2人の人物がいる。
1人はアイ。第4期総合教育機関情報専門学科所属5回生。短く切った黒髪、よく動くつり目。手足は細く、背も低い。古いかばんを愛用し、ほつれた上着をなで肩にかけている。教育機関の卒業に必要な勉学をすべておさめ、これ以上教育機関に通う必要がなくなり、今はこの国を好き勝手にめぐっている学生。
空気の圧縮音と共に地下鉄の扉は閉まった。だれも乗客を乗せないまま、無人地下鉄道は静かに滑りだして次の駅へとむかう。
駅のホームにも人はアイ以外いなかった。時計の針は12と2の間で60度をつくりだしている。アイは重いかばんを肩に改めてかけて、上着をなおして歩きだした。あちこち穴が開き、つま先とかかとが大きく削れた運動靴の足音は空気清浄機の低い機械音と同じくらい音を立てない。
改札口を探してひろい構内を見わたしたアイは、天井一面に巨大な浮き彫りがあるのを見つけた。7人の人物をもした浮き彫りは多少の変形はあるものの本物の人物さながらに迫力があった。アイは浮き彫りのうまさよりも、立体映像ではない古く奥ゆかしい浮き彫りが最先端の駅構内にあることにおどろいた。改札口近くにアイの身長ほどはある銅の板に1言のみの解説が記されていた。
バンショウ創立の中核をになった7人。
それ以上の説明はなかった。しばらくアイは首をむりな方向にかたむけて浮き彫りを堪能する。国籍も性別も年齢もばらばらな7人は、しかし全員おなじような無表情で構内に1人たつアイを見下ろす。
はじめから意外なものにあった。この街ではじめてのできごととしてはさきゆきがいい。アイは天井から目をはなした。
上着のポケットの中にあった財布から小さい紙きれを取りだし、アイは無人改札口に入れる。
外にでた途端、正面からきた突風によってアイは一瞬声をもらして息をつまらせた。短い髪が狂ったようにあおられてなびく。前髪につられて空を見上げた。アイの身長の百倍はある超高層ビルが雲1つない浅葱色の空をうつして、アイの背中にいくつもの影をつくる。前をとめていない上着がビル風を含み、危うくアイと別れるところだった。
古いせいで半分閉まらないかばんの口をおさえて、風にあおられながらアイはこの国の地図を取りだす。いつかどこかでもらったこの国の簡易的地形はあちこち青い印がついていた。アイはすこし考える素振りを見せて、この国の真ん中より右に大きく丸印をつける。風はすこしもおさまらないが、アイの方がビル風に慣れた。すりきれてつぎはぎだらけの上着のポケットに地図を放りこんでアイは歩道を歩きはじめる。
3月の日差しは暖かくて春らしい。だが風が強すぎて体温を奪うためアイは上着を手放せない。3車線の道は清潔でちり1つ落ちていないが、肝心の車が1台も見当たらなかった。とおる人間もアイのほかにはだれも会えない。今は昼間、この都市で過ごす者はだれもが仕事のために高層建築物にこもっている時間帯。高層ビルの1階に喫茶店があり、店員の若い女の人が無表情で店の外の風景へ顔をむけている。店にはだれもいなかった。
歩く歩道に乗って動く風景をながめる。高層ビルはそれぞれ自分以外の風景を鏡のように跳ね返す。そのせいで三面鏡の中の現象があちこちで起こっていた。けして中を見せない黒色のガラス窓はどこも同じ規定でつくったように規則正しく並んでいる。いつの間にかアイが歩いていた道が下になり、歩道は自主的に動くようにになって、建物に沿ってつくられた空飛ぶ道につながる。
不意にアイは小さく叫んだ。螺旋を描くエスカレーターの天井がとぎれ空がのぞいた途端に、アイは強烈なビル風と正面衝突した。顔を腕でかばう。アイの腰からなにかがはぎとられて空を舞った。
アイが手を伸ばしても到底届くわけがない。アイの上着は風に遊ばれ通路上を舞う。アイはつま先で傷1つない空中歩道を蹴り、走りだして上着を取りもどそうとする。無人のため見ている人も注意する人もいない。
アイは休憩用の長いすに飛びのり、手すりに手をかけ上着をつかもうとした。紙一重で届かない。アイの上着は何回も回転しながら引力に引かれて空中歩道の下の海へ落ちる。ついでにアイも速度がつきすぎて手すりから転がり落ちるところだった。両足で踏みとどまり、手すりをしっかりつかんでなんとかことなきことをえる。
いつまでもアイは自分が無事であることを祝福していなかった。あわてて引き返し、空中歩道を髪がなびきはためく速度で走り、地面を目指す。
アイはすばらしい速度で海岸へたどり着いた。しかしすでに上着はアイの視界からはなかった。
アイは萌黄色の若葉の街路樹に寄りかかり、かばんから黒い板を取りだした。地べたに直接座り込み、黒い板の表面に刻まれた白地の小さなキーボードにすばやく細長い指を走らせる。黒い板の先端にはりつけられていた虹色のガラス板から光がいくつも出現し、空中に立体画像をつくりあげた。
『ようこそ、バンショウへ。なにか御用ですか?』『海へ物を落とした。それを取りもどしたい』
口で言うよりも早く指が黒い板の上を走った。
『少々お待ちください。海上保安部へ接続しています。お待たせしました』空中の動画がしゃべる巨大船へと変化する。滑らかな女性の合成音でだれにでも聞きとりやすいように来客をでむかえるアイはさっきとまったく同じことをキーボードへ打ちこんだ。今度は口にだしては言わない。アイの個人用総合的電子情報処理端末は音声認識機能がついていない。アイがいちいちしゃべるのを面倒くさがってつけなかった。
『海上保安部からの返答です。海上に落ちた荷物は1日2回、10時と4時に海上を回漕する船によって発見され次第回収されます。荷物は第一海上保安局によって1ヶ月保管されますので、その間に取りにきてください。またその際市民証明書ならびに身分を証明するものをお持ちください』アイは自分の情報処理機の時計を見た。昼近くだった。午前の船はもう通り過ぎているし、午後の船まであと4時間、その間に沈みかねない。
上着は特に高いというわけではないが、しょうがないと諦められないほどにはアイは愛着があった。アイはすこし考えてまた検索する。近くに昼食を食べにでてきた勤め人らしい男が通りかかるが、アイも男もお互いを気にしなかった。
『周辺の海流についてしりたい』『分かりました。このバンショウ内海の現在の流れを表示します』
今度はすこし待たせた後、湾の簡単な地図と潮の流れを表示する色とりどりの矢印が浮かびあがった。地図の作成日はあまり新しいものではない。以前バンショウの湾へ流れこむ海水に浄水機を通さずそのまま入っていたころは魚が湾内で釣れたという、そのときの釣り人のための地図だったのだろう。現在の季節と時刻から矢印はすこしずつ変化していく。
アイは立体映像に直接指を触れて、矢印に沿って移動させた。アイの指の先に触れた映像は虹色の光となって溶け、アイの指にからみつく。アイの指は緩やかな弧をえがき、ある陸地にたどり着いた。
そこに書いてある文字を読む。第5区港南部とある。港からすこし離れたところにあるそこは企業の巨大な倉庫ばかりが立ち並び、定期的に管理のための巡回があるのみは無人の場所だ。もっとも、極限までの情報処理化と機械化によって、第2の首都とも呼ばれるここバンショウは世界でもっとも静かな都市とも呼ばれている。この都市で無人でないところの方が少ない。最寄り駅から15分ほど歩く、交通は不便だが躊躇する理由にはならない。アイは端末を閉じて立ち上がった。
海上から10メートルの位置の無人電車でアイは1人海をながめていた。朝の通勤時間とも昼の昼食時間でもない今、電車に乗っているのはアイのみだった。極力騒音排除した結果、アイの呼吸音さえ目立つような静寂の中、アイは端末にも手を触れず、ほかに見るものもなくて海を見下ろす。外界に通じるせまい入り口には幾重にもくぎりがあった。時々船を通すため決まった時間に門が開くほかはたとえ海水といえどもそのまま通さない門だ。そのおかげで湾には魚はもちろん、海草もごみも、油膜さえも存在しない。わざわざ海へごみを捨てに行くもの好きも存在しないため、世界一清潔な海だろう。
次の駅だ。アイは暗記した地図と現在地を照らしあわせて荷物を手に取った。陸地には長方形の白い建物が並んでいる。窓もなく出入り口も車が入るのに適している巨大な正方形の観音開きの扉のみだ。
アイは長方形の隙間に奇妙なものを見つけた。周りの建物に比べて縦も横も小さいガラスつくりの建物だった。透明なガラスの向こうには植物が生いしげっており、どう見ても倉庫には見えない。直接海に面していて、海面には桃色が広がっていた。目を凝らすと桜の花びらだとわかる。周囲にはもちろん桜どころか植物は雑草1つない。
どうして、と首を傾げかけて、何のことはない、ほかのところから散り落ちた桜の花びらが海流に乗ってそこに行きついたのだと結論に達する。海に面したガラスつくりの建物の窓が開き、深緑色の腕が伸びて網で花びらを拾う。
腕が深緑色だと思ったのはアイのとっさのかん違いだった。手首まで深緑色の服におおわれていたためまちがえてしまった。小さな、顔も入らないような網で数回海面をすくい、手なれた様子で腕を引っこめて窓を閉める。その後なにがおきたのかはアイにはわからなかった。電車が海を通りすぎ、小さな建物は倉庫の影に去ってしまったからだった。
端正な女性の合成音で駅が近いことを告げられる。アイは気を急いて荷物を抱え出入り口へ立った。とにかく、駅をでてからどこから探しはじめればいいのかははっきりわかった。
よく整備された道はたとえ走っても運動靴によって音が吸収されてしまう。そもそも走ってもその音を聞く生き物はいない。安心してアイは全力疾走ができる。
人も船も建物も隠してしまうような倉庫の群れを通り抜ける。碁盤の目のように整備された道は本来目指す建物がどこにあるのかすぐ分かって便利なはずだが、どの建物も異邦者であるアイには見分けられなく、自分がどこを走っているのか見失いそうになる。アイはふと足を止めて空を仰いだ。風が強く空には雲1つない。空だけはまちがいなく自然そのままのはずなのに、アイは天までが人工物であるかのような錯覚を抱いた。ため息をついてアイは改めて歩きだした。
どれくらい歩いたのだろう。迷ったのかもしれないとアイが自分を疑いはじめたとき、唐突にガラスつくりの建物が出現した。
想像したよりは建物は高かった。ただ周囲の倉庫のほうがはるかに高い。総面積もそれなりには広かったが、それでもアイには息苦しいほどせまい。外から見た通り、建物の中は大小さまざまな植物であふれている。どれも普通の街路樹や森林の樹木ではない。もっと南の、熱帯雨林地方に生えているような植物ばかりだった。アイは植物の知識は第2期総合教育機関の生物学でとまってしまっているが、それでもここには珍しいものが多いというのはわかる。入り口らしい横滑りの扉に申しわけないように小さく旧13区港南部熱帯植物研究所と印刷された安物の板が張りついていた。
戸を引いてみる。ちり1つない道とは違い、土と砂利で開けるのにかなりの力が必要だった。中に入ったとたん熱気につつまれる。この国の気候では考えられない高い温度と湿度だった。地面はむきだしの土で、何人もの人間が頻繁に行ききしているらしく、足跡でおおわれ踏みかためられていた。獣道も同然の通路以外はすべて大小さまざまな植物がじかに生えていてあふれている。背の高い草で天井もろくに見えない。
きっと、これらの草木が生えている熱帯地方はこの気候なのだろう。アイははき古した運動靴をさらに泥まみれにして歩を進めてみる。巨大なつたの山が通路の脇につんであった。天井に引っかけがあり、つたは地面から生えて生育しているであろうことから、あとで天井につるすのだろうか。むせ返るような熱気の中には人の気配が一切見あたらないが、腕がこの建物から生えてきた以上人はいるだろう。
すぐにアイは自分の考えを正した。ここには何人も人はいない。せいぜい2、3人、ひょっとしたら1人だろう。獣道をつくりだした足跡はアイよりすこし大きめの、すべてよく似た足跡だった。まだ頻繁に行ききしているだろうというアイの推測は崩れていない。
ほどなくしてアイは生きている人間を見つけた。アイよりはるかに長身の女性だった。アイへ背中を向け、ちょうど果実が実っている樹木を三脚と撮影機具で撮影している。ところどころ泥がついた長い白衣を身につけ、黒より薄いとび色の髪をゆるやかな三つあみにむすび背中に落としている。アイが特に足音を忍ばせずにいるのに侵入者に気がついた風もなく、樹木へ真剣な目をそそいでいる。アイは詰問されないのをいいことに見物することにした。
女性は時に角度をかえ、何枚もの写真を撮影する。焦点を常に調整して樹のすべてをおさめようとばかりに露光装置を調整する。どれだけ写真をとったのだろうか。しばらくして三脚から撮影機具を取りはずし、今おさめた写真の中から焦点がずれているもの、同じものを操作して消去する。そうして撮影機具を白衣のポケットにおさめ、三脚を折りたたんで右腕で抱える。そうして立ちさろうとして振りかえり、アイと目が合った。
女は口を一の文字に結んで凍りついた。アイは今更ながらにお辞儀をする。
「こんにちは。聞きたいことがあります」要件が短くまとまった、分かりやすい挨拶だった。入ってすぐにこのように言ったら話は実に滑らかに進んだだろう。女は数回口を開け、声を上げようと努力した。しかしアイが聞こえるのは空の洞窟を通りぬける空気音のみだった。まだ衝撃から抜けきれていないのかと思いきや、表情は驚愕を脱して冷静にアイを観察している。冷静な人物らしい。
ひょっとしたら喋れないのかもしれない。アイがそう思いはじめた矢先、老婆のようなしわがれたしゃがれた声で、しかしまぎれもなく目の前の女は口をきいた。
「なにがききたいの?」発音におかしなところはない。「ぼくは海で上着を落としました。端末で調べたらここに漂着している可能性が高いのですが、見ませんでしたか?」
「見た」しゃべればしゃべるほど女の口はなめらかになっていく。もうすでにしゃがれ声ではない、やや低めの、それでも外見相当のものだった。
「こっちにおいてある。きなさい」「はい」
「わたしはグァバ。ここの所長」
「ぼくはアイ。学生です」
扉の案内は見たが、それでもアイはくりかえしたずねた。
「こことはどこのことですか」「旧13区港南部の熱帯植物研究所、この温室のこと。来客がくるなんてはじめてだな。しばらく人に会っていなかったから、声のだし方を忘れるところだった」
それでしわがれ声の理由がわかった。
グァバの案内に従うとすぐに温室のすみにでた。すぐ外には海が広がり、この温室が陸地ぎりぎりに立っていることがうかがえる。四方のガラス戸を開けると、そこにはごみの山がうずたかく積まれていた。一応雨よけの合成繊維でおおわれているものの、まちがいなくごみの山である。人形、古い定期券、女性の装飾品、通信用端末。一番上にアイの上着が無造作に放置されていた。
「海流の関係で、春はここによくものがあがる。海沿いを散歩している時、海上電車に乗っている時にうかつな人や不慣れな人が物を落とす。保存してはいるが、取りにきたのはアイがはじめてだ」これは管理しているとはいえない、とアイは思った。保存というものはどこになにがあるのか、きちんと整理してこそはじめてなりたつ。今の状態ではただあつめているだけにすぎない。アイはよじ登って上着をつかんだ。
「そういえば、電車の中で桜の花びらを集めていましたよね。あれはなんです?」「副業。春の頭から中旬にかけて、海沿いの桜の花が散るとここへ流れつく。それをすくって乾かしてとっておく。いい香りのする芳香剤、または消臭材として一部の人間に売るんだ。こずかい程度にはなる。そうもうからないけどね」
アイは想像した。春、樹から離れた桜は雑菌が何もない海水を含ふくみながらここへつどう。そこでグァバがすくいあげ天日でほす。乾燥した花びらは桜と海の香りがするだろう。おかしな話だがなかなかしゃれていた。
「上着が乾くまで、ここにいてもいいですか?」「かまわないよ。こっちに居住空間がある。きなさい。お茶ぐらいはだせる」
「他にも研究者がいるの?」
あれから3日。アイはまだこのさびしい研究所にいた。毎日街からきて、朝から夜遅くまでいりびたる。
「いない。わたし1人だ」グァバはあまり友好的な口調でも態度でもなかったが、そう冷たくもなかった。アイがここにいることにも一行に頓着せず、自分の仕事を黙々とこなす。やることがないときにはアイを居住空間に上げてコーヒーをだした。
グァバのいう居住空間は、屋根はあっても壁はない、むきだしの四畳半の空間だった。人が住むのにはいささか殺風景なそこには、毛布や台所用品といった生活必需品、熱帯植物の学術書や電子情報処理端末、娯楽としてコーヒーサイフォンやコーヒーミルなどが置かれている。グァバは勝手しった様子でコーヒーの焙煎済みの豆をはかり、コーヒーミルにかける。アイは居住空間へ腰かけてそれをながめていた。
「いつからここにいるんだ?」「6年前。前所長が健康上の理由で退職して、かわりにわたしがきた。それ以来人材の流動はない。入るほうもでるほうも」
とするとグァバは6年間ここに1人でいたことになる。温室はもちろん、周囲にもまったく人気がないところでよく生きていけるとアイは感心した。グァバが静寂を切りさく無骨な音の後にできたコーヒーの粉を、丁寧な様子で濾布を装着したコーヒーサイフォンへ入れ、アルコールランプの頼りない火で水をわかす。
「なんでこんなところに研究所があるんだ? 研究所を建てるのなら、もっといい場所があるはずなのに」「昔はそうではなかった。ここが旧13区で、まだバンショウが都市計画によって改造される前、ここは貿易港で一番に異国の荷物が着く港だった。人もあふれ返っていて、流通と人材の関係からここに研究所があると都合がよかったらしい」
わたしが生まれる前の話だけどね、とグァバはつけくわえる。たしかにバンショウが都市改造計画によって没落の都から最先端都市に生まれかわったのは10年も前だ。ここが人でにぎわっていたのは昔も昔、歴史の教科書にのるような年代のころであろう。
「ここで何をしているの?」「研究している」
「退屈そうだね」
「そうでもない。学ぶことはたくさんある。栽培育種植物生理水利土壌病理昆虫経済イモ果実園芸。ここの水やりも草むしりも剪定も害虫駆除も写真撮影もすべてわたしの仕事だ。退屈はしない」
水が踊りはじめた。沸騰した湯はコーヒーサイフォンの上部にかけあがりコーヒーと陽気に混ざる。グァバは竹べらでかき混ぜた。
「ここをやめて、どこかへ行こうとは考えたことはある?」「ない。研究者同士の交流は情報処理端末でできる。研究成果の発表も論文の取りよせもできる。だったら研究者として外へでる理由はない」
グァバは竹べらをとめ、黒くにごった湯を見つめた。
「自宅へ帰省しようとは思わないの?」「わたしはバンショウの出身で、ここが地元だ。それに会いたいと思うほど肉親と仲がいいわけでもない」
「それだと、へたをすればここからでないで生活がなりたちそうだね」
グァバはもう1回コーヒーをかき混ぜ、そっとアルコールランプをのけて火を消した。上で盛んに沸騰していたコーヒーが下へ落ちる。
「そうなるな。この6年間温室から外にでていないな」これはアイを驚かせるのに十分だった。
「買い物とかはどうするの」「情報処理端末で通信販売をする。今の電脳空間では玉子から原子爆弾までなんでも売っているな。生きるのに不都合はない」
それはアイもよくしっていた。グァバはコーヒーを取り、それぞれのコーヒーカップに注ぐ。グァバはコーヒーカップを1人分しか持っていなかったが、アイが2日目に自分のカップを買ってここにおかせてもらっている。
「変わっているね」アイは頭を振って理解できないとばかりにため息をついた。コーヒーをすする。粉砕から目の前で行われた入れたてのコーヒーだ、まずいわけはなかった。
「それはこっちの言いたいことだ」かわっているといわれて多少は気分を害したのか、グァバはコーヒーの香りをかぐしぐさのまま言いつのった。
「しりたくはなかったから聞かなかったから、どうして平日の昼間にくることができるんだ? その年恰好でバンショウで働く人間には見えないが、かといって浮浪者のはずはない、浮浪者はバンショウでは取りしまわれて排除されるはずだ。学生だとしても学校はどうした、休日ではないだろう。アイはなにをしているんだ?」3日間聞かれないことをいいことにアイは自分の素性についてなにも言わなかったが、グァバはそれなりには疑問に思っていたようだった。
「旅をしている」できる事ならアイはこの一言ですべてを語ってしまいたかった。しかしこれではとても伝わりきらないだろうということも理解していた。
「ぼくは学生、第4期総合教育機関の情報学科5回生だよ。でも卒業に必要な単位はすべて取って、今はあちこち行っている。この国をすべて見てしまおうと思って」やはりというか当然にというか、グァバには理解しきれなかった。
「なんでそんなことをするんだ?」「いろいろと、思うことがあって」
意図的にぼかしたようなアイのしゃべりに、グァバはそれ以上聞こうとしなかった。やっとコーヒーに口をつける。
「なら、バンショウは気に入ったか?」すこしアイはためらった。
「それなりには。いろいろとおもしろいしね」「それはよかった」
自分からふったのに、どうでもよさそうにグァバは再びコーヒーをすすった。アイはもう飲みほしているが、おかわりが欲しいとも思わなかったしグァバもうながさなかった。2人の会話がとぎれるとここは静寂が支配する。バンショウ特有の、人の代わりに低い機械音のみの静寂ではない。温室は潅水装置もなければ温度調整の天窓装置もなく、機械音さえここには届かない。完全で完璧な虚無。
アイは自分の黒い情報処理端末を取りだした。非常に静かに、しかしここではまるで鳴り響くかのように起動音が聞こえる。アイはバンショウへ繋ごうとした。
アイは片眉毛を上げた。無機質な失敗の表示が出現する。つなげなかった。
情報処理端末を扱っている上ではよくあることだ。アイは特に気にしなかった。
「今日、報道を見たか、グァバ」
「いや、まだだ」
自分の情報処理端末にむかって観察結果を書きこんでいたグァバは、立体映像から目を離さずに答えた。机上型のやや旧型の情報処理端末の廃熱音は普通のものと比べて大きく、温室に低く響く。元は白色だった情報処理端末は現在灰色で、しかしそれでも忌憚なく動いていた。
「昨日のことがのっているよ」「なにかあったのか?」
外界と切断されているグァバはともかく、多少は外を行ききしているアイがなにかおもしろいことにであったのだろうか。グァバの推測は外れた。
「昨日、バンショウと接続できなかっただろ」「そういえばそんなこともあったな」
「一時サーバーが落ちていたらしい。今までサーバーが落ちたことはおろか、重くて接続しにくい状況にもなったことがないんだってね。それが一時的とはいえ落ちたので、今日の報道でどこでも一番にのっているよ」
グァバの軽快に情報処理端末へ文章を入力する音が乱れた。
「そういえば、今までつながらなかったことはないな。しかしそこまで大事件だったとは思わなかった」3段しかない90センチの本棚に所せましとつめこまれた学術書の背表紙にアイは見いりながら返した。
「この街はどこでもたやすく電脳空間につなげられることを自慢にしている。それの中核が接続不能になったんだ。警戒して当然かな」「そうでもないと思う」
「なら、どうだと思う」
「特に記載すべき事件がないのだろう。バンショウは変化がないからな。今日と同じことがとどこおりなく進むところだ、なにか変化するところを探すのは難しい」
なるほどとアイは納得できた。変化がないとは言いすぎだとは思うが、静かすぎて平穏すぎてなにもない。新聞記者がいらない街世界一だろう。
「街の外はけしてそうではないのにね。犯罪があって混乱がある、重圧につぶされそうな社会だよ。ましてや国外はすごい。どんな適当な新聞でも国の中と外のできごとでは温度が違うよね」「そうなると、ここは外国人から見れば天国かもな」
もちろん鎖国をしているわけではないので国内の人間しかいないわけではない。アイだって長くバンショウに滞在しているわけではないが、それでも外国人の姿を見ることが数回あった。おそらくだれもがそれぞれの国の威信と期待を背おってバンショウへ訪れたのだろう。そうしてだれもが驚いたであろう、バンショウの完全さに。
「で、その天国に生まれたときから住んでいて、いまだに外にでたことのないグァバとしての感想は?」「感想? なんだ、それは」
アイは変色した紙の束から目を離して、自分の情報処理端末を荷物から取りだした。手なれた様子で起動させる。もう今まで何百回とした動作だ、慣れないほうがおかしい。
「感想というのは、ある物事やできごとに触れたときに感じたことや思ったことを指すよ」「そんなことを聞いているのではない。どういう意図があってそんなことを聞いたのかというのがしりたいんだ」
「別に」
アイはすこし首をひねって、もっと自分の言いたいことが伝わるように言葉を重ねた。
「別に、そんな深い意味はないよ。ただ聞いてみたかったんだ、生まれつき楽園に生み育って、いまだに外の世界をしらない人間はどう思うのかって」「アイ、2つまちがっている」
グァバは電子通達を書きおえて望む相手に転送した。無事に転送したのを確認して端末の電源を切る。
「ぼくが? どこ?」「1つはわたしが何もしらないといったことだ。たしかにわたしはバンショウからでたことがない。ここ数年は研究所からでたこともない。でも書物、情報処理端末、他者からの伝聞である程度はほかの土地というのをしっているんだ。よって前提である外の世界をしらないというのは当てはまらない」
「でも、でたことはないんだろう。だったらなにもしらないのと同じじゃないか」
「見た目も見ない目も同じ目。たとえ何十回何百回ここではない土地へ行って観光をしてきても、肝心の観察力と想像力が備わってなければなにも見ずに帰ることになる。それと同じだ。わたしは自分が人並みはずれた観察力と想像力が備わっているとは自負していないが、なにもしらないといわれるのを甘んじていけるほど感性は鈍くないつもりだ」
「もう1つは?」
アイの目の前の七色の光はそれぞれ線と面になり、色鮮やかな立体画像を結んだ。12時間以内の世界情勢情報を告げる。数字の羅列からなる無機質な文字たちは、今日も世界はさしたる異常がなく存在していることをアイへ伝えた。
「ここが楽園ではないことだ」アイの座っている縁台からはグァバの後姿しか見えなかった。だからアイはそのときグァバがどのような表情をしているのか分からなかった。
「そういう意味では、わたしはアイの旅行に同行できる資格があるよな。ここは楽園ではないことをわたしはしっている。だからここではないどこかの楽園へわたしは旅だつことができる」「ぼくは楽園を目指しているわけではないよ」
「そうか。わたしもここが楽園ではないとはいえ、日々の生活に満足しているからでかける気がない」
アイは世界情勢を読みおわり、自分に電子通達がきていないかどうかを確認しようとした。
「ぼくってそんな風に見える? そんな風っていうのは、楽園目指してさまよいそうな、脳みそが温かい人ってことだけど」「正直そう見える。アイがはじめてここを訪れたとき、ヒッチハイカーが道に迷ったのかと思った」
「そうか」
「そうだ。まともに見てほしかったら外見を改めろ。貧乏だというわけではないんだろ」
「この格好が気に入っているんだよ。ん?」
アイは新着受信が終わった通達を読もうとして、手をとめた。
「どうした」「変なのがきた。見てよグァバ」
どれどれ、と年寄りじみたことを言いつつもグァバもかがんでアイの情報処理端末をのぞきこむ。空中に浮く立体映像は一行の文章しか映しだしていなかった。
「助けてください」グァバは文章を忠実に読みあげた。
「これだけか」「うん、これだけ。これだけの電子通信が3通きている」
「異常通信か」
「まちがいなくね」
アイは数回板を叩くだけで、それらの通信を痕跡残さず消しさった。
「でもやるね」アイの表情は変わらなかった。むしろ楽しげに、何かの挑戦を受けてはりきっている類の顔つきだった。グァバが横目でアイの顔をうかがう。
「なにがだ」「ぼくの情報処理端末にウイルスを送りこめたことだよ。十分な備えはしていたのだけど、よくもそんなところに入れたな」
「自信過剰じゃないか? この世にはわたしたちよりうまく情報の網の目を歩く人間が山のようにいる。警戒を突破されたからってそれぐらいそうすごいことじゃないと思うが」
アイは困惑したようにグァバへむいた。
「グァバ、ぼくは情報学科の学生なんだよ」「ああ、そういえばそうだったな」
「そういえば、じゃないって。だから情報処理端末の防御面も警備も普通の人よりははるかに金と手間ひまをかけているんだよ。それなのに突破されたなんてたいしたことだよ」
「あまり自分を過剰に信じないことだな。世界には上がいる。アイはおそらく最下層でもないだろうが、最上級でもないのだからな」
アイは自分の静かに燃え上がった闘争心と好奇心を頭から押しつぶされたようでおもしろくはなかった。グァバはまちがいなく正しいことを言っているのであるし、アイ自身もそこまで過信していない。ただ感情的にひっかかっただけだ。
「わかっているよ」「ならいい」
グァバはピンセットとルーペを壁にかかっていた白衣のポケットに放りこんで腕を通した。
「実験をするの?」「観察をする。見るか?」
「どんな?」
アイは機嫌をすぐになおしてグァバの住処から飛びおり、つっかけを引っかけたグァバについていった。
「見ればすぐにわかる」グァバが温室の隅、ビニールでくるんだマンゴーの苗木へむかった。アイはそれを後ろから見守る。
「その樹の観察?」「違う、この植物をよく見ろ。これについているカイガラムシの観察。飼育して生態を調べている」
「カイガラムシ?」
「樹の幹や葉の裏にくっついているろう状のものがあるだろ」
グァバに急かされてアイは近寄った。言われたとおり、よく見ないと分からないが半分透き通って何かがへばりついている。
「これがカイガラムシ。いろいろな植物につく害虫。ここの種類はまだ生態がしられていないから、第5農業専門教育機関のときに習っていた教授の勧めで調べている」解説しながらもグァバの顔は真剣そのものだった。
「虫だろ。農薬で殺しちゃえないのか」「全身がろう状のカイガラで覆われているから農薬がききにくいんだ。第一、生態も何も分からずに農薬をかけられるか。何年前の考え方だかしらないが、乱暴すぎるぞ」
「虫の観察なんて、子供でもできるよ」
「生態調査だ。専門的な知識と扱い方が必要なんだ。発生してほしくないときは圃場に大量にいるが、生きていてほしいときは姿を現さない。困ったやつらだ」
どうもグァバの口調には内容とは裏腹に静かな喜びが横たわっていた。アイは試しに聞いてみることにした。
「グァバ、楽しいの?」「楽しいな」
「グァバは虫が好きなの?」
「第5農業専門教育機関にいたとき、わたしの専門は害虫学だった。専属講師がカイガラムシの権威でな、たっぷり学べた」
感情を抑えがちの口調に、アイはたしかに楽しそうだと確信した。
「でも、1人で勝手に見て逃がすなよ。ほかの植物に感染したら後が大変だ。農薬を使えないのだから、全部手作業で取るはめになる」「やったことがあるの?」
「ある。ピンセット片手に1週間か嘗て取った。しかもそのときわたしは、逃がしたおぼえがなかった」
つまりなんらかの不備が原因で勝手に逃げたということになる。見た限りでは動けない虫けらなのに、発狂しそうな作業を強いるとはなかなか厄介な害虫なのだろう。アイは変に感心して、ちっぽけな虫けらをながめていた。
専門家と呼ばれるものたちは、時に自分の仕事や領域を他者に侵入されるのを望ましく思っていない。時には断固として断り、けして自分のやっていることに第三者を関わらせたがらないものもいる。
もちろんアイはその理由を理解している。少なくとも理解しているつもりでいる。専門的なこと、つまり繊細で難解な物事をなにもしらないだれかによって引っかき回されたり台なしにされるのが好きな人間はこの世にいない。あるいは自分のやっていることが実はそうは大変でも難しいことでもないということをしられて、今までどおりいばれないことも一部の人間は好まない。
「グァバは」「ん、なんだ?」
グァバはそういう類の人間ではなかった。理由の1つには農業の研究は少なからず筋力と体力が必要だからであろう。土壌は重いし水はもっと重い。はしごもかなりの高さとそれに見合った重さを持っているし、実験ともなればある程度の数をこなさないとどうしようもないために力仕事を強いる。人手が必要なのだ。
あいにく、本業が適温の部屋で情報処理機をいじることにある情報学科のアイには重労働だった。今日も疲労困憊しながら3号の黒ポットに植えられたパッションフルーツを30はちまとめて運んでいる。
「休みたいのか?」「違うよ」
別にアイは現状に不満があるわけではなかった。なんだかんだと滞在してちょっかいをだしているのだ。もし不満があればとっくにどこかに移っている。
「グァバはどこまで教育機関をでたの?」ハイビスカスの枝と枝切りばさみを手に、グァバはアイを振りかえった。枝を10センチほど切り葉を1枚と半分残す。白い粉末状の薬品に枝の切り先をつけ、さっきたっぷり水を与えた土に差しこむ。そうしてできた黒ポットがグァバの前には50はあった。あれも運ぶのかと思うとアイはげんなりしてくる。
「第5期総合教育機関農業学科が最終学歴だな」「第5期まででたのか。すごいね」
第3期までは義務として半強制的に学び、大多数の国民は第4期を6年おさめて教育機関と別れる。もちろんその後教育機関を再び訪れるものもいるがあまりきかない。
「どんな裏があるのか分からないが、ありがたくその言葉を受け取っておくよ」アイはようやくすべてのパッションフルーツを運びおえて、グァバから借りた汚いてぬぐいで額と首をぬぐった。日差しは春のもので室温もそう高くはないはずなのだが、あいにく温室内部は人間より植物を重視して湿度が調整されていた。植物に快適な湿度は人間には高すぎる。動かないならばともかく、働くと汗が止まらない。
「それなのにどうしてこんな寂しい所で働いているのさ。ひょっとしたらもっと大きな研究所に誘われたかもしれないのに。知識と技術はあるんだろ」「性格が悪くてみんな落ちた」
「あれま」
聞いてはいけないことを聞いたか。アイはグァバの顔色をこっそりうかがったが、汗と泥まみれの顔はなんの動揺も見られない。かえってアイはその理由がよくわかった気がした。性格が悪いとまではいかないがかわっていることはたしかだろう。少なくともアイと同程度には。
アイはなぜ、自分がここに入りびたるのかがわかった気がした。グァバほどではないがアイもかなりの変人で周囲から浮いている。おなじ変な人同士、一緒にいて居心地がいいのだろう。
「ここは受かったんだね」「第5教育機関で学んでいた教授が前所長としりあいだった。後継者を探してわたしに白羽の矢が立ったんだ。なんせこんな所だしな」
「よくここにくる気になったね」
「まぁな」
グァバの足元に70は黒ポットが並んだ所でばけつの中のハイビスカスはなくなった。グァバはじょうろに水をくんで、たっぷり黒ポットにかける。あふれた水が地面で小さな川をつくった。
「ここは仕事をするにはいいが、生活するとなれば不便な所だからな」「それはぼくも薄々感じたよ」
バンショウは人間が生活するうえで必要なものがない。通勤通学して一時過ごす分には問題がないが、住まうとなると事態は別の方向へむく。食料は高いできあいの品物しか存在せず、衣服も家具も売っている店は見かけない。そしてアイは、実際にこの都市で生活している人間はグァバしかしらない。
「ここに勤めるならばともかく、ここで生活しろといわれたらぼくも迷うよ。ここにはなんでもあるけどなにもないもの」「おかしな表現をするな。矛盾している。受けを狙うつもりでいったのだったら滑っているぞ」
正直、まさしくそうだったのでアイはすこし傷ついた。
「でもアイ、お前だってわたしのことを言えないだろう」「え?」
ようやく汗は止まったが、シャツはまだ乾かない。ぬれて着心地が悪いシャツをどうしたものかと考えていたアイは意表をつかれた。グァバは水量が少なくなって水の出が悪くなったじょうろを持ちあげて地面に置く。
「現時点ではアイだってこの街で暮らしているようなものだろう。その間、どうやって生きているんだ。住まいは宿で金がかかるだろう」「ご飯はおごってもらっているけどね」
相変わらずアイはこの温室に通っている。その間食事は朝昼夜とすべてグァバの自炊に便乗していた。ついでに10時と3時のお茶もしっかり参加している。押しかけ労働者としてみれば待遇はかなりいいだろう。しかし滞在日数は短くないし、長くなりそうだった。ホテル代はかなりかかるだろう。
「まだ金はあるよ」「なくなったらどうするつもりだ。親に仕送りしてもらうのか?」
「そんな物分りのいい両親は持っていないよ。どこかで働いて小銭を稼ぐ。今までそうやってきたから今回もそうするよ」
「そう都合よく見つかるのか?」
「だてで情報学科に通っているわけじゃないんだから。技術はその辺の情報処理作成者と十分にためをはれるよ」
「嘘くさいな。アイ、ハイビスカスのはちを移動したいからてつだってくれないか?」
「うん」
手ふきを首に巻きつけ黒ポットへかがみこみ、思いだしたように「嘘くさいとはひどいじゃないか」と抗議した。
「だってそうだろう。その辺の情報処理作成者というのは一般的な大人、社会人のことを指しているんだろ。学校を卒業してもいない学生が対等に働けるとは思えないな」「それは、グァバが机上の学問より実務と経験を重視する職業だからだよ。しっている? 情報処理作成者は10代後半から20代前半が最高潮なんだよ」
「ちょうどアイの年のころか。こっちは最高潮が何歳なんて考え方がないがな」
「どこに黒ポットを置けばいいのか教えて」
「こっちだ」
グァバもまた黒ポットを担いで歩きはじめる。残念なことにアイよりははるかに持っている数は多かった。もともとアイは小柄で同年代の中でも非力だ。さらに6年間温室で1人重いポットや重いはしごを担いでいた研究者と、軽い情報処理端末のみ持ちあるけばことたりる学生という環境の違いもあるだろう。しかし理由はわかるものの、男性としてアイは少々複雑な気分になった。
「で第5期の総合教育機関を卒業してどう思った?」「なんだそれは」
今までの会話とは違い、まったくアイの言っている意味が分からなかったらしい。グァバは足を止めた。
「どう思ったって、どうも思わなかったとしかいえないよ。多少は教育機関の同輩との別れに感情的になったぐらいだな」「そういう意味じゃなくて。あの、歩きながらにしてくれないかな? 長時間は持てない、重くて」
「あ、悪い」
そう悪く思っているわけではなさそうだった。軽く答えて、それでも足を再び動かしはじめる。速度が前より遅くなった気がするのはアイとの問答に備えてか、それとも重い荷物で早くも手が震えはじめてきているアイの錯覚か。
「で、どういう意味だ?」「つまり、グァバは第5期総合教育機関をめでたく卒業したわけだろう。学歴としてはほぼ最高位だ。第5の上に第6もあるけれども、そこまで行くとたいていその後も研究者として教育機関にとどまって、結局外の世界にでない。そんな中、第5教育機関を卒業して何か思うことがあった? 感慨とか、感想とか。うれしかったとか誇らしかったとか、逆にむなしかったとか」
「まったくない」
簡潔にして明瞭、非常に力強いグァバの返答だった。
「グァバ、ひょっとして物事をきっぱり言いすぎだと怒られたこと、ない?」「ある。直接習っていたカワイ教授からそれとなく注意されたことがある。後傷ついたと直接伝えられたことが2回ある」
「だろうね」
「でも意見を求められたのだから分かりやすく丁寧に言うのは当然だろう。人の機嫌を害するからといって嘘をつくのは得意ではない。幸いにしてここで働いている限り人間関係の軋轢はそうはないしな」
「まったく、のまちがいじゃないの。グァバ、すこし止まってもいい? これ以上手が支えられない」
「ああ」
グァバがうなずくと同時に、ほとんど落っことすような勢いでアイは黒ポットたちを地面へ置いた。手がしびれたのか腕を振り回す。
「2つ足台車はどこにおいたっけ」「えっと、あっちのパッションフルーツを置いたところに置き去りにしている」
「持ってくるか」
微塵も疲れた様子などなくグァバはのんびり歩いて、すこしして2輪台車を引いてきた。この台車は足が2つあるので取っ手を片手でも動かせる。
「で、アイも傷ついた3人目か?」「その程度で傷つかないよ。それにこっちが痛い目にあったからって同じように相手も痛い目与えようとも思わないから。いかにもな助言のふりして」
指をにぎっては開いているアイを尻目にグァバは黒ポットを丁寧にすきまなく台車の上へ積んでいる。いかにも毎日のように行っている作業のように、台車の前のほうから並べていた。この分だと、アイが手のしびれをとりおわる前に作業は終了してしまいそうだった。
「でも、これでいいのかとか、こんなものだとか思わなかったの? それとも逆に達成感と期待であふれていた?」「そうでもない。しいて言うならこれからの身のふり方について懸念していた。1人で陸の孤島の研究所だろう、いろいろ思うことがあった。でも過ぎたことについては特に考えてはいなかったな」
アイは手がようやくなおり、手伝うのに間にあった。「ぼくもやる」と残り少ない黒ポットをつかむ。
「どうして?」「逆にこっちが聞きたい。どうして過去で悩むんだ? もう起こってしまったことだろう。悩んでもしょうがないじゃないか。よほど深刻な失敗をして悔いるのだったら気持ちはわかるが、平穏に終わった6年の歳月を振りかえる理由がないだろう」
「ずいぶん冷静なんだね」
アイはため息をついて台車の取っ手をつかんだ。グァバは再び残った黒ポットを取る。2つも車輪があるというのに相変わらずハイビスカスの荷物は重かった。
「どうしてそんなことを聞いたんだ?」「自分の考えていることの参考にならないかなと思って」
「自分の考えていること?」
アイはそれを無視して、ため息をつきながら台車を押した。
「参考にはなったか?」「ごめん、でもあまりならなかった」
黒ポットを楽に運ぶグァバの背中に、アイはばれないように目をやる。無視したことを怒りもしなければまた聞きもしない、ぎこちないやさしさときづかいに感謝する。
「ぼくはグァバのようには考えられないみたいだ」見わたす限りどころか半径5キロ以内にグァバとアイ以外の人影がないような拡散とした倉庫群の土地にもかかわらず、街灯はまぶしく輝いていた。一見むだなだいだい色のおかげで、アイは帰宅途中に犯罪に巻きこまれることもおかしな人間にからまれることもない。
「それじゃ、また明日もくるね」「わかった」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
曇ったガラスの扉が閉じられて、アイは1つあくびをしてから駅へ向かった。ガラスの向こう側でも人の気配が遠ざかる。これから住処で寝るのか、それともまた仕事に移るのか。
1日中てつだわされてくたくたのぼろぼろで、アイは今この場で横たわっても熟睡する自信があるほど疲れていた。これで報酬は食事のみなのだから割に合わないが、そもそもアイが押しかけている立場にある上、自主的にてつだっているのだから不満がでようもない。
「それでも最近は筋肉痛がないからまだましだよな。以前は歩くだけで全身激痛だった」それほど昔のことではないが懐かしくアイは目を閉じる。どこからか船の汽笛の低い音が聞こえる。温室の3面をとりかこんでいる海から風が吹き、白く道路舗装された地面を波がうち、潮の香とほのかにただよう桜の香りを運んできた。もう桜はたいして運ばれない。季節がすぎたのだろう。
あたりの温室以外の建物はみんな倉庫で、当然ながら明かりはともっていない。温室に通うようになってからもアイはこの付近でグァバ以外の人間を見かけなかった。グァバの言うとおり、たしかにここは陸の孤島だった。駅から10分も歩かないのに、もしここでどのようなことが起こっても気づかれることはないだろう。植物の生育に悪影響をおよぼすため温室の明かりは夜はけし、居住区のたった1つだけの蛍光灯をともした温室を振りかえり、アイは墓場を連想した。アイが実際にしっている墓場は高層建築物の狭い1室なのだが、アイが重ねたのは千年以上も昔の、町や集落の片すみに守人をおいて存在した場所だった。
「さながらグァバがそこの守人か。どちらかというとグァバは墓場を守るためじゃなく、自分がそこに配置させられたから公務でおとなしくいるんだろうな」くだらないことを考えているうちに無人駅に着いた。この路線にしては小さい駅ははじめてここに訪れたときのような浮き彫りはなかった。駅構内は空調がきいていて潮も桜も消滅する。昼間でも明るく蛍光灯をともしている構内は今まさに無個性の電車がわずかながらの客をのせて出発するところだった。アイはそれに気づいて走りだして滑りこむ。
電車は無人ではなかったが人が少なかった。1つの車両に2,3人といったところだろう。みな仕事帰りらしく、いねむりしているかさもなくばかばんから書類をだして読みふけっているかのどちらかだった。アイも含めてだれもしゃべらなければ物音1つたてない。紙をめくるかすかな音は電車によってかき消されている。仮にアイをのぞくすべてのものが人間ではなく精密な人形だったといわれてもアイは納得しただろう。ここもバンショウの1部であり、人がいるのに人の気配が存在していない。
最後から2番目の駅でアイは降りた。アイ以外に降りるものはいず、1人でアイは自動改札口へ進む。自動扉の向こう側は暗そうにみえたが、外は照明器具がさまざまなところに設置されていた。アイが自動ドアの直前に立つと静かに空気の圧縮音が聞こえ、扉が開く。開いたとたんにすさまじいビル風がアイを直撃した。これは何回経験してもなかなか慣れそうにはない。障害物などどこにもない、けして転ぶ心配がない滑らかな道をアイは周囲を見上げながら進んだ。道の両辺には街路樹のかわりといったように超高層建築物が立ちならび、ところどころの窓から光がもれている。バンショウには厳密な意味での夜は存在しないのかもしれない。常に明るく、どこかで人がおきている。
宿泊しているホテルは意図的に光量が抑えられていた。時間が時間なせいか待合室には人はまったくいず、受けつけも無人だった。樫の木に似せた合成樹脂の受けつけを見ていると、アイはなぜか数時間前に人がいたとは思えなかった。
アイは無言で自分がとっている部屋へ歩き、鍵を開けて中へ入った。アイが入室した瞬間にやわらかい黄色の光が広くない室内を照らす。上着を出入り口付近へ放りだし、ベッドに飛びこむようにして寝ころがった。白い天井がまぶしく感じる。
「疲れた」あらためて実感する。アイは自分が目を閉じて10秒じっとしていたらまちがいなく寝こけていることをわかっている。風呂に入って汗を流したいと思う程度にはアイは人並みの感性は持っていた。寝ては明日が困る。
「よっと」自分に気合をかけて起きあがり、アイはホテルにそなえつけの寝巻きを小脇に抱えて風呂場へむかった。30分後にはアイははるかにこざっぱりして、ベッドのはしに座った。荷物から自分の情報処理端末を取りだし、ひざの上にのせて起動させる。黒一色の薄い板から合成電子音が何十にもこだました。
片手で持ち上げられるような情報処理機は起動さえすれば全世界と結びつく。アイはグァバの生き方を極端だと思っていたが、黒い板をながめているうちに大して変わったことでもない気がしてきた。むしろ今の時代に旅人をやっているアイのほうがはるかに変なのだろう。
無造作に情報処理端末をたたきながら、アイは昼間のグァバの言葉を回想していた。
「結局、第5教育機関への進学も、そうたいしたことではなさそうだな」アイは現在生きている目的がない。今の世代ではそう珍しいことでもないが、将来の方針も定まっていなければ今後の人生についてもなにも思いつかない。アイが第4総合教育機関を卒業するまで後1年以上はあるが、その間普通に過ごしていたのでは最後まで思いつきそうにないから、思いきって旅にでた。
しかし結局無意味だったようだ。いまだにアイにはなにも見えない。たんたんと生きているだけだ。そう積極的に生きがいだの夢だのを探すつもりはなかったが、ここまでなにも見えないと力がぬけてくる。
「でも相手はグァバだからな。あんまり参考にはならないかも」アイと同じようにグァバもたんたんと生きている。グァバのほうがよほど閉鎖的で刺激のない人生といえるかもしれない。しかし植物の世話をするグァバは、カイガラムシについて静かながらも熱く語るグァバは楽しそうだった。
どうしてぼくはそうなれないのだろう。アイは思ったが口にでたのは別の言葉だった。
「疲れたなぁ」アイは大きなあくびをもう1つしてから軽快に黒い板をたたき、自分あての電子通達がきているか見ようとした。
ぽーん。
『助けてください』アイは眠気で半分閉じかかっている目を何とか開けた。
ぽーん。
『助けてください』低い電子音が部屋中に満ちる。空中に浮く電子立体映像は針が飛んだ蓄音機のようにくりかえす。
ぽーん。
『助けてください』「また異常通信か?」
アイは舌打ちをして立体映像をにらんだ。普段機能的合理的に整頓されている画面は13通の新しい手紙を受けとったことをつげている。すべて同じ内容の手紙だった。軽い電子音がして蓄音機は歌う。
ぽーん。
『助けてください』ぽーん。
『助けてください』アイは巨大な氷を飲みこんだかのように薄ら寒い気分になった。いったいどこのだれが造ったのかはしらないが、これの製作者は相当性格が悪いか、さもなければ人の嫌がることを心得ているかのどちらかだろう。
「ちゃんと防御は新しくはりつけたのに」アイは愚痴をこぼすのが目的ではなく、自分を励ますつもりでこぼし、画像とむきなおった。
ぽーん。
『助けてください』画像はアイの目の前で変化した。電子通信の画像の上に新しい画像が展開する。光の粒子が無数の点をつくり、線を結んで面をなす。見る見るうちに張りぼての人形のようなものがアイの目の前に現れる。
ぽーん。
『助けてください』「これで終了だ」
アイは最後に板をたたいた。その瞬間画像は点に戻り虚空に霧散してはじける。星の爆発のような光にアイは目を閉じて手でおおった。情報処理端末がひざの上から転がり落ち、転んでも痛くはない柔らかい合成樹脂の床に転がる。
「びっくりした」目の裏から閃光がきえさったのをたしかめて、恐る恐るアイは目を開けた。音1つないホテルの1室だった。高級ではないがそれほど貧しくもない、よくある宿泊施設である。防音設備が充実しているのか、それとももう音が発生する時間帯ではないのか、アイの心臓の鼓動音が聞こえそうなほど静かだった。
「あ、端末は」アイは凶暴な犬を手なずけるように自分の情報処理端末を拾いあげる。そこには見やすい文字で「通信を削除しました」の事務的にして必要な事柄が書いてあった。
「なんだったんだ」アイはやっと安心した。そろえでも背中の冷たい汗は消えない。「新しい都市伝説みたいだな。1人のときに開くと結構くるや」
アイは無理に自分をはげまして、次に社会情勢情報を見ようと接続した。いつもならなにもなし、アイにとってどうでもいいようなことしかのっていないはずの電子空間の新聞には大きな文字で記載されていた。
『バンショウにて新種の異常通信発見。被害は甚大』アイが温室への扉を横へ引くと「待っていたぞ」とグァバの挨拶がとんだ。アイはまばたきをするのを忘れて立ちつくした。グァバはこてを手に持って土をすりつぶしている。
「どうしたんだ?」「そんなこと言われたのはじめてだよ。どうしたの」
今までだっておはようぐらいは言われていたが、このように訪問を待望されたようなそぶりは朝にかぎらず見たことがなかった。グァバはあきれたように「入れ」と言いながら茶色と金色が何層にもなった、不思議な土を細かくくだいている。
「それはなに?」「蛭石。排水性と保水性がいいからくだいて培地にまぜる」
「へぇ。えっと、で、どうして待っていたの? なにかあったの?」
「あった。わたしがやるよりアイがやったほうがいいからまかせたいのだが、頼めるか?」
「うん、もちろん。内容にもよるけど」
アイはうれしかった。あたりまえだが植物園ではグァバはなにもかもしっていて、どのようなことも自分でできるのに対し、アイは見ているかよくて簡単なてつだいをするだけだった。それだというのにわざわざ待っていてまでアイにしてほしいことがあると言う。
「で、どんなこと?」「わたしの情報処理端末が昨日おかしなことがあった。電子通信に異常通信が大量に送りこまれて、端末が操作不能になってな。どうしても言うことを聞かないから電源自身を切ってことなきを得たのだが、また起動させるのが不安だから見てもらいたいんだ。アイは情報学科だろう? できるか?」
たしかにこれはアイのほうが向いている。アイは内心がっかりしたが、顔にはださなかった。
「もちろんできるよ。いじってもいい?」「あたりまえだろ。そうしてくれ」
グァバは蛭石から手を離してもうアイもよくしっている居住空間へ案内した。
「電源を切ったって、後ろの電源を直接落としたの」「ああ」
「あんまりいいことじゃないよ、わかっている? きちんと操作して終了にしないと処理端末の寿命がちぢむ」
「わかっているよ。直接電線を引っこぬかなかっただけほめてくれ。やりかねなかったのだから」
アイは行為ではなく、たいしたこともなしにそのようなことができることに恐れを感じながら後ろの電源を元に戻した。グァバの度胸がいいのではなく、よくある専門分野に無知だからこそできる蛮行なのだろう。
「おじゃまします」「どうぞ」
居住空間はせまくきたなかった。初日見たときとまったくかわっていない。もっともアイはグァバに原因があるわけではないことがわかってきた。要は四畳半の部屋で寝起きと生活と研究をすべてここでするからいけないのだ。グァバはしゃれた服は何1つ持っていないし室内には無駄なものはまったくない。それでもなお部屋は実験器具や書類、食器と生活必需品であふれかえっていた。
アイはそれらを踏まないようにさけて歩き、情報処理端末までたどりついた。グァバの灰色の情報処理端末は近くで見ると想像していたよりも古く、能力も低そうだった。グァバが情報処理端末に期待することは電子通信をして電脳空間へ入り、文章を作成することなのだからこれで十分なのだろう。
「昨日から異常通信のことについてさかんに報道されているよ。名前もついた。救助希望だって」「そんなに有名なのか?」
「すこし前、ぼくの情報処理端末にもきたあれだよ。有名になったよ。昨日、いやおとといから急速に広がりはじめたんだ。特にバンショウの被害が甚大だって」
起動はなんの問題もなくおこなわれた。グァバの情報処理端末内には文章作成機能、電子通信機能のほかに顕微鏡から直接画像を引きだす、昆虫について専門的に調査探索するなどといった専門的機能もついている。このような旧型情報処理端末だとさぞかし処理が遅くなるだろうとアイは感じた。電子通信機能を起動させないまま、たまった異常通信の手紙を削除しようとする。
「できそうか?」「できるよ。グァバ、これじゃ情報処理端末が重いんじゃないか? いっそのこと新しいものに買いかえるか、そうでなくても廉価でぼくが改造できるよ。やろうか」
「いや、いい。今現在とくに不自由していない」
「ああ、そう」
たわいのない会話をしている間に作業は終了した。アイは興味深そうに見物していたグァバへ振りかえる。
「終わったよ」「ありがとう。すごいんだな、こんなにはやく終わるなんて」
「そうでもないよ。むしろ情報学科でこれぐらいのことに時間を費やしていたら恥ずかしいよ」
「そうか?」
「そうなの。もう終わったけど、グァバはどうする?」
「直接かわってくれ。今日中に打ちこまなければならないことがある」
「どうぞ」
アイはふと、グァバの作業を見物していたときもこのような顔をしていたのではないかと思い、なんだかおかしく感じた。グァバはけげんな表情をしながらも文章作成機能を作動させ、その辺に放りだしていた書類をひきよせ、手書きのきたない字を立体映像上の美しい文章にかえるべく打ちこみはじめた。ついでに編集もかねているらしく、書類と立体映像上では文章の構造や内容がかなりちがっている。
「なにをやっているの?」「カワイ教授に頼まれていたことについて、あるていどめどが立ったから文章化している」
「論文?」
「まちがってはいないが、こんなのを論文として提出したらあとでカワイ教授に怒られる。報告書だよ。今日の午前中はこれに取りかかりだ。暇だったら書類を見てもいいぞ。本棚から論文を読むのも悪くないだろう」
お言葉に甘えてアイはてきとうな書類を1枚取った。きたないなぐり書きでアイの専門外のことが書いてある。
「なんの論文?」「コナカイガラムシの生態についてだ」
アイはその時点で文章を読解するのを放棄した。自分の名前のしらない昆虫がどのように生きているかなど、アイにはたいした問題ではないし興味もない。アイは勝手に動きまわり、本棚から初心者にも分かりやすいような、写真をふんだんに使った図鑑を手に取った。表紙を見るとやはりカイガラムシについての図鑑らしいが、論文を読むよりはましとそれに取りかかる。
「何か飲みたいものがあったら勝手につくって飲んでくれ。でも勝手に保冷庫から食料をとって食べるなよ」「失礼な、そこまで飢えていないよ。でもそれってぼくにコーヒーの催促をしているの?」
「まさか」
グァバはいささか気分を害したようにアイへ向いた。長い髪が頭の動作にしたがってゆれる。
「自分が飲みたいのならいれる。そんなことを口にだしてやってもらう気にはなれない」「そうか」
「もっとも、好意でいれてもらえたのならありがたく頂戴するが」
「結果としては同じだね」
アイは棚に置かれている食器の群れからコーヒーサイフォンと竹へらを取りだした。サイフォン専用加熱機を取って平らな机の上におく。水をくんでサイフォンに入れ、加熱器の電源をいれる。出力が高くない加熱器は水を湯にかえるのに時間がかかる。その間に黒に近いこげ茶色の焙煎済みの豆をひいて粉にする。コーヒーマグにサイフォンの湯をすこし拝借して器を温める。アイはコーヒーに関してお湯をそそいでかき混ぜるだけの即席コーヒーしか自分ではつくったことがなかったが、ここでは喫茶店のように本格的にいれる。アイは今後喫茶店で短期労働する自信がついてきた。
湯がわく心地よい音を聞いて、アイは竹へらでサイフォンへ砕いたコーヒー豆を入れた。竹へらでかき混ぜてしばらく待ち、もう1度かき混ぜてから加熱器の電源を切る。コーヒーが濾布を通じて下に落ちてきた。アイはコーヒーマグの湯を捨て中をふきんでふき、2人分、量が均等になるようにそそぐ。アイは砂糖を少々、グァバは何も入れずに飲む。
「できたよ。飲む?」「ありがとう。でも粉を入れてからサイフォンの湯が沸騰するようにしろ」
「だったらその時に言ってよ。今言われても」
「つい口をだしそびれた。いただく」
グァバは息をふきかけてコーヒーをさますと、すこしずつ味わうように飲んだ。
「味はどう」「悪くない」
「ほめられているのか微妙だね」
「ほめたつもりだった」
「あ、そう」
アイはそれをほめ言葉として覚えておくことにした。グァバは気にせずに情報処理端末に向かって専門用語を打ちこみ、時々コーヒーに手をのばす。アイはそれをぼんやり見ていた。
「よかったらそれ使いやすいように改造しようか? 異常通信対策としてもっといい防御壁を導入するとか。ぼくが持っているよ」アイは気まぐれにもうしでた。グァバの手は止まらない。
「いい提案だが今はいい。異常通信も一時の流行でそのうちおさまるだろう。たいして使っていない情報処理端末なんだ、それそうとうの能力があればいい」「そっか」
アイはそれ以上言いつのらずにおとなしく自分の杯に口をつけた。もう半分以上飲んでしまっている。
「アイは情報学科だよな」いまさらながら思いだしたようにグァバは振りかえった。「うん、そうだよ」
「だったらいい話があるのだが。聞くか?」
「内容による。どんなこと?」
「それは」
グァバは最後まで言いきらなかった。はるか遠くで衝突音がガラスを通じて聞こえた。グァバはガラス戸の向こうを透視するかのように目を細めて、アイは顔を上げた。
「今の、なんだろう。事故?」「バンショウでは交通事故は過去3件しか発生していない」
「だったら4件目かもね。グァバ、ぼくちょっと様子を見てくるよ」
「ああ」
アイはコーヒーマグを机の上におき、つかいふるした運動靴を引っかけて居住空間を飛びだした。早足でガラスの向こうの外にでる。音の発生源はすぐにわかった。そう遠くない空中自動車専用道路の一角に黒煙が上がっている。
「まちがいなく事故だよな」そのまま戻ってもよかったが、野次馬根性でアイはすぐそばまで寄ってみようと思った。
事故現場はアイが予想していたより近かったが、交通に不慣れであることと、空中自動車専用道路はあくまでも主役は自動車で、人間が入ることを想定していないことから予想以上の時間がかかった。路側帯へ通じる階段を発見してアイが現場近くまでたどりついたのは、衝突音から10分はたっていた。それにもかかわらずアイ以外の野次馬もいなければ救助車もない。自動車専用道路は人も車もまったくアイ以外にはいなかった。
「うえ?」まさか自分が現場到着第1号と思わなかったアイは少々うろたえ、さらに事故のありさまを直視して絶句した。急速にのどがかわき、何か言おうとしても言葉として成立しない。
おそらく普通乗用車と大型特殊車どうしが正面から衝突したのだろう。ぶつかり合った車はその後持ち前の速度に引きずられて防護柵に突撃し、普通乗用車らしき鉄の塊は地上に墜落してこっぱみじんとなっていた。大型特殊車は車体の前半分を防護柵から突きだして空中に浮き、後ろ半分の荷重でかろうじて空中自動車専用道路にとどまっていた。落ちずにすんだ理由はもう1つある。前半分は大破しており原形をとどめていない、その分軽くなったのであろう。鉄が焼け油がこげる、破壊のにおいがあたりをただよっていた。いつのまにか視界が低くなっている、アイはそこでやっと自分が腰を抜かしたことに気がついた。
「どうし、よう」数回の挑戦のあと、やっとアイは声をだせるようになった。人がいないのだからしゃべってもしょうがない気がしたが、自分をはげますために口にだすのは絶対に必要なことだった。普段にくらべて声は低くしわがれていて、まるではじめて会ったときのグァバだった。そう考えるとこんなときだというのになんだかおかしく、やっと立ち上がる気力がわきあがってきた気がした。
「生きている人は」アイははいつくばり、自分を引きずるように四つんばいで歩き、大型特殊車の前半分へよった。近寄ってからアイは自分がどんなばかげたことを考えていたのかということを悟った。鉄の車体がひしゃげ押しつぶされているのに、中に乗っていたか弱い人間が無事ですむわけはない。大破した車の中にはかつて人がいたということすら連想できない。花火のようにちらばった普通乗用車にかんしては考えるのもむだだった。
アイからふたたび全身の力がぬけた。防護柵へよりかかり、深呼吸を2回して自分を落ちつけようとする。いつのまにか額には冷たい汗がはりついていた。汗を袖でぬぐって、アイは荷物から黒い自分の情報処理端末を取りだす。もう1つのバンショウ、世界に自慢できる電脳空間の都市制御装置へ接続する。
『ようこそ、バンショウへ。何か御用ですか?』『事故がおきた。だれかきてほしい』
アイは音声認識機能がついていないことをさいわいと思った。今はしゃべる力もない。なじみぶかい入力するという作業だけで事がすむのを心からアイはありがたく思った。
『もうしわけありません、それはできません』アイは制御装置が認識できなかったのかといぶかしんだ。こんなはっきりした要請が分からないなんてと失望しながら打ちこみなおす。
『交通事故が発生した。公安局にきてもらいたい』『もうしわけありません。それはできません』
答えはおなじだった。アイはめずらしく気分を害した。考えるより先に打ちこむ。アイは声にのせるより入力するほうがはやかった。
『なぜ』『もうしわけありません、ただいま事故が多発しており公安局による調査ならびに対象保護がおくれます。しばらくそのままでお待ちください』
『え』
打ちこんだ1文字は結局どこにも送信することなく、アイはこおりついた。たび重なるできごとに考えがついていけない。どうすればいいのかまったく分からなかった。
アイはほうけて空を見上げた。黒煙たなびく向こう側には映像幕に写したような見事な青空が広がり、強風が雲をすばやく空のかなたへはこんでいる。あるいは立体映像のように存在の実感がない空だった。そしてアイはその空の下、別の建築物の根元にもにたような黒煙がわきあがっているのをぼんやり認識した。