三つ首白鳥亭

−架空都市−

8.未だ会えぬ街に

金と黒、2匹の獣は牙を向き、聞き取れないほど低く唸る。夜の王は輪郭がぼやけ、存在ごと曖昧になっている。グラディアーナは生々しい傷が金の毛皮をまだらに染めていた。雪のように毛が舞っている。

夜なのに空は紅だ。どこかで火事が起きているのだろう。無顔の人々か、それともシットウがかつての故郷のように火をつけているのか。見えるはずがないほどの遠くで火の粉がはじける。

狂ったような笑い声はきっとコア。規則正しい足音は顔のない人々。かすれかすれに聞こえるすすり泣きは、大谷かシットウか。

グラディアーナはあたしに気づく。もともと半分人間であるせいか、動揺しているのが一目で分かった。ごめんグラディアーナ。死力を尽くして戦っているのに、あたしは戻ってきた。

夜の王の影もあたしの影も、揺らめく炎に照らされ踊る。視界の端にグラディアーナの仕込刀が銀の光を投げかけていた。

「夜の王」

立っているのが信じられないほど恐ろしい。理性的な推理なんて目の前に存在する殺気には到底かなわない。見栄と意地で平然としていられるのにも限度がある。

「あなたは何者なの。なぜここにいるの。あなたの悲しみはなに。どうしてあたしに関わるの」

グラディアーナが目を見開いた。なにを言いだすんだと、人型だったらきっと叫んでいた。

「なにをするつもりなのか聞きに戻ったのよ。言ってみてよ、どんな答えでも」

夜の王はあたしへ飛びかかった。

ぎゃ! グラディアーナが王へ体当たりをする。軌道がずれて2頭はもみ合う。もみ合いながらもグラディアーナは変化する。身体が細くなり、毛は短く、手足は長く、何重にもぼやけて幻と幻を重ね合わせたように人型へ戻る。戻りながらも夜の王を押さえ続ける。

「刀を取りなさい、サイ!」

言っていることがすぐに分からなかった。捨てられたように転がっている仕込刀のことだと分かった瞬間、なにも考えられずに飛びつく。

巨大な筋肉の塊を、人間の体格で止め続けられるわけがない。今まで互角に戦っていたのが信じられないほど簡単にはじき飛ばされる。

王は飛びかかる、あたしめがけて!

「っ!」

とっさに声なんて出やしない。戦い方なんて知らない、剣なんて持ったことがない。ついさっきまでグラディアーナのものだったものを、条件反射のように突き出す。

黒が視界を染める。闇が実体と重みを持ってもたれかかる。刃の輝きも見えなくなる。


「なあ、サイ」
「なによ、一条」
「僕は満足している」

「サイ!」

グラディアーナの切羽詰まった叫びに、答える余裕はなかった。

あたしが不器用に伸ばした刀に、王は胸部を貫かれていた。目の前で輪郭が薄れ、身体の黒がばらばらになって空気中へ散る。刀が重く地面に転がった。

「あなたという人は!」

グラディアーナは腹を立てていた。声だけでも十分伝わるし、猫の表情は思った以上に怒りを表現できる。

「まったく、あなたという人は!」
「悪かったわよ」
「本当ですよ。考えなしで流されやすくて意地っ張り、そのくせ実力も能力もないから巻きこまれても対処できない、それなのに首を突っこみたがる」
「グラディアーナ」
「せめて人の言うことぐらいお聞きなさい!」
「ごめん」
「……なぜ戻ってきたのですか」

ひとしきり怒って気がすんだのか、グラディアーナはかがんで目線を合わせた。

「オウは夜と危険の象徴です。闇と死を形にして投げ出したような存在。ここは象徴であふれる街、街にあるものすべてに意味がある。私もサイも一言でまとめることができるのでしょう」

グラディアーナは侵略者と大和に呼ばれていた。あたしは…… なんだろう。

「あれに戦うでさえなく向き合うなんて、なにを考えていたのです」
「あれはあたしの悪夢だ」
「は?」
「ここは夢の都、架空の街、みんなの無意識を集めて存在する、だれのものでもない曖昧な場所」

そしてあたしの無意識は。自分のものだと主張するなんて恥ずかしくてできないほどちっぽけなあたしのかけらは。

それはずっとあたしのそばにいた。影のあたしはずっと近くにいた。街をよく知る案内人として、触れれば殺されそうな怪物として、機が満ちたらおとなしく殺される影として。

「夜の王はもうひとりのあたしだった。あたしのかけら、あたしの要素をほんの少し持っている存在だった。みんなの悪夢はあたしの悪夢でもあるから。他人で知らない、認めたくもないけど存在しているあたしだった」
「殺されました、サイによって」

刀を拾う。

「よかったのですか」
「よかったの。おかげであたしは欠けていた記憶を思い出したのだから」

あの時一条はなにを言った。なにを伝えたかった。

「サイ、僕は」

空白に沈んだ言葉の意味は。

「一条は満足していた」
「サイ?」

あたしは両手で顔を覆う。

「一条は満足していた。あの正真正銘の奇人は、あたしと友だちで幸せだったんだ」

だから泣くのはやめたまえ。

馬鹿。あたしは泣いてなんかいない。悲しいからと涙を流せるのなら、ここにはこなかったわよ。

だれよりも変人で、目のつけどころがどうしようもなくずれていて、なにがおかしいのかいつも笑っていた。自分の時間が長くないのを分かって受け入れていた。

ねえ。今でもあたしと一条は友だちなのかしら。

そう。だったら。

目を細めて空を仰ぐ。空は重くて天は果てがなくその先は見えなくて、火事はまだくすぶっている。

「サイ」
「シットウはどこだろう」
「次はなんですか。どうしたというのです」
「グラディアーナ、感謝しているわ。ここにいてくれてありがとう」
「サイ」

あたしは立ち上がる。グラディアーナは驚いたように耳を立てた後、警戒したようにあたしをにらむ。

「真に受けませんよ、あなたのことですから。なにをたくらんでいるのですか」
「グラディアーナはひとりでも帰れるわよね。あたし、シットウを助けに行く」
「シットウ?」

だれですと問いかけるより先に、あたしはグラディアーナを置いていった。

「シットウ、シットウどこ!」

疲れ果てて立ってられないくらいなのに、あたしは走って声を張り上げる、信じられないくらい遅い。

「シットウ!」

ビルに張りつく歩道へ手すりをよじ登るように歩く。途中で橋の外へ身を乗り出した。無顔の、燃えながら歩く人々の中にうずくまる影。躍る炎の中にいてもまだ黒い。なぜなら黒服だから。いつだって彼女は喪服を着ているから。

いた。

酔っているかのように緩慢に、シットウの元へ歩く。どこかに行く、どこにも行かない人々の間を無理に通り抜ける。邪魔がられることさえされず、人々に蹴られながら、ただいるだけのシットウの元へ。

「シットウ、なにをしているの、そんなところへ」
「夢の世界にも、苦痛の感覚はあるのね」

ゆっくり顔を上げる。泣き疲れたようなひどい顔だった。目ははれぼったいし、悲しみのあまり泣きはらした、何日も泣いたような表情だ。

シットウが泣いていないことを、もちろんあたしは分かっている。泣くことができる人はここに迷いこまない。

「好きだったの。キュウキが好きだったのよ。それなのにあの人はもういない。苦しかったのかしら、辛かったのかしら。きっと死ぬほど死ぬほど苦しかったのよね」
「シットウ」
「ねえ、置いていかれた私はどうすればいいの? キュウキがいなくなってから私は生き方も分からなくなったわ。見捨てられてひとりになった私はどうすればいいの?」
「シットウ、シットウ。聞いてよ。あたし見つけたの」
「なにを!」
「一条は幸せだったの。一条はね、聞いてよ、あたしと友人で幸せだったのよ。あたしが友人で、あたしは凡人でひねていてどうしようもなしだけど、それでも一条は満足していたの。あたしが頼りない伝言ひとつで、真夜中の行ったことがない場所まで自転車で駆けつけたから」

助けを求めたら、サイはくるのだな。どこにいても。

あたしは試された。あたしは激怒したけど、一条にとって必要なことだったんだ。

一条が公園で待っていたのはあたしではなかった。あたしがくるということ、助けを求めたらいつでもくるという確信が欲しかった。

「あたしたちは友だちだった。期せずしてあたしが証明したんだ。だから遠くても離れても、一条はあたしが友人だと信じ続けられた。きっと今だって」
「今。サイ、違うわ、あなたの一条は」
「会えない。もう会えない」

今立っているでたらめの街でさえ、もう会うことはない。倒れるまで探して分かった。

「二度と会えないけど、でも友達なのよ。永遠の友情よ」
「でもサイはひとりぼっちなのよ、先に越されたのよ。悲しくないの、苦しくないの」
「悲しい。悲しいし苦しい」

今だって直視するのは苦しい。考えるだけで悲しい。携帯電話の着信音が怖い。

でもそんな愚痴、一条が知ったらどうするかしらね。

「愚痴をこぼしたら一条はがっかりするわ。見下されたくはないわよ。見栄を張るわ、強がるわ。無理にでも背筋を伸ばすわよ。ねえ、シットウしっかりしてよ。シットウの愛した人は、あなたがいつまでも泣いているのを喜ぶような人じゃないでしょう」
「私はあの人を愛していたのよ」

シットウは恨みがましく言った。

「私は立ち直れないわ。だからここにいるの」
「あたしだって立ち直っていない」

元気とははるか遠い。傷は一生残って、あたしは痛みにうめくだろう。くよくよするし、気がついたらまたここにいるのかもしれない。あたしは相変わらず孤独で、自分の居場所も見つけられない。

でも、その上であたしは翌朝起き上がる。死にぞこないをやめて、苦しさの中にあるかすかな喜びに慰められるんだ。

一条の友人であり続けるために、ずっと一条にとっての友だちでいたいから。

「出よう、シットウ、ここから。踏みつぶされない場所を探すのよ、あたしも手伝うから」」
「馬鹿ね、サイ。私のために、必要のない苦労なんかして」

憎まれ口を聞きながら、シットウはあたしに寄りかかるようにして立つ。2人して足元はおぼつかないし、顔のない人々は燃え続けて先もよく見えない。

「一緒に苦しみたいのよ。シットウに共感して、なんとか苦しみを軽くしたいの」

炎があまりにも明るくて、永遠に続く夜の街に朝日が射しこむ錯覚を見たわ。そんなはずがない。夜明けはずっと先よ。暁がくるなんて想像もつかない。

でも、もし夜がもうすぐ終わりだとしたらどうなるのかしらね。

朝がきて、黄昏の街がまぶしい日の光に包まれたらどうなるのかしら。

消えてしまうの? それとも夜の要素はビルの隅に隠れて、また惑う夕暮れが始まるのかしら。その時あたしはどこにいるのかしら。どうしているのかしら。

さ、行こうシットウ。最後の一人を突き抜けて、とりあえず外に、今はここを出よう。

無顔の人々を無理に押しのけて、あたしは目がくらみ、視力が失われて、そして。