三つ首白鳥亭

−ユフサラズ−

誰も知らない

「ああ。俺が神隠しにあった張本人だ。

自覚はないけど。俺からすれば電車でバイト先まで行っただけなのに、着いたら騒ぎになってこっちが驚きだよ。なんでも俺は4日間消えていて、実家から捜索願が出ていたんだって。何回見てもカレンダーは4日後だった。家を出た時は月曜日だったのに今は金曜日。みんながぐるになってからかっているのかと思った。

いいや、まるで分からないんだ。めまいも立ちくらみもない。よく通る道だからぼんやりしたこともあるかもしれないけどさ、音楽聞きながら歩いていたから。とにかく心当たりはない。周りにやいやい言われてしぶしぶ病院で脳まで調べたんだ。

異常も特にない。その後知らない人が声かけてきたりもしないし、金が増えたり減ったりもしていない。あ、その時の荷物は分からないな。いつも中身をはっきり覚えている訳じゃないから。なにかなくなっているかもしれない。

俺については ……あるかもな。こう言うと変な人に思われるかもしれないけど、動悸が増えた。夕方とか夜ひとりでいるとき、なんだかすごく不安になるんだ。いてもたってもいられなくて人に電話したり、夜中いきなり跳ね起きたりとか。悪夢を見た訳じゃないと思う、でもなんか目覚めるんだよ。なんだかとても大切なものを思い出せないような、絶対にやろうと思ったことを忘れているようなもどかしさだ。

まあな、気のせいだろうな。普段と同じじゃなくても当たり前なほど忙しかったんだし。神隠しにあってから親とか親戚とか大騒ぎだったし、大学でも事務員さんに聞かれて教授に聞かれて、先輩からも呼び出されて。その上警察からも事情聴取された。警察ってすごく融通がきかないんだな。初めて知ったよ。テレビの取材もされた。それなりに緊張したけど、その頃にはもううんざりしていたよ。俺からすれば同じことの繰り返しだから。分かりません、知りません、気づいたらそうでした、だ。あ、えっと、明月さんのことを言っているんじゃないよ。この取材はずいぶん久しぶりだから、なんだか懐かしい、雑誌できたら見せてな。

原因は気にしていないしどうでもいい。そりゃ多少は気になるけど、分かったところでいいことはなさそうだし、あんまり深入りしたくもないんだ。なんだか面倒だし」


「はい、ありがとうございます」

あわせは録音スイッチを止めた。今時珍しいカセットテープ型の機械をかばんへとしまった。宮田は珍しそうに動作を見ている。にぎやかでほぼ満員に近いドトール内では、だれも彼らのことなど見ていない。

「お疲れ様でした」
「いやいや。でもこういうのも変だけど、半年前のこと、雑誌に載せていいの?」
「うちはじっくり調べるんですよ。今回は神隠しについて。ひとりでも経験者がいてよかったです。この特集をするとき、全員歴史上からのエピソード引っぱらないといけないなと思いましたもの」
「参考にならないかもな。だってなんにも知らないんだし」
「そっちの方がいいですよ」

あわせは手持ちの手帳を宮田には見えないように開く。なにか書きこむ訳でもなく、手持ちぶさたにペンを指の間でゆらした。

「そうか? でも、あ、もしかしたら、四次元空間にいたのかもしれない。そんな体験だれもしたことないよな」
「怖いものに追いかけられて命からがら逃げたのかもしれませんし、どこぞの知らない森の中ずっとさまよっていたのかもしれません」

明月は素っ気なかった。「ずっと覚えていたいことではありませんね」

「なんだよ、冷たいな」

宮田はすねたように口をとがらせる。明月は苦笑いをした。今までの淡々とした表情が、柔らかくなるととたんに人懐っこくなる。

「五体満足なだけで十分すぎるってことですよ。覚えていたってだれも得しません。

ではありがとうございます。ここのお代は俺が持つので、どうぞのんびりしてください」

よっと大きなかばんを肩にかけ、慣れたように伝票をつかんだ。


店から出た明月はたちまち雑踏の中にまぎれた。重そうにかばんをかつぎ直す。

「重い重い。よけいなものが入っているからとても重い」
(気にしないでよ)

かばんの中からちらりと猫の目がのぞいた。

(ここじゃ人間の姿を保てないのだもの。猫と一緒に取材する記者なんていないし)
「そもそもこなければよかったんだ」
(そうだね。思ったよりつまらなかった)
「静、お前都庁から投げ捨てるぞ」
(第一なんでそんなことしているの?)
「そんなこと?」あわせは足を止めない。はたから見たらぶつぶつ独り言を言う不審者だが、周りの人々は忙しすぎて気づかない。
(あわせはあのちゃらい学生を、ユフサラズからこっちに戻した。それでおしまいのはずだよ。なんでわざわざ嘘ついてまで会うのさ)
「アフターフォローは大事なんだよ。色々確かめたいこともあったし」
(確かめられた?)
「ああ」

あわせは足を止めた。雑踏が一瞬切り取られたかのようにここだけ人がいなくなる。2人の前は行き止まりだった。あるのは防火扉のみ。白い鉄のかたまりはいかにも重そうだったが、あわせは軽々と開ける。

「……待った!」

あわせは目を開いた。(わっ)かばんから白猫が転がり落ちる。長毛種の大猫だった。

宮田が雑踏の向こう側にいた。急いだのだろう、携帯電話と財布を手ににぎったままだった。

「明月さん、俺、あんたとどっかで会ったことある! そうだ、つい最近のことだ。薄暗い場所で俺、すごく助けてもらったんだ。

でも、どこでだ? なにを助けてもらったんだ? よく分からない、分からないけど。

明月さん、あんた神隠しの時の……」

「まあ落ち着いて」

あわせは静かに制した。初めて会った時そうしたように。

「たまにあるんだ、偶然迷いこむ人。あなたもそうしたうちのひとりだった。忘れた方がいい、覚え続けてもいいことではないから」

茶目っ気さえ見えるような動作で人差し指を口元に当てる。足元の猫は身じろぎせず、珍しいように宮田を見つめる。

「今度駅を通る時は、もっとしっかりして歩くように。音楽を聞きながらだからとんだ目にあうんだよ」

扉が閉まる。

「待った、俺あんたになにも言って」

がっ。

走った宮田が扉に手をかけるも、即コンクリートの壁にぶつかって動かなくなった、向こう側にはなにもない。

呆然とする宮田を、だれも見ていない雑踏のうねりがたちまち包んでいった。