三つ首白鳥亭

−架空都市−

5.デットエンド

「一条はあの時とても嬉しそうだった。イヴ市長と同じように満足していた」

シットウには訳の分からない話だったろうな。礼儀正しく口を閉じてあたしについてきている。シットウは服も靴も真っ黒で、薄暗い街に溶けて消えてしまいそうだった。

「高校ももう3学期に入っていて、3年生は通う必要がなかった。学校に行かずに受験して、そのままあたしは卒業した。あの冬以来一条には会っていない」

懐かしいと言うには傷が多い思い出だ。今更ながらに腹が立つ。

あたしが相手をどう思っていようと、そんなこと相手には関係がない。相手の感情なんて操れない以上、どう思われていようと仕方がない。理屈としては分かっている、それなのに信じられていなかったことが悔しい。

なんて思い出よ。永遠に一条ごと忘れていればよかった。

これだけじゃない。この街にきてからというものの、高校の頃、一条のことばかり思い出す。

まさか。

「あたしがここにいるの、一条のせいじゃないわよね」

ありえない、とは言い切れないわ。グラディアーナみたいな「その手の能力」があるなんて人もいるのだもの。あたしの知っている一条は超能力者じゃないけれど、確実なことなんてなにもない。

「だったら絶対に許さない」
「落ち着いてよサイ、なにを言っているのかよく分からないけど、まだ想像の範囲なのだからさ。勝手に考えて勝手に決めつけるのは良くないわよ」

シットウがたしなめた。

「今までどこに行っていたの?」
「電車で都庁へ行っていた」

あたしははたと気づいた。

「シットウ、女王って知っている?」
「知っているわよ。宮殿にいらっしゃるわ。ああそうか、だから向かっていたのね、どこに行くつもりだったか分からなかったのよ」

もちろんあたしは向かっていない。大雑把な方角が偶然一致しただけだった。聞いてみるとさらに歩いて30分はかかるらしい。

「女王はどんな人?」
「とてもすごいお方よ。全知で分からないことはない。強力な魔力でなんでもできる」
「魔法?」

今更だけど、とうとう魔法まで出たのか。むしろ今まで聞かなかった方がおかしかったのかもね。影に潜る獣に不老不死の和服男、今まで出会った変なものに比べたら魔法なんてかえってありふれた、珍しくもすごくもないもののように見える。

「女王に会ってどうするの?」
「知りたいことがあって」

もう何回も繰り返した言葉をまた言う。惰性で、人に言われたから。そう返事するよりはまだいい。

あたしはどこに向かっているのだろう。なにを求めているのだろう。

「シットウはなんでここにいるの?」
「え?」

笑みまじりに朗らかに答える。

「大和を探しているのよ」
「その前、なんでシットウはこの街にいるの。昔はどこにいたの」

この街に市民はいない、市長以外は。裸足のイヴ市長から聞かされた言葉をまだ覚えている。

「なんでって」

笑顔はこわばった。

「……あまり、聞かないでほしいわ、そういうことは。ここにいる人たちはみんな訳があっているのよ。そっとして」
「ああ、そうなの」

確かにみんな訳ありだ。シットウさえも。

女王に会って解決するのだろうか。

しないだろう。教えてもらってそれでお終い、とはいきそうにない。そもそもあたしが望んでいるのかさえ分からない。ただ動いているだけだ。

一条ならこんな時どうしたのだろうか。考えてもまるで思いつかず、面白がっている笑みしか浮かばない。


見たことがない宮殿だった。

材質の分からない桃色のタイルで壁も床も敷きつめている。珍しい石をどこからか発掘したのか、近代技術の粋をつくして合成した石なのかは分からない。近代的な建物を近寄らせることは許さず、周囲に他の建物がないせいでせいぜい3階ぐらいの高さなのに大きく見える。庭は光から湧きあがってくるような小さな噴水が音もなく水を流し、川底は丸い石が敷きつめられていた。

不思議な宮殿だ。現実ではありえない夢の城。

どちらかというと悪い夢のようね。なんで小中学生のころならいざ知らず、20過ぎてからメルヘンまっしぐらの宮殿を見ないといけないの。もっとも小学生の時点であたしはおとぎ話とは無縁だったけど。

宮殿の規模の割に門は小さく、桃色の衣装を着た男が門番をしていた。大きなとんがり帽子とポンチョを着た男が3人。3つ子のように同じ体格で、半分顔が隠れる仮面とも相まって同一人物としか見えない。

「ここに女王がいらっしゃるわ」

シットウが言わずもがなの説明をする。

「入れてくれるのかしら」
「さあ。でもきちんと言えば大丈夫よ。きっと。サイにはれっきとした用事があるのだし」

用事はあるけれども必然性がないのよね。

断られたらそれはその時。意を決して桃色の番人へ歩いた。

「合図の言葉を」

入れてほしいとぎこちなく伝えたあたしたちへの返事だった。

「合言葉?」

つまみだされるか、運よく入れてもらえると思ったあたしは面食らう。

「あたしはここに初めてきた人間で、無礼は承知で入れてほしいと言っているのよ、合言葉と言われても分からないわ」
「合図の言葉を」

番人は機械のように繰り返す。仮面が顔に張りついているかのように感情が見えない。遠回りに帰れと言われているのかしら。そんなことしなくても追い出したって非難されないわよ。

「シットウ、分かる?」
「分からないわ」
「宮殿に入ったことがある?」
「ない。ほとんどの人が入れないのよ。入ったことがあるのは大和と市長だけ。門番に話しかけた事さえ初めてだわ」

参考にならない。合言葉ってなに。

特定の言葉、敵か味方かを区別する単語、選ばれた人物のみを通すため、あらかじめ決められている合図。

なにも思いつかない。それっぽい単語を適当に言ってみようか。

「マリア女王。大和、グラディアーナ」

反応がない。

「風車、猫人間、彼岸花、白菊、夜、黄昏、夢。……一条」

全く反応がない。

「せめてヒントだけでももらえない?」

あたしは焦った。いらだったともいう。このままでは一日中立っていたって入れない。

「あたし、遊びにきたのじゃないわ。女王に会いにきたの、宮殿に入れてほしいのよ。あたしの問題は女王と面談してどうにかなるものではないかもしれない。でも今のあたしには選ぶ手段さえ分かっていないの。言葉遊びをいつまでもやっている訳にはいかないのよ」
「3回」

右の男が厳かにつぶやく。

「3回繰り返した」

左の男が恭しく唱える。

「3回の繰り返し。これこそが合図の言葉」

正面の男が横に動く。背中に隠れていた淡い桃色の門があたしに開かれる。

「ごきげんよう、高野サイ。女王はサイにお会いする」

3人はあたしに伝えた。


黒がかった桃色の床はよく磨きこまれていて、あたしの姿が映った。天井は高く天窓は大きく、こんな夜みたいな曇天でなければ光が降り注いできれいだろう。

あたしはひとりだった。入ることを許されたのは3回繰り返したあたしのみ、シットウは外で待っている。

大股で歩く。宮殿の廊下に人影はない。過去か未来か分からない回廊に、あたしの姿はいかにも不釣り合いで滑稽だった。女王に会ったらなんて言おうかしら。礼儀作法の心得なんてないわよ。

廊下の終着点は玉座の間だった。かすかに桃色がかった紅のじゅうたんが敷きつめられている先に、女性がいた。椅子そのものが宝石とみまごうばかりの輝く玉座に腰かけている。周りには不格好なフェイスマスクをかぶった子供たちが数人、好き勝手に遊んでいた。

あの人が黄昏の女王。

意外だった。女王というからには威厳たっぷりの、豪華絢爛な人物を想像していたのに。

柔らかいピンクのドレスは一般的な範囲でしか飾りはなく、年齢不詳の顔立ちはか弱くはかない。自分の存在自身に自信がなさそうな、不安そうな顔をしていた。前評判では偉大な魔法使い、なんでも知っていてだれからも尊敬されるすごい人物だと聞いていたのに。

「黄昏の女王?」
「高野サイですね」

強張って青ざめた表情で、女王はあたしへ呼びかけた。

「ようこそ、あたくしの元へ。真実の探究者よ」

あたしの名前も、事情も知っている。話は早い。どうやったのかなんて問いは無視をすることにした。魔法とかテレパシーとか、説明しようもない方法なのでしょう。

「真実を探すなんて大げさなことはしていないけど、聞きたいことがあるの。ここはどこ、なぜあたしはここにいるの。あたしは今生きているの。グラディアーナという猫を知っている? ……この街はなに」
「ごめんなさい、サイ」

女王は力なく首を振った。

「答えることができない。どうしても思い出せないの」
「思い出せない!?」

聞いたことは信じられなかった。それじゃあいくら全知でも意味がない!

「なんでよ!」

思わず突っかかった。

「記憶喪失なの、全部忘れるなんておかしいわよ。どうして、そんなことになったの!」
「怖いことがあったの」

代わりに口を開いたのは子供だった。大きく、ねじれたようなフェイスマスクを取らずに話しているので、フェイスマスクと話しているようで気味が悪い。気づけば子供たちは手を止めてあたしを見ている。あたしはひるんだ。

「女王様はとても怖いことがあったの。だからもう、なにも覚えたくないの」

怖いこと。

「でも、ならはるばるきた人はどうなるの。答えを求めている人は女王の怖がりに付き合わされるの」

口とは裏腹に、あたしは女王の気持ちを理解していた。

よほど嫌なことがあったんだ。覚えているならもう生き続けられないほどの。だから目を閉じなかったことにした。

「そんなの、逃げているだけよ。逃避だわ」

逃げずにはいられなかった。立ち向かうにはあまりにも深くつらく悲しくて、自分で抱き続けられなかった。耐えられなかった。

「なら、だれが答えを持っているのよ」

だからあたしは自分の持つ答えを見つけられない。

回り廻った思考の着地点に、あたしは口元を押さえ後じさった。

今あたしはなんて考えた。「だから見つけられない」あたしも覚えていたら生きていくのが嫌になるようなことがあって、それで忘れたの?

初めてここにいた時のあたしは、自分が何者なのか、昨日までなにをしていたのかを見失っていた。やがて少しずつ思い出した、自分の性格、どういう人間だったか、高校生だった時、事故について。死出に向かっているはずのあたし。

まだあたしは肝心なことを失っているのだろうか。自分から忘れたことがあるのだろうか。

あたしは震える。それはなに。意識して忘れたことってどんなこと。

幻聴が聞こえる。携帯の着信音、機械的なメロディだ。携帯電話が嫌いだ。人を束縛する。かすかにだれかの声がする。だれだ。グラディアーナか。

あたしはなににおびえているの。

「聞こえた?」

女王は厳かに、重々しく告げる。あたしは我に返った。

あたしの前にいたのは弱々しくおびえる女性ではなかった。威厳ある黄昏の女王、宮殿の支配者だった。鋼のような面持ちはあたしを問いつめている。

「帰りなさい。架空の街、傷だらけの都市から。もうすぐ夜がくる。あたくしの魔力も及ばない夜がくる。おびえて震えながら眠りなさい」

「ああ、お帰り」

健気にもシットウは門の前で待っていた。夕闇の中、ようやく街灯が照らされて、柔らかい明かりを投げている。黒づくめのシットウは溶けてしまうようだった。

「どうだった。女王と話してなにか分かった?」
「……冗談じゃ」
「え」

困惑したように首を傾ける。

「冗談じゃないわ。ここは行き詰まりよ、行き止まりの街よ。悲しくて苦しくて息が詰まって、もうどこにも行けない、行く力がない人間の街だ。街全体で絶望して青ざめて立ちつくしているような街なんだ!」
「サイ?」
「なぜよ、なんであたしがここにいるの。この街にいるの、なぜ」
「サイ、サイ。どうしたの、なにを言われたの、しっかりして」

シットウがあたしをゆする。あたしは血走った、狂おしい目で見返した。

「シットウは」
「え」
「シットウは、どんな傷を抱えているの。さあ言ってみてよ。あたしはもう平気だ、開き直った。シットウの不幸を洗いざらい言ってみなさいよ!」

今まで振り回されるばかりだったシットウは凍りついたように目を開いた。

「聞きたいの?」

一瞬後悔した。後悔したけど引かずに挑発する。

「言ってみて」
「死んだのよ」

単純にして明快、すべての可能性を切り捨てる言葉だった。

「愛した人が死んだの。私を置いて。だから私はこの街にいるの」

黒づくの服は喪服で、穏やかな笑顔は表面だった。

「それが理由?」
「これが理由」
「それは」

特別な理由ではない。はっきり言えばよくあることだ。だれだって生きていれば死者に会う。それだけでシットウはここにいるの。心までか弱いのかしら。

「分かる」

思考とは裏腹に、あたしは肯定した。

「よく分かるわ、シットウの気持ち。黙っていってしまうのは辛いわよね。あんなに一緒で、よく話して、怒ったり笑ったりしたのに。いきなりあたしの前から去ってしまうのよ」
「私はひとりきりにされた。なにも残らなかった」
「どう反応していいのか分からなくて、怒りも悲しみも出てこなくて、ただ慣習的に日々を過ごすのよ。もう歩き方も、今までの生き方も分からないというのに」
「ひどいわ。あの人は笑って去ったけど、私はどうなるの。これらどうすればいいの。好きだったのよ、あの人が。笑い方、歩いて私のところまでくる姿。嫌なところまで含めて大好きだったのよ。それなのに置き去りにされたわ」

携帯電話が鳴る。

違う、耳鳴りよ。大嫌いな携帯電話は水に浸かって壊れた。だから鳴るはずがない。

真新しい電話、青ざめた表情、白菊、色鮮やかな彼岸花。部屋の主がいなくなれば時間は止まる。彼は穏やかにそこにいるのに、あたしはなにもかも麻痺させて立っているだけ。

目を閉じて、耳を両手でふさいだ。そんなことをすれば危険だと分かっているのに。

考えるな、考えてはいけない。電話を取ってはいけない。考えてしまったら。

「違う」

シットウはあたしを突き飛ばした。腕力こそ弱く、あたしはよろけただけだけど行動そのものに意表を突かれる。

「違うわ。分かるなんて嘘ばっかり」
「シットウ」
「だってサイにはまだ友だちがいるじゃない。構う人も電話をかける人も、サイのためにここまできた人も。私にはいないわ。みんなが私を嫌っている。私にとって救いはあの人だけ、キュウキだけだったのよ。サイはまだいいわよ、助けてくれる人がいて。私にはいない!」

シットウは口を閉じ、背中を向けた。走っていく後姿だけでは怒っているのか狂ったような笑みを浮かべているのか、あたしには分からない。


電話は鳴り続けている。あたしのあてにならない正気を繋ぎとめるように、吠えてわめいてかじりつくように。

電話に出てはいけないのに。

長い長いコール音に、あたしは震えながら手を伸ばす。

「グラディアーナ」
『当たりです』

金色の猫人間は明朗だった。

『いかがですか、気分は』

なにもかも知っている癖に改めて問いかける、意地の悪さを見た。

「もういい」
『おや』
「もういいわ、放っておいてよ」
『意気地のないことです。臆したのですか』
「そうよ」

認める、あたしは臆病で、知恵も行動力もないただの人だ。大手を振って白旗を掲げてやる。

「もういいでしょう。こんな街嫌いだ。大嫌いだ。住んでいる人も、ビルもうんざりだ」
『だからなんです』
「歩きたくない、だれにも会いたくない。どこか物陰に隠れてじっとする」
『夜がきますよ』
「だから、なによ!」

声を荒げた。

「だれもかれも、夜、夜、夜! なによ、夜がきたってそれがどうしたの。夜が怖いのは子供の時だけ」
『夜は恐ろしい時間です。魔術と影の時間。今は黄昏、逢魔が時です。影が目覚め、通りすぎる人の顔も分からない夕闇、二度と会えない人とすれ違う時。でもまだいいのです。半分昼なのですから。夜は違う。理性と法律が消え去り、人はおびえて家へ逃げ帰る時間だ。帰りなさい、サイ。帰るべき場所へ』
「あたしに帰るべき家はない。安らぐ場所はない。居場所はない。あるのはかりそめの、安っぽい借家だけ」
『立ちなさい、サイ』

グラディアーナは厳しく言った。

『甘えた言い訳はいりません。立って歩きなさい、サイ。夜がくる前に』
「放っておいて」
『歩かないと死にますよ、あの聞き手のように。キキのように』
「分かっている」
『いいえ、分かっていない。あなたは分かっていない。なにひとつとして分かっていないのです』

グラディアーナの声が高くなった。あたしはもうどうでもいい。携帯を切ろうと指を伸ばす。

揺れた。顔を上げる。

無数の虫のような影が集まり形を作って獣の姿をとる。獰猛な牙、闇に光る金の瞳。猫科の凶暴な人殺し。恐れが喉を駆けあがり舌をしびれさせる。だらりと垂れた腕の先では、携帯電話に姿を変えたグラディアーナの声が続く。

『いいですか、聞きなさい。あなたは今まで目を閉じ耳をふさいで、キキのように生きてきたのです。嫌なことを知らないようにして、都合のいいものばかり選んで。ぬくぬく甘やかされて生きてきたのです』

後ずさる。まだ自分が動くことができたとは。オウから目を離せない。離した瞬間襲われる。

『この街ではだめです。ここは安全な街ではないのです。不注意には落とし穴が、盲目には死が与えられるのです。例えどこかの小部屋に逃げこんでも、四方の壁と白々しい明かりに安心して座りこんでもオウの妨げにはなりません。壁を破り夜を引き連れ、驚くサイを殺すでしょう。立ちなさい、行きなさい。全力で行動しなさい』
「怖いのよ」
『あなたの意見なんて聞いていません』

自分でも聞こえないほどかすかなつぶやきだったというのに、よく聞こえたものだ。

『私は命じているのですよ。あなたが嫌だろうとなんだろうと、そんなことは知ったことではないのです』

オウが動く、太い前足があたしへ一歩。あたしは身を引き、よじる。背を向けるだけの行動が、どれだけ時間がかかったか。

『さあ、早く』

あたしは走り出す。

『夜がきますよ』

大股で、全力で。本能的な恐怖から逃げ出す。

『その前に帰るのです』

オウは追ってこなかった。静かにあたしを見つめている。あたしの視界がオウを追えなくなった後も、ずっとずっと。