校長室は広くてきれいだ。他の部屋はみんな薄汚くて狭いのに、ひとりでこんな部屋を占領できるなんて校長先生って偉いんだ。
校長先生は機嫌がよかった。整然と並べられている卒業アルバムを前に、部屋から出すことこそ禁止されたものの自由に読んでいいとのお墨付きをもらった。会議があるらしくそのまま出て行ってしまう。
わたしは青梅に頼まれたことをしなかった。ふたりだったらと青梅が言っていたことを思い出す。確かにそのとおりだった。ひとりだけで「昨日頼んだことですけど、もうよくなりましたのでやめます」なんて言えやしなかった。調べるふりをして卒業アルバムをめくる。
一応目はアルバムを追っていたが、考えは青梅ばかりだった。
どうしよう。すごく怒った。きっと今ごろすごく青梅は怒っているだろう。もうさっきのように一緒に謎を追うことなんてできないだろう。
仕方がない。
けんかしたのだから仕方がない。いいよ。どうせ青梅にはわたしは必要ない。自分ひとりでも手がかりを追ってちゃんと謎を解明するだろう。わたしには謎は投げかけられっぱなしだろうが、周りの事情が分からないのはいつものこと、普段のことだ。
もうわたしたちは仲の悪い他人同士だ。今更なにもすることはない。わたしたちの仲は終わったんだ。
仲直りをする? 冷静に現れた選択肢に、わたしは首を振った。ありえない。
なぜならわたしは仲直りをしたことがない。わたしはけんかをした相手と関係を修復することができない。
だってわたしは人に怒ったことがほとんどないから。けんかの経験が少ないから仲直りなんてやったことがない。今まで数少ないけんかをした相手は、全員そのままそれっきりだった。だから今回もそうなんだろう。
それにわたしだってまだ青梅には怒っていた。わたしは青梅の事情も立場も分からない。それなのに怒られて青梅にとってはとばっちりだし大きなお世話だろう。それらの事情を踏まえてなおわたしは怒り続けていた。
愛されているのに、大切にされているのに贅沢だ。
青梅には分からない。家族に大切にされていることがどんなに幸せか。わたしは大切にされたことなんてない。
わたしの両親はずっとわたしが好きではなかった。ある時母は家から出て行った。家はどうするか、お金はどうするかの話し合いはあった。残された子どもはなにも言わなかった。どうでもよかったのだろう。
わたしには兄がいる。兄はわたしが嫌いだ。兄は家族というものに嫌悪を抱いている。わたしも家族の一員だから嫌いなんだそうだ。とっくに家をでた。今なにをしているのか分からない。大学生をしているのだろうけど、どこに住んでいるのかも知らない。父はなにを考えているのか分からない。自宅にいる時は部屋に閉じこもり鍵をかけてこもっている。父は兄が好きだ。わたしは女で下の子どもだからどうでもいいと言われた。
どうだ。わたしには帰りを心配する家族はいない。あなたが大切だと言ってくれる人はいない。そんなわたしに、よくもよくもうざいなんて言えるものだ。腹が立つ。苛立たしい。収まりがつかない、不快で不愉快で不満だ。
腹が立つ!
思わず持っていた卒業アルバムを力一杯投げた。壁に当たり床に落ちる。適当な頁がわたしの前にだらんとめくれる。煮え立った怒りを抱え、わたしはさらに踏んづけて滅茶苦茶にしようと足を上げた。
止まった。まるで「やめるべきだ」とだれかに冷静に言われたように。
止めたのは卒業アルバムだった。めくれた頁はその年卒業した生徒全員が同じ写真に入っていた。下には全員の名前が小さい文字でずらずら並んでいる。わたしはその一節を指で押さえた。自分が間違っているかと思ったからだ、あまりにもできすぎていて。
間違いなかった。一条大介と書いてあった。
慌てて頁をめくる。各クラスごと、もっと大きく顔写真が載っている頁を探した。すぐに見つかる。3年9組、一条大介。色の白い、目の大きい、どうも見ているこっちが落ち着かなくなるような印象の3年生だった。年度を確認する。2年前だ、すごく最近だった。
落ち着いたかい? ならば続けたまえ。
写真の一条が話しかけてきた。もちろんそんなことがあるはずなく、わたしの気のせいなのだけど。
分かっているけど、その上で幻の声ははっきり聞こえた。
用がなくなったのだから帰ればいいのに、わたしはふらふら校内を徘徊していた。
確かにわたしはいないというのが信じられなかった。それなのに実際にいたことに衝撃を受けていた。2年前に卒業した先輩。
青梅に言おうか。一条大介はいないといった青梅に、ほら見ろと突きつけようか。
いいや、言えない。どうやって見つけたのか言えない、青梅の意図に反することをしたのだもの、きっと怒られる。加えてしばらく話したくない。黙っていよう。どうせばれない。もう話すことなんてないのだから。
どこにも行けないはずだったのだけど、いつの間にか目的地を決めていた。不気味な旧図書館。わたし以外に行く人はいないだろうし、だれにも会わずだれにも姿を見られない。不気味でほこりっぽく、古臭い場所だけど、そうして考えるとまたとない場所だった。
旧図書館は暗く、入った直後はほとんどなにも見えなかった。次にくることがあったら懐中電灯を用意しないと考える。特に考えもなくあちこちの部屋をのぞきこみ、廊下の通りに進む。当然ながら最後に図書室だった。
うろうろしながら考える。ここは頻繁に人が出入りしている形跡があった。一条なのだろうか。お茶のセットまであったのだからそうとう入りびたっていたのだろう。ここでなにを考えていたのだろうか。ひとりだけだったのだろうか。当時一条がしていたように今わたしは歩いているのだが、彼がなぜそんなことをしたのかが全く分からない。なにを考えていたのだろうか。
ノートに触れて、頁を開く。もちろん「参加しますか?」も「はい」の文字も残っている。
なにへの参加なのだろうか。ミトドケテホシイとある、なにかを見届けることへの参加なのだろう。すごいことをするのだろうか。見るだけだったら気楽だし、別にいい。それ以外のことも要求されているのかな。
なにげなく頁をめくった。
「用意はいいか?」前にはなかった言葉があった。思わずノートを落とす。
青梅と見た時にはなかった。それはもう、絶対確実に。だからこれは青梅が書いた後加えられたものだ。
青梅は前に言っていた。こんな仕掛けができるのは在校生だけ、今学校にいる人だけだって。
じゃあ、これは。一条は青梅の記入を見て書き加えた。一条は今もなお学校にいるのだろうか。まるで。
亡霊みたい。
ありえない。怯えて逃げ出したくなる考えを必死で否定する。そんなの、馬鹿げている。
きっと別の人が書きこんだのだろう。一条の意思によるものか、それとも単に彼の名前を借りただけなのか。とにかく書きこんだのは違う人だ。一条大介は卒業生でもう学校にはいない、だからノートに書くことはできない。つまり書いたのは一条ではない。そこまで考えてようやくわたしは落ち着きを取り戻す。
かばんから筆箱を出した。HBの、普段から使っているシャーペンを取り出す。すぐ下にわたしは書きこんだ。
「あなたはだれ」一条の名前を名乗る、この一連の仕掛けを作ったあなたはだれ。
わたしは帰った。旧図書館を出て学校からも出て、電車に乗り自宅へ帰ろうとした。
自宅は好きではない。わたしの家庭は、一般的な家庭よりずっと悪いのだろう。それでも高校生であるわたしにはそこしか帰る場所がない。無力だ。
いつかわたしも竹原さんのようにひとり暮らしをするのだろう。楽しみとはなぜか思わなかった。全く想像ができない。
明日は卒業式だ。だれにでも必ずくるはずの将来。
ふと考える。その時わたしはどうしているのだろうか。進学先は決まっているのだろうか。なにを考えているのだろう。ちゃんとした先輩になれているのだろうか。
卒業。
ありきたりな、わたしだって何回も体験しているこの行事がふと恐ろしくなった。
わたしにはなにもない。流されているまま、だれかに言われているままぼんやりと生きている。自分の主義もなく、どうしてもやりたいこともなく、将来の目標もない。なにか違うなにか違うと思いながらいつの間にか心身ともにその違和感に飲みこまれて、いつしか自動的に学校から吐き出される。
どうしよう。
わたしは唖然とした。
わたしにはなにもない。
友人は一過性で、居場所は次々に変わる。変らないものはなにもない。
そんな中でなにもせずにいるわたしはなに。次々と起こる変化を黙って受け入れ、ぐらぐら立ち位置を変えるわたしはなに。わたしはだれ。
まるで久しぶりにコーヒーを飲んだ時のような不安と焦りに、わたしは背筋が冷たくなった。居ても立ってもいられないような恐れを覚える。
大学ノートに質問している場合ではない。わたし自身こそだれだか分からない。
わたしはなに。
問いかけと共に電車が停車した。終点、わたしの目的地だ。みんながここで降りて、それぞれの行くべき場所へと向かう。
だれもが立ち上がって席を下りる中、空っぽのわたしだけが取り残されて呆然としていた。
空は暗い。もう遅い時間帯だからだ。
普段は夕食を食べてから帰る。家に帰ってもご飯を作る人はいない。最寄り駅のF駅周辺はかなり発展していて外食には困らない。
普段はファーストフードで済ますのだけど、今日は足早にサイゼリアへ入った。今回サイゼリアを選んだ理由は安さだけじゃない、アルコールが飲めるからだ。通っている日坂高校は指定かばんなんてないし、制服はコートで隠せる。外見だけはどうしようもないけど、堂々としていれば案外実年齢が分かってしまうことはない。
パスタと一緒に白ワインのデカントを頼んだ。食事の前に半分くらい一気に飲み干す。10分もしたら虚無感も不安も消えていい気になった。
自分ながらいい方法とは思っていない。15歳にしてアルコールに逃避なんて、全くろくなものではない。分かってはいるけど他にどうにかする方法を知らない。
こんなんじゃ長生きできそうにないね。ぼんやりとした頭で首をかしげた。酔っ払うと頭が重くなる。
お腹も一杯になったし不安も消えたというのに、それでもわたしはどうしても家に帰る気になれなかった。
ずっとの長居はできないし、他の店に入るほどのお金はないし。しばらくしてしぶしぶ店を出たわたしは、そのままコンビニで安い缶チューハイを買いこみ、近くの公園へ行く。滑り台と、水飲み場と、ウサギとロバのスプリング式遊具と、後はベンチがひとつだけ。10歩歩けばもう端から端まで行き着いてしまう小さな公園だった。大きな河に面していて風が冷たい。こんな時間では子どもどころか通りかかる人の姿もなかった。
わたしにはとても都合がいい。ベンチに座って缶チューハイを開ける。缶チューハイはどこででも手に入るし安い。加えて甘い。これで炭酸が入っていなかったらもっといいのに。
携帯電話が軽快な電子音を鳴らした。すっかり酔っ払ってぼんやりしているわたしはなにも考えずに確認した。
『受信中』『新着メールが一件あります』
『題名:なし』
『本文:君は愛したことがあるか?』
一条大介からだ。わたしは理解した。記名はないし知らないメールアドレスからだけど、このメールは一条からだ。
「愛したことぉ?」恐れるなりなにか感銘を受けるなりをしないといけないのだけど、わたしは泥酔していた。重い頭をふらふら動かしてメールを読み返す。
愛したこと? 変な質問。それくらいある。いくらでもある。
……いいや、ない。
だれかやなにかに夢中になったことはない。動悸を抑えて床についたことはない。譲れないことがらを抱えて人と争ったりけんかをしたことはない。わたしは日頃から愛することや憎むことに手抜きをして、貧しい人間関係の上でぼんやり生きている。
なぜなら自信がないから。わたしの立ち位置が正しいのか、正しいというのがどのようなことか分からないから。
「でも、みんなそんなものでしょう?」ぐでぐでに酔っ払いながら一条代わりの携帯電話に語りかける。
「どうせそんなものなのよ。この世は生きにくいのよ。我慢して小さくなってこそこそするのが正しい生き方なのよ。だれもが漫画みたいに勇敢には振舞えないわ。自信なんて持てっこないわ。生きていくことが苦しくって息詰まるのはわたしのせいじゃないわ。ねえそうでしょ? どうせそうなんでしょう」桜色の携帯電話はなにも語らない。
どんなに悩んでも、どんなに明日を恐れても、それでも生きている限り明日はくるし、明日になればわたしは制服を着て学校に行く。加えてその日が卒業式だったらわたしも参加しなくてはいけない。有象無象、その他大勢のだれかとして。
「むう」わたしは二日酔い気味で気分が悪かった。昨日は飲みすぎた。いい加減飲酒をストレス解消にするのはやめないと。
そのせいで重要な証拠を見逃してしまった。いいや、今でも見逃している。気分が悪くてちゃんと物事を考えられない。どうして大切なことはいつも酔っている時に起こるのだろう。自業自得とは言え釈然としない。
1年生は卒業式とは直接の関係がないのに、それでも朝からクラスはなんとなく騒然としていた。普段と違うことをする時、それがどんなにつまらないことでも人はなんとなく浮き足立つのだろう。体育館へ向かう途中、「沈丁さん」声をかけられた。
「白雨さん」「沈丁さん。前聞いたこと、境先生から教えてもらったんだけど」
白雨はこころなしか青ざめているような気がしていた。だれに秘密にする話ではないのに、小声でわたしに話す。
「……そう」「有名だったみたいよ。もう日坂生じゃないけど、卒業後まだそんなに経っていないし、すごく若かったから。あ、沈丁さん、ショックだった? そうよね、私もすごく驚いた」
「うん。でも大丈夫。ありがとう。その、お茶の先生にもお礼を言ってね」
「うん。約束だけど、新入生歓迎会に沈丁さんもきてね。別に1年生だけを歓迎する訳じゃないし、私の友だちですって話したし。いいよね?」
「うん、もちろん」
白雨は部員勧誘にはひたすら本気だった。新入生歓迎会に「この前話した人です」と2年生を連れてきたら逃げ場がない。わたしは感心した。
感心するだけにとどめておいた。今聞いた話に動揺しすぎていて、わたしはそれ以外のことがほとんど考えられなかった。流されるように卒業式が始まる体育館に入り、用意されたパイプ椅子に座る。青梅の姿がちらりと見えたけど、わたしはほとんど気にしなかった。
ぴっ。電子音がわたしにだけ聞こえる。
メールだ。慌ててこっそり内容を見る。
『題名:なし』『本文:時間に弓道部稽古場前まで待つこと』
メモの続きだった。今まで空白だった場所が書いてある。これでどこでが分かった。
でも。これはおかしい。だって一条大介からメールがくる訳がない。ありえないんだ。
白雨の言葉が卒業式の挨拶に混ざり、メールの文章も加わってなにもかも混沌としてくる。ぐらぐら体育館が揺れている気がしてきた。3年生の門出だというのに、挨拶も卒業証書もまるで頭に入らない。どうしよう、どうしたらいいんだろう。どうするのが正しいやり方なのだろう。
白雨はこう言った。
「あのね。境先生から聞いたんだけどね。一条大介って人、知っていた」少しためらった。まるでそうすることで、話が普通の話題になれるか期待するように。
「一条大介って人、OBだけど亡くなったらしいよ。去年の夏に」


