする。声にはちっとも力が入っていず、字面だけなら暖かかったがアイは逆に冷たく感じた。

「もう、今日の報道でやっているだろう」
「やっている。報告書をつくって教授にとどけたら返事ついでに心配された。それでやっと気がついた」
「学者ばかって言わない、それ」
「そうかもしれないが、気づかなくてもしょうがないだろう。実際、近所で起こらなければアイだって今日はしらないままだったはずだ」

グァバはアイを手招きして自分の端末から発生する立体映像を見せた。画像の半分をしめている文字は今日重大交通事故が15件発生したことを衝撃的に、そして無感情に伝えている。アイも取りしらべの際にしったが、文章にするとまた別の感慨がわいてきた。何か言わなくてはと思うもどうしても黒煙が言葉をせき止める。

「今日で6倍か。どうしたというんだ」
「なんでも、交通情報の管理をおこなっていたに情報処理体制に不備が生じて混乱して、めちゃくちゃな指令を制御していた自動車に送りつけたみたい。それであちこちで事故が起こったらしいよ。他にも、事故には至らなかったけど危なかったことはもっとあるって」
「どこから聞いた?」
「公安局の取りしらべのとき、ついでに教えてくれた」

グァバは黙って冷蔵庫から銀色の鉄のばけつを取りだした。中の黒い液体をちゃこしで濾過してガラスの杯1杯分そそぎ、アイの前にだす。

「なに、これ」
「水出しコーヒー。コーヒーの粉を水につけてそのまま6時間放置してこすとできる。本当は今日の休憩で飲もうと思っていたのだけど、1人だから飲みきれなかった」
「いただくよ」

よく冷えた水出しコーヒーはのどを伝って全身にしみわたった。これがあまりにもおいしいからか、それとも今まで緊張していたからかは分からない。

「ずいぶん時間がかかったな」
「公安局の車がではらっていたんだよ。すでにおきた事故の対処と、これからおきそうな事故の防止の対応でいっぱいいっぱいだったみたいだ。2時間待たされた。そのあとも状況説明で取り調べられた。ぼくは全部が終わってからきたのだから、どんなに聞かれてもそうたいした力にはなれないのに」
「お疲れ」
「本当に疲れたよ。まったく」

いつのまにか杯の中身を飲みほしてしまっていた。「もう1杯もらうよ」と正直につげたら「勝手にとっておけ」との返事がもどる。アイは言われたとおり、勝手に自分でちゃこしを使いもう1杯ついだ。

「珍しいことに茶菓子があるぞ。チョコレート。食べるか?」
「もらうもらう」

居住空間が極めてかぎられているため、ここにはグァバがむだだと判断したものはなに1つおいていない。菓子もその1つで、アイはコーヒーうけをここでさしだされた覚えはなかった。

「空腹なんだよ、朝食からなにも食べていないんだから。でもそういうわけで帰りが遅くなったんだ。これを飲んだらすぐに帰るよ」
「邪険にして追いかえすつもりはないが、そうしたほうが無難だな。後々でややこしいことになる」
「ところでグァバ、朝、ぼくが情報処理学科だっていうことを確認していたけど、なにがしたかったの?」
「ああ、あれか」

グァバは自分もチョコレートを1かけつまみながら、情報処理端末に軽くよりかかった。

「そうたいした話ではないんだが。聞くか?」
「興味を引くだけ引いておいてほうっておかれるのは気分が悪い。なにを言いたかったのか聞かせて」

アイはチョコレートを飲みこんでから一息ついた。

「昨日配られた市民便りにのっていたのだが、情報処理技術をもっている市民向けに短期労働の話があるんだ。バンショウ自体が雇用するだけあって給金も待遇も短期労働にしてはかなりいい。アイの財布の中はよくしらないが、金がないのだったらやってみるか?」
「見せて」

グァバが書類の山から無造作に1枚ひっぱってきてアイにてわたした。その衝撃で机の上がくずれて積んであった本がくずれ、あわててグァバが拾う。

「ぼくもてつだう」
「余計に分からなくなるからいい」
「グァバはもうすこし整理整頓すべきだと思うな」
「掃除は得意だが整理は苦手なんだ」
「どう違うのさ」
「大違いだ。で、読んだか」

そうすぐには読めないと口にはださずに答え、アイは市民便りに意識をつないだ。このようなものを発行しても読むものはたたがしれているとアイは思っていたのだが、意外と読むものはいたらしい。概要を読みながらアイはきわめて重要なことを思いかえした。

「正直、所持金も自動銀行代行機もきびしい。むだ使いはしていないけれども宿代と交通費だけでも結構くるから」
「やってみるのをすすめるのだけど、その様子ではむずかしいか」
「いや、やってみる」

アイは3回みじかい文章を読みかえしてからもう1つチョコレートをつまみ、自分の情報処理端末を開いた。

「なにをするんだ」
「今のうちに申しこんでおく」
「こんな時間帯に申しこんでも受けつけてくれるのか? 人がいない時間帯ではないけど、返事が返ってくる時間帯でもないぞ」
「分かっているよ。今すぐ返事がくることを期待していない」

「救助要請」の異常通信はいまだに続いていた。アイは感慨もなくそれらを消去して新しい通信の作成に移った。礼儀正しくみじかい通信を立体映像に記入して手紙を送りだす。

「よくて明日の昼には返事がくるだろうな」

黒い板を閉じて、アイは杯の底のコーヒーをすすった。グァバはやっと机の上の本を無作為につみもどして市民便りを受けとる。

「じゃ、ぼくはもう帰るね。明日もくるよ」
「べつにくるもこないも自由だ。好きなようにしろ」
「そうする。それじゃおやすみ」

アイが立ちあがった瞬間、黒い情報処理端末から軽い電子音の旋律がひびいた。アイは硬直して顔をあげ、見送ろうともしなかったグァバと思わず目がある。

「なんだ、今のは」

グァバの至極もっともな疑問に、アイは恐る恐る答えた。

「電子通信を、受信した音」
「アイの情報処理端末は、電子通信を受信するたびに音がなるようになっているのか?」
「そんなことないよ。音がなるように設定しているのは最重要電子通信ぐらいだ」

しばらく2人は動けなかった。音がなるように設定している以上おきてもおかしなことではないが、そうなる事態を予想していなかった。アイは自分の情報処理機を開けなかった。まったく根拠のないことだが開いたら最後、不吉なことがおきる予感がしていた。

「おい」
「なに」
「はやく開けろ」
「あ、うん、そうだね」

グァバに急かされて、アイはふたたび床にあぐらをかいて座りこんだ。グァバもその後ろにしゃがみこんでのぞく。アイはそれに対して文句は言わなかった。

「まってね、電子通信を開ける前に異常通信をかたづけちゃうから」
「今削除したばかりだろ。きていないよ」

アイもそう思ったが、この状況で異常通信のぶきみな哀願をきくのは心臓にわるい。念のためのつもりだった。

「げ」

しかし異常通信はさっきよりはるかに蓄積されて受信されていた。後ろでグァバが感心したようにため息をついたが、これはあきらかにおかしい。アイは自分の情報処理端末になにか異常か不備があるのではないかと疑った。そうでもないかぎり常軌を脱している。アイは目には見えない不安を感じながらも、異常通信をすべて削除した後にのこった唯一の電子通信を開いた。アイたちの思惑はともかく、差出人からすれば重要らしい。最重要を示す感嘆詞の印が電子通信の頭に記入してあった。

アイは電子通信を開いて読んだ。グァバものぞきこんで読もうとしたが、目を細くしてからあきらめたように頭をふった。ひどい近眼でアイの立体映像の文字が読みとれないらしい。アイが電子通信を削除して情報処理端末の電源を落としてから、待ちわびたように「なんて書いてあったんだ」ときいた。

「うん。まあね」
「きかれたくないことか?」
「そうではないよ」
「ならきかせてくれ」
「通信は、バンショウ情報管理局からだった」

アイはそれ以上言いたくなさそうではあったが、それではあまりにも情報がたりなさすぎた。

「それで」
「短期労働の件について。すぐにでも、それこそ今すぐにでもきてほしいってさ」

グァバはアイを直視した。アイはその心境が手にとるようにわかった。自分をからかっているのではないかと思っているのだろう。もちろんアイはからかっていない。

「今すぐか?」
「うん、今すぐ」

外灯は明るいはずなのに、今日はいつもにも増して夜が深いようだった。


結局アイは行くことにした。飲食をして話をしただけでずいぶん疲労は回復したし、疲れがとれるとこの一見無茶な提案にのりたくなった。このような常識はずれな振る舞いをせざるをえなかった理由がしりたくなる。アイは物見高い性格ではないが、好奇心は人並みかそれ以上は持っていた。電子通信の最後の行に記された給金の高さにも心がひかれた。

「好奇心は猫を殺すぞ」

グァバはあきれかえったように有名なことわざを教えたが、

「満足で生きかえるよ」

アイは取りあわなかった。

もうおそい時間だったが、最先端都市バンショウの無人電車はまだ動いていた。さすがに本数は少なくなっているとはいえ駅構内は明るく、昼間と様子はまったく変わりない。アイは自分以外に人がいない構内でしばらくまち、自分以外に人がのっていない電車の最後尾にのる。すべてが恐ろしいほど静かだった。アイは外の景色を見ようとするも、窓に映った自分の顔しか見ることができなかった。

アイ1人になると、あらためて昼間の事故を思いだす。壊れた機械、燃料かそれ以外のものが燃えこげるにおい。思いかえすだけで気分が陰鬱になり吐き気がこみ上げてくる。アイは単独行動がきらいではないが、これから先1人きりになるのはさけようと決心した。

動かずにいるといやなことを次々に発掘してしまう。アイは1つため息をついて黒い情報処理端末を開いた。電子通信にひそむ異常通信をどうしようかと気分を切りかえる。バンショウの交通異常にかくれて報道はひかえめにしかされていないが、この異常通信も性質の悪さからいって十分非常事態だろう。蔓延の具合からいってそのうち企業なり行政からなり異常通信対策がだされるだろうが、それまでどうしようかとアイは腕を組んだ。いちいち削除していくのも面倒だ、いっそのこと自分なりに異常通信対策を開発してみるのはどうだろうか。情報処理学科として力試しにもなるし、運がよければもうかるかもしれない。

都合のいいことを考えているうちに暇がつぶれた。最終駅でアイはおりる。ほかの駅よりも広く、乗車を待っている人間が少ないながらもいた。天井には7人の創立者の浮き彫りがあったが、アイは見上げもしなかった。

情報管理局があるこの地域は、公安局や住民戸籍管理局などの公共的施設が密集し、大企業もまたそのすきまに巨大な建物を建設している、バンショウの中核、心臓部だった。アイの今まで行動していた地域はけして辺境ではなかったが、それでもこことくらべられることができない。

すこし歩いているうちにほどなくアイは違和感を覚えた。指定された建物へむかう途中には超高層建築物が並んでいたが、ほぼすべての建築物の窓という窓すべてに明かりがともっていて人の気配があった。道も無人ではなく、灰色の車が往来し人通りがたえない。バンショウは通勤通学者で昼間は人がおおいが、夜になるとそれらはすべてきえさり、街中無人になったように静まりかえるはずだった。観察するアイの周辺で、人々は黒い情報処理端末をかかえた青年など目に入っていないかのようにせわしなく歩き、無表情で建物から建物へと移動する。

情報管理局が存在する建物もほかと同じように、天までのびる超高層建築物で部屋という部屋に明かりがともっていた。ともすれば周りとおなじすぎてきづかず通りすぎてしまうところだった。アイは違和感を胸にバンショウ情報処理管理局本部へ入り、受付に事情を説明して別室に通された。

教室のような別室は無人だった。しばらくお待ちくださいと機械のようなていねいさで受けつけ嬢は戻ろうとする。

「すぐに担当者がまいります」
「すみません、きたのはぼく1人ですか?」
「この時間にいらした方はほかにはいません。昼間なら5人ほどいらっしゃいました」
「すぐきてくれといわれたから参りましたが、こんな時間でかえって迷惑でしたか?」
「いえ、そのようなことはありません。歓迎いたします。それではこれで失礼いたします」

受けつけ嬢は話を一方的にうちきり退室した。アイはもっと尋ねたいことがあったのだが、今はおとなしく敗北を受けいれ座りなおした。いまさらながらに不安がおしよせてくる。

「こんばんは。電子通信でおたずねのアイさんですね」

受けつけ担当者のいったとおり、たしかにすぐに担当者らしい男が入室した。バンショウで働くものの大半がそうであるように、上等な背広を着てきちんと髪をなでつけており、汚らしい服装のアイとは実に対照的だった。少なくとも夜中に呼びつけるような非常識な人物にはみえない。

「こんばんは。ぼくがアイです」
「カグラです。よろしく。さっそくですがアイさんは第4期総合教育機関の情報処理学科だそうですね」
「はい、5回生です。卒業に必要な単位はすべて取得しました」
「すばらしい。情報処理技術に自信はあるそうですね」

自信はあった。情報処理に関しては学年内で主席の席にすわっている。その気になれば異常通信対策もできるし過剰情報による運営異常を修復することもできる。違法になるが個人法人問わず処理端末を使って情報奪取もできる。

「はい」
「ではさっそく、今から仕事にうつってもらえますね」
「今っ?」

アイはすっとんきょうな大声をあげた。短期労働のためにきたのだからこのなりゆきは本来好ましいものであったが、あまりにも今までアイが信じていた常識とかけはなれている。「今です」とカグラが念をいれたから、アイの聞きまちがいでもない。

「今すぐって、急すぎませんか」
「不都合があるのですか?」

アイにはなかった。残念ながら常識外れすぎてなんとなくいや以外の理由はアイにはなかった。もちろん嘘をついてこの場を切りぬけることもできるが、非常識にあきれる気持ちよりもなぜそのようなことを言いだしたのかしりたい気分のほうが勝っていた。

「ありません。今からでもできます」

二つ返事だった。

その後、非常に簡略化した書類に記入すると、すぐにアイは奥へ案内された。カグラの後を歩き昇降機で地下へ進む。荷物の一時預けもなければ仕事内容の説明もなく、カグラはなに1つしゃべらなかった。

「あの」

思い切ってアイは口をひらいた。

「ぼくは自分の情報処理端末を持ちあるいたままですが、いいんですか? ぼくは身分証明書すらだしていません、もしもぼくが産業密偵だったらどうするんです」
「個人所有の情報処理端末になにができるのですか? おもちゃでは本物の都市制御情報のかけらもつかめませんよ」

カグラはおそらくばかにしたつもりはなく、純粋に真実をつげただけなのだろう。実際内心おもしろくないアイでも黒い情報処理端末ではとても密偵として役にたたないと考えている。

「それに身分の証明ならもうその個人情報処理端末がしています。情報世界弱者が持つにしては性能がよすぎるし、いろいろ改造もしているでしょう。情報技術にたいして、少なくともしろうとではないことはわかります」
「そうですか」
「それに正直、そのようなことをする時間がおしいのです」

おかしな理由だった。

「歩きながらですがお話しをつづけます。今バンショウの都市制御情報処理が非常に危険な状態にあります。そのためのどから手がでるほど情報技術者がほしい。国中、世界中に救援を要求しています。たとえ他国の密偵でもいい。役にたつのであれば」

昇降機がとまり、両開きの扉が開いた。カグラにつれられてアイは空間へはいる。

非常にひろい場所だった。天井は10メートル以上の高さで、横の広さは地平線が見えるほどだった。天井にふんだんにつけられた蛍光灯の明かりの下で、カグラと外見こそ違うもののよくにた、おそらくカグラやアイと同種類の人々が線と電波でむすばれた情報処理端末の中で打ちこみ、話しあい、真剣に仕事をしている。その奥、部屋の中央には巨大な塔が立っていた。グァバの温室ほどの量の鉄くずをかき集めて強引につなぎまとめたような塔は、今までバンショウで見たような合理的をつきつめた芸術性がみじんもなく、無骨できたなかった。しかしアイはそこに駅で見たものとおなじ浮き彫りが無理にはりつけられているのを見てとった。

「あれが都市制御情報処理の母体ですか?」
「いや、あれも端末にすぎない」
「あの浮き彫りはなんです?」
「10年前の都市改造計画の中核をになった方々です」

それはしっている。アイがしりたかったのはなぜこのようなところにあるかだ。カグラが早足で歩きはじめたので、急いでアイもついていきながら重ねてたずねる。

「どうしてその浮き彫りがここにもあるのですか?」

ぽーん。軽い電子音とともにどこかの情報処理端末から「助けてください」と聞こえた。異常通信の処理をしようとして誤って起動させたのだろうか。

「7人のうちの3人、都市制御情報処理を担当したものたちが制御情報を構成したのがこの部屋だったのです。あれから月日が流れ、今では当時の端末等はほとんどのこっていませんが、彼らをしのぶ意味で浮き彫りをかざっています」

10年前。言葉にしてみるとけして長い年月ではない。数百年数千年存在するであろう都市や国家からしてみればほんのはした年月だ。それでも人間からすれば長い。子どもが大人になり、情報処理端末が5回は使いつぶされる。それなりに偉大だったであろう創立者たちもこうしてかざってひんぱんに見なければ存在ごと忘れそうなのであろう。

「バンショウの都市制御情報処理はこの10年間非常にうまく働いていました。創立者たちはよほど見事にしあげたのでしょう。情報技術者がいらないほど問題なく動いていました」

地下の情報処理作業施設の空調は端末には適温だったが人間にはいささか寒いものだった。空調の空気の流れと端末の排熱の風がつよすぎて体感温度はかなりしたまわっている。アイは上着の前をとじてすこしふるえた。バンショウは地下でも風がふく。人工的なつよい風が。

「1週間前、異常が発見されました。ごくささいな部分で情報がうまく処理されませんでした。わたしたちはさっそくそれを訂正して、元の通りにしようとしました。それからです。あちこちで小さな処理不備が発生しました。はじめは本当にたいしたことがないものでしたが、次から次へと見つかり異常を訴えます。なおしてもなおしても異常はとまりませんでした。1つなおしたら2つ異常が見つかる状態です。そしてとうとう、昨日の事件がおこりました。しっていますか」
「はい」交通情報の処理体制の不備による重大交通事故のことだろうか。もちろんアイはよくしっている。12時間ほど前にこの目で見てきたばかりだ。通路を進もうとする車椅子の女性に道をゆずってアイはカグラへついていく。
「おおもとの、バンショウすべてを維持する情報制御にはなにも異常はないのです。末端が狂いはじめている、そして末端がだめになると、都市で人間は生活できない。アイさんにはこの末端の確認と整備をお願いします。手におえないような異常はないでしょう。初歩の知識と技術さえあればだれでもなおせるようなものです。手におえなくなったら周囲の人にきいてください」

カグラはアイが持っているものにくらべていささかふるい型の情報処理端末をさした。

「それではわたしはこれで」
「あのっ」

アイはどうしても気になっていたことを聞いてみた。

「これらの異常は自然発生なのですか、それともだれかが意図的に異常を起こしているのでしょうか」

返事ははやかった。

「わたしたちは自然発生だとは思っていません。わずかな短期間にここまでおかしなことがあったのですから。くわえて異常通信もあります。何者かが都市機能を混乱させるためにおこなったというのが一般的なみかたです」

バンショウはこの国の中核の1つでもある。ここの機能が完全麻痺すれば国としても影響がでる。それを考えると、犯人は国境線をまたいでちょっかいをだされているのだろう。アイは愛国心のようなものとは無縁に生きてきたが、それでもいい気分がしなかった。

「しかし、調査しましたが外部から進入して改造された後は見つかりませんでした。ですから考えにくいですが、自然に出現したものなのでしょう」

今度こそカグラはたちさった。アイはしばらくぼんやりしていたが、気をとりなおして情報処理端末を起動させる。

自然発生であるというカグラの言葉をアイはすこしも信じていなかった。カグラやその上層部もそうは思っていないだろう。異常をひきおこした情報技術者がすごい人物で痕跡をのこさず改造したか、さもなくばバンショウ内部の人間がおもしろ半分で異常を起こしたかのどちらかなのだろう。後者だとしたら自分の街をこわす愉快犯で一般的に理解しがたいかもしれないが、アイはその気持ちがなんとなくわかった。すべてがなんのゆがみもどよみもなく動いていたら、すこしばかり引っかきまわしたくなる。

丸投げしたように仕事をまかせられたのがだが、すこしして理由がわかった。ちょっと都市制御の情報を見わたすだけで異常が山のように見つかった。アイの扱う情報処理端末は都市制御の表面、バンショウ市民ならばたのめば見せてもらえそうな浅いところしか見ることができないが、それで十分だった。

「このていどなら楽になおせる。問題は量だね」

一通り確認して、アイはため息をつき、風のうなりに押されてきえた。夜にきゅうに呼ばざるをえない理由が、あるいは即座に短期労働者を雇わなくてはいけない理由が身にしみてわかった。異常の量が多すぎる。アイが見ている先から異常の真紅の明かりが緑を基盤とした立体映像に次々にともる。アイが百人いても異常を訂正しきれない。

やるまえからうんざりしながらもアイはてきとうな真紅の異常に接続して、仕事をはじめた。


「いねむりしていないといいのだが」

グァバははやい朝食を食べながらぼんやり考えた。もちろんいきなり押しかけたおかしな第4期総合教育機関の学生のことだった。あのあとグァバはごく普通に就寝して起床したが、アイもおなじことをしているとは考えにくい。

べつにグァバは心配してはいなかった。たしかに気にかかるが、しょせんは通りすがりの人間である。グァバはもともと情にあつい人間ではないし、考えはするが彼のために情報管理局に連絡をしたり親元に話をしたり、ということは意識にものぼらなかった。

量の少ない朝食を終わらせて、使いおわった食器を水につける。居住区と温室をくぎる壁がないため、マンゴーのよい香りが玉子と油の朝食のにおいに混ざってただよう。ガラスでくぎられた温室の向こうは雲がいささか多いものの、雨の気配はしない。

「今日はいい日になりそうだな」

グァバの仕事は完全に室内でのものだが、天候に左右されやすい。日が照ってきて温室の温度が上がることもあるし、ぎゃくに冷えて温水による保温をしなくてはいけないときもある。強風のときはどこからか飛んできたものでガラスが傷つくし、波浪が発生したら塩水で植物がいたまないか、あるいは波がさらに高くなって温室ごと持っていかないかと気が気でない。グァバは人間にたいしてはいい加減だが、自分の仕事のことならいくらでもきめ細かくなった。

もっとも、これからやろうとしていることは天候には関係がないことだった。

「さて」

自分の情報処理端末を起動させる。昨日の昼、総合教育機関で世話になったカワイ教授に報告書をおくったら、夕方には倍の文章量の訂正や質問がついてきて戻ってきたのだった。グァバははやくそれらの質問を答えて不備を訂正しなくてはならなかった。

グァバはあせる気持ちで温室の奥、大きなつる植物とその天井にあるつるすための引っかけを見上げた。つる植物のつぼみはだいぶ大きく、下手をすれば明日にでも咲いてしまう。それまでにつる植物を見やすいように天井からつるして、花の写真をとらないといけない。報告書は一刻もはやくしあげないといけないものだが、草木は待っていてくれない。

「生き物を相手にするとこれだからな」

しかしグァバはまったく嫌ではなかった。さっそく報告書に手をつける。

ぽーん。

『助けてください』
「ん?」

まるでまりが落ちてとびはねるような軽い電子音。つい昨日アイに処理してもらった異常通信の現象だった。

ぽーん。

『助けてください』
「まいったな」

グァバはふかく考えず、電子通信を起動させた。入力してから、昨日とは異なり電子通信を起動していないのに異常が発生したことに思いあたる。

電気通信を起動させると、そくざに異常通信を152通受けとったことが表示された。

「そんなに!?」

ぽーん。

『助けてください』

ぽーん。

『助けてください』

ぽーん。

『助けてください』

削除しようとしても異常通信の行動だけで情報処理端末は手がいっぱいでグァバが入力できない。立体映像がいくつもいくつも重なるように異常通信を表示する。立体映像はあまりにたくさんの表示をおこなったせいで、すぐにどの画像も認識できなくなった。

ぽーん。

『助けてください』

ぽーん。

『助けてください』

ぽーん。

『助けてください』
「えっと!」

黒くよごれた立体映像に、やがて異常通信以外のものが見えるようになった。深い沼から伝説の竜が姿をあらわすように、異常通信の束からひかりかがやく線と点で人型がつくりあげられる。どうすれば異常通信がおさまるのか混乱していたグァバは立体映像を見て目を見ひらいた。

粗末な、つくりかけの人工模型のようなそれは、しかしグァバにとってどこかで見覚えがあった。

ぽーん。

『助けてください』

グァバは進退きわまり、机上型個人情報処理端末の後ろの電源を切った。声も立体映像も光も人もすべてきえて、後はいつもどおりの静寂が残った。

グァバは思わず座りこんだ。目を閉じる。目の裏にはさっきの人形がまだ鮮明にうつっていた。


記念にと思ってアイは訂正した異常の数を数えていたのだが、20をこえた時点でやめた。

時間も季節もない、うすぐらい風のつよい施設の中でアイはもくもくと作業をこなしていた。疲労がたまってきたが風がつよくて眠気もおしよせない。監修する人間がだれもいないことをいいことに、アイは勝手に適度な休みを自分で設置して、目がつかれたら地下施設の中で働く人間をながめていた。

うすぐらい中でも、ここにいる人間の大半が必死になってだれでもできる異常訂正をやっているのがわかる。アイよりも疲労がたまり、目のまわりに大きなくまをつくって今にも倒れそうな人物もいた。今日雇われた部外者のアイとはちがい、本来正式に情報管理局につとめているものだろう。たとえそうでなくてもこのありさまに憤慨して、必死に訂正を心がけているものなのかもしれない。

最先端都市バンショウは都市制御情報処理によって動いている。いまどき世界どこの国どこの街もそうだが、バンショウはそれをとことんまでつきつめた。交通も物資流通も都市制御情報処理によって動いている。バンショウは大勢の人の努力によって動かない、情報処理端末の1行にもみたない入力ですべてが決定する。だからこそこれらの異常は重要だった。

「みんながんばっているな」

どちらかといえばがんばっていないアイは感心した。アイには目の周囲にくまをつくり、わき目もふらずなにかを努力した経験がない。これほどの人間がバンショウのために必死に努力している姿にアイは心落ちつかないものを感じた。ついでにそろそろさぼっていることへの罪悪感にとらわれて、アイは何度目かの情報処理端末にむきあった。アイの情報処理端末よりあらい画像は緑から赤に変化しつつある。アイは適当な赤と接続しようとした。

ぽーん。

『助けてください』
「げ」

アイはうめいて、異常通信を削除しようとした。

ぽーん。

『助けてください』

電子通信を見つけだして削除するまでの時間はアイの主観としてながかった。周囲の人間がきばらしついでに異常通信を展開したまぬけはだれだと目線を向ける。非常にアイはいごこちが悪かった。一種のさらし者である。

やっと削除が完了して、周囲もアイから目の前の情報処理端末に関心を向ける。アイはようやく人心地がついた。

「この異常通信も困ったな」

都市のあちこちでおきる異常よりはかわいいものだが、迷惑であることに変わりはない。バンショウの都市制御の異常がなければまっさきに対応されていただろう。アイは顔をあげて、ふとほかの作業員と目があった。

アイには見覚えがあった。さっきとおりすがった車椅子の女性だった。アイより20歳は年上の女性作業員はアイにてまねきをする。

「なんだろ」

アイはたちあがってて彼女のところまで行こうとした。とにかくひろい作業所なので見失わないようにと思っていたのだが、案の定1区間を歩いただけでおおよその場所しかわからなくなった。女性の姿が見当たらない。

「ぼくになんのようだろう。雑用かな。近くに部下はいないのか」

立場のよわい短期労働者のアイはへこへこと、彼女がいたであろう場所へついた。車椅子の女性はどこにもいない。どこに行ったのかと見わたしても、薄暗い周囲には情報処理端末と技術者しかいなかった。

その辺の技術者に車椅子の女の方に呼ばれたのですが、と聞いてみようかとアイは思った。しかしどの技術者もひまそうではない。目を血走らせて情報処理端末に向かっている。とても聞ける雰囲気ではなかった。

ふとアイは近くの壁に関係者立ち入り禁止の札を見つけた。立ち入り禁止とは立ち入ることができるということだ。ひょっとしたら車椅子の女性はアイがついてきてくれることを期待してここからでていったのかもしれない。アイは推測すると入ってみることにした。

バンショウには珍しく、自動扉ではなかった。古いのか扉は重く、アイは思わず全力を使うことになり、かろうじて身体が入る空間ができるとすべりこませた。入ってから肩で呼吸をする。グァバのところでかなり体力がついたと考えていたのだが、どうやらそれは幻覚のようだった。

扉の先はゆるやかな下り坂となっていた。明かりはとぼしく、床すれすれに非常用の緑の光が転々と先をみちびいている。アイは呼吸が穏やかになると先を歩きはじめた。

足音が道にこだました。このようなところでもきちんと掃除はいきとどいているらしく床にはほこり1つなく、ねそべってもなにも問題がないほど清潔だった。明かりのせいで先が見えないが、まだ長く続いているらしい。

今までそれなりに人がいたのに、ここはアイしかいない。何かににている、とアイは回想して、グァバの温室を思いだした。あそこも人はいなかった。

いや、そんなことはない。車椅子の女性をアイは忘れるところだった。彼女がここの先にいる以上けしてアイ1人ではない。しかしその女性も忙しいせいかかなりいい加減なのだろう。アイがここにくるとみこんで先を行っているのはいいが、もしもアイが怖気づいてこなかったら、あるいはそもそもこの通路に気づかなかったらどうするのだろう。彼女は待ちぼうけである。年齢からいってアイよりはるかにえらい人物なのだろうが、年齢や地位と人格は比例しないことをアイはしっていた。むしろなぜか反比例することがままある。

アイはふと立ちどまった。通路は終わっていて階段と昇降機がかわっていた。昇降機は地下1階と地下2階の表示しかなく、地下2階をさしている。階段はやはり光量のとぼしい非常灯しかなく、地の底まで続いているかのように深かった。

アイはいやな考えを浮かべた。もしも車椅子の女性がここにいないのであったら。ここにいるというのはアイのかんちがいで、本当は別のところで待っていたり、もしくはそもそも仕事につかれたアイの幻だったりしたら。ここにアイがいることをしっているのは自分のみ、という考えにアイは背骨が冷たくなった気がした。

いや、昇降機の表示はたしかに地下2階、車椅子の女性が先に行っているという証明をしている。そしてほかに行きそうなところがアイには思いつかず、先へ進む気分をあらためた。

アイは昇降機を待とうかと思ったがのぼりにくらべて楽なくだり階段なので、階段を使って下へ降りた。動かない階段を使うのはずいぶんひさしぶり、この街へ着てからはじめてだった。明かりが強くないのでアイは足を踏みはずさないかと自分でひやひやした。多少ぶざまでも手すりにつかまりたいところだが、残念なことに手すりはなかった。

階段はなかなか終わらなかった。アイははやくも後悔して、今からでも戻って昇降機を使おうかと考える。しかしささやかなほこりがそうあっさりあきらめるのを許さなかった。まだ若い、第4期総合教育機関の人間がたかが階段が長いからといってあきらめるのはみっともない。自他共に体力がなく、体力が必要ではない情報処理学科に所属しているからということはいいわけにならなかった。

階段が終わったのはアイがすこし休んでから先へ進もうかそれともまだ行こうかと悩みはじめたときだった。非常灯ではなく白い蛍光灯が階段の終了をつげ、昇降機の地下2階の扉が通路とおなじ、青がかった白を反射している。小さな空間にはあと1つ、大きな扉があった。

ここか。アイは深いことは考えずに両手をあてて自動扉ではない扉をひらいた。

まっさきにアイが見たものは放電による真白な火花の炸裂だった。目を守ろうとするもすでに遅し、突然の光にアイの目はくらみ、瞳はなにもうつさなくなる。両手で目を隠してアイは後退する。さいわいなことにだめになったのは目だけだった。耳はいつもどおりきちんと働き、状況判断に必要な材料をあたえてくれる。

大きくて重いものが落下し、合成樹脂の床に轟音をたてて落ちた。数人がさけんで騒ぐ。アイとおなじように一時的に失明したものもいるらしく、たおれてうめく声もした。

『むだだ』

合成音らしき声が聞こえた。らしきというのは、普通の人間にしてはなめらかで美しく、感情によってくずれたりはずれたりといった人間らしさがないから合成音と判断したのみであって、だれが発言したのかアイは見ることができないからわからない。

どうやら修羅場の真っ最中にでてきてしまったらしい、とアイは手探りでさらにひきかえしながら考えた。見つかったら即つまみだされるであろうし、最悪罰を受けるかもしれない。はやく逃げたほうがいいと思うものの、人間の5感のうち最重要の視力が機能していないので帰るに帰れない。いつ侵入者へ罵声がくるかとアイは歯をくいしばったが、今のところとがめはない。非常に幸運なことに、爆発とアイが扉を開けた時期が完全に一致したためにどさくさにまぎれてばれなかったらしい。もちろんここでじっとしていたらいつか必ず見つかる。視力が回復ししだい回れ右をして昇降機にのるつもりだった。

都市制御情報は異常通信はと異口同音に叫ぶ声が聞こえる。そのすべてにかぶさるようにしてまたきわめて人間めいた合成音がとどろいた。

『むだだ。崩壊は止められない。そうなるようにつくった』

アイは薄く目を開けた。まだまぶたの裏が白いが、あふれる涙の向こうに風景が見える。アイはこの混乱を自分の目でたしかめるため、捕まることを一時すえおいてふたたび扉へはいずりちかよった。

『一定の年月がすぎれば都市制御情報処理はすべて消え去る。すべてが壊れ崩れ去り、2度と復帰しなくなる。わたしたち7人が全力をもってそうした』

ばかなっ。信じられない、信じがたいという悲鳴がこぼれた。どうして創立者たちが最高傑作を壊すしかけをつくったのかと問う声があった。アイはようやく視界に色が戻ってきた。

その部屋は地下1階とはうって変わってせまかった。1つも個人用の情報処理端末がおいていず、あるものといえばいびつな鉄の塔だけで、中央にふんぞりかえるそれが空間の大半をしめていた。巨大な情報処理端末はところどころ火花が散り、部品の悲鳴のような金属音がいくえにもこだまする。床に鉄の塔だった部品が転がって、合成樹皮をきりさいていた。

情報技術者らしいものたちが10人ほど集まっていた。みんなアイよりもはるかに年上で、アイとは比べものにならないほど立派な服装をしている。おそらく全員それなりに情報管理局、あるいはバンショウ内で地位のあるものたちなのだろう。合成音を問いつめる発言は、疲労でやつれたカグラが言った言葉だった。アイは自然に車椅子を探した。見つけることができなかった。

『どうして。それは無意味な質問だ。逆に聞こう、どうしてその理由がわからない』

合成音は創立者の浮き彫りからもれていた。ここには浮き彫りははりつけられていない。浮き彫りに見えたのは精密な立体映像だった。アイのかなり能力の高い情報処理端末の立体映像が子どもの落書きに見えるほど、見事な、本物と区別のつかない空中の画像だった。

『バンショウからすべての住民、すべての人間が引きあげろ。命令だ。すべて引きあげろ。いずれ混乱は拡大して、人が住めなくなる。その前に消えうせろ』
「なに、わけのわからないことを言っている!」

情報技術者のうち1人が叫んだ。

「こんなものはただの故障だ! 都市制御情報にまちがいが生じたんだろう、きっと異常通信のせいだ。こんなもの、バンショウの情報処理母体に働きかければすぐになおる。みんななにをほうけているんだ、こんないたずらにまどわされるな!」

ぴんと張った糸に刃をあてたかのように、立体映像は瞬時に消滅した。精密な立体画像のあっけない退場にだれもが長い間動けなかったが、やがて会話が飛びかい、バンショウはじまって以来の異変の解決にむけて、優秀なバンショウ情報技術者たちは動きはじめた。

アイは腕を動かしてみようとした。アイの思ったとおり、アイの右腕は動いた。アイは何も考えることができずに、ただ保身のために階段をよろめきながら上ろうとした。


1階に上がってしばらくは、アイは動くこともできずにぼんやりその辺に立ちすくんでいた。まだ状況が頭で整頓できない。アイ以外の情報技術者は多忙のため、つったっているアイにかまわずに自分の仕事をした。

ぼんやりは長くは続かなかった。放送で正規の情報技術者以外は帰宅するようにとの命令が下されたからだった。いきなり呼んでいてかえれとは事情をしらないものからすれば失礼極まりないが、本来働いた分の給金はきちんと渡すことがつけくわえられると大半が喜んででていった。

アイは喜んでいない数少ない人間だった。ほとんど何もしないのに金がもらえるのはうれしい。しかし結果的に不法侵入の上のぞき見という、けしてほこれない悪行の結果にバンショウの情報異常の思わぬ1面を見しってしまったからだった。人には言えず、もちろんどうすることもできず、アイは言われるままに宿泊施設にもどることにした。

夜はとおりすぎてそろそろ夜明けの時間帯だった。あと1時間もすればだれがどう見ても朝になろう。ありがたいことにこんな時間だというのに無人電車は動いていた。ほかのかきあつめ情報技術者たちと一緒にアイは無人電車にのった。

ゆるやかに静かに動きだす電車の中はアイの同類が点々といた。アイは今だれとも、たとえあかの他人といえども一緒にいたくなかった。人のいない車両いない車両へとあるき、最後尾の車両が無人であることを確認して、やっとおちついていすに深くすわりこんだ。

「なんなんだか」

あらためて考えてみると、とても現実のこととは思えない。つまり、街のあちこちで浮き彫りとして忘却をまぬがれている7人のバンショウの創立者たちは、都市制御情報処理がある一定の時間で崩壊するようにしかけたということだ。こんにちすべての混乱の原因はそこにあるという。

ばかげていた。どんな妄想家だってそのようなことは思わない。まだ他国の悪意ある干渉と思ったほうがよほど現実的だしわかりやすい。

「そうだよ、どうしてバンショウをつくった人たちが、バンショウを滅ぼさないといけないんだ」

だれにも聞かれていないことを確認して、それでもさらにアイは自分にも聞こえないほど小さくつぶやく。それでももし本当だったら、という不安はきえなかった。もし本当だとしたら、とアイは疲れてまひした頭で思う。考えて考えて、アイはあの場すべてのものがアイをからかうために一芝居うったのではないかとまで考えはじめた。

「だめだ、混乱している。もどって寝よう。こんな時間まで起きていたんだ、昼過ぎまでぐっすり寝て、起きたらたっぷり食べよう。そうすれば気分もすっきりするし、事態もいい方向に動いているよ」

アイはとうとう考えを放棄した。電車の適当なやわらかさの席に座って、あるかないかのかすかな振動に身をまかせていると自然と眠気がおしよせる。

ふとアイは急に目がくらんだ。電車内の明かりはくらすぎずまぶしすぎずちょうどいい明るさなのだが、電車の後方から目にささるような光がくる。アイはどこかまばゆい明かりの建物の近くを通りかかったのか、さもなくば朝日かと電車の後ろをむいた。

無人電車のすぐ後ろに無人電車がせまってきていた。高度な技術ゆえ音もなくなめらかに、アイがのっている電車にせまりちかづいてくる。

アイはにげださなかった。あまりにも現実離れした風景に身体も思考も凍りつき、ぼんやりと強くなる光を見つめていた。ひざの上にのせてある情報処理端末がゆれて落ちかけるのを手でとどめる。これだけがアイがした唯一の行動だった。

アイの目がくらんでなにも見えなくなった時、後ろの電車はアイがのっていた最後尾の車両につっこんだ。

車内に地震のような振動が発生し、それきりなにごともなかった。後ろの電車は追突した直後に動きをとめる。 目もくらまんばかりの明かりうすれていき、消える頃にはアイの車両は遠ざかりすぎていてその姿を認めることはできなくなった。電車が闇にとけてきえさっても、アイは動くことができなかった。なめらかに電車は曲線をはしり、その衝撃で情報処理端末がまた落ちそうになる。再度それを押しとどめることによってアイはやっと我にかえった。

「今の、なに」

答える人はいない。すきとおる青空の下、黒煙の近くでのときと同じようにこれに的確に答えられる人物はいない。

「これも、交通情報が混乱したから?」

空調は快適なはずなのにつめたい汗が全身をつつんだ。手も足も硬直したように動かず、視界が闇に落ちたかのように暗くなった。

幸いにしてアイは無傷だった。無人電車が頑丈だったのか、それとも速度がおそかったからか、いずれにしても運がよいことだった。アイが無事だったのは運がよいからだけだった。昼間のように人間の痕跡ものこらないほどになってもおかしくはない状況だった。

「そう、だよね」

アイは座席からすべり落ちた。情報処理端末が転がる音が静かな車内にひびき、反響はなかなかおさまらなかった。いまさらながらに異変を聞きつけた乗客が最後尾の車両へはしり、へたりこんでいるアイをだきおこし声をかける。

「ぼくだって今この街で暮らしているのだもの、混乱に巻きこまれてもおかしくないよね」

アイは言霊を信じていなかった。なにかを口にすると現実におこるという信仰は、古い時代の迷信と思っていた。しかし、少なくともアイはここで虚空に話すことで少しずつ現実にもどってくることができた。親切な乗客が無事かと聞くが、アイはそれを認識できなかった。

視野が小刻みにゆれてとまらない。アイ自身が震えているからだ。とめようとしてもアイは方法がわからなかった。

電車の扉がひらいた。アイは首だけ上げる。扉の向こうは駅だった。いつのまにか到着していたらしい。その瞬間アイは情報処理端末を拾って、救いの手をはねのけ、とびはねるように電車からでた。

無人改札に強引に切符をねじこんで、アイは外へ逃げだした。外気にでたとたんに強い潮風と正面衝突して、アイはあやうく負けてころびそうになった。

アイは脱力した。引力にひかれて地面にすわりこむ。空には朝日もなく、地上があまりにも明るいせいで星1つ見えなかった。かろうじて月が空のはしに引っかかって、頼りなく弱々しく、まだ夜であることをアイに教える。

「海か」

アイは立ちあがった。ここで動かずにいたらこの場で眠ってしまいそうだった。そんな危険なことはできない。今はいつどこで電車が、あるいは車がつっこんでくるのかわからない。しかしここからでは宿には遠すぎて足では行きつけない。アイは夢遊病者のようにあるきはじめた。アイにはすがるものが、この街で唯一信用してすわりこめる場所があった。

その場にはアイはいつも電車を使っていたので、徒歩であるいた経験はなかった。しかし非常にわかりやすい場所にあったので、アイは迷うことなく行きつくことができた。普段のアイならちょっとそこまで、の散歩の距離だったが、今はまるで砂漠で3日3晩さまよったあげくに泉に到着したような思いだった。

ガラスの、開ける人のことをあまり考えていない重い横開きの扉を開ける。中は外よりも温度と湿度が高く、ここの建物の主役は植物であることを思いしらされる。温室の中は局地的な雨が降っていた。

「おかえり」

グァバは片手に蛇管を持ち、水やりをしながら温室をゆっくり一周していた。地面の大半が水をふくんで黒がかっていることから、もうほとんどの人工潅水は終わったのだろう。人工的な雨を温室内にもたらす、泥まみれの作業服とうすよごれた白衣のグァバは汚くくたびれていたが、しかしまぎれもなくこの温室の主であることをうかがわせていた。

「ただいま」

たまたま入り口近くを水やりしていたので、たちまちアイはぬれたがべつにどうとも思わなかった。荷物の中にアイはおりたたみ式傘を忍ばせていたが、わざわざさす気にもなれない。雨に服と髪をしめらせて居住区へよろめきながら入る。グァバはなにも言わず、水を止めて蛇管をかたづけ、居住区へ歩む。牛乳をあたためて大きな器によそい、アイの目の前にさしだした。

「ありがとう。どうしてこんな時間に水をまくの」
「こんな時間ではない、もう朝だ。これからの季節日中はあつくなる。すずしい昼間と夕方に潅水をする」
「そうなんだ」

大きな水滴が天と植物の葉からしたたりおちた。

「グァバ、こっちはすごいことがおきたんだ。しりたい?」
「こっちもすごいことがおきた。情報処理端末が異常通信のせいで使えない。起動させたらすぐに異常通信がうるさいし、そのうち起動すらしなくなった」

グァバは苦虫をかみつぶした。「おかげでわたしは何年ぶりか、手書きで報告書をつくって郵送するはめになりそうだ」

「お気の毒だね。でもぼくだってすごいよ」

器は空になった。

「グァバ、ぼくはもう電車にのる気になれないんだ。おかしな意味はまったくないから、すこしここで寝てもいい? 今日はほとんど徹夜だし、もうへとへとなんだ」
「興味をそそられるようなことを言っておいておあずけか?」

グァバは雨がやんでも外をながめていた。アイから顔は見えない。

「話してからでないとだめか」
「いや、そんなことはない。どうせわたしは報告書を書いて、温室のことをしなくてはいけないんだ。仕事に邪魔にならないんだったらなにをしてもいい。毛布がほしいならその辺に転がっているものを使え」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「かわりに情報処理端末をかしてくれ。報告書を打たないといけない」
「いいよ、変なことをしないでね」
「できるか」

たしかにグァバには変なことをしたくても知識がないからできないだろうなとアイは思う。うすよごれて平べったく重い毛布をありがたくかりてくるまった。疲れ果てていて、ねむくて頭の奥が重くしびれる。湿度が高く、適温のはずなのに汗がうかんでくる。安全な場所でぐっすり就寝したいところだったが、アイは期待していたようにすんなり眠りに落ちることができず、みょうにいらだちをおぼえた。

すぐ隣ではグァバがアイの黒い情報処理端末をぎごちなく起動させて、真剣に立体映像とむきあっている。文章作成操作で専門的報告書のため、なれない情報処理端末ととことん戦うつもりらしい。そんな中、ふいに立体映像に別の画像がわりこみ、グァバは出鼻をくじかれたように目をほそめる。

「アイ、なんだこれは」
「強制力のあるなにかのわりこみでしょ。指示の通りに入力して、それでもだめならまた呼んでよ」

グァバがそれを読むのにつかった時間はみじかかった。長い文章ではなかったらしい。グァバはしばらくどうしたものかと考えていたが、やがて指1本で文章を消去した。

「なんだった?」

アイはしりたかったわけではないが、義務として確認した。

「すべてのバンショウ市民への通達。都市の情報制御の機能不備により、街にいつづけることが危険と判断されて避難勧告がだされた。命令があったら即座に退避できるように準備しておけ、だそうだ」

アイはことの重大さを思いしるには疲れすぎていた。そうか、と相槌をうってぐずぐずと、また眠ろうと努力する。アイはそのときのグァバの表情を見ることができなかった。


アイが目をさましたのはかっきり8時間後の昼過ぎだった。アイの希望としてはもっと寝ていたかったのだが、グァバに強制的に起こされた。

グァバのほうもアイを起こそうとして起こしたわけではなかった。報告書を書きおえて一息つこうとコーヒーサイフォンを用意したところで、うっかり寝ていたアイの頭につまずいたのだった。いつもここにいるのはグァバ1人であるし、アイが死んでいるかのようにしずかに就寝していたのでアイの存在ごと意識から抜けおち、忘れていたらしい。グァバにも弁解の余地はあるし、寝床と毛布をかりた恩がアイにはあるのだが、それでも結果的にけり起こされたアイはおもしろくなかった。

「悪い悪い」

謝りかたまで軽い気がする。グァバも彼女なりにすまなく思っているのだろうが、そうは思えないのは性格上だった。

「いや、いい時間だったしいいよべつに」

アイは正直腹がたっていたのだが、そのへんに寝た責任は自分にある。おわび代わりにコーヒーをもらったことでもあるし、我慢していた。

「ずっと情報処理端末といたの?」
「いや、そんなことはない。時々温室をまわっていた。珍しい植物が近々花を咲かせそうだからしたくをしないといけない」
「そうなのか」
「ああ、短期労働に行かないのならばてつだえ」
「それどころじゃないのだけどね。グァバ、昨日の夜どんなことがあったのか、しりたくない?」

自分もコーヒーをすすりながら、グァバは熱帯農業の専門書から目をはなさずに答えた。

「べつに聞きたくはない。でもアイがそこまでもったいぶるから興味がわいてきた」
「素直に聞きたいといえばいいのに。あのね」

アイは短期労働にいっておこったすべてのできごとを話した。もちろん、偶然迷いこんで見た地下2階のできごとも、無人電車の衝突事故もアイが覚えているかぎりを話した。

「そんなことがあったのか」
「うん」

しかし話してみたものの、アイは自分でも本当かどうか判断がつかなくなってきた。なれないところで働いたせいでの白昼夢だとグァバに断定されたら信じるだろう。アイはむしろそれを望んだ。もしそのようなことが本当にあるなどと、今までのアイの常識では思いつきもしないし、今後もそのような夢ごととかかわって生きたいとは思わない。アイは黙ってグァバの表情を見守ったが、グァバは特に変化なくコーヒーを飲みほした。

「コーヒー、抽出時間が長すぎたかな。どうも苦味とえぐみが強い」
「そんなことよりも、グァバ、今の話をどう思った」
「アイ、情報処理端末をかしてくれただろ」

アイを無視するようにグァバは別の話を持ちだした。

「ありがとう、助かった。それで、ついでに今日のバンショウの報道も見てきた。最近のバンショウは報道することが多いな。それで、今日の朝の無人電車の衝突事故も見た」

グァバの態度はいつもと変わらなかった。

「電車事故が本当にあったんだ。地下で創立者たちの立体映像を見たという話も否定する材料はない」
「つまり、グァバは信じるんだね」
「ああ。疑う理由はないだろう」

グァバはからになった杯を、石を材質をした流しに持っていった。

「避難命令もでたことだし、疑う理由はない」
「避難?」

ねぼけて空腹な身体に、熱いコーヒーがいきわたる。ようやく目をさましたアイは、グァバの背中と眠りに落ちる前の言葉がかぶさった。

「あ。避難勧告が、でたのか」
「2時間前に避難命令になった。バンショウの都市情報制御の混乱により、通勤通学は一時停止、住民は避難命令がだされた。今バンショウにいるのは一部の情報技術者、公安局の人間、わたしのような住民、それぐらいかな」
「グァバは」

アイは興奮して立ちあがり、立ちくらみをおこして座りこんだ。

「どうした」
「グァバは逃げないの」
「そう簡単に逃げられるか」

アイのからの杯を受けとりながら、なめるなとつけくわえたそうにグァバは理由をつげた。

「アイは逃げないのか」
「うん、逃げなきゃね」

そうは言ったものの、アイは不思議なけだるさと脱力感で動きたくなかった。グァバは動きやすい灰色の運動靴にはきかえて、居住区からでようとする。

「グァバ、ぼくにてつだってほしいことってなに」
「遠来香という花がそろそろ咲きそうだから、じっくり観察したい。巨大でながいつる性植物だから天井からつるして撮影しようと思っている。それをてつだってほしい」
「いいよ、やる」
「助かる」

アイは髪をてぐしでなでつけ、首を軽くふって立ちあがった。


「遠来香は、近年隣国の東南部で発見された新しい熱帯の多年生草木植物でな。春のはじめに白い花をさかせる。つる植物だからほかの樹木によりかかって育つのだけど、花がさくとそれが1枚1枚はらはらと落ちて非常に美しいそうだ。香りも名前の通り、遠くにまでやさしい香りがただようらしい。花の寿命はみじかいし、栽培もむずかしかったけど、育ててみてよかった」

アイは事情はわからないが、たしかに困難だったのだろう。1人しずかに感動したように何回もうなずくグァバを見ればそれぐらいはわかる。

その美しいとされる遠来香だが、アイにはただのつるの塊にしか見えなかった。それが何本もの支柱にからまって、まるで毛玉のように繁茂している。これをほどいて天井に引っかけ、これからいつさくのかわからない花を待って観察、撮影するというのだから、研究者の気持ちはわからない。毛玉をていねいにほどきながらアイは近いようで遠い人種であることを実感した。

「で、天井に引っかけは用意したから、ほどいたらそこへつるす。絶対に折るなよ、繊細なんだからな」

原始的なはしごで引っかけの高さを調整しながら、グァバはこれからの作業を簡単に説明しおわった。外では青空はもう空のはしに追いやられ、血を空に溶かしたような鮮やかな紅が天に広がっていたグァバははしごから危なっかしくおりて、アイの手元を見た。

「グァバ、落ちたらどうするの」
「痛いだけだ。で、調子はどうだ?」
「ごめん、1本折った」
「おい」

それのみをのぞけばアイはたしかにたのまれていた仕事をはたしていた。目の前の緑のひもをアイはすべてほどいていた。グァバは折れた1本の様子を見る。かなり大きな茎が折れていて、このままでは引っかけにつるすと重みで完全にはなれてしまうだろう。

「しょうがないな」

グァバは白衣のポケットから透明接着用ひもを取りだし、折れたかしょを貼りつけてとめた。

「これでよし」
「それでいいの? 繊細じゃなかったの?」

のりでくっつくのだったら今までていねいにほどいた自分の立場はどうなる。暗にアイはそう言っていた。

「これでいいんだ。植物は結構頑丈というか、つくりが単純だから折れたのをくっつけたり一部を切りとったりしても、きちんとした知識の元だったらまったく問題がない。そうでなければ挿し木もできないし年輪調査もできるか」

挿し木は木の枝をしばらく水につけて根がでてから、もしくは木の枝に発根を促進する薬品をつけて、それから土や砂にさして根付かせることだ。問題の本質をむしされたアイは額の汗をぬぐった。

「はしごをおさえていてくれ。つるす」
「ん」

アイは軽くてさびにくい特殊耐食鋼のはしごをしっかりおさえた。それを確認して、グァバは重いつるをすべて肩にかかえ、片手ではしごをのぼりはじめる。はしご自身が古いせいか、それとも土台がかたくない地面のせいか、はしごはなかなか安定せずおさえていたアイは気持ちが安らがなかった。グァバもつるをそのまま、空中にたらしてある引っかけに丸ごと預ければよいというものではないらしく、1本ずつていねいに下ろした。そのためかなりの時間がかかり、終わってグァバがふたたび地面にたどりついたときには双方ともに全身汗でぬれていた。

「結構てこずったな」
「いつもはグァバだけなんでしょう。もしも1人だったらどうしたのさ」
「しょうがないから1人でやるよ」

見事な、しかしまちがっている気がしなくもない独立独歩の精神だった。アイはもう何もいう気になれず、しめった手拭で顔を乱暴にふく。鏡がないので確認ができないが、アイの顔はきっと泥だらけだろう。

「でもやれやれ、これで終わりだね」
「終わるか。これから撮影の準備だ。花がさきはじめてから終わるまでずっととりつづけるぞ。遠来香の人工的栽培は珍しいし、花の撮影にはまだ3例しか成功してない。カワイ教授へのいい土産になる」
「これから寝ずの番で見張り? よくそんなことができるね、ぼくは疲れたよ」

アイが憎まれ口をたたいたとき、ガラスを通って外から低い笛の音がした。空は紅から藍色に移動しつつある。温室もいつのまにか明かりが必要になってきた。

「船だね」
「そうだな」
「昼間に作業がおわってよかった。夜てさぐりでやったらはしごから落ちるよ」
「外が明るいから、意外と大丈夫なのだけどな。ま、一服でもしようか」
「うん」

待ちのぞんでいたお茶の時間だった。アイは気分ほがらかに居住区へ歩きはじめて、ふと汽笛がまだ聞こえることに足をとめた。

「どうした?」
「いつまでも汽笛がなっているなと思って。いつもなら」

アイは最後まで言えなかった。地震のような振動がして、グァバは持っていたはしごを落とした。とっさにアイは津波を危惧して海を見る。

「大丈夫だ。バンショウの湾は海と隔絶されているから津波の心配はない」

グァバが安心させるように伝えるも、そのときにはすでにアイは津波を心配していなかった。海の果てから、ここからでもはっきり見える業火と灰色の煙が立ちのぼっている。そういえば、とアイは考えた。さっきの振動は巨大な建築物同士がぶつかりあったともたとえることができるかもしれない。あるいは巨大な壁に巨大な電車がぶつかったとでも。

とっさにアイは温室から飛びだそうと走った。

「待てアイ、あっちのほうは遠いぞ。それよりも端末を使ってみろ」
「あ」

情報技術者としてはうっかりがすぎる見落としだった。すでにグァバの情報処理端末は動かないが、アイのはまだ十分に起動できる。アイは黒い自分の愛用の端末の電源を入れた。

「バンショウの事件を」

言ったのはアイだったかグァバだったか。2人ともおなじことを考えていたので、実際に口にだしたのはどちらかはわからなかった。アイはあせりのあまり2回打ちこみまちがいをしながらもバンショウの事件報道を表示する。住民避難命令の文字がそこにあった。

「待って」

アイは最新の事件に更新した。立体映像が変化する。写真だった。船がバンショウ内海へ続く堤防にぶつかり大破、沈没していく様子がうつっていた。アイは何もいわず、ただ藍色の空を見つめた。海の果てにまがまがしい炎が踊る。

「これも、バンショウ内の都市制御情報の混乱のせいか?」

現実味を感じさせない淡々とした様子で、グァバが問いかけた。アイにでもなく、自分にでもない。答えはあらかじめわかっている。

「グァバ」
「なんだ」
「逃げる準備は、しなくていいの」

グァバの返事は簡潔だった。

「わたしはこの街で生まれ育った。いまさら逃げて、どこに行けばいいんだ?」

月が銀色であることを、アイははじめてしった気がした。夜の空は雲1つなく、しかし地上が明るいせいで星は見えない。空をいろどるのは月のみだった。

「保冷庫の中身が少なくなってきたな」

グァバはなべのふたに石をのせて米をたき、大量のおにぎりをつくって卓の上においた。アイとグァバが食べても1日はもつ量だった。

「何で保冷庫なんていうの。冷蔵庫じゃないの」
「意味はおなじだろう。食べ物よりも種子や試薬のほうが多いから保冷庫とよんでいる」
「仕事用の冷蔵庫と普段使いの冷蔵庫が一緒なの? 大丈夫なの、それは」
「今までに体調の不調があったか?」
「ぼく!? ああ、ないね、そういえば」
「ならいいだろ」

そういう問題ではない気がするのだが、アイはうまく説明できなかった。

「食料品の輸送をふくむ交通機関が全面麻痺しているから、もう食料品は入ってこないな」
「じゃあ、いくらグァバが意地をはっても、このまま暮らせるわけじゃないんだね」
「そうだ」

いくらグァバが浮世人のように生きていても、この街で生きていることにはかわりがない。食料、水、電気、どれか1つでも止まったら生きていけない。グァバは居住区の縁側に足をおろして、つるしてたれさがっているあざやかな萌黄色の遠来香をながめる。その表情にアイはなにも読みとることができなかった。

「いつ遠来香はさくの?」

アイは黒い情報処理端末をひらきながらたずねた。

「わからない。そのうちだ」

グァバは視線をかえずに答えた。居住区で使用している明かりは光度がたりず、部屋全体がうすぐらい。なにもしないのならけしたほうがいいのではないかとアイは思っていたが、やがてグァバが明かりをけした。月に外灯、海からの反射光、外からの光には困らず、温室は明るい闇に落ちる。波の音が沈黙の温室にもれ聞こえる。

アイの端末から、くらい温室全体にしみわたるように明るい立体映像が出現した。

「グァバ、バンショウのほうは今すごいよ。都市制御情報を訂正するためにバンショウの情報管理局の母体に直接接続しないといけないんだって」
「どこがすごいんだよ」
「でもね、都市制御情報そのものがおかしくなっているから、自動警備にはばまれて肝心の母体に行きつけないんだって。だからいま、公安局の特殊機動部隊がむりに突入して、力ずくでこじ開けるんだって」
「いつそんなことが決まった?」
「今日の夕方、貨物船の衝突事故から15分後」
「しらなかったな」

グァバの立場上では非常に興味深いはずなのだが、逆にアイのほうが立体映像に釘づけになって注目していた。

「突入を情報処理端末で同時中継だ。すごいよ」
「そんなことができるのか」
「行政はいやがるんじゃないの。でも中継しているのは民間だよ」
「よく許可されたな」
「本当だね」

夜の空気はしずかに透きとおり、冷たく澄んでいる。温室の内部は湿度が高く、少々熱を持っていた。もう少し時期がすぎたら温度を下げるために日中窓を開けるようになる。夏がおとずれる。

「情報処理管理局旧本部に都市制御情報母体があるんだ」
「ああ。旧本部は駅から遠くて不便な場所にあったからな。バンショウが完成するのと同時に本部も移された。今では情報処理端末で遠距離操作もできるし、めったに人がはいりこまないな」
「いま市民識別身分証明書の提出をもとめられている。無視して強引に扉を焼ききって突入した」
「公安局の特殊機動部隊は大半が街の外の人間だからな。市民身分証明書はもっていない」
「すごいよ、制止をふりきって奥へ進んでいる。母体を確保できたらすぐに情報技術者をおくりこんで訂正して、それでお終いかな。意外とあっさり終わったね」
「アイ、問題ごとが簡単に終わることはない。問題を重く見すぎていたか、さもなくば簡単そうだと思いこんでいるだけだ」
「説教はいいよ。たいして年もはなれていないのに。あ」

目をはなしたすきに突入劇はあっさり終わった。正確には中継がとぎれた。少々の混乱の後、旧本部の映像には戻らずにみじかい文章が立体映像に無表情にうきあがる。

「なんて?」
「中継の続行は器具の破壊により不可能だって。特殊部隊は突然前後からの防犯用よろい戸に切断されて外部との交流不能におちいった」
「前後から? つまり特殊部隊は外にでることができないということか。閉じこめられたのか」
「うん、そうだね」
「失敗か」
「成功か失敗かと問われれば、そうなるね」

グァバは縁側から地面へとびおり、黄土色のつっかけをはいてあるきはじめた。

「グァバ、がっくりしていないの。住みなれた街を出て行かざるをえなくなったけど、グァバは落ちこんでいないの」

アイは本当に不思議だった。グァバの表情はまったく変わらない。

「がっかりしている。落ちこんでいる。アイが思っている以上にわたしは打ちのめされて陰鬱になっている」

見ろ、アイとグァバは指をさした。

「遠来香が」

アイはどこからか、ほのかに甘い、やさしい香りが聞こえてきた。見あげると絶望的な立体映像の文字の向こうに白い花びらが落ちる。

「もうさいたんだ」
「撮影しないとっ」

グァバが走るのをアイは黙ってみていた。情報処理端末の電源を切る。とたんに月明かりが目にしみた。

つる植物は1節ごとに、かすかに緑がかった白い花をつける。昼間は萌黄色のつるに隠されて見えなかった花のつぼみが、今や開花してひそかにさきほこる。アイの指ていどの大きさもない小さな花は、しかしたしかに温室中に香る。白い花は季節外れの桜のようにさいては落ちて香っては落ちる。

まるで、とアイは思った。月の光が実体化して大地に落ちているようだ。グァバに聞かれるのは恥ずかしいからアイはけして口にはださなかったが、しかしそうとしか思えなかった。グァバは真剣な顔で遠来香を見いる。研究者の顔でもあり温室管理者の顔であった。冷静に対象を観察しているような、今までじっと育ててきたいとし子を見守っているような顔だった。

「グァバ、きれいだね」
「そうだな」

それきり言葉は使う気にはなれなかった。アイは座ったまま動かず、黒い情報処理端末をひざにおいたまま、ほうけたように天を仰いで見ていた。銀の月が空たかくかかり、しずくを海へ温室へアイへと降りそそいでくれていた。


永遠のような一瞬のような、そんな時だった。最後の1枚の白い花びらがつつましく地面に落ちる。香りはまだ温室中にただよい、当分きえそうになかった。

当分きえなくてももう意味はない。避難命令がでている。長くは温室にいてはいられない。夢のような時の果てには、冷たい現実が待ちかまえている。

「グァバ、もう2時だ」
「もうそんなか。目がさめてちっとも眠くないな。興奮しているせいか」
「きっとそうだろうね。ぼくも眠くない。あ、ぼくは昼まで寝ていたせいか」

グァバ、とアイは告げる。グァバは撮影を終えた。本来これから撮影を編集して恩ある先生へ贈りたいところだろうが、そのようなことは後回しにしなくてはいけない。

「アイ、今バンショウの様子はどうだ」
「見るよ」

グァバが撮影のための三脚をかたづけて撮影機を元通りの場所に戻しているあいだに、アイは今のバンショウをすべてしることができた。

「特殊部隊はそのまま取りのこされている。情報技術者、報道関係者、様子を見にきている国の高官、すべて退避した。市民もすべて避難が完了している。今バンショウに生きている人間はいないはずだよ」

無人撮影機が温室から見る月と同じ月をうつす。立体映像の下部にはなぜこのようなことがおこったのか、だれが悪かったのかと街中国中の知識と教養ある偉い人々が必死に話しあっている。絶対大多数の意見はあきらめだった。バンショウはすでに廃墟だ、そもそも街中を見えない情報の糸ではりめぐらせ、おおいかぶせたのがまちがいだった。壮大な実験都市であり、世紀の大失敗だった。だれもがバンショウの終末について語りたがっていた。

「グァバ、きっとぼくたちは今現在バンショウに唯一いる変人たちだ。そろそろ行こう。荷物をまとめてここから脱出しよう。もうここは人が住めない」
「そうだな」

グァバはため息を1つついた。居住区へあがり、ごみ袋と見まちがえそうなほどの布のせおい袋を取りだす。机上型情報処理端末の横にむぞうさにおかれていた市民識別身分証明書と財布をほうりこみ、卓の上のおにぎりと真鍮製の水筒を入れる。靴をつっかけからアイのものより古くよごれて泥まみれの運動靴に取りかえる。居住区の電気をけして、グァバは温室の扉へ歩む。

「荷物は、それだけ?」
「必要なものは、これだけだ」

アイ。低く小さく、しかしよくとおる声は明るい闇を通りぬけしっかりアイへ届いた。

「以前言ったよな。この国を見るために旅をしているって」
「うん、言った」
「だったらついてこい。とっておきのおもしろいものを見せてやる」

アイはわけがわからなかったが、その言葉に今までにはない力をたしかに聞いた。自分のかばんを肩にかける。グァバほどきたなくはないが、古さと使いづらさはアイのほうがきっと勝っている。

外は温室の中よりもさらに明るかった。外灯ははじめてきたときとまったくかわらず明るく輝き、月は海をさえざえと照らしている。強い潮をふくんだ風にアイはよろけて、グァバの髪はおどった。

「グァバ、6年ぶりの外はどう?」
「あいかわらず風が強いな。べつにどうとも」
「電車にのるの? ぼくはちょっといやだよ」
「もう動いていないだろう。線路沿いを歩いていく」

アイは電車を使うのはいやだったが、電車が通う距離を歩くのもよくはなかった。このような時間帯に電車が通っているのはありえないが、なんせここは最先端都市バンショウである。自分の労力削減のため、アイは電車が通っていることを希望した。

駅構内は明るく輝いていた。しかし自動改札口は沈黙していて、その手前に運転一時中止の電光掲示板がおなじ文字をくりかえしている。

「動いていないか」
「暴走して事故を起こしたら、車とは被害のけたが違うからな。そんなものだろう」

グァバは自動改札口をのりこえて構内へ侵入した。アイもすこし周りを見わたした後改札口をまたぐ。無人とはいえだれかにみとがめられないかと心配になった。

構内から線路へおりたち、バンショウ中央の方向へグァバは歩こうとする。

「グァバ、街をでるなら反対だよ」
「街の外には行かない。情報処理管理局本部へ行って、直接都市制御情報がどうなっているのかこの目で見てやる」

アイは自分の耳がおかしくなったか、さもなくば聞きまちがいをおこしたのかと思った。しかし現にグァバは都市中央へ向かう。

「ちょっと、ちょっと待って、グァバ。それはやめたほうがいい、無茶だよ。非現実的だ。子どもじゃないんだ、もっと常識を持とうよ」

とっておきのおもしろいことではない。前代未聞のばかげた行動だ。

「特殊機動部隊がどうなったか、グァバだって見ただろう? なに考えているのさ」
「アイこそ、なにをそんなにあわてているんだよ。わたしはべつに、無理になにがなんでも行こうと思っているわけじゃないぞ」

グァバのほうが逆にあきれかえった。ふり返り、立ちどまる。

「特殊部隊も拒むようなところまで、一介の研究者であるわたしが行けるわけがないだろたんにわたしは運よくたどりつければ幸運だな、という気持ちで情報管理局にぎりぎりまで近づいてみてみたいだけだ」
「どうして」

グァバは肩をすくめた。「バンショウに住めなくなる元凶を見てみたい」

アイは嘘だと感じた。嘘、というよりもそれはただの言いわけで、本心はまさしく情報処理管理局までたどりついて見ること、そしてもしできるものなら直接なおせないかどうか、自分でやってみることなのだろう。できないことはわかっている、多分無理だろうと理解をしている。それでも実際に行動して打ちのめされなければ納得はしないのだろう。アイはその常識外れの考えに内心あきれてばかにした。

「アイ、いやなら帰ってもいいんだぞ。わたしの反対側をずっと行けば街からでることができる。そのうち人にも会うだろうし、役人もいるだろうからそこで保護してもらえ。わたしは行くから」
「もしもぼくがそこでグァバのことを言ったらどうするのさ」
「おとなしくつかまるよ」

はたして本気で言っているのか、アイには判断ができなかった。

「本当はアイがそうしないのを望むが、それはしょうがない」

アイはふと、その子どもじみた行動に胸の鼓動がはげしく高鳴っているのを感じた。幼稚な行動だが、しかしそれはたしかに魅力的だった。アイのこのたびの土産話としても一流のものになるし、もしもたどりつくことができたら一生ものの冒険だった。

「ぼくもついていく」

深く考えないうちにアイは口にした。グァバのどことなく安心したような表情にアイは軽はずみな言動をすぐに後悔するが、言ってしまったものはしょうがないとひらきなおる。

「じゃ、行こう」
「うん」

流されるまま、アイはグァバと一緒に線路へおりた。