ここはどこだろう。
あたしは空を見上げた。灰色の空は分厚く、辺りは夕方のように暗い。
なんであたしはここにいるのだろう。
巨大な交差点の真中にあたしはいる。正方形の島から四方に白黒の横断歩道が延び、高層ビル建ち並ぶ島々へと結びつく。さらに横断歩道が延びる。4、16、64。広がって広がって、まるで蜘蛛の巣のよう。
規則正しく信号がすくっと立ち、まったく同じ間隔で点滅する。色は黄色、注意の象徴。でも車はない。一台も通らない。バイクも人も、動くものはなにひとつ見つけられない。
遠くから歌が聞こえてきた。なじみ深い旋律、習った覚えはないのにいつの間にか知っている詞。
死んだようなアスファルトの一部が、音も前触れもなくうねりあがる。巨体の肉食獣が影だけ現れ、ただ立っているあたしの横を通り、映像のような質量のなさで空気に溶け、無数の黒い蝶となって四散する。あたしが認識するより先に空へ融解し見えなくなる。
なにかが点滅する。信号と同じ速度で、あたしがにぎりしめている携帯電話がなにかしらのデータを受信したと伝える。黄色の目が痛くなるような精密機械に目を向けず、あたしは天を仰いだ。
とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。
悪夢の中、あたしは高層ビルと横断歩道に囲まれ立ちつくしていた。
「なにをしているんですか!」
不意に腕をつかまれ、叫ばれた。
「こんなところでなにをしているんです」「なにって」
小柄な男だった。紺色の着物に草履、大正時代のような服装の男は、身長の割に力が強い。
「じっとしていると危ない、行きましょう」行くって、どこへ。
あたしに口出しを許さず、男は居並ぶ信号を無視して小走りに急ぐ。大通りを横切りビルとビルとの隙間へ入る。狭いはずの建物間は障害物がなにひとつなく、やけに広くて空虚だった。生活感や人間の気配がまるでない。
「どこのだれかは知りませんけど、どうしてあんなことをしていたのです。危険ですよ」「待って、待って」
男は足は速いし力だって強い。このまま黙ってついていけない。あたしは腕を振りきった。
「なんのこと。あなたはだれ、それに」ここはどこ。
そうだ、ここはどこだろう。なんであたしはここにいるのだろう。普通なら疑問に思わない事柄が急に頭に流れこむ。
「あたしは。あたしはそう、高野サイ」自分の名前だけはすぐに出てきた。そう、あたしはサイ。大学生。奨学金とアルバイトでなんとか生計を立てている。
「私は大和です」自己紹介したつもりはなかったが、大和は戸惑いながらも名乗った。
「それでサイ。逃げましょう、ここは危ない」鋭く大和は振り返る。あたしもつられて見上げた。
「きた」そこにあるものがなにか。とっさにあたしには知覚できなかった。
獣だった。姿がぼやけきちんとした輪郭を持っていない四足の肉食獣。豹やピューマを想像させる身のこなしで、牙をのぞかせ身をかがめている。
「もう時間がない。夜がくる」あたしに背を向けたまま、大和は命令する。
「走ってください。全力で逃げて」聞きたいことがあった。たくさんあった。ここはどこ、あたしはこんなところを知らない。なんでここにいるの、夜がくるってなに。時間がたてば夜になるのは当たり前でしょう。
疑問は甘くしびれるような、のしかかる恐怖の前にかすんで消えた。獣は原始的な恐怖と今すぐ逃げ出したくなるような衝撃を突きつける。
「早く」大和の明確な意思に、いともたやすくあたしは屈した。一歩下がり、背を向け、大和を見捨てて振り返ることなく逃げる。
起こることに目を閉じ、自分の保身のためだけに走るあたしの耳にまた歌が聞こえる。
とおりゃんせ、とおりゃんせ。
なんなの。あたしは叫びたくてたまらなかった。
なんなの一体。なにがあったの、どうしてあたしはここにいるの!
息が続かなくなり、走りは歩みへと変わる。後ろを振り返る。思ったよりも短い距離だったが、獣も大和の姿も見えない。
両端にそびえたつビルは皆首が痛くなるほど高く巨大なのに、よろめいているあたし以外の生きものはいない。動くものさえない。風にそよぐ街路樹なんてものはなく、なにもかも人工的な都市だった。
混乱する頭を押さえ、あたしは思い返そうとした。どうして自分はここにいるのだろう。
こんなところ、心当たりはない。今まで見たことも聞いたこともない。もちろん訪れた覚えもない。
それなのにいる。気付けばここにいた。
思い出せ、あたしは昨日なにをした? 大学に行った。一昨日は? アルバイトをして大学へ寄った。朝起きてバイト先の会社に行って、4時までずっとデータ整理と資料まとめをした。大学の研究室に行って、学生室で夕食を食べてから研究室にこもりきりだった。変化の起こらない生活を崩した覚えはないわ。
でもあたしはここにいる。
思考は早くも行きづまり、発想の転換となるようなきっかけもない。煮つまったあたしはふと歩調を崩した。
ひどく暗い都市の片隅に、冷やかな光が大きな窓からもれていた。ビルの一階に喫茶店らしきの店舗が入っていて、ステンレス製の大きなテーブルがいくつも並び、カウンターには店員がひとり、客もひとり。カウンターにはコーヒーサイフォンが立ち並び、見えないほどの弱い火にかけられたやかんから湯気が昇っている。白いコーヒーカップが並んでいた。
生きている人間がほかにもいる。それはとてもいいことだし安心した。問題がひとつ。客はれっきとした人間だが、店員は違った。人間並みの大きさの、直立歩行する猫。そうとしか言いようのない外見をしていた。
隙なく白いシャツに黒いベストを着ていて、当たり前のようにコーヒーサイフォンを洗っている。客も平然としていた。
夢なのかもしれない。
ようやくあたしは思い当たった。夢ならいきなり変な所にいようが猫が喫茶店のマスターをしようがなにもおかしなことはない。説明がつく。
説明がつけば解決という訳ではない。説明はつくけど、つくけどだからと言って即夢から覚める訳でもないのよ。夢から覚めたいと思ってもなかなか起きられないし、迫りくる夢の中の現実や不愉快さがなくなることもない。
どうしようもなさに嫌気がさし、あたしは惰性で扉を開けた。現実だろうと夢だろうと、安全で休憩できるところで座りたい。
「いらっしゃいませ」ガラス窓からあたしの姿は見えていたはずなのに、今気づいたかのように主はそっけなくあたしを迎える。コーヒーの香りが心地よい。
「コーヒーひとつ。ホットで」カウンターに浅く腰かけ用件のみを告げる。危険さはたいして変わっていないはずなのに、急に気が抜けてきた。疲れが背中に重く積もる。
差し出されたコーヒーカップは真っ白だった。ミルクを適当に注ぎ、黒と白が交わるのをスプーンも使わずに眺める。夢の世界でもやることは変わらない。
「あなた、なんだかここになじめないって顔しているわね」控え目に、だけど明るく声をかけられた。振り返ると唯一の客があたしを見つめている。
あたしと同年代の女だった。黒いワンピースを着て、手にしている紅茶カップと一緒にあたしの横へと移る。あたしは反射的に警戒した。
「私はシットウ。見慣れない人ね。どこかからきたの?」そんなことあたしにだって答えられない。無視しようとしたけど、しぶしぶ思い口を開いた。
「気づいたらいた。あたしがどこからきたのかは自分でも分からない。あたしが一番知りたいわよ」「ひとりで?」
「ひとり。大和には会ったけど、襲われてすぐはぐれた」
しゃべっているうちに事態の深刻さが身にしみてくる。怪物に殺されそうな目にあうなんて、夢の中とはいえあんまりだ。
「大和に?」女は襲われたことより背の低い男の名に反応した。
「知っているの」「もちろん。大和は有名よ。襲われたなんて危ないところだったのね」
「シットウ、教えて。警察は」
どこにあるのと言いかけて、シットウのきょとんとした顔を直視してしまった。こんな間の抜けた顔をされるなんて、ひょっとして警察は夢の世界にはないのかしら。それもそうか。混沌とした無意識の世界に、治安維持だの法律だのがある訳がない。
「大和が心配ね」シットウは途切れたあたしを気にせずにつぶやいた。
「無事なのかしら。探さないと」「大和って何者なの」
黙っていても答えてくれそうにないわね。
「初対面のあたしを連れて逃げたり、化け物へ立ち向かったりとやけに勇ましかったわ」「大和は不死者よ」
聞きなれない言葉をさらりと言われた。
「不死?」「そう。不老不死。年を取らない、老いない人。ずっとあの姿のまま生きているわ。なんでも知っている知恵者よ」
シットウは頭がおかしいのかもしれない。不死なんて真顔で言えるなんて。それともおかしいのはあたしの方か。夢を見ているのはあたしなんだから。
「そう。それはすごいね」とりあえず当たりさわりのないことを言っておこう。どう反応すればいいかなんてわからない。
「うらやましいわね。ずっと年を取らないで若いままだなんて」「私なら絶対にいやよ」
思わず顔を上げた。
「大和はかわいそうだわ。私なら耐えられない、そんな絶望的なこと」あたしも別にうらやましくはない。現実にそんなことがないのだから、うらやましいだなんて思う訳がない。あくまでも一般論として言っただけだ。それなのに、なんだろうこの断固とした反応は。よほどまずいことを言ってしまったみたいだけど、なにがまずかったのか理解ができない。
シットウは立ち上がった。
「大和を探すわ」「どこに行くの」
あたしが大和と別れたところかしら。襲われるのが怖くないの。
「大和に会いたい時、いつも朱鷺神社に行くわ。大和の家じゃないけど、逃げた大和がいるならそこよ」いなかったらどうするの。口には出さなかった。意味がある疑問ではない。
「サイもくる」「あたし」
聞かれるなんて思わなかった。
あたしはそんなことをしている場合じゃない。早く悪夢から目覚めないと。猫がコーヒーを出して着物男が不老不死。全く夢らしい、滑稽そのものよ。夢と現実の区別がつかなくなりそう。
でも、どうやって? 頑張ってできるものじゃない。なにかきっかけが、刺激がないと。
だったら喫茶店の隅でずっと座っているよりも、外に出た方がまだいい。
「行く」消極的な理由から携帯電話をつかみ立ち上がった。獣が気になるけどいいか。夢の中なら死なない。
「冷静ですね」今まで空気のように自分を主張しなかった猫店長があたしをじっと見すえている。
ああ、そうだ。コーヒー代どうしよう。今のあたしは財布を持っていない。小銭をポケットに入れる習慣もない。請求されたらなんて言おう。
「気がついたらいて、逃げてきたというというのに冷静ですね」「あ、そうね」
シットウが今更のように相槌を打つ。マスターはコーヒー代については言わなかった。
「なんだか生きていないようだ」「マスターのことについては気にしなくていいわよ」
シットウが腕を組みながら怒っている。怒りながらものんびり歩いていた。
「普段から無口でよくわからない人だけど、初対面の人に失礼ね」「エイリアン」
「え、なに?」
「エイリアンって、呼ばれたことあった。小学生の時」
小学生の時、あたしはずっといじめられっ子だった。席は避けられて歩けば陰で笑われた。机を荒らされて教科書をばらまかれたし悪口陰口は当たり前だ。中学に進学した時は笑われる代わりに無視された。あたしはクラスメイトにとっていない人だった。友好的な態度をとる人間が近くにいたのはようやく高校の時だった。
無理もない。あたしは避けられて忌まれる人格だったから。
「小学生の時のあだ名。見事なまでに定着していたわよ。あたしさえこっちが本名なんじゃないかと思うくらい。呼んでいた人たちは深く考えていなかったけど、よく考えればうまかったわ。理解できないくらい変な子だったもの。今も」あたしは変人だった。どんなに普通にしようとしても、言葉も態度も異常なものしか出なかったらしい。
冷静だ、落ち着いているとよく言われる。大抵はかろうじて出たほめ言葉として。ここまで決定的に言われたことはないけどね。
「腹は立たない。今更怒りはしない。正しいことなのだもの」死にかけたのにわめかず泣かず、落ち着いてコーヒーを飲む。どう考えても異常だ。
うん。確かにあたしは生きていないみたい。
気がめいってきた。あたしは暗い人間のようだ。陽気でよく笑う人間でありたいとまではいかないけど、自分を分析してうんざりするような性格だなんて。
息がつまりそうな、空が狭い都市を歩きながらあたしは受け入れた。どの道どうでもいいことだ。今生存している以上、生気あふれていようが死んでいるように見えようが問題ではない。
「シットウ、ここはなんていうところなの?」「なんていう?」
白痴にも見える空虚な表情を見せつけられ、あたしは心の手帳に書きこんだ。名前はない。
「あたしが襲われたのは豹や虎みたいな、でもホログラフみたいなものだったわ。知っている?」「たぶんオウね」
今度は反応があった。
「何物かは分からないけど、凶悪な猛獣よ。影から現れて、霧散して消える。詳しくは知らないけど絶対に近寄ってはいけないわ」そこまで危険な生き物だったのね。
「でも大和ならきっと大丈夫。うまく逃げられるはずよ。大和と会ってよかったね。ひとりじゃとても危なかったわ」「なんであたしの前に出てきたのかしら」
「分からない。なにがあってもおかしくないわ。ここはそういうところなのだもの」
「そうね」
夢なのだもの。もっとも夢の住人に言われるのは不思議な感じがするけど。
「ねえ、サイ。その携帯」今度はシットウの番だった。
「携帯?」「うん。きれいね、新しくてぴかぴか」
確かに新しい。つい先日購入したばかり、まだろくに使っていない新品同然の携帯電話だ。ストラップの類はなにも付いていないし、目にまぶしい黄色い機体は指紋もろくにない。
「携帯は嫌いだ」自分でも思ってみなかったほど強い口調だった。
「持っていてもいいことはない。あたしじゃない人に利益があるだけ。ささやかでどうでもいいことで呼び出される、あたしがなにしているのかなんてお構いなしに。その時あたしは食事中かもしれない、アルバイトで手が離せないのかもしれない。それなのに電話は、今の用事をみんな押しのけて自分を最優先にしろってうるさく鳴くのよ。こんな不便で嫌な機械、よくみんな嬉々として持っているわね」携帯電話は嫌いだ。黄色の機体を見るだけでいつ鳴り出すのかと不安になる。携帯電話は夢だろうとなんだろうとお構いなしにあたしを呼ぶのだろう。うんざりよ。
「そんなに嫌なら持たなければいいのに」「あたしだって持ちたくない」
周りの人から暗に、あるいははっきり命じられてそれらしいものを持っているだけだ。
「だったらなんで、大切そうに持っているの?」「え?」
あたしは顔を上げた。シットウは単純に不思議でたまらないといった風にあたしを見ている。
「サイがこの街に持ちこんだ、唯一のものでしょう。どうしてそれが嫌いな携帯なの?」「……分からない」
いっそ今ここで捨ててしまおうかしら。嫌いだっていうことを証明するために。
考えるだけで止めておく。芝居がかった大袈裟なことは自分を馬鹿に見せるだけだ。あたしは馬鹿じゃない。それに捨ててもきっと携帯は鳴る。あたし以外の人間が、あたしを呼びつけたいと思った時に鳴る。
そうしてあたしは出てはいけない電話を取るんだ。
……はて、あたしはどうしてここまで携帯が嫌いなんだろう。
ただの機械じゃない。それなのに今の考えは常軌を脱していなかった? ここまで毛嫌いするなんておかしいわよ。
「ここよ」シットウに言われてようやく顔を上げた。
永遠に続きそうな紅の鳥居。森のような敷地。木々の幹は太く葉は暗い深緑色で、下に立つと空も先行きもなにも見えなくなりそう。鳥居の下に伸びる一本道は、中央以外は苔で埋めつくされかけていて、まるでけもの道だった。水と、水をたっぷり吸った土の匂いがする。
左右の空を覆っているビルとは明らかに一線を引いて、孤高を保っている。紛れもなく神のおわす場所だった。
「なるほど」ここなら和装男の大和がいそうだ。むしろここにしかいないだろう。ビルの一室でアパートに住んでいるよりはよほどそれらしい。
「古い神社なのね」一歩進んで鳥居をくぐり、もう一歩前に出て鳥居をくぐる。現世からはがれる気がした。
「私、ここにはよくくるの。ここが好きなのよ」「分かるわ」
山道のようだと思っていたけど道は平らだった。外から見た限りではそんなに広い場所ではないのに、迷って道をはずれたらもう帰れそうにない。
いつの間にか呼吸が浅くなっていた。鼓動が速くなる。どこかが苦しい。暑くはないのに額に汗が浮いていた。
あたしは緊張しているんだ。理解した。
もう何十本目、何百本目だろう。鳥居をくぐりながら考える。気を張り、この先にあるものに身構える理由はない。むしろくつろぐのが筋じゃないの。緑があって大和もいるかもしれないんだ。言い聞かせてみるけど心臓は警告を叫ぶだけで言うことをきかない。
「大和ー いるの?」のん気に、口元に手を当てて呼びかけるシットウの背中に、黙ってついていく。
「大和ー?」鳥居が終わった。木々がかすかに隙間を作り、神聖なる社のために肩を寄せる。
まごうことなき神社だった。もとは鮮やかな、鳥居と同じ紅色だったであろう社は長い年月ではげて色あせ、それでも建った時の美しさを失っていない。大切に守られ、よく手入れをしているのだろう。雑草はなく、周りははき清められている。
そして無数の風車が社の周囲にささっていた。赤、青、黄色、桃色、紫。色鮮やかな無数の玩具はだれかの手によって地面につきささっている。神社は森に守られていて無風だ。全く動かない風車にあたしは立ちすくんだ。なによこれ。気持ちが悪い。
「大和」人がいた。大和ではない。
黄色い毛並みの猫人間だった。人間ほど大きく、ちゃんと服を着ている。瞳はきらめく金色で、興味深そうにあたしたちを見つめている。
「ここにいたのですね」若い声だった。外見からでは年齢はさっぱり分からない ――そもそも人間の年齢を当てはめていいのか ――が、あたしと同年代なんだろう。
「だれ」シットウが静かに問う。「あなたはだれなの。ここにいつもいるのは大和なのに。大和はどこなの」
「グラディアーナ」猫人間は答えなかった。言葉だけを抜き取れば返事をしたのだろう。でも奇妙な響きの名乗りは、あたしを見て放たれた。この男はシットウではなくあたしに向かって名乗った。
「私はグラディアーナ、猫人。踊り子であり旅人であり戦士。高野サイ、あなたに用がある」「あたしに?」
警戒する。あたしの方から猫人間に対する用件はない。
「なぜあなたはここにいるのです。どうしてここにいるのです。私はあなたを連れ戻しにきました。早く帰りなさい」連れ戻しにきた?
「どこに。どこに連れていくつもり」「帰るべき場所へ」
なぜかその一言に、あたしの神経は逆なでされた。
「あたしに帰る場所はない」あたしに家はない。あたしの部屋はない。あたしの、あたしだけの場所はない。あるのは借り物の部屋、数年後には消えている机、目を離した途端もうおしまいの場所。
「あたしの居所はない、場所はない、組織はない。なにが言いたいの、どこに連れていく気なの」猫人は肩をすくめ、いかにも軽蔑したように笑う。「大した自信ですね、なにも分かっていないというのに」
逃げなくては。赤信号が頭の中で目がくらむほど輝く。危険だ。ここから離れて、後ろを向いて、一刻一秒とも速く走らないと。この男は危険だ。逃げよう。男からも、無限の鳥居からも、色とりどりの風車からも。
分かっているけど動けない。男から目を離せない。まるで携帯電話を前にしたように。着信音が鳴り、出たくないのに出ないといけないように。出てはいけないのを知っているのに。
「きなさい」からから、からから。無風の風車が音をたてる。回っているわけがない、ここに乱暴なビル風は届かない。不安のあまり聞いているあたしの幻聴よ。不愉快な冷たい汗が視界を曇らせる。その先でグラディアーナは手を伸ばす。
「教えてさし上げましょう」挑発的な言い方が癇に障るわ。「サイ」シットウが止めるようにあたしのそでをつかむ。あたしはあえて前に出た。怖がっていないし恐れてもいない、なるべくそう見えるように胸を張ってにらみつける。
そうだ、あたしは冷静だ。なにがあっても客観的に行動する。惑わされない。
死者のようにふるまえ。
グラディアーナの手をつかむ。引っ張られた。細い外見の割に腕力は強い。転びそうになった。
「夢ではありません」あたしの耳元で、聞こえるか聞こえないかの低音でささやく。
「あなたが慣れ親しんでいる世界でもありません。危険で落とし穴だらけの、油断したら殺される街です。早く帰るのですね。さもないと夜がきますよ」夜。また夜の話。
「外にはオウがいます。影の猛獣、見えては消えて、いなくなっては現れる。運が悪ければ殺されるでしょうね。でもそれでさえ、夜の恐怖にはかすみます」あたしは手を振り払った。ついでに突き飛ばそうとしたけどかわされる。身が軽い。踊るように飛びはねて鳥居に寄りかかる。
「グラディアーナは」言葉が出ない。言いたいこと、聞きたいことがありすぎてのどにつかえる。わめきたいような、やけっぱちの気分になる。
「知りたいなら自分で探しなさい」まただ、また挑発された。あたしにたたきつけてグラディアーナは逃げる。逃げるなんて言い方はふさわしくない、身軽で自由な走りだった。あたしたちがきた道を逆へ行ってしまう。
木々の葉がこすれて揺れた。静寂が、神聖な場所にふさわしい静けさが戻る。気がつけば風車は動かないし、今まであたしとシットウ以外の人物がここにいただなんて信じられなくなる。
「なんなの、あの人」シットウが穏やかさを崩さず、笑みの代わりにあっけにとられた表情を浮かべる。
「見たこともない人よ。それにサイへの態度ときたら。あの人と知り合いなの?」「いいや」小さくかすれた声だったが、とりあえず返事はできた。「赤の他人」
猫人間の知り合いはいない。だけどグラディアーナはあたしを知っていなかったか?
「悪い人かもしれないわ。大変よ。サイ、ここで待っていて。人を呼んでくる。マスターを連れてくるわ」「マスター? ああ、喫茶店の」
「男手が必要よ。すぐ戻るわ」
黒いワンピースを翻し、シットウはあわてて行ってしまう。
ひとりになった途端に大きく息を吐く。3分は止めていたかのように呼吸があわただしい。心臓が高らかに鼓動を打ち、額に汗の粒が吹きだす。いつの間にか緊張しきっていたみたいだ。
グラディアーナ、猫人間。
まるっきり異形の姿形だった。身軽で謎めいた自称踊り子。あの男はあたしの名前を呼んで、ここが夢の世界でないことを告げた。
そうだ。あの男は大和やシットウとは違う。あたしを知っていたし、考え方もあたしに近い気がした。この悪夢について知っているのかもしれない。
探して聞けば、もっと分かる。
待ってといわれた。シットウに人を呼ぶからと置き去りにされた。そんな中で歩くのはシットウに対する裏切りになるのかもしれない。
でもいいか。あたしの返事を聞かずにシットウは行ったのだから。無理に理由を与える。
あたしは首を振った。ここは夢だ。夢ならいつか覚める。積極的に夢で解決のため積極的に動くなんて変よ。その一方夢だからこそ危険を恐れることがなく行動できる。普段なら決してしないこともできる。
神社の境内を出て、いい加減な見当をつけて歩きはじめる。方向は今きた市街地とは逆。グラディアーナが走り去った方向へ。