分かったと言ったものの、なぜかわたしは分かっていなかった。
青梅の言っていることは合理的だし正しそうだ。今までも青梅の方が正しかったし、きっと今回もそうなのだろう。でもどうしてもわたしは納得できなかった。
なぜだろう。帰りの電車に揺られて外を眺める。線路から海が遠ざかり大通りへ入る。この路線は一部路面電車になる。近くに漁港があり、新鮮な魚介類を出してくれる店々が並んでいる。見ても面白くない、お金がなくてこんなお店には行けないからだ。やっぱりわたしはファーストフードが似合っている。流れる風景から目をそらさなかった。
一条が実は存在していなかった。その考えに違和感を覚える。それはなぜだろう?
わたしは勝手に自分のイメージとして一条大介を考えていて、それが崩されたからがっかりしたのだろうか。
可能性はある。確かにわたしは青梅の後をついていきながら、わたしたちを振り回す一条について思い描いていた。こんなことを計画する人はどういうつもりの人なのだろうか。なにを考えているのだろうか。どういう意図で、わたしと関わったのだろうか。見えない人物像を探ろうとしていた。だからだろうか。
どうもしっくりこない。夕暮れの、明かりがついた家々がぼんやり意識の上をかすめる。
窓の外には無数の家がある。あの屋根の下に住む人たちはどんな人たちなのだろうか。家庭が機能不全を起こし、ぎぐしゃくと暮らしているのだろうか。それとも漫画のように幸せでなにひとつ不自由がない生活なのだろうか。竹原さんのようにひとり暮らしをしているのかもしれない。幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はそれぞれ違う。ロシアの小説家トルストイの格言だ。トルストイは偉い人かもしれないけど、なんて失礼な、無遠慮な言葉なのだろう。小説家というには観察眼が足りないわ。幸福な家庭を維持するために努力している人々の顔を見たことがないのだろうか、気にかけたことがないのだろうか。
あの明かりひとつひとつに人が住んでいる。それはわたしとは無関係な人々だ。世界はわたしを中心に回っていないので、わたしには関われない世界がある。わたしはとても多くの人と関係せずに終わる。
その中に一条大介がいると、断言できないはずがない。
電車が駅に吸いこまれて止まった。大多数の乗客と同じように立ち上がって降りる。
青梅に言われたのにも関わらず、わたしは一条大介の不在をどうも信じられないようだ。
すっかり忘れていたけど、わたしは帰宅部だけど帰宅委員会ではない。委員会の集まりが放課後あった。
青梅に断ってから体育館に集合して、みんなで仕事をした。仕事内容は明日の卒業式と、おまけの終業式のためにプランターの花々を体育館のすぐ横まで運ぶことだった。三色菫の重いプランターを二人一組で運ぶ。力のある男子生徒はひとりで運べているけれど、わたしがそんな無理をする必要はないし、制服が汚れてしまう。
頭を使う仕事ではないので、運びながら一条大介や卒業式の午後5時についてを考えていた。なにがあるのだろう。場所は結局分からなかった、どこだろう、やっぱり卒業式を行う体育館なのだろうか。でも5時になったら閉鎖されているだろう。入れない。こっそり侵入しろって言われているのだろうか。一条大介、もしくは一条大介の名前を借りた人はわたしになにを伝えたいのだろう。ミトドケテホシイとはどういう意味だったのだろう。ミトドケテホシイ、ミトドケテホシイ。三月は革命の季節。
「卒業式当日も私たちが運ぶのかな。だったらちょっと嫌ね。卒業式に泥のついた制服は勘弁よ」「え?」
急に話しかけられてびっくりした。おかしな話だけど、考えすぎて一条大介に話しかけられたような錯覚さえ覚えてしまった。もちろんそんなことはなく、一緒に運んでいる女子生徒が世間話を始めただけだった。
「う、うん。そうだね」どきどきする。同じ委員会とはいえほぼ知らない人だ。クラスも学年も知らない。わたしは元々人の名前を覚えるのが苦手だし、覚えようとする積極性も全くない。しどろもどろでこの子に変に思われたらどうしよう。
「私この後部活なのにすでにスカート泥がついているし。しかたないけど嫌ね。部活、入っている?」「ううん。なににも」
「あ、そうなの? 入ろうとしなかったの?」
「うん。特にこれといったものがなくて」
熱意も情熱もないので入らなかった、は言う必要がないか。この子に変な人だと思われる。
「茶道部入らない?」この子もか。
「茶道部?」「うん。私が入っている部。人が少ないのよ。こう、野球部や吹奏楽部みたいな派手さもないし。どう思う」
「部活って、いつもそんなに人が少なくて困っているの?」
「ん?」
「ううん、なんでもない。こっちの話」
茶道部か。アメフトのマネージャーよりはましかもしれないけど。入っていいことあるのだろうか。そもそも面白いの?
「茶道ってなにするの? 面白い?」「すごく面白いよ!」
力強い返事だった。そうなの?
「どういうところが?」「例えばお道具。使う道具がどれもこれもすごくきれいでね。棗とか黒楽の茶碗とかよだれが出るほどきれいなの。お店で売っている高いものは天井知らずで到底手が出せないけど、部室には全部揃っていて、押入れにも山のようにたくさんあるのよ。
エピソードもすごく面白い。茶道は戦国時代大名たちの間ですごく流行したのだけど、どこのお茶入が武将の褒美として与えられたとか、大名のやり取りとか、千利休のエピソードとか聞いていてすごく楽しい!」
熱く語られてしまった。わたしは名前もまだ聞いていない彼女に引いたけど、うらやましさも感じた。そうか、そんなに楽しいんだ。
「お茶会もいいよ。部活で顧問の先生経由でどこそこのお寺のお茶会からお誘いがくるんだけど、もう本当にすごい。みんなきれいな着物を着て、すごく素敵なお茶室で立派な道具でお茶を点てるの。ため息つくよ。OGの先輩が文化祭きてくれたのだけど、素敵だった。着物着ててきぱきてきぱき水屋にいて、厳しかったけどきれいだった」
「OG? 先輩との交流があるの?」話の途中だったけどさえぎった。さえぎってから急に緊張する。今までただ頷いていればよかったのに、急に話に参加したのだから。人と話すのは得意じゃない。会話が下手だ。
「あんまりない。でも去年の文化祭は部員が少なかったから、今でも先生の教室に通っている元日坂生にきてもらったの。うちの先生顧問をやるかたわら自分の教室も開いているから」「今でも、その先生はOBとの付き合いがあるんだ」
「付き合いというか。もともと外部の人なの。お招きしてきてもらっている、多分30年以上」
「そんなに!?」
「うん。で、そんだけ長くいれば卒業後もお茶を続けてその先生の教室に通う人もいる」
学校の先生は任期がある。どんなに長くても10年以上は勤められないはず。でもその先生は30年以上。
「すごいね。卒業生に詳しそうだね」興奮を悟られないように声が小さくなる。緊張して口の中がからからだ。
「先生その人は詳しくないだろうけど、OG会やっているんだしそれぞれの年度には卒業生がいるんだし、まあそこそこは詳しいんじゃないかな」「あのね。変な話になるけどいいかな。ちょっとその先生に聞いてほしいことがあるんだ」
「ん、なに?」
「今探している人がいるんだ。一条大介っていう先輩。多分そんな古い卒業生じゃなくて、まだ10年たっていない人。よかったらその先生に頼んで、その先輩がどんな人だったか教えてほしいの」
委員会は無事終わり、わたしは教室に戻ろうと廊下をひとり歩く。ホームルームから時間がたったせいか、廊下には生徒はいない。
わたしが話をした人は1年1組の白雨さんという人だった。あまり深く考えない性格なのか、あっさり承認してくれた。条件付だったけど。条件とは茶道部に見学に行くこと。間違いなくそこから勧誘に進もうという魂胆だ。
ま、いいか。別に害になることじゃないし、入っても忙しそうな部活じゃないし。
聞いてみると言ってもらったけど、あんまり期待しないでとも言われた。
「うちの先生部活だけで、学校全体については詳しくないんだ。運がよければ当時の生徒に話を通して、ってなるかもしれないけど」「分かった」
長くいるとはいえ学校の先生じゃない人だ、期待しすぎるのは申し訳ない。
「とりあえずメール教えて? 私メール苦手だけど、春休み中に分かったらメールするから」そんな感じでわたしは青梅に続いて2人目のメール友だちも得てしまった。いいのかしら。なんだか急に大人になったようでどきどきする。一条大介のメールを受け取ってからというものの、色々なことがわたしに起きる。
ふと思い出してメールを確認した。一番初めに受けとった「ミトドケテホシイ」のメール。わたしの携帯電話はなにも教えてくれない。
「ミトドケテホシイ、ミトドケテホシイ」なにを? どこで? どうして? なぜ、わたしに?
聞きたいことはたくさんあるのに、一条大介はなにも言ってくれない。
「はいはい。早く帰ればいいんだろ。分かったって」教室へ入りかかったところで怒ったような声がして、わたしは固まった。
「だから分かったから! じゃあ、切るよ!」教室で待ち合わせている青梅が自分の携帯電話に向かっていた。教室には青梅しかいなかった。切ってからぎょっとわたしを見る。
「あ、沈丁さん。ごめん。ちょっと待って、すぐ行く」「あ、うん」
怖くてわたしは固まっていた。青梅はなにもなかったように荷物をつかんで教室から出る。今のはなかったことにするつもりなのだろう。わたしにはそんな振る舞いはできそうにない。
「早く校長室へ行こう。一条はいないんだから、調べなくてもいい。すみませんいいですって謝ってこよう」「うん」
「こういう時、沈丁さんがいてくれてよかった」
え?
「わたしはなにもしていないよ」「でも、横にいてくれたから色々話を聞けたり探したりできたんだ。校長先生に聞く時も横にいてくれてすごく助かった。ひとりだったら気後れしたよ。きっと沈丁さんがいなかったら今ごろ面倒になって投げ出していると思う」
「そう?」
驚いた。青梅はひとりででもどんどん進めると思っていたのに。わたしも少しは役に立っていたんだ。
「青梅くんがそんなこと言うなんて、思わなかった」「そうかな。俺なんてそんなものだよ。校長室へ行った後はまた教室に戻ろう。今日も遅くなっていいよね」
「ん?」
わたしは問題ない。どんなに遅くなっても大丈夫。でも青梅はそうじゃないんじゃないかな。
「ごめん、さっきの携帯の話聞こえちゃったんだけど。ごめんね、大声だったから。今日早く帰るんでしょ」「あ?」
青梅の顔が険しくなった。怖くなって思わず立ち止まる。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」「あれは無視していい。母からだったんだ。買い物をして早く帰ってくれって」
「じゃあ今日は早く帰ろうか」
無視していいはずがない。
「いいよ。校長先生に挨拶しているんだし、そっちの方が大切だ」青梅はぶっきらぼうに言った。機嫌をそこねたくない。一応お義理でもう一回勧めてから校長室に向かおう。
「無視するのはよくないよ」「いいんだよ。もう半年近くもずっとこうなんだ」
「どういうこと」
「うちの母、半年ぐらい前から体調を崩していてさ、買い物とか家のこととか頼まれるようになった。初めは真面目にやっていたけど毎日だしちっともよくならないし、母は昔から俺にべたべたでこういう時は俺ばっかりだ。家には父だっているのに、父は面倒がって関わろうとしないし。結婚相手はどっちだよ。ちょっとぐらいいいよ」
「青梅くん」
きっと青梅は鬱憤がたまっていたのだろう、普段の彼らしくない苛立った動作だった。
「母だって悪い悪いって言いながらいつまでたっても治さないし、甘えているんじゃないか。俺だって忙しいのに。うざいよ、うっとおしい」「帰って」
「え。大丈夫だよ」
「いいから帰って。帰って必要なことをしてよ」
「嫌だよ。おとなしく従ったってどうせ毎日なんだ。無視していいんだよ」
「校長先生のところにはわたしひとりで行くから、帰ってよ」
「沈丁さんには分かってないんだよ。本当にいいんだって」
「青梅くんだって分かっていないんだよ。おかあさんが必要としているんだったら帰ってよ。面倒かもしれないし、青梅くんからはおかあさんが怠けているように見えるだろうけど、でも必要とされているのよ。
必要とされているのはすごいことなのよ。必要とされないことがどんなに悲しいのか、青梅くんには分からないのよ。それがどんなにみじめで虚しいか、青梅くんには分かりっこない」
「沈丁さん?」無性に腹がたった。どうせ友だちがたくさんいる青梅には、消えたい気持ちも寂しいことも理解できないくせに。
「わたしひとりで行くから、帰って。一緒に行くならわたしはもう協力しないから。ひとりで調べてもらうから」言葉に詰まった青梅を無視して、わたしは怒りながら校長室へとひとり向かった。どうせ彼には分からないんだ。