三つ首白鳥亭

−架空都市−

2.逢魔が時

夢ではない。

グラディアーナは言った。夢でないならなんなのだと、あたしは顔を上げる。

道の両端に表情なく立っているのは、はるかそびえる高層ビル、どれもたった今完成したかのようにきれいだ。窓ガラスは薄暗く沈む街を映して陰鬱に重く、壁面は向かいのビルを合わせ鏡のように描き続ける。歩きやすく整備された歩道は病的なまでに清潔で、髪の毛一本枯葉一枚落ちていない。そもそも木だろうと人だろうと、今生き物はいない。

大都市だというのになにもなかった。無味無臭無意味。街はその場所で生きる人間のためにあるはずなのに、主人公たちがいない。街のための街。

「こんな街が現実にある訳がない」

知りたいなら自分で探しなさい。そんなことも言われたわね。

「探してどうなるものなの?」

本やCDをなくしたのとは違うのよ。欲しいものは理由、ここはどこか、なんという場所か。どうやって探せばいいの。役所か、警察か? あるかどうかも分からない施設に行って、受付に聞けと? 病院送りにされてしまう。

図書館にでも行ってみようか。街の由来や歴史を調べる。それならそれで行けそうだ。図書館があればね。

一番いい方法はグラディアーナに直接問いつめることね。あの言い方からしてグラディアーナは色々知っている。言いくるめられないように、不意を突かれないようにしないと。なんだかあたしを馬鹿にしていた風もあったし、あの男に親切に接する理由はない。容赦はしない。

ビルが途切れて橋に出た。飾り気のない真新しい橋は長い川幅をつないでいる。川岸は完全に舗装されているが、水は澄んでいてたっぷり流れている。あたしは清潔さに気味の悪さを覚えた。まるで人が飲めないくらい塩素漬けにした水道水をそのまま流しているかのよう。砂利は川底におとなしく敷きつめられ、魚の気配はしない。

ビル風とは異なる大気の流れが髪を揺らす。香りが違う、海でも近いのかしら。

風と一緒に古ぼけた紙切れもまた転がって落ちる。目で追う。楽譜だ。たった今印刷されたばかりのようなきれいな楽譜が、2枚3枚と風になって川に落ちそうになる。

「!」

伸ばしたあたしの手をすり抜け、楽譜は水面へとゆっくり舞う。

あたしは座りこんだ。水に浸かって沈む楽譜を見送る。喪失感がわきあがり、あたしから立つ力を奪った。

力を失いながらも疑問に思う。なぜ、あたしはここまでがっかりするの。たかが楽譜が数枚駄目になっただけじゃないの。新しいものだし、印刷しなおせばまた手に入る。どうして落ちこむの。

失ったものは楽譜ではないからだ。あたしは分かった。楽譜よりも大切なものをこぼれ落としたから。

それはなんだろう。大切なもののはずなのに、まるで心当たりはない。忘れたのかしら。

背後からさらに一枚落ちていくのを、ようやくつかんで押さえた。乱暴に握りしめたから楽譜にしわが寄る。どこからきたのかしら。ビルの屋上からか。

探すとすぐに見つかった。橋の反対側、ひっそり隠れるように、柱の陰にだらしなく足を投げ出してだれかが座っている。若い男だった。橋の手すりに乗り、サングラスをかけて楽譜を眺めている。隣に積み上げられた紙の束は重石もなければまとめてもいない。当然風に吹かれてどんどんこぼれ落ちる。

「だれ」

答えない。無視されたのかしら、それとも気づかなかったのかしら。

現代的でしゃれた服装をしている。歩み寄るとすぐに気づいた。イヤホンからここまで聞こえるほどの大音量の音が盛大に漏れていた。

「なにをやっているのよ」

あきれ果てた。かき集めて突きつけ、加えて楽譜を押さえるために黄色い携帯電話を乗せる。今持っている重みのあるものとしたらそれぐらいよ。

「こぼれているじゃない」

まだ反応がない。サングラスの向こうにある目は楽譜ばかりであたしを無視している。肩をつかんだらようやくあたしに気づいた。

「え?」
「自分で押さえて」
「え? なんだ?」

聞こえていないんだ。当たり前か、イヤホン越しでも顔をしかめるほどの大音量だった。よくこんなの聞いていられるわね。難聴になるわよ。イヤホンの片方を手で払いのける。どこかで聞いたことのある洋楽がわめいている。

「自分で押さえて。あたしは重しじゃない」
「携帯電話があるからいいじゃないか」

君が重しになってくれるだろう。

ずうずうしいことを言うな、この男。

「どちらさま」
「あたしは高野サイ。ただの通りすがり。あなたの友達でもなんでもないのよ」
「僕はキキ」

キキはもうあたしを見ていなかった。視線が分らない濃いサングラス越しに楽譜を見る。ろくに聞いていないわね。

「音楽をやっているの?」

どうでもいいことを、つい聞いた。

「もっぱら聞く方だ。僕自身は弾けないし歌えない」
「あたしも実技はさっぱり。歌は中学の授業で終わりだった。今はほとんど聞きさえしない」
「どんな音が好き?」
「さあ」

自分ながらまるで興味のなさそうな返事だった。しょうがない、あたしは芸術系は全般的に苦手だった。細かい違いが分からない。大流行のポップスも世界中で聞かれているクラシックも理解できない。会話の運び方を間違えたかしら。

「中学校の頃流行した曲なら多少は歌えるわ」

苦し紛れに続ける。「学校で習った歌や童謡もね」

童謡。

とおりゃんせ、とおりゃんせ。

ぞっとして思わず後ろを振り返った。ありふれた、だれもが知っている童謡なのに、連想したのはさっきの無限の交差点だ。あの時あたしは大和のいいなり、なにも分からず反応できなかったけど、今から思えば異様な光景だった。

童謡はそもそも残酷な内容が多い。かごめかごめ、ずいずいずっころがし、よくもまあ昔はのんきに歌えたのだと呆れてしまう。

とおりゃんせもそうだ。なんで行きはよくて帰りは怖いのか、あたしの知っている理由は2つだ。ひとつはその神社は城内にあったため警備が厳しく、見つかったら殺されてしまう。特に出る時が危険だった。行きはまだいい、でも脱出するのは怖い。そんな中で人々は参拝した。

もうひとつ、昔は7歳までは氏神様に守られた存在だった。つまり7歳を超えると子供は神様ではなくなる。人間になる。加護は消え、すぐ怪我をして血を流し、あっけなく死んでしまう人間になる。だから怖い。

「もっと僕が面白がることを話してくれ」

キキは楽譜をつかむ。

「でなければ聞きたくない」

いい態度ね。あたしもしどろもどろの下手な持ちかけだったけど、キキの反応はおおよそ最悪だった。

「ああそう。周りに無関心で自分の好きなこと以外はどうでもいいのね。そうやって自分に都合のいいことばかり聞いてなにも見ずなにも聞かないつもりなのね」

うっかり話しかけたあたしが馬鹿だった。通り過ぎればよかったわよ。腹立たしい。

「みんなそうだろう」

キキは呟いた。

「だれもが見たくないものはサングラス越しで、聞きたくないことは大音量でごまかして。目を閉じて耳をふさいで、なかったことにして生きていく。危険だとは分かっている、でも聞きたくない」

音をくれ、吐き気がするほどの大音量を。むせかえってうめくほどの大量の音楽を。

そうでなければ耐えられない。

「サイもそうだ、見ていない。なにかを都合よく忘れて、なかったものとしている。そしていつか忘れたことさえ忘れていくんだ。僕を責められないよ、サイの方がもっと悪い」
「なによ、それ」

あたしは反論した。そんなことはないわよ。

「あたしはなにも忘れていない、逃げていない、目は開いている、耳もふさいでいない、キキとは違う」

なぜあたしはここにいるのだろう。どうしてこの街にいるのだろう。

この街はなに。無限の交差点、口をきく猫人間、影の怪物。

ここは夢の世界? その理由は一見もっともだ。なにがあっても夢だからで片付く。深く考えることも悩むこともない。前提の否定。デウス・エキス・マギナ。アリスのようなお終い。

ここはどこ、どうしてあたしはここにいるの。

答えは。答えは……

橋の上、長く伸びたあたしの影が泣いているように震えた。

あたしの前で影は首を振り、地に手をついて起き上がる。腕だった部分は太く毛むくじゃらになる。人間の顔らしい輪郭は崩れ、獰猛な肉食獣の輪郭に変化する。

恐怖からあとじさった。背中を向けて走れない。向けたとたんに襲われる。影から生まれたオウは容赦のない敵意と殺意をあたしに投げかけてくる。負けるか。背筋を伸ばして睨めかえす。あたしは冷静で沈着なんだ。取り乱したり逃げたりなんてしない。

ひときわ甲高い、悲鳴のような外国語の叫びにあたしは気づいた。

「キキ?」

目の前に危険な、とびきり危険な獣がいるのに気づいていない! 熱心に楽譜を読んでいる。あたしが内省している間にあたしへの興味を、外部への興味を失ったらしい。

あたしが駆け寄って、サングラスを外させイヤホンを奪い、前を見ろと叱る。それより先にオウが飛びかかった。正確で巨大な牙がキキの首筋に食いこむ。血が橋に楽譜に広がり、橋から引きずりおろされた。

血に染まった楽譜が空を舞う。幾重にも何重にも。

即死だ、もう助からない。キキは死んだ。サングラスを外さず、イヤホンと音楽をつかんだまま。

全身の血が抜けたような青白い顔は、うっすら笑っていた。

「あ」

つられて、理解できなくて。

「あは……」

あたしは笑う、笑い声をもらす。

甲高く笑い、狂ったように声を上げ、そして空を仰ぐ。

こんな時、笑いだすなんてどうかしている。どうかしてしまったのだろうか。そうかもしれない。そうかも。

我に返らず、混乱しきった頭のまま一歩下がり、大股で歩き、すぐ走りだした。

あたしは逃げた。血の匂いと人殺しの獣から逃げた。一回足が動いたら、今なにを考えているかとは関係なく、全力で走っていた。自分の生存本能を見直した。脳がろくに動いていないのに行動することはできるのね。

足音はない。でも猫科の生き物がどたどた走ってくるなんて考えてもいない。いつ背後から切り裂かれるか分からない。あたしは震え、恐れ、走った。

広がる血。風にあおられて舞う楽譜。襲撃。暗転。

見たくないものには目を閉じて、聞きたくないことは耳をふさいで。危険なのに危険を見ず、手探りで歩く。

かすむ視界。キキの声が渦を巻く。

あたしはどうなの。オウに殺されたキキのように、あたしも知らないうちになにかをなかったことにしていないだろうか。あたしはキキを馬鹿にしたけど、あたしも置き去りにしていないだろうか。

あたしに死に到る忘れ物はないか。

なにを考えているのあたしは。命がけで逃げている最中なのに。無駄な考えは捨てなさいと命じる声と、今つき止めないと致命になると訴える声が廻る。

いくつもの角を駆けぬけ、あたしに知らない顔を向ける建物を追いこす。曲がり角を大きく左へ行くと、突然視界が開けた。近代的なビルの向こう、完璧に舗装された道の向こうに海が広がっている。灰色の海面は大地のように穏やかで、底になにが潜んでいるか分からない。急な曲がり角にはガードレールのようなものは一切なかった。そしてあたしが立ち止まるのには遅すぎた。

考える間もない。アスファルトの岸を飛びあがるかのように、足が崩れて前かがみに傾く。身体が宙に投げ出される。不自然に長い滞空時間で、あたしは2回舗装された岸に叩きつけられて海に落ちた。

海面に飛びこむ最後見えたものは、曇天でもなお輝く波のきらめきだった。

まるで海に落ちた楽譜みたいだった。


潜る。潜る。

落ちた時巻きこんだ空気は驚くほどの大量の泡となって、あたしの身体を包みこむ。泡の先にある海は暗すぎてなにも見えない。

見えた波角は海底へと落ち、はらりはらり吹雪くように舞い落ちる花弁となり紙切れとなる。

紙切れの向こうには明かり。雲ひとつない空の、でも茜色で一杯の場所。空が晴れているのに明るくないのはもう夕暮れだからだ。そこにいるあたしは机から足を降ろして、傾けていた椅子を戻した。日が落ちかけている教室は暗く、茜色の残骸も急速に消えつつある。

立ち上がる。おしゃれとも機能的ともほど遠い制服は、紺色というより黒に見える。床に散らばった紙をつかんだ。

楽譜だった。あらん限りの楽譜が狭い五線譜にこれでもかと叩きつけられている。音楽の授業で使うものではない。こんな見るからに難しそうなもの、あたしを含む生徒の大半は付いていけないだろう。

吹奏学部のかしら。今でも遠くから練習をしている管楽器の音が聞こえる。でもどこから。

「リスト」

今まで命の気配も感じさせなかった男が、あたしに教えた。

「ハンガリーのピアノ奏者だ。多様な曲を書いた。ハンガリー狂詩曲は聞いたことがあるかい?」

振り返ると男子高校生がいた。驚く前に彼は先に口を開く。

「学校が好きなのか?」
「いいや、別に」

初対面の相手に言うことではなかったかもしれない。でも聞かれたのだし、断言できることだったから。

ふと考えた。夜の教室で電気もつけずに椅子を傾けている自分のこと。恐怖小説の世界だわ。電気をつけなかったのは守衛さんがうるさいからだけなのだけれども。

「君はもったいないことをしている」

男は全く驚きも、気味悪がりもしなかった。いかにも残念そうに、演技がかった動作であたしをたしなめる。

「もっと味わうべきだ。ここには多くのものがある。広い、自分だけの空間。夜に孤独、闇と静寂。無為に過ごすだなんて勿体がない」

なにを言っているのこいつは。率直な感想だった。

男子高校生は一条大介。高校の放課後で初めて出会った変人。にもかかわらず、あたしの友人。

そうだった。あたしは思い出した。

あたしが人の楽譜を拾ったのは、キキのが初めてじゃなかった。


どんなに深く潜っても、最終的に浮力があたしをつかんでくる。明るい方向へ運ばれるのを感じると、あたしはそっちへ両手を伸ばし、足をかいて泳いだ。今更ながらに頭が酸素不足を叫び、重苦しさがずっしりのしかかる。

ようやく顔が水をかきわけ、空気に触れた。立ち泳ぎのようなものをしながら咳きこむ。咳きこみすぎて涙が浮かぶ。努力しないと沈んでしまいそうだ。冷静さをかき集めて、大の字になって浮かぼうとする。

海水がしみる目に、落ちたはずの崖がかすかに見えた。オウの姿はない。諦めたのかしら。喜ばしいことだけど、それより崖の高さを目で測ってぞっとした。目視で3階建てビル以上はある。もし下がテトラポットが敷きつめられていたり浅かったりしたら、そもそも海じゃなかったら死んでいたわ。

いいや。あたしは首を振った。そもそもあんな高い所から落ちて無事だというのがどうかしているわよ。全身が痛いし、打ちつけた左上と左ひざが麻痺をしたように感覚そのものが鈍い。でも生きている。ちゃんと五体満足だ。

やっぱり夢だからかしら。夢だから痛い思いはしても死なないし致命傷にならない。

夢?

夢ではない。

流れるキキの血、濃厚な死の、生命が終わった香り。この街には「死」がある。生命の終着点、だれにも逃れられないもの。

悟った。目をそらしていた嫌な事実から。

夢ではない。ここは夢の国ではなく、あたしはよわっちい生身で、この街はまごうことない危険が闊歩している、とんでもない場所だ。

ならあたしは、なんでここにいるのだろう。

――崖沿いを泳いで行けば海から上がれるだろう。陸地に沿って泳いでいくと、予想通り岩場と、さらに砂浜が見えてきた。

もう少しだ。頭ではそう思うけど、身体にまとわりつく服は重く、もう何年も泳いでいない手足の動きは鈍い。潮の流れは全くと言っていいほどないのになかなか前に進まない。

身体だけを動かせばいいとなると改めて色々なことを思い出す。忘れていたわけじゃないわ。普段から思い出す必要がないから置き去りにしていただけ。

高校一年生の時だった。あたしは家に帰る気がせず、無人の教室でなにもせず、ただいた。

当時も今も、夕方の教室にひとりでなにもしないというのがどれだけおかしな行動なのかは分かっていた。初めての行動ではなかったし、あたしは高校一年生にしてすでに変人と、陰で笑われていた。

噂を気にしなかった。いいや、気にしていられなかったという方か。あたしには他に長時間いられる場所はなかったし、加えてもっと声高らかに指さされている人物がいたから、そこまで噂にはならなかったのよ。

有名な方は一条大介といった。あたしと同学年。男なのに髪が長く、ぎょろりとした目はよく動き、いつでも腹にひとつと言わず百は抱えていそうな笑いを顔に貼りつけていた。

「君は分かっていない」

一条は言ったっけ。

「大手を振って学校にいられる期間は短いのだから。そんな後ろ向きの態度では黄昏時も聞こえない」

思い返したら腹が立ってきたわ、あの男。

一回回想すると堰を切ったように高校時代がよみがえる。あたしが通った日坂高校は山を背に、海を正面にしていた。中学まで人付き合いはさっぱりだったけど、高校にまできたら周りが変人に慣れたせいか多少は話す人もいた。なぜかやたらなついた後輩の女の子もいたわね。

高校時代なんてどうでもいい。問題は今よ、今。

ようやく浜辺にたどりつき、這うように上陸した。オウの姿はない。疲れた。倒れて灰色の空を眺める。あたしは人並みには泳げるけど、洋服のままだったし泳ぐことそのものが疲れる。

動けそうにない。しばらく休憩ね。

ぬれた服は不愉快だし、肌には砂がべっとりついている。曇り空の日差しは弱々しく、何時間じっとしていても自然乾燥しそうにない。

動けなくても頭はあれこれ回転を始める。

ここは夢の国じゃない。それははっきりした。夢なら人は死なないし、水に落ちた感触はまだ全身に残っている。生々しい体験は夢というにはあまりにも現実を突きつけていた。

ここは日本のどこかなの。あたしはここへ、電車なりを使って移動した覚えはない。

昨日のことなら覚えている。朝からバイトに行って、昼から大学に入り深夜まで出てこなかった。ふと見上げた部屋の隅、ハンガーにかけっぱなしの黒いスーツを見て片づけなくてはと思ったわ。そんなどうでもいいことまで覚えているのに、肝心の今日がまるで出てこない。気がついたら無人の交差点に立っていた。おかしいわ、まともなことじゃないわよ。

一時的な記憶障害にでもなったのかしら。いや。この不自然な空白は、訳が分からないこの街と関係しているのかもしれない。あたしがここにいることと記憶の混乱は同時に起こった。

あたし、なにかの犯罪に巻きこまれたのかしら。それで寝ている間にここに運びこまれた。いや、ありえないわね。そう都合よく寝起きのことを忘れるはずはないし、巻きこまれる心当たりだってない。第一、ここがどこかという答えがない。

結局そこに戻ってきてしまった。それくらいこの街は不可解なことが多すぎる。無人のビル群、なめるように清潔で真新しく、生命の気配がない街並み。うごめく猫科の怪物、ずっと響くとおりゃんせの歌。

住民だってまともじゃない。今時の和装男に歩く猫、シットウはまだまっとうだとしても、他の住民でおつりがくる。思わせぶりなグラディアーナに死んでしまったキキ。シットウは今なにをしているのかしら。消えたあたしに腹を立てているのかしらね。

キキを思い出した。

目を閉じると闇の中に血の匂いがよみがえる。寝返りをうった。

きっと、キキは生きていたくなかったんだ。理由のわからないあの行動を、あたしはひとかけらだけ理解した。

キキは自分のやっていることがどれだけ危険なことなのかを分かっていた。目を閉じて耳をふさいで生きるのが、この街では死ぬほど危険だと分かっていた。

分かっていてやった。愛する音楽に没頭して、ひたすら自分にとって良いものしか見ないで。それくらいキキは現実を拒んだ。なにを否定していたのか分からない。それでも彼はイヤホンを外さなかった。

望み通りキキは死んだ。

気分がめいるような結論だわ。非論理的で合理性が全くない。

半身にまんべんなく砂がはりつく。前髪から滴る海水を見ながら、理解できないと目を閉じる。

あたしは。

キキの言葉がよみがえる。あなたも同じ、見たくないんだ。

失礼な。あたしは目を開いて生きているわよ。我ながら沈着冷静、こんな時でも落ち着いて分析している。猫マスターに言われた通り、生きていないようよ。

そうかしら。本当にそうなのかしら。

今あたしがしていることは分析ではない。ただの回想と感想にすぎない。あたしはいまだに記憶に欠如を抱え、自分のいる場所が分かっていない。

冷静だろうが冷静でなかろうが、なにもしていないのだったら2つに違いはない。

もっと冷静にならないと。エイリアンのように、死人のように。怪物のように。

「化け物」

あれが言っていたように。あたしに向き合わず、お互い他人同士のようにいないように立っていながら、はっきり聞こえるように言われたように。

「化け物」

駄目そうだ。あたしはあきらめた。

もう何年も会っていない人たちが出るなんて。高校の友だちや家庭の人々を思い出してばかりなんて。そんなの冷静なんて言えやしないわよ。