三つ首白鳥亭

−ミトドケテホシイ−

8.炎

「君がここにいるからだ。

ここにいた、ここに気づいた、ここまで走ってきた。それが理由だ、それこそが。

自分に自信がなかろうとも、自分が己の舞台でさえ脇役端役だと主張しようとも、関係ない。

ここにいた以上、ここにきた以上、僕に気づいた以上、それらは意味を失っている。

君をここへ走らせた力。運命とでも見えざる手とも、蝶々の羽ばたきとでも好きなように呼びたまえ。

この世で人々を配置させているなにかは、無造作に人々をそこへ置いているだけだ。君の事情は無視されている。僕たちの考えなんて聞く気はないらしい」


燃えさかる炎の中、わたしは立ち止まった。額から汗が吹き出て頬を伝いあごから落ちる。空気はこんなに熱いのに、喉はからからで冷たい。

「一条大介先輩、ですよね」

なんでわたしは、一番初めにこれを聞いたのだろう。質問したいことは山のようにあるのに、もっと重要なことがたくさんあったはずなのに、それこそ大声で驚いて腕をつかんで問いつめても良かったくらいなのに。その人を見た時にもれた言葉はそれだった。

「そうだ」

やっぱり。そう思うと同時にありえないとも感じる。だって一条大介は死んだはずだ。もう生きていないはずなのに。

「わたし、あなたが死んだと聞いています」
「そんなこと、この3月の夜に意味はあるのか? 3月は革命の月だ。起こるはずのないことが起こる、起こってはいけない出来事が当たり前の日々に入りこむ季節だ。死者が起き上がることぐらい3月にはなんてことはない」

当たり前のことを聞くなとばかりだった。いいのだろうか。いくら3月の夜だからって、いくら卒業式の夜だからって。

「わざわざ生き返ったって言うの。一条の会に参加するため? 後輩たちが一条の会をうまくやっているかどうかふらって見にきたの」
「ああ、一条の会か」

面白そうに、あるいは勉強熱心な子どもにやさしく教えるように一条はにやりと笑った。炎が渦巻きわたしと先輩の髪をゆらす。熱くないのだろうか。わたしは肌がひび割れそうなほど、身体中の水分が熱気で蒸発しそうなほど熱いのに。したたり落ちた汗が地面に落ちる途中で蒸発するほどの熱気の中なのに、一条は汗もかいていないし逃げ出す気配もない。

「彼らは見事に失敗したな。見ろ、この炎を。まるで裏山すべてを焼き尽くし、学校まで燃やそうと荒れ狂っているではないか。こんな大事になったも続けようという勇敢な後継者などいるだろうか?」

一条先輩は笑っていた。まるで失敗したことが愉快なように。後輩の失敗により会は駄目になって、無残な姿になってしまっているのを面白がっているように。

わたしは急にひらめいた。直感したというのはわたしにしては格好よすぎる。そんな立派なものではなくて、一条先輩の態度を見て理解したという方が正しい。わたしでなくても、だれでも分かるくらい露骨だった。

「この火事は先輩がやったのでしょう」

我ながらひどい。ろくな証拠もないのにこれはあなたのせいだと責めるのだから。でもわたしは自信があったし、一条の笑いはより深くなった。

「そうだとも。僕がやった。いつか破滅するように仕向けた。いつかお調子者のだれかがやりすぎて事故が起きるように。学外にまで響きわたるような大事になって、公的に禁止されるように」
「なんでよ」

訳が分からなかった。そんなことができるの、遠い未来に失敗するように仕向けるなんて。たかが高校生に可能なの。いいやそれよりも。なんでなの。なぜなの。

「あなたの会でしょう。一条の会なんて、自分の名前がついている会なのに。なんで駄目にしちゃうのよ。卒業した後もあの人たちは先輩の背中を追ったのよ、先輩の名前がついた会を大切にして、自信を持って進めたのよ。それなのに失敗させるなんて。そんなのひどいわ」
「そうとも、僕が所有する会だ。だからこそだ」

なぜ理解しない? だがしかし、一条は嬉しそうだった。嬉々として朗々と語る。

「元々この集まりは僕ひとりで始めた。君と同じ年だった。いつの間にか退屈そうな、だが新しいことを始める気力もない生徒たちが聞きつけて加わり、僕が日坂高校からいなくなる頃にはすでに確立されていた。だが僕の会であることには変わりない。

だから仕掛けた。いつか終わりがくるように。彼らの行動から必ず会が失われるようにした。秘密主義、山の中で火を灯す、終業式と同日に行う。彼らは疑いもせずに引き継ぎ、いつか会のやり方は変化して、そして今日終わる。火事が起こり会は暴かれ禁止される。秘密は秘密でなくなり彼らがありがたがっていた貴重は失われる。おしまいの年だ」

「そんなの、ひどいわ」

わたしの声は弱かった。本当ならもっと大声で非難してもいいのに、もっと言ってもよかったのに。なんてひどいのと怒鳴るべきなのに。

「始めたのはあなたでも、会はあなたのものではなかったのに。先輩たちはとてもがんばったのよ。打ち合わせをして材料を集めて仮装して、みんな会が好きだから努力したのよ。それなのに自分のもののようにして、勝手に壊してしまって。身勝手よ」
「ならば彼らはもっと努力するべきだったんだ。操られないようにすべきだった。彼らは警戒すべきところを無警戒に歩み、ただ表面上の面白そうなところをなぞったに過ぎない。人数を無計画に増やし会を大きくしすぎた。いずれ破綻する。なるべくして破綻した。本来はもっとひそやかであるべきなのに。秘密の会は人を多くしてはいけなかったのに。火事で済んで感謝されるべきだ。内部抗争のあげく崩壊するのは無残だぞ。いささか早すぎる気もするが、こんなものだろう」
「それでも、あんまりよ。終わらせる必要なんてなかったのに」
「いいや。そんなことはない。君は間違っている、沈丁春香。

終わりは必要だ。終焉がなければ会はどうなった。惰性で続きいつかだれからも忘れ去られる。耐え難い。それならば盛大に燃えてしまった方がいい。いつだって始まりは明白なのに終わりはあいまいで消え去ることになる、よいことではない」

そうなのだろうか。わたしが間違っていて、会は終わるべきだったのだろうか。

わたしには分からない。難しすぎて、自信がなさ過ぎて。こんなに胸を張ってなにかを言える人へ違うなんて言えやしない。

だから代わりにわたしは言う。

「わたしにメールしたのは先輩ね」

だって若草さんはわたしのメールについては言っていなかった。黒板に落書きしたことも、青梅にメールしたことも、それぞれの場所にメッセージを残したことは認めたけれども、わたしについてはなにも言っていなかった。わたしがいて不思議そうだった。わたしを巻きこんだメールは若草さんが出したものではない。わたしは予定外の人だったんだ。

ならだれがわたしを呼んだのか。計画に計画外の人間を入れて得をするのはだれか。

「一条先輩しかいない」
「そんなことは分からない。案外君のクラスメイトだって君がいたことで大いに得をしたはずだ。彼はひとりでは動かなかった。横で子犬のようについてくる君がいたから、彼は調べられたんだ。

もしくは会のひとりかもしれない。ひとりでは試験に合格するか分からない。ひとりもたどり着かなかった時の責任を追及されるのを避けるため、独断で何人も呼んだのかもしれない」

肯定されなかった。あれ。

「違うの」
「さて。だが僕にとって君は大いにありがたかった」

やっぱりこの人が呼んだんじゃない。ややこしい物言いをする人ね。

「なんでよ」
「見届ける人間が必要だからだ」

そうじゃない。わたしが聞きたいのは、わたしである理由だ。人を呼んだ理由じゃない。だが一条はわたしに口をはさませずに続ける。

「会の終焉を見届ける人間が必要だった。正しく終わらせるにはどうしても必須だ」
「一条先輩が分かっていればいいじゃない。わたしがいなくても同じよ、違わないわ」
「他者は絶対に不可欠だ。第三者の主観なしでどうして完全に終わったと言える? 自分が終焉だと思ったものはただの自己満足の誤解で、来年も平然と継続したのだとしたら? そんな間の抜けたことを起こしてしまっていいものか」
「あの」

この人、わたしの言っていることを聞いていない。それでいてひとつしゃべったら10になって返ってくるから口を挟みづらい。分かってしかるべきだった、この人変な人だ。

一条先輩は困ってしまったわたしに気づいてか気づいていないのか、話を続ける。

「言ったはずだ。君がそこにいるからだと。偶然と必然と意思の元、君はここにいる。それこそが始まりだ」
「始まり」

終焉する会にはなんて不釣合いな言葉なのだろう。

「わたしにはなにかを始まられない。なにもできない」
「なぜだ。謎を解き炎へ走る勇敢さに見合わない言葉だ」
「買いかぶりすぎている。わたしにはなにもできない」

だって。だってわたしは。

「だって、不安なのよ。自信がないのよ。なにをしていいのか、どうするのが正しいのか分からないのよ。みんなみんな怖いのよ。嫌われるのも失敗して笑われるのも、そんな駄目な自分を見るのも嫌なのよ」
「そうか」

しかられるかと思ったけど、一条先輩は受け入れた。あっさり頷く。

「それは厄介だな。自己完結しか解決方法はない。不安とは恐ろしい感情だ。いかに多くの人間が、ありもしない不安を満足させるために手間をかけ必要のない労力を失ったか」
「だからわたしはなにもできない」
「だが君は走った。動いた。僕のところまできた。それこそがすべてだ。沈丁春香はこの場で唯一僕の前に立っている人間だ。その事実を考えるべきだな」

言っていることは難しいけど、あまりにも堂々と言っているのでつい全部その通りですと頷きそうになる。わたしみたいな自信がない人間にとってうらやましい。

「ねえ。一条先輩は、なにかを愛したことがあるのでしょう」

ふと思った。最後のメール。そうでなければあんな残酷な文章送れない。自信があるから愛せるのか、愛しているから揺るがないのか。わたしには分からない。

「僕はすべてを愛していた」

炎に仮装をこがしながら、はっきり一条は宣言した。

「窓からのぞく日坂高校の校庭、ゆるやかな坂道と海、人が歩いているのを見たことがない裏山。笑わないクラスメイト。ほこりが転がる汚い階段を僕は愛していた」

目に浮かぶ。日坂高校の一風景。図書館へ行く途中の左側に広がる裏山への道、駅から学校へ続く丸の模様が埋めこまれている白い坂道、校舎と校舎の間にひっそり広がる中庭の藤、校門へ入って目に入る背の高い芭蕉。校舎から見える深い青の海。

だってわたしも同じ学校に通っているから。わたしは一条大介の後輩に当たるから。

「そうだとも、沈丁春香。だが炎はもう終わりのようだ」

初めの勢いこそとんでもなかったのに、いざ燃えるものがなくなってしまうと炎は急激に勢いを失う。

「ああ、寂しいものだな。あれほど猛威を振るった紅蓮の火炎はすでになく、祭りの夜は終わりを迎える。最後が訪れたようだ」
「ずっと燃えたままなんてありえないもの。そんなことになったらわたしは焼死しているわ。裏山だって火事になる。終わりは先輩が望んだことでしょう」
「そうだ。しかし悲しんでいけないことはあるまい」

一条は仮面にそっと手をかける。

「お別れだ、後輩」
「さよなら、先輩」

炎が巨大な舌を伸ばし人影が崩れる。燃え崩れるその姿は安物の仮面と薄汚い布で、人の気配なんてどこにもなかった。初めからだれもいなかったかのようにあっけなく、灰になって煙になって夜空へ舞う。わたしはよろめいてしりもちをつく。

終わったんだ。

気がつけば火はほぼ鎮火していた。森の外からわずかに残っている3年生が、恐る恐るわたしを見ている。森の外から消防車のサイレンが聞こえる。外からも見える大きな火だったのね。わたしの周りには崩れて燃えつきた薪が落ちている。わたしだって身体中が痛い。咳きこんだ。煙も吸ったのだろう、喉が痛い。それでもよろけるように立ち上がる。いつまでも座りこんだままじゃみっともない。

一条の会は今日で終わった。若草さんたちは全部先生にばれて火事についてこってり怒られるだろう。3年生の進学大学は取り消しになる可能性もある。わたしも無傷ではすまないかもしれない。停学だってありえる。これからわたしたちがどうなるのか、見当さえつかない。

疲れているし喉も顔もひりひり痛いし、おまけに前途は晴れ晴れとしていない。それでもわたしは気分がよかった。

わたしは確かに見届けた。終わるのを見届けたのだ。

そして今度はわたしが彼を引き継ごう。

わたしが一条の会を立ち上げるのじゃない。そんなことはできない。わたしは一条ではないのだから。

一条は日坂高校を愛していた。自分に関する人すべてを愛していた。会ったばかりの、おどおどしているわたしさえも。

その意思を継ぐ。わたしが卒業するまでに、一条とは別のなにかをしよう。一条の会の人たちがだれもしなかった、新しいなにかを始めよう。

それが一条の真の狙いなのだから。