三つ首白鳥亭

−架空都市−

6.タソガレ

走ってどこに行けるのだろう。逃げるってどこに安全な場所があるのだろう。息づまるほど走って走って、やがて動けなくなってへたりこむ。空は高層ビルに覆われていて、温かい風が顔をなでる。

どうせ帰れないのだし、元いた場所まで戻ろう。

神社や猫マスターの喫茶店なら多少は安全そうだ。うろ覚えの記憶をたどり駅への道を探す。

きっと出発したことそのものが間違いだったんだ。あの時コーヒーの前でずっと座って、シットウの帰りを待っていればよかった。そうすれば危険はなく、嫌なことも思い出さず、あたし自身も死んでいるように冷静で、異端だけど特殊な人間だと思いこめたのに。異端なのに凡人だなんて救いようがないわ。

駅はまだ明るく、顔なしのっぺらぼうも駅員もいない。2両編成の電車が扉を開けておとなしくあたしを待っている。乗りこむと図ったかのように発車ベルが鳴った。

『思い出しましたか』

グラディアーナの声がする。まだ切っていなかったのね。

「あたしは高野サイ」
『ふむ』
「変人。友だちはほとんどいず、家族もいないも同然」
『ふむ』
「ここにくる直前、事故にあった。死ぬような事故だった」
『今のあなたは』
「あたしはあたしの葬式に出た。喪服を着て、あたしはぼんやりしていた」
『その時携帯電話は持っていましたか』
「携帯。あたしは携帯電話は嫌いだ。新しくて原色そのまま見たいな、黄色の電話」
『嫌いな理由は』
「急に、あたしの立場なんて気にせずかかってくるから」
『本当にその理由ですか?』

どうでもいい、本当にどうでもいいことをグラディアーナは追及する。

『嫌いと言いながらサイは持ち続けている』
「必要だから。嫌いだけど大切な電話がかかってくるから」
『どんな電話でしたか。電話の内容はなんでしたか』
「大切な内容。今すぐ伝えないといけない。なにがなんでも伝えないといけない内容」

着信音が鳴り響く。ぞっとする、不吉な調べ。空耳よ、だって今その携帯でグラディアーナと話しているもの。

電話に出てはいけない。出てしまったら。

黒い服、来客のためにきれいに掃除された大きい家。独特の静けさ、香が鼻につく。あたしはひとり立っている。

電話を取ってしまったら。

『先輩!』

空耳が明白な声になる。泣きだしそうな、きっと泣いている大谷の声。

『すぐ戻ってください先輩、一条先輩が!』
「電話に出たら」

思い出した。一番忘れていたかったことを。

「出たら、一条が死んだことを教えられるから」

初めて行った一条の家は大きかった。門構えも立派で、見かけ以上に奥行きもある。以前一条が語ったことはむしろ矮小して表現してたのだと理解する。

部屋くらいはある玄関を通過する。大きな家も大きな玄関も、ただの情報として頭で処理をした。見てもなんとも思わない。

花が一杯あふれるように詰まっていた。菊、バラ、カーネーション、かすみ草。白、白、白。白い花は黙って咲き、木箱を包み彩っていた。

一条が見たらなんて言うのだろう。ふと夢想する。「白色がもったいない、もっと大切に扱われるべきなのに」あたしには理解できない理論を繰り広げるのだろうか。笑ってなにも言わないのだろうか。

どっちにしろ、一条が口を開くことはない。

ひどく静かで、無音ではと疑うほど静かな会場からあたしは歩き去る。喪服は感情の色をみんな覆い隠しているかのようで、着ている自分が滑稽だ。

廊下は髪の毛一本落ちていない。窓の向こうに整えられた芝生と庭木、そして空が見える。もうお終いの蝉が鳴いている。おかしいわね、それなのになにも聞こえないわ。

さまよってあたしは一条の部屋に入った。だれかが一条の自室だと教えてくれたのではない。それでも間違いなく分かった。

広い和室に箪笥、勉強机、本棚が並んでいる。奥は板間になっていてピアノが置いてあった。窓は開いていてかすかに入りこむ風が涼しい。楽譜がピアノの上に散らかっている。

机の上には手を触れてさえいないような教科書が並んでいる。高校の教科書だ、あたしも同じものを使っていた。

あたしがとっくに片づけて、もうどこにあるかも覚えていないような本が、ここでは現役で置いてある。

この部屋は一条が高校生の時点で止まっていた。部屋の主ごと動かない。隅に寄せられた空っぽの車椅子に、あたしはようやく一条がこの世にいないことを理解した。

一条はいない。あたしと一緒に高校生をしていた一条はいない。

風が吹く。空虚で冷たい風が。

――元々、20まで生きられなかった。

だれかの声が風に乗る。楽譜が風にあおられ膨らみ、崩れる。

――だから気にしなくていい。

楽譜が。

声にならない悲鳴をあげて、あたしは落ちていく楽譜へ走った。風は一瞬にして強風に転じ、懐かしい筆跡の楽譜は舞って、あたしの視界一杯に埋めた。

一条!


「先輩、お久しぶりですね」

本当に久しぶりだった。大谷夏輝と会うのは。髪を茶色のクリップでまとめ、肌は健康的な小麦色に焼けている。高校の時と同じだった。明るく健全で、万人に好まれる人柄を漂わせている。

目をどこか泳がして、手持無沙汰のようにアイスコーヒーをつつく。外はまぶしい日差しであふれ、道行く人々は滴る汗をぬぐいながら歩いている。ガラス一枚隔てた店内は寒いほどで、どうも落ち着かない。

「久しぶりね」

不思議だった。大谷はこんな遠慮する人だっけ。

今東京に住んでいる大谷が、夏休みで実家に戻ったから会おうと言いだすのはおかしくもなんともない。いつものことだ。電話で話した大谷は前よりもっと行動的に活発になっているようだった。つくづくあたしとは真逆よね。よく付き合いがもっているわ。

今の大谷はどこか引いているようだった。触れたら大怪我するものを見るようにあたしに接している。

「元気そうでよかったですよ。どうしているかと思って」

大谷の手の中で氷が動く。触れ合って崩れる音が耳触りだ。

「どうしているかって、別に。学生をしてアルバイトしている」
「色々あるみたいですけど、大丈夫みたいですね」
「色々?」心当たりがない。しいて言えば家族と折り合いがつかないことかしら。うっかり口を滑らせたのをあたしはまだ後悔している。人に言うことじゃなかった。
「家とならもう関係がない。どうってことがないわ。もう顔も思い出せないくらいだしね」
「仲直りはしないんですか」
「仲直りという段階じゃないし、無理ね」

お互いの認知が先にくると思う。

「昔っからですものねぇ」
「大谷は仲がいいのでしょ、弟とは」
「ええ。秋、私たちの高校に入ったんですよ。久しぶりに会ったら背も高くなって驚きました。両親は両親で、それぞれの仕事に生きていますし、そっちはそっちでいいですよ」

大谷を見ていると、つくづく家族というものは努力と我慢で成り立っているのだなと感じる。似たような遺伝子だからと言って仲良くなれるなんてありえない。必ずだれかが歯をくいしばって、がたがたの屋台を支えている。あたしは我慢が足りなかったから一抜けした。大谷を尊敬する。

「……え〜」

またためらうようにストローをもてあそぶ。まるで火薬庫の周りをうろうろしているようだった。危ない、触れたくない。でも無視もできない。

「思ったより、落ちこんでいませんね」

うつむいて、ためらいがちにつぶやく。やっと火薬庫の扉を叩いてみたようだ。

「落ちこむって、あたしが?」

心当たりは全くない。

「なんであたしが落ちこむの。理由もないわよ」
「なんでって、あれ」
「あれってなに」

はっきりしない言い方に、あたしはいらだった。

からん。思ったより軽い音を立ててグラスが倒れる。アイスコーヒーがテーブルから滴り大谷の服に落ちる。冷たいはずなのに大谷は動かない。右手にストローを持ったまま動かない。唇がわなないた。目を開き、あたしを恐怖のまなざしで見つめている。

「……大谷?」
「先輩、知らないのですか」

後輩は火薬庫を開いた。できればやりたくなかっただろうし、大谷自身にも不意打ちだったのだろう。恐れを顔に張りつかせている。

「知らないってなにを」
「すぐY病院に行ってください」

コーヒーの水たまりに手をついて、大谷はあたしに命じた。

「すぐです、早く!」

溶けかけた氷がひとかけら、テーブルから落ちて砕けた。


無機質で人工的な白、消毒用薬品の匂い。行きかう人々の中であたしは異質だった。

まぶしくて自然に目が細まる。厳粛とも言えそうな廊下の最深に、あたしの用事がいた。

部屋の中は静かでうるさかった。ベッドの横に座っている四角い機械のうなり声が滞りなく流れる。モニターが点滅する。点滴が一滴落ちる。電子音が大きい。普通に生活していたら間違いなく気にしないデジタルは、あたしの耳に拡大して届いた。

機械は装置は点滴は、ケーブルを通して交通の着地点に届いていた。それはうっすら目を開ける。大儀そうな緩慢な動作は、すぐに顔を笑みの形にした。

「やあ、サイ」
「一条」

一条の声は昔と同じだった。

そんなはずがない。ずっと弱々しくて途切れ途切れの声でないとおかしい。それなのに何回思い返しても、憎らしいほど落ち着いた、自信にあふれ堂々とした声だった。

「久しぶりだ。高校以来か」
「……大谷から聞いたほど、悪くはなさそうね」
「ごまかさない方がいい、サイ。今の僕は無残なものだ、そうだろう」

やせ細っていた。ひとりでは立てないのだろうと思うほど。筋肉らしい筋肉はもうなく、肌は白いを通り越して土気色。血管が浮いて腕から見える。おかしそうな目は落ちくぼみ、生きていることの疲労をあたしに見せつける。

「驚かないでくれ、サイ」

一条はかすかに身じろいだ。高校生の時なら椅子に深く腰かけたであろうが、今では首を後ろに倒しただけ。空間的な余裕がないからだ、きっとそうだ。動作に必要な体力もないのだと推測することさえあたしは避けた。

「もともと分かっていたことだ。20まで生きられなかった。生まれつきだ。今こうして話していることさえ医者が見たら驚くだろう」
「生まれつきだったら、どうしてもっと安静にしなかったの」

どちらが死にかけているのか分からない声だった。

「高校なんて入らずに、旅行もしないで」
「冗談ではない。僕に一生寝たきりで過ごせと? こもって生きるのに意味はあるのか。たかだか数年を稼ぐため一生を退屈なものにする気はない」

なんて顔をしているんだ。一条は笑う。

「僕はかわいそうでも気の毒でもない。分かっていたことだし今の人生には満足している。だからサイも笑った方がいい」
「あたしは分かっていない、満足なんてしていない」

満足だなんて言える一条の気持ちが分からない。昔から心を測ることができない人だったが、もう不理解さが次元を超えている。

「公園のことを覚えているか?」

また突然話を変える。ついていけそうにない。

「寒い夜だった。3年の時だった。サイは僕の一言で、推理をしてバスが終わった道を駆けあがってきた。サイも覚えているだろう。なにせずいぶん怒っていたからな」
「試されたのが気に入らなかった」

悪い思い出としてなかったことにしたいのに鮮やかに蘇る。電車の中からどこまで行くのだろうと外を眺めた。山道を汗だくでこいだ。道を踏み外して転げ落ちて、あの時の星はきれいだった。

あの時一条は、自分の寿命がすり減っていくのを数えていたのだろうか。教室であたしに声をかけた時から、物心ついてからずっと。

あたしはなにも知らなかった。隣にいる人物の時計がどんどんこぼれ落ちていくのに気づかず、不機嫌そうに日々を過ごしていた。

「あれほど怒るとは思わなかった。僕はサイを見誤っていたらしい」
「当たり前だ、だれだって怒る」
「だがサイ、僕はサイがきて嬉しかった。サイには分からないだろうが嬉しかったんだ。自転車を引いて、合っているのかどうか自信がなさそうに歩いてきたサイを、半信半疑で僕を見つけて呆れたサイがどれほど救いか、サイは理解していないのだろう」
「……またくるから」

だからしゃべるな。

「次はちゃんと見舞いを持ってくるわ」

もう話すな。

「じゃあね、一条」

言わないでほしい。これが最期のように思い出を語るのは。

「入院していたのを言わなかったのは、僕にはもう確信があったからだ」

人の話を聞いていない。相変わらずね。

「いつかは絶対にくる。知ったらサイはくる。分かっていたから言わなかった。サイ、君はすごい。本来他人であるはずの僕にここまでの確信を持たせるのだから」
「あたし、帰る」
「思いこめたんだ。安心して思えたんだ。サイ、僕は」
「     」

聞かずにあたしは飛び出した。後ろの大谷を押しのけ、耳をふさいで。

あたしは逃げた。闇雲に走った。まるで分からない、見知らぬ土地を。人々は走るあたしを好奇心でも不審でも見ず、ただ無視する。

だれからもいないと思われているなら、ここは無人だ。目に入らないならお互い存在していないことになる。ここは空っぽの場所だ。

人気が全くない街を走って走って、狭い路地で力尽きて倒れた。視界に入る空は禍々しく、紅の絵の具をそのまままき散らしたように赤い。雲は白くて黒く、強風にうろたえうごめいている。

不安な夕方だった。孤独と恐怖を告げる空の下、あたしはへたりこんで荒い息を繰り返す。のどは乾ききっていて、唇は血の味がする。

携帯電話が鳴った。

――出てはいけない。

軽薄で単純な電子音。あたしの都合を気にしないで電話が鳴る。だれかがあたしを呼んでいる。

出てはいけない。出たら。

着信ボタンを。

「高野です」
『先輩!』

悲鳴のような大谷の声。泣いているのかもしれない。どもりつっかえ、声量だけは大きい。

『どこにいるんですか、すぐ戻ってください!』

戻る。どこへ。

『あ、あの。容態が急変して、悪くなって、それで!』

あたしは電話を取るべきではなかった。

黄色い携帯が、重力に引かれて落ちた。


黄色い携帯電話が落ちた。回転しながら反対側の座席に当たってとまる。あたしは両手で顔を覆った。

自分で自分の葬式に出られるはずがない。あの時死出の旅についたのは一条だった。あたしはそこで泣きもせず怒りもせず立っていた。

あたしは、現実のあたしは事故で死にかけている。それでさえ今の一条とは天地の差がある。まだともうの違い。

いつの間にか電車は止まっている。乗車口が開け放たれ、あたしが降りるのを辛抱強く待っている。表示板には左右の駅名のうち片方しかない。ありふれた片方だけの地名はここが終点であると言っている。

終点、行き止まり。先はなく、動けなく、ひたすらじっとしている電車。デットエンド。

いつまでもここでじっとしていたかった。座ったまま目を閉じていたかった。でも獣がくる。あたしを殺しにくる。

「大丈夫」

すがるようにつぶやく。

「あたしは大丈夫」

立ち上がる。携帯を拾う。電車から降りる。ホームは静かで無人だ。窓から見える外はビルしかなく、うんざりするほど都会だ。かすかに見える四角い空は藍色、もう夕暮れも終わりつつあるとあたしに告げる。

前を見て歩く。改札をくぐって外へ。大丈夫。あたしは歩ける。次になにをすべきか分かっている。

「だってあたしは冷静だもの。死んだように落ち着いているもの」

一条がいなくなってもあたしの生活は変わらなかった。学校とアルバイトに行ってアパートに帰る。大谷は心配してまめに電話をしたけれども、あたしはちっとも堪えていない。

「もともと卒業してから一回も会っていなかった。今更会えないからってなによ」

なんでもない。大したことではない。

「いつかは別れるのよ。だれだって知っているわ。ありふれた、よくある、当たり前のことよ」

このあたしが、それくらいで落ちこむ訳がない。常識はずれで異端で変人のあたしが。

「だから大丈夫。あたしは大丈夫」

痛みはない。痛くない。傷まない。

悼まない。

「違う」

男は否定した。

「悼めないのです」
「グラディアーナ」

黄色の猫人間は、星がない空を背中にそこにいた。手に携帯を開いたまま、耳につけたまま涼やかにあたしを見つめる。

「泣かない。嘆かない。祈らない」

携帯を閉じる。いい音がした。

「立ち止まり、同じ時間を歩まなくなった人は置いておけ。今の自分だけで精一杯なのだから」

猫のようにグラディアーナは笑う。

「しかしあなたはここにいる。理性と理屈だけで丸く収まるほど単純ではないということですよ。あなたも世界も。

思い出しましたか」

「ええ。思い出した」

目を閉じてなかったことにしたかったことをみんな思い出した。

「サイは車を避けませんでしたね」

駅前の事故の話か。グラディアーナはよく知っている。黒幕のように。

「後追いでも考えていたのですか」
「だれが!」

あたしにはあたしの人生がある。勉強もアルバイトも、他の友人も別の楽しいことだってある。一条がいない。それだけで死にたがるほどあたしは生き物としての本能を捨てていない。

ただ、あたしが今生きている世の中に執着心を感じなくなったのも確かだ。一条さえ手放したこの世に、あたしは見切りをつけた。

「一条は変人だった」
「ええ」
「あたしだってひねくれていてはぐれ者だけど、それでもありきたりで平凡な、ただの人だ。

一条は違った。本物の変人奇人で、かけがえのない人だった」

それなのに。どうしてあたしが生きていて一条がいないの。もう帰ってこない。話さない。笑わない。一条は灰になって煙になって、もういない。

「あたしは残された。置いていかれた。見捨てられた。この灰色の、八方ふさがりで絶望的な場所から」
「サイは残された。あるのは寂寥と喪失だけですか」

あたしに未来はない。

進む道は見えない。

待つ人はいない。

横にいた友は、いつの間にかいなくなった。

帰るべき場所はなく、あたしに価値はない。

「せめて、この街にくる前に救いがあればよかったのですけどね」

初めてなぐさめられた。見上げたグラディアーナは困ったようだった。猫の困った顔は初めて見た。

「サイ。あなたは傷ついているのですよ。平気なようにふるまっていても傷はざっくりとえぐれ、見えない血が流れています。緩やかに死に到る怪我です。

それなのに助けはなかった。あなたの涙を受け止める手はどこからもこなかった」

「そうでもない。大谷は心配してくれたわ」
「届かなかった。痛手の深さを夏輝は見誤っていたのです」
「せっかく気にかけてもらったのにね。大谷がかわいそうだわ、こんなあたしで」
「あなたが気にすることではない。だれのせいでもない。どうすることもできません。夏輝は心から心配している。でもあなたに届かないからといって、サイが悪いのではないのです」
「あなたはだれよ」

あたしが思い描いているように冷静で、なにもかも知っている猫人間。何回も繰り返した質問をあたしは唱える。

「グラディアーナ。立場はあなたとほぼ同じ。日本にいるものです。少し変わっていましてね、夢や幻に介入して、中で自由に遊ぶことができるのです。あなたと違って、ここにいる全員とは違って自主的にきました」
「こんな街になんの用よ」
「決まっているじゃないですか。あなたを連れ戻すためですよ。架空の街からあなたが生きている日本へ」

連れ戻す。

帰るってどこへ。あたしに帰る家はない。

「実を言いますけどね」

グラディアーナは外国人のように肩をすくめる。

「私、大谷夏輝の知り合いでして」
「は?」

大谷の顔が広いのは知っていたけど、超能力者の知り合いがいるほどなんて知らなかったわよ。

「いえいえ、夏輝は私の正体を知りませんよ」

あたしの心を読んだかのような、一瞬の否定だった。あたしよっぽど分かりやすい顔をしていたのね。

「直接の友人ではありません、知り合いの知り合いです。夏輝は私の正体を知りませんよ。ちょっと変な人扱いです。さすが変人慣れしていますよ」

あたしへの当てつけかしら。

「初めからサイのことはよく知っていました。知った上で自分から思い出すように仕向けたのです。夜が近いから焦りました」

帰りましょう。グラディアーナはあたしに手を差し伸べる。

「この街は、あなたがいるべき世界ではありません。夏輝が泣いて待っていますよ」

帰る。現実へ。悪夢から逃げて、もとのアパートへ。グラディアーナの手は猫人間らしく毛むくじゃらだった。爪や手の関節は猫人間そのままで、グラディアーナの中途半端な立ち位置を示している。

この手を取ればあたしは帰る。おびえて逃げ惑うこともない。さまようこともない。

もう夜におびえずに、あたしは帰る。

待て。

あたしは気づいた。

ここは行き止まりの街だ。奇人変人、どうしようもなしが集まる街、生死の境を見失った場所。

「ここなら、この変人が集まる街なら、こんなに生死が曖昧な場所だったら、一条だってどこかにいる」
「え?」

グラディアーナが驚く。あたしは自分の発見に夢中になった。そうよ、なんで気づかなかったの。ここでは死んでいる死んでいないは関係ない。ただ変な人がいる。そして一条なら、あたしの知っている最大の変人一条なら、ここにいないはずがない。

「なにを言っているのです、正気に戻りなさい!」

なんで気がつかなかったのだろう、ここのどこかに、一条がいる!

「一条!」

肩をつかむ手を振り払った。

「一条、どこなの!」

走った。グラディアーナがなにか叫んだけど聞こえない。

ここのどこかに一条がいる。一条があたしを待っている。冬の公園であたしに助けを求めている!

「一条!」

どこ、どこにいるの一条。あたしはきたわよ。夜中の公園のように、またあたしはきたわ。

「あたしはここだ、一条!」

一条、すごいでしょう。あたし、あなたを助けるためにここまできたのよ。県を超えた山の中なんて目じゃないわ。ここは日本でも、地球のどこかでさえない。夢の国、悪夢の都市。

「あたしよ、高野サイよ!」

全く世話がやけるわよ。卒業しても、さよならしてもあたしをこうして走りまわらせるなんて。

「一条!」

息が苦しいのは叫びながら走っているから。全身痛いのは落ちたり打ったりろくな目に会っていないから。苦しくて辛くてやりきれない。

その上であたしは走る。じっとしていられない。名前を呼んで、動くものない路地を見渡して、最後の街灯が点滅している外側へ。伸ばした手さえも見えない外へ飛び出していく。

探さずにはいられない。あたしはそのためにここにいるのだから。常識と理性を置き去りにしてここまできた。探してみせる。なにがあっても、なにをなくさないといけなくても。

「一条」

日に当たったことがなさそうな白い肌。ぱさついて光沢のない髪、背は低くはなかったけど小さな背中。視線はいつもどこかずれていて、とっぴな発想ばかりだった。なにかを面白がる時は猫みたいに笑った。

「一……条」

階段を駆け下り、ビル横のどこまでも続く道を走って、だれもなにもない街を探す。直線のはずだった道路があたしの前で回る。喘息のような息使いはあたしののどからだ。

足が痛い、呼吸がつっかえる。流れるようだった風景の動きが鈍い。

行かないと、探さないと、見つけないと。

――一条!

つま先に重くなにかが引っ掛かる。回ってゆがんでいた視界が落下し、あたしは無様に転んだ。頬に砂利がめりこむ、舗装された地面は冷たくて、熱を帯びた身体に気持ちがいい。

視線を向けているままに焦点を結ぶと海が見えた。穏やかで、波角は本当に小さく、鉛色の海面はそのまま歩けそうなほど滑らかだった。潮騒が聞こえる。

あたし、こんなところでなにをやっているのだろう。

どことも知らないところで、助けの手を振り払って死者の名を呼び続ける。まるきり馬鹿だ。いいや、正気とさえ思えない。

こんなにあたしは知恵もなく、浅はかで短絡的だった。それで冷静で知恵ものぶっていたのね。自分のことながら笑っちゃうわ。こんな今さら、土壇場で気づくなんて本当に救いがたい。

「っ、はあ」

呼吸が戻らない。元に定まらない。そもそも呼吸はどうやってするものだっけ。足がしびれるように痛い。倒れたまま動けない。

「一条」

恨みごとが、思わずこぼれた。

「こんなに探しているのに、一条ってばどこにもいない」