三つ首白鳥亭

−架空都市−

7.大禍時

「帰れって言ったのに」

感情を麻痺させた声が降る。だれかが肩を支えてあたしを起こす。

「あれほど言ったのに。でももう遅いのね」
「シットウ?」

表情は空虚で、声にはあきらめがにじんでいた。

「夜がくる」

厳しく告げるシットウは真黒だった。頭の先から足の爪まで、喪服は夜に紛れて輪郭を消す。

「夜がくるわ」

でたらめなこの街で、無軌道な人々が唯一口をそろえていたこと。

「悪い夢が目覚める。恐ろしい怪物が跋扈する時がきた。影と意識の奥と死の世界。危険で狂気がはびこり、魔法が最も強くなる時間」

夜がくる。

あたしは首を上げた。

「どうして帰らなかったのよ。あれほど言ったのに。だれもが言ったのに」
「あたしに帰るところはないから」

月も星もない空の下、一斉にビルというビル陰から鳥が飛び立った。姿は見えない。轟音とも言えるほどの、空気を震わせて耳をふさぎたくなるほどの音量で、影しかない鳥が一斉に逃げ出す。

線路沿いの道からのっぺらぼうの顔のない人々がくる。電車で一緒に乗っていた、おとなしく同席していた人々が夜からくる。全身タールをくまなく塗ったように黒く、だれもが身体の一部から発火して、異様な光量をまとってやってくる。ひとりひとりがあたしもシットウも、自分の隣さえ見えていないように一切の感情なく、そのくせ群れている。

「あ」

けたたましい、ヒステリックな笑い声。あたしは耳をふさぎたくなった。なに!

海沿いの駅、のっぺらぼうたちと一緒に電車に乗りこんだ駅から聞こえる。

昼間はあれほどだれもいなかった道路には黙って燃えさかる人々が行進し、コアが駅で笑っていた。パジャマ姿で、身長ほどもある赤い布を振り回しはおり、ひとりで踊って暴れている。

「夜だ! 夜がきた!」

海の反対側、ホームの裏から無顔の人々がコアへ集まる。彼らはなにもしない。コアは高らかに歓喜と勝利を笑い、赤い布で空も飛べるとばかりに線路に着地をする。

「火をつけろ、旗を振れ! 夜がきた、目覚めの時だ!」
「炎は」

感情が見えない声で、深く慎重に隠したせいで全くないようにしか聞こえない声でシットウは言う。

「炎は、街を飲みこんだわ」

シットウは、熱でうかされる街を見ているようで見ていない。焦点が定まっていず、ここではないところを見ているようだった。今のあたしもこんな顔なのかしら。

「街って、ここのこと」
「キュウキがいなくなって私は探したわ。灰色と孤独の街、いつも汚くて、ごみであふれかえっていて、だれもが今日一日を無難に過ごせばいいと願うような街をキャンドルを持って走り回った。だれもが私を見たけれども、だれも私に気づかなかった。だって私は元の世界でもひとりきりだったもの。キュウキしか私に気づいた人はいなかったもの」
「シットウは、自分の街が嫌いだったのね」
「大嫌いだった。いつでも瓦礫になってしまえばいいと思った。探していても見つからなくて、だれもがみんな大嫌いで」

目に浮かぶ。どこかの狭くて汚い街の一角。汚水が流れてごみが放置されて面している家々は打ち捨てられた空家ばかり。目の前にうずたかく積まれている魚の骨、油にまみれたカーテン。死に物狂いで走るシットウ。手にしたキャンドルの、小さなろうそくのかけらが転がり落ちる。炎は移り、燃え広がることに成功して、それでも動きはゆっくりで静かすぎて、シットウは気づかない。目の前に絶望しながらキュウキを探しに傷だらけの足で走り出す。

炎はいずれ空家を飲みこみビルを包み、手出しができないほど、天ごと燃やしつくすほど広がることも知らず。

「かわいそうなキュウキ」

シットウは目を閉じる。

「シットウ、ねえ、キュウキはどうして亡くなったの? シットウの大切なキュウキはなぜいなくなったの!?」

なんで、なんであたしはこんな残酷な質問ができたのだろう。あたしはもう知っているのに。十分理解しているのに。

「炎よ!」

シットウは両手を振る。キャンドルを振り回すように、燃えさかる街をあたしに見せつけるように。

「炎がすべてを飲みこんだの! 人も、街も、キュウキも! 私は生きていたのに、私にはなにも残らなかった! すべて燃えてしまったのよ!」

キュウキは笑った。笑ってシットウの前から消えた。二度と現れない。どれほどさまよってもいない。

一条のように。

「シットウ」
「さよならよ、サイ」

シットウは離れる。

「さよならって、どこに行くの」
「どこにも行けないわ。あの人がいなくなってから私は場所を失ったのよ。どこにいても同じだわ」
「それならあたしだってそうよ!」

あたしに家はない。帰る場所はない。どこにも行けない。

「サイは私と違うわ」

拒絶した。

「サイはずっと探していたじゃない。止まることをよしとしないで、ずっとずっと求めていたじゃない。理由を、人を、自分を、一条を。走った、叫んだ。見つけようとした」
「あたしは流されていただけよ」

買いかぶられている。あたしは根暗で、平凡でちっぽけな人間なのに。

「私はサイとは違う。ここに、架空の街にくるしか私には残されていなかった。サイがなぜここにいるのかは分からない。でも、サイと私は違う。立場も場所も同じだけど、でも違うわ」
「あたしは、目標は見えていなかった。一条のことだって忘れていた。探してもなにも見つけられなかった」
「それでも歩いたわ。ひとりでも歩き続けたわ。私は喫茶店で動かなかったけど、サイは初めから歩き続けた」

炎で表情が揺らめき踊る。コアの狂ったような笑い声は遠ざかるはずなのに途切れない。耳の中で響いてこだまして、本人のいるいないに関わらず消えない。

「一緒にしないで、共感しないで。私の孤独はサイには分からないのよ!」
「シットウ、行ったら危ない。今まであたしに言い続けたのはシットウでしょう」
「どこに逃げても同じ、街から出られない。そうでしょ。この街にいる人々は、ここにしかいられないのよ。八方ふさがりで動けない人が落ちるところがここなの」

そうじゃない。今更街から出られるなんて思っていないけど。

「今まで通りよ。さまようわ。獣がはびこる夜も、女王の魔法が届かないさいはてだろうとも私には同じよ」
「待って」

待ってもらって、それであたしはシットウをどうするつもりなのだろう。なにを言う気だったのだろう。

「どこにいてもあの人はいないのだから」

あたしを拒み、周りをすべて拒み、荒々しくスカートをひるめかせる。

足早に揺らめく道を横切る。

すれ違うように影が集まる。

オウ。

夜の中、オウの姿はさらにおぼろげで姿もろくに見えなかった。シットウには目もくれず、金の瞳はあたしを見る。

あたしは無感情に見つめ返した。ここは見通しのいい道、海は絶壁でなくゆるやかな砂丘。逃げ場はない。

死にたくはない。人ごとのように分析する。

かといっても、なにがなんでも生きのびたくもない。自分でも不思議だった。

どこを探しても一条はいない。もう会えない。そんな単純なことにあたしは絶望しているのかしら。見切りをつけているのかしら。

今のあたしを一条が見たらなんて言うかしらね。

「まだ、そこにいたのですか」

草履が砂利をかむ音。濃紫と墨色の着物が見えた。手にした日本刀は鋭く、あたしの首も簡単に切れそうだ。

大和。

「どこに行っていたの」
「こっちの言葉ですよ」

今見てもけして大柄ではない。それなのに触れれば切られそうな鋭さが全身からにじみ出ている。初めて会った時あたしを逃がすためにオウに向かって行った。戦ったのかあの後逃げたのかは分からない。少なくとも無傷で乗り切ったみたいだ。あたしが想像しているよりはるかに強いらしい。

大和の姿を確認した途端、オウは霧散した。まるで初めからいなかったかのように。何事もなかったかのような、危うい夜の中大和はあたしへ向かう。

「また、助けられた」
「それよりも」

お礼を遮られる。

「危ないです。もう夜がきた。影の生き物がうごめく時間です。危険です。とても危険です。早く安全な所へ」

安全な所。あたしは怒りも、虚しさのあまり笑いだしもしなかった。

「そんなところ、あるの」
「あります。私は知っています。連れて行きますよ」
「初めにあたしを、この街で見つけたのも大和だったわよね」

確認するでもなくあたしは覚えている。とおりゃんせ、とおりゃんせ。童謡が聞こえる無限の交差点だった。

「それがなんなのですか、早く」
「シットウがべたほめして、市長も一目置く不死者。大和は何者なの」

街について学んだことがある。ここはだれもかも、なにかを抱えた人ばかりだ。大なり小なりの差があれど、あたしを含めてみんなが。

「慎重に行動することを学んだわ。ずばり質問することも。言ってみて。大和は何者なの」
「私は」

大和は呆気にとられたが、それでも答えた。

「私は、街です」
「街?」
「サイはここがどのような場所か分かっているのですか」

この街について。大体分かったし、まだなにも分かっていない。

「架空の街、黄昏と夜の世界。魔法と異能力と狂気の都市。ここは夢だ。夢でできた現実です」
「夢。そんなはずはない。人は死ぬのよ」
「架空の現実です。あるいは共有夢でできた世界であるとも。こうとも言える。ひとりひとりの影や思考のかけらをかき集めて成立した空間です。どこにもないですしだれのものでもない。存在はして迷いこむ人はいても、けしてだれか個人の所有物ではない」

みんなで見る夢、共有する白昼夢。

「訪れる人は少ない。なにかを抱えている人ばかり。私は守る。そのような人々の手を引き、危険から守る」
「大和は案内人なの」
「違う。私は街です。あるいは街を象徴した存在。街の擬人した生き物。ここは夢だから、暗くておぼろげであやふやな空間だから。かえって象徴とシンボルであふれかえる。サイも見たように」

見た。彼岸花、白い菊、音楽、飛び去ってしまう楽譜、とおりゃんせ、携帯電話。みんな一条のいるあっち、一条が残した思い出ばかり。

とおりゃんせ、とおりゃんせ。供養をつみに参ります。

「だから安心してください、サイ。私が守ります。平和に暮らしてください。この街に生きる人々はみんな自分が嫌いです。でも私は、あなた方に好意を持っています」

あなたが街の住民でないのは分かっている。市長と同じことを大和も口にする。

「ここにきた。街にきた。ゆえに私は歓迎します。いつまでもいてください」

滑らかに大和は後ろを向いた。

「そう。私が歓迎するのはサイたちだけだ」

厳しい表情で刀を構える。夜闇、炎がきまぐれに投げかける光に照らされてだれかがくる。明かりに反射するのは金色。短く柔らかそうな体毛。おそろいの瞳があたしたちを見つめている。手には白木の杖。

「ここにあるものを盗むのが目的の、帰るつもりの侵入者は街には不要です。だれだ、どうして街に入りこんだ」
「私はグラディアーナ。あなたの知らない力によって入りこみました。どうせこの街は魔法使いなり能力者なり、不思議が一杯なのです。もうひとつ増えてもどうということはありませんよ」

刃を向けられてもグラディアーナは平気だった。あたしと向き合っていた時の方がまだ緊張していたくらいよ。

「勝手な物言いをする。そもそもこの街にサイたちを引きずりこんだのは大和でしょう。声をかけて手を引いて、問答無用にここの住民にしてしまったんだ。手を出さなければ、黙って見ていればサイは帰ったかもしれませんのに」

あたしは大和の背中を見つめる。あたしは大和に連れられたのか?

「もともとサイは街にくるはずの人ではなかった。ひねくれて視野が狭くて、一条に死なれたサイはいかにも架空都市にぴったりだ。しかし回復するはずだった。いつか日常を取り戻すはずだった。事故さえなければ、死にかけさえしなければ」
「だから、サイを奪いにきたのか」
「そうです」

グラディアーナは止まる。前かがみに身体を傾け、杖を刀のように手を構え。

幻聴が消えない。とおりゃんせとおりゃんせ、行ってはいけない、出てはいけない。

のぞきこんだら帰れない。

「必要がないわ、グラディアーナ。

あたしとグラディアーナは他人よ、ここ以外では会ったことさえないのよ。それなのにグラディアーナは帰れという。言うためだけに危険な街の、危険な夜の中戦おうなんて意味がない」

あたしがなにを言っても、大和もグラディアーナも動かない。

「大谷のため? でも大谷だって、あたしにとっての一条ほどあたしを大切に思っていないのよ」

悪いわね、大谷。あんなに心配してもらっているのに。

「あたしが死んでも大谷は平気、大谷には学校の友だちも家族だっているのよ。すぐ忘れるわ」

あたしはあたしを卑下していない、大谷を侮辱してもいない。客観的な事実だ。あたしたちは平凡な先輩後輩同士だ。大谷にとってあたしは、いなくなったからと言って世界が凍りつくほど大切な人じゃない。

「一条のためにサイはここにいる」

グラディアーナはぴしゃりと跳ねのけた。

「高校の、3年しか付き合いのなかった人間のためにここにいる。客観だけでは割り切れないということですよ。どんな人でも主観しかできないのです」
「グラディアーナが頑張る理由になっていないわ」
「主観ゆえに」

戦いの集中力をそいでいる。ようやく気づいた。大和はしかけてこないしグラディアーナも口を閉ざさない。

「正直に言いますとね、夏輝が泣こうと私にはここにくる動機にはならないのですよ。夏輝の嘆きは私の理由にはならない。ただこっちの事情がありましてね。しぶしぶきました。

あなただって大して好きではありませんよ。初めて見た印象は甘ったれて特別ぶった、どこにでもいる俗物でした。げんなりしましたよ。こんな人間のために危ない目に会うのだと思うとみるみるやる気がなくなりました」

言いたい放題じゃない。悪かったわね。どうせ人に好かれる性格じゃないわよ。

「でも気が変わりました。そそのかしてけしかけて、たまに脅しもしました。自分から捨てた記憶をたどるよう誘導しているうちにサイへの印象を変えました。

あなたがかわいそうです」

らしからぬ言葉。あたしにもグラディアーナにも。

「同情したの」
「サイの心情を理解し、助けてあげたいと思ったのです」

それを同情というのよ。あたしは腹が立たなかった。見下されるのは大嫌いなはずなのに。

「あなたはかわいそうですよ。

頼れる人も場所もなく、友人は身勝手にもひとりでいって、それなのにあなたへの救いはない。泣きたくても泣けないあなたの涙をぬぐう人はどこにもいないのですから。孤独に悪夢を歩くあなたを見て、考え方を聞いているうちに助けたくなりました」

「グラディアーナらしくない」
「あなたは私を理解していないのですよ」

猫ひげが震えた。

「自分のことだって、まるで分かっていないのです」

動いた。空を飛ぶように跳ねあがる。杖が引き抜かれ、輝く刀身が夜にきらめいた。仕込刀。

大和は死の一撃を刀で受け流す。予想よりはるかに重く、鋭い音が夜中に響き渡った。グラディアーナは止まらない。返す刀で下段から刀を振るう。引いてかわされた瞬間、グラディアーナも3歩引き、袈裟から切りかかる。大和が懐に潜りこむように身をかがめる。

グラディアーナは読んでいた。驚異的な身軽さで後ろへ飛び、回転しながら大和へ蹴りあげる。横からの一撃は浅かった。続いて胴をなぐ。早すぎて目で追いきれない。

「っ!」

息を吐いて飛ぶ。大和は追わず、グラディアーナも別の方向へ注意を払う。鞘を失った仕込刀を投げ捨て、素手で飛びかかったのは ――あたし。

反射的に頭を抱えてうずくまる。真上を重いものが通る気配が風になって肌をなでる。

目を開けたあたしが見たものは、影そのものが凝縮して形となったオウだった。いつもあたしを狙い殺そうとしている。前足は太く牙はあたしの頭を噛砕きそうな、凶暴な化け物。

巨大な獣の口を、グラディアーナは素手で押さえていた。筋肉こそついてはいるものの力強そうには見えない腕は、みるみる力負けする。

「グラディアーナ!」

殺されてしまう。グラディアーナはあくどく笑った。本心を隠し飄々と跳ねる男の凶悪さが見えた。

「逃げなさい」

笑いが顔いっぱいに広がる。口が裂けた。

「私が倒して上げます」
「やめろ!」

大和の制止は届かない。

「だから早く、お行きなさい」

変化していく。

直立する猫人間が、猛獣そのものに。

人間のように凹凸にとぼしかった顔が、鼻が盛り上がり唇が薄くなり、なくなる。しなやかで細い手足が太くなり、筋肉が猫毛の下で震える。着ているものが身体に同化していく。

グラディアーナだった、人より大きい巨大な猫は殺意あふれる叫びとともにオウへ襲いかかった。黒い霧と金色の毛が吹き荒れる。

「サイ!」

大和があたしの手首をつかんだ。

「今のうちに逃げますよ」
「待って」
「もう止められません。侵略者はともかく、影と正面からは戦えません」

有無を言わせなかった。引きずられるように立って、無理に走らせる。

頭が痛かった。静かな、死にたえたように静かだというのに思い出という名の幻聴が止まらない。とおりゃんせとおりゃんせ。初めて聞いた大和の声、携帯から聞こえる夏輝の叫び、馬鹿にしたようなグラディアーナのささやき。シットウの嘆き。一条の最期。「     」

「思い出せない」

一条はなにを言おうとしたのだろう。真夜中の公園で、白い病室で。

「どうしても思い出せない」
「サイ? なにをのん気に」

本当ね。自分ながらのんびりしすぎていると思うわ。

でも駄目だ。忘れてしまいたかった記憶、失ったままならどんなに幸せだったであろうあたしの過去、その一点だけどうしても取り戻せない。一条の本心とともに。

「大和」

命からがら逃げているというのに、あたしの声は静かだった。

「一条の家から出ようとした時、呼び止められたの。一条の親戚に」

怪訝そうに大和は足を止める。もうオウもグラディアーナの姿も見えない。闇の中潮騒だけが聞こえる。

「いとこ、だったかな。一条に似ていた。心身ともに健康というのを除けばね」

なにか言われると思ったわ。一条の家は古くて並外れた金持ちで、それゆえに普通じゃなかった。葬儀の最中あたしに向けられていた視線の冷やかだったこと。薄皮を隔てた世界をのぞくように知覚していた。

立派な庭を無感動に突っ切ろうとして呼び止められた時、てっきり金の話かと思った。

「高野さんですね」

あわてて走ってきたらしい。いとこ氏は息が荒かった。

「俺は一条匠といいます。大から話を聞いています。あ、大っていうのは大介のことです。大介の父の弟が俺の父で」

返事をしたかは覚えていない。

「なんと言ったらいいか。大介はもともと、20歳まで生きられないって言われていたんですよ。生まれつき内臓が悪かった。俺たちは分かっていたのですけど、高野さんは」
「あたしはなにも知らなかった」
「……さぞショックでしょう」

同情するように、どう接していいか分からないように戸惑う。あたしの方がよっぽど落ち着いていた。

「大介が普通の学校に入ったのは本人の希望でした。卒業する直前から悪くなって、卒業してから入院したんです。見舞いに行った時大は話してくれました。色々なことを、ほとんどがよく分からないあやふやな考えや音楽についてだったのですけど」

どこででもだれででもあの変な考え方は治らなかったのか。

「高校の話も、高野さんのことも聞いています」

いとこの匠氏はきっと誠実な人物だったのだろう。

「大介と友だちでいてくれてありがとうございました。大介は高野さんと会えて幸せだったと思います。

一条の家はなまじ古くて、血縁や伝統、しきたりがとにかく強くて変わっているんです。大介は家が好きじゃなかった。本心が分かりにくい人だったけど、なじみきれませんでした。学校に通わなかったらそんな家で一生過ごさないといけなかった。俺も大が通学するのは反対でしたけど。今はよかったと思います。随分苦しんであっけなく逝ってしまったけど、それでも幸せだったと思います」

「一条は、学校に行けて、あたしと会えてよかった」
「はい」
「あたしはどうなるの」
「えっ?」匠氏の目が丸くなる。
「だったら、あたしはどうなるのよ。

一条はいいわよ、さばさばお別れしたのだから。でもあたしはどうなるの。置いていかれた、いってしまった。一条はしたいことをして言いたいことを言ったわ。あたしはなにも言っていない。だって、だって知らなかったから。気づかなかったから」

そう、一条はいいわよ。あたしはどうすればいいの。見捨てられたあたしは、これからどう生きればいいのよ。

「あたしはこれから、どう生きろっていうの!」

匠氏は答えられなかった。

あたしはしゃがみこむ。地面に手をついて。大和にもたれない。そんなみっともないことできない。すがらないから倒れるしかない。

「一条が好きだったのですね」

そっと大和は呟いた。

「一条は、友だちだった。あたしは平凡なただの人だけど、一条は違った。正真正銘の変人で、かけがえのない人だった」

嫌っていても離れていても、それでも友だちだった。どこかで元気にやっている。そう思うだけでよかったのに。

「ねえ、大和はどうしているの?」

この街の化身、不死者に叫びを叩きつける。

「大和は長生きしているのでしょう、だれかがいなくなったら大和はどうするの、どうやってやり過ごすの、どうして生きていけるの。辛くないの、悲しくないの、苦しくないの?」
「辛いです。悲しいです。とてもしんどいです」

超越した表情であたしの悲鳴を受け止める。

「自分の人生そのものが長い葬儀です。だれも私より先に死んでしまう。今日もです、キキがなくなりました。オウに殺されました。夜の王、原始的で凶暴な存在に。彼がきた時はよく覚えています。キキは逃げてきた。周りを見ることを拒み、自分について聞くことを拒み、知覚することをなにもかも拒んだ。危険だと言ったのに聞きませんでした」
「敵討ちを考えないの」
「できる訳がありません。オウだってこの街にいるのです。私は街そのもの。住む者に憎しみを向けられるはずがない。

オウだけではありません、みんながそうです。アヤ、彼女は昔戦いに満ちた国で政治を行っていた。敵に勝利し平和が訪れたのに、失った人に捕らわれて故郷を投げ出した。コア、あの子には街と現実の差なんて意味がない。現も夢も、生死さえも区別がついてない。だから街にきました。ここ以外では生きられなかったから。イヴ市長はこの街で生まれました、ここを故郷とする唯一にして奇跡の存在、昼間の管理者。マリア女王は偉大な魔法使いです。本来とても大切な仕事があった。それなのに忘れてしまいたいことがあって、忘れたかったことさえ忘れて宮殿の奥でおびえている。シットウは、知っているでしょう。

だれもかも、欠けて痛んだ心を持つ。そういう人しか迷いこまない。サイもそうでしょう。直接の引き金は交通事故だ。でも事故にあった人は大勢いる。サイだけがここにきました。孤独で居場所がなく、友はサイの隣にはいない。そんなサイだから街は受け止めたのです」

大和は、街はあたしを許し受け入れる。狭量で平凡で、とてもつまらない人間のあたしを。

甘えればあたしは楽になるのだろうか。ようやく安らげる場所を手に入れられるのだろうか。きっと傷はいつまでも癒されず、夜におびえて眠るのだろうけど、きっと現実でも変わらないわね。

夕暮れの街、架空の都。みんなの夢から成立している都市。あたしは帰る場所を見つけたのだろうか。

一条はなんて言うのだろう。

「     」

今のあたしを見た一条はなんて言うのだろう。

「まだ」

あたしはまだ頭を押さえた。

まだだ。あたしはまだ忘れていることがある。失っているものがある。

「大和。オウも街の住民なのよね。あれにはなにが欠けているというの。なにが足りないの」

街に受け入れられたものはみんな病んだ人たちばかりよ。

「影から生まれた怪物は、なぜここにいるの」
「彼はただの怪物じゃない。あれは夜です、夜そのもの。凶暴で原始的で魔法と恐怖の源。だれもが恐れ避けるもの。人々は早く帰らないといけない。夜までに安全な家に閉じこもり、鍵をかけて布団にもぐりこまないといけない」

なぜなら夜は怖いから。厳重に閉じこめられていた無意識の底から、けれどしっかり目を開いている悪い夢と悲しい思い出が起き上がってささやく時間だから。

とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここにいてはいけないよ。

「夜の王、死と狂気の象徴。寝かしつけた気狂いは走り回り、夜の支配者に会ったら最後殺される。夜の王、無秩序な、恐ろしい存在」

昼を市長が管理し、黄昏を女王が君臨し、夜を王が跋扈する。

「あたし、オウには何回も会った。殺されそうな時もあった。今だってオウは怖い。でもあたしは忘れていない」
「なにがです」
「夜の王はあたしを殺そうとはしなかった」
「サイの運がよかったからです。キキは殺された」

幸運? 殺されたはずなのに偶然が都合よく重なったからあたしは生きているの?

「運で片付けられるのは2回までよ、偶然は2回ぐらいまではあるかもしれない。でもね、3回目ともなるともう信用できない。必然で起きているのよ」

一条がよく言っていた。けだるそうに、面白がっているかのように。

3回目は確定の目だ。注意深く見たまえ。どんな奇遇とまぐれのように見えても、3回目の繰り返しには意思が働いている。

「ましてや! 出会ったのは3回よりもずっと多いわ。それだけじゃない、夜の王が本当に凶暴で血に飢えているのなら、襲って当然どころか襲わない方がおかしい時さえあった。シットウに拒絶されて座りこんだ時よ。あの時あたしが電車に乗ったのはグラディアーナに言われたからじゃない」

夜の王が牙を向き、恐怖であたしは動いた。

「まるであたしを誘導しているみたいよ」

あたしは見逃され続けた。生き残った。理性がない獣ならありえない。

「なぜ」
「夜の王が凶暴で、近寄ってはいけない存在であることは事実ですよ」
「分かっている」
「分かっていないんです。サイ、あなたはただの女の子なのですよ。戦えない、身も守れない、それなのにまだのんきなことを言っている」
「なら分かっていないでいいわよ。夜の王の考えが知りたい。夜の象徴である存在がなにを言いたいのか聞きたい」
「好奇心ですか」

違う、とは言えなかった。どう考えても目先しか見えていない。知りたがりの言葉でしかない。会っても益はない、殺されてしまうかもしれない。

この街であたしは導かれた。何人もの案内人があたしに関わった。第一の案内人大和は街そのものだった。第二の案内人グラディアーナはここがどこか、あたしがだれかを教えた。

第三の案内人、力づくであたしを導いた夜の王は、あたしになにを伝えるつもりだったのだろう。

「サイは魔法を使えない。グラディアーナのような能力もない。戦えない、深い知識もない、運動神経は人並み、おまけに仲間も友だちもいない。

ひとりで立ち向かう気ですか。最強の夜に、勝ち目もないのに」

「戦いに行くんじゃないわ」

最後のひとりに会いに行くのよ。

「それでしたら」

今更のように、大和は刀を鞘へ収めた。

「止められませんね。行ってきてください」
「物分かりがいいのね」

力づくで止められたらあたしは敵わないのに。

「私は街です。架空の存在」

諦めたように、穏やかに和装の青年はほほ笑んだ。

「場所は人を作ります。ですが走る人間を止められる訳はありません」

そうか、あたしは納得した。

すべての人の夢のかけら。みんなのものでだれのものでもない。

架空都市。

「……大和!」

背を向け、歩くあたしは気づいて声を張り上げた。

「街はすべてを受け入れ愛する存在。大和もそうよね」
「ええ」
「辛いことでしょう」

全部を受け入れ好きになるというのは。

全てを許し、全てを愛するというのは。

「ええ」

大和はどこまでも穏やかだった。

「辛いです。とても辛いです。疲れて苦しいです。でも辛いことには慣れています。だから」

最後を聞き取ることだけは、どうしてもできなかった。