平日昼間といえど、S駅から雑踏が聞こえなくなることはない。
5本の異なる電車の路線を抱え、6つのホームを持つ。駅を貪欲に喰らいつくようにバスターミナル、オフィスビル、デパートが囲む。それらの中へさらに入ろうと押しこめられるように、道路を車が詰められて人が歩く。服装性別年齢所属、あらゆるものが異なり、自分以外のものには無関心で関わりたくないとばかりの頑なな表情で。
その中のひとり、透明であるかのように人々と混ざっていた青年が、駅構内の非常口に手をかけた。壁と同化した重そうな、しかりありふれた扉である。向こう側への暗闇へ、なにげなく青年は滑りこんだ。
伸ばした手も見えない闇の中、青年は懐中電灯をつけた。明かりを頼りに長い階段を下る。
駅も取り巻く人々も消えたかのように静かだった。ないに等しいスニーカーの足音が水を注ぐように一定の間隔で落ちる。
終わりがないような長い階段だった。
青年はありふれた若者だった。容貌も服装もおとなしく、覚えるのが困難なほどである。強いて特徴を挙げるとすれば、肩から重そうにたれさがっているスポーツバックぐらいか。ぎっしり中身がつまっているらしく、かばんの両端が重力に引かれている。
もしこれが上へ伸びて行く階段ならば高層ビルの屋上さえも見えたであろう時間の中、柔らかな光が見えてきた。段が終わり広い空間に着く。どこからか分からない明かりのせいで、壁までの距離がどうも見えない。壁のあるなしも含めて。
それほど離れていない場所に3体の石像がある。わずかに桃色がかった白い人物像にはもたれかかっている人がいた。だらしなく寄りかかっているその人は物憂げに青年を見、人間離れした無関心さで確認する。
「明月あわせ」対する青年は、まだそこまで人間らしさを失っていなかった。見せかけだけの無関心さで像に守られている階段へと足を踏み入れる。番人から目を離したくても離せないようだった。無関心な番人の姿が見えなくなってもしばらく気にしていた。
先ほどの階段と同じくらいの距離を歩き、やがて行き止まりとなる。あわせは慌てず驚かず、白い壁にそっと手をかけ開いた。
ようこそユフサラズへ。架空の都市、たそがれの街、さいはての地へ!
たった今完成したばかりのような駅前が広がっていた。見渡す限り人はいず、色彩は淡く統一されている。どこもぴかぴかで新しい。まるで駅を見本にした芸術品か、さもなくば絵本のようだった。
あわせはS駅と同じようにやや早足で進む。ここにはあわせひとりしかいないのに、ユフサラズの駅に溶けて見失ってしまいそうなほど自然だった。
外は灰色と桃色が混ざり合ったような雲で覆われ、夕暮れのように明るい。あまり必要はないのにあちこち外灯がついている。
(そこの人)「うわっ!」
あわせは飛び上がって驚いた。大げさにかばんに手をかける。
(ここ、ここ)「なんだ、どこにいる」
(もう少し右)
「右?」
いた。歩道の端に露店を広げている男が。手に水筒のコップを持ち、邪気なくあわせを見ている。
(見ていかない。安くするよ)「ひ、人の頭の中に勝手に語りかけるな!」
大声で強がってから改めて商品を見る。ついでに男も値踏みする。
「見かけない顔だな」(この辺りは初めてだからね。俺は藤納戸静)
「俺は明月あわせ」
(よろしく。今日開店だよ、お買い得だよ)
「安くされても」
アンモナイトの化石、蠍が閉じこめられた琥珀、瑪瑙の釣り針、古いカメオ、小刀。雑多な品揃えだった。いずれも古い。
「特に欲しいものはない。じゃあな」(待って)
静は奥に並べられていた小瓶をひとつ手渡した。
(開店サービス。どうぞ)「なんだこれ」
手を握れば見えなくなってしまいそうな大きさの瓶だった。コルクで固く封をしている。中は水と、少々の砂だった。ユフサラズの少ない光に反射して控えめに輝く。
(古代の海水。本物だよ。5億年前古生代の水だよ。いいことがあるよ)静はそっと微笑んだ。
「そういうことでもらったんだ」
「そうか。面白い体験をしたな」
酒が並々注がれた杯を片手に男は面白がるように、重々しく頷いた。木綿の藍染を着た男は小瓶をバーのおぼろげな光に透かす。
「そうか? よかったらやるよ」「それはいい。静氏に悪いからな」
「そう言わずに。頼まれていた本のおまけとして。お得だぞ、桔梗」
「押しつけようとしても無駄だ。本だけありがたくいただく」
飄々と小瓶をあわせに返し、本を手持ちの風呂敷に包む。ほくほく顔の桔梗とは対照的にあわせはあまりいい顔をしなかった。
「持ち物が増えるのは好きじゃないんだよ」「しかし捨てるのはもっと好きではないか」
「いいだろ、別に」
「手元に置いておけ。幸運だと思えばいい。私が通った時にはいなかったんだ」
あわせは小瓶を机に置いて、ぐい飲みに口をつけた。萩焼のぐい飲みは弱い明かりの中では白に見える。
「静は上からきたのかね」「その感はなかった。桔梗と同類だ。ユウサラズの人ではないけれど、似たようなところから流れ着いたのだろう」
「そうか」
「上の世界とユウサラズ、ふたつを平気で行き来できる人は多くない」
「私の知っている限りあわせしかいない」
「だから俺の仕事は成立っているんだ。代金ありがたく頂戴いたします」
機嫌よくもう一杯を注ぐ。
「おや、副業だと思っていたよ。本業は変なことに巻きこまれたり首を突っこむことだろう」「嫌なことを言うな」
否定しなかった。
深夜。
覚えもない手で突かれた時、あわせは夕方の会話を思い出しながらも跳ね起きた。
跳ね起きながらも枕元のスポーツバックに手を突っこむ。慣れた仕草でナイフを抜いた。普通の家庭にはけしてない大振りのナイフをお守りであるかのように構える。
「だれだ」返事はない。がさごそとなにかを探しているような音のみだ。明かりがないので格好まではよく分からない。身長はざっと130センチから140センチ、うずくまっているようだ。
「目的はなんだ」かばんに再び手を突っこみ、細長い筒を取り出した。踏みこんで相手を照らす。懐中電灯の強い光に相手はひるむ、はずだった。
ひるんだのはあわせだった。厳密には別の感情がわきあがったが。
えびのお化けがいた。
体長ざっと50センチ以上、頭部とおぼしき場所には2本の触角が下向きに生えている。どうやらこれに突かれたらしい。胴体は両側にひれがあり、波うつように動き空中を浮いている。胴体の先にはしっぽがあった。
あわせを襲うつもりはないようだ。無視をしてものがない畳を突っついて動く。食べ物を探しているように見える。
呆然とするあわせの前で、えびもどきはのんびり畳に傷をつけていた。
「どういうことだ!」
(どういうことって、どうしたの?)
のんびり聞き返す静に、かみつかんばかりにあわせは小瓶を突きつけた。
「巨大えびがわいたぞ、この小瓶はなんだ!」えびは朝日と共にいなくなった。おかげであわせは寝不足である。目が赤い。
(落ち着いてよ。言ったでしょう。古生代の海水だって。正真正銘の本物だって)「どう関係しているんだよ」
(たまにね、五億年前の夢を見るんだよ。カンブリア紀、生物が無限の進化を始めた時代に。運がいいよあわせ。海老だったらきっとアノマロカリスだ。カンブリアモンスターの中でも最大最強、生態系の王様だ)
「冗談じゃない。いくらユウサラズだからってあんなのに毎夜毎夜突っつかれてたまるか。よこせ」
あわせは小瓶が詰まった箱をつかんだ。初めて静が焦ったように反対側をつかむ。
(なにするんだ)「海に捨ててくる。こんなのユウサラズ中にばらまかれてたまるか」
(よせ。手に入れるのは大変だったんだぞ)
「そんなの知るか」
(あっ!)
変な方向に力が入ったのか、箱が2人の手からすべり宙を舞った。小瓶が飛び出し、地面に叩きつけられて虹色のしぶきと共に砕け散る。
(そんなぁ)空の箱を持ったまま、情けなさそうに静は粉々になった瓶を見た。
それ以来。
駅前を通ると、きらめく海水の光と共に、たまに古の生物たちの幻を見るようになった。