三つ首白鳥亭

−架空都市−

3.さいはて

岸は奇麗に舗装されていた。上へ昇る階段も目に入る。よかった。指をひっかける隙間のない岸をよじ登る自信はなかった。重くなった身体で階段をゆっくり上る。

最後の一段で足をとめた。

下からは見えなかったけど、岸には巨大な街灯が一本だけ立っていた。

実用品ではない。電灯はないし、大理石からできた姿はずんぐりむっくりで、よくよく見ると街灯というより首をもたげようとしている犬に似ていた。他に立っていないのも考えて、芸術品としてあるのだろう。

呆然とする大きさの足元には植木鉢が置いてあった。丈が低い花々が、狂信的な几帳面さと丁寧さで等間隔に置かれている。数は8つ、造花のような花も鉢も白色だった。

意味の分からなさにあたしは警戒して、正体不明の不安に逃げ出してしまいたくなる。これはなに。

「どなた」

驚いて振り返ると、女の人が不思議そうにあたしを見つめていた。敵意も警戒心もなく、浮かんでいるのは好奇心とかすかな渇望。あたしがここにいるのが不可解でならないようだ。無理もない、あたしだってずぶ濡れの女が出てきたら驚く。

「通りすがりです。お気にせず、海に落ちたんです」

聞かれたことだけ答え、あたしは逃げようとする。みっともない姿で人前にいるのが気恥かしい。

「あの」

奇特にも女性は、あたしをいなかったことにしなかった。

「よかったら、私が住んでいる家がすぐ近くにありますよ」

言葉の隙間にある提案をありがたく受けることにした。

女の家は海がよく見える、こじんまりとした一軒家だった。狭く見えないのは家具がテーブルと一組の椅子、棚しかないからだろう。窓際には花が活けられて、壁には絵がかかっている。掃除は行きとどいて、家庭的で温かな雰囲気だった。

手渡されたタオルで服の水気をとれるだけとり、ついでに髪と顔もふく。服が重くて不快なのは変わりないけどかなりましになった。

「ありがとう」

女は静かに使い終わったタオルを受け取った。背中越しに湯を沸かす、心地よい沸騰音がした。

「あたしは高野サイ。海に落ちた」
「私はアヤ。サイ、さっそくだけど早く帰った方がいいわ。ひとりは危ないわよ。夜がくるわ」

まただ。だれもかもが早く帰れとあたしをせっつく。悪かったわね。

「好きでひとりなんじゃない。危険って分かっていてもどうしようもないのよ」

うんざりがつい口に出た。

「それに帰るところなんてない」

そうなのかしら。

自分に問う。あたしがここで、ひとりほっつき歩いているのはだれかのせいなのだろうか。あたしが原因じゃあないのか。

気づいたらここにいた。でもシットウの待てを無視して歩いたのはあたしだ。今ひとりきりなのはあたしにも理由がある。

帰るところもないのも同じだ。あたしが選んだ。

「サイ?」
「待って」

思考が廻る。今まで忘れていたこと、昨日まで当たり前のように覚えていたことを思い出せ。アヤが困ったように小首を傾げるも、あたしには構う余裕がない。

あたしに帰る家はない。家庭のようにいつでもいていい場所、安心して寝ることができる部屋をあたしは持たない。

もちろん生まれ育った家はある。ありがたいことに父がいて母がいて血のつながった兄弟がいる。飢えることなく育ったし、生活に困ることもなかった。

家があるのに、どうして帰れないのだろう。

ああ、そうだった。思い出した。

あたしの家だったものはごく普通の家庭だ。それこそありきたりすぎて怒りがこみ上げてしまうほど。

父は優しい、本当に優しい人間だった。それこそ断り方を知らなかったのではないかと思うほど。外で作った女を何年も拒まなかった。嫌われたくなくて、全方向に優しかった。

母も優しい人間だった。不安を夫に言うことができなかった。代わりにいつも泣いて、酒を飲んで家具や子に当たった。あたしが10歳を超える頃には、これが当たり前の光景だった。

月日は穏やかに流れ、やがて家族思いのあたしの弟が、破綻した日常を崩した。母を説き父に最終通告を突きつけ、修復に翻弄した。

やがて父が女と手を切り。めでたしめでたしとなったところで彼らは気づいた。もうひとりこの家にいなかったか?

長子がとっくに家を出ていたことを、両親は気づいていなかった。

家庭の修理に全力を費やした弟は、ありがたいことに今回は手を出さなかった。弟は家族思いだったが、あたしは弟の考える家族の一員ではなかった。両親さえそろえば彼の考える家庭となる、中学に入ってから口を聞いた覚えも、顔を直視した覚えもないだれかについてはどうでもよかった。

こうしてあたしは奨学金とアルバイトで食いつなぎ、大学生をやっている。つまらない話だった。

なんてつまらない話。思い出さない方がよかったわ。見捨てて見捨てられた話だなんて。

いいや、あたしはまだ嘘をついている。

家を出た理由はそれだけではない。言い訳だ。

あたしはなじめなかったんだ。肌が合わない、そりが合わない。性格の不一致。口に出してしまうとあまりにも些細なことがらたち。同級生から見てあたしが異端なのと同じように、家でもあたしは変わりものだった。排除されるべき異物。不要な存在。変人は表面を取り繕い受け入れられるよりも排除される道を選んだ。

「お前はおかしい」

あんたの言う通りだ。もう顔も思い出せない、自分と大体同じ容貌の弟。

「どうしていつもいつもまともじゃないんだよ! 化け物!」

ごもっとも。怒鳴られる義理はないけどね。

なんのことはない。帰るべき場所も自分から捨てた。

グラディアーナに言われた時、なんであんなに反応したのかが分かった。帰る場所がないことは悲しいことではないけど、自分の選択だから受け入れるしかないのだけれど、それにしても家があって当然という顔をされるのが気に食わない。世の中排除されざるをえない変人だっている。

「サイ?」

アヤの困惑しきった問いかけに、あたしは我に返った。いけない。人のいるところでぼんやりするだなんて。しかも面白くもない昔話に浸るなんてね。

「いいや、こっちの話。危険だと分かっていてもどうすればいいのか分からない。ここがどういうところかも分からないし、訪ね人のグラディアーナは見つからないし」

期待せずに聞く。

「グラディアーナという人を知らない? 黄色い猫人間で身軽な人」
「いいえ、知らない」

アヤは窓から外を眺めた。海が見える。静かで穏やかな海。岸には紅の彼岸花が群生して、夕闇の中で高い背を少し揺らした。窓辺には白い雛菊が飾られていた。

平和で心安らぐ光景のはずなのに、恐怖を感じた。

「ここは人がこない。大通りからも首都からも離れているし、くる方法も単線の電車だけ。人探しをしているのならここにきたのは間違いよ。海辺に住んでいるのは私ひとり」

大げさな表現だった。なんだかんだいってあたしは歩いてここにきた。陸の孤島であるかのようだけど、たいして離れていないわよ。

「ひとり?」

思わず聞いた。

「いや、それは違うでしょ」

見れば分かる。

出されたティーカップは2つで一組、おそろいのものが食器棚にちらりと見える。テーブルはひとりで使うには広く、そもそも家はひとり暮らしにしては広い。居間に台所、他に閉ざされた扉が2つ、きっと家の規模からして個室だ。アヤの雰囲気にどこかなじまない、ちょっとした家の小物、ハンガーにかかった暗い色の上着はアヤが着るには大きすぎる。

「だれかもうひとりいるのでしょう。今どこかに出かけているだけで」
「私はひとりよ」

静かだった。

「そう」
「でも今だけの話。サイの言ったとおり、本当はもうひとりがここにいて、一緒に暮らしていたわ」

はっとした。持っていたお茶のお茶の表面が不規則なさざ波を立てる。

聞いてはいけないことを聞いてしまった。

「今いないだけ。私は帰りを待っているの」
「あ、なんだ」

拍子抜けした。驚かさないで。

嫌な想像をしたじゃない。ちらりとひらめくだけでも、嫌でたまらない想像を。

「旅行に出ているの?」
「旅行ではないわ」

アヤの視線は動かなかった。あたしを見ていない。

「彼はいってしまった。雲ひとつない、まだ日が昇りきらず空の半分が夜だった時。私は横にいて、邪魔はなにもしなかった」

早朝、朝ぼらけの時間。今のように曇りすぎて暗い、こんな時間よりももっと夜に近かった時間。

「呼吸が静かになって、鼓動が消えていくのを見守っていた」

椅子がひっくり返った。乱暴な音がかすかな反響の後消え、ようやく自分が立ち上がっていたことを気づいた。

「そうしてあの人はいった。空と雲の向こうへ。その日から私は待っている。掃除をして、足音が聞こえやすいように静かに生きて、ずっと待っている」

アヤの家を見る。

きれいに整えられて、ほこりひとつない部屋。一組の食器。ハンガーにかかった上着。

片方のカップはきっと長いこと使われていなかった。ひっくり返されて敷き布に深くめりこんでいる。ハンガーにかかった上着は季節外れの温かいダウンジャケットだ。

違和感。そうだ、この家は止まってる。季節が廻ることを忘れ、柔軟に変動していくことを忘れ、立ち止まって停止している。

あたしは知っている。空間が止まる理由を。

「私は帰りを待っているの」
「アヤ。その人は帰ってこない、永遠に」
「そんなことはない。彼が私を見捨てていってしまうなんて起こるはずはない」
「それだけ、それだけは違うのよ」

恐怖にのどが詰まる。あえぐようにあたしは言葉を重ねる。

「それだけは違う。いきなりなんの前触れもなく奪い去るものなの。人も思い出も過去も、あたし自身さえも」
「サイには分からないだけよ」

紅い彼岸花、白い菊、灰色の海までもが急に足元から飲みこんでいくかのよう。

「私には聞こえる、彼の声が」

声はもう二度と聞こえない。

「もうすぐ帰ってくるの。ほら、口笛が聞こえる。

だから私は待つの」

「アヤはおかしい!」

叫んだ。

「死者をいつまでも待っているなんて、アヤは正気じゃない! どうかしている!」

指を突きつけられてもアヤは変わらなかった。思考する力を根こそぎ奪われたかのように曖昧に笑い、あたしの怒りができないようにたたずむ。

「どうかしている」

腕が力を失って下りる。踵を返し、扉へと手を伸ばした。外は暗く人気はなく、潮の香りがする。遠くに街灯が見えた。白い花を供えられた、ずんぐりとした塔。

そうだったんだ。

あれは街灯ではない。墓だ。あたしは墓参りをしているアヤと会ったんだ。


海沿いを歩いた。

競歩のような速度で、あたしはがむしゃらに歩いた。本来の目的も理由も忘れ、逃げるように歩いた。

舗装された二車線の道路は単線の線路と合流し、同じ方向へと続いている。右手に広がる海は石色の表面をほとんど動かさず、アスファルトのようだった。

「狂っている」

呟いた途端全身の毛が逆立つ。

あたしは逃げている。オウからではない、アヤからだ。あれ以上同席したくなくて、見たくなくてあたしは歩いている。

どうかしている、死んだことを認めずに、帰ってくると信じるなんて。ずっと待っているなんて。

どんなに待っていても帰ってくる訳がない。永遠にそのままなのに。アヤはこれからもずっとあの家にいるのだろうか。街灯に花をそえて家の中を掃除して、時間が止まった部屋から海を眺めるのだろうか。

「ここはおかしな人ばかり!」

いらだって吐きすてた。

ここの人々はみんなおかしい。猫人間に今時着物男の大和。耳をふさいで生きてきたキキに死者を待つアヤ。正気じゃない。

「とんでもないところだ、早く、一刻も早く」

帰りたい。

帰りたい?

あたしは続けられなかった。声が出るのを嫌がる。

あたしは帰りたがっているのだろうか。

もうこの街はいやだ。凶暴な獣はいるし、街に人はいずいつも暗い。歩けど歩けど会う人はたかが外れた人たちばかり。しかもまだ、ここがどこだか理解できない。

それなのに、自分でも意外なほど、あたしは暮らしているアパートや大学を望んでいなかった。物のない六畳間の部屋やバイト先をいくら思い返しても、特になにも思い浮かばない。

「あたしも変人で浮いていたから」

ひとりごちる。

家庭で異端だったように、一般世間からもあたしは排除されていた。どこにいても面白いほどなじめないし、いい思い出も大してない。友人も少なかった。

いいや、それは友だちに悪いか。あたしの変人ぶりを考えるとまだ友人と呼べる人間は多い。みんなまともな人たちだった。あたしと触れ合っても嫌がらずに、時には遠巻きに時には無遠慮に寄ってきた。不思議にも会うために帰ろうとは思えないけど。

「君は変わっている」

幻聴が聞こえた。今ここにあたししかいないのに、やけに生々しく現実味にあふれている声だった。

線路はいつの間にか駅についていた。木造で、長年の潮風で痛めつけられてぼろぼろの、古くて小さい駅。改札口には人がいず、駅員室も無人で切符を入れる小さな箱だけが固定されていた。

周りの景色がゆがむ。重くなった空気の中、今度こそ間違いなしの幻聴を聞いた。蝉の声、夏を加速させやけに気分をあせらせる夏の声。

日差しが強い日だった。影とそうでない場所がくっきり分離し、暑さであたしは朦朧としていた。

確か昼間だった。なんで昼に駅にいたのだっけ。そうだ、一条に呼ばれたからだ。制服姿のあたしを昼間、夏の暑いさなかに呼び出すなんていい度胸をしている。一条は頭は良かったけど常識が欠けていた。

「一条に言われたくない」

あたしの汗は止まらないのに、一条は平然としていた。顔は不健康なほど白く、汗腺がないのではと思うほどけろりとしている。

「変わっている。僕に呼ばれて本当にくるなんて」
「なんの用よ」
「晴れているのに教室にいたくないだろう。海があるというのに」
「一条は学校前の海を見せるために授業中のあたしを呼んだの?」

どう考えても一条の方が変わっている。なにを考えているのよ。

「ここにいるなんて変わっているね」

日差しはかききえ空は雲に覆われる。駅のホームには制服姿のあたしではなく、パジャマの女の子が線路へ両足を投げ出していた。

「ここは無人でなにもないのに。人がいるのは夜だけなのに」
「ここは」

どこ。質問をかろうじて飲みこむ。そんな答えにくい疑問、ご法度だ。

「あなたがいるから、無人じゃないよ」

代わりに当たりさわりのない反論をする。

「少し離れた所には人も住んでいる。ここは無人じゃない」

とはいえ相当郊外の、さみしい地域ではありそうだ。さみしいというのはあくまでも道の広さ、整備の具合から見ただけで、人口密度はこっちの方が高そう。少なくとももう2人目だ。

「私はいいの、私は死んでいるから」

物騒な言葉だった。この街では比喩として聞こえない。

改めて女の子を見る。色は白く、足元は今にも落ちてしまいそうなスリッパだ。小学生後半か中学生。幼くはないけど15歳は超えていない。目の焦点は合っていず、明後日の空を見ている。あたしの頭に警戒心がもたげた。

「ここはさいはて、行き止まりの土地。なんにもない所。あるのは海とお墓、病院に駅、人は夜だけ」
「あなたは病院の入院患者?」

パジャマにスリッパでなんとなく連想する。昼間からこの組み合わせは病人だろう。

「私はコア。あそこにいる」

少女が指をさしたのは駅の上。小高い丘に建つ白い建築物だった。

「出てきていいの」

手に冷や汗をかいてきた。

警告の着信音が鳴る。あたしはここにいてはいけない。今すぐ耳をふさいで、走って逃げないと。理由のない恐れがあたしを覆いつくす。それなのに指一本動かせない。

「私は死んでいるの。死んでいるからいいの」
「生きているじゃない。こうやってあたしと話している」

この子もやっぱりおかしい。一見健康そうだし、ひょっとして精神病の患者なのかしら。

「お姉さんが生きているなんてだれが言ったの? お姉さんが死んでいないなんて、だれも言っていないのに」

頭の中が光であふれ、白一色になる。

「お姉さんも死んでいるんだよ。だからここにいる。さいはての海岸、架空の街本当はない都市、死人の私たち」

最後の夜、あたしはアパートに帰らなかった。記憶は駅で終わっていた。

「お姉さんは生きていないからここにきたの」
「……そうだ」

深夜だった。電車を降りて、まだ人が絶えない駅前だった。

直前まであたしは携帯電話で話をしていた。新しい、目に眩しい黄色の携帯電話。大丈夫だから。じゃあ。簡素な返事で突き放して切る。画面が初期設定の待ち受けに戻るのを見、閉じて顔を上げ、歩こうとした時だ。

「あたし、車にはねられたんだ」

帰宅中、あたしははねられた。顔を上げた瞬間車のライトが視界一杯に広がって、真白の向こうに巨大な鉄の塊が迫った。ブレーキ音、アスファルトとゴムがこすれあう不快な音。

「そうだ、あたしは死んだんだ」

張りつめた気持ちが緩み、後ろへ倒れるようにへたりこむ。いやに平穏とした気持ちになった。ここまでくつろいだのは喫茶店以来だ。もう遠い昔に思える。

通りで記憶があやふやだったり昔のことばかり思い出す訳だ。

一回認めてしまうとほどけるように次々浮かんでくる。ちりひとつない、異常に清潔な、規則正しい機械音だけの病室。菊と香の香りが漂う葬儀にはぼんやりしている人物。

自分が死んだというのに、あたしには驚きも悔しさも悲しみもなかった。むしろあるべき姿、収まる場所に収まったような安心感がある。

ここは死後の街なのだろうか。

振り返る。彼岸花、乾いた風に回る風車。窓際の白い菊、赤い鳥居。夕方、たそがれ、逢う魔時。

そうか。なんで気づかなかったんだろう。

「ここは死んだ人が集まる街だ! だってこんなに、こんなに死の象徴にあふれている」

ぴぴぴ。

黄色い携帯が震える。あたしは凍りつく。

電話は嫌いだ。電話に出てはいけない。

海に落ちたのに、水につかったのに。とっくに壊れているはずなのに。凶暴な生き物のように、携帯電話はあたしに取るようにうなる。

取ってはいけない。電話は嫌なことしか告げない。

電話に出てはいけない。

手を伸ばし、二つ折りの携帯を開く。表示されている番号は見たことがない数字だ。

「だれ」
『違う』

相手は断言する。

聞き覚えのある声だ。甘くどこかからからかわれているような、奥に鉄のような断固としたものを持っている声。

「グラディアーナ!」
『違います、サイ。ここは死の国ではない。あなたも死んでいない』
「嘘だ」

真っ向から反逆する。

「あたしは思い出した。気づいた瞬間目の前に車があって、あたしの意識はぷっつり消えた。病院のベッドも白い壁も、線香の煙にかすむ葬式だって思い出した。あたしはもうこの世にいない」
『ずいぶん都合のいい記憶ですね、矛盾がたくさんですよ』

グラディアーナは電話の向こうでせせら笑う。

『なぜあなたに葬儀や病室の記憶があるのですか。自分の葬儀には出られませんよ。死にかけているのに病室の様子なんて覚えていませんよ』
「それは」

むきになった。グラディアーナの言う通りなのに、なにもかも駄目出しをされた気になる。

『事故についてもそうです。都合のいいところしか分かっていない。直前までかけていた電話相手はだれです。どんな話をしていたのですか。なぜ車をよけなかったのですか』
「なんでグラディアーナはそんなに知っているの」

あたしの心を読んだかのようにすらすらと。

『分かるんですよ』

答えになっていない。

『その手の能力が私には備わっていましてね。この都市を歩けるのも、あなたの心を自分のように話すのもできるのです』
「あたしも同じ都市にいる」
『力がない。そんな魔法のようなことはあなたにはできない。それなのにここにいる。なにかあるのでしょう』
「なにがあるというの。まだ見落としているところがあるというの。グラディアーナはどこまで知っているの」
『さて。あなたが見つけることですよ』

なにを探せというんだ。あたしはもう死んでいるのに、停止して立ち止まって永遠に動かない人間だというのに。なにを求めているの、なにをしてほしいの。

「その場で立ち止まり、ゆっくり夜になるのを待つのも勝手ですけどね。泣いて耳をふさいでうずくまるのも、オウがくるまでゆっくりしているのも結構ですよ」

突き放された。

『先に進む気があるなら急いだ方がいいですよ。もうすぐ夜がきます。電車だってそろそろだ』
「電車?」

いつの間にかコアはいなかった。左手、線路の向こうに緑とクリーム色の電車が、ひどくゆっくり角を曲がってくる。運転手の姿は遠くて見えない。

電車がくる。

とっさに日常のせわしなさがよみがえった。乗り遅れないように。焦る理由は今やないのに改札口へ駆けだす。

電話は切れた。