三つ首白鳥亭

−架空都市−

4.ラビリンス

電車は混んでいた。

運転手も乗客もまともな人間ではない。背が高く、つるりとした黒タール製の人形のようだった。思い思いに座席に座っていたり立っている中をかきわけて車内に入る。壁に寄りかかってまずしたことは、携帯の着信履歴を見ることだった。

グラディアーナの番号は残っていなかった。どんな魔法を使ったのかしら。

流れる風景は背に海、反対側の正面には白く塗り固められ埋められた壁だった。電車はひどくゆっくりと、自転車にさえ負けそうな速度で海岸を走る。

海を見ながらあたしはまた思い出していた。さっきのグラディアーナに言われた事故の記憶や電話相手ではない。また高校の時のことだ。

こうして考えるとさっきから高校を思い出してばかりね。なぜかしら。

たぶん、ようやくあたしは高校で排除されなくなったからだ。中学までのあたしは嫌われっぱなしの駄目な子みたいだけど、間違っていないのよね。学校でも家庭でもあたしは協調性のない変人だったわ。高校でようやく一条のようなあたし以上の奇人や、変でも気にしない人を知った。

あたしが死んだら、あの人たちは葬式に出るかしら。夢想する。

あたしの葬式はきっと人が少ないわ。下手すれば引き取り手がいなく、市役所辺りで血縁者なしとして処分されるのかも。意地の悪い想像に苦笑する。

それで一条はどうするのかしら。喪服を着て香典を持ってくるのかしら。泣くかしら。まさか、思いつかない。

夢想ここまで。あたしは考えを断ち切った。

グラディアーナは言ったわ。ここは死後の世界ではない。あたしも死んでいない。持ち出した理屈は筋が通っていた。あたしがあたしの埋葬を見られる訳がない。

ならあたしの脳裏にはっきり映っているのはなんなのだろう。鮮明すぎるほどよく覚えている。テレビや写真ではない、実体験よ。自分の目で見て、なにかの感情とともに刻みつけた。

逆に迫るライトの方がよほど現実味がなかったわね。耳つんざく音も自分がばらばらになったであろう衝撃も一回転して黒く沈んだ視界もみんな他人から聞いたことのように実感がない。生々しさからしてあたしが体験したことなのだろうけどさ。

車がきてもあたしは動かなかった。驚いたから? もちろんそれはある。だれだって想像だにしないわよ。自分めがけて車が突っこんでくるなんて。

あたしは立ち止った。止まった思考の次になにを思い描いたのだっけ。

車が突っこんで、あたしは驚いた。驚いたけど人でなしなほど冷静なあたしだ。すぐに冷めて、次に一秒以下の時間で考えたのは。

諦めだった。

あ、あたしは死んだな。この速度で正面衝突、生きられない。

仕方がないか。相手は車だもの。じたばたしても無駄、おとなしく死んでおこう。

あたしは頭を抱えてうずくまった。自分の思考方向にめまいがしてきたわ。

あたし、ここまで無気力な人間だったっけ? 落ち着いているのにも程があるわよ。我ながらもう少し惜しまなかったのかしら。味気のない、愛されてもいない生涯だったけど、それでも少しはいいことも楽しみもあったのよ。

生死に関わらず、あたしがここでどうするかは見通しが立っていない。これからどうしよう、どこへ行こう。グラディアーナを探すのかしら。またはぐらかされて逃げられるかもね。じっとしていると夜になるわ。夜になったからなんなのだろう。

子供の頃は夜が怖かった。家に帰りたくなくてずっと外にいたけれども、暗くなるのが嫌だった。だれも歩いていない夜道を歩くのが、今としては滑稽に思えるほどおどおどしていたっけ。

この年になってもう夜など怖くない。暗いからってなに。でもここで会う人会う人だれもが夜の訪れにおびえている。なにかが起こるのかもね。夜がくれば事態が変わるかもしれないけど、あたしに立ち向かえるとは思えない。次の手が見えないわ。

自動的に扉が開き、無表情な人々が出てくる。気がつくと近代的な駅の中だった。線路は突き当たっている。考えている間に終点に着いたらしい。

降りようとした瞬間、あたしは自分に嫌悪感を抱いた。

どうしてここまであたしは落ち着いているんだろう。どうして泣いたりパニックを起こしたり、まっとうな反応ができないのだろう。猫マスターが分かるわ。生きているころからあたしは死んでいるようよ。

「大谷もかわいそうに」

しみじみ同情した。こんなあたしと付き合っていた人たちがかわいそうだ。あたしがこんなに変人でかわいそう。

言ってから思い出す。大谷? だれだろう。

「確か、大谷夏輝」

そうだ。思い出した。大谷夏輝。あたしの高校時代の後輩。最期の電話相手。歩きながら顔を見ずに話していたのは大谷だった。やけに明るく前向きで、なんでもやってみる挑戦心にあふれた女の子。

大谷はどう思うかしら。電話相手が事故に巻きこまれてショックを受けるかもね。少しだけ気の毒だった。


風が強かった。降りたとたん常に吹いているらしい強風によろめきそうになる。人工物の中に吹くビル風は生暖かく、不安をかきたてる。

人々が向う方向につられて歩くと自動改札口だった。切符を渡すでもカードを通すでもなく通過できた。駅員はいない。

あたしはどうしよう。改札口の端、普通なら駅員がいる道を抜ける。

階段を登りきると高層ビルに囲まれ狭くなった空が見えた。雲は厚く光をほとんど通さず、今が何時なのかまるで分からせない。雑草一本許さず、どこまでも清潔に覆い隠している。

一緒に歩いて行った人たちは一番高いビルの中へ吸いこまれていく。順序良く並び、とてもおとなしく。ビルをのぞきこむと設置したばかりのような受付机に女性が寄りかかって列を見ていた。燕尾服を第一ボタンまでしめてきっちり着ている。そのくせ降ろしている髪は長く、裸足だった。

あたしが気付いたのと同時に女性も気づき、すかさず駆け寄ってきた。

「ようこそ都庁へ! 私はイヴ市長。ご用件は?」

都庁? この60階は優にある、巨大なビルが。見渡すも看板の類は一切ない。

「用件は」

あるようなないような。やるべきこと、分からないことはたくさんある。それしかないといってもいい。でもなにからやるべきかは分からない。

「ここはどこ」

一番曖昧で答えにくいところから聞いてしまった。

「ここは都庁。街の行政機関、都市の中核。この街を動かす場所だ」
「違うわ。この街はなに、どんな場所。市の名前は」
「名前はない」

余裕のある態度だった。

「ここは唯一の都市でただひとつの場所だ。名前をつけて区別する意味がない。他の都市はない」
「その、こことはどこ」
「こことは地域、空間、辺り一帯のこと。あなたはどこからきた?」
「現実の日本から」
「あなたの答えそのものが回答を含んでいる。あなたはこの都市が現実ではないと考えているのだろう」

そうだ。その通り。当り前じゃないか。

「それでは答えられない。私にとっては唯一の都市で、私の市なのにあなたは空想の世界だという。あなたの望む答えは出せそうにない」
「分からないというの」
「あなたが見つけるしかないということだ、旅行者」
「分からなかった。今まで探し歩き回ったのに」
「本当に探したのか?」

率直な言い方だった。

「本当に探したのか? 行き当たりばったり、手当たりしだいに歩いてきただけじゃないのか? きちんと目的を持って計画を立てたか? 人に言われるまま流されてないか?」

流されていた。

行き当たりばったり、おもむくままなりゆきまかせにあたしは行動していた。

「仕方がなかったのよ」あたしは言い訳をする。
「目的があったとしても、目の前に肉食獣が現れたら逃げるしかない」

言い訳にしか過ぎないことをあたしは知っていた。指摘されるまでもない、あたしは考えることをしなかった。落ち着いて冷静に観察していたけど、それだけだった。

落ち着いていた?

あたしは落ち着いていたのではない。混乱していて、どうすればいいのか分からなかったんだ。筋道立った考えをせずに、なぜなぜと繰り返していた。

混乱しても無理のない状況だ。むしろ普通ならそうする。でもあたしは冷静なはずだった。死んでいるように冷静だ。なににも動揺しないといわれている、沈着冷静、非人間的なほど落ち着いているはずだったのに。

「それもしょうがないな」

市長はあっさり肯定した。

「この街は危険が多い。普通の人なら仕方がない」

つまるところあたしも普通の人間だったということだ。どんなに変人と言われて排除され続けても、一皮むけば隣で笑いざわめく人々と同じ。

「いいじゃない。変人は一条だけで十分よ」

呟いたのは今のあたしか、それとも高校生だったあたしが思い返している言葉か。

「その通り、変人は少人数で十分だ」

イヴ市長は肩をすくめた。

「変人が多数を占めていたら、市として成立しない」

それは正しい。

意見としては。しかしながらあたしの知っている限りにおいて、この街で知り合った人々は変人ばかりだ。変人なんて言い方は生ぬるい。社会生活破綻者といった方が近い。

「街にまともな人はいるの? 会ったことがないわ」

正直にぶつけてみた。市長は動揺しない。

「彼らは市民じゃない」

よく分からなかった。

「街に滞在している人間で住民票を持ち管理されているのは私だけだ。正式な市民ではない」

それは。

「それは変よ」

あたしは反発した。それはおかしい。

「住民ひとりだけの街なんて、そんなの街じゃない。だったらここは、ビルは、電気は道路は電車は、なんのために存在しているの」
「もちろん私ひとりのためにだ」

イヴ市長は誇らしげに胸を張った。

「100階を超えるビル群もどこまでも覆う道も物言わぬ車掌によって動く電車も私のためにある。無限にあふれる動力も電気も水も私の命により運ばれて私のために使われる。街にあふれるかりそめの旅人たち迷い子たちにもちょっぴり恩恵を与えてはいるけどね。私こそが市長、唯一にして絶対の権力者、あなたのいう夢の都市を統べる存在だ」

私はあなたを歓迎する。市長は言った。

「あなたもまた市民ではなくただの迷子だということを知っている。だが異邦人よ。行きどまりの街はいつでもここにあるし、私も都庁にずっといる。訪れたくなったらいつでもきていい」

違和感を覚えた。まただ、市長は歓迎している。でも旅行者として歓迎している。迷い子なんて馬鹿にした呼び方までして。

ここはあたしの帰る場所ではない。あたしに帰る場所はない。どこでだって、だれの隣だってあたしは場違いだった。

この街があたしにとってではなく、この街の住民すべてにとってかりそめの場所だとしたら。

「街がある理由がない」

存在する理由がない。

「市長ひとりのためだとしたら、無駄に大きいし住みやすいところではない。暗いし人殺しの獣がうろついている。ひとりだけのためなら、この街は大きすぎる」
「街の存在理由なんて問いかけても意味はない。あるからあるんだ。はるか昔から都市は存在していた。私はもう顔も覚えていない前任者から引き継いで市長をしている。どこも壊れないように、とどこおりなく街が存在し続けられるように」
「何年も前から」
「何十年も前から。ひょっとしたら何百年も前から。もう忘れた。不死者の大和や全能の女王ほどではないにしろ、私もそこそこ長生きしている」

市民がひとりの街。

「待って」
「どうした」
「変なことを考えついたの。待って、待ってよ。あたしは市長のために街があると思っていた。だけど街の方が先なのよね。なら」

逆の質問をしよう。

「なんのために市長がいるの」

市民が自分しかいない都市。保護して管理する人はいない、信頼して投票する人もいない。

「市長はなんのために街を管理しているのよ。恩恵を受ける市民はいないのよ。赤の他人、あたしみたいなふらっときた知らない人のためなの」
「違う。申し訳ないがあなたたちはおまけだ」
「だったら本命はだれ。だれが大切だから市長をしているの」
「この街だ」

自然に、さりげなく告げる。

「唯一にして絶対の都市、この街そのものだ。うん、考えてみるとさっき私が言ったことは厳密には正しくない。街は街のためあり続ける」
「そして市長は都市のためにここにいる」
「その通り」

イヴ市長は誇らしげで嬉しそうだった。あたしに自慢しているようだった。

――あたしは前にもこんな顔を見たことがある。

「おかしいよ」

そしてあたしは誇る理由が分からなくて、最初の一歩を踏み出すことさえもおぼつかなくて問いを重ねるのよ。

「逆でしょう。人がいてこその街よ。無人なら街ではない。ただの場所を世話するため何十年も生きてるというの。人のいない、評価する人もほめる人もいな空っぽの街でどうして幸せそうなの」
「必要とされているからだ。だれにとって必要でなくても、私はこの街にとって必要とされている。面倒を見る人間を街は欲している。市長が街にいないといけない。

いや、必要としているのは市長ではなく市民なのかもしれない。世話を焼く人間、電気を与え水を与え、雨風から身を守る屋根と夜を防ぐ壁が必要な人間がひとり以上必要なのかもしれない」

かもしれない、じゃない。

「本当のところ、街は私が面倒を見なくてもそれなりになんとかなるんだよ。こんな巨大都市、私が手動で支配できない。機械化と自動化がいきとどいている。私の仕事はない」
「でも市長は辞めないのね」
「当たり前だ。私は市民として街に必要とされている。無限に近い月日も空っぽの仕事も、必要とされている限りは満足して務める」

急に虚しさがこみ上げ押しつぶされた。

市長はあたしには理解できない理由で幸福だ。あたしはどうだろう。 あたしは変人で異端で、その実よくいるただの人だ。いる場所のない、帰るところのないただの人。

「あたしは必要とされたことはない」

あたしは寂しい人間だったのかしら。だれからも必要とされなくて、死んでしまっても悲しまれない子だったのかしら。

家族からはそうかもね。あたしの自業自得。あたしからも捨てたのだから。高校時代の友だちは? 大学の友人は? バイト先の知り合いは? 一条は、大谷は、あたしを必要としているのかしら。

きっとしてくれる。あたしが死んだら白い花を持って、黒い喪服を着てくれるだろう。アヤが像に花を供えるように、あたしに花をささげるだろう。ひょっとしたら泣いてくれるかもしれない。

それなのに。この空虚さはなんだろう。どうしてあたしは泣きたくなるほどの孤独と無力感を覚えているのかしら。

「あたし、行く」

夢遊病患者のように、あたしは歩きだす。

「どこに」
「どこかに。あたしには、まだ自分で分かっていないことがある。思い出しに行くわ。グラディアーナ、あの猫なら知っているかもしれない。だれでもいい、なんででもいい。答えを持っていそうなところへ」
「だれでもいいなら、不確かな猫よりマリア女王へ会うことを勧めるよ」

あたしの気分などものともせず、明朗に言う。

「黄昏の女王、全知にして偉大な魔法使い。なんでも知っている方だ。市長として、私より博識で長寿の女王に会う方がいいと推薦させてもらおう」

ビル風にあおられるようにあたしはさまよう。

さまようという言い方が今のあたしにぴったりだった。あたしはなにも持っていない。自我は頼りなく、記憶は穴だらけで、すがる目的は雲をつかむよう。我ながら笑ってしまいたくなるほど行き詰まりだわ。あたしはこんなにどうしようもない人間だったなんて、交差点に立って空を眺めていた時は知らなかった。いっそずっと知らない方が幸せだったのに。事故にあったまま目覚めずに、なにも知らずにいられればよかったのに。

「……イ」

声がする。だれかの声、だれかを呼んでいる声。

呼んだのはだれ、呼ばれたのはだれ。頭を巡らせる。走りにくそうな黒服で彼女が寄ってくる。

「シットウ」
「やっぱりサイだった!」

嬉しそうにあたしの手を取る。飛び跳ねんばかりだった。

「よかった。神社に戻ったらだれもいなくてすごく心配したのよ。大和もまだ見つからないし、本当に困っちゃって」
「思い出した」
「え?」
「イヴ市長。唯一の市民にしてひとりぼっちの市長。見たことがある、幸せそうな、満足しきったあの顔」
「なんの話、どこで見たの?」
「決まっている、一条だ」

しかも腹立たしい思い出にまで一緒にだ。このっ。

高校3年生の冬だ。1月の冬休み最終日だった。あたしはいっちょ前に受験生らしく家で勉強していた。家庭ではいつもの大騒ぎ ――関心がなかったのでなにが起きたのかは忘れた。家出か自殺未遂だったと思う ――が起きていて、あたしという存在は完全になかったことになっていた。あたしも徹底して無視しきっていたので勉強はとてもはかどった。

午後を回ったとき電話が鳴った。あたしは電話は嫌いだ。あたしではないだれかがなにかの用のために平気であたしの都合を無視する。電話には出たくない。

数コールの後、どうやら家にはあたししかいないことを知った。しぶしぶ出る。あたし宛でない自信があった。まずかかったためしはない。

「高野です」
『サイか』

どうやら例外だった。受話器の向こうは一条だった。覚えている限り一条から電話がきたのは初めてだった。

「どうしたの」
『助けてくれ』

はっきり聞いた。

『僕を助けてくれ』

そして切れた。

相手のいない電話にむなしく呼びかけた後、あたしはしばし立ちつくしていた。ナンバーディスプレイなんて洒落たものは家庭用電話にはついていない。分かっているのは相手と用件だけだ。

いたずらかもしれないとあたしは考えた。得意のおふざけなのかも。でも見過ごすには内容が危機迫っていた。

あたしは古い学級連絡網を探し始めた。今まで一条を含めクラスメイトに電話をしたことがなかったけど、考える限り一番妥当だと判断した。

電話をかけると2コールとしないうちに出た。相手は若い女だった。少なくとも一条の母とするには若すぎる声だった。

「もしもし、あたしは高野サイと申します。一条大介さんのクラスメイトです。大介さんいますか」
『大介さまは昨日からお出かけです』

一条の家庭について少しだけ聞いたことがある。あたしの事情など鼻で笑ってしまうほど複雑な環境だそうだ。大金持ちで因縁が混ざっている。電話の相手はお手伝いさんなのかもと考えた。いてもおかしくない家だそうだ。

「どこに」
『私どもには伝えられておりません。おひとりで出られました』
「だれも知らないの? 一条の家なのに?」
『私どもに大介さまを詮索できません。ご自由にされるように、なにがあっても口をはさまないようにとの一条家の方針です』
「それは自由なんて言わない、見捨ててるって言うんだ!」

思わず ――あたしにしては本当に珍しく大声を上げた。

『ご用件は以上ですか』
「待って、一条は助けてって言ったのよ。どこにいるか知りたいの」

切れた。

仕事に忠実なお手伝いさんを乱暴に罵ってから受話器を乱暴に置く。

もうあたしにできることはない。手がかりがなにもないんだ。諦めて勉強の続きをした方がいいし、当たり前だ。

見捨てられなかった。助けを求めてきたのだ、尋常ではない。なにか困ったことがあって、家には頼れないのかもしれない。あんな冷たい家だ、助けなんて出さないに決まっている。

どうすればいいのだろう。あたしは学校の一条しか知らない。一条は部活も委員会もやっていず、いつもひとりで孤独だった。あたしは一条以外の友だちもいるけど、一条にあたし以外の友だちがいるなんて知らない。

まさか本当にあたししか友だちがいない訳ではないのだろう。単にあたしが知らないだけで、一条は一条なりに自分の友好関係を作っているのだろう。今更ながらにあたしは一条についてよく知らないのが悔しい。あたしの知っている一条とは、クラスで浮いていて、いつも楽譜を眺めていてものの見方が変な高校生だった。そんなこと、他のだれでも分かっているのに。

「そうだ、大谷」

後輩の大谷夏輝が思いついた。大谷はあたしの後輩だけど、生来の人懐こさと陽気さで一条にも話しかけていたしそこまで引いていなかった。友好関係も広いし、あたしの知らない一条について知っているのかもしれない。

すぐに大谷の家へ電話する。

『はい、大谷です』
「もしもし、あたし大谷さんの知り合いの高野といいます。夏輝さんいらっしゃいますか」
『姉さんは高校に行きました。部活の準備で』

忘れていた、山岳部の大谷は機会があるとすぐにどこか行っている。休み明け早々にどこかへ登るつもりだったのだろうか。

礼を言って電話を切る。時計を見るとまだまだ時間はたっぷりあった。カバンをつかむ。定期や財布、生徒手帳を入れっぱなしにしている。

寒い日だった。昼間なのに指先が冷える。いやになるほどの快晴で、まるで早朝のようだった。遠くの山々はこの辺では降らない雪をたっぷりかぶっている。街は静かで電車はがらがらにすいていた。

高校ももぬけのからだった。吹奏楽部の演奏は聞こえるし、校門も開いている。無人のはずはない。それなのに学校の時間は止まっていて、明日になるのをおとなしく待っているようだった。

部活に行って大谷を探すより先に、一条のクラスへ行った。理由は特にない。あえて言えば万が一を期待して、だ。机の中を勝手に見ることへの罪悪感はわかなかった。わくほどものがなかった。日坂高校の習慣として生徒ひとりひとりに鍵付きのロッカーが与えられていて、貴重品はしまっている。

出てきたのは楽譜だった。音楽に疎いあたしには無造作に音符を配置したようにしか見えない五線譜。作曲者はドイツ語表記だったが、あたしでも知っている有名人だった。

「メンデルスゾーン」

真夏の夜の夢、マタイ受難曲ぐらいはあたしでも知っている。なにげなく口にして、一条は室内楽部の交流はあったっけと思い出そうとした。楽譜を見るのは好きだったけど演奏はしなかった。少なくとも学校で見たことがない。理由を聞くと「疲れるから」あたし、からかわれていたのかしらね。

何気なくめくった楽譜の隅に、殴り書きのような単語があった。

単語は4つ。間の2つは知らないけど、初めのF駅は最寄りの大きな駅だ。最後もきっと場所の名前なのだろう、K公園とある。それぞれ右向きの矢印で結ばれていて、K公園が終点だった。丁寧なことに3つ目の単語とK公園の間には「本数が足りない」とある。

「電車で旅行の計画を立てていたのかしら」

ふらりと出発して、体調を崩して動けないのかもしれない。

根拠とするには薄く頼りない、あやふやな理由だった。こんなことでどこにあるかも知らないK公園駅まで行くの? 馬鹿げている。

馬鹿げていたが。

「放っておいていい話じゃない」

今回ばかりは理性をねじ伏せることにした。どうせ帰っても気になって勉強どころじゃない。

F駅まで行って調べる。間の2つも駅名だとわかった。最後のK公園駅だけは見つからなかったけど、3つ目の駅で調べればいいか。のんきに構えていた。

問題は距離だ。県を2つ超え、電車で4時間はかかりそう。あたしが今まで乗ったことがないほどの遠距離だった。他の駅名に聞き覚えがなくても無理はない。普通ならそんなところまで行かない。ATMでお金をおろし、時刻表を買いこんで電車に乗る。車内で時刻表をめくってK公園駅を探した。電車の中は人気がまばらで、暖房があまり効いていずどこか寒々しい。乗っているうちに人は降りていき、最後まで乗っているのはあたしだけになった。

4時間半たちI駅まで着いた。駅員に聞き、K公園駅がないことを知る。

「本物の公園だったのね。ないはずだ。でも最寄りのバス停まで30分乗らないといけないなんてどんな田舎なのよ」

I駅は昔は栄えた地方都市だったそうだ。駅から伸びる道は大きく、両側に店が立ち並んでいた。

今はもう見る影がない。ほとんどの店はシャッターが降り、わずかに開いている文房具店の暗い店内にはおばあさんが番をしていた。

一条はこんなところになにをしにきたのかしら。人がいず、北風がひどく冷たい駅前であたしは立ち尽くす。旅行先に向いていそうには見えないし、用事があるようにも見えない。なにか間違えたのかしら。地名は正しいけど。

バスの時刻表を見る。今日の便は18時で終わっていた。

あたしの常識にはある訳がないことで、どうしていいのか分からず寒空の中動かなかった。

大学生になったあたしだったらタクシーを使っただろう。でも高校生だったころのあたしには思いもつかないことだった。まったく賢いことだ、高校生のあたし。駅前で配っている簡易地図を持ちながら、困ったあたしがどうしたか。

偶然見つけたのだった。生き残りの明かり、まだやっていた自転車屋を。

あきれにあきれる。あたしはその場で5800円を払い自転車を買った。山道用でもない、変速ギアもついていない、前に大きなかごがついているごく普通の自転車を。

「自転車なんて小学生以来だ」

大まかな目的地への目安を測り、あたしはこぎ始めた。

もちろんその時でさえ、自分がおかしな行動をとっている自覚はあった。どう考えてもまっとうではない。まっとうになれない程度にはあたしは一条を心配していたし、どうしたのか気になっていた。ここまできたのだから行けるところまで行こうという開き直る気持ちもあった。

コンクリートで舗装こそされていたものの、田舎都市らしい大きな車道はすぐに細く、曲がりくねった山道になった。傾斜は急で途中途中に休憩をはさまないと進めない。明かりは少なく、星は地元で見るよりもよほど多く、輝いて見えたがあたしがそれどころではなかった。凸凹は激しくパンクにおびえたし、冬だというのに途中でマフラーもコートも脱いで前かごに投げ入れた。

一時間半はこいだ。周りには山しかなく、ぽつぽつ横を通っていた自動車も完全に途絶えたころようやくK公園に着いた。

K公園は山の中にあった。針葉樹の代わりに芝を敷きつめただけのような場所で、遊歩道と入り口すぐに噴水らしき池がある。それだけだった。あまりのもののなさに道を間違えたかと思ったわよ。ちゃんとK公園と書いてある看板があったにもかかわらず。

その時のあたしは疲れ果てていた。のどは乾ききっていて冷たい空気がしきりに往復して痛いし、汗のしずくが目に入った。座りこんで休まなかったのが自分ながら立派だと思う。

黒っぽい階段を登り、山の中腹にして公園を見下せそうなところまで行った。

一条がそこにいた。


この寒いのに制服のみで芝生に寝転がっている。光量が乏しいのにもかかわらず気づけたのは、ブレザーのボタンが外れて、白いシャツも異様なほど白い肌も夜にむき出しだったからだ。大の字に身体を投げ出してあおむけに倒れている。よく晴れた昼間なら日向ぼっこと呼べるけど、今の時間を考えると一番しっくりくる言葉は変死体だ。まったく、なにをしているのだか。

「サイか」

一条は腕を回し、上半身をかすかに起こした。いつもの通りのふてぶてしいほど自信のある態度だった。

「電話」

一言だけしか言えなかったのは、あたしの息が切れていたからだ。1時間半も山道をこいだのよ。探検部でも山岳部でも、運動部でさえないのに。

「学校行って、公園きた」

いったん息継ぎをする。

「なんで、ここにいるの」
「星がきれいだから」

一条は空を見る。まぶしそうに目を細めた。

「ここには夜も、闇も、星も冬もある。申し分のない場所だ」
「どこが申し分のない場所よ」

交通に不便な山の中、寒いしなにもない。家に帰りたくないという理由付きでも長居したくないわよ。

「天体観測のためにこんな遠くへ?」
「そうだ。当り前だろう。夜はもう貴重品だ。手間と時間をかけないと手に入らない」
「夜はどこででも夜よ」

一条の考えにはついていけない。あたしの理解を超えている。いつものことだからと諦める。あたしは見切りをつけかけていた。

「電話」

一条が話を戻した。寒さのせいか咳きこむ。やけに弱々しい咳だった。

「電話でサイはきたのか」
「そうよ」
「ただの一言だけで、ここまで」
「ただの一言じゃなかったからよ」

少なからず腹立たしくなる。自分で言っておいてまるで人ごとのようだった。

「助けてってなに。どう助けてほしかったの」
「あれは嘘だ」

罪悪感も後悔もない顔だった。

「サイを試したんだ。くるのかどうか」

受けいれられない言葉だった。少なくともすぐには。

「ふと思いついた。助けを求めればくるのか。手がかりはない訳ではない。道順を書いた楽譜を学校に置きざりにしていた。熱意さえあれば可能だろう。サイはそこまでするかどうか。期待はしなかった。今まで忘れていた。だがサイはきた」

一条は嬉しそうだった。

「試したの」
「そうだ」
「特に用もなく、くるかどうかを見るためだけに電話した」
「その通り」

目の前が白くなる。怒りで立ちくらんでいるんだ。いつの間にか止めていた呼吸のせいで頭が割れるように痛む。

「どういうこと」
「それはな、サイ」
「どういうこと、どういうこと」

試して、疑って、馬鹿にして。

ふざけないで。

「ふざけないで!」

大声で怒鳴ったつもりだったが、自分でも聞こえないようなかすれた声だった。

「人を試して、呼び出して、こんなところまで」

言葉が詰まるのは感情が膨らみすぎて表に出しきれないからだ。動きにくいのは寒すぎて、手も足も竦んでいるからだ。

踵を返した。一条に背中を向け、転ぶように倒れるように歩く。

「サイ」

一条の呼びかけに耳をふさいで、あたしは走り出す。

「     」

一条は、彼にしては大きな声でなにかを言った。あたしは聞かなかった。無視をした。無視をして逃げ出した。


馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって。

自転車をこぎながらあたしはうなった。下り坂でこがなくても十分な道のりだ。人も車も通らずただ暗い。なにかが飛び出してきたらそのままはねてしまいそうな速度だった。

風は頬を切り裂くほど冷たい。むき出しにしている顔は感覚を失っている。歯を食いしばり、足は信じられないほど回った。

うなり声が聞こえる。凶暴な獣が牙をむき出しにして威嚇してるようだ。あたしの食いしばった歯の間から聞こえてきた。風切音で耳はつんざかんばかりなのにはっきり聞こえた。

目の奥が熱い。目は乾ききって痛い。

「馬鹿にしやがって」

壊れたみたいに同じ言葉を繰り返す。

試された怒りと悔しさ、信じられてなかった落胆、腹の底から湧きあがってくる真っ赤な感情の由来が分からない。

涙は全くわかない。

「馬鹿にしやがって、一条!」

がっ。車並みの速度で自転車前輪が浮き上がった。

明かりがほとんどない山道、速度と急な曲がり角。あたしが気づいた時にはすでに自転車は空中だった。

自転車としてありえない浮遊感は長く続いた。

視界の天地が逆転する。幕が閉じたように暗くなり、けたたましいはずのブレーキ音がなぜか遠い。まるで海に落ちるように、突っこんできた車が迫るかのように現実感が消える。

「……っ」

視界の輪郭がぼんやり形を取り戻す。痛みはなかった。驚きが過ぎて、怒りが強すぎてそこまで感覚がついていかない。

土の匂いがする。からから自転車の車輪が空虚に回る。首だけ動かしてみる。サドルの形がゆがんでいて、前輪から地面に突っこんでいた。

あたし、田圃に突っこんだのか。とっくに稲は刈り取られた、今となっては水も稲穂もないむき出しの地面へ。

こんな時だというのに冷静に判断した。四方から闇色の木々が迫り、空は狭く限られている。

星が見える。

銀河鉄道の夜のような、ビロードにダイヤを播いたような星だった。冷やかに美しく、無言で星々は存在していた。

きれいだった。今頃になってあたしはきれいと感じた。

ようやく痛みが全身にしみてくる。どういううちつけ方をしたのかしら。真夜中知らない場所であたしはあおむけに星を見ていた。

ああ、そうか。とめどめなく湧きあがってくる気持ちをあたしは分かった。

あたしは泣きたかったんだ。大声で泣きわめいて叫び、闇雲に走りたかったんだ。

あたしは一条を友だちだと思っていたのに、一条は思っていなかった。助けを求めてもこないと思われていた。

泣きたい気分だったのに、目はからからに乾いて一滴も落ちなかった。